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幼女転生  作者: デブリ
五章・竜人編
96/203

 間話 『四年越しの哀情 前』


 ■ Other View ■

 


 少女が絵本を読み聞かせてくれていた。

 彼女とサラ、それにリゼットの三人でベッドに入り、耳に心地良い声に意識を傾ける。だが、次第にリゼットはぼんやりとしてきた。


『リーゼ、もう眠たい?』

『……うぅん、まだねむたくなぃ。もっとほん……よんでぇ……』


 とはいえ、リゼットはもうすっかり眠気に支配されていた。

 だから重たい目蓋を必死に支えて、絵本の続きをねだり、大好きな彼女の顔を見る。

 

『あれ……?』


 しかし、彼女の顔は妙にぼやけていて、よく見えなかった。

 彼女の向こう側にいるサラの顔は鮮明に確認できるのに、すぐ隣にいる彼女の顔はすりガラス越しのように曖昧模糊としている。

 ただ、右側だけ半ばから垂れている長い耳だけは、なぜかよく見えていた。


『じゃあ、もう少しだけ読んであげるね』


 隣の彼女はリゼットの疑問には頓着せず、快く読み聞かせを再開する。

 リゼットはもっと目をこらして彼女の顔を見ようとするが、幼い意識はもう限界を迎えていた。

 五秒もしないうちに眠気に負けて、視界が真っ暗闇に閉ざされる。


『おやすみ、リーゼ』

『んゃしゅみ……』


 なんとかそう応えて、リゼットは気怠くも心地良い微睡みに身を委ねた。

 無意識のうちに手足を隣の少女の身体に絡めて抱きつき、温もりを感じながら深く深く沈んでいく。


 意識が落ちる寸前、リゼットはふと違和感を覚えた。

 今まさに鼻腔をくすぐる甘い匂いが、大好きな彼女のものではないのだ。

 この匂いも嗅ぎ慣れていて安心できるものだが、彼女の匂いではない。

 

 そんな確信を抱きつつも、リゼットは眠りに就いた。




 ■   ■   ■




「…………んぁ」


 寝ぼけた声を漏らしながら、リゼットは目覚めた。

 しかし、その日はいつものように飛び起きたりはしなかった。

 

「あれ……? 寝たのに、なんで起きて……?」


 夢と現実がごっちゃになって混乱する。

 垂れたよだれを拭わぬまま、リゼットは少し考えてみようとする。が、夢の残滓はどんどん薄れていって、すぐにどうでも良くなってしまった。


「朝だっ、朝ご飯だ!」


 手足を絡めて抱き枕にしていた少女から身体を離し、ガバッと飛び起きた。

 すると、ベッド脇で眠っていたアシュリンが「ピュェ……」と微睡んだ声を漏らし、のっそりと顔を上げる。

 リゼットはそれを傍目に、隣で眠る少女を見る。

 いつもはリゼットより早く目覚めているのに、珍しく今日はまだ眠っていた。


「ん、ローズ?」


 それに見慣れた真っ赤な髪がどこにもなかった。

 いや、抜け毛が一本だけ枕元に落ちていたが、いつも『おはようございます』と挨拶してくれる本人が見当たらない。

 その代わりとでもいうように、一通の封筒が見られる。

 

「メルメルっ、起きてメル!」

「ん……リーゼ? おはよう……」


 メレディスはのんびりとした口調で右隣の女児に言い、ゆるりと左隣に目を向けた。しかし、いつものように蒼い瞳と視線がぶつかることはない。その代わりとでもいうように、なぜか枕元に手紙用の封筒が素っ気なく転がっている。

 そこでようやく、胸元をまさぐる毎朝の感触がないことにメレディスは気が付く。


「あれ……ローズは?」

「わかんないけど、先に起きたんだと思う!」

「この封筒は、なに?」

「わかんないっ、でもきっとローズのだ! あたしたちも早く起きよーっ!」


 リゼットはいつも通り朝から元気一杯に声を上げ、ベッドから降り立つ。

 メレディスも立ち上がって、「んーっ」と大きく伸びをする。

 封筒の存在が気にはなったが、とりあえず二人はアシュリンと一緒に部屋を出る。二人とも、ローズはサラの部屋で彼女を起こしているのだろうと思い、隣室の扉を開けるが……。


