現実と幻
――全部、吐き出した。
呼吸も荒いし、心臓もまだ激しく鼓動を繰り返している。でも、ようやく少し冷静さを取り戻す事ができそうな気がした。
「……雫」
雫は俯いて何も言わない。何も、言えないのかもしれない。歯を食いしばって、必死に涙を堪えているみたいだ。こんな顔をさせたかったわけじゃない。それでも、兄貴として、俺はこいつに言わなければいけない。
「ごめん…でも、わかれよ。父さんと母さんは、離婚したんだ。だから、もう昔みたいには戻らないんだよ。おまえが頑張ってるのはわかってる。でも、どんなに頑張ってもどんなに信じてても何も変らない。自分が苦しいだけだ。だから、頼むからもう頑張らないでくれよ」
俺は、なるべく冷静に、ひとつひとつ言葉を選びながら話した。雫の姿が昔の自分に重なって見えた。
「嫌だよ。みんな、家族だもん。しぃの大好きな美波家だもん。ずっと、ずっと……」
もしかしたら、俺は間違っているかもしれない。でも、現実は現実だ。こいつもちゃんと受け入れなきゃいけない事なんだ。これ以上あいつ自身を傷つけないためにも、諦めさせてやらなきゃいけない。
雫は背を向けて、ただ立ち尽くしている。泣いているのかも、どんな表情をしているかもわからない。でも、傷ついた顔をしていることだけはわかる。それは、俺がさせた顔だ。妹がこんな状態なのに、顔を見る勇気もかけてやる言葉も出てこなかった。
「……悪い。頭冷やしてくる」
俺は、逃げるようにその場を離れた。外の自販機で飲み物を買っていると、指先が微かに震えていた。たぶん、寒さのせいじゃない。
頭の中で、昨日の父の言葉が繰り返される。
『雪斗。実は、今度会わせたい人がいるんだ。その、気分転換になるだろうし…ちょっと考えといてくれ』
こんな言葉で動揺して、夜中ずっと眠れなかった。
「…だっせぇ」
深く溜息をつく。
「あんなこと言っといて、諦められないのは俺も同じじゃねぇか…」
雨の勢いが弱まってきたので、雫のところに戻ることにした。
雫はまださっきの場所に立ち尽くしている。
「えーと、飲み物買ってきたけど飲むか?」
気まずい沈黙を打ち砕こうと話しかけてみたが、雫は首を横に振っただけだった。
視線の先では、さっき作った雪だるまが凸凹に溶け始めていた。雫は、あれを美波家みたいだと言った。でもそれも、もう少し時間が経てば溶けて無くなってしまうだろう。
それを思ってなのか、雫の表情は一層沈んで見えた。
こんな時、兄として何て言っていいのか言葉を探したが、その言葉はどこにも見つからなかった。それでも、妹のこんな顔は見ていたくなかった。とにかく、何か言おうと声を掛けようとしたその時――
「雪斗っ!!」
その声に振り返ると、緑のエプロンを着けた女の姿が見えた。
「香澄?」
走ってきた彼女は、傘も差さずずぶ濡れになっていた。
「お前どうしたんだよ?」
香澄はよほど急いで来たのか、呼吸が乱れて直ぐに話すことが出来ないようだ。
雪斗は着ていたコートを脱いで香澄の肩にかけた。
「とりあえず、そのままじゃ風邪ひくからこれ着とけ。あと、なんか拭くもん持ってくるからそこで待ってろ」
背を向けた瞬間、氷のような冷たさを腕に感じ、雪斗は踏み出す足を止めた。
振り向くと、香澄が震える手で雪斗の腕を掴んでいる。
「そんなことより……これっ!」
差し出された手の中には、ピンクの色鉛筆が握られていた。
「なんだよこれ?ただの色鉛筆じゃねぇか」
芯が折れて所々にキズがついている以外は、いたって普通の色鉛筆だ。
しかし香澄は、そうじゃないと言うように握った手を近づける。
「よく見てっ!!」
必死になる香澄に戸惑いつつも、言われた通りもう一度それを見てみる。するとそこには、金色の小さな文字で『みなみ しずく』と印字されていた。
「これ、雫のだ。でも、何でお前がこれ持ってんだよ?」
