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幼女転生  作者: デブリ
五章・竜人編
94/203

第六十二話 『三度目の正直』★


 橙土期、最後の日。

 俺はいつも通り、メルとリーゼと一緒に起床した。

 そしてサラを起こして、四人と一頭でアルセリアの部屋へと向かう。


「…………」


 アルセリアはまだ寝ていた。

 以前までなら……つい前節でも、俺たちが部屋に入れば気配に気付いてか、目を覚ましていた。

 しかし、彼女は起きない。

 どこか苦しげな様子で深く眠っている。


 アルセリアが竜戦モードになると、全身は翠緑すいりょくの竜鱗で覆われる。

 だが最近は黒い鱗が散見され、全身に斑点のように黒が浮き出ている。黒化した竜鱗はまだ十枚程度だが、発見した当初は二枚だった。幸いにも痛みはないらしく、逆に黒化した竜鱗周辺の感覚が鈍くなっているという。

 ……明らかに、まずい。


「四人とも、いつも通り走っておいで。アリアはあたしが見ておるのでな」


 婆さんは最近、アルセリアの部屋で寝起きし、アルセリアの部屋で読書をしている。ベッドをもう一つ持ってきて、本を大量に持ち込んで、常にアルセリアの側にいるようになった。


 俺たちはベッド脇の椅子に座る婆さんに言われ、習慣的な行動に移っていった。

 朝食のときも婆さんはおらず、年長者二人を除いた七人で食事をとる。

 婆さん曰く、アルセリアは気を遣われるのを好まない。しかし婆さんとアルセリアは六十年以上の付き合いであり、もはや心友さえ超越した半身的存在である。

 アルセリアも婆さんが相手なら、俺たちが色々と施すより気楽だろう。


「オルガさん、大丈夫ですか?」

「あぁ、ローズか、大丈夫だ。ただ、ちっと疲れてな……今日は一日中ここでのんびりしとくわ」


 オルガは中庭で寝転び、温かな春の日差しを浴びてリラックスしている。

 いや、リラックスというより、茫洋と物思いに耽っている感じだ。

 

 このオルガ・オリファントという姐御はアルセリアの様子が悪化した翌日、館を飛び出した。魔大陸北西部の最前線の町へと単身飛んでいき、竜人たちを探して、何か知らないか話を聞きに行ったのだ。

 そしてつい昨夜、帰ってきたわけだが……成果は何もなかった。


「クッソ、あの薄情モン共が……ふざけやがって……散々もったいぶっておいて、何も知らねえとか……」


 何か思い返してしまったのか、オルガは寝転びながら舌打ちを溢し、苛立たしげに愚痴っている。


 最前線の町フリザンテで、オルガは修行に来ていた竜人たちと接触した。

 が、彼らは最初、彼女を相手にもしなかったらしい。頭を下げて頼み込んでも冷たくあしらわれ、竜人たちはエイモル教など誰一人信奉していないので、聖天騎士の威光も通じない。

 話をしようともしない彼らに、焦っていたオルガはキレた。聖天騎士の力で竜人共をボコボコにし、無理矢理に話を聞き出したそうだ。

 しかし、彼らも竜戦モードが解けない話など知らず、どころか竜鱗が黒く変色する件も何も知らなかったそうだ。

 そして、年長の竜人が最後にこう言ったらしい。


一族なかまを捨てた者に竜神様が罰を下したのだ』


 俺はその話を聞いて、強ち間違いではないと思った。

 ただ、罰を下したのは竜神様ではなく、その原因もアルセリア本人にはないだろうが。


 しばらく、俺もオルガの隣に寝転んでボーッとした後、オッサンとの剣術稽古になった。剣のことになるとユーハは容赦ないので、集中しきれなくても、無理矢理させられる。


「ローズよ、あまり思い詰めぬ方が良い。現状を見る限り、軽々と気休めも申せぬが……ローズがそのような顔をしておれば、アルセリア殿も気落ちするであろう」


 休憩中、オッサンからそう言われた。

 そんな顔って、どんな顔なんだ。

 思い詰めてるように見えるのか、俺。

 これでもポーカーフェイスには自信が……いや、ないけどさ。


「私は大丈夫です。ユーハさんが厳しくて、ちょっと疲れてるだけなので」

「うむ……そうであるか、それならば良いが。あいや、良くはないのであろうか……?」


 オッサンもアルセリアのことは心配しているようだが、剣術稽古に対する厳しさに変化はない。それを思うと、ユーハもなんだかんだでしっかりした大人だなと実感する。最近は鬱も薄れてきているしね。

 三年半前はユーハから「思い詰めない方が良い」などと言われるとは夢にも思っていなかった。


 オッサンやリーゼたちと昼食を終えた後、アルセリアの様子を見に行く。

 すると、今度は起きていた。生気の薄い顔で、以前まで感じられた清澄な力強さが抜け落ちた瞳で俺を見つめてくる。

 

「ローズ……一つ訂正したいんだが、良いか?」

「訂正って、なんですか?」


 突然言われて、俺は首を捻る。

 今、部屋には俺とアルセリアしかいない。

 先ほどまで側にいた婆さんは俺に様子見を頼み、自分の昼飯を食べに食堂へ行った。リーゼとサラは午後からクレアとセイディと一緒に猟兵協会へ行き、メルは……たぶんオルガかアシュリンとでも一緒にいるのだろう。


「以前、おれは言ったな……皆にきちんと理由を説明して、理解してもらってから発つこと、と。この理解というのは、ローズがここを出て行く理由を皆に理解してもらい、納得して欲しかったから……そう言った」

「……はい」


 弱々しい声で、ぽつぽつと話すアルセリアに、俺はただ相槌を打つことしかできない。


「だが、おれの現状が枷になっているようなら……気にすることはない。皆はおれのことを心配して、ここを離れるつもりはないのだろうが……やりたいことが……目的があるのなら、ローズにはそれを果たして欲しい」

「ですが私は――」

「現状、ローズがレオナを探しに出て行くと言えば、皆は反対するだろう。おれのことが心配ではないのか……などと言ってな。しかし……それは気にしなくても良い、皆にはおれが行けと言ったと言おう」


 アルセリア……そんなこと気にしてくれてたのかよ……。

 いや、彼女の性格を考えれば当然のことだと言える。この三節の間、俺は全く旅の準備をしてこなかったし、みんなとも話さなかった。

 それをアルセリアは自分のせいだと気に病んでいるのだ。

 全ては俺のせいなのに……。

 

 アルセリアが行って欲しいのなら、俺は行くべきなのだろうか?

 彼女は俺のことを心配している。

 そしておそらく罪悪感を抱き、俺のことが負担になっている。

 しかし、俺もアルセリアのことは心配なのだ。

 アルセリアの気持ちは理解できるし、共感もできるが、それでも俺は彼女のことを放ってなどおけない。


 どちらが正しい選択なのか。

 俺がここに残っていても、できることは何もない。どころか、明日出発しなければ、また何かしら――今度はアルセリア以外の誰かに被害が及ぶかもしれない。

 そう考えれば、俺はここを出て行った方が良い。

 その方がレオナのためになるし、みんなのためにもなる。


「…………考えて、おきます」

「あぁ、そうしてくれ……」


 俺はなるべく悄然とした様子を見せず、頷いておいた。

 アルセリアはそんな俺を見て、微かに苦々しい笑みを浮かべていた。




 ♀   ♀   ♀




 翌日。

 橙土期が終わり、翠風期に入った。


 俺は今日……出発しない。

 色々考えたが、やはり責任は自分で取らねばならないと思った。

 おそらくは今夜、アインさんが現れる。

 そのときに謝って、アルセリアを元に戻してくれるよう頼み込むのだ。

 