「サラ姉の部屋にもいない」

「厨房かな? 朝食の準備を手伝ってるとか。それか夜中に起き出して、オルガさんとでも一緒に寝てるのかも」

「とにかくサラ姉を起こそー! サラ姉起きて起きて起きてーっ!」


 リゼットは朝から騒がしく姉を揺すり起こす。だがサラは目を閉じたまま眉をひそめて「ぅるさぃ……」と呟き、身体を丸める。

 以前までなら未だしも、最近は静かに起こさないと機嫌を損ねるということをリゼットは完全に忘れている。

 声を掛けまくって揺すりまくっていると、サラは可愛らしいしかめ面のまま、腕を引っ張られるがままに上体を起こした。


「もぅ……なにローズ、今日はぅるさぃわょ……」

「サラ姉、ローズじゃないよリーゼだよっ」

「もっと……ゆっくり起こしてって、言ってるのに……」


 寝ぼけ眼のまま、サラは間近に迫ったリゼットの顔を、焦点の定まらない瞳に映す。


「おはよう、サラ。そろそろ起き――」

「ぅむゅ!?」


 メレディスの挨拶をリゼットの珍妙な声が遮った。

 獣人二人は驚きに目を見張って、しかし翼人の方は相も変わらず微睡みの抜けない瞳のままだ。

 サラはリゼットの唇からのっそりと離れると、一人でベッドを降り、ふらふらとした足取りのまま部屋を出て行く。


「…………え?」

「サラ姉にちゅーされたっ!」


 別段、じゃれて額や頬に口付けすることくらいはリゼットも経験がある。

 クレアやセイディからされたりしたりしていたが、記憶している限りでは、唇と唇を合わせたことはなかった。

 呆然とするメレディスと興奮するリゼットは真逆の反応を見せながらも、二人揃ってサラの後を追って行った。




 ■   ■   ■




「サラ姉にちゅーされたー!」


 ここ最近の習慣通り、アルセリアの部屋へ向かう途中。

 アシュリンの背中に乗ったリゼットは興奮さめやらぬ様子で声を上げる。


「寝ぼけてただけよ、もうそれ以上言わないで」

「ちゅーしたーっ、サラ姉がちゅーしてきたー!」

「だから寝ぼけてただけなのっ、うるさいわよリーゼっ!」


 サラは褐色の頬を赤らめて、リゼットに掴み掛かろうとする。

 アシュリンが廊下を走って逃げ、それをサラが追いかけていく姿をメレディスは後ろから見守りながら、そこはかとなく違和感を覚えていた。


 毎朝この時間には、一階の厨房からクレアとセイディが歓談している声が聞こえてくるはずなのに、メレディスの鋭敏な聴覚はそれを捉えていない。

 厨房から物音は聞こえてくるので、朝食の準備はしているのだろうが、話し声は聞こえてこない。それになんだか、館に漂う匂いの密度が下がっていた。

 メレディスの嗅覚は並の獣人程度だし、この館にはみんなの匂いが染みついているので、確信はないが……。

 

「待ちなさいアシュリン!」

「走れーアシュリーンっ、アリアの部屋まで走――わぁ!?」


 サラが〈霊引ルゥ・ラトア〉でも使ったのか、アシュリンの背中からリゼットが転がり落ちる。

 そうして騒がしくしながらも、アルセリアの部屋の前に到着する。

 

「リーゼ、アリアの部屋では静かにするのよ」

「わかってるーっ」


 二人とも少しは落ち着いた様子になって、扉を開けた。

 部屋の中にはいつも通りマリリンがベッド脇の椅子に腰を預け、アルセリアは眠っている。

 だが今日はクレアもマリリンの隣に座っていた。


「おばあちゃん、クレア、おはよう。アリアは…………何かあったの?」


 サラは振り向いたマリリンとクレアの顔を見て、ややもしないうちに何事かがあったのだと悟った。二人とも表情に影が差していて、特にクレアは目元に力がなく、いつになく悄然としている。

 隣のリゼットはなんだかんだで口付けの興奮を引き摺っているのか、声こそ抑えているが元気に「おはよー!」と挨拶していた。

 

「三人とも、おはよう。リゼットは今日も元気そうじゃな」

「うん、元気ー! アリアは元気そう?」

「まだ寝ておるが、様子は昨日と変わらぬな」


 そう応じるマリリンの姿は一見すると普段通りだ。穏やかな口調も、リゼットに向ける微笑みも、昨日までと大差はないように見える。

 だが、サラとメレディスはリゼットほど鈍くはなかった。


「あの、マリリン様、クレアさん、ローズはどこですか?」


 メレディスの問いに、クレアが悲しげに目を伏せる。

 それを見て、サラは昨夜の出来事を思い出した。

 珍しく意固地になって主張を変えず、最後には拗ねて一人でさっさと寝てしまったローズ。


「まさかローズ、一人でカーウィ諸島に行ったんじゃないわよね……?」

「ん? どーゆーことサラ姉?」

「おばあちゃんっ、クレアッ、ローズはどこ!?」

 

 リゼットを無視して二人に問い詰めると、マリリンがゆっくりと立ち上がった。

 

「とりあえず、食堂に行こうかの」

「おばあちゃんっ!」

「サラ、きちんと話すが、まずは食堂へ移動するのじゃ。アリアにはあまり聞かれたくない話なのでな」


 そこでサラとメレディスは半ば確信してしまったが、マリリンの言いたいことは理解できたので、ひとまずは言うとおりにした。

 五人と一頭でぞろぞろと食堂へ向かい、それぞれが着席したところで、マリリンは口を開いた。


「ローズは今朝早くに、オルガと一緒にカーウィ諸島へ向かうため、出掛けていった。心配じゃろうが、聖天騎士のオルガがついておるし、ユーハも同行し――」

「なんで止めなかったの、おばあちゃん! わたしも一緒に行きたかったのにっ、そもそもおばあちゃん反対してたんじゃないの!?」


 メレディスもサラとほとんど同じ気持ちだった。

 マリリンは瞑目して深く長く吐息すると、言い辛そうに答えた。


「反対じゃったが……オルガが同行するというのでな」

「だからって、そんなのわたし何も聞いてなかった! クレアはローズとオルガが行くって知ってたの!?」

「……いえ」


 クレアの声には力がなかった。

 普段は優しく微笑んでくれる彼女が、いつにも増して暗澹としている。

 その様子を前にして、感情が高ぶっていたサラは少しだけ落ち着きを取り戻した。


「本来ならば、ローズは一人で行こうとしておったのじゃ」


 そう言って、マリリンは早朝の出来事を説明してくれた。

 マリリンとクレア、それにセイディは万が一に備えて階段や地下で待機していたこと。そこにオルガが現れてローズに同行する旨を伝えてきたこと。そしてローズはクレアとセイディの制止も聞かず、行ってしまったこと。


「どうしてすぐに追いかけなかったの!?」

「マリリン様が追いかけるなと言って、止めてきたのよ」


 未だ暗然とした悲哀を見せながらも、クレアの口ぶりはどこか責めるようなもので、納得していない様子が伝わってくる。

 それに対し、マリリンは言い訳するように嘆息した。


「オルガがおれば、何があっても大丈夫じゃ。アリアのことを思えば、このまま手をこまねいておるわけにもいかんかったしの」

「私たちの何倍も、アルセリアさんと付き合いの長いマリリン様の心情は察します。それでも、ローズを行かせたのはやはり間違っています」

「ローズとユーハだけならば未だしも、オルガが一緒なのじゃ。危険は危険じゃろうが、まず間違いなく無事に帰ってくる。アリアの現状を考えれば、行かせる価値は十二分にある」


 サラにはマリリンとクレア、どちらの主張にも共感できた。

 しかし、サラが納得いっていないことは、ローズが一人で勝手に行ってしまったことだ。

 

