義理を通して大学を辞めに行ったのは正しかった ③
何度も通ってすっかり覚えてしまった道を戻る。時刻は昼過ぎ、あまり遅くならないうちに帰りたい。来た時よりも歩く人が少し増えた通路を、避けるように通り抜けていると
「瀬尾?」
呼び止められたような気がして思わず足を止めた。誰だ? どこにいるんだ?
「やっぱり瀬尾だ! 久しぶりだな!」
ハイテンションで俺の肩を組んできた声の主。慄いて暑さではない、嫌な汗が流れる。
「あー、どちらさまでしたっけ?」
俺はできるだけ平静を装って答えた。
「おいおい、そりゃないぜ瀬尾。けっこー講義一緒でよく話してた佐伯だよ、ほんとに忘れちまったのか?」
「ああ、佐伯か。久しぶりだな」
目の前にいる彼と記憶の中の彼が一致する。
通路の中央で立ち止まる俺らを避けるようにして人がすぐ横を通っていくのを見て、俺らはどちらからともなく木陰を作っている道の端に場所を移した。
「しばらく見てなかったけど、お前大丈夫だったのか? 病気でもしたか?」
佐伯は心配そうに言った。
「いいや、そんなことはないよ。ただ引きこもってただけ」
「瀬尾もマイペースだなぁ。まっ、元気そうで何より。けれども単位の方は大丈夫じゃなくないか?」
肘で俺のことを小突きながら、茶化したように笑う。
「あー単位ね。もう関係ないよ、俺」
「それってどういうことだよ?」
「だって今大学辞めてきたところだからな」
マジかよ! と驚いて詰め寄る佐伯。俺よりも十センチは高い彼の身長に見降ろされると威圧感がすごくて、思わず後ずさる。
「あーもう! 落ち着け! はーなーれーろ! 佐伯!」
「落ち着いていられるかよ! 辞めるって俺聞いてないぞ! なんで辞めちまうんだ?」
まくしたてる佐伯。ぜえぜえと肩で息をしながら周りの目も気にせず俺に向かってくる。
「言ってないんだから、佐伯が知るはずないだろ? 何で辞めるかなんて佐伯には関係ない」
「関係なくない! 瀬尾はそうやって自己完結しすぎだ」
返す言葉に詰まる。
入学して、うまく輪に入れていなかった俺に瀬尾が声をかけてきたのが俺たちの出会いだった。
社交的でよく気の利く佐伯にはたくさんの知り合いがいた。キャンパスを歩いているといろんな方向から声かけられるような佐伯は、つるむ相手なんてたくさんいたはずなのになぜか俺にまとわりついてきた。そんな佐伯を俺はどうするでもなく、そのうち飽きてどこか行くだろうなんて軽い気持ちでいた。
俺の目の前の佐伯はいつもの明るくてノリのいい、温厚な佐伯ではなくて、感情を露わにして訴えている。
「そうやってすぐ距離置こうとしてさ、俺が瀬尾の事どう思ってるかなんて、まるで興味ないんだろ」
向けられていた顔は下を向いて、細い声を出す佐伯は小さく見えた。
「佐伯も噂ぐらい聞いたことあるんだろ? 俺にだっていろいろあるんだよ……」
言い訳のように残した言葉。佐伯はどう思うだろうか。わかっていながらこんなことしか言えない俺はずるい。
「なあ、瀬尾」
俺に言っているはずなのに、そうは聞こえない声で佐伯は言う。
いくら待っても、そのあとに続く言葉が佐伯の口から出ることはなかった。
見上げた桜の木が葉の裏表に日を受け、緑のグラデーションがすべてを包み込む。
梢を揺らした風に乗せて佐伯はただ「ごめん」と言った。
◇ ◇ ◇
何も考えずにひたすら足を動かしていた。いつまでそうしてたかなんてわからないぐらい歩き続け、高層の真新しい周囲の景観から浮いた目立つ風貌の建物が視界に映ったところで、帰って来たことをうまく回らない脳に告げられる。
扉の前に立った俺は鍵の代わりになっているリンクギアをかざす。開錠音がしてドアを引いた。
引かれたドアが作った空気の流れに乗って、覚えのある匂いが漂ってくる。リビングまで進むと
「瀬尾君、おかえりなさい」
キッチンから顔を出して、赤い無地のシンプルなエプロン姿の彼女が俺を出迎えた。初めて見る彼女の姿に少しどきっとする。
「よかったら夕飯、一緒に食べない?」
そう言いながら、加熱していた鍋を止めて、お皿に二人分のご飯をよそう彼女。
「ありがとうございます、いただきます」
リンクギアを見るともう夜の七時になっていて、俺は朝から何も食べてなかったことに気が付く。頭が認識した途端、急にお腹がすいてきたお腹をさする。
玄関から予想はついていたが、ダイニングテーブルにはカレーが並べられた。少し大きめに切られたじゃがいもやにんじんが浮かんでいるルーは甘めの味付けで、俺が小学生の頃に母さんがよく作ってくれていた味に似ていた。
「味、変じゃない? 大丈夫?」
「とってもおいしいですよ」
「よかったぁー」
背もたれに体をあずけて嬉しそうにする彼女。
「私味オンチだからさ、味見してもよくわからないんだよね」
そう言って笑う彼女をちょっとだけ変わってるなと思ったのは秘密だ。
「それでも橘さん、料理が得意なんですね」
「うーん、得意っていうよりも、材料をきっちり揃えて出来上がっていく過程が楽しい? のかな。レシピ見ただけだから、特別上手いってわけでもないしね」
そう言った彼女をちょっとじゃなくてかなり変だと思ったのは秘密だ。
適温に保たれたリビングで、ご飯とルーを半分ずつ乗せたスプーンを口に運ぶ。向かいに座る彼女も同じようにしているのがわかる。
「そういえばこうしてご飯食べるの、初めてですね」
「そうだね。今日の瀬尾君、とっても難しい顔してたからさ。おなか一杯になれば少しは元気になるかなって」
首を少しかたむけて、優しく俺に言う。口の中に感じた甘さはやがて身体全体を包んでいった。
「瀬尾君、どうしたの? なんで泣いてるの?」
おろおろする彼女の言葉を聞いて目元を拭う。白いシャツの袖口が濡れて色が変わり、自分が泣いていることに気が付く。
感情も、なんでこぼれてくるのか分からない開かれた目から伝っていく涙を、止める方法が俺にはわからなかった。
「カレーが、とてもおいしかったからです」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、笑顔を作る。また俺は、彼女に困った顔をさせてしまっているんだろう。今日の出来事が頭の中をフラッシュバックして、ぐちゃぐちゃに混ざりあい、ずっと奥にあったはずの感情が俺の外に出てしまいそうになる。
「そっか。じゃあ明日からも一緒に、ご飯食べようか」
何も聞かずにそう言った。出会ったばかりのはずなのに、彼女の声を聞くと俺の内側に入り込んだ感情まで受け入れてくれるような、穏やかな気持ちになって目を閉じた。
まだ止まりそうにない涙を拭かずに、俺は彼女の声を反芻する。