美波家が大好き
「雫!!」
入ってきたのは、体格の良いジャージ姿の男性と小柄で髪の長い女性だった。
「お父さん…お母さん…」
雫の声が微かに響く。でも、それが聞こえたのはどうやら俺だけのようだ。
父さんと母さんは呼吸のたびに肩を上下に揺らしている。ベッドの方へ歩みを寄せたが、二人とも言葉を発することはなく、呼吸を調える唇が微かに震えているだけだった。
雫は驚いたように二人を見る。きっと、父さんと母さんのこんな表情を見るのは初めてなのだろう。俺自身も、こんな二人を見たことなんてない。今雫の状態を伝えて良いのか躊躇った。
少しの間、病室には規則的な機械音だけが響き渡る。
「雪斗…雫は今どんな状態なの」
沈黙を破ったのは母さんだった。
「あ、えっと――」
看護師に言われたことを伝えると、両親の表情に影が差した。
すると、父さんが何かに気付いたように俺の方へ手を伸ばした。
「雪斗、ちょっとそれを見せてくれ」
手に取ったのは、雫のスケッチブックだ。父さんは絵を見るなり、驚いた様子で母さんにそれを渡した。
「…これ、バーベナだわ」
その絵を見て、母さんも驚いている。
「それ、雫が描いたんだ」
「雫が?」
二人は少し驚いたようにベッドの上に視線を向けた。
「今日が結婚記念日だから、父さんと母さんが好きなバーベナの花をあげようと思ったんだ。でもその花冬は咲かないらしくて、冬でも咲くように絵にしたって」
「そうなのか…」
少しして、父さんがまたゆっくりと口を開いた。
「この花はな、おまえたちが生まれたときに母さんと一緒に買ったんだ」
「ピンクのバーベナの花言葉はね『家族の和合』っていうのよ」
俺と雫は「え?」と小さな声を上げた。
「だから、家族がずっと仲良くいられるようにって毎年あなたたちの誕生日に飾っていたの」
――そうだ。この花、小さい頃誕生日に飾ってあった花だ。いつの間にか飾らなくなってたから忘れてた。
「でも、もう今は…」
「こいつは、今でも信じてるよ。家族のこと」
二人は顔をあげて俺の方を見た。
「雫は、この一年ずっと考えてたんだ。家族が戻る方法を。父さんも母さんも、俺も、みんなが諦めていったのに、こいつは最後まで諦めないで一人でずっと考えてたんだよ。花の絵描いたり、俺にカレー作ってくれって言ったり、結婚記念日に家族で集まれるように手紙書いたり。そうやってこいつなりに一生懸命考えてここまで来たんだ。 こいつ言ってたよ、美波家が大好きだって」
父さんと母さんは、ゆっくりと顔を見合わせると、二人で雫の手を握った。
「父さんたちがついてるから大丈夫だぞ」
「家族みんなでお祝いするんでしょ」
二人は、雫を励ますように何度も声を掛けた。涙を浮かべたその表情には、昔のような優しさが戻って見えた。
そんな二人を見て、雫は突然病室の外へと走って行った。
扉の横に佇む震える小さな背中。俺はそっと寄り添った。
「おまえにもできたじゃん。仲直り。父さんと母さん、昔みたいな表情に戻ってた。おまえのおかげだ。でも、まだ足りない」
振り返った雫の瞳は、涙でいっぱいだった。
「父さんと母さん、俺と雫。それが、おまえの大好きな美波家だろ。あとは、おまえだけだ」
そう言って、雫の頭をそっと撫でる。触れることなんかできないけど、雫の瞳からは涙が溢れた。
「……しぃね、お兄ちゃんが好き」
涙に震える声で雫は言う。そして「がんばれ」と励まし続ける両親の方を見る。
「…お父さんが…好き。…お母さんが好き」
瞳から溢れる涙を拭いながら、とぎれとぎれに、でもはっきりとその声は聞こえてくる。
「みんなが好き……美波家が…大好き。ずっと、ずっと大好きだよ!」
涙声だったけど、精一杯愛おしさを込めたその言葉は、父さんと母さんにもきっと伝わったと思う。
俺は雫の前に座って言った。
「だったら、さっさと帰って来い。三人で待ってるからさ!」
雫はもう一度涙を拭うと「うんっ!」と、笑顔で頷いた――。