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刻印の継承者 その8  作者: 神野 碧
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封印帝国

背中を伝う生温かい感触に、少年は身を強張らせる。骸となった母親の体重が少年にのしかかる。鈍く光る甲冑を纏った男が、それを引き剥がすようにして脇に放り、少年に刃を向けていた。男が繰り出した刃を本能的にかわして、少年は地面を転がる。視界の端が、数舜前まで彼を庇護していた母親の姿を捉える。その変わり果てた姿に、這いつくばって縋ろうとした鼻先を刃が掠める。刃は骸と化した母親の胸に突き刺さり、どろりとした血流に染まっていた。

「あっ、あっ、くっ、あううっ」

 目の前の惨劇に感情が麻痺し、喉をひくつかせることしかできない少年を嘲笑うように見下ろして、甲冑の兵は骸から剣を引き抜き、さらなる蹂躙を加えるように躯を抉り、切り刻んでいた。

「母親を守れなかったてめえの弱さをせいぜい呪うんだな。甘ちゃんの坊主」

「う、ううう、ぐがぁぁぁぁぁぁ」

 激情を宿した瞳が、ぴたりと兵に向けられる。

「何だぁ、そのツラは。下賤のザグレス人の分際で逆らおうって―」

 兵の言葉がふつりと途切れると、表情が苦悶に歪む。

 胸をかきむしり、大きく目を見開いた後、兵は、断末魔の声を上げるいとまもなく破裂し、肉塊と内臓を四散させていた。大量の返り血が降り注ぎ、少年の頬を伝う。血の滴を滴らせた瞳はさらなる赤に染まり、ぎょろりと動く。

 異変に気付いた周囲の兵たちが駆け寄って来る。おぞましい姿の少年と変わり果てた仲間のありように、駆け寄った兵たちは身を竦ませ、本能的な恐怖から、その場から逃れようと背を向けて、一目散に走り出す。

 逃走する彼らの後ろ姿を、剣の一振りの如く少年の瞳が追いかけて捉える。

 兵たちの頭部は一瞬にして捩れ、胴体から分離して中空高く跳ね上がっていた。残った胴体は跡形もない程に砕け散り、大気をも深紅に染めていた。

「がぁああああああああああ」

 少年がさらなる雄叫びをあげると、そこかしこに真紅の霧が舞い、キルギア兵の屍を積み上げていた。

 その日、数万ともいわれた大部隊を擁し、電撃的にザグレス王都を攻略すべく行軍していたキルギアの精鋭部隊は、行軍途中の小さな村で、たった一人の少年の《見えざる力》によって全滅した。それは、キルギア王国にとっての、さらなる恐怖の序章に過ぎなかった。

 目覚めた時、少年は一人ぼっちだった。冷たい雨が降り注ぎ、少年の体を赤い滴が伝う。鉛色の視界の片隅が捉えたのは、剣が深々と突き刺さった遺骸だった。かろうじて原形をとどめているその遺骸は、少年の母親のものだ。這いつくばって遺骸に近づき、その手を握り締める。こんな時、当然に抱くべく感情があったような気がする。それがどんな感情だったのか思い出せず、一人静かに、少年は冷たい雨に打たれていた。

 それから、少年はずっと一人だった。行き交う村人たちは、少年の姿を見ると眼を逸らし、そそくさと避けるように遠ざかり、誰も手を差し伸べようとしなかった。

―いくら村を救ったからって、ありゃあ悪魔の所業だ―

―あんな力、あたしたちに向けられたらどうするのさ―

 行き交う村人たちが囁き合うそんな言葉の意味も、少年にはどうでもよかった。

 略奪の痕跡が生々しく残る生家の片隅で膝を抱えながら、少年は寒さに震え、飢えに耐えていた。

 遠ざかる意識の中で、気配を感じる。大人たちが周囲を取り囲み、なにやら会話を交わしている。国王、王宮、力の解放。そんな言葉が断片的に耳に届く。大人たちの厳かな会話が終わると、温かな感触が少年の体を包む。毛布にくるまれて馬車に乗せられ、自身の意思とは無関係な大人たちの意思によって、少年は、生まれ故郷の村を離れていた。

