サヴァンになれずとも ~作業所の斎藤さん
初夏の気配を体で感じ取れた。
梅雨明け。突き抜けるような晴天。うだるような暑さ。けれど心地よい風。
俺は自転車で駆け抜ける。
夏休みになっても朝から塾通いというのは憂鬱にさせるが、その分を差し引いても気持ちの良い朝だった。高校最後の青春を楽しもうという気で充填されていた。
人からはよく、能天気と評される。
だがそれくらい頭空っぽの方が人生を楽しめるものだろう。俺は夏期講習が終わった後どれほど遊ぶかだけを考えていた。
そしてそんな自分に枷をはめる母親を冷やかしに行こうとも思いついた。
生憎母の職場は塾のすぐ近くだ。
蝉が煩く俺を急かす。
なぁに、昼間顔を出せばいいさ。
「あら、巧君。珍しいわね」
狭い建物に入るなり、中年の女性――顔は何となく見覚えがあるが名前までは知らない――に声を掛けられた。
「どうもです」
「時田さんに御用? 生憎出かけちゃったけど……すぐ戻ってくるって言いはってたよ」
「そうなんですか、じゃあ待ちますよ」
俺は適当に空いている椅子を見つけて座る。粗末なつくりなので座った途端軋む。母は外出中らしい。仕方ない、色々と忙しいのだろう。
母はこの作業所の副所長を務めていた。正確には就労継続支援B型事業所、と言うらしい。ようするに障害がある人向けの仕事場、といったところだ。
俺は周囲を見渡す。おじさんやおばさんが数人昼食を取っていて談笑している。一見、障害がある風には見えない。以前には車椅子の人も見かけたが少数だ。この作業所に来る人の多くはどこが悪いかわからない。が、どこか悪いのだろう。そうでなければ一般企業に就職して、ここには来ない。
俺はここに来るとなんとなく輪に入れない感じがあった。それが俺自身壁を作っていただけだと気付いたのはもっと後のことになる。その時はなんとなく居たたまれなかった。そうしてちょこんと座っていると、ふと目にした。
可憐な女の子がいる。そう、可憐としか言いようがない。特別美人という風ではないが可愛らしい雰囲気で、しかも若い。同世代くらいだろうか。なぜ今まで気付かなかったのだろうか。
それは彼女が部屋の隅っこで本に顔を埋めていたからだ。ロングヘアーで前髪が目元まで伸びている。見る角度を下げないと表情が伺い知れない。しかしなぜ彼女は隅に縮こまって昼ご飯も食べないのだろう。しかも椅子にすら座らず壁にもたれかかって本を読んでいる。不可解に思えて余計気になる。
俺が彼女に注目していたのが見て取れたのか、おばさんの一人が俺の隣に立って彼女に話しかけた。大声で。
「斎藤さん、斎藤さん! この子時田副所長の息子さんの巧君」
斎藤と呼ばれた少女は一瞬顔を上げるが、それっきりだった。
「どうも、巧っす。えと、よろしく」
俺は続けて紹介してみせるが、返事はなかった。どういうことだろう。彼女は耳が遠いのか? それでおばさんは大声を?
「斎藤さん、ちょっと難しい子なの。悪い子じゃないんだけどね」
耳打ちされて、どうも見当違いらしいことがわかる。たんに無視されたのだ。斎藤という子はどうも性格に難があるらしい。
――という理解はまるでわかっていない証だった。俺は彼女の障害のことをわかっていなかった。しかしそのせいか、俺は彼女に惹きつけられてしまったと言える。
斎藤さんはすっかり読書を再開している。彼女の上に掛かっている時計を見れば、もうこんな時間じゃないか。塾に戻らなければ。
俺は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
翌日の昼、やはり俺は作業所に来ていた。今度はコンビニで買った冷やしうどんを持って。
昼食をここで摂るというのは悪い選択ではなかった。塾はうるさいし、人でごった返しているし、個人的に冷房の効きもいまいちだった。ここなら四人か五人かしかいないし空調も快適だ。それに――
斎藤という子が気になっていた。彼女は今日も本を読んでいる。昼になってすぐ来たのに食事をする気配がない。
しかし何とも話しかけづらい。彼女のことを何も知らないから何を話していいかわからない。せめてきっかけがあれば良かったのだが、初対面の顔合わせというカードはすでに使ってしまっていた。
何よりも人を寄せ付けないオーラというものを、鈍感な俺でも感じ取れた。
結局その日はじろじろ見るだけで終わってしまった。相手は気にもしていなかった。
その次の水曜日、俺は思い切ってアタックしてみることにした。
「いつも本読んでるけど、本、好きなの?」
返事がない。無視だ。これは困った。
斎藤という子は本当に人付き合いをしないタイプのようだ。作業所の中でも浮いているのがわかってきた。しかし俺は部外者だ。多少突っ込んでみたっていいだろう。こういうのは旅の恥は掻き捨て、と言うんだっけ?
