27話 三つの頭
魔物が大地に降り立った。アル達はそれをぼうっと見ている事しかできない。圧倒的な存在感に、身体が凍りつく。
六つの目が、この場を見定めるように睥睨する。爬虫類の様な胴体に、三つの長い首と頭。―――ヒュドラだ。
それはこの巨大な部屋をまるで巨大と感じさせない程の大きさ。頭が三つもあるのに、その一つだけでもアルの身体より大きい。前回のオーガの時とはまるで違う。宝箱を開けてから一切のタイムラグ無く産み落とされた魔物。この場から絶対に逃がすまいと言う、ダンジョンの意思。
ミレイ村の本で読んだ事がある。ヘラクレスの物語。山ほどもある巨大なヒュドラを討ち取った英雄の話だ。そのヒュドラは多くの頭を持ち、吐き出される息吹は村を一つ消すほどもある。山ほどは大きくないにしても、その伝説の姿はアル達を容易にその場に釘付けにしていた。
「はは、まさか死ぬ前にこんな奴を見られるとはね。ダンジョンも粋な計らいだ」
乾いた笑いを上げたのはダリウスさん。この元凶を招いた彼の声が震えているのは、この巨大な魔物との遭遇を喜んでいるのか、はたまた死への恐怖か。
アルはヒュドラを挑発しないように、ゆっくり、慎重に立ち上がる。アルが居るこの場所は、恐らく首の射程外。しかし伝説のヒュドラと同じなら息吹攻撃があってもおかしくない。
ゆっくりと立ち上がり、慎重に、短剣に手をかけた………所で、一番近くの頭がこちらを向いた。巨大な頭が霞む。大口を開いた頭が迫る。首が伸びた。
咄嗟の判断だった。横っ飛びしたアルの真横の壁に、ヒュドラの頭の一つが突き刺さっている。着地の事など考えず慌てて【瞬間加速】を使わなければ、その一瞬でアルの命は散っていただろう。
な、なんて速さだ………。アルの全力と同等か、もしくはそれ以上。命からがら、四つ這いのまま無様に部屋の反対側へと逃げる。ダリウスさんの横まで来るとヒュドラに向き直って【鑑定】を使った。
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名前:ヒュドラ・レア
Lv:29
スキル:【炎の息吹】【氷の息吹】【毒の息吹】【物理攻撃上昇Lv2】【魔法攻撃上昇Lv1】【物理攻撃耐性Lv2】【魔法攻撃耐性Lv3】【咆哮】【威圧】【看破】【短気】【思考力】【判断力】【社交性】【昼寝】
武器:なし
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レベル29…!?そしてやっぱり息吹攻撃を持っている。炎と氷と毒。物理と魔法の攻撃上昇、それから耐性。圧倒的なレベルとスペック。これが………ダンジョンの罠。
「アルフォンス。奴の背後に回れれば、僅かだが通路の入り口があるはずだ。隙をついてそこから逃げろ」
こいつは、何を今さら………。一言文句を言ってやろうと思ったが、そんな余裕は無さそうだった。ヒュドラの頭の一つが、大きく空気を吸い込む。
「うっ、【盾】ッ!!」
アルの目の前は、真っ赤な炎で覆われた。息を吸い込んだ頭の一つから放たれたのは、【炎の息吹】。
二人を焼き付くさんとするその炎の奔流に、いつもよりかなり強力に魔力を込めた防御魔法を使う。アルの目の前に人一人分の黒い壁が出現する。
アルは死を覚悟した。身体を緊張させて息を止めた、数瞬の後、衝撃と風圧が押し寄せた。【盾】が作り出した壁、その左右から赤い波が弾けて後方へと流れ込んでいく。
息吹は、持続的な攻撃だ。炎が止まない。左右から流れていく熱の余波だけで、装備は白熱し、皮膚が焼け付くのが分かった。永遠にも感じられる時が終わると、【盾】はかろうじて残っていた。恐らくアルの魔力を半分は使ったであろう。アルの持ちうる最大の護りは、務めを果たして消えていった。
後ろを振り向くとダリウスさんも、かなりの火傷を負いながらも生きている。咄嗟にダリウスさんの前に出て【盾】を使ったが、それでもアルより重傷だ。
「な…"ピュー"…なん…"ヒュー"」
ダリウスさんは何かを喋ろうとしているが、熱で気管が焼けついたのか呼吸音がおかしい。アルはすぐに【保管】から回復薬を取り出すと一つずつ自分とダリウスさんにかけ、あと一つをダリウスさんに手渡した。彼もすぐに意図を察したのかそれを急いで飲む。彼を縛っていたロープは先程の息吹で消し炭になっていた。
アルはそんな彼を確認すること無く、【保管】から彼とグリフォンさんの装備一式をその場に落とした。
「グリフォンさんも起こして加勢して下さい。それまで何とかします。三つ全部は無理かもしれないので息吹には注意して下さい」