 馬車の心地よい揺れと、毛布の温かな感触に安堵し、少年は穏やかな眠りに落ちていた。それは、少年が、本来の人間としての生涯で最後に感じた穏やかな感覚だった。

 深い眠りから目覚めると、自分がいるのが見知らぬ場所であることを認識するのに数拍の時間がかかっていた。

―ココハ、ドコ?―

 思考はぼやけ、状況が理解できない。

―ナニガ、オコッタノ?―

 ふいに甦る記憶。

―ア、アアアアアアアアアアァ!―

 蘇った凄惨な記憶に、床に這いつくばってのたうちながら、少年は言葉にならない叫びを上げていた。叫んで、叫んで、叫び続けていくうち、たどり着いた感情は激しい憎悪だった。

「気がすんだか、小僧」

「誰―?」

 ふいにかけられた声が、歪んだ少年の意識を少しだけ引き戻す。

 声の主は官吏然りとした長衣を纏い、無表情で少年を見下ろしていた。

「誰だよ、あんた」

 見下ろしている官吏然りとした人物に無意識の怒りを覚えて、少年は押し殺した声で問うていた。

「ここは王宮の中だ、言葉を慎め、小僧」

「王……宮?」

「国王陛下がお待ちだ、無礼のないよう、身を整えろ」

 無造作に投げ出されたのは、上品に仕立て上げられた長衣だった。

 状況が理解できず混乱した様子の少年を強引に引き立てて着替えさせると、官吏は少年の腕を掴み、小部屋から連れ出していた。

 狭い回廊を抜けて大理石が敷き詰められた広間に出ると、武具を携えた衛兵が両脇に加わる。ものものしい雰囲気を醸し出して広間の中央を横切ると、一行は国王の鎮座する玉座の間に続く扉をくぐっていた。

 玉座の高みからの鋭い目線を感じて、少年は目を伏せる。ゆるりとした動作で立ち上がり、王は玉座を降りて少年の前で動きを止める。

「面を上げよ、少年」

 感情のこもらぬ声だった。

少年は恐る恐る面を上げる。視界に映った王の表情からは何の感情も読み取れない。

王は無言で、側方の通路を指し示す。短い通路の先には、下方へと続く石段が闇の空間へと伸びていた。一行は恭しく王に敬礼し、衛兵に先導されて闇の空間を下りていた。少しの間を置いて国王が続く。

石段を下り切り、重厚な鉄の扉をくぐった先は、獣じみた臭気の漂う地下牢だった。

通常の地下牢よりも天井が高く、奥行きも広い。格子の中を囲む壁のそれぞれには扉が設けられている、その様は、地下牢というよりも、闘技場のようだ。

 官吏が格子の扉を開けると、衛兵が両脇から少年を抱えて、少年を牢の中に押し込んでいた。金属音と共に格子の扉が閉ざされる。その音に、少年はぎくりとして格子の外を見やる。

