ただいま
事故から一週間がたって、雫は無事に退院できることになった。金曜ということで、俺が学校帰りに雫を迎えに行く約束になっている。あの雨の影響で風邪を引いたた俺は、一週間ぶりに雫に会うことになる。あんな事があった後だし、いくらあいつでも元気がないかもしれない。そんな心配をしていたのだが――
「お兄ちゃん遅い!」
病室に着くと、雫は入口の前で仁王立ちして待ち構えていた。時計を見るが五分も遅れていない。
雫は、額に大きな絆創膏を貼っている以外はいつもと全く変わりない。すっかり元の調子を取り戻しているようだ。
「今のお家遠いんだから!って、お兄ちゃん髪の毛黒くなってる!」
黒く染まった髪を指差し、雫は興味津々という様子だ。
「あー、昨日染めたんだよ」
「なんでなんで?お父さんとお母さんに怒られたの?」
「いや、あの二人はむしろ気に入ってたよ」
「じゃぁなんで?」
「まぁ…教師、目指すからな」
「本当に!」
『教師』という単語に機嫌をよくしたのか、雫は表情をコロッと変えて笑顔を見せた。
「でも、金髪の先生もちょっと見てみたかったなぁ。GTOみたいでかっこいいかも」
「ばーか」
教師になるのは小さい頃からの夢だった。でも、両親の離婚で一度は諦めた。色鮮やかに見えていた教師という仕事が、なんだか灰色に見えたのだ。けれど、あの日の父さんと母さんを見てから、やっぱり教師になりたいと強く思ったんだ。
クスクスと笑う雫につられて口元が緩みかけた。でも「で、なんで遅れたの?」と雫は容赦無く問いただす。
「ごめん、ちょっと練習がなぁ」
「練習って何の?」
「いや。なんでもない」
「お兄ちゃん何か隠してる!何なになにー?」
「いいから帰るぞ。駅までタクシーだから、乗り場混まないうちにな」
雫は納得してない様子でじろりと睨んでいるが、まだしばらく黙っていることにする。
退院の手続きをして外に出ると、雫は「さむーい」と言って体を縮ませた。やっぱり生身の体ではこの寒さはきついらしい。それに、昨日再び降った雪で今日の気温は氷点下なのだ。
「お前も使うか?」
隣を歩く雫にカイロを振ってみせると、雫は少し考えてから反対側に回りこんだ。
「…は?」
雫は、カイロを持つ手とは反対の手をきゅっと握った。
「しぃこっちがいー!」
手を握った雫は上機嫌な表情を浮かべる。お互いを見る目線は変わったけど、こうゆうところは昔と変わらない感じがした。
ほんのり温かいその手に、こいつが今生きていることを実感する。あの日、こいつが戻って来てくれた事に感謝して、俺はそっとその手を握り返した。
タクシーを待っている間に、雫は眠ってしまった。のんきに見えるが、実は気を使っていたのかもしれない。
まぁ、実はその方が都合が良かったりする。なぜなら、行き先は駅ではないからだ。着いたらどんな反応をするのか、少しだけ楽しみになった。
メールの受信音が鳴り、画面を見ると『配達完了!』というメッセージが表示されていた。
香澄に頼んでいた仕事も無事に終わったようだ。
二十分ほどして、タクシーは住宅街の真ん中で停車した。
目を覚ました雫は「え?」と声を漏らす。その理由は、窓から見えた雪だるまだ。そこには、歪な形の雪だるまが二つ。そして、三段重ねの大きな雪だるまと、綺麗な丸い形の雪だるまが並んでいた。
「お兄ちゃん、これ…」
「あとでちゃんと顔付けろよ」
タクシーを降りると、そこには『美波』と書かれた表札がある。そう、ここは俺達の家、美波家だ。
雫にチャイムを鳴らすように促すと、戸惑いながらも手を伸ばした。少したってドアが開き、中からエプロンを着けた小柄な女性が出てきた。
「早かったわね!」
雫は驚いて目を丸くする。出てきたのは母さんだ。
「お母さん?!なんでここにいるの?学校は?」
「雫が帰って来るからってお休みしたのよ。朝から準備大変だったんだから」
「母さん、準備できたよ!」
そう言って父さんも出てくる。体格の良い見た目にはミスマッチな花柄のエプロンを着けていた。もちろんそれは母さんの物だが。
雫は戸惑いながら俺たちを交互に見る。珍しく挙動不審になる雫をもう少し見たい気もするが、そろそろここに連れて来た理由を言ってもいいかもしれない。
俺は雫の横に立って言った。
「おまえの退院祝い。家族みんなでな!」
「家族…みんなで」
驚く雫に俺は笑顔で頷いた。
この事は、雫の退院が決まってから父さんと母さんと三人で計画したのだ。あいつを迎えるならここが良いし、週末なら家族全員で過ごせるだろうと。
言い出したのは俺だが、二人は俺以上に張り切っていて、今日までほぼ毎日計画を練っていた。
「三人でカレー作ったんだぞ!肉たっくさん入れてなっ!」
「お部屋の飾り付けもしたのよ。さっき香澄ちゃんがお花届けてくれて、お部屋の中もお花いっぱいなんだから!」
母さんは腕に抱えた大きな花束を見せる。香澄の持って来た花束は、オレンジのバラとカスミソウでできたものだった。
「オレンジのバラなんて、さすが香澄ちゃんね!」
