5 闇の刃
森の夜は静かに更けてゆく。
慣れない匂いのするベッドの中で、ウィロはそっと寝返りをうった。
柔らかいベッドは、よく晴れた昼間の日だまりのような、乾いた風と草いきれがまざった匂いがした。嫌な匂いではないけれど、馴染みのない匂い。ウィロの暮らしている村の家の匂いとは全然違う。なんだか落ち着かない。
時折吹き抜ける風が木々を揺らすが、枝葉のざわめきは厚い石壁に阻まれてほとんど聞こえない。隣で眠るチコリの小さな小さな寝息が聞こえるだけ。壁の向こう、魔法使いたちももう眠ってしまっているのだろうか。静まり返った家の中、自分の寝返りの音と息遣いが、妙に大きく聞こえる気がする。
雪は溶けた季節でも、森の夜はまだ寒い。ひんやりとした空気が窓辺から家の中まで忍び込んできて、首筋をくすぐる。ウィロはベッドにごそごそと潜り込み、もうひとつ寝返りをうった。
と、隣で何かがごそりと動く気配がしたかと思うと、パッと枕元の灯りがついた。
「ウィロ、ねむれないの?」
「チィ……」
小さな灯りを映して煌めく星の瞳が、心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、起こした?」
「ううん、チィもおきてた。……だれかといっしょにねるの、はじめてだから、なんだかへんなかんじ」
ふふふっと小さく笑うチコリに、ウィロは驚いて小声で尋ねた。
「初めてなの?」
「あかちゃんのころは、モナといっしょにねてたかもしれないけど、もうおぼえてないもん。チィ、もうおおきいから、じぶんのおへやでひとりでねられるよ」
「大きいって……チィ、いくつだよ」
「んとね、このまえ、むっつになったとこ」
ウィロは何か言いかけて、口を開けたまま止まってしまった。その顔には戸惑いの色が浮かんでいる。小首をかしげるチコリに、ウィロはなぜか少し怒ったように言った。
「六つじゃ、大きくなんかないよ」
「えー、そうかなあ」
「そうだよ」
「じゃあ、ウィロはいくつなの?」
「十一」
「わ、すごい、おにいちゃんだ」
瞳をきらきらさせるチコリに、ウィロはむすっとして黙り込んだ。
「ウィロ? どうしたの?」
「お兄ちゃんって言われるの、あんまり、好きじゃない」
きょとんとしてウィロを見つめるチコリに、ウィロはぽつりぽつりと話し始めた。
「おれ、ほんとにお兄ちゃんなんだ。妹がいる。ユーっていって、チィより小さくて、まだ三つ。おれはもう十一だし、ユーの兄ちゃんだけど、おれ……チィみたいにひとりで寝られないんだ。チィが一人で寝られるのは、大きいからじゃないよ。強いからだよ。おれも、強くなりたい。強くなれば、お父さんとお母さんにも褒められるし、ちゃんとユーを可愛がって、ユーの良いお兄ちゃんになれる。良い子になれるのに」
「……よく、わかんない。ウィロはいいこじゃないの?」
「良い子じゃないよ。ユーもお父さんもお母さんも嫌いだもん」
「なんできらいなの?」
「お父さんもお母さんも、嘘つきだ。ユーもウィロも同じように大事だよって言うけど、絶対ユーの方が好きだもん。……きっと、おれだけ仲間外れだから。ユーはお父さんとお母さんと同じで、目も髪の毛も茶色なんだ。おばあちゃんもおじさんも同じ。青なんか持ってるの、おれだけ。だからみんな嫌い。嫌い、なのに……」
不意に、その空色の瞳からぽろりと涙がこぼれた。
「嫌いなのに、会えないと嫌だなんて、知らなかった」
少年は鼻をすすり上げ、袖で強く目元を拭った。けれど、いくら拭いても、その頬に枕元の灯りが反射して光るのは消えない。
「魔法使いになりたいって、それならみんなと会えなくなってもいいって、そう思ってたんだけど、おかしいね。おれ、弱いな。こんなのじゃ、魔法使いになんか、なれないよな」
「そんなことないよ」
「どうして。だって、チィは寂しくないんだろ」
「……わかんない」
チコリは戸惑うように俯いた。
「チィはさみしくないよ。ここにはモナも、ダリアも、みんなもいる。でも、おとうさんも、おかあさんも、いもうとも、さいしょからいないから、いるのってどんなかんじだか、わかんない。わかんないから、さみしくないんだとおもう」
「……いないの? 最初から?」
驚きのあまり涙が止まった。
「うん。さいしょから」
「赤い魔法使いは、お母さんじゃないの?」
「ちがうよ。あかちゃんのころから、ずっといっしょにいるけど、おかあさんじゃない。モナも、チィのおかあさんのことは、しらないって」
「そう、なんだ……」
今度は、ウィロが戸惑う番だった。母を、家族を知らないと話すチコリの口調は淡々としていて、寂しさを我慢しての強がりではないことがウィロにも分かった。チコリの言葉はきっと全部が本心で、いないのがチコリにとっての「当たり前」なのだ。その「当たり前」は、ウィロには想像もつかない感覚だった。
「チィも、ウソつきはいやだよ。モナとけんかして、きらいっていったこともある。でも、あえなくなったら、もっといやだよ。チィ、バイバイってあんまりしたことないから、わかんないけど……いっしょにいるひととバイバイするのって、さみしいんじゃない?」
「……うん」
ウィロは一瞬の間のあと、強く頷いた。
「俺も、やっぱり会えなくなるの、嫌だ。さっきは魔法使いになりたいって言っちゃったけど……やっぱり帰る、なんて言ったら、魔法使い、怒るかな」
「どうかなあ。ウソつきっておこられて、まほうをかけられちゃうかも……」
「えっ」
神妙な顔で言うチコリに、ウィロの顔がさあっと青ざめる。それを見て、チコリは我慢できずに吹き出した。
「あっ、チィ! 嘘ついたな! チィも嘘は嫌だって言ったじゃないか!」
「あはは、ごめん。ウソじゃないよ、ジョーダンだよぅ。おねがい、おこらないで」
「怒った」
「えー! ウィロ、ごめん! ほんとうにごめん!」
「……なんてね。怒ってないよ」
「もー、びっくりした。あ、ウィロもウソついた!」
「へへっ。じゃあ、これであいこだ」
笑い合う二人の声が静かな家の中に響く。風が鳴る音に我に返ったウィロが慌てて口を押さえ、チコリも気付いて自分の口を塞ぐ。お互いに自分の口を両手で覆ったまま顔を見合せ、それがなんだかおかしくて、また揃って笑い出した。
森の夜は静寂に満たされ更けてゆく。
静寂のすきまに取り残されたような小さな灯りの中、二人の笑い声とお喋りはしばらく続いていた。
やがて、はしゃぎ疲れた子供たちが眠りに落ちる頃。家中の灯りは残らず消えて、天高く昇った月の光だけが、深い森と小さな家を静かに照らしていた。