「貴様の力、我に示せ」

 格子の外で、王の声が冷たく響く。声と同時に、奥に設けられた扉が軋んだ音とともに開いていた。

 扉から現れたのは、三人の屈強な《キルギア人》だった。見張り役のザグレス兵が

彼らの足枷を外す。

 格子を両手で掴み、怯えたように縮こまっている少年に目を留めたキルギア人たちは、

《おいおい、話がうますぎねえか、あんなガキを殺したら自由になれるなんてよ》

《暇つぶしの余興なんだろうさ。さっさと方付けちまおうぜ》

《どのみち、俺たちゃここにいたっていつかは殺される身の上だからな。だったら、ちょいと楽しませてもらおうか》

 舌なめずりをし、毒のこもった言葉を吐くと、歪んだ笑みを見せて少年との距離を縮めていた。

「こいつらは捕虜のキルギア兵だ。遠慮することはないぞ、少年」

 さらなる王の声が少年の胃の腑に突き刺さる。と同時に、キルギア兵の腕が伸び、少年の頸をがしりと掴んで締め上げていた。

《けっ、簡単にゃやられねえぜ》

―キルギア……人、キル……ギ……ア……人……キル……ギ……―

 闇に落ちてゆく意識の中で甦る記憶。

「ぐっ、ぐがが、がっ」

 少年の両眼がかっと見開く。

「がぁぁぁぁぁぁぁ!」

 全ては一瞬だった。血潮に染まり、肉片に埋まった牢の中で少年は喘いでいた。がくりと膝をつくと、生温かく、ぬるりとした感触が膝から伝わる。

「あ、ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ―」

 感情の箍が外れたように叫ぶ少年の両脇を、見張りのザグレス兵が抱える。そのまま兵に引きずられて、少年の姿は奥の扉の中に消えていた。

 牢の中の惨劇を見届けた王は、ひとり満足げな笑みを浮かべ、背後で蒼ざめている側近の兵の一人に向かい、

「彼の力を制御して実戦で使うには、どのくらいの時間が必要だ」

王が問いかけたのは、魔導士隊を統括する兵長だ。

数拍の間の後、兵長ははっと我に返ったように目を見開き、深く息を吸い込むと、

「信じ……られぬ。あんな能力が……あれは……一体……」

「我が問いに答えよ、兵長!」

 一喝する王に、兵長は我に返って居ずまいを正し、

「あのように強力な術を制するのであれば、術の本質を理解せねばなりません。それだけでも半年以上は―」

「10日以内だ」

「は……」

「今、キルギアは奴の術に怯えている。しばらくは目立った動きは出来んだろう。だが、ほとぼりが冷めたら反転攻勢して来ることは確実だ。その前に、もう一度、あの術をキルギア本土で行使すれば、我々は格段に優位になるではないか」

「しかし、それは……」

 なお躊躇う兵長に、王は妖しく目を細め、冷徹に、

「術の行使で、彼の肉体がどうなろうとかまわん。出来得る限り打撃を与えられるように術を増幅させて、キルギア本土に叩き込めばよいのだ」

 王の強い決意を理解し、兵長は、

「はっ。御意に従います」

 武人としての潔さで応じていた。

 そして十日後。

 暗い海原を、小型の軍船がキルギアを目指していた。夜風に曝された船首甲板には、硬い表情をした兵長と少年が立ち、前方を凝視していた。

「おい坊主、覚悟はいいか」

 兵長に声をかけられた少年は、硬い表情のまま何も答えない。無理からぬことかと、兵長は少年に軽い憐れみを覚えていた。王が命じた期日までに行われた術の解析、制御と増幅のために課された強引な鍛錬は、少年に肉体的、精神的な負荷をかけ続けたことでしかなかった。魔道の権威者である兵長の見立てでは、少年の心身はこれ以上の負荷に耐えられそうにないところまで追いつめられている筈だ。

 結果、なし得たのは、術の基本要素を理解することのみだった。術の基本は、強力な思念波によって、対象物を破壊すること。人間だけでなく、あらゆる構造物を破壊する。今のところの有効範囲は半径二十メートルほど。発動を少年自身が制御することは未だ出来ない。

 そんな状況下で、王の定めたタイムリミットとなり、勅令によって《ぶっつけ本番》を余儀なくされての出陣である。無謀かとも思えるが、術が発動しさえすれば確実に、敵を完膚なきまでに仕留めることが出来る。分が悪い賭けではないと言い聞かせ、兵長は覚悟を決めて出陣に臨んでいた。

 天空には二つの満月が覇を競うように煌々と輝いている。今宵は、二つの満月が重なり合うという稀有の夜だ。二つの月が、引き合うように距離を縮めてゆくにつれて、周囲の明るさが増してゆく。月あかりを映した水面を、船は滑らかに進み、キルギアの大陸を目指していた。