「今から追いかければ、まだ間に合うわよね? オルガがいるならわたしも一緒に行ったって――」

「やめてサラ、あなたまでそんなこと言わないで」


 悲しそうに、それでいて叱りつけるような眼差しは未だかつて向けられたことのない類いのもので、サラは気勢を削がれて困惑してしまう。


「絶対に追いかけちゃダメよ。サラまで危ないことをしようとしないで」

「で、でも、それじゃあローズは? ローズだって危ないじゃない」

「……そうね、危ないわ。カーウィ諸島はとても危ないところなのよ」


 テーブルに肘を突いて手を組み、そこに額を預けて俯くクレア。

 いつもより艶のない黒髪が横顔を隠し、表情は窺え知れない。


 ローズはクレアとセイディが説得しても、力尽くで止めようとしても、振り切って行ってしまったという。それは二、三時間ほど前のことらしいので、翼人のセイディやサラなら今から飛んで追いかければ、あるいは追いつけるだろう。

 だが、セイディはいま厨房で朝食を作っている。

 

「もうあの子は口で言っても聞かないから、力尽くでしか止めるしか方法はないわ。でも、私やセイディが追いかけて追いついたところで、ローズの魔法力には敵わない。力尽くでなら、マリリン様しかローズは止められないでしょう。それならもう、私たちが追いかけたところで無駄なのよ……」

「…………」


 サラとメレディスは思わず顔を見合わせた。

 二人もローズの性格と魔法力は熟知しているので、クレアの言葉に反論はできなかった。

 普段はそうでもないのに、たまに何が何でも譲らないところがローズにはある。

 仮にサラとセイディの二人がかりで強引に連れ戻そうとしても、上級魔法すら無詠唱で同時行使するローズには敵わないだろう。

 そもそも魔法力という地力からして違うのだ。


「じゃあ……わたしたちは待ってろって言うの?」

「おそらく半年か、早ければ一期もせぬうちに帰ってくるはずじゃ」

「そんなに待ってられないわ! オルガが一緒に行くなら、やっぱりわたしたちもみんなで行くべきよっ。アシュリンだっているんだから背中に乗れば今からでも――」

「サラ、やめなさい……お願いだからやめて。もうそれ以上、言わないで……」


 サラがこれほど弱々しいクレアを見るのは、チェルシーが亡くなったとき以来だった。いや、あの頃はサラとリゼットのためにか、気丈に振る舞っていた節があった。


 死者はどれだけ悲しんでも祈っても、蘇らない。

 だからある意味諦めがつくし、死ぬ以上に悪いことにはならないと確信できる。

 しかしローズはまだ生きていて、危険なことをしようとしていて、本当に生きて帰ってくるのか分からない。

 心配で心配で堪らないが、でもローズは止められなくて、その上アルセリアのこともあり、不確かすぎる状況が際限のない不安を生じさせ、心が乱れてしまうのだろう。

 もしサラがローズを追いかけてしまえば、より一層クレアを心配させて、苦しませるだけだ。昔はともかく、既に十歳のサラにはそう理解できていた。


「リーゼも、いいわね? 心配だろうけれど、追いかけようとしてはダメよ」

「――――」

「リーゼ、聞いているの?」


 先ほどから一言も発しないリゼットに、クレアだけでなく他の三人も注目した。

 なぜかリゼットは自分の膝元を呆然と見つめたまま、口を半開にして硬直している。クレアの呼び掛けに応じない彼女に、アシュリンが隣から嘴で軽く突くと、小さな身体をビクッと震わせ、驚いたように顔を上げた。


「え、ぁ……なに……?」

「リーゼ、ローズを追いかけようとしてはダメよ。分かった?」

「……ローズ、追いかける……っ!」


 リゼットは呆けたように呟いたかと思えば、勢い良く立ち上がって走り出す。

 隣でお座りしていたアシュリンも即応し、その背中を追い始める。


「リーゼッ!」


 クレアが叫んだのと同時に、リゼットが立ち止まった。

 いや、それは立ち止まったというより、背後から引き留められたかのようだ。

 リゼットは手足をばたつかせて前へ前へと進もうとしているのに、なぜか後ろへ進んでいた。


「うぅぅーんっ、ローズー!」


 腰を落として両手両足で踏ん張るが、マリリンの〈霊引ルゥ・ラトア〉には逆らえず、ずるずると後ろに引っ張られるリゼット。

 その隙にクレアが駆け寄って、リゼットの身体を背中から抱きしめた。


「やめなさいリーゼッ、家で待っているの!」

「やぁぁぁぁぁぁだぁぁぁぁぁあたしもローズと一緒に行くんだもん! ずっと一緒にいるって約束したもんっ、どっか行くならあたしも一緒だもんっ!」

「リーゼッ、お願いだからやめて!」


 クレアの声も何のその、リゼットはクレアの腕の中で暴れ回り、一心不乱に駆け出そうとしている。その幼い言動が普段の直情的なものと些か毛色が違い、どこか切羽詰まった様子であることには誰も気が付かない。

 今は皆、ローズが勝手に行ってしまったことと、彼女の帰りを待つしかない状況に意識の大半を割かれていて、リゼットの心情の機微まで察せられる者はいなかった。


「クレア放してっ……むぅわぁぁアシュリン何とかするんだぁ!」

「ピュェッ!」


 と威勢良く応じて、クレアとリゼットの身体の間に嘴を突っ込もうとするアシュリン。だがクレアに一睨みされると、一転して怖じ気づいたように巨体を竦め、すごすごと引き下がっていった。


「うぅぅぅアシュリンの意気地なしぃっ!」

「……ピュェェ」

「サラ姉っ、メルっ、助けて!」

「リーゼ……もうやめなさい」

「リーゼも行っちゃうと、クレアさんをもっと心配させちゃうよ……」

「うわぁぁぁ二人の裏切りものぉぉー!」


 リゼットの興奮状態は留まるところを知らず、毎秒ごとにより激しくなっていく。

 クレアも抑えつけるのに苦労しているようで、どれだけ説得の言葉を掛けても、小さな身体で暴れまくる。


「お姉様、大丈夫ですか……?」


 厨房で朝食を作っていたセイディが顔を覗かせる。

 彼女も普段の快活な表情は見られず、どこか不安げだが、クレアより深刻そうには見えない。

 