「俺も結構読むんだよね。あー、良かったらどういう本か教えてくれない? 俺も読んでみようかなーなんて」
自分でも何を言っているんだろうと思う。そこまで読書家でもないくせに。
しかしこれが功を奏したのか、斎藤さんはガバっと顔を上げた。よく見るとやはり可愛い。だけに勿体ない。
彼女が沈黙を破る。
「これ、ラ・ピュセルというタイトルで冴えない青年騎士が主人公なんだけど田舎から出てきた時に聖女ジャンヌと出会って運命が大きく変わっていくというか史実を下にしているんだけどファンタジー色が強いんだけど思うに作者の実体験も混ざっていて最初は勝手だった主人公が人との出会いの中で成長していく要素もあってこれ以上はネタバレになるから詳しく言えないんだけど第一章の最後が本当に美しくて引き込まれて次を読みたくなって止まらなくなるというか本当に面白い小説で……あの……」
言葉の洪水が流れ出た。斎藤さんは目を輝かせていて綺麗だ。対して俺は多分間抜けな面をしていたんじゃないか。とにかく驚いた。
そんな俺を見たせいなのか、彼女の顔色は急に不安げになって、わなわな震え出す。
「私……最悪……」
そして兎が逃げるように、作業所を飛び出してしまった。後にはポカンとする俺と昼食を取っていたおばさん達だけが残される。
「俺……何か悪いことしましたか?」
「今唯子ちゃんが出ていったけど、何かあった?」
その声は母だ。入れ違いでやってきたらしい。ああ、なんてタイミングだ。
「ああ副所長さん、斎藤さんがあんなに喋ったの初めて見た」
俺は罰を悪くしているのに、おばさんは能天気に言った。
木曜と金曜は斎藤さんは現れなかった。おかげで週末、俺は彼女のことを考えながら過ごしていた。
斎藤唯子。母から聞いた話によれば、高校を退学になって作業所に通うことになったという。それからコミュニケーションが苦手で、そういう障害だということ。彼女は母親を亡くしていて父親が苦手らしい。孤独で友達もいない――
だから歳の近い俺に仲良くしてやってほしいと言われた。そうしたいのは山々なんだが、彼女の心の壁の分厚さといったら。これは骨が折れるぞ。
とはいえ取っ掛かりがないわけでもない。俺は思い出す。嬉々として小説を語る彼女を。本が好きなのは間違いない。よし、その線で攻めよう。
早速俺は彼女の読んでいた本を買って読み始めていた――のだが、生憎活字を読む習慣がなくてすぐに眠くなってしまう。まだ内容が堅苦しくなくて彼女の言う通りのファンタジーなのが幸いだった。普段やっているゲームを思い出す。主人公が竜と戦う、くらいしか共通点はないのだが。
まぁ日曜の夜までに読み終わればいいさ。そして平日になったら彼女と本について語り合えるはずだ。俺は数時間後の自分の頑張りに期待した。
待ちに待った月曜日の昼、俺はフィッシュバーガーと麦茶を作業所に持ち込んでいた。軽く食べ終わった後、斎藤さんをじっと見る。
彼女はいつも昼食を摂らないみたいだ。代わりに本を読んでいる。『死に至る病』と表紙にある。物騒なタイトルからしてホラー小説か?