 やがて前方に、黒く輪郭を刻んだ山脈が姿を現す。

「あれが、キルギア本土だ」

 兵長の言葉に、少年はきっとして視線を上げ、前方を見据えて、

「キル……ギア……」

 しわがれた声を発していた。

 船は大陸との距離を縮め、海岸に灯る灯火に向かって進んで行き、程なくして、港の全景が視認できるくらいの位置で動きを止めていた。港には多くの軍船がひしめき合うように停泊している。その先にはぽつりぽつりと灯火が連なり、陸地の奥まで続いている。港の両脇にはいくつかの砲台があり、幾門かの砲が海に向けて砲門を開いていた。周囲に目立った動きはなく、とろりとした闇が周囲を包んでいる。敵はまだこちらの動きに気づいていないようだ。少年の術の有効範囲を考慮すると、港へのさらなる接近が必要だが、この辺りが限界だろう。可能であるなら、ここで決着をつけたいところだ。判断を迫られた兵長は意を決し、

「坊主、ここでおまえの力の全てを出してみろ。目の前はキルギア水軍の拠点だ、まとめて全て、ぶち壊―」

 兵長の言葉が終わらぬうちに、爆音が轟き、陸側の砲門が火炎を上げていた。放たれた砲弾は、ザグレス船の至近距離で炸裂し、高々と水柱が上がる。それを合図に、次々に砲門が開き、ザグレス船に狙いを定めていた。

 砲撃の余波で大きく揺れる甲板の上でバランスを失いながら、兵長は、転がりそうになった少年の首根っこを掴み、

「くそったれ、気づかれちまった。おい、小僧、とっとと力を使え! でないとここで討ち死にだぞ」

 船首近くで、さらなる砲弾が炸裂し、激しい水飛沫が降り注ぐ。

 飛沫に喘ぎながら、少年は、

「痛い、痛いよ、放して」

 叫び声に、掴んでいた力を緩めたものの、兵長は鬼のような形相で、

「俺は、キルギアなんかにみすみす殺される気なんかねえ。何のためにてめえは今ここにいるんだ。もう一度言う、キルギア人に殺されたくなかったら今すぐここで力を使え」

 そう叫んで少年を船首に突き出すと、折しも迫って来る複数の砲弾に向かって両の掌をかざし、短く呪文を詠唱する。砲弾は中空で炸裂し、闇夜の空間でオレンジ色の火炎と化していた。前方から高速で迫るキルギア軍船では、水兵が弓矢をつがえて矢先をこちらに向けている。火炎に照らされた水兵の姿が闇と混じり合い、邪悪さをはらんだ陰影が揺れる。

 キルギア語の叫びとともに矢が一斉に放たれる。兵長が素早く呪文を詠唱すると、矢は目標を外れ、捻じれて海面に落下していた。敵はひるまず、さらなる矢が雨のように放たれる。兵長の呪文で防ぎきれなかった矢が、少年と兵長の至近距離を掠めて流れる。矢面に曝された少年の網膜の中心に、高速で迫るキルギア船が映る。甲板で雄叫びを上げ、矢をつがえる水兵たち。少年の網膜の中でその姿が歪む。

「あ、あ、ああああああああ」

 既視感が少年を捉える。水兵の表情が切り取られたように大きくなり、さらに醜く歪む。

ぞくり。

水兵の表情の醜悪さに悪寒を覚え、少年は身を竦める。キルギア語の雄叫びと、矢をつがえる乾いた音が響く。

どくん。

少年の心臓が激しく脈打ち、全身の血管が拡張して浮き上がる。

「がぁああああああああああああ」

 内に生じた感情のままに、少年は叫んでいた。

 少年の叫びに呼応するように、周囲の大気が逆巻く。大気のうねりは範囲を広げ

あらゆるものを吹き飛ばしていた。

 膨張した血管が破裂し、鮮血を噴き上げながらも少年は叫び続ける。逆巻いた大気は竜巻状になって天空に延び、邪悪な龍が鎌首をもたげるようにうねっていた。鎌首は折しも重なり合おうとしていた二つの満月に向かって一直線に延びてゆき、その姿を呑み込むように漏斗状に広がり、天空を黒く覆いつくしていた。