この色鉛筆は、何年か前の誕生日に雫がもらったものだ。
「……さっき、店の前で事故があったって言ったでしょ」
香澄は呼吸を整えながら静かに話し始めた。
「車が雪でスリップして、バスとかも巻き込まれて大事故になったの。危ないからって私はほとんど店の中にいたんだけど、お客さんに呼ばれて外に出たの。救急車が何台も来て、たくさん人が運ばれてた。その中に、雫ちゃんに似た子がいたの。違うって思ったけど、心配になって、すぐに雪斗に伝えなきゃって……。でも雪斗、雫ちゃんといるって言ってたから、やっぱり私の勘違いかなって思たんだけど……その後、お店の前掃除してたらこれ拾って、やっぱりあれは雫ちゃんだったんだって思って…だから私、早く知らせなきゃって…ごめん、もっと早く、私っ……」
香澄の目からは涙が溢れていた。
「わかったから、少し落ち着けよ。お前の勘違いだって。雫ならちゃんとここにいるだろ?」
そう言って、雪斗は後ろにいる雫を指す。でも――
「誰も、いないよ」
「え…?」
雫は確かに後ろにいる。俺にははっきり見えている。
でも、香澄の言葉に嘘は感じられなかった。ということは…
「見えてないのか?」
香澄は不安そうに頷く。
自分にしか見えない雫。しかも、香澄は事故現場で雫を見たという。わけのわからない現状に思考を巡らせ続ける。でも、答えが出るよりも先にポケットの中で着信音が鳴った。画面には父の名前が表示されている。
父から電話がかかってくるのは珍しい。しかもこのタイミングだ。心臓がドクドクと波打つ。
「…もしもし」
電話に出た声には自然と緊張感が滲んだ。握った手に汗が滲む。
『雪斗……さっき母さんから連絡があった』
ゆっくりと話し出した父の声には、今までにない緊張感がこもっていた。
『今日、雫が一人でこっちに向かったらしい。その途中で雫が……』
「雫が、どうしたんだ」
聞きたくはない。でも、言葉が勝手に先を促していた。
でも、次の言葉はなかなか発せられない。きっと先を話すことを躊躇しているのだろう。電話越しにでもその葛藤が伝わってくる。ほんの数秒のはずなのに、この時間が耐え難く長く感じた。
数秒の間を経て、父はようやく重い口を開いた。
『事故に…あったんだ』
「事後……」
発せられたその言葉は、一番聞きたくなかった応えであった。
予想はしていた。でも、受け入れる準備なんかできてない。一瞬、声の出し方をを忘れてしまったように言葉が何も出てこなくなった。
少しして父はまた話し出した。
『三丁目の交差点で、乗っていたバスが乗用車の事故に巻き込まれたらしい』
「三丁目……それってあの」
三丁目は花屋がある辺りだ。つまり、香澄の話は勘違いではなく、その事故に雫は巻き込まれたということになる。
ふと、公園でのことを思い出した。雫が走っていった公園の地面。そこには、降り積もったままの純白が広がっていた。まだ誰も踏み入れていないように、あいつが通ったはずの雪の上には足跡がひとつもなかったのだ。
――どうして、もっと早く気づけなかった。
振り返ると、雫の姿は消えていた。
ギリッと歯を食いしばる。
すると、父はまた言葉を続けた。
『母さんの鞄に手紙が入っていたそうだ』
「手紙……」
そういえば、手紙を書いてきたと雫が言っていた。
『家族で記念日のパーティーをするから来てほしいって書いてあったらしい』
記念日。
――そういうことか。
『父さんと母さんは今病院に向かってる。お前もすぐに向かってくれ』
「わかった」
電話を切ると、香澄が心配そうに見つめていた。
「雪斗……」
香澄の声は涙のせいか、寒さのせいか震えている。
「俺、雫の所に行ってくる。教えてくれてありがとな」
香澄は無言で頷いた。
そして、俺は病院へ向かって走りだした。寒さも感じる余裕がないくらい全力で。
やっとわかった。あいつが今日を選んだのも、カレーのことも、俺じゃなきゃダメな訳も。