 もしかしたらアインさんは現れず、アルセリアの状態がより悪化する可能性もある。そうなったら、もう問答無用でここを出て行く。

 だが、あの人はきっと現れる……はずだ。


「メル」

「どうかした、ローズ?」


 夜、俺たちはベッドに入って、いつも通り三人川の字に並ぶ。

 寝付きの良すぎるリーゼは既に夢の世界へと旅立ち、アシュリンもベッド脇で巨体を丸めている。

 薄闇の中、俺とメルは至近距離から目を合わせた。


「メルは私とアルセリアさん、どっちが大事ですか……?」


 我ながら、アレな質問だと思う。

 だが訊かずにはいられなかった。

 もしアルセリアの方が大事だと言ってくれれば……いや、言って欲しいんだ。


「え、急にどうしたの?」

「なんとなくです……」

「どっちが大事って、それは……もちろんどっちも大事だよ。私はローズも好きだし、アルセリアさんも好き。選べないよ」


 メルは柔らかく微笑んで、リーゼに抱き枕にされたまま俺の頭を撫でてくれた。


 まあ、メルならそう言うだろうことは、訊ねる前から分かっていた。

 ならどうして訊いたんだ、俺は……。

 いかんな、どうにも頭がグチャグチャになっている。


「ローズ、大丈夫? 今日はなんだか、ずっと様子がおかしかったけど……」

「大丈夫です。すみません、変なこと言って」


 心配そうに眉を曇らせるメルに微笑み返し、俺もリーゼのようにメルに抱きついた。獣人美少女の身体は温かく、柔らかく、良い匂いがして、なんだか無性に安心できる。ついでに服の上から至高の感触を堪能しておいた。

 状況によっては、もう触れなくなるかもしれないからな。


「おやすみなさい、メル」

「うん、おやすみ、ローズ」


 俺は目を閉じ、この心地良い温もりに微睡んだ。

 本当はずっと寝たふりをして、毎回どうやって俺を森の中へと連れ出すのか、探ってみたい気持ちはある。だが、そうした邪なことを企てていると、会いに来てくれなくなるかもしれない。

 余計なことはせず、普通に寝た方が良い。


 そうして、俺は意識を手放した。




 ♀   ♀   ♀




 不意に、感じ慣れていない魔力波動を察知した。

 魔動感は意識を刺激して、目蓋を上げさせる。


「……アインさん」


 初級光魔法の明かりが網膜を突き、俺は両目を細めながら白装束の少女を見上げ、呟いた。が、アインさんは横たわる俺を無感情な瞳で見下ろすだけで、何も言わず、身動きもしない。

 周囲にはやはり木々だけが乱立し、森の緑が夜闇をより一層深くしている。


 俺は大きく深呼吸をしながら身体を起こすと、その場に正座した。

 まだアインさんは動かない。ただじっと俺を見下ろしてくるだけだ。

 というか、この人少し背が伸びたか?

 いや、それはともかく……


「申し訳ありませんでした」


 俺は地べたに正座すると、そのまま頭を下げた。

 日本人の最終奥義、土下座だ。


「私は貴女の言いつけを破り、みんなに協力してもらうよう頼んで、一人で出発しようとしませんでした。この通り、謝罪します。罰なら何でも受けます。ですからどうか、アルセリアさんを治してください」

 

 もはやこれしかなかった。

 俺のせいで、俺に下るはずの神罰が、アルセリアに下ったのだ。

 神は良く分かってやがる。俺本人を直接罰するより、みんなのうちの誰かに危害を加えられた方がよっぽど堪える。

 

 目を瞑り、額を地面につけて、アインさんからの返答を待った。

 すると、しばらく沈黙が漂った後、静かな声が頭上から降ってきた。


「神はお怒りです」


 冷徹なまでに淡々とした声だった。

 一切の感情が窺えないせいか、俺は腹の底が締め付けられる思いがした。


「以前、貴様は我の言葉に『分かりました』と返しました。にもかかわらず、その言葉をたがえましたね」

「本当にすみません。言い訳の余地もありません」


 本当は言い訳したい。

 みんなは俺の大切な人たちで、彼女らは俺なんかの存在を求めてくれている。

 なのに一人であの温かな館を出て行くなんて……できるはずがない。

 察して欲しい、無理なんだよ、みんな大切なんだよ、掛け替えのない人たちなんだよ。だから、みんなを信じて頼って、一緒に頑張ろうって思ったんだ。


 だが、神はそれを許してくれなかった。

 ある意味、当然といえば当然だ。

 アインさんの言うとおり、俺はかつて自分で口にした言葉を翻した。

 元クズニートらしく、自分の言葉に責任を持たず、約束を違えたのだ。


「貴様に問います。貴様は、我と、我が神を、愚弄しているのですか?」

「め、滅相もありませんっ、崇拝しています!」

「虚言は許しません」

「……すみません、崇拝はしていないです。どんな神かも知らないですし……ですけど、レオナに加護を授けて下さっているんですよね? それは感謝しています、この上なく」


 俺は決して頭は上げず、ただただ平服しながら言った。

 アインさんもまた変わらず、不気味なほど無感情な声を返してくる。


「そのご加護も、今後の貴様の行動次第では解かれるでしょう。更に貴様の住まう館の住人たちの安否も、保証はできません」

「こ、ここ今度こそ、何でも言うこと聞きます。ですからどうか、それだけはやめてください」


 こうなっては、もう致し方ない。

 今後、俺は何があってもアインさんの命令――もとい神の要求には逆らえないだろう。


 正直なところ、俺を殺すと言ってくれた方がまだ楽だ。

 当然死ぬのは怖いが、それでも今世の人生は俺にとって望外の奇跡なのだ。

 本来ならあり得ないはずのニューライフなのだ。

 俺が死んでみんなが助かるのなら……死んでやっても良い。

 元々、俺がいなければみんなは平穏に暮らせていたはずであり、故にそれが俺の責任だ。


「では、貴様の大事な人たちに懸けて、誓いなさい。もう二度と虚言は弄さないと。もう二度と我が神の言葉に背かないと」

「……みんなに懸けて、誓います。ですからどうか、みんなには手を出さないでください。アルセリアさんを治してください」


 誠心誠意、土下座しながら申し上げた。

 みんなのため、どこかにいるレオナのため、俺には神という超存在に頼る他ない。

 

 不意に、アインさんから魔力波動を感じた。

 ヤバい何か怒らせるようなこと言ったか……と思って身を硬くする俺に、彼女は言った。


「座りなさい」


 恐る恐る顔を上げ、隣を見てみると、無骨な岩の椅子が作られていた。

 アインさんの妖美な瞳は何の感情も窺わせず、ただじっと見下ろしてくる。

 俺はそそくさと立ち上がり、土魔法製の簡素な椅子に腰を預けた。


「貴様の宣誓、忘れません。貴様もゆめゆめ忘れぬように」

「……はい」


 俺の首肯を見て、アインさんは白装束から覗く双眸を一度閉じた。

 そして仕切り直すように一拍置いて、再び金色の瞳を露わにする。


「さて、貴様は昨日、出発しませんでした。我が神は慈悲深い故、貴様が一人で発っていれば、件の竜人アルセリアは治す予定でいたのです」

「――え!?」


 な、なんスかそれ?

 今日……いやもう昨日か、とにかく単身で発っていれば、アルセリアは助かったっていうのか?


「で、では、今日私が一人で発てば、アルセリアさんは治してもらえると?」

「いいえ」


 無慈悲なまでに淡々と否定された。


「貴様は果たすべき誓約ではなく、竜人アルセリアを優先しました。我が神はそのことに酷くご立腹なさっています」


 どうにも神は初めから『果たすべき誓約』とやらを蔑ろにしている俺に怒っていたらしいからな。今回のことで更なる怒りに触れてしまったのだろう。


「それでは、アルセリアさんは治してもらえないと……?」

「何かを選択するということは、何かを切り捨てることと同義です。貴様は我へと口にした言葉を翻し、竜人アルセリアを選びました」


 だがそれは神のせいで……いや、そもそも俺が約束を破ったからだ。


「そして貴様は先ほど、もう二度と我が神の言葉に背かないと誓いました。我が神は果たすべき誓約を選択しろと仰せです」

「つまり、もうアルセリアさんは切り捨てろってことですか?」

「その通りです」


 強引に選ばされて、強引に切り捨てさせられるのが、選択だと?