ともかく俺は彼女に話しかけることにした。
「やぁ、斎藤さん。元気?」
「あ……」
斎藤唯子にしては珍しく反応があった。彼女は本を下ろしておろおろとし出す。
「先週は……その……すみませんでした……」
消え入りそうな声で斎藤さんが謝る。突然逃げ出したことをか? だが違ったようだ。
「私……滅茶苦茶本の話して……迷惑でしたよね……」
「ああ、気にしてないよ。それに面白そうだったからあの本読んでみたんだ。良かったよ」
取っ掛かりを見つけ、俺は切り込む。すると彼女の顔がぱっと明るくなった。上々。本当は最後まで読めていないのだが。
「第二章でジルと決闘することになったのは驚いたな」
「そうだよね! ジルにも理由があるんだけどそれは第三章まで明かされなくて衝撃の展開の連続で彼が……」
また斎藤さんはまくしたて始めた。俺は内容の半分もわからないがひたすらうんうんと頷く。すると彼女はすっかり機嫌を良くしたようだ。普段あれだけ無口なのに饒舌になるなんて、本当に本が好きなんだな。
よし、俺は決心した。彼女をデートに誘おう。今の流れなら上手くいくはずだ。彼女が一息つくのを待って、俺は話を切り出した。
「この後良ければ本屋に行かない? 読書感想文で読む本をまだ決めてなくてさ、良かったら斎藤さんのオススメを聞きたいかなって」
「時田さんと……一緒に……? 私……」
「ああタダとは言わないぜ。喫茶店で一杯奢るからさ」
斎藤さんは俯き黙ってしまった。長考しているといった感じでまるっきり無視というわけでもない。やがて彼女は顔を上げ、言った。
「明日、なら……」
「よし明日、作業所が終わったら迎えに行くでいい?」
こくっと頷く斎藤さん。俺は内心、ガッツポーズを取った。
会話はそれっきりになって彼女は本への没頭を再開したが、俺は上手くいっているという自信を付けた。なんだ、彼女も鉄壁ではない。
明日が楽しみだった。俺はあまりにも能天気すぎた。
夏の日差しは日に日に強まっていた。
たまには台風でも来て曇ってくれたらいいのに。カンカン照りの太陽を呪いつつ、俺は作業所へ向かっていた。
時刻はいつもと違って二時半を回った頃だ。作業所は三時に終わる。クーラーの効いた部屋の中ではまだ利用者達が作業を続けていた。
主にお菓子を計量して袋詰めするのと、ハンガーを四本一セットに留めて、これを十セット袋に梱包する仕事に分かれていた。中でも一際若い斎藤さんはハンガーを黙々とゴムで留めていた。やはりというか、全然喋らない。
俺は隣の部屋の椅子に座って彼女を待った。
時間だ。
作業を終えたおじさんおばさんがタイムカードを押して次々とさよならを告げる。そして最後に斎藤さんも何も言わずタイムカードを押していた。
そのまま帰るんじゃないかと不安になって、俺は通せんぼする形で席を立った。
「時田さん……」
「それじゃあ付いてきてくれる、斎藤さん」
彼女は俺の背中にぴったりくっつく。ひとまず第一段階はクリアなようだ。
俺は青いスポーティな愛車に乗り込んだ。斎藤さんの自転車は緑色の少し年季の入った感じのママチャリだった。お下がりだろうか。
当然のように本屋に着くまでは、会話がなかった。
ショッピングセンターの中にあるその本屋は市内でも一番か二番目かに大きい。見渡す限り本棚がずらっと並んでいて壮観だ。心なしか、斎藤さんの気分も上がっているように見えた。
俺は本棚を掻き分け、小説コーナーに足を踏み入れる。後を付いてきた斎藤さんの目の色が変わった。彼女は至極真剣な表情を見せる。
「時田さんに薦めたい本、三冊候補があるんだけど……」
「何々、教えて」
「まずこれなんか、短編で読みやすいと思うんだけど、あ……こっちも、候補にはなかったんだけど謎解きが面白くて……」
斎藤さんは次々と本を手に取る。結局、勧められた本は七冊か八冊にもなった。その中から二冊、ページが薄めのを俺は選んだ。彼女曰くさくっと読めるらしいから。
「斎藤さんは何か買わないの?」
レジに並ぶ前、俺は訊いてみた。すると彼女は気恥ずかしそうに手を後ろにやって、答えた。
「私はお金ないし……いつも図書館に行くから……」