「ゴフッ!ゲフ!ちょ…ちょっと待ってくれ!私はもうこのまま」
「あなたを助けるのに魔力を半分も使ったんだ。その分の働きはして下さい。あなたには売り払われた奴隷達全員の事を話すまで、死んで貰っては困る」
アルは意を決してヒュドラの懐に飛び込む。初手の突進はかなりのスピードだった。あれを頭三つ分にやられると思うと、かなり無謀に思えてくる。しかし、距離をとって息吹を射たれるよりもかなり現実的だ。
【瞬間加速】で詰め寄りながらアルは、あの感覚を呼び起こすように努力する。この空間を自分のものとする感覚。自分と相手、そしてこの場の空気や床まで、全てをまるで自分の一部のように把握する意識。
ヒュドラの範囲内に足を踏み入れた時、やはりヒュドラの攻撃は突進だった。右の頭が左前方から来る。今度は先程と違ってしっかりとその動きを捉えている。口を大きく開いていることから、突進と言うよりは噛み付き攻撃なのだと分かったが、それが分かったところで事態はあまり好転しない。
距離をとるわけにはいかないため、右前方に【瞬間加速】で転がる。全速力中に使った無理な方向転換で体勢は崩れ、受け身を取ることで精一杯だ。そこを間髪入れず左の頭が迫る。
咄嗟に上に飛んで避けてから、アルは自分の失態に気付いた。
空中で無防備なアルに、真ん中の頭が迫る。
「ただで死んで…たまるか!【斬撃】!」
防御ではなく攻撃、その判断は恐らく有効だった。突進の衝撃で反対側の壁まで吹き飛ばされるが、何とか噛み付かれる事は回避できたみたいだ。しかし壁へ衝突した事で、肋骨が上げた鈍い音が全身に響く。
すぐに回復薬を飲み干すと、アルは再びヒュドラに接近した。
息吹を撃たれたらその時点で終了だ。回復薬は残りあと三個。ここに来るまでに少し買い足したのだがそんなに数は多くない。ダリウスさんを確認すると、自分の装備を着け終わった段階だ。そりゃそうだ、まだ一分も稼げていないのだから。
アルは再び意識を集中して、ヒュドラの噛み付き攻撃を避けにかかる。やはり三つもの頭を全てを避けるのは至難の技だ。先程の様に空中に逃げる事だけはしない様に、床を転げ回る。どうしても間に合わない時には、最小限の【盾】を使い、受け流す。
それでも動きが速すぎて、三頭全ては追いきれない。何回か壁まで吹き飛ばされ、その度に回復薬を口にしてまた突貫する。
早く…早く………!
命懸けで一秒一秒を稼ぎながら心の中で祈る。ダリウスさんとグリフォンさんの様子を見る余裕はない。魔力も底を尽きかけており、魔力を使い過ぎた為かフラつきすら覚える。回復薬もあと一つだけだ。
こいつと向き合ってから三分程が経過しているはず。ダリウスさんがてきぱきと動いてくれていればそろそろ…。しかし逆に三分程しか経っていない。シオン達が戻ってくるのはまだまだかかる。もしかしたらステータスを見てアルの戦闘状態に気付いているかも知れないが、それでもあと三十分はかかるだろう。
「アルフォンス!準備ができたぞ!」
…きた!ダリウスさんの声だ。もう三十秒遅いと手遅れだった。
「でも俺達じゃその中には入って闘えねぇぜ!」
これはグリフォンさんの声だ。確かに二人とも甲冑等の防御力は高い装備だが、こいつの噛み付き攻撃を正面から受ける程の盾役は無理だ。しかし方法はある。アルはヒュドラの頭を必死で避け、受け流しながら叫んだ。
「一つだけでいい!首を!…ぐっ!…向かって左の!カウントします…!」
アルは二人の動向をまったく見えていない。しかし、やってくれると信じるしかないのだ。どうせこれが失敗すればきっと全員死ぬ。そんな事は彼等も理解しているだろう。
「真っ直ぐ…僕を…狙わせます!………あと……………五!……四、三!……二、一!」
アルは正面からの頭を転がって避けた後、右の頭を上に跳んで避けた。
狙い通り、左の頭が真っ直ぐこちらに向かってくる。汚なく並んだ歯が見える。その歯には血が付いていた。きっとアルのだ。身体中ボロボロであることに今さら気づく。
それがすぐ目の前まで迫った時。アルの視界の横から、二つの影が割って入った。
「せぇぇぇえい!」
「死ねゴラァ!【もぐら叩き】ィィッ!」
二つの斬撃が、ヒュドラの頭を横から捉えた。アルの直前まで迫っていたそれは掠める様に進路を変え、血飛沫を散らしながら縮み上がった。
特にグリフォンさんが放った振り下ろしの一撃は、かなり深く入った。大きな血管が斬れたのか、かなり出血している。なんと彼は【もぐら叩き】のスキルを使いこなしていた。より洗練された上から下への一撃は空中に残像を残すほどの速度で繰り出されたのだ。
馬鹿にして本当にすみませんでした…!