 ふざけるなよっ……と、俺にはそう言える権利がない。


 大切なものが二つある場合、その両方を手にできるのは力ある者だけだ。

 俺に力はない。

 どちらか一つを手にするだけでも精一杯だろう。


 事情はどうあれ、既に俺はアルセリアを選択し、レオナを切り捨てたのだ。

 切り捨てたつもりは毛頭ないし、ただ先送りにしただけだが、結果的に見ればそういうことになる。

 そしてアルセリアを選択した俺に、神は怒っている。

 神なんぞ知ったことか言いたいが、アルセリアをあの状態にしたのは神だ。

 

 神……なんだよお前は、鬱陶しいな……。

 お前がアルセリアに手を出さなければ、今頃はレオナ捜索を兼ねたプローン皇国への道中をみんなで進んでいただろうに。

 全部神が悪いんじゃねえか。しかし神はレオナに加護を与えているらしいし、その点は感謝しなければならない。


 クソっ、もう誰が悪いのか分からなくなってきた。

 いや、俺が悪いのか?

 優柔不断な俺が全て悪いのか?

 分不相応に、レオナとみんなの両方を手にしようとした俺が悪かったのか?


「しかし、我が神はどこまでも慈悲深い御方です。貴様に償う機会を授けても良いと仰っています」


 懊悩する俺に対し、どこまでも泰然自若としたアインさんはそう告げてきた。


「償う機会……?」

「もはや我が神がアルセリアを救うことはありません。しかし、貴様自身が救うのであれば、その術を教授しても良いと仰っているのです」


 俺はその言葉に一も二もなく頷――こうとしたが、すんでで思い留まった。


「その場合、レオナはどうなるんですか……?」

「特に変わりはありません」

「加護がなくなったりとかは?」

「しません」


 なんじゃそりゃ。

 それってなんか、都合良すぎないか?

 さっきはアレだけ厳しいこと言ってたのに。

 ……なんだか、誘導されていると思うのは気のせいだろうか?

 アインさんは目元以外を白装束で覆っているし、露出した双眸も無感情なので、真意は到底読み取れない。


「それでは、レオナ以外の誰か――リーゼやサラたちに何かあるとかは?」

「我が神はどこまでも慈悲深い御方です。貴様の償いに対し、更なる代償は求めません。強いて言うならば、貴様自身が非常に危険な目に遭うということくらいです」


 俺自身のことなど、この際どうでも良い。

 他の誰かに危害が及ばないのなら、それで良い。

 しかしやはり、どうにも胡散臭い。

 神は俺に償いをさせたいのか? アルセリアを救わせたいのか?

 一人で皇国目指して出発しろと言ったり、いったい俺に何をさせたいんだ?

 

「……もし仮に、私が、償う機会はいらないと言ったら、そのときは何かあるんですか?」

「ただアルセリアが死ぬだけです」


 やはり、あのままだとアルセリアは死ぬのか。

 だったら悩む余地なんてないな。

 全ては神の掌の上だとしても、アルセリアが救えるのなら、それで良い。


「分かりました。私に償う機会をください。アルセリアさんを助けられる方法を教えてください」

「良いでしょう」


 座りながら低頭した俺に、アインさんは小さく頷いた。

 俺はすぐに顔を上げると、早速訊ねてみる。


「それで、どうすればアルセリアさんは元に戻れるんですか? いえ、それ以前にアレは何なんですか? 神の呪いですか?」

「我が神は呪いなど用いません。現在のアルセリアは竜人特有の病、抗魔こうま病に侵されています」

「抗魔病……?」


 おうむ返しに訊ねる俺に、しかしアインさんは淡々とした口調で仰った。


「抗魔病を治す方法はただ一つ。真竜の肝を食べさせることです」

「…………え……それって、つまり……?」


 理解を拒絶する俺の脳に対し、アインさんはやはり無感情な瞳で告げた。


「貴様は真竜を殺し、その肝を持ち帰ってくるのです」


 予想外の無理難題に、思考がしばし停止した。




 ♀   ♀   ♀




 あのあと交わされたアインさんとの話も合わせて纏めると、こうなる。

 

・アルセリアは抗魔病という竜人特有の病にかかっている。

・抗魔病を治すには真竜のレバーを生で食べさせるしかない。

・現状からみて、アルセリアの余命は一年程度。

・全身が黒く変色したら完全アウト。

・真竜狩りは俺の身に余る大業なため、一人だけなら協力者の同行を認める。

・翠風期第一節三日に出発すること。


 正直、俺は後悔している。

 みんなを信頼したことそれ自体は全く悔いていないが、神の言葉に背いたことは悔やんでも悔やみきれない。


 なんだよ、真竜狩りって。

 神は俺を殺したいのか?

 そもそも神ってなんだよ、もう訳分からんぞ。


 ただ、竜種の存在なら、アルセリアから聞いているから良く知っている。

 竜はまだ妖精族がいた遙か昔から存在する由緒正しき古来の生き物らしい。

 特一級魔物を凌駕する精強さと、高い知能を持つといわれる最強生物――それが竜だ。カーウィ諸島にしか生息しておらず、数もそれほど多くはないという。


 竜には大別すると、ただの竜と真竜の二種類がいる。

 真竜というのは魔力を持つ竜のことであり、彼らは無詠唱で魔法を使う。

 竜と真竜のどちらも地竜・水竜・火竜・風竜の四種が存在し、さらに真竜には黒竜・白竜・金竜・紫竜もいるらしい。真竜は人類でいうところの魔女であり、要は希少種だ。竜の上位種といっても良い。

 真竜ならばどの個体でも構わないらしく、とにかく彼らの肝が必要となるそうな。

 

 つまり、真竜をぶっ殺して、内臓を抉り出して、そいつを持って帰って来いというわけだ。


 ……否応はない。

 俺は真竜を狩る。




 ♀   ♀   ♀




 翌朝、いつも通り目覚めた。


 アインさんとの話の後は前回の如く、魔動感の過剰反応によって気絶させられた。

 しかし今更の話、俺を館から森へ連れて行くときはどうしているのだろうか。何らかの魔法を使えば、魔動感により俺は目を覚ますはずだし、婆さんも気付くだろう。やはり神の御技的なもので何とかしたのだろうか。


 何はともあれ、俺は毎朝の習慣たるメル巨乳化計画を推進し、やる気を充填して起床した。

 出発は明日なので、まずは準備だ。今日のうちにカーウィ諸島までの旅路を確認し、真竜狩りに必要な物資を調達しておく必要がある。

 

 アルセリアと婆さん以外のメンツで朝食を頂き、家事をして、リーゼたちと散歩した後、俺はユーハに会い行った。

 以前までは一人で転移してはいけなかったが、俺はもう八歳だ。この世界では七歳で半人前なので、一人で町に出るのでなければ、ユーハに会いに行くことくらいなら許されている。

 クレアには二人で買い物をするときちんと言っておいたし、問題はない。


「む……ローズ、一人で如何した」


 ユーハは広々としたヘルミーネ宅の片隅に座り、本を読んでいた。

 婆さんから適当に借り受けたのだろう。

 今日の鬱度は……20%未満か、良い調子だ。

 ヘルミーネの姿はないので、どこかへ出掛けているのだろう。

 好都合だ。


「あの、今日は剣術の稽古をお休みして、買い物に付き合ってもらえませんか?」

「買い物、とな? しかし、修練は毎日せねば腕が鈍る。何か余程の理由があるのだろうか……?」

「はい。明日、館を発つので」


 ユーハは虚を突かれたような顔を見せた。

 だが俺は誤解される前に続けて言った。


「アルセリアさんを助けるために、カーウィ諸島に行くんです」

「……どういうことであろうか」


 オッサンにどう説明するかは朝から考えて、決めている。

 アインさんのことを言っても信憑性はないが、それ以外だとなぜ今更になって分かったのか、不審に思うだろう。

 だから、聖神やら邪神やらが存在する世界らしく、適当に誤魔化すことにした。


「夢のお告げで、聖神アーレ様に言われたので」

「……………………聖神、とな?」


 珍しくユーハが、ただの幼女を見るような目で俺を見てきた。

 

「昨晩、聖神アーレ様が夢に出てきました。アルセリアさんを救いたくば、真竜の肝を手に入れ、それを食べさせなさい……と。ですから明日、早速カーウィ諸島に行って、真竜を狩ってきます」

「ローズ、それは……」

「ユーハさんの言いたいことは分かります」


 俺は先手を打って頷き、自嘲的な笑みを浮かべてみせた。


「夢は所詮夢で、全ては私の願望が生み出した妄想で、そんなことをしてもアルセリアさんは治らないかもしれない。そんなことは分かってます」

「……うむ」

「ですが、可能性があるのなら、それに賭けるべきだと思うんです。このまま何の解決法もないまま過して、アルセリアさんの容態が更に悪化したら……それでもし死んでしまうようなことになってしまったら……きっと、私は何もしなかった自分を悔やみ、呪います」


