最後のお願い
病院に着くと、何台もの救急車が停まっていた。院内では、医者も看護師も慌ただしく駆け回り、搬送されて来た患者の処置に追われている。
俺は受付で雫のいる場所を聞き、病室へと向かった。
病室に行く間に、事故にあった人の姿を何人も見た。みんな頭や腕に包帯を巻いて痛みに苦しんでいる。中には、息を引き取った人もいるようだ。その光景は、見れば見るほど事故の悲惨さを思い知らせる。次第に、俺は病室へ向かう足を速めていた。
病室の前に着くと、雫は点滴や呼吸器をつながれて看護師の処置を受けていた。頭には包帯が巻かれ、身体の所々に擦り傷や痣ができている。
扉に手を伸ばすと、その手は微かに震えていた。「…びびんなよ」と、自分に言い聞かせ、拳をグッと握り扉を開けた。
中に入ると、処置をしていた看護師が近づいて来た。
「鳴海雫さんのご家族の方ですか?」
「はい」
鳴海というのは母さんの姓だ。
「あの、妹の様態は…」
「先ほど処置が終わったところです。外傷はほとんどないのですが、頭部を打っているようで、意識の無い状態が続いています。状態はあまり良いとは言えません」
雫の状態が良くない。このまま意識の戻らないこともあるのだろうか。それどころか、もしかしたらあいつは――さっき見た光景が頭に浮かぶ――いや、考えるな。最悪の想像を頭を振って打ち消した。
一通り説明を終えた看護師は「それから」と言って棚から何かを取り出した。
「これ、雫さんの持ちものです」
看護師が持っていたのは、さっき雫が背負っていたのと同じ白いリュックだった。
俺にリュックを渡すと、看護師は静かに病室を出て行った。
受け取ったリュックは、留具の部分が壊れてあちこち汚れていた。物凄い衝撃を受けたのだろう。たしか俺の見た雫は、この中に花が入っていると言っていた。もしそれが本当なら、きっと無事ではないだろう。
そう思ってリュックを開けてみると、中に入っていたのは花ではなく、香澄が拾ったのと同じ、名前入りの色鉛筆だ。事故の衝撃でなのか蓋が開いて中身がバラバラになっている。きっとその一つが飛び出したのだろう。そしてその色鉛筆と一緒に、一冊のスケッチブックが入っていた。真新しいそのスケッチブックには、端の方に『美波雫』と書かれている。ページを捲ると、そこには綺麗なピンクの花が描かれていた。その花は、小さな花が集まってまるで傘のような形をしている。
「この花、どこかで…」
「バーベナって言うんだよ、そのお花」
突然聞こえたその声は、聞き慣れた声だった。驚いて顔を上げると、ベッドの横に雫が立っていた。それは、包帯も呼吸器も付けていない、さっき見た雫の姿であった。
「おまえ、どうして…」
ベッドの上には、まだ意識の戻らない雫がいる。
「うーん。しぃにもわからないんだよね。お家に行く途中でバスに乗ったんだけど、いきなり「ドン!」って大っきい音がして、それから少し夢を見てたの。それで、夢から醒めたらこうなってたんだよ。もしかして、しぃおばけになったのかも!」
驚く俺とは反対に、雫はまるで学校での出来事を話すように、身振り手振りを交えながらが平然と話す。
あいつにも今の自分が何なのかはわからないようだ。当然、俺にもわからない。でも、今目の前に立っているのは間違いなく雫だ。
「そうだ。これ、おまえが描いたのか?」
スケッチブックを見せながら聞くと、雫は頷いて応えた。
「ピンクのバーベナ、お父さんもお母さんも好きだったの。本当は本物あげたかったんだけど、バーベナって冬は咲かないんだって香澄ちゃんが言ってたんだ」
「香澄が?」
「そう。電話したら春にならないと入らないって」
どうやら、香澄が言っていた電話の相手は雫だったようだ。
「でも、どうしてもバーベナがよくて相談したの。そしたら、絵にしたらいいんじゃないかって言ってくれたんだ!」
「そうか。だから絵に」
「うん!絵だったら、冬でもお花咲かせられるでしょ!」
そう言って雫はいつものように笑う。
「おまえ、父さんと母さんを仲直りさせようとしたんだな。今日が、結婚記念日だから」
そう言うと、雫はまた頷いた。
この一年…いや、その前からずっと、こいつは一人で考えていたんだ。わかってなかったんじゃなくて、こいつは信じて諦めなかったんだ。