 一条の光が、キルギア軍港のある町に突き刺さる。身の危険を感じた兵長が、咄嗟に防御結界を展開する。激しい閃光と、大地を揺るがす爆音。爆風とともに押し寄せて来た大波に、ザグレス船は木の葉のように翻弄され、沖合へと流されていた。

 幾漠かの時間が流れ、沖合へ流された船の甲板上で、兵長は、空白の意識から我に返っていた。

―ひでえ、もんだな―

沖合からでも視認できたのは、大きくえぐられた大地と、その周囲でなお上がっている黒煙と炎だった。えぐれた大地に向かって海水が流れ込み、不規則な潮の流れが漂流物を押し流している。おそらく、生き残った者はいまい。その惨状は、ザグレス人である兵長に、嘆きの言葉を吐き出させるくらいのものだった。

「おい、坊主、これがおまえの望んだ結末―」

 少年が傍らにいる筈だと思い込んで、脇に投げかけた兵長の言葉が、途中で凍りつく。

 そこには、かつて少年だった《もの》が無造作に横たわっていた。全身に裂けた血管を浮かび上がらせ、既に血色を失った皮膚を晒してうつ伏せになった少年は、ぴくりとも動かない。放出された全身の血液は、甲板に押し寄せた激しい波が洗い流したのだろう。微かな紅色の液体が、細く糸のように甲板を伝っている。垣間見える少年の表情は、苦悶に歪んでいた。

「哀れな……もんだ……」

 本懐を遂げたとは思えない少年の表情に、兵長は、嘆息を漏らしていた。百戦錬磨の兵長といえども、人としての心は宿しているのだ。部下の乗員に命じて遺骸を帆の切れ端にくるませて、船室の奥に丁重に安置させる。後味が悪いが、王の命は果たした。それ以上の思考をめぐらせることを、兵長は放棄していた。

 兵長から《戦果》の報告を受けた国王は、少年の行使した《魔力》によって、精鋭の騎馬部隊と水軍を失ったキルギアなど恐れるに足らずと、キルギアに向けてのさらなる作戦―徹底した蹂躙と、その後の支配完遂―を、兵長に命じていた。

「《彼》の処遇はいかがいたしますか」

功労者であるべき少年のことを、兵長が恐る恐る尋ねると、王は一瞬だけ瞑目し、

「お前に任せる」

 とだけ、告げていた。

 憂うることなど何もないと確信したザグレス王は、進軍に先立って、臆することなく傲慢な要求をキルギアに突きつけていた。が、キルギア側の反応は、ザグレスにとって予想外のものだった。

 派遣した使者が伝えた要求を、キルギアは即座に拒否したのだ。その意図を深読みすることなく、ザグレス側は直ちにキルギアへの派兵を開始した。敵がどうあがこうと、兵力のバランスは明白だ。敵の残存兵力など一蹴できるという、客観的根拠を持った情報分析もなされている。恐れることなど何もない、はずなのだ。

「あれは何だ―」

 意気揚々とキルギアに向けて海を渡っていたザグレス水軍の総指揮官が、訝りの声を上げる。

 行く手前方の水平線に、ぶ厚い雲が、壁のように立ちはだかっている。雲は水平線をぐるりと囲み、さらに上空へと発達してその範囲を広げようとしている。まるで意思を持ったような動きで、雲は四方から上空を覆いつくし、天空を閉ざして、空間を鉛色に変えていた。それは、明らかに自然現象とは異なる変化だった。

 向かい風がにわかに強まる。

「全速、前進!」

 えもいわれぬ不安を押し隠すように、指揮官は声を張り上げて命を下していた。

 鉛色の空間を進んだ艦隊は、千々に乱れた潮流に翻弄され、押し流されていた。艦艇はあらぬ方に流され、指揮官が気づいた時には、艦隊は分断されてその機能を失っていた。僚艦との交信もままならず、前進をあきらめた艦艇は、個々に出航した港に引き返していた。物的損害はなかったものの、遭遇した現象がただあらぬものであることを、出航した水軍兵の皆が確信していた。