 ユーハは静かな眼差しでじっと見つめてくる。

 それは幼女を見る目ではなく、一人の人間を見る目だった。


「それに、カーウィ諸島は竜人族の住処です。フリザンテにいた修行中の竜人たちが知らないことも、竜人たちの多く住まう都に行けば、何か分かるかもしれません。ですから、その……こんな不確かなことで、頼むのも何なんですけど……」

「うむ……相分かった。ローズが参るのであれば、某も共に参ろう」


 今度は俺が先手を打たれた。

 予想外にあっさりどころか、向こうから言い出してくれたことに、俺は驚きを隠せない。


「い、いいんですか……? こんなあやふやな話ですし、もの凄く危険だと思いますけど……?」

「ローズの見た夢の神が本物であれ夢幻であれ、ローズの申す通り、可能性があるならばそれに賭けるべきであろうとは、某も思う。それに、危険であるならばこそ、某が共に参らぬ理由は無い……某はローズの守護剣士であるのでな」


 ユーハは当然のことのように、そう言い切った。

 相変わらずまだ少々鬱ってはいるが、左眼には明らかな生気がある。

 

「ありがとう、ございます……」


 深く、深く頭を下げた。

 なんだか言葉にならない感動が胸に込み上げてきた。

 ユーハ……お前は本当に良い奴だよ……。


「顔を上げるのだ、ローズ。して……この件はもう皆へは話したのであろうか……?」

「いえ、まだです。どう話すべきか、まだ少し悩んでまして……ですが大丈夫です、そっちはなんとかします」


 本当はかなり悩んでいる。

 俺が行くと言えば、まず確実に引き留められるのは想像に易い。

 カーウィ諸島に上陸するまでの旅路だけでも危険なのに、そのうえ更に真竜狩りなのだ。しかもアルセリアが真竜肝で治る根拠は夢に出てきた神のお告げときたもんだ。よしんば納得されても、誰かしら無理矢理にでも同行してくるだろう。

 それは神に許されていないことだ。

 今度言いつけを破ったら、次はリーゼかサラか……。

 とにかく、それだけはダメだ。

 

 まあ、それは夜までに考えるとして、今は買い物だ。

 

「そういうわけですから、これから買い物に付き合ってもらえませんか? 旅には色々と入り用ですから」

「うむ……承知した」


 そうして、俺はユーハと町に出て必要物資の調達に勤しんだ。

 といっても、旅に必要なものは猟兵装備とほとんど共通しているので、だいたいは館にある。今回の買い物で最も必要なもの、それは……。


「ローズよ、それは男ものだと思うのだが」

「はい、旅の最中は男装するので、少年に見えるような服がいるんです」

「なぜ……いや、そうであるな。その方が何かと都合が良いか」


 ユーハはすぐに納得してくれた。

 頭の回転も問題ないし、本当に三年半前に比べるとユーハの精神はかなり快復したな。

 

 俺は市場の露天で少年猟兵っぽい服装を二セット入手した。

 ちゃんとした店に行けば良品も買えるが、安物で十分だ。俺の軍資金は以前にレオナ絵と頭髪を売った金、それとこれまで貯めてきた小遣いだけだからな。

 とはいえ、今回はユーハに買ってもらったんだけどね。自分で払うと言っても、オッサンにしては珍しくそれを認めず、半ば強引に金を払ってくれた。

 だからユーハに悪いし、安物で良いのだ。


 買い物を終えると、次は明日に備えて翼人タクシーの営業所へと向かう。

 港までは翼人に抱えられて空から行く予定なので、タクシーを予約しておく必要があるのだ。


「よお、ローズ、オッサン」


 その途中、見慣れた少年に出くわした。


「ウェ、ウェイン……こんにちは」

「ん? なんだよ、なに慌ててんだ」

「い、いえ、べつに何でもないですよ。それよりウェインは買い物の途中ですか?」


 もしウェインに翼人タクシーを予約しに行くと知られれば、その理由を訊かれるだろう。嘘は吐きたくないし、かといって正直に言えば、それはそれで面倒なことになる。

 こいつの場合、一緒に行くと言うか、引き留めてくるかは予想しきれないが、どちらにせよ困る。


「見れば分かるだろ、ババアに買って来いって言われたからな。お前らも買い物か? 珍しいな、オッサンと二人でとか」


 ウェインは革のエコバッグを軽く掲げてみせる。

 奴の灰色の瞳はオッサンの背負っているリュックに向けられていた。


「……………………」

「ん? なんだローズ、どうした?」


 俺は沈思黙考の末、隣に立つユーハの腕に抱きつき、意識してにんまりと笑ってみせた。


「まあ、そうですね、ユーハさんと二人で楽しくデートしていました。んふふ、何ですかウェイン、ユーハさんに嫉妬してるんですか?」

「は? なんで俺がオッサンに嫉妬しなくちゃなんねーんだよ!」

「またまたぁ、そうやって怒鳴るってことは、どういう意味かは分かってるんでしょう? ウェインがお願いするのなら、私が一緒に買い物してあげても良いですよ?」

「なに勝手に勘違いしてんだっ、バッカじゃねーの! 頼まれてもテメェと一緒に買い物なんてしたくねーよ!」


 ガキらしく安い挑発に乗り、ウェインは耳まで赤くして肩を怒らせ去って行く。

 すまんね、ストレス溜めさせちゃって。


「……ローズ、良いのか?」

「いいんです。とりあえず今は早く行きましょう」


 そんなこんなで障害を排し、翼人タクシー営業所へと向かう。

 なんだなんだでタクシー代までオッサンに負担してもらうことになった。

 というか、俺の小遣いじゃ全然足りなかったから、端からあてにしてたんだけどさ。


「色々とすみません、ありがとうございます、ユーハさん」

「うむ……礼なぞ必要ない。某がローズから受けた恩を思えば、斯様な些事など取るに足らぬ」


 ヘルミーネ宅への帰路の最中、俺の言葉にオッサンはそんな返事を寄越してきた。

 

「恩って……べつに私、なにもしてないですけど?」

「否、断じて否である……ローズは某を救ってくれたのだ……この恩は一生を掛けても返しきれぬものであろう……」


 ユーハはしみじみと、何やら感じ入った様子だ。

 まあ確かに、俺はユーハの鬱を治療するため、笑顔の練習とか、幼女とのハートフルなコミュニケーションとか、色々してきたよ。

 でもまさか、これほど感謝されているとは思ってなかった。

 

「さすがにそれは言い過ぎだと思いますけど……では、今回の真竜狩りでチャラってことにしましょう」


 と言ってもユーハは納得してくれなかったが……まあ良いだろう。

 ユーハが恩返ししたいというのなら、本人が満足するまで好きにさせてやろう。


 そんな感じに、買い物は何事もなく終了した。

 買った物はそのままユーハに預かっておいてもらい、俺は一人館へと帰った。




 ♀   ♀   ♀




 夕食の席。

 婆さんとアルセリアを除き、俺、リーゼ、サラ、メル、クレア、セイディ、オルガ、アシュリンの七人と一頭で食事をする。

 食堂に漂う雰囲気は以前までのように明るくはないが、決して暗くもない。

 

「ローズ、今日どーしたの? なんか変だよ?」


 いつ切り出そうかを機を窺っていると、ふとリーゼからそんなことを言われる。


「そうね、また何か話でもあるの?」

「いえ、べつに…………すみません、あります」


 サラの言葉に思わず否定しかけたが、頷いた。

 俺は食事の手を止めると、みんなの顔を眺め回してから、口火を切る。


「明日からユーハさんと一緒に、ちょっとカーウィ諸島まで行ってきます」

「――え?」


 そう驚き惑う声を上げたのはセイディだった。

 みんな似たような顔をしているが、オルガは少々目を見張っている程度で割と落ち着いている。さすが聖天騎士様は肝っ玉も違うらしい。


 それから、俺はみんなに説明した。

 ユーハにしたのとは違って、お告げの神も真竜のことも言わない。

 ただカーウィ諸島の竜人の都を訪れれば、何か分かるかもしれないから行ってみる……という話にしておいた。

 