「……仕方がないの」


 マリリンは椅子から腰を上げると、リゼットに近づき、頭に手を乗せた。

 すると暴れていたリゼットの身体から次第に力が抜けていて、十秒もしないうちに静かな寝息を立て始める。

 下級幻惑魔法の〈誘眠撃タス・ピリィ〉を詠唱せず使った結果だった。


「クレア、部屋に寝かせてきておくれ」

「はい……」


 小さく頷き、クレアはリゼットを抱え上げて食堂を出て行く。

 アシュリンは力ない足取りで彼女らの背中を追いかける。

 サラもメレディスもセイディも、沈黙したままそれを見守っていた。


「さて……皆で朝食の準備をしようかの」


 マリリンの一言に、静まり返った食堂で三人は悄然と頷く。

 戻ってきたクレアを含めて、五人で厨房と食堂を行き来し、食事の準備を整えていく。

 その間、誰も一言も話さなかった。




 ■   ■   ■




 目覚めたリゼットはまず空腹感を覚えた。


「あっ、起きた?」


 のっそりと身体を起こすと、ベッド脇の椅子にメレディス、その隣にアシュリンが座っていた。

 窓の向こうはまだ明るく、昼寝したときよりも意識ははっきりしている。


「リーゼ、朝ご飯食べられなかったでしょ? 今から食堂行って、何か食べよっか」


 なんだか気遣わしげに話しかけてくるメレディス。

 垂れた両耳と双眸からは労るような優しさしか伝わってこない。


「ピュェ!」

「ほら、アシュリンも食べたいって言ってるよ。アシュリンもまだ食べてなくてね、きっとリーゼと一緒に食べ――」

「いま何時?」


 ベッドの上からメレディスに問いかける。

 リゼットのその眼差しはあまりに真っ直ぐすぎて、メレディスは少したじろぎながらも言い辛そうに応じた。


「リーゼ、マリリン様もクレアさんも、ローズは追いかけちゃダメだって言ってたよ。私も……追いかけたいとは思うけど、オルガさんとユーハさんが一緒だし、きっと大丈夫だよ」

「そんなの関係ないっ、家族がどこか遠くに行くなら、みんな一緒じゃなきゃダメなんだ!」


 力強くも逼迫した声で叫び、リゼットはベッドから飛び降りようとした。

 そこでメレディスが封筒を掲げて、口早に、説得するような様子で告げる。


「そ、そういえば、ほら、これ今朝起きたときにあった手紙。これローズの書き置きだったみたい、読みたいでしょう?」

「貸してっ」 


 引ったくるようにメレディスの手から封筒を掻っ攫う。

 中の手紙を取り出して見てみると、こんなことが書かれていた。


『みんながこの手紙を読んでいる頃、既に私はいなくなっていることでしょう。昨日、散々みんなと話し合った通り、私はユーハさんと一緒にカーウィ諸島へ行きます。アルセリアさんの病気を治すには、もうそれしかないと思ったからです。みんなに黙って出発した自分勝手を許してください。

 お婆様やクレアも言っていましたが、カーウィ諸島は竜種の生息するとても危険な一帯です。しかし私はきちんと無事に帰ってきますから、誰も追いかけてこないでください。それと、アルセリアさんには私がカーウィ諸島へ行ったとは言わず、レオナ探しの旅に出たと伝えてください。

 お願いばかりで申し訳ありません。もし良ければ、私が帰ってきたときにたくさん叱ってください。きっとアルセリアさんを助ける方法を持ち帰ってくるので、どうか心配せずに待っていてくれると嬉しいです。具体的な期間は分かりませんが、おそらく半年程度だと見込んでいます。

 みんな、本当にすみません。ですがこれは、決してみんなことを信頼していないから一人で発った訳ではありません。その理由は話せませんが……私はみんなのことが大好きです。それでは、また会いましょう。 ローズより』


 リゼットは読んでいると、沸々と怒りが湧き上がってきていた。

 ローズが一人で行くだなんて全くの予想外で、完全に不意打ちだった。

 そんなことをローズがするはずないと心底から信じ切っていて、彼女が一人で行く可能性すら微塵も考えていなかった。

 だって、約束したのだ。もうリゼット自身うろ覚えではあるが、それでもたしかにあのときローズは言ったのだ。


「……リーゼ、もう一枚あるよ?」


 言われて、手紙がもう一枚あることを思い出した。読み始めた当初は覚えていたが、字を追っていくごとにリゼットの無意識下で様々な思考と感情が入り乱れて、すっかり忘れていた。

 一枚目を脇に放り捨てて新たな文面に目を落とすと、それは『リーゼへ』という一文で始まっていた。


『リーゼへ。 約束を破ってしまい、ごめんなさい。もうリーゼは覚えていないかもしれませんが、私たちが出会った翌日のことです。館を出て行こうする私をリーゼが引き留めてきたとき、私はリーゼに言いましたよね。

 「私はいなくなったりしません」って。

 リーゼが本当かどうか訊くと、私は「いなくなりません」と念押しまでしました。もしリーゼが覚えていなくても、私は昨日のことのように覚えています。

 約束を破ってしまったと自覚しています。ごめんなさい。許してください。

 今回はどうしようもない事情があったのです。

 私が戻ったとき、リーゼさえ良ければ、また仲良くしてください。そしてもう一度だけ、また約束し直してくれると嬉しいです』


 読み終えたとき、リゼットはなぜだか少しだけ嬉しくなっていた。

 空っぽな腹の底で煮えたぎっていた怒りは幾分も鎮まり、妙な安堵感さえ覚えていた。そして先ほどよりも一層、ローズを追いかけなければという思いが強くなっていた。


「リーゼ……?」


 黙って手紙を見つめたまま硬直するリゼットに、メレディスは不安げに顔を覗き込んでくる。だが、リゼットは言葉にならない思考をぐるぐるとこね回すのに必死だった。

 かつてなく逸る愚直な心を、彼女の無意識下で多大な影響力を誇る食欲が抑えつけることで、今まさにリゼットの脳内では奇跡的に冷静かつ明晰な思考が展開されていた。 


「……………………」


 リゼットはゆっくりと目蓋を下ろして一息吐くと、手にしていた手紙を脇に置いた。そして不自然なまでに落ち着いた動きでベッドを降り、アシュリンの頭を撫でながらメレディスに顔を向ける。