ハッとした。お金がない、だって。俺は思い出す、作業所の工賃が時給180円くらいなのを。その辺のバイトとは比べ物にならない駄賃程度だ。それで本も買えないのか? なんということだ。
じゃあ俺が買ってやろうか。そんなことを言い出すと、彼女はあからさまに怒った。
「やめて!」
拒絶。俺は後悔した。馬鹿でも彼女の自尊心を傷つけてしまったことくらいはわかる。斎藤さんは物乞いなんかじゃない。あんな提案をする前に気付くべきだった。
俺達は気まずくなって本屋を後にした。そのままショッピングセンター内の喫茶店に入る。また斎藤さんが逃げ出すんじゃないかと俺は危惧したが、幸い杞憂に終わった。しかし今度は失敗できないぞ、時田巧。
喫茶店は落ち着いた雰囲気で客も少ない。これは事態を好転させてくれた。
「何頼む? 好きなの頼んでいいよ」
「じゃ、じゃあ……ダージリン」
斎藤さんは紅茶を一杯だけオーダーする。明らかな遠慮だ。俺はキリマンジャロのコーヒーにチーズケーキを二つ頼んだ。
かぐわしい香りに包まれて注文が運ばれてくる。俺はカップに一口付けてから言ってみた。
「俺のことは時田じゃなくて下の名前の巧でいいよ。副所長の母さんと紛らわしいだろ」
うんともいやとも、返事がない。俺も斎藤さんのことを唯子ちゃんと呼びたかったが、あまりにも気安いと逃げられそうなので我慢した。彼女にとっては今ここで俺と相対しているのにもエネルギーがいるらしいのだ。
ともかくもっと彼女の乗れそうな別の話題を探すべきだろう。
「斎藤さんって週末何してる? 俺は友達の家に行ってゲームとか、でも最近は受験勉強しなきゃいけないけど」
「読書……他にやることがないから……」
「へぇ、俺ももっと本とか読んでみるべきだなぁ」
「そう……」
駄目だ、会話が続かない。だが沈黙にも耐えられず俺は次の話題を出す。
「将来どうする? もう三年だし俺はとりあえず受験だけど、斎藤さんはどう」
「将来なんてない」
彼女はきっぱり言った。避けるべき話題だった。しかし将来がないとはどういうことなんだ? 俺は好奇心に勝てず問いただす。
「どういうこと?」
「そのままの意味。私に将来なんてない。二十歳になったら死ぬつもりだから」
「へ? ちょっと待って」
待て待て待て、どういう意味なんだそれは。俺のふやけた脳では理解に追い付かない。死ぬと言ったのか、斎藤さんは。信じられない。
「なんで……」
「本当は十七の誕生日に死ぬつもりだった。その日もクラスで嫌なことを言われて教室から飛び降りようとしてでも止められてできなくて学校を退学になって行く当てがなくて今は作業所に通ってるけどこれで生活できるわけがないしまともに社会的生活なんて絶対無理だし私は本当に死ぬしかないだから今度は二十歳にって決めたんだけど後一年二年も耐えられないかもしれない薬を飲んでも全然良くならないし私は……」
「おい斎藤!」
俺は思わず彼女の肩を掴んでいた。震えが手に伝わる。安心させようと俺は宥める。
「そんな、死ぬだなんて言うなよ。人生生きてたら楽しいこともあるだろ」
「巧君は何もわかってない。楽しいことなんかない。ないんだよ」
斎藤唯子は焦燥しきった酷い顔をしていた。絶望の二文字が頭によぎる。俺は彼女に何て言ってやったらいいんだ?
「なぁ、今も楽しくないのか?」
「離して」
「あ、ああ……」
俺は力なく彼女から手を離す。これでいいはずがない。俺は何か慰めてやろうとした。しかしその前に拒絶された。
「私がおかしい人間未満なくらいわかってる。だから私のことは放っといて」
そうしてまたも彼女は消え失せてしまった。結局チーズケーキは二つとも俺が食べる羽目になった。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃあなかった。
俺は何が悪かったのだろうとなけなしの頭を回転させていた。おかしい。斎藤唯子は明らかにおかしい。けれどそれを責めるわけにはいかない。彼女の障害を。彼女の絶望を。
くそ、なんでこんなにことは簡単じゃないんだ。
むしゃくしゃして俺は領収書をくしゃくしゃにしてしまう。
なんでこう、難儀な女の子に恋してしまったんだ、俺は。
唯子の力になりたい。助けてやりたいと思う。彼女が死のうとするなら死なせたくない。でもどうすればいいんだ?
