ポケットの中の後悔
俺が中学に上がったころから、父さんも母さんも仕事が忙しくなって、家にいることが少なくなった。
二人の仲が悪くなってきたのは、その年の冬ごろ。
俺たちに気づかれないようにはしてたみたいだけど、口数が減ったり時々辛そうな表情をしてたりすることがあって、二人の雰囲気が悪くなっていたことにはすぐに気づいた。
今までにも喧嘩をしてたことはあるけど、次の日には普段通りに戻っていた。だからこの時も、すぐ元に戻ると思っていたんだ。
でも、それから一週間たっても、一ヶ月たっても二人の仲が戻ることはなかった。それどころか、少しずつ距離が離れているようにも感じた。何があったかはわからないけど、今回はいつもと違う。それだけはわかった。
それに気付いてから、なんとかしたくて自分なりにいろいろ考えた。みんなで話せるように話題を作ったり、機嫌が良くなるように、テストでいい点とって、賞みたいなものもたくさん取ったりした。でも、それで見えたものは、無理して作った笑顔だけだった。
言い争ったり、暴言を吐いたりはしない。と言うより、言葉を交わすことすら拒絶しているように思えた。
それから、ゆっくりと夫婦の――家族の距離は離れて行った。
何も変わらないまま時間だけが過ぎて、そのうち何をしたら良いのかわからなくなっていった。いくら考えても何も浮かばない。気を使うこともあって、俺は段々疲れていった。そんな日々が続き、何時しか中三の冬になった。
そして、入試の合格発表日。
「……あった」
難関校に合格し、久しぶりに笑みがこぼれた。両親の出身校。その学校に合格して、夢に一歩近づいた気がしたのだ。友達と軽い打ち上げをして、日が沈みかけた頃帰路についた。ポケットに入れた合格通知を早く見せたくて、足取りは自然と軽くなっていった。きっと喜んでもらえる、そう思った。でも――
「…雫?」
雫は、玄関先の小さな灯りに照らされてうずくまっていた。
「お兄ちゃん……」
顔を上げると、雫は顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。目は真っ赤になって、周りが少し腫れている。
「うわ、どーしたんだよ!?鍵忘れたのか?もうみんな帰ってきてんだろ?」
「ぢがっ…うの…しぃいやら…だっで…びんなぁ」
「あー泣いてちゃわかんねぇって。とりあえず中入れ」
このままじゃ話を聞いてやることもできない。俺は泣きじゃくる雫を支え起こし、扉に手を伸ばした。すると、中の明かりがつき扉が開いた。
「雪斗か」
出てきたのは父さんだった。心なしか表情や声に冷たさを感じた。
「父さん。こいつどうしたんだよ?こんな寒いのに外で…」
「とりあえず入れ。雫ももう入りなさい」
そう言うと、父さんは奥へと入っていった。
雫を連れてリビングに行くと、父さんはソファに座って待っていた。隣には母さんの姿もある。とりあえず二人の向かいに座ってみるが、誰も口を開こうとしない。沈黙が苦しい。空気が鉛のように重く感じた。
「…雪斗。さっき雫には少し話したんだけどな」
沈黙を破ったのは父さんだった。
「父さんと母さん、離婚することにしたんだ」
「え……」
突然の事に、それ以上の言葉が出てこない。確かに二人の雰囲気は良くならなかったし、こうなる事も時間の問題だったのかもしれない。けれど、まだ何とかなると信じてしまっていた。
隣で、雫が涙を拭う。雫はこの話を聞いて、どうしていいかわからず一人で泣いていたのか。まだ9才の小学生には重すぎる話だ。
「もう…変わらないのか」
「ああ。母さんと二人で話し合って決めたことだ」
二人で…。はなから俺たちは数に入ってないってことか。俺も雫も、何とかしようとずっと考えてきたのに、何も伝わってなかった。全部無駄だった。そう思ったら今までしてきた事が急にバカらしくなった。
「…勝手にしろよ」
たった一言だけ出た言葉は、怒りでも呆れでもなく、悔しさだったと思う。言いたいことはたくさんあった。でも、今さら俺が何を言っても何も変わらない。今までやってきた事は全部無駄だった。そう思ったら無性に悔しくなったのだ。
「行くぞ雫」
雫を連れて部屋を出る。俺の後ろで、雫はただぽろぽろと泣いていた。
「雪斗、雫。本当にごめんなさい……」
俺たちのいなくなった部屋から、母さんの声が微かに聞えた。さっき何も言わなかったのは、きっと言葉にしたら泣いてしまうから。今は、その堪えていたものが溢れ出ているようだ。でも、欲しいのはそんな言葉なんかじゃなかった。
雫は俺の部屋まで着いてきたが、泣き疲れてすぐに眠ってしまった。さっきよりも少し目の腫れが酷くなって赤くなっている。
「疲れたな…。でも、これで良かったんじゃねーか?もう頑張らなくていいし、何も考えなくていい。気ぃ使わなくていいし、辛い顔も作り笑顔ももう見なくていい。もう俺たち、楽になれるぞ」
眠っている雫には聞こえていない。でも、この強がりは口に出して言いたかったんだ。
ポケットの中の紙は、握りしめたせいでくしゃくしゃになった。
その後、離婚が成立して離れて生活しても、気持ちが楽になることはない。父さんの辛そうな顔や、母さんの作り笑顔、雫の泣き顔が貼り付いて離れない。
残ったのは、何も変えられなかった悔いだけだった――