「ご飯、食べる」

「え……あ、うん。じゃあ、食堂行こっか……?」

 

 想定外の反応を示すリゼットに、メレディスは戸惑いを覚えた。

 てっきり今すぐにでも追いかけようと、部屋を飛び出して行こうとするかと思っていたのに、これだ。

 メレディスはクレアから、今日はリゼットの側に張り付いて様子を見ているように言われている。もしものときは何が何でも引き留め、すぐに叫んで応援を呼べとも言われていた。だから、リゼットの反応は正直助かる。

 しかし、なんだかあまりにリゼットらしくなくて、メレディスは不安になった。


「リーゼ、大丈夫?」

「ん? なにが?」

「え、いや、なにがって……えっと、うん、大丈夫ならいいんだけど」


 メレディスは余計に混乱しながらも、とりあえず納得することにした。

 リゼットへ宛てられた手紙の内容は、メレディスもマリリンから説明してもらったので、一応理解はできている。だが本人でなければ想いは実感できないものだし、なによりローズは頭が良く、優しい子だ。

 きっとリゼットが追いかけようとすることなど見越していたはずで、だから彼女を抑えつけられる内容の手紙を残したのだ。実際、一枚目を読んだ直後は全身に気炎を滾らせていたが、二枚目を読んだ直後は凪のように落ち着いている。


「それで、いま何時くらいなの?」

「あれからまだ二、三時間くらいしか経ってないよ」

 

 しかし、それは都合の良い解釈だったと、後になってメレディスは痛感することになる。




 ■   ■   ■




 昼寝をする時間になると、リゼットはいつも通りベッドに入った。

 だが今日は隣にローズがおらず、サラだけが添い寝してくれている。


「ほんとにもう、ローズはバカなんだから……」


 俯せに横たわったサラは悔しそうに呟きを溢す。


「リーゼ、追いかけたいだろうけど、我慢するのよ。あんなに心配するクレア、見てられないわ。まったく……ローズはほんとにもう……」

「…………」


 リゼットはサラの言葉には応じず、目を瞑って眠ろうとする。

 ローズの匂いの染み込んだベッドは柔らかく寝心地は良いが、朝食前に強制睡眠をとらされたせいか、あまり眠たくはない。

 だが、リゼットは今のうちに眠っておきたかった。


「リーゼ、今日はまだ眠たくないでしょ? なんで無理に眠ろうとしてるのよ」

「べつに……いつも寝てるから」

「まさかとは思うけど、今のうちに寝ておいて、夜に出て行く気じゃないでしょうね? もしその気なら、やめておきなさい。クレアとトレイシーが見張ってるんだから、何をどうしたところで無理よ」


 サラの言うとおり、見張られているので安易な行動は起こせなかった。


 普段より幾分も遅い朝食後、リゼットは転移盤に向かおうとした。そのときはセイディから理由を訊かれたので、ヘルミーネと話したいからと嘘を吐いた。

 結果、いつも通りアシュリンは一緒に転移させてもらえず、セイディとメレディスを伴って転移した。

 ヘルミーネの家にはクレアがいて、更にウェインと見知らぬ女性もいた。少しだぼだぼした服を纏い、髪はきっちりと後頭部で纏め上げられた、クレアと同じ年くらいの人間だ。


『わたしはトレイシーっていうのぉ。よろしくねぇ、リゼットちゃん』


 気の抜けるような声で挨拶をされたので、リゼットも適当に挨拶は返しておいた。クレア曰く、トレイシーはユーハの代わりにヘルミーネの家に住まうことになったらしい。家族のみんなとは既に知り合いだそうで、知らなかったのはリゼットとローズだけだったようだ。


『これでもねぇ、わたし結構強いんだよぉ。素手だけならアルセリアさんとも良い勝負できるんだからぁ』


 全然強くなさそうな緩い笑みを見せられ、更に続けて彼女は言った。


『今日明日はクレアもここに泊まるから、よろしくねぇ』

『リーゼは家でメルたちと一緒に大人しくしててね』

 

 それらの言葉の真意はリゼットでも察しが付いた。

 つまり、クレアとトレイシーの二人は、誰かが勝手に出て行かないように監視するつもりなのだ。

 だが別段、リゼットは驚かなかった。元から様子見のつもりだったし、既に腹だって据えていたし、そもそも今日の彼女はいつになく冴え冴えとしていた。

 それでも一応、ウェインに協力を頼めないか、それとなく探りを入れてみたところ、


『は? ローズが行ったことどう思ってるかって? 知るかよ、あんな奴……くそ、俺にも秘密で行くとかなんだよ……しかも逃げやがったし、ふざけやがって……つか好きってなんだよ意味分かんねー……』


 などと複雑な面持ちで一人愚痴っていたので、使えないと判断した。

 それにウェインは前々からトレイシーには逆らえない旨を思わせることを口にしていた。

 万が一を考え、リゼットは友達ウェインではなく相棒アシュリンだけを頼ることに決めた。


 館に戻った後もメレディスが常に付きまとい、食料をリュックに詰め込む余裕すらなかった。

 しかし、問題はない。アシュリンさえいれば、後はどうとでもなる。

 アシュリンは絶対に裏切らないと、リゼットは心底から信頼していた。


「…………ローズ」


 なかなか寝付けないリゼットはぽつりと呟きを溢す。

 それからしばらくすると意識が落ちて、二時間ほど昼寝をした。

 

 空が赤らんでくる頃に起き出すと、アルセリアが目覚めていると報された。

 実はリゼットが魔法で眠っていたときに一度起きて食事を摂ったのだが、そのときはまたすぐに眠ってしまっていた。


「リゼット……大丈夫か?」


 部屋を訪ねると、ベッドに横たわったアルセリアから心配される。

 彼女の顔色は昨日より悪くなっていたが、そう見えるのは身体的というより心情的な理由が大きいのだろう。


「アリアは大丈夫?」

「あぁ、大丈夫だ……といっても、こんな体たらくでは説得力はないがな……」


 アルセリアは軽く笑ってみせた。

 しかし、それが作り笑いであることにリゼットは気付けている。

 ローズが出て行った話はマリリンが話したようだが、手紙の通りレオナ探しのためとは言わず、正直に話したようだった。同時期にオルガまで出て行ったのだから、嘘で気遣ってもすぐに見破れてしまう。