「じゃーあたしも行くーっ!」

「いえ、大人数で行くのは危険なんです。竜種はカーウィ諸島一帯に生息していますが、彼らは縄張り意識が非常に強いと聞きます。竜人は竜種の相識感そうしきかんに敵だとは認識されないそうですが、私たち他種族は違います。大人数でいけば、それだけ目立って襲撃される可能性が上がってしまうんです」


 カーウィ諸島近海には水竜が生息しているため、竜人族以外の者が乗る船が近づくと、ほぼ確実に水竜に襲われるらしい。竜人たちにとっては都合の良い警備員であり、他種族にとっては危険極まりない強敵だ。

 空から行こうにも風竜が邪魔をして、やはり容易には島に近づけない。それに上陸後も竜種の相識感範囲内に居続けることになるため、常に危険な状況が続く。

 

「竜人語が話せるのはアルセリアさん以外で私とお婆様だけです。だから私と、それに護衛のユーハさんの最少人数で行った方が危険は少ないはずです」


 アルセリアによると、竜人族はクラード語を習わないらしい。彼らは詠唱を覚え、意味を教えてもらうというお手軽法で魔法を習得しているのだ。

 竜人族は全種族中、巨人族と並んで最も魔法力が低い反面、身体能力が最も高い。故に彼らは魔法よりも身体能力の方を遙かに重視しており、それは竜降女――魔女であろうと変わらない。

 アルセリアはカーウィ諸島を出た後、聖天騎士団に入ってからクラード語を習ったと聞いている。


 とはいえ、おそらくはカーウィ諸島にもエノーメ語などを話せる人は少しくらいならいるはずだ。フリザンテに修行に来ていた連中は話せていたらしいし。

 だが、それでもこちらが竜人語を扱えなければ、排他的らしい竜人族はまともに話などさせてくれないはずだ。


「ローズ、それはあまりに危険なことだわ。二人だけでなんて無理よ……いえ、みんなで行ったとしても危険すぎるわ」

「そうだよ、カーウィ諸島は本当に凄く危険なんだよ? 竜を狩って一儲けしようっていう猟兵が、カーウィ諸島に行くことがあるっていう話は聞いたことあるけど、それで戻ってきた人たちなんて数えるほどもいないらしいし。幾らアルセリアさんのためでも、そんな危険なことしてもアルセリアさんは喜ばないよ」


 クレアとメルの諫言はもっともだ。

 仮にみんなで行ったとしても、何人かは死ぬだろうし、全滅する可能性も高いだろう。オルガがいれば話は違うだろうが、彼女には聖天騎士としての勤めである聖伐がある。もうあと何日かで本隊がディーカに到着するらしいので、そこに合流しなければならないのだ。


「まあね、ローズの考えは分からないでもないわよ? フリザンテにいた竜人たちは知らなくても、竜人の本拠地にいけば何か分かるかもってのは頷けるし。でも、仮に上手く竜を躱して行けても、竜人たちはきっと門前払いして話なんて聞いてくれないわよ?」

「話を聞いてくれなかったら、オルガみたいに無理矢理聞き出せばいいじゃない。ユーハならそれができるだろうし、ローズだって魔法を使えばかなり強いわ。でもローズ、行くならわたしも付いていくからね。翼人がいた方が何かといいだろうし」


 アッシュグリフォンのときは多少危険でも狩るべきだと言っていたセイディも、さすがに今回は反対らしい。

 だがサラはリーゼ同様に、同行するという。


 大人たちは冷静だが、子供たちは楽観している。

 第三者が俺を含めたこの場を見れば、そう判じるだろう。

 だが、俺は決して楽観などしてない。していないからこそ、最少人数でいかねばならないと思っている。たとえ同行者数を制限されていなくとも、大人数で行けばそれだけ危険で、どのみち俺はユーハしか同行させる気はなかっただろう。

 そう考えると、神もその危険を考慮して二人に制限したのかもしれない。


「そもそも、マリリン様はなんて言っていたの? ローズのことだから、もう話したのでしょう?」

「はい、お婆様にも反対されましたけど……でも、私は行きます。それと、アルセリアさんには私がカーウィ諸島へ行ったとは言わないでおいてください。心配させちゃいますからね。当初の予定通り、私はプローン皇国へユーハさんと一緒に旅立ったと言っておいてください」

「いやいやローズ、そういうことじゃなくて、だから危険なのよもの凄く。みんな反対してるんだし、やめときなさいって」

「あたしは反対してないぞー!」 

「リーゼはどれだけ危ないことか分かってないでしょーが。とにかく……あーもーっ、姐さんも何か言ってやってくださいよっ!」


 セイディに助力を請われると、これまで黙して成り行きを見守っていたオルガが真っ直ぐに視線を向けてきた。

 中性的かつ凛々しい顔立ちの彼女から見つめられ、俺は少々たじろいでしまう。だが、目を逸らしたら情けないと思われ反対されると思い、じっと見つめ返した。

 天下の聖天騎士様は数秒ほど無言で俺の瞳を覗き込むように凝視した後、あっさりとセイディに視線を転じ、杯を手に取った。


「……ま、本人が行きたいってんなら、行かせりゃ良いんじゃねえか? あのオッサンもついてくってんだし、まあ大丈夫だろ」

「ちょっと、オルガさんっ」 


 クレアが焦ったように、あるいは怒ったように口を開く。

 それに対してオルガは面倒臭げに片手をぷらぷらと振ってみせた。


「お前の言いてえことは分かるけどよ、クレア。ローズはたぶん何が何でも行く気だぜ? それにこいつ、ちょっと頭おかしいんじゃねえかってくらい利口だろ? 死ぬかもしれねえことだって分かってるだろうし、それを承知で行くって言ってんだ。なら行かせてやれば良いじゃねえか。こいつこの歳で魔女としちゃかなりのもんだし、無事に帰ってくる可能性はそこそこあるさ」

「そんな他人事みたいに……ローズはまだ八歳なんですよ!? 自殺しようとしている子を止めるのは大人の責務でしょうっ!」


 クレアは少し声を荒げて、オルガに反論する。

 しかし……自殺しようとしているって、大げさな表現だな。

 まあ、そんな風に見えるほど危険なんだろうけどさ。


「ローズ、お前は自らの意志で、そうするって決めたんだよな? 誰かに強制されたとかじゃなくて、自分で決めたんだろ?」

「え……あ、はい」


 急に話を振られたので慌てて頷く。

 神から言われはしたが、行く行かないに関しては選択の余地があった。

 俺は俺の意志で、真竜を狩ってアルセリアを助けることを選んだのだ。


「……そうか」


 オルガは俺の返答を聞くと、椅子の背もたれに背中を預け、笑った。

 そこには少なからぬ自嘲的な含みがあった。


「なら良いじゃねえか。そりゃあよ、クレアの言うことは至極もっともだろうぜ、あぁ、正論だ。だがよ、ローズはテメェの意志で、死ぬかもしれねえのを承知で、それでも行くって言ってんだ。オレにはこいつを止められるとは思わねえから、止めねえよ。止めたきゃクレアが説得すればいいだろ」

「もちろんそうします」


 クレアは力強く頷き、子を心配する親そのものな目を俺に向けてきた。

 ……正直、かなりキツい。


 その後、俺はクレアだけでなくセイディからもメルからも説得されたが、意志は曲げなかった。リーゼとサラが一緒に行くという話にも決して頷かなかった。

 途中でクレアが婆さんを呼んできて加勢させたが、それでも俺は頑として自分の言葉を撤回しなかった。


 幸か不幸か、アルセリアは夕方から寝ているので、昨日の感じだともう朝まで起きない可能性が高い。

 まあ、仮にアルセリアから説得されても、俺は諦めなかっただろうが。


 三年半前、俺はレオナのために皇国へ行くのだと決意していたが、幼女への情にほだされて、その意志を翻した。

 三節前、俺は神の言葉通り一人で皇国目指して旅立つのだと決意していたが、みんなを信頼して、その意志を翻した。

 だが今回は、もう何があろうと決意は変えない。

 三度目の正直だ。


 もちろん、みんなの心配は嬉しく思うし、申し訳なくも思う。

 だが、こうなったのは十中八九、俺のせいだ。

 責任は取らねばならない。

 あのアシュリンだって、犯した罪の責任をとろうと頑張れたのだ。

 魔物畜生にできて、俺にできない道理はない。


 


