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クローゼットの一角に

作者: 檜慈里 雅

 もう誰が着ることもない服を収納してあるせいで、わたしの部屋のクローゼットは狭い。たいていは父のものだ。


 ハンガーに掛かっている黒革のジャケットを引っ張り出してみた。埃がひどい。父にはよく似合っていた気がするジャケットだ。




 とにかく強くて、大きかった父。わたしが小さかった頃は、よく父の力こぶにぶら下がって遊んでいた。


 遊園地の腕相撲ゲームで、注意書きを無視していきなり最強の「横綱」に挑戦し、あっさり勝ってしまうのを見ていた記憶が未だに残っている。


 わたしが今から何年か前、どこか旅行先で偶然同じようなゲームを見つけたときには、一番弱いやつに両手で挑みかかっても勝てなかった。




 酒が好き、タバコが好き、車が好き、みたいな人間がわたしは嫌いだったし、今でもそうなのだけれど、どうしてかわたしは父が好きだった。


 何でも好き勝手やっていた、めったに帰ってこない父を、いつも家族みんなで待っていた。


 わかりたいとは思わないけれど、あんな人を選んだ母の気持ちが少しわかる気がする。




 ずっと父は不死身だと思っていた。


 家族全員の反対を押し切って建てた工場で、300キロの鉄板に押し潰されたときも生きていた。


 わたしと父を載せた救急車の中、父は粉々に砕けた顎でわたしの名を呼び、「会社が……」と呟いて、涙をひとつ流した。


 その後しばらくは、病院に行けばいつでも父に会えた。元気になると、また何処かへ消えてしまった。




 次に別の病院で会ったとき、父はもう殺されていた。


 現実味のない額の借金が残った。テレビは飛行機がビルにぶつかる場面を何度も流していた。


 そのときわたしは高校生で、父は四十にもなっていなかった。




 ……先日、現在住んでいる家に弁護士から小包が届いた。いつもの書類とは違って大きく、分厚い。


 いろいろの書類と一緒に、父が使っていた預金通帳や二つに切られたクレジットカードが帰ってきた。


 すべて終わったようだ。父のいた日が、はるか遠くに霞がかって見えていた。


 母の酒もすこしは減るかもしれないと、そのときは思った。




 わたしが初めて喋った言葉は「パパ」だったらしい。父を喜ばせたくて、母がわたしに何度もパパ、パパと聞かせていたそうだ。


 自分の意志で父を喜ばせるようなことが、結局わたしにはできなかった気がする。


 今になって話したいことがたくさんあるけれど、父は時々わたしの夢のなかにいるのを見かけるくらいで、言葉を交わす機会もない。




 わたしにも大切な人ができた。


 母と父が結婚したときの年齢に、今年わたしもなる。


 これから二人どうして生きればいいのか、心細くなるときがある。


 父ならばどう言うだろう。確かな答えはなくても、聞かせてほしいときがある。


 埃だらけのジャケットは、光に当たると少し緑がかって見え、袖のボタンはいくつか取れてなくなっていた。




 ジャケットは思っていたよりずっと小さかった。ずっと見上げていたはずの父は、Lサイズの上着に収まるくらいの大きさだったらしい。


 でも、たぶんそれは違う。父はもっともっと大きかった。


 弟は父と同じ背の高さまで伸びたけれど、まだまだ腕にぶら下がりたがっている。わたしだって。


 父ならきっと、拠りどころなんか何にもなくたって、わたしやみんなを安心させてくれたはずだ。生きてさえいれば。




 クローゼットに戻したジャケットには、これからもわたしの一角を占拠していてもらおう。テープで真ん中をつなぎ直したカードにも。


 わたしには、まだ必要だから。

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