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俺と彼女の正しい逝き方  作者: クルハ
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なんとなくで契約するのは正しかった ①

 この世界のどこにも『俺』はいなかった。


 何のために生きているか分からなくなるなんて思春期を迎えた青少年であれば一度は経験するのだろうが、俺の場合はそんなのをかれこれ二〇年続けてきたのだから少しこじらせすぎたのかもしれない。何を考えているのか、どんなやつなのか。他人の言葉を基準ににしなければ自分で好き嫌いすらもまともに判断がつかない。


 俺はずっと俺を探し続けていた。この世界で俺が存在しえる、価値を見出せる才能や場所を。

 けれども同時に、そんな人生に疲れてしまったのかもしれない。

 うまく世の中を渡ってきたつもりが、それは結局どこか一つをたたいてしまえば崩れてしまうような脆いものでしかなかったことに気が付いた。今まで「ある」と思いきっていたものが「ない」と分かってしまった途端、俺の人生は一気に影を落とした。暗がりに放り出されて、何もかもがわからなくなってしまうような、そんな絶望感。


 この悩みが他の人と比べると取るに足らないことは、自分でも理解はしているつもりだ。

 少なくとも明日の食べるものに困るなんてことはないし、街へ出たらいきなり散弾銃で頭を撃ち抜かれるなんてこともない。貧困や紛争なんかとは縁遠い日本に生まれ、その平和な生活を余すことなく享受してきた。

 そんな大きなことではなくても、父さんも母さんも俺のやりたいことを尊重してくれるし、愛情をかけて育ててもらった。まさに絵にかいたような家庭とはこういうことを言うのだろう、そういう意味で俺は誰よりも幸せであるべきはずだった。

 だから、俺のこの選択がいかなる人や事のせいでないということはわかって欲しい。ただ俺のわがままと弱さのために選んだことだから――。

 旅立つ不孝をお許しください。




 ◇ ◇ ◇




 たしか、家に置いてきた遺書はこんな内容だったと瀬尾啓人(せおけいと)は思い返した。

 若葉と湿った泥の匂いの混じる風が目にかかった前髪を撫でていく。俺の知らない香りだ。

 人間ってものは最後に何をしようかって考えたとき、存外何も思いつかないものだったりする。だから俺みたいに物事の定番をなぞることをする人が多いのだろう。まあ、これも自殺志望者を対象に統計を取ったわけでもないので、俺の憶測なのだが。

 三か月分の給料だけを持ってきたここは、なかなかいい場所だった。なにせこんな真夜中に大人が仰向けになって物思いに耽ることを誰かに止められないし、そもそもその人がいない。

 給料三か月分なんていうとプロポーズの指輪を思い浮かべるが、俺の場合はそんな素敵なものでもない。ある意味、一世一代のものと考えればそのどちらも似ているということになるのかもしれないが、俺の場合はバイトだから額はたかが知れている。それでも、来た目的を果たすために十分な金額だった。

 行き先をここにした理由は特にはないのだが、とりあえず俺のことを知っている人が誰もいないところに行きたかった。あとは、おいしいもの食べて、きれいな景色を見て、汚れのない空気を吸う。その点ここはとても都合が良かった。


 もう八月だというのに夜は静黙(せいもく)で、どこか取り残されたような冷たさをはらんでいた。向こうはただいるだけでうだるような暑さに襲われ、何をするにも憂鬱(ゆううつ)な気持ちが張り付いてくる。自然と汗がこぼれて、まとわりついてくるシャツにわずらわしさを覚える。そう比較し、改めて自分がいる場所を確認する。

 誰もいない河川敷の前を流れる川は、昼に通り過ぎていった雨のせいかその流れを速めているようだった。舗装されたアスファルトの歩道から続く緩やかな傾斜は芝生になっており、最近刈られたのだろうか背丈がそろえられて緑の香りが強くしていた。俺はそんな心地よさの中に身をあずけながら目線を下に向けると、そこにはちょっとした遊び場が見える。

 木製のベンチ、その右手にはブランコやどう遊ぶのかもわからないような遊具たち。色が所々剥がれ落ちてしばらく塗られていない様子から、たぶんもうここに住む人たちには遊ばれてはいないのだろう。そこからすこし離れたところに申し訳程度に街灯が1つ。橙色(だいだいいろ)に淡く光っている。それらはどれも存在を主張せずただそこにあるだけだった。


 左手に持っていたアルコールを右手に持ち替え腕を持ち上げる。


(ああ、そっか。捨ててきたんだっけ)