 ■ Other View ■



 夜天の闇色が藍色に変じ始める頃。

 自室で一人眠っていたクレアはゆっくりと起き出した。

 薄手の寝間着姿のまま部屋を出ると、子供部屋へと足を運ぶ。静かに扉を開け、室内の様子を確かめた。

 三人の姿――特にローズの姿がベッドにあることを確認し、すぐに扉を閉める。


 とりあえずの安心をしたクレアだが、しかし彼女はそれだけで満足はしなかった。一階ホールに降りて、大階段の下の方に腰掛け、何もせずにただ座って時の流れに身を任せる。

 それから、しばらく後。

 窓の外から微かな朝日が差し込んで来た頃、ふと足音が聞こえた。


「心配性じゃな、クレア」

「……マリリン様」


 振り返ると、マリリンがゆっくりと階段を下り、近づいてきていた。

 見慣れた顔には苦笑が浮かんでいる。

 そしてクレアもまた、同様の表情を覗かせた。


「結局、昨日はローズを説得しきれなかったので、念のため。マリリン様はどうかされたのですか?」

「いやなに、あたしも少し気になっての。ローズは聞き分けの良い子じゃが、たまに相当に意固地なところがある。目が覚めてしまったことじゃし、あたしもここで皆が起きるまで待つとしようかの」


 マリリンは小さく肩を竦めると、クレアの隣に腰を下ろした。

 

「…………」


 それから特に言葉を交わし合うことなく、二人は静まり返ったホールで階段に座り続ける。既に十五年ほどの付き合いなので、先ほどの遣り取りだけで互いの思考は察していた。

 しかし、クレアはふと気になって、静寂を破って訊ねてみた。


「マリリン様は、オルガさんが間違っていると思いますか?」


 昨日、オルガはローズを諫めようとしなかった。

 無論のことクレアは自分が間違っているとは思っていないし、たとえ間違っていたとしても、ローズを止める意志に変わりはない。


「ん、そうじゃの……他の者はともかく、あたしが間違っておるとは言えぬの。昔、オルガには、自分の意志で自分の進む道を決めろと教えた。だからこそ、あやつはローズの意志を尊重したのじゃ。あたしにはあやつが間違っておるとは言えぬが、まあ、正しいとも言えぬな」

「……そう、ですか」


 クレアはぎこちなく頷いておいた。

 だが、やはりオルガは間違っているという考えは変わらない。


 いくら聡明だろうと、ローズはまだ子供なのだ。

 なまじ頭が良く、魔法力も高い彼女は、失敗経験が極端に少ない。普段は謙遜して驕り高ぶった様子など欠片も見せないが、それでも無意識のうちにある程度の自信は持っているはずだ。

 そして人生経験の浅い彼女は視野が狭く、世の理不尽さを知らないからこそ、カーウィ諸島へ行くという無謀を口にしたのだ。

 

「オレだって正しいとは思っちゃいねえさ」


 ふと、吹き抜けの空間に男勝りな声が小さく響いた。

 階上を見上げると、オルガが二階廊下を歩き、階段前で足を止めたところだった。二階の階段前にはローズの描いた家族全員の集合絵が飾られている。彼女はちょうどその前で腰に片手を当てて立ち、クレアとマリリンを見下ろした。


「オルガさん……」

「……オルガよ、なんじゃその格好は」


 神妙に呟くクレアと眉をひそめるマリリンに対し、オルガは当然のような顔で答える。


「何って、ここに来たときと同じ格好だろうが」

「……オルガ、お前さんまさか」

「おう、オレもちょっくらカーウィ諸島まで行ってくるわ」

「――――」


 クレアもマリリンも咄嗟に言葉が出てこなかった。

 しかしマリリンは間もなく回復すると、呆れ半分にオルガを見上げる。


「何を言っておるのじゃ、お前さんには聖伐があるじゃろう」

「まあな、だからオレもずっと迷ってた。フリザンテにいた野郎共は知らなくても、カーウィ諸島に乗り込んで話を聞き出せば、何か分かるかもしれねえ。だがオレは竜人語なんぞ全くできねえし、何よりオレは聖天騎士として、このザオク大陸までやって来た」

「そうじゃ、だから馬鹿なことを言っておらんで――」

「しかしよ、まだ八つのガキが、危険承知でアリアのためにカーウィ諸島まで行くっつってんだぜ? 対して、オレは恩知らずにも厚顔無恥に、アリアを見捨てて魔物共をぶっ殺すだけの簡単な任務を優先するって……アホか、できるわけねえだろうが」


 オルガは苛立だった様子で、唾棄するようにそう吐き捨て、盛大に顔をしかめた。その感情が彼女自身に向けられていることは一目瞭然だ。

 

「今のオレがあんのは、バアさんとアリアがオレを助けてくれたからだ。ここで恩人見捨てて聖天騎士様だ? 聖神アーレも呆れ返るだろうぜ」

「お前さんの気持ちは分かっておるつもりじゃ。じゃがの、そんなことアリアもあたしも望んでおらぬ」

「嘘こけよバアさん、誰よりもアリアを助けてえのはバアさんだろが。誰よりもアリアを心配して、誰よりもアリアを愛してんのはバアさんだろ」

「…………」


 力強い瞳に見つめられながら断言され、マリリンは歯噛みするように口を閉ざした。

 

「もうバアさんがそんなに元気じゃねえことくらい、十分わかってるつもりだ。本当は自分で行きてえけど、体力が保たねえことは分かってんだろ? だったらオレを頼れよ。バアさんアンタ、オレを忘恩の徒にするつもりか?」 

「……じゃが、お前さんには聖天騎士としての責務がある。それを放り捨てて行ったことをアリアが知れば、あやつは自分を責め、今より弱りかねん」

「んなもん黙ってりゃ良いだけだろが。苦しい言い訳すんなよバアさん、アリアを助けてえんだろ?」


 オルガの言葉にマリリンは揺らいでいる。

 端から二人の様子を見ているクレアにはそれが良く分かった。


「待ってください、オルガさん」


 しかし、たとえマリリンの気持ちを蔑ろにしようと、アルセリアの現状が改善される可能性を潰そうと、クレアは口を挟まずにはいられなかった。

 立ち上がり、階上にいるオルガの目を見つめ、毅然とした声を向ける。


「オルガさんがカーウィ諸島へ向かわれるのは構いません。ですが、ローズを連れて行くことはできませんよ」

「お前が心配すんのは分かるけどよ、あいつはオレが守るから大丈夫だ。それに破魔刀の使い手だっていんだし、護衛としちゃ最高級だろ」

「たしかに、オルガさんとユーハさんの二人なら大丈夫かもしれません。それでも、ローズが危険であることに変わりはありません」

「んなこと言ったら、アリアだって危険じゃねえか」

「ローズはあるかないかも分からない火中の栗を拾いに行こうとしています。アルセリアさんの危険とは訳が違います」


 アルセリアは現状のままでは死ぬかもしれない。

 それはクレアも十分に認識していることだ。

 しかし、大げさでも何でもなく、冗談抜きにカーウィ諸島とそこに生息する竜種は危険なのだ。


「アルセリアさんが助かり、ローズも無事に帰ってくる可能性それ自体は否定しません。ですが、アルセリアさんが助からず、ローズも無事に帰ってこない可能性の方が遙かに高いんですよっ。たとえマリリン様がなんと言おうと、私はローズが行くことには反対です!」

「クレア……」 


 マリリンは小さく呟き、何とも言い難い眼差しをクレアに向けた。

 その様子は嬉しそうな、意外そうな、悲しそうな、それでいて当然の反応だと承知しているかのようでもある。

 

「悪いがクレア、オレにはローズが必要だ。そしてローズ本人は行く気満々だ。そうだろ、ローズ?」


 オルガが左手の廊下に顔を向けたので、クレアもつられてそちらに視線を遣る。

 すると、吹き抜けとなった二階廊下の欄干越しに、紅い髪の童女が進み出てくるのが見えた。




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 結局、みんなには納得してもらえなかった。

 しかし……予想していたことだ。

 納得するはずがないことは、三節前の件でも身にしみて分かっていた。


 だから、夕食の前に準備は済ませておいた。俺とリーゼの部屋のベッド下。そこに魔剣や魔石などの必要物資を纏めて隠しておいたのだ。

 更に、みんなに納得してもらえなかったから拗ねた……と見せかけて、普段より幾分も早くベッドに入った。

 