俺は専門家が身近にいることをふと思い出した。そうだ、母に聞いてみよう。何か打開策をくれるかもしれない。
俺には全く思いつかないような、打開策を。
炎天下を雲が流れていく。いつもみたいなゆったりとした作業所の昼。時間だけが過ぎていく。
斎藤唯子は人を寄せ付けずに読書している。それを眺めているだけの日々が十日も経とうとしていた。
母は時間が解決すると言った。斎藤さんは放っておいてと拒絶した。その通り俺は彼女をそっとしておいた。ただ彼女の代わりに昼飯を食べるだけだ。
これでいいのか、と思う。けれど話しかける糸口を掴めない。じれったい。でも無理に攻めた結果がこの前だ。母にも注意された。
決して一人で生きていくことはできない。唯子ちゃんも本当は誰かと一緒にいたい時はあるの。
精神障害の人と触れ合ってきた経験は母の方が遥かに長い。だから時間が解決するなんて俺譲りの能天気アドバイスも受け入れた。そうして無言で寄り添っていた。
今日までは。
明日から作業所は盆休みに入る。そうすると斎藤さんとは会えなくなる。俺は正直焦りがあった。恐ろしい想像もした。休み明け、二度と彼女が訪れなくなるような――
ブンブンと首を振る。やめろ時田巧、ポジティブ思考だ。こういう時は勝負に出てもいいんじゃないか? 黒板に書かれた「八月十二日 夏祭り」の文字に心躍った。
近所の小さなお祭りだがきっと楽しめるはずだ。夏祭りに彼女を誘おう。いくら受験生と本の虫とはいえ息抜きは必要だろう。
俺は思い切って斎藤さんに話しかけた。
「夏祭り、一緒にどう? たまにはいいんじゃないかな」
見事に無反応だ。そう来ると思った。俺は声を張り上げた。
「斎藤さんと夏祭り行きたい! 六時の公園の前で待ってるからな!」
言い切って食事に戻る。きっと彼女は怪訝な顔をしていただろう。前髪に隠れて見えないが。けれど構わない。当日来なければそれまでだ。後は斎藤唯子の判断に任せる。それでいいじゃないか。
斎藤さんは一瞬顔を上げて俺を見た、気がした。いや自意識過剰だな。
俺は残りのラーメンの汁を一気に胃に押し込むと、辛さと緊張で汗だくになりながら作業所を出た。
夏祭り。来てくれ唯子。
真夏の六時というと暗くもなければ涼しくもない。その上人の熱気が溢れかえる夏祭りの公園の前。俺は汗水垂れ流して立ち尽くしていた。
もう十分は過ぎた。やはり駄目だったのだろう。俺のような頭空っぽの人間でも諦観に占められていく。
きょろきょろと周りを見渡す。浴衣のカップルが道を練り歩いている。自分より年下の男子達がはしゃいでいる。望み叶わぬならいつもの煩い同級生達と来ればよかったか。
だがその時だ。同じように首を振って何かを探している少女の姿を見つけた。間違いない、斎藤唯子だ!