 だったら初めから、本当のことを話してやった方がアルセリアには良いだろうというのが、マリリンの判断だった。


「……リゼット、皆を悲しませるようなことは、しないでくれ」

「…………」


 リゼットは口を噤み、肯定も否定もしなかった――できなかった。

 今日は初めて話すアルセリアからそんなことを言われて、リゼットは己の思考が家族全員に筒抜けであることを悟った。

 しかし、それはそれで好都合だと思い、開き直ることにした。


 日が沈んで間もなく、アルセリアが再び眠りに就いたので、リゼットはサラとメレディス、アシュリンと共に退室する。リゼットはそそくさと部屋に戻って猟兵活動用のリュックを手にし、一階の食料庫を目指す。


「リーゼ、もう何度も言ったでしょ。やめなさいって、準備したって無駄よ」

「無駄じゃないもん」

「クレアとトレイシーがいるのよ? しかもミーネだって二人に協力してるし、力尽くで抑え込まれて終わりよ」


 てくてくと廊下を歩くリゼットの手を、サラが掴んで引き留めた。

 リゼットは素直に足を止め、真顔で姉と向き合う。


「じゃあ、サラ姉協力して」

「いえ、だから……それはできないのよ。わたしたちまで行っちゃったら、クレアたちはもっと心配するわよ? ローズにはオルガとユーハがいるんだから、きっと大丈夫よ。リーゼが行ったところで足手まといにしかならないわ」

「そんなことないもんっ」


 サラの腕を振りほどき、食料庫に入ってリュックに食料を詰め込むリゼット。

 当然、サラはそれを止めようとしたが、メレディスに肩を掴まれる。

 悲しそうな顔で首を横に振る彼女の姿を見て、サラは思いとどまった。

 どうせリゼットにはクレアたちの制止を振り切れる力はないのだから、せめてこのくらいは好きにさせてやろうと思ったのだ。


 その後、クレアが戻ってきて、六人で夕食となった。

 アルセリアだけでなく、ローズの席まで空っぽになったことで、昨日と比べて一層もの悲しい雰囲気になった。そのせいか、リゼットも大人しく食事を進め、普段の何倍も会話の少ない時間が過ぎていった。


「こらこら、ちゃんと寝間着に着替えなさいっての」


 風呂から上がった後、リゼットはセイディの注意を聞き流し、猟兵活動用の服を着た。そしてリュックを背負い、半乾きのアシュリンの背中に乗って、地下を目指す。

 が、当然のようにセイディとサラ、メレディス、それにマリリンが立ち塞がった。


「リーゼ、部屋に戻りなさい」

「やだっ!」


 一階広間でリゼットは叫び、地下への階段目指してアシュリンを突撃させる。

 マリリンの〈霊斥ルゥ・ルペリ〉でアシュリンの背中から落下するも、リゼットは綺麗に受け身をとって着地し、今度は自前の足で突っ込む。

 だが〈幻墜ルー・ムァフ〉で身体がよろけて、思わず転んでしまう。立ち上がろうとしたが、闇属性上級魔法〈超重圧ティラグ・ルフ〉で上から抑えつけられて、満足に動けない。

 リゼットはなんとか身体を起こそうと力を込めながら、がむしゃらに声を上げた。


「うわああぁぁぁぁっ、あたしもローズと一緒に行くんだぁぁぁぁぁぁ!」

「すまぬの、リゼット……」


 マリリンは悲しげに皺を深くして、リゼットの頭に手を乗せた。

 今朝方と同じく、リゼットは下級幻惑魔法の一撃によって抗いがたい眠気を覚え、次第に全身から力が抜けていく。そして十秒もしないうちに目蓋も意識も落ちてしまう。

 サラたちはそれを見届けて、一様に嘆息した。


「ふぅ……この子もなかなか強情なんだから……こりゃ今日も地下で寝た方がいいっぽいわね」


 後頭部を掻くセイディの隣で、サラは伏せさせたアシュリンの頭を叩いていた。


「アシュリン、リーゼから命令されても、地下には入っちゃダメよ」

「……ピュェ」

「もし言いつけを破ったら、あんたは珍味なお肉になっておしまいだから」

「ちょ、ちょっとサラ、それはさすがに言い過ぎなんじゃないかな……?」


 メレディスが諫めるのも無理はなく、アシュリンは恐怖一色に彩られた顔で全身を震わせて、ひたすら平服している。

 それを見てサラは満足げに頷き、先ほどリゼットが落としたリュックを拾い上げた。


「中身を食料庫に戻してくるわ」

「それじゃ、こっちはリーゼをベッドまで運んじゃいますか。よっこいっせ……っと、この子ったらまた変な顔で寝てるわね」


 抱え上げたリゼットの顔を覗き込んで、セイディは呆れたように苦笑した。

 口元がだらしなく緩み、口端からよだれが垂れており、先ほどまでの気勢はどこへやら、寝顔は穏やかだ。

 セイディは深く考えることもなく、アシュリンを引き連れて階段を上がっていく。


 意識を失う直前、リゼットが満足感を覚えていたことなど、誰も気付いてはいなかった。




 ■   ■   ■




 暗闇の中、小さな影が微動した。

 二つの瞳がキョロキョロと動き、周囲の様子を確認する。

 いつも通り、左隣には獣人の姉が眠っていた。だが今回は右隣に翼人の姉がいて、小さな影は二人に挟まれるようにベッドに横たわっている。

 ベッド脇の床には大きな影がその巨体を横たえ、すやすやと身体を小さく上下させている。

 自分の身体を見下ろせば、いつの間にか寝間着に着替えさせられていた。


 今すぐ動くべきか否か、小さな影は逡巡した。

 窓の外は真っ暗なので、まだ深夜なのは間違いない。

 だが、予想通りアレから二、三時間ほどが経過したとすると、まだ両隣の二人は眠りに就いて間もないはず。

 事を急いて二人を起こしてしまえば問題だ。


「…………」 


 小さな影は待った。

 ベッドの上で微動だにせず、二人が熟睡するのを辛抱強くひたすらに待った。

 冴えた目で天井を見つめたまま、二時間ほどが経つ。

 そこでようやく、小さな影は動き出した。


 ゆっくりと慎重に身体を起こして、音もなく床に降り立つ。夜目の利く瞳で部屋を見回し、使い慣れたリュックを発見する。夕方に入れたものが全てなくなっていることに肩を落としながらも、静かにチェストを開ける。