 ひとり王宮のテラスに立ち、国王は鉛色に染まる王都を見据えていた。

 水軍からの怪現象の報告を受けてからさほどの時間が経たぬうちに、鉛色の霧はザグレスの全土を覆い尽くし、何が起こったのか理解できず、国民は怯え、あちこちで流言飛語が伝播していた。王都でも不穏な噂が飛び交い、事への対応と説明を求める市民が王宮前の広場に集って、不安げに囁き合っている。一部には、群衆を煽るような言動をする者もあり、不穏な空気に拍車をかけていた。今は《烏合の衆》だが、ちょっとしたきっかけで暴徒化しかねない。そんな危うい雰囲気が、王の立つテラスにまで伝わって来る。群衆からは、テラスの奥まった位置に立つ王の姿は見えないが、前方の張り出し櫓では、近衛の兵が群衆を眼光鋭く監視していた。

 今起こっている怪現象は、自然由来などではなく、人為的なものであることは明白だ。

さらには、キルギアに向かって出航した水軍が、何の障害もないはずの大海原で壁に阻まれるように押し戻されている。その事実から導き出される結論に、王は歯噛みする。

 少年の《魔力》は想像以上の劇薬だったのだ。結果、キルギアは強力な結界を展開してザグレス全土を封鎖した。それは、長きにわたって繰り広げられてきたキルギアとザグレス両国の覇権争いの終焉を意味していた。世の安定という大局的見地からいえば、歓迎すべきことだろう。けれど、ザグレスにとってのそれは、国益の喪失でしかなかった。ザグレスが大国として君臨してきたのは、周辺国を圧倒する強大な軍事力によって周辺国を威嚇し、その富を吸い上げて来たことによる。結界による封鎖は、その富の流入ルートを絶たれたことを意味するのだから。

 広大なザグレス全土を封印するほどの強力な結界を無効化するには、膨大な魔導の能力と時間を要するだろう。その間、世界の進歩から取り残されて、大国の威光は失われているに違いない。己の失態を棚上げにして、王は、キルギアへの憎悪を募らせて打ち震えていた。

 同刻、王宮の地下の一室。兵長は、目の前に安置された少年の遺骸に異変が生じたのを感じ取っていた。骸となったはずの体が微かに脈打っている。その変化に呼応するかのように、兵長の呼吸も、自ずと荒くなっていた。少年の覚醒の気配に一瞬、期待を寄せた兵長だったが、すぐに、それが無意味であることに気づく。地上での怪現象が強力な結界によるものだと、兵長はいち早く理解していた。結界に封鎖されたザグレスの内側からでは、少年の魔力もキルギアに届きはしないだろう。覚醒の因が何なのか、考えようともしたが、それも詮無きことと放棄していた。

 国益を損なう失政を犯した国王を、国民は見逃さないだろう。遅かれ早かれ、今の体制は崩壊する。その責は、王に側近として仕えた己にも及ぶのは必然だ。であれば、と兵長は少年の覚醒に一縷の望みを託すことを決意した。少年の魔力が発動可能の状態であれば、いつの日にかザグレス自らの手によって結界の解除が成し得た時、復権の切り札となることは間違いない。魔道の権威者でもある彼が《来る日》に備えて、覚醒した少年の身体と魔力を管理する。そのことによって自身の身分、さらには母国の未来を担保できるのだ。自身の存命中に事を成しえなければ、次世代に引き継げばよい。

 微かな笑みを浮かべて、兵長は《覚醒した》少年のありようを眺める。

 キルギアによって無念を背負わされた二つの魂が彷徨う石室の空気はどろりと淀み、生ぬるく滞留していた。

時を経たずして、王朝は崩壊し、栄華を誇ったザグレス帝国は、閉ざされた空間で、新たな歴史を刻むこととなるのだった。



                                       続く

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