「しぃね、美波家が大好きなの。スポーツが得意で明るいお父さんがいて、絵が上手でやさしいお母さんがいて、頭が良くていつも一緒に遊んでくれるお兄ちゃんがいる。みんな仲良しで美波家はいつも笑顔でいっぱいだったよね。でも、いつのまにかみんな笑わなくなって、離れて行っちゃった。本当はね、お父さんとお兄ちゃんのお誕生日にも会いに行こうとしとしたんだよ。でも、お母さんにダメって言われたの。その時のお母さん、すごく悲しそうな顔してた。離婚してから、お母さんずっと元気なくて、前よりずっと悲しい顔してる。しぃ、そんなお母さん見てるのいやだよ。だって、美波家はいつも笑顔なんだよ。離れちゃダメなんだよ。お母さんだけじゃなくて、お父さんもお兄ちゃんもみんな一緒にいないと、きっと笑顔になんてなれない。だから決めたの。しぃがお父さんとお母さん仲直りさせて、美波家を元通りにするって!結婚記念日にみんなで集まったら、仲直りできるかもって思って!でも…」
雫は眠っている自分に目をやった。
「失敗しちゃった。しぃには、お父さんとお母さん仲直りさせてあげられなくなっちゃった。もう、ダメなんだって思ったら、すごく悲しくなった…でもね、その時思い出したの。前にお兄ちゃんが、カレー作ってお父さんとお母さん仲直りさせたこと」
「…四年前の、結婚記念日」
「そう。あの日の朝ね、お父さんとお母さん喧嘩してたの。しぃびっくりしてお部屋から出られなくて、そのまま二人ともお仕事行っちゃった。だから、帰って来るまでに仲直りの方法考えようって思って一生懸命考えたんだ。でも思いつかなくて、神様にお願いすることしかできなかったの。でもその日の夜、そのお願いが叶ったの。お兄ちゃんが作ったカレー食べたら、お父さんとお母さん仲直りしちゃった。あの時、お兄ちゃんがしぃのお願いを叶えてくれたんだって思った。だからね、今度もお兄ちゃんにお願いしようって思ったの。お兄ちゃんの仲良しカレー食べたら、あの時みたいに仲直りできるって。仲良しの美波家に戻れるって!」
――そうか、あの日こいつが言った仲良しカレーっていうのは、家族のことだったんだ。
「しぃ、夢の中でお願いしたんだよ。お兄ちゃんの所に連れて行ってって、何回も何回も。それで気付いたらお家の前にいて、お兄ちゃんがしぃを見つけてくれた」
「…見つけたのはたまたまだけどな」
「それでも、しぃは嬉しかったよ。やっぱりお兄ちゃんは、しぃのお兄ちゃんなんだって。離れてても、ちゃんと家族なんだってわかったから」
雫はそう言うと、何かを決意したように俺の方を振り返った。
「お兄ちゃん。しぃの最後のお願い聞いて」
「最後っておまえ、縁起でもないこと言うなよ」
からかっているんだと思った。でも、雫は俺の言葉には応えずに言葉を続けた。
「しぃがいなくなっても、お父さんとお母さんの結婚記念日やってあげて。カレー作って、それで、美波家を元に戻して」
雫は、真っ直ぐに俺を見ている。その瞳は、今日最初にあった時よりも一層強く光っていた。
――こいつは、自分がこんなになってるのに、それでも家族のことを考えるのか。それがこいつの最後の願い。叶えてやりたいし、俺だって叶えたい。でも…
「おまえはバカか!」
「えっ…!?」
雫は予想外の答えに目を丸くした。
「あれだけ美波家が好きだとか言っといて、何っにもわかってねーじゃねぇか!」
「…どういうこと?」
俺のことを見上げる雫の表情は戸惑っていた。
俺は少ししゃがんで雫と視線を合わせ、人差し指を親指に掛けて、雫の額に向かってピンッと弾いた。当たらないから痛くはないはずだが、雫は「イタッ」と小さく声を上げ、反射的に両手で額を押さえた。そして、なぜこんな事をするのかといった顔でこっちを見返す。
俺は、その疑問に答えた。
「雪だるま」
「え?雪だるま?」
「そう。さっき公園で作っただろ。あの時おまえ、俺に何個作れって言った?」
「四つだけど…あっ」
そう、四つ。あれは雪だるまの美波家だ。父さんと母さん、俺と雫――それが美波家だ。
「四人で一つなんだろ。美波家ってやつは」
「…うん」
「じゃあ、おまえがいなきゃ意味ないだろ」
「お兄ちゃん…でも、しぃはもう…」
――その時、後ろの扉が勢いよく開いた。