 そして、夜明け直後の今。

 俺は計画通りに起床した。

 まだ隣のメルもリーゼも熟睡しており、ベッド脇のアシュリンもそうだ。

 

 思わずメルの胸に手を伸ばしかけるも、激しい葛藤の末に思い留まり、ベッドを降りた。そしてベッド下から物音に注意して物資を引っ張り出す。


「…………よし」


 小さく頷き、もう一度メルとリーゼの寝顔を見た。

 どちらの獣っ子もキスしたくなるほど可愛らしい。


 きっと二人は俺が黙って出発するなどとは思ってもいないはずだ。

 二人は俺を信頼してくれている。

 そして俺はそれを裏切ろうとしている。

 心苦しい。

 だが、リーゼたちの方が苦しむだろう。

 そう思えば、自慰行為めいた自責など俺にはする権利がない。


 一応、昨日のうちに手紙はしたためておいた。

 黙って行く不義理をお許しください……とか、そんな内容の手紙だ。

 俺はそれを枕元に置くと、物音に注意して部屋を出た。


 隣の部屋ではサラが寝ているが……もう昨日のうちに顔は脳に焼き付けておいた。最近はキスブームも去ったのか、あまりしてこなくなったが、あの唇の感触は少し恋しい。

 まあでも、半年くらいでまた会えるはずだ。

 いや、会うんだ、生きて帰ってきてみんなと再会するんだ。

 そして叶うならいっぱい叱って欲しい。


 こそこそと廊下を歩いて行く。

 が、なんだかホールの方から話し声が聞こえてくることに気が付いた。

 この声は……オルガと婆さん、それにクレアだ。

 なんでこんな朝早くにいるんだ……と思いつつも、足は止めない。

 廊下の角まで進むと、顔を出して様子を窺ってみた。


「もうバアさんがそんなに元気じゃねえことくらい、十分わかってるつもりだ。本当は自分で行きてえけど、体力が保たねえことは分かってんだろ? だったらオレを頼れよ。バアさんアンタ、オレを忘恩の徒にするつもりか?」


 二階の階段前にオルガが立ち、おそらくは階段下にいるであろう婆さんに話しかけている。

 

「……じゃが、お前さんには聖天騎士としての責務がある。それを放り捨てて行ったことをアリアが知れば、あやつは自分を責め、今より弱りかねん」

「んなもん黙ってりゃ良いだけだろが。苦しい言い訳すんなよバアさん、アリアを助けてえんだろ?」


 いつもより勢いのない婆さんの言葉に、オルガは腰に片手を当てて堂々と言い返している。


「待ってください、オルガさん」


 ふとクレアの凛とした声が届いてきた。

 こんな強い語調の声を聞くのはいつ以来だろうか。

 三年半前、クロクスで金髪イケメン野郎と対峙したとき――つまり俺が初めてクレアと出会ったとき以来だ。


「オルガさんがカーウィ諸島へ向かわれるのは構いません。ですが、ローズを連れて行くことはできませんよ」

「お前が心配すんのは分かるけどよ、あいつはオレが守るから大丈夫だ。それに破魔刀の使い手だっているだし、護衛としちゃ最高級だろ」


 え、オレが守るって……え?

 まさかあの姐御、ついてくる気か?


「たしかに、オルガさんとユーハさんの二人なら大丈夫かもしれません。それでもローズが危険であることに変わりはありません」

「んなこと言ったら、アリアだって危険じゃねえか」

「ローズはあるかないかも分からない火中の栗を拾いに行こうとしています。アルセリアさんの危険とは訳が違います」


 男勝りな調子で繰り出されるオルガの言葉を、クレアは何ら臆した様子も窺わせぬ声で応じている。


「アルセリアさんが助かり、ローズも無事に帰ってくる可能性それ自体は否定しません。ですが、アルセリアさんが助からず、ローズも無事に帰ってこない可能性の方が遙かに高いんですよっ。たとえマリリン様がなんと言おうと、私はローズが行くことには反対です!」

「……クレア」 


 俺は思わず声を漏らした。

 クレアの声からは俺のことを心底から案じている様がひしひしと伝わってくる。

 紛れもない愛情が込められている。

  

「悪いがクレア、オレにはローズが必要だ。そしてローズ本人は行く気満々だ。そうだろ、ローズ?」


 不意に、オルガから顔を向けられた。

 廊下の角から覗き込んでいた俺はどうしようか逡巡するも、出て行かないわけにはいかず、しずしずと吹き抜けとなったホールへと歩いて行った。

 そしてオルガの数歩手前で立ち止まると、階段下を見てみた。


 クレアは踏み出すように右足を一段上に乗せ、どこか悲しげな顔で俺を見上げてきている。

 婆さんは段差に腰掛けたまま半身を捻っていたが、俺を見て立ち上がった。


「やっぱ夜明け頃に出て行くつもりだったな、ローズ」


 オルガから笑みを向けられるが、どう反応すれば良いのか困る。

 というか、なんだこの雰囲気、居心地が悪すぎる……。


「あの、みなさん何を……?」

「クレアとバアさんはお前が勝手に出て行かないか見張ってた。オレはお前を待ってた」


 あらやだ、バレバレじゃないの。


「ローズ、行くことは許さないわよ」

「クレア、私は……」


 この三年半以上の間で初めて、クレアが俺に本気で叱りつけるような顔を向けてきた。

 そのせいで上手く言葉が出てこなかったが……。

 すぐに克己し、背筋を伸ばした。


「私は、行きます。アルセリアさんを助けるには、もうこれしかないんです!」

「あまりに危険すぎると、昨日あれほど言ったでしょう? やめなさい、ローズ。アルセリアさんを助けるために貴女が死んでしまったら、元も子もないわ」


 早朝の静謐な空気を震わせ、薄明るいホールにクレアの清冽な声が静かに響く。

 何を言っても許可しないだろうことは、彼女の凛然とした双眸を見れば嫌でも悟ってしまう。

 昨晩、散々説得され、それに反論してどうにか納得してもらおうとしたのだ。

 しかし結果はこの通りであり、もはや如何なる言葉でもクレアを説き伏せることはできないだろう。


「……それでも私は、行きます」


 俺は両手を握り締めながら、クレアの目を真っ直ぐに見返した。

 クレアは目を逸らすことなく、こちらの瞳をじっと見つめてくる。

 普段は優しい彼女が怒っていると思うと俺の心は挫けそうになるが、同時に有り難すぎて涙が出てきそうにもなる。


「……………………」


 俺はクレアと目を合わせたまま、一歩を踏み出した。

 すると、美女はおもむろに右手を突き出してきた。


「階段を一段でも下りてみなさい。足を切り飛ばしてでも貴女を止めるわよ」


 本気の目をしていた。

 本気で俺の身を案じ、それ故に苦渋の決断としてそうすると、一目で察することができた。


「……………………」


 俺は生唾を呑み込みながらも、歩みは止めず、片足を一段下へと向かわせた。

 瞬間、魔動感が反応する。

 咄嗟に無属性中級魔法〈魔盾ド・アルア〉を張り、魔力そのものの奔流を防いだ。そのまま盾を張りながらまた一歩階段を下りるが、クレアは尚も魔力流を放ってくる。


 クレアの魔力流では俺の盾を破ることは不可能だ。

 それは訓練の日々で証明済みであり、破れるのは婆さんしかいない。

 しかしその婆さんは複雑な面持ちで立ち尽くし、オルガも俺たちを止める気配はなく、ただ後ろで見守っている。


「ローズッ、止まりなさい!」


 クレアは怒鳴ってくるが、俺は足を止めない。

 また一段、前へと進む。


「老若問わず男女の別なく、屈強たる戦士すらも竦み上が――っ!?」


 〈幻墜ルー・ムァフ〉の詠唱を俺が断唱波で打ち消すと、クレアは柳眉を歪め、小さく呻いた。そして綺麗な顔に悲痛な色を浮かべるや否や、俺の魔動感は再び反応する。

 俺はクレアの表情に精神的ダメージを喰らい、断唱波を放つ余裕がなかった。


 クレアの手先で砂色の刃が形成され、射出された。

 土属性中級魔法〈砂刃イレ・サード〉だ。手加減しているのか、直径五十レンテほどの刃が階下から俺の足下目掛けて襲いかかる。

 今度は闇属性中級魔法〈闇盾ド・クーダ〉を足下に張り、防いだ。

 