 無用な危険を避けるため、寝間着姿のまま猟兵用の服をそそくさとリュックへ詰め込み、今度は机の引き出しから革の財布を引っ掴んでリュックに収めた。

 ついでに適当な紙に羽ペンの先を走らせる。


「……っ、……っ」


 無言のまま、小さな影は大きな影の身体を揺すった。

 開かれた寝ぼけ眼を前に、小さな影は相棒に身振り手振りで立ち上がるよう命じた。


「ピュェ……?」


 のっそりと身体を起こしながら、不思議そうに声を漏らす大きな影。

 小さな影は口元に人差し指を立てて、可愛らしいしかめ面で首を横に振った。


「ピュェ!」

「――っ!」


 了解とでも言うように威勢良く鳴いた相棒の頭を、小さな影は音を立てないように叩いた。

 大きな影は反省するように身体を竦めて、頭を垂れる。


 小さな影はベッドで眠る二人を見た。

 起き出す気配はなく、よく眠っている。

 そっとベッドに近づくと、まだ自分の体温が残っている場所に、先ほどペン先を走らせた紙を置いておいた。

 

 すぐに踵を返してリュックを背負い、バルコニーへと繋がる窓を開ける。先に相棒を外に出し、それから自分が出て、慎重に閉めた。

 周囲を忙しなく見回して、誰も――特に白翼の姿がないことを十二分に確認すると、そっと一息吐いた。


「……うん、よし。行くぞ、アシュリン」

「ピュェェェン!」

「だからアシュリンうるさいっ、こういうとき返事はもっと静かにしなさい!」

「ピュェ……」


 一人が囁くように言ったのに対し、一頭は普段通りの声で鳴いたので、彼女は思わず声を荒げて叱ってしまう。

 小さな影はハッと息を呑んで我に返ると、すぐに相棒の背中に跨がった。そして部屋の中の様子を確認する間も惜しんで、深い夜の森へと飛び立って行った……。




 ■   ■   ■




「あの、バカ……っ!」


 サラは片手で頭を抱えて唸った。

 一階広間には五人の女が集結し、それぞれが予想外の事態を前にして困窮している。


「まさかここから直接行こうとするなんて……」

「なんでこう、うちの子たちは無駄に行動力があるのか……ったくもう」

「リーゼ……」


 メレディスは酷く不安げな表情を見せ、セイディは焦燥混じりの苛立ちを覗かせ、クレアは顔面蒼白で消えた童女の名を呆然と呟く。


「深夜に出て行ったとすると、もう相当遠くまで行っておるはずじゃ。今から追いかけても見つけられる可能性は低いが……」


 マリリンは他の四人より幾分も冷静な面持ちを見せている。

 が、普段の泰然とした雰囲気は窺えず、声には憂慮が色濃く表れていた。


「セイディ、追いかけましょっ!」

「もちろんそうしたいけど、正確な方角も分かんないんじゃ探しようがないわよ」

「あぁもう……っ、リーゼがここまでバカだったなんてっ! それになによこれ、ローズの真似のつもり!? なにが『いってきます』よっ、ふざけるなバカリーゼ!」

 

 息荒く吐き捨てて、手にしていた紙切れを放り捨てる。だがその直後、今にも泣き出しそうな顔になり、メレディスの胸に顔を埋める。

 それは自責と不安から生じる行為だった。


 昨夜、サラはリゼットと一緒に寝ていたのに、出て行ったことに全く気が付かなかった。セイディは地下で寝ているし、クレアとトレイシーはヘルミーネの家で見張っている。出て行くことは不可能だと安心して、それでも念のためメレディスと三人で寝ていたというのに……これだ。

 

 サラもメレディスもセイディもクレアもマリリンも全員、まさかリゼットがこの館から直接出発するとは思っていなかった。

 なにせ理屈に合わない行動なのだ。

 リュースの館はクラジス山脈の奥深くにあり、ここから港町クロクスまでの距離は、ディーカからの距離と比べて倍はある。ローズを追いかけようと思うのなら、まず間違いなく追いつけない。港町に到着した頃には、ローズは既にカーウィ諸島を目指して海原を漂っていることだろう。

 それはリゼットも分かっていたはずで、そもそも日課の空中散歩でも館のある一帯からは離れすぎるなと口を酸っぱくして教えられていた。魔物がいないのは館周辺だけで、クラジス山脈はもともと多種多様な魔物が数多く棲息する、実に魔大陸らしい危険な地域なのだ。

 リゼットは普段の言動こそアレだが決して馬鹿ではないし、どれだけ脳天気だろうと館から直接出発することはないのだと、常識を根拠に確信していた。

 

「セイディ行ってっ、何でも良いから探してきて! とにかく探さないと……リーゼを追いかけるのよっ!」


 クレアはなりふり構わず悲鳴めいた声で叫ぶ。


「お姉様……分かりました!」


 セイディは頷き、二階へ駆け上がっていく。

 先ほど口にした通り、セイディはリゼットを発見できる可能性は低いと思っている。おそらくは港町クロクスのある方角――北西方向へと飛行しているはずだが、北西と一口に言ってもそう単純ではない。