 父から高校の入学祝いに貰ってからつけ続けていた腕時計は、飛行機から降りて電車に乗り換えるときに駅のごみ箱に投げ入れた。時間を気にする必要もないし、それ以上に自由になりたかった。

 行き場をなくした左手で前が見えなくなる。そうではなくとも、もともと何かが見えていたわけでもないのだが。

 本当はここで俺の住んでいる場所では考えられないような星空が広がるらしい。けれども見上げた目前に覆う雲は厚く、月の光ですらぼんやりとしている。目を凝らしてもそれは変わらなかった。

 もういいだろう。煽るように残りをのどに流し込んだ俺は、空になった缶を握りつぶした。

 このまま川に向かっていけば翌日には酔っぱらった観光客が起こした不慮の事故として処理されるだろう。もしかすると、発見すらされずに漂うことになるかもしれないが。どちらにしても、たいして害はないだろう。

 そう結論付けふらつく足を前へと進めようとしたとき、


「兄さん、おにーさん。死ぬの、もうちょっと待ってくんない?」


 聞こえるはずのない声が俺を背後から呼び止めた。

 反射的に声の方向を見た。そこにあった人影は背丈からしてまだ子供、まだ声変わりのしていない幼さの残るそれからも少年だと類推するが、薄暗い辺りと目深にかぶったフードが顔にかかり、顔がよくわからない。


 そもそもこんな時間に、こんな場所で俺に声をかける人なんかいるのか? 事実、かけられているからいるのだろうが、どうもこの状況は現実離れしている。

 わざわざ果てしない田舎町まで来た理由は、俺のことを知っている人がいないからなわけで、こんなシチュエーションは望んでいない。


「ちょっとー、聞いてますー? 僕はあなたに話しているんですけどー?」


 つい数秒前に人生の終わりを決意した人間に向けるには、場違いなほど間延びした声でその人物は話しかけてきた。


「聞こえているさ、いや聞こえてはいるんだけれども。俺はあいにく君に話しかけられる理由がない」


 必死に探してみるが、これっぽっちも心当たりがない。


「いやいや、そんな難しく考えないでよ。あなたには理由がわからないかもしれないけれども、僕にはその理由がわかっている。それでいいじゃない、ね?」


 なんなんだ、その理論。と、俺は心の中で盛大な溜息をつく。


 この状況を酔いの回った俺が人生終わらせる前にハイになって作り上げた幻覚ということにしてしまえたらどんなにいいのだろうかと期待するが、その可能性は低そうだ。死ぬことを望んでいる俺がそれをわざわざ引き止めることなんてしないだろうし、現にこうやって思考できていることがまだまともに意識を保てている証拠だ。


「この際、俺が今死のうとしていることを知っているのはおいておこう。よけい話がややこしくなりそうだ。それで、まずは君が誰なのか教えてもらおうか」


「人に名前を聞くときはまず自分から言うのが普通じゃないかな?」


 この普通とはかけ離れた状況を作り出した元凶に普通を説かれることとなるのか。ありがちなセリフが自分に返ってきたことに、もっともなのだが腑に落ちない。そして俺よりも年下にいいように言われているこの状況は調子が狂う。


「うそうそ、冗談だよ。僕の名前はサイン、君を導く者さ瀬尾啓人さん」


 いよいよ脳の情報処理が追いつかなくなりそうだ。謎が多すぎる。まず、俺にサインなんて名前の知り合いはいないはずだし、そもそもこの年齢の子どもと知り合うなんて機会ももうない。そして、見ず知らずの人に名前を知られるほど個人情報の管理を怠った覚えもない。

 それに導く者って言っているが、抽象的すぎる。もっとも今の状況を考えると死後の世界へ導くというのが妥当なのだろうが、導かれなくとも俺は彼、サインに止められさえしなければ今頃あっちにいっていたはずだ。


 (――神様、死に場所にここを選んだのは間違いだったのでしょうか)


 人生でたいして信じてもいなかった神様を、ここぞとばかりに登場させる。都合のいい時ばかり頼られ続けると、いくら神であっても人を見捨てたくなるのも無理はない。

 みんなで仲良くしましょう。知らない人にはついていってはいけません。困っている人がいれば助けてあげましょう。家族や友達を大切に。物は大事に使いましょう。社会のルール、道徳心、一般的な良識を持ち合わせた両親からの教えを人生の大半を通して守り続けてきた俺。けれども、この怪しすぎる状況の対処法は人生の教科書には載ってない。


「立ち話もなんだし、座ろうよ。ね?」


 すっかり酔いのさめた頭で、彼がどんな表情をしているのか思案しつつ、向きを変えた足を一歩、前へと進めた。


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