間話 『狩る者』
■ Other View ■
――自由を奪われ、世界を穢された。
かつて、彼はただの少年だった。
平凡な村に住む凡百の家庭に生まれ、人並みに育った少年だった。
同じ村の子供たちと遊び、喧嘩して、七歳の頃に初恋をし、有り触れた日常を謳歌していた。
『おら来いっ、このクソガキが!』
世界が反転したのは九歳の頃だ。
その切っ掛けもまた、さして珍しくない一事だった。
田舎だった彼の村は、たちの悪い奴隷商人に目を付けられ、村の子供たちが人攫いに遭った。彼もまたそんな非道な奸計に嵌まり、奴隷に堕ちて、唐突に日常が終わった。
それだけだったなら、まだ救いようはあった。
『今日からアタシがアナタのご主人様よ。よろしくねぇ、可愛い可愛いアタシの坊や』
彼は奴隷として売りに出され、彼の与り知らぬところで買い手が決まり、意に反して主人を得た。
その主人は異常だった。
奴隷とは人にして人に非ず、主人の所有物であり道具である。その認識を万人が信奉こそしていないにしろ、知識としては広く浸透している世界において、彼もまたそういった認識が存在するという常識は承知していた。
だが、彼の主人は奴隷たちを道具ではなく、玩具として見ていた。
『あぁっ、最高だわアナタ! その顔、その声、この身体っ、全てが最高よ!』
見目麗しかった彼は、主人の所有する愛玩具の中で、たちまち一等の地位を獲得した。その当然の帰結として、彼は主人の手により特に入念な寵愛を受けた。
まず薬物にて全身の自由を奪い、この世の穢れを凝縮したかの如く醜悪な洞で未発達な彼自身を呑み込み、主人は齢にそぐわぬ奇怪運動を始める。
だが、彼の主人は五十代半ばの毒婦であり、その嗜好は常軌を逸していた。腰部を卑しく動かしながら、花弁を毟り取るが如く優しい手付きで彼の肉体を削り、ゆっくりと自由を奪っていく。
おぞましい快楽と耐えがたい苦痛を同時に味わい、やがて快楽が苦痛となり、苦痛が快楽となっていった。
『あらぁ、どんな子でもやっぱりだんだん壊れちゃうのねぇ。残念だわぁ、とてもとても残念だけれど……最後のお遊戯は期待できそうねぇ』
一度の遊戯で傷ついた身体は次の遊戯前に魔法の力で癒されて、再度の快楽を強制された。しかし、戯れで奪われたものは次第に元に戻らなくなり、二年という期間を掛けて浸食された彼の精神は、やがて主人の欲望を満たすに足る反応を返せなくなった。
彼は見切りを付けられ、処分前最後の役目として、かつてない遊戯を強いられた。狂っていた彼の神経が元に戻る程の激痛と恐怖を味わい、彼は完全に自由を奪い取られ、真なる絶望の底へと叩き落とされた。
『ぅふっ、ぅふふふふぁあははははぁぁぁんっ! 最っ高よ! やっぱりアナタはアタシの最高の玩具な――っ、誰アナタたち!?』
二年という期間の中、最後にして最高の反応を見せた彼に、主人はこの上ない充足を得ていた。
そんなときだ。
主人の館は襲撃を受け、彼を無慈悲に支配していた毒婦は呆気なく殺された。
完膚無きまでに簒奪された彼は廃人同然だったが、目前で首が落ちる場面を観覧できた。幸か不幸か、それが僅かながらの救いとなり、彼は辛うじて一片ほどの正気を保てた。
『君のその怒りと憎しみは、我々と共に在ることに相応しい』
彼は毒婦を討った者たちに助け出された。
そして彼自身にさえ自覚のなかった天資を見出され、彼を救った者たちの仲間に加えられた。最悪の記憶を糧に力を手に入れ、奪われた自由を取り戻すため、彼は過去を乗り越えようと決めた。
しかし、彼の記憶の中で暴虐を尽くす毒婦は精強だった。
幾多の戦いを経ても過去には打ち克てず、自由は未だに戻らない。