 だが、探しに行く価値はあるし、リゼットに追いついて発見できる可能性も皆無ではない。


「わたしも一緒に行くわ」

「ダメよっ、サラは待ってなさい」


 サラもセイディの背中を追いかけようとしたが、クレアに腕を掴まれて止められる。


「クレアが心配する気持ちは分かるけど、わたしは大丈夫だから。探すのなら一人より二人の方が――」

「ダメって言ってるでしょ!」


 切羽詰まった声を上げ、サラを強く抱きしめるクレア。

 サラは少しだけ驚きながらも、クレアの背中を安心させるように軽く叩いた。


「クレア、わたしは二人みたいに勝手なことはしないわ。ちゃんとセイディの言うことを聞くし、足手まといにもならない。どうせ何日も掛かるだろうから、セイディ一人だと夜寝るときに、魔物のいる外では困るはずよ」

「それは……セイディなら大丈夫よっ、とにかくサラは待ってなさい!」

「クレア、落ち着くのじゃ。サラの言うとおり、セイディ一人だけではさすがに――」

「マリリン様は黙っててください! こんなことになったのも、そもそもマリリン様がローズを行かせたからではないですかっ! もしローズだけでなくリーゼまで帰ってこなかったらどうするんですか!?」


 サラを一層強く抱きしめて、クレアは涙を流しながら哀叫を響かせる。

 マリリンは苦い顔を見せ、言葉に詰まったように目を伏せた。


「あの、セイディはランドンさんと一緒に行けばいいんじゃないかな?」


 沈黙の間を突いて、メレディスはそう提言した。

 ランドンはトレイシーと同じく、ディーカに住まう《黎明の調べ》の協力者――準構成員の翼人だ。彼ならば大人の男だし、家族というわけでもないので、クレアも反対はしないだろう。


「いえ、ランドンさんには各町を巡って情報を集めてもらうわ。上手く山脈を抜けて、どこかの町に立ち寄る可能性はあるし、人里にアッシュグリフォンは目立つから見つけやすいはずよ。針路的にディーカ周辺を通り過ぎるかもしれないから、その辺の情報収集はトレイシーに任せるわ」

「じゃあセイディは一人で行かせるの? いくら何でも、せめて二人じゃなきゃ危ないわよっ」

「だからサラは待ってなさいって言ってるでしょ!」


 クレアはサラの背中に回していた手を放し、まだか細い両肩に乗せて、強く言い放つ。

 しかしサラはそれを振り払い、潤んだ瞳でクレアを睨み上げた。


「そんなことできないわよっ、わたしだってリーゼが心配なんだから! じっとしてられないのっ、一緒に行かせてくれないんだったら、わたしだって勝手に行くわよっ!?」

「サラ……っ!」


 階段を駆け上がり始めるサラ。

 だがちょうどセイディがリュックを片手に降りてきて、サラの行く手を遮った。


「サラ、まだアンタは長距離飛行の経験ないんだから足手まといよ」

「そんなことないわよ!」

「そんなことあんのよっ、どうせ途中で体力尽きてへばるわよ! それにアシュリンの方がアンタより速いでしょーが!」

「じゃあどうしろっていうのよ!? ただ待ってるだけなんてわたし絶対嫌よっ!」


 言い合う翼人二人の横で、クレアは目元に残る雫を拭いながら、何度か深呼吸をしていた。

 クレアとてサラの気持ちは痛いほど共感できている。今日ほど自分の背中に翼がないことを悔やんだことはないほどだ。


「サラ、それなら私と一緒にクロクスへ行くわよ。リーゼが無事クロクスまで辿り着くかもしれないし、先行して網を張るの。あの子ならアシュリンに乗って海にまで出かねないわ」


 正直なところ、それでもクレアからすれば、サラには館で待っていて欲しかった。ディーカからクロクスまででも、どのみち長距離を飛行することには変わりないのだ。

 クレアは町の輸送業者に抱えてもらって行くつもりなので、飛行速度はそう速くないだろうが、まだ十歳の女の子には一苦労なはずだ。それにサラは普通の翼人ではないので、同い年の女の子と比べて飛行能力は劣っていると聞いているし、あまり人目の多い町には行かせたくなかった。妙な噂が広まれば面倒だからだ。

 しかしローズやリゼットという前例を考えれば、目の届くところに置いておいた方が良い。


「いいわっ、じゃあすぐ準備してくる!」


 サラは特に反論したりせず、一も二もなく頷いて階段を駆け上がっていく。

 その後ろ姿から視線を切り、クレアはメレディスに顔を向けた。

 

「メルも心配だろうけれど、貴女はここで待っていて。館にマリリン様とアルセリアさんの二人だけなのは不味いわ」

「……分かりました」


 メレディスは力なく頷いた。

 本当は彼女も一緒にクロクスへ行きたいと思っている。

 だがクレアの言うとおり、現状でメレディスは館に残るのが最善だ。


「そういえば……」


 クレアとセイディとサラが動き出すのを見守りながら、メレディスは昨日のことを思い出していた。

 改めて思い返してみると、少し引っかかる。


 今回、リゼットは手紙を残し、リュックと着替え、それに金まで持って出発した。つまり、感情に任せた突発的な行動ではなく、少しは冷静に考えて動いたことになる。

 だとすると昨夜、風呂から出た後に出発しようとしたことがどうにも不自然だ。昼頃にヘルミーネの家には行き、その防備の程は知っていたはず。更にマリリンを含む四人が立ち塞がったのに、リゼットはむざむざと突撃し、暴れて幻惑魔法を食らった。

 別段、それはリゼットらしい行動なので問題はない……ように思える。

 しかし、それが巧妙な誘導だと思うのはメレディスだけだろうか?

 こうして館から直接出発した今、昨夜の完全に行き詰まった状況なら、わざわざ強引に突っ切ろうとせず、館の外に飛び出す機転があっても良かった。

 リゼットがそうしなかったからこそ、もし彼女がローズを追いかけようとするのなら、必ず転移盤を使おうとするはずだ……と、メレディスたちは完全に思い込まされ、館から直接出発する可能性を微塵も考慮しなかった。


「……まさかね」


 メレディスは力なく頭を振った。

 どのみち、今となってはどうでも良いことだ。


 今はただ、リゼットが無事に発見されて戻ってくることを祈るしかない。

 それが館で待機するメレディスにできる唯一の貢献だろう。


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