アルは着地すると同時に、再び三頭の攻撃を避け始める。
「ははっ…!グッジョブ!」
自然と笑いが零れた。彼等は先程まで命のやりとりをしていた相手である上に、誘拐犯でもあるのだが、その一撃は紛れもなく彼等が積み上げた技術と経験だ。その培われた研鑽に対して素直に称賛する。
そして戦況も変わりつつあった。頭が一つ手負いになった事で、余裕が出来る。
「二人はそのままこいつの射程ギリギリから削って!」
そのままヒュドラの意識を釘付けにしながら、前後左右に避ける。今度は避けるだけではない。紙一重の所で躱しながら短剣を突き立てて行く。致命傷とは程遠いが、その細かく鱗が敷き詰められた様な表皮に、確かに斬痕を残す。
魔力が残り少ないため、【斬撃】は使えない。いざという時のために【盾】を残しておきたいからだ。
ダリウスさんとグリフォンさんも流石に熟練の冒険者だった。格上の魔物との戦い方を知っている。基本的には近寄り過ぎず、自身の攻撃を当てて離脱のヒットアンドアウェイだ。
そこからは持久戦だった。特に負担が大きいのはやはりアルだ。頭一つの動きが鈍くなったと言えども、ヒュドラの全ての攻撃は致死性を孕んでいた。身体が削られる度に、血で靴が滑る度に、死の囁きが聞こえる。
―――何分経ったのかも分からない。
もはや足元は血だらけだ。ヒュドラの血なのか、それとも誰かの血なのかどうかも分からない。ここにいる全てが、ただ必死に。それぞれの限りを尽くしている。
何故こんなにも傷付きながら、それでも立ち上がるのか。前を向くのか。それでも脚を動かすのか。それでも生にしがみつくのか。
きっと―――――それでも。目指したい人がいるからだ。会いたい人がいるからだ。
「まずい!息吹!」
それはダリウスさんの叫び。ヒュドラの頭の一つが大きく空気を溜めている。一度味わっているその記憶から、瞬時にヒュドラの予備動作に気付いた彼は、きっと頭の中で対応策を用意していたのだろう。
「トカゲ野郎ォォ!こっちだコラアァァァ!」
ダリウスさんは叫びながら、アルからヒュドラの敵意を奪い取る。【挑発】スキルだ。ヒュドラの全ての頭がダリウスさんへと向く。きっと、次に息吹が来る時は一人犠牲になるつもりだったのだ。その自己犠牲はこの場において、限りなく正しい選択だ。
しかしアルは走り出していた。彼に向かって。
「【盾】」
ヒュドラの放った息吹は、黒い魔法ごとアルとダリウスさんを撃ち抜く。今度は炎ではなく、【氷の息吹】。
まるでそれが薄い硝子であるかの様に【盾】を砕いた氷の礫は、アル達の身体を壁まで吹き飛ばした。
先程までの戦闘で身体中傷だらけではあったが、今回は致命傷を受けたとすぐに分かった。右大腿と左脇腹、そして右腕に鋭い痛みが走る。
横のダリウスさんはもっと重傷だ。胸の何ヵ所からか、どす黒い血が溢れてきている。気休めかもしれないが、最後の回復薬一瓶をダリウスさんの胸にぶちまけた。
短剣は近くに………ない。
少し離れた所に転がっていた。そしてアルの右腕はまだ、短剣を握っていた。
そこで初めて右腕が無い事に気付く。
それでもなんとか立ち上がるが、腕が無い事で身体のバランスがおかしい。右脚にも力が入らない。血も魔力もいよいよ足りておらず、視界が暗転しかかっていた。
ヒュドラは再度息吹の体勢。
炎にしろ氷にしろ、はたまた毒にしろ。避けられない。詰みだ。
動け………!
動け…!!!
ヒュドラの口に赤い徴候が見える。【炎の息吹】。生身で受ければ、きっとアルの身体など跡形もなく、魂までも一緒に消滅してしまうのではないか。
ヒュドラの口から放たれた炎が、アルの視界を覆った。
まだ届いていない炎は待ちきれないとアルの肌をじりじり焦がす。
シオン………ごめん。
ドゴォォォォッ!!!
熱さを感じたのは、一瞬だけだった。
再び目を開いたアルが見たのは、見事に飛んだヒュドラの頭部。そしてその断頭された斬り口から噴き出て暴れ回る炎だった。
そして真っ赤に照らし出されるダンジョンの中、相対的に蒼く輝く防具を纏った人影。その人物は足場も何もないはずの空中で二、三度方向を変えてこちらに向かってくる。手には炎の反射によるものか、はたまた血によるものか、深紅に輝く細剣。
ふわりとアルの前に着地すると、その人は流麗な仕草でアルの状態を確認した。流れるような金色の髪。あの時と同じ、花の様な香りがアルを包む。半年前と変わらぬ、いやあの時以上の美しさ。そう感じるのは彼女が変わったのか、それともアルが変わったのか。
Aランクパーティ"烈火"のセシリアさんは、その凛とした表情を柔和に崩し、アルを真っ直ぐと見据えた。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」