「斎藤さぁん!」
俺は恥も知らず思い切り手を振る。すると向こうも気が付いておっかなびっくり歩み寄ってきた。
「巧君……探した……」
「悪い、公園の前、だけだとアバウト過ぎたか。でも来てくれたんだな」
「……放り出したら私、最悪に最悪な人間だから……」
まるで彼女の良識に付け込んでしまったようだ。俺は反省する。しかし斎藤さんが来てくれて本当に良かったと思ってもいる。
彼女は普段通りの格好だ。夏祭りだから浴衣とか、そういうお決まりには無頓着らしい。おかげで見つけられたのだが。
しかし心なしか、いつもより可愛い。お祭り気分がそうさせるのか。
「それじゃあ行こうか」
こくりと斎藤さんが頷く。それ以上の受け答えは望まず、俺は屋台立ち並ぶ市民公園の中に入った。彼女が後に続く。
平時は無駄にだだっ広い公園だと思っていたが、こう祭りの場だとぎゅうぎゅう詰めで狭く感じられた。たこ焼き屋、焼きそば屋、チョコバナナ屋と食品関係の出店が目に付く。
「何か食べようか? 俺、買ってくるよ」
「私はいい……体弱くて……あまり食べられないから……」
斎藤さんは恥ずかしそうに言った。それでいつも昼食抜きなのか。彼女の華奢さに納得がいく。しかし鉄板の飯を断られるとどうしたものか。
「じゃあ金魚すくいはどう?」
「金魚飼えない……」
「的当て屋は」
「いい」
「くじ引きとか」
どれも駄目だ。これでは何のために夏祭りに誘ったかわからない。
「見てるだけでいい。私はあちら側には行けないから……」
そうして斎藤さんは黙りこくってしまう。俺も返す言葉がないから本当に見て回るだけになった。
一時間も経たずに全ての出店を見尽くしてしまう。斎藤さんにとっては本でも読んでいる方がマシな思い出になるのではないか。そうはいかない。
「やっぱ俺、何か買ってくる」
結局俺は近くの出店でかき氷を買った。これならほとんど水だ。斎藤さんでも食べられるのではないかと思って。俺は彼女を待たせたくなくて足早く戻る。
「かき氷、イチゴ味。一口どう?」
その場の雰囲気で受け取ってくれる――かと思いきや、斎藤さんは無言で首を横に振る。やはり俺の努力はむなしく水泡に帰す。一人で冷たいかき氷をちびちび食べる羽目になった。
俺達は芝生に腰を落ち着けた。俺が氷と格闘している様を、彼女は横目に見ていた。
「なぁ、将来のことだけどさ、俺、母さんと同じ道を進もうかなとも考えてるんだ」
食べ終わってそんなことを言った。斎藤さんは不思議そうに俺の顔を覗き込む。
「えっと……良いんじゃない。でも難しいと思うよ。私みたいなのを相手にしなきゃいけないし……」
「全然平気だよ、俺、能天気だから。それに斎藤さんともっと話したいし」
「私と……話すことなんかない」
斎藤さんは項垂れる。それで会話は終わってしまった。
沈黙が流れる。
いつまでそうしていたのだろう。流石に夏空も暗くなってきた。俺は話しかけず、ずっと座っていた。彼女もそうしている。
俺はいい加減疲れてきたのかもしれない。自分からあれやこれや斎藤唯子に話しかけることに。そんなことしても彼女は幸せにならない。
なのに彼女は俺の傍にいてくれる。不思議なことに。いつものように急に帰ってもおかしくないのに。
ふと、彼女が口を開いた。
「巧君は……なんで私に構うの。おかしいよ。ありえないもの。他の人が私に……」
「俺は……」
言葉が詰まる。っておい、何やってんだ時田巧。言ってしまえ。今言わないで何になる。
言おう。正直な気持ちを。
「そりゃ……斎藤のことが好きだからだよ」
「えっ……」
斎藤唯子は明らかに困惑している。そりゃそうだ。無理もない。好感を持ってない男から告白されればそうなる。だが俺は止まらない。
「お前が好きだ。お前がお前自身のこと好きになれなくても、少なくとも俺は好きなんだ。唯子のことが好きだ」
「私……そんなの無理……付き合えない……」
まぁ見事に振られてしまった。だが今の俺はめげない。諦めたら終わりなんだ。彼女とのコミュニケーションは。
「じゃあ友達から始めるのはどうだ。俺はお前の友達でいたい」
「友達……?」
「ああ、友達だ」
「それなら……」
唯子は顔を真っ赤にして俺の手を握った。俺もしっかりと、握り返す。
どん、と空に大きな音がこだました。ちょうど花火大会が始まったようだ。宵闇に綺麗な模様を描く。
「おお、すごいな」
「儚いね……」
ぱっと消えゆく花火を見て、唯子は少し悲しそうに言った。
「でも綺麗だろ」
「うん」
また一発の花火が打ちあがる。俺は唯子を見る。彼女は初めて、笑った顔を見せた。