「さすがって。花屋ならこれくらいできるだろ」
母さんはクスクスと笑った。
「雪斗もまだまだね。オレンジのバラの花言葉は“絆”なのよ」
「絆?」
なるほど。たしかに“さすが香澄ちゃん”だ。不本意ながらも、あいつに頼んで良かったと思う。
見た目も含め、この花は雫の喜びそうなセレクトだった。
でも、当の本人は喜ぶわけではなく、眉を寄せて少し困ったような表情を見せている。
「どうした?」
「体調でも悪いのか?」
みんなで心配していると、雫は言いづらそうに口を開いた。
「あ、あの…お父さん…他の女の人と再婚するんじゃ」
――あ。
不安そうな雫と、父と母の視線。三つの視線を浴び、俺は両手を額の前でぱんっと合わせて頭を下げた。
「ごめんっ!言い忘れてた!」
「え…?」
きょとんとした顔で雫は俺を見上げる。
「あー、実は…あれ、俺の勘違いだったんだよ」
「え……えっ!?どうゆうこと?じゃぁ、会わせたい人って?」
「あぁ、それは」
説明しろと父さんの方を見ると、苦笑いをしながら頭を掻く。困った顔の父さんを見かねて、母さんが先に口を開いた。
「あのね、離婚してから雫の元気がないのがずっと気になっていたの。それで、雪斗のことも気になって、年が明けてからお父さんに連絡したの。そしたら、雪斗も部屋に篭りっぱなしだって聞いて」
「だから、おまえたちを会わせたら、少しは気分も変わるかもと思ってな」
「それじゃぁ、会わせたかったのって…」
「俺と、おまえ」
前後に指を動かして答えると、雫は満面の笑みを浮かべて「よかったー!」とぴょんぴょん飛び跳ねた。
「元はと言えば、父さんの言い方が紛らわしかったせいだけどな」
「いや、まさかあんな勘違いされるとはな…すまん」
肩を落として謝る父さんを見て、母さんはふふっと笑った。そして、雫の方へと歩いて行く。
「雪斗から聞いたのよ。雫が、一人で頑張っていたこと。家族を元に戻そうって」
「雪斗も、賞とかたくさん取ってたの、俺達を喜ばせようとしてたんだってな。見舞いに行った時に雫が教えてくれた」
「…別に、俺は大した事してねぇよ」
「いや、ありがとう雪斗、雫」
俺のしたことは、結果として何も変えられなかった。でも、『ありがとう』という言葉が胸の奥の靄を消していく。そんな気がした。
「あなた達が頑張ってくれてたのに、気付いてあげられなくて本当にごめんなさい」
「父さんも母さんもお互い向き合おうとしなかった。でも、お前たちの気持ちには応えたかった。それに何より、離れてみてわかったんだ。家族がどんなに大切か。離れてから気付くなんて、バカみたいだけどな。だから雫が目を覚ました後、母さんと話し合ったんだ。そしたら、お互い同じこと考えていてな」
「それって…」
見つめる雫に、父さんは優しく微笑んで答える。
「また、四人でやり直そう」
優しく微笑む両親の視線と雫の視線が交わる。
「学校もあるし、今すぐ元通りにはならないけど、少しずつ戻していきましょう」
「もう家族が離れたりしない。これがあるからな!」
そう言って父さんが取り出したのは、あの時雫が持っていたスケッチブックだ。そこには、ピンクのバーベナが描かれている。
俺は、雫の頭をぽんとたたいて玄関の前に立った。
「ここが、おまえの帰る場所だろ!」
雫は涙をぽろぽろ流しながら頷いた。そして、俺は二人に目線を向けて合図する。
「せーの」
「「おかえり、雫!」」
「お、おかえり雫ー!!」
三人で言ったその言葉に雫は目を丸くした。
「…もしかして、練習ってこれのこと?」
少し照れながら頷くと、雫は表情を崩しておもいっきり笑いだした。
「ほら、やっぱり笑われた」
ジロッと父さんを見ながら俺は言った。これは出がけに父さんが言い出したことなのだ。でも父さんだけ何故か合わず、何回も練習したのだ。結局その成果が本番で発揮されることはなかった。
「良い考えだと思ったんだけどなぁ」
「自分で言い出したくせに、父さんだけ全然合わないし」
「あなた音楽とか苦手だったのよね」
「でもリズム感なさすぎだろ!」
「ごめんごめん!でも今のは大丈夫だったろ?」
「大丈夫じゃねぇよ!思いっきりずれてたろ」
「いいじゃない、雫が笑ってくれたんだから」
正面を見ると、涙を流してお腹を抱えながら笑う雫の姿が映った。
「まぁ、いいか」
「ちょっと笑い過ぎだけどなぁ」
「ふふふ。そぅね」
いつの間にか美波家に四人の笑い声が戻っていた。まだ冷たい空気が漂う季節だけれど、それはほんの少しだけ周りの空気を温かくした気がする。
「雫。早く入れよ!」
ドアを開け、改めて三人で雫を迎え入れると、雫は涙を拭って頷いた。そして、いつもの笑顔で言う。「ただいま!」と。
――こうして、またここに家族が戻った。
家族の定義は、とても曖昧で不確かなものだ。でも、今ここには家族がいる。家族の笑顔がある。
「なぁ雫」
「ん?」
「いや、何でもない」
照れくさくて、まだ直接は言えないけど
「なに?気になるじゃん!」
「また今度な!」
「えー」
――俺も、美波家が大好きだ。
―終―