4 黄金の灯
この家は、地面から少し階段を上がったところが玄関や居間のある一階で、地下室と言っても完全な地下ではない。天井までのうち三分の一ほどが地上に出ているので、天窓を開ければ空気も通るし光も射す。そんな半地下に、魔法使いの私室と工房があった。
工房はモナルダが魔法に関わる様々な作業をする部屋。ダリアの知らない材料も道具もたくさんあって、勝手に触ることはおろか、入ることさえ躊躇われる場所だった。彼女がこの家へ来てそろそろ暦が半周するが、その間、工房どころかその手前の地下室への階段にすらほとんど足を踏み入れたことがない。
階段を降りきったところで一瞬だけ迷ってから、ダリアはそっと工房の扉を叩いた。
「誰だい」
「ダリアです。モナさん、何かあったんですか?」
「ああ、待っていたよ。入っておくれ」
扉を開けると、まず部屋の中央に置かれた作業机が目に入った。何かの作業で行き詰まりでもして手が欲しいのかと思っていたが、机の上は物が積まれているだけで、作業中の様子はない。
工房は、居間と変わらない広さがある。長身のモナルダが立っても充分な高さはあるものの、地上階よりは低めの天井。その天井いっぱいまでものが詰まった棚に、床に置きっぱなしの道具類。少し雑然とした部屋だ。
そんな部屋の中ほどで、モナルダは杖を手にして何かをじっと見つめていた。構えてはいない。けれど、その杖を持つ手と背筋が強ばっているのが分かった。
その視線の先は、部屋の奥の一角。
「……ソホさん?」
壁沿いにうずくまる、大きな犬がいた。
「そういえば、さっきから見かけないなと……ソホさん、どうしたんですか?」
「……ああ、お前か」
ダリアの声に顔を上げたものの、ソホの動きは緩慢で見るからに気だるげだった。声まで、いつもより澱んでいるように聞こえる。
「どこか具合でも悪いんですか」
「ああいや、大したことはない。ただ、水が……な」
「水?」
「前にも話したと思うが、俺らの作り物の《うつわ》は、均衡を取るのが難しいんだ。お前ら生き物の体に寄せて、色々なものを絶妙に混ぜ合わせて、もともと自然にあるものを人の手で半ば無理矢理に再現して作るわけだからな。そうして上手いこと均衡を取って成り立っていたんだが……今、俺の《うつわ》は、その均衡が崩れかけている。水が多すぎるんだ」
「水が、多い……どうしてですか?」
精霊の力を帯びた土や水は、まわりの環境の影響を受けにくくなる。雨が降った時だって、水浴びをした時だって、川に飛び込んだ時でさえも、今のようにソホの体がおかしくなるなんてことはなかった。なのに、今は何が起きているのだろう。
「雨も降っていないのに、そんなことが……よくあること、なんですか?」
ダリアの問いかけに、モナルダは首を横に振った。
「均衡が多少ふらつくことはあっても、崩れることはまずないよ。私も、ここまでの状態のソホを見たのは初めてだ」
「そんな……モナさんも初めてだなんて、それじゃ理由も治し方も分からないんですか?」
ダリアの言葉に、ソホが低く唸るように答えた。
「いや、原因なら分かっている。おいモナルダ、お前にも分かっているだろう。今日来たガキ、何故この家に入れたんだ」
「え?」
思わぬ答えに、ダリアは目を丸くした。
「ウィロくんが……あの子が、何を?」
「いいや、あの子は何もしていない。ただ、言うなれば、あの子の存在自体がまずかったのさ。あの子の目は本物だ、「水」の力を持っている。あの子が来たことで、この辺りの水の精霊たちが騒いで、ソホまでそのとばっちりを食らっちまったんだよ。精霊の力を帯びたものは、まわりの変化には強くなるけれど、同じ質の力……魔力には弱いからね」
モナルダも珍しく眉をしかめて、難しい顔をしている。
「体の均衡が崩れる、って……やっぱり、大変なことなんですよね」
「大変といえば大変だが……まあ、なんだ、そう深刻な顔をするな、二人とも」
モナルダとダリアの顔を交互に見上げて、ソホはくっくっと喉を鳴らして笑った。
「体の調子と言っても、お前ら命あるものが思うようなつらさだとか病だとかとは違う。痛みは無い。そうだな、強い不快感といったところか。体が動かしにくい、頭と体と足とが上手く繋がっていない、下手に無理矢理動かすとバラけてしまいそうになる……そんな感じだ」
「それって、大変なことじゃないですか! バラバラになるなんて……!」
「だが、それで俺という存在が消えるわけじゃあない。……やっぱり、この感覚は説明するのが難しいな。俺らのような、もともと魂だけの所謂「精霊」にとっては《うつわ》は服や家と変わらない。壊れたら直せばいい。そういうものだ」
ソホはさらりと言う。だが、モナルダとダリアの表情が強張るのを見て、やれやれと頭を振って付け加えた。
「……まあ、この《うつわ》にも愛着はある。作り直すのもそれなりに骨が折れるしな。だから、壊さないように大人しくしているさ」
そう言ったソホは、ふとモナルダに目配せをした。ソホと目があったモナルダは、はっとしたように表情を解き、軽く頭を振って、笑いながら同じく冗談のような口調で答えた。
「頼むからそうしておくれ。その体を直そうにも、私じゃ上手く扱う自信がないからね」
「分かっている。何かあったとしても、お前には頼まない。余計に壊されちゃ堪らないからな」
「ひどい言いようだね。確かに上手くはないけど、壊すほど下手じゃないよ」
「相性最悪のくせに、よく言う。お前の火加減じゃ、水が減らせるどころか俺は干上がってしまうんだぞ、勘弁してくれ」
少しぎこちないふたりの「冗談」が、自分のためのものだとダリアにも分かった。同時に、ソホの体のことで、まるで自分のことのように不安で怖くて泣きそうになっている自分にも気付いた。
きっと、そんなダリアの様子がソホとモナルダにも分かっているのだろう。いや、初めから、ダリアの反応は予想できていただろう。怖がらせないようにと隠すことも考えたかもしれない。それでも、こうして話してくれた。それなら、自分も応えなくては。怖がっているだけではいけない。
「あの、モナさんはどうして私を呼んで、こうして話してくれたんですか? 私でも、何かお手伝いできることがあるんでしょうか」
ダリアの言葉に、モナルダは微笑んだ。
「もちろん、あるよ。それで来てもらったのさ」
モナルダの手招きに、扉の側に立ったままだったダリアはおずおずと部屋の中へと足を踏み入れる。ソホが、ゆっくりと立ち上がった。
「ソホさん! 動いちゃ……」
「この程度なら大丈夫だ」
ふさふさした尻尾を揺らしながら、ソホはダリアに歩みより、その身をすり寄せた。ダリアは身を屈めて、恐る恐るその茶色い毛並みに覆われた背に触れる。
「……少し、冷たい……」
これも、水のせいなのだろうか。
「お前の手は温かいな。お前は、土と相性が良い。土と命と共に生きてきた癒しの手だ。そうして触れていてくれると、少し安定する」
「これだけでいいんですか?」
「ああ、充分だ」
ダリアはソホの背を撫で、膝をついて、その体をそっと抱き締めた。ふわふわの毛皮に顔を埋める。ソホもダリアに寄りかかるように、その腕に身を任せていた。




