なんとなくで契約するのは正しかった ④
『リンカー認証。タチバナアヤネ、セオユウト、認証完了。契約を完了しました』
ピピッという音と共に無機質な声が俺たちの間を通る。
これで俺たちは晴れて契約完了というわけだ。俺の一年は組織に買われ、俺はいくらかの自由を失った代わりに、わずかに人間らしさを取り戻した。けれども、誰かに生かされているという感覚は、べっとりと俺にこびりついて、どんなに澄んだ気持ちになったところで拭えそうもない。
静寂が包む。
テーブルをはさんだその向かいで、彼女は顎に手を置き、ゆっくりと息をしながらどこかを見つめている。俺は、絶対に合うことのないその視線の先はどこなのだろうと思いながら、次に何をするのが正解なのか、考えていた。
そして俺は、正解かどうかを考えても頭ではすでに追いつかない領域まできてしまったこの状況で、何を考えようが無駄だという結論に至ったところで机の上のまだ見ていない方の紙に手を付けた。まずは今の状況を少しでも得るのが一番だろう。そこにはリンクギアの説明があった。目で文字を追いながら、それと同時に書いてある通り右手をリンクギアにかざす。
青白い光と共に数字の十がディスプレイに浮かび上がる。これは何だとのぞき込むと突然通話のポップアップ表示が現れた。不安になりながらも、通話のボタンをタップすると
「やあ! さっきぶり! 契約完了おめでとー!」
この部屋に似合わない、空気をまるで読まない聞き覚えのある声がした。
「サイン!」
彼女の俯いていた顔がこちらに向けられる。
俺は突然起こった出来事に、驚きよりも怒りが先に来ていた。
「サイン、これはいったい何なんだ」
「これはね防水、防塵機能搭載。そのほかにもねGPSによるナビゲーションシステムやリンクギアを介して通話もできちゃう優れものさ!」
俺の聞きたい事とは的外れな内容を、飄々と言うサイン。
「そういうことじゃなくて、俺が言いた――」
「はいはい、何で僕がこうして話してるかってこと、だよね?」
俺の声にかぶせるようにサインが言う。
「正式に契約が完了したからサインとして様子を見に来たんだ。そしたらやっぱりだよ、しーんとしちゃってさ、もっと話して! コミュニケーション!」
リンクギアの向こうであきれた顔でやれやれと僕に言い聞かせるように話すサインが目に浮かんでくる。思わず彼女の方を見ると、その会話の一部始終を聞いていたらしくクスッと堪えたような笑い声がした。
「綾音さん、だったよね? 啓人さんこんなんだから心配でさ。けれども悪い人じゃないから、優しいところもあるし。だから啓人さんの事、これから頼みます、綾音さん」
「はい、頼まれました。心配しなくて大丈夫だよ」
俺抜きで楽しそうに話す二人を見るとなんだかむなしくなってきた。子ども扱いするように、俺のことを話されるのには慣れない。
「啓人さんも、綾音さんのリンカーとして協力しなきゃダメなんだからね?」
「あーもう! わかったってば!」
くしゃくしゃと頭を乱して、これ以上サインにしゃべらせまいと言葉を切る。
「うんうん。あと大事なことを伝えなくちゃ」
「なんだ?」
「啓人さんが望むならリンクギアを使ってサインと一度だけ、こうして話すことができるよ」
首をかしげる。今こうやって話せているのではないかと思っていると、その思考がサインに伝わったのか
「僕が啓人さんに話すのは自由だけれども、啓人さんから僕にかけるのはできないってこと。いやー、組織的にもいろいろあってさ大変なんだよ、だから一回だけ、ね?」
と、ずいぶん勝手な一方通行を言い出したのだ。けれどもまだ一度だけでも機会が設けられているだけ良心的なのか? どちらにしても俺からサインに電話をかけることがあったとしたらそれは文句を言ってやりたい時だ。
そんなことを考えていると奥の方で、そうそうと何かを思い出したようなサインの声が聞こえる。
「リンクギアは勝手に外さないように! 決まりだからね」
「ああ、そういやそんなこと契約書にも書いてあったな」
あいまいな記憶を手繰り寄せた。確かそこにはしかるべき措置を取ると書いてあったが。
「サイン、リンクギアは外すとどうなるんだ……?」
ひやりとした汗が出たのがわかった。俺の制御できないところで心臓が勝手にどくりと音を立てて、サインにまで聞こえるのではないかと思った。
「そのことについては、僕の口からは言えない。だから僕はあなたたちにしないでとお願いするしかないんだ」
彼は、本気で俺たちに頼んでいた。いつもの少しふざけているような声ではなく、真剣に。そこまで言うのだから、俺たちがリンクギアを外すのは、してはいけない事なのだろう。世の中には知らなくてもいいことがたくさんある。
「わかった」
彼の真剣さに応えるよう、僕も誠実に伝わるように言った。
「ありがとう、啓人さん」
気が付くと日は傾き、沈もうとする太陽が最後にここにいた証しを残そうとするように、オレンジ色の光を窓いっぱいにおいていく。すると、俺の見える景色もほわりと色づいて、目を細めた。
サインとの電話は切れていた。