「ローズッ、止まりなさい! お願いだから止まって、危ないことしようとしないでっ!」


 クレアは今にも泣き出しそうな顔で叫びながら、俺の足を狙って砂刃を連射してくる。どうしても本気は出せないのか、こちらの盾を突破できる威力は乗っていない。だが、彼女の悲哀さ溢れる姿は俺の精神に着実なダメージを与えている。


挿絵(By みてみん)


「……ごめんなさい、クレア」


 俺は盾を張りながらも、詠唱省略による〈幻墜ルー・ムァフ〉を使った。

 手加減はしなかった。

 ある程度の慣れがあるクレア相手に加減すれば、魔法を使う意味がなくなる。

 だから、全力でいった。


「ぅ……くっ」

 

 クレアはふらつき、長い黒髪を揺らしながら階段に膝を突いた。

 そんな彼女の姿を見ていられなくて、俺は更に中級幻惑魔法〈幻霧鏡スミ・ジューラ〉を使う。クレアの周りに白い霧が立ちこめ、たちまちその姿が見えなくなってしまった。向こうからも俺の姿は見えず、ただ霧の中で乱反射する自分の姿しか視界に映らなくなっただろう。


「ローズ……待って……お願い、行かないで。私は、貴女が大切なの……危ないことを、して欲しくないの……」


 霧の向こうから懇願の声が届いてくる。

 俺は下唇を噛み締め、そのまま階段を下りきって、濃霧の横を通り過ぎた。


 しばらく、クレアは立ち上がれないだろう。

 俺の全力〈幻墜ルー・ムァフ〉はメルなら失神するレベルだ。

 今のクレアは落下の余韻が強すぎて上手く魔力も練れないだろうし、優しい彼女のことだ、そもそも霧のせいで迂闊に魔法は放てまい。


「お前の覚悟は見せてもらったぜ、ローズ」


 二階から飛び下り、翼で制動をかけながら俺の隣に着地し、オルガは肩を叩いてきた。


「クレア、悪いが納得してくれ」

「……オルガさん」


 霧の向こうから、悔しげに悲しげに呻く声が聞こえる。

 心が痛い。


「バアさん、そういうこった。行ってくるぜ」

「……オルガ、ローズ」


 婆さんは酷く悩ましげに顔をしかめている。

 昨日は反対していたのに、オルガに何か言われたのだろうか。

 あるいはオルガが同行するならと、判断に迷っているのだろうか。


「お婆様、行ってきます」

「……………………うむ……気を、付けるのじゃぞ」


 長い沈黙の後、硬い仕草で婆さんは頷いた。


「クレア、必ず無事に帰ってきます。だから……許してください」

「ローズ、お願いよ……行かないで」


 クレアは霧中にあっても尚、引き留めようとしてくる。

 俺はそれ以上はもう何も言えず、立ちこめる霧に背中を向け、歩き出した。

 隣にはオルガが並び、一緒に階段裏に回って地下へと下りていく。


 頭が一杯一杯で、まともに何かを考えられる状況じゃなかった。

 まさかクレアがあそこまで俺のことを心配し、大切に思っていてくれてたなんて、さすがに予想外だった。

 しかし、だからといって立ち止まるわけにはいかないのだ。

 

「うっし、行くかローズ」

「……はい」


 転移部屋に入る前、俺はオルガの声にしっかりと頷き返した。

 が、すぐに思い至る。


「って、本当にオルガさんも一緒に来るんですかっ?」

「おう、行くぜ」

「…………」


 同行者は一人までなんだけど……どーすんのこれ。

 と思いながらも転移部屋の扉を開けると、中は明るかった。

 魔石灯が点いている。

 そして転移盤前に毛布が敷かれ、その上に美天使が寝そべっていた。


「セイディ?」

「あー……来ちゃったかぁ」


 溜息を吐きながらのっそりと立ち上がり、苦笑して俺を見つめてくるセイディ。

 が、隣に視線を転じると、少し目を見張った。


「ってまさか、姐さんも一緒に行くの?」

「まあな、だから止めんな。これでも聖天騎士だ、ガキ一人くらいは守れるつもりだぜ」


 セイディは片手を額に当てて「んー」と呻きながら首を捻る。

 

「……でもアタシには、お姉様を裏切ることはできないのよねぇ」

「おいローズ、あんまグズグズしてっとクレアが追ってくるぞ」


 隣のオルガに小声でそう言われた。

 彼女が同行する件もセイディのことも今は置いておき、とにかく転移してディーカを発つことを優先しなければならないだろう。


 俺は止めていた足を動かし、転移盤へ近づいていく。

 セイディはムッとした顔で身構えた。


「どいてください、セイディ。外でならともかく、飛べないセイディに私を止めることはできません」

「ぐうの音も出ない正論ね……でも行かせるわけにはいかないわ。危険すぎよ、考え直しなさいローズ」

「無理です」

「アルセリアさんから色々習ってたアンタなら分かるでしょ。カーウィ諸島は竜人族以外だと死ぬほどヤバいとこなんだって、ホントに」


 大げさな身振り手振りで言いながら、さりげなく俺に魔力流を放ってくる美天使。

 この微妙に汚い戦法、さすがと言っておこう。

 だが俺は難なくそれを防ぐ。


「そりゃアタシだってアルセリアさんは助けたいわよ。ローズは普段わがまま言わないから、それを叶えてもやりたいわよ。でもホントに危ないのよ、死んじゃったらどーすんのよ」

「死にません。ちゃんと帰ってきます」


 クレア同様に魔力流を連発してくるが、俺のシールドを破るほどではない。

 セイディは舌打ち混じりに「あぁもうっ」と溢しつつ片手で頭を掻きむしると、いきなり踏み込んできた。

 急な接近に少し驚くが、ユーハに比べれば遅い。


「だったらゼロ距離から叩き込んでやるわよっ!」

「〈霊斥ルゥ・ルペリ〉」


 俺は闇属性中級魔法を行使し、セイディの接近を食い止めた。

 だけでなく、壁際まで押し返した。

 きちんと魔法名を口にしたのは、セイディに身構えてもらうためだ。


「ぅぐっ!?」


 美天使は衝突の痛みに小さく呻くも、俺はそのまま魔法を行使し続け、壁に張り付け状態にしておく。


「ちょっ、ローズ、アンタ止めなさいって! リーゼもサラも泣くわよっ、メルなんて確実に泣くわよっ、アタシも泣くわよっ!」


 必死に言葉を投げかけられ、更にはいつも陽気な彼女から少し潤んだ瞳を向けられ、心が大きく揺らいだ。

 しかし、もう俺は自らの意志を曲げない。曲げられない。

 行かなければ、アルセリアが死んでしまうのだ。

 それだけは何としてでも阻止せねばならない。


「ありがとうございます、セイディ」

「感謝してんなら行くなっての! ぐぅっ、こ、の……っ、アンタ本気出してるわね!? 冗談抜きにお尻ペンペンするわよっ!」

「帰ってきたら、お願いします」 


 俺は頭を下げながら転移盤に乗り、オルガに頷いた。

 それと同時に、〈霊斥ルゥ・ルペリ〉を行使したまま上級幻惑魔法〈奪明弾ヴィ・ルーティ〉を使っておく。

 セイディは翼人なので落下感には慣れている。

 視覚を麻痺させれば、追いかけようにも追いかけられないだろう。


 オルガが転移盤を起動させ、見慣れた黄金光が部屋中に満ちていく。

 俺は最後まで〈霊斥ルゥ・ルペリ〉を使い続けたまま、《聖魔遺物》に身を委ねた。


「ローズ……アンタ、ちゃんと帰ってきなさいよ!?」


 転移する直前、そんな声が聞こえてきて、最後まで俺の心を優しく苛んできた。


 そうして、俺は館を出て行った。



 

挿絵情報

企画:Shintek 様

 

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