紛う事なき最低最悪の過去だ。決して色褪せることなく、今も尚、彼の脳裏に鮮烈な記憶として焼き付いている。
だからこそ、彼は戦わねばならなかった。
何としてでも忌まわしき過去を克服し、自由を再び我が物として、あの美しき世界へと至るために。
■ ■ ■
悪夢を見ると、決まって最悪の気分で一日が始まる。
嫌な汗を掻いた全身は気持ち悪く、ベッドのシーツは人型に濡れて身体が冷える。
彼は悪夢にうなされたからといって、勢い良く飛び起きるような真似はしない。昔は違ったが、そんな無様を演じない程度には悪夢に慣れてしまっている。
薄く目を開けて、彼は大きく深呼吸をした。
「ん……?」
しかし、そこで気が付いた。
いつもなら汗で前髪が濡れ、額に張り付いているはずなのに、その不快感が今日はない。加えて、彼の嫌いなもの特有の、妙に甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐっている。
「……………………」
右隣に目を向けてみた。すると、そこには彼が嫌悪する三つのもののうち、二つが該当する輩が寝そべっていた。
「おっはよーございまーすっ! ご主人様うなされてましたけど大丈夫ですかー?」
最悪の寝起きに相応しからぬ、間抜けなまでに底抜けな明朗さを有した声が鼓膜を震わす。
彼は無表情に、その声の主の締まらない阿呆面を視界に捉えたまま、問いを投げた。
「何をしてるんだい」
「やだなーもぉ、そんなの決まってるじゃないですかー。汗を掻いているようだったので、添い寝しながらお顔をふきふきしてたんですよっ」
「……ボクの嫌いなものを言ってごらん」
「え、なんですか突然、今更そんなこと言うまでもないじゃないですかー。ワタシ以外の女と、ワタシ以外の魔女と、ワタシ以外の奴隷ですよねっ!」
なんだかんだ言いながらも、きちんと答えて無駄に自信溢れた笑みを咲かせる。
彼は右隣から天井へ視線を戻し、溜息混じりに、しかし不機嫌な声で言った。
「ベッドから降りろ」
「りょーかーいっ!」
元気良く返事をして機敏な動きでベッドから転がり出ると、女は背筋を伸ばして踵を揃え、起立の姿勢をとった。
彼はゆっくりと上体を起こし、ベッド脇に下着姿で立つ女をちらりと見た。何が楽しいのか、表情筋の緩みきった顔でひたすらニコニコ笑っている。それはここ二年ほどで見飽きるほど見せられた姿だった。
いつ見ても目障りな耳は小ぶりな顔と同程度の長さを有し、右側だけ半ばから垂れている。薄紅色の髪もまた腰元まで届くほど長く、しかし臀部の尻尾は綿花のように丸く短く、他の獣人共と違って無駄に揺れるようなことはない。背丈は年相応だが全体的に細身であり、そのくせ女性的な部位は人並みに下着の向こうから存在を主張している。
「服を着ろ……」
「着ろと言われれば着ますけど、その前にご主人様が着替えた方がいいんじゃないですかー?」
元来は清楚可憐な内面を窺わせるだろう相貌は無意味に良く動き、様々な表情を見せる様は虹の掛かった青空を思わせる。
彼はベッドの縁に腰掛けて、まだ悪夢の残滓が残る頭に片手を当てて、煩わしげに言葉を吐いた。
「服を着て、そして出て行くんだ。ボクはその後で着替える」
「お手伝いしますよ?」
今年で十九になるはずの女は、初心な少女のように純真さを振りまきながら小首を傾げる。
「……モニカ、これ以上は言わないよ。いいから早く服を着て、部屋から出るんだ」
「りょーかーいっ!」
耳長の獣人女モニカは、ピンと伸ばした指先をこめかみ辺りに持っていって敬礼する。だがその所作はオールディア帝国軍あたりの厳格な士官が見たら、口角泡を飛ばして叱責するほどいい加減なものだった。
モニカは彼の視線など全く気にした様子もなく、そそくさと服を着始める。
袖無しのシャツと上着に丈の短いスカート、脚部の八割が露出した素足には膝上まである長い靴下を穿くことで、下半身の肌色率が二割程度にまで減少する。
露出が多いのか少ないのか甚だ疑問な格好になると、「ではっ!」と再び型の崩れた敬礼をしてドタドタと扉を開けて出て行った。
「……………………」
彼は大きく吐息を溢し、立ち上がって全裸になった。
小綺麗な内装の室内には過不足なく家具が揃えられている。彼は部屋の隅に置いてあった桶に魔法で水を満たし、適当な手拭を濡らして身体を拭いていく。
昨日から彼が宿泊している館には立派な浴場があるものの、朝から湯浴みをする趣味はないし、何より面倒だった。
顔も洗ってある程度さっぱりすると、衣類を纏って頭髪に軽く手櫛を通し、身だしなみを整える。悪夢の余韻は未だ消えないが、気分くらいなら入れ替えられた。
そうして部屋を出て行こうとしたところで、ベッドの枕元にある一枚の布切れを見咎める。薄紅色に染め抜かれたそのハンカチは彼の趣味にそぐわぬものだ。
溜息を溢しながらも手にとり、部屋を出た。
「あっ、ねえねえご主人様、朝ご飯はなんでしょうかねー?」
館の各個室と同様に赤い絨毯の敷かれた廊下で、モニカは壁に背を預けて待っていた。
彼はやにわに接近してくる彼女を視線だけで押しとどめ、悠然と口を開く。
「モニカ、ボクの嫌いなものを言ってごらん。ちなみに今度間違ったら、君の朝食は抜きだよ」
「ワタシ以外の女と、ワタシ以外の魔女と、ワタシ以外の奴隷でーすっ!」
「……どうやら朝食はいらないようだね」
「えぇっ、なんでですか!? ワタシ間違ったこと言ってないのにっ!?」
彼も期待はしていなかったとはいえ、当然のように間違えられると、怒りより呆れを強く覚えた。
「君の頭が緩すぎることは、十分に承知していることだけど……」
「いやー、そんな褒めないでくださいよー」
モニカはだらしない笑みを浮かべて一丁前に照れている。
彼は馬鹿女の戯言を無視して言葉を続けた。
「とりあえずボクへの呼び方を改めてくれないかな」
「え? なんでですか? ご主人様はご主人様なのに」
太陽を太陽と呼ぶことに疑問を覚える者はまずいない。
モニカの反応はそれと同じようなものだった。
「以前から言っているけど、ボクは奴隷が嫌いなんだ。君はただでさえ魔女で、ボクは君と一緒にいるだけでも不愉快な気分になってくる。ここまではいいね?」
「いーでーっす!」
「そして、今日はボクと同じ幹部連中の多くと顔を合わせることになる。君がボクをご主人様なんて呼んだら、みんなに誤解されるだろう。いい加減、ボクのことは名前で呼ぶんだ」
「えー、でもご主人様はご主人様ですしー」
「……その主人の言うことが聞けないのかい?」
「じゃあちゃんと命令してくださいよ、命令」
そうしないと聞き分けられない、とモニカは暗に言っていた。
なぜそうまで拘るのか彼には理解できなかったし、一度完全に精神が崩壊した者の思考を理解できるとも思っていない。彼とて今目の前にいる愚者と同様の境地に足を踏み入れかけた経験はあるが、彼はなんとか踏みとどまれた。
「…………なら、主人として命令するよ。ボクのことは名前で呼ぶこと。それと君はボクの部下だ、決して奴隷なんかじゃない。わかったかい?」
彼は渋々、非常に納得のいかないことではあったが、折れてやった。
この二年間、一度たりとて主人としては振る舞ってこなかったものの、さすがにそろそろ限界だった。自らが人を奴隷として扱うことは彼の矜持に著しく反するとはいえ、これが最初で最後の命令だと思えば、辛うじて耐えられる。
「わっかりましたー! 今日からワタシは部下でーすっ、ご主じ――じゃなかった、エネアス様の部下になりまーすっ!」
「……そうしてくれ」
彼――エネアスは憐憫と嫌悪を滲ませた眼差しでモニカの宣言を受け止めた。
悪夢と面倒な会話によって朝から妙な気怠さを感じつつ、エネアスは廊下を歩き出す。それと同時に手にしたハンカチをモニカへ無造作に投げ返した。
「あっ、そーいえば忘れてました、ありがとーございまーす!」
エネアスは背後の声に振り返ることなく足を進め、階段を下りて一階廊下を歩いて、食堂へ向かう。
現在、エネアスとモニカが宿泊しているのは《黄昏の調べ》が所有する館だった。正確には《黄昏の調べ》幹部の一人にして、プローン皇国貴族であるスパーノ・シャブランの別荘だ。
彼の本邸は皇都フレイズにあるが、この別荘のある都市セリジュは華の都とも呼ばれ、風光明媚な景観を誇ることから権勢強い皇国貴族はこの地に別荘を持つ者が多い。別荘に友人知人を招いてのパーティなど珍しくなく、故に来客が多くとも不自然にはならない。
なんとはなしに足を止め、エネアスは朝日の差し込むガラス窓から庭先をちらりと見遣る。モニカの毛色と同色の蕾をつけた木々がずらりと居並び、春の訪れを感じさせていた。
「あと三節もすれば、セリジュの木は満開に咲き誇るでしょうな」
視線を廊下の先に転じると、長身の男がこちらに近づいてきていた。
「おはようございます、エネアスさん」
「おはよう、シャブランさん」
淀みない口調で、純然たる社交辞令からの挨拶を、エネアスは詠うように口にする。
「昨晩はよく眠れましたかな?」
「ま、そこそこね」
エネアスより頭一つ分ほど上背のある彼は小綺麗な服装に身を包み、良く整えられた口髭と理知的な双眸が印象的だ。目尻や口元には少々の皺が浮き上がり、四十代前半を思わせるが、そこに衰えた様子は一切感じられない。
多くの者が一目見て紳士という言葉を想起するだろう容貌には立ち姿一つとっても気品が窺える。
「それは良かった。何か不都合があれば、私にでも使用人にでも遠慮なく言ってください。貴方は客人ですからね、この館の主として精一杯もてなさせてもらいますよ」
「ありがと、何かあれば言わせてもらうよ」
当たり障りのなく応じておき、エネアスは早々にこの場を脱しようとした。
しかし、館の主スパーノ・シャブランその人はエネアスの歩みを妨げるように立ち塞がっており、更なる言葉を投げかけてくる。
「ところでエネアスさん、実は私、貴方の奴隷に興味がありまして」
「…………」
エネアスが一度切った視線を再びスパーノに合わせると、紳士風の男もまた、エネアスの斜め後ろにいるモニカから彼に目を向け直した。
その眼差しに込められた意味合いはモニカからエネアスへ移ろおうと、何らの変化も見られない。
「いえ、決して邪な理由からではないですよ、もちろん。ただ、こうして上手く飼い慣らせている魔女を見たのは何分初めてなもので、とても興味深くありましてね。昨日はろくに検分できなかったものですから」
「グレンはボクが来る二日前から滞在していたんでしょう? 魔女ならあの男も連れているはずだけど」
「ご冗談を、あちらは素体こそ最高でしょうが、所詮は失敗作です。しかしエネアスさんのものはなかなかの成功作だと聞いています。少し、お話しさせて頂いても?」
わざわざ訊ねてくるということは、モニカと一対一で話がしたいのだろう。
それはエネアスとしても都合が良かった。
「話くらい好きにしてくれて構わないよ。それじゃあ、ボクは先に行くから、ごゆっくり」
短くそう言い残してスパーノの横を通り過ぎ、エネアスは早々に不愉快な視線から逃れようとした。しかし、男に対する苛立ちのあまり、モニカに自分と同程度の忍耐と思慮ができないことを彼は失念してしまった。
「えー、ワタシ嫌ですよこの人と話すのー」
場の流れや雰囲気など全く解しないモニカは本心をそのまま口にする。
今まさに視界の端で途切れようとしていた紳士の顔――その細い眉が微動したことをエネアスは見逃さなかった。
思わず足を止め、モニカを振り返る。
「……朝食は抜きだと言っただろう? 君は食堂に来る必要がないんだから、シャブランさんとゆっくり話していれば良いよ」
「嫌ですよー、どうしてこんなオジサンと二人で話なんてしなくちゃいけないんですかー? この人エネアス様のことすっごく馬鹿にしてますし、言ってくれればサクッと殺しますよ?」
モニカはスパーノを指差しながら、しかし彼に視線を向けることなく、口を尖らせて如何にも不満そうな顔で言う。
一方、細い人差し指の先で静かに佇立する紳士は表情一つ崩すことなく、エネアスに対するのと全く変わらぬ声をモニカに向けた。
「これはまた、奴隷風情が偉そうな口を利くものですね」
「奴隷じゃないですー、エネアス様の部下ですー」
成人して久しい女性とは思えぬ子供じみた口調で言い返し、モニカは「んべっ」と舌を突きだして見せた。するとスパーノはさも驚いたと言わんばかりに両の眼を大きく見開き、瞬きする。
「おやおや……エネアスさん、貴方も魔女奴隷を与えられたのでしたら、きちんと躾なくては。いくら《更正所》の方で入念に調教してあるといっても、甘やかしていると調子に――」
「彼女の言うとおり、モニカはボクの奴隷じゃなくて部下だ」
早く話を終わらせたくて口を挟むと、スパーノは軽く笑みを浮かべた。
そこには視線よりもはっきりと、侮蔑と嫌悪の念が滲み出ている。
「いけませんよ、エネアスさん。いくらコレが貴方に与えられたものだといっても、コレは《黄昏の調べ》が管理所有する道具には違いないのです。それを人として扱うなど……いえ、貴方の心情は理解できますよ。しかしそれは貴方の弱さだ、人は人として、奴隷は奴隷として扱うべきです」
「ご忠告どうも。でも、ボクは女と魔女と奴隷が大嫌いなんだよね。ただでさえ彼女は二つも当てはまってるのに、この上さらに彼女を奴隷扱いしてしまうと、ボクはその存在を完全に許容できなくなってしまう。それに……アハッ、笑わせないでよシャブランさん」
エネアスは愉快痛快とばかりに口元を歪め、出会い頭から己を見下し続ける輩に笑いかけた。
「ボクの心情が理解できる? 軽々しく言わないで欲しいなぁ、まったく。なんだったら今ここで、貴方から四肢を奪い取って家畜小屋にでもその身を放り込んであげようか? その後で尚も貴方が同じ忠告をするようなら、そのときは素直に聞き入れるけど」
「はっはっはっ、エネアスさん、相手が諧謔を解する私だから良いものを、冗談もほどほどにしておいた方が良いですよ」
スパーノは朗らかな笑みと友好的な声音をしてはいるが、威圧的な視線を発する双眸は笑っておらず、嘲りと侮りが垣間見える。
「アハッ、そうだね、世の中には冗談が通じない人なんてたくさんいるし。特にボクは同じ人から同じ冗談を言われるのが我慢ならないたちでね。損得勘定も何もかも抜きにして、その人をぶっ殺したくなっちゃうんだ」
「…………」
エネアスもまた笑いながら、視線にだけ殺意を込めて相手を見上げる。
シャブランは一瞬、両目を細めて表情に苛立ちを覗かせるが、すぐに引っ込めた。
「それじゃあ、ボクは食堂に行くから。また後で、シャブランさん」
「ええ、また後で、エネアスさん」
紳士風の男に背を向けて、エネアスは歩みを再開した。
その後ろからモニカがついてくるが、スパーノは彼女を引き留めようとはせず、向こうも歩き去って行く。
「ねえエネアス様、やっぱりワタシ奴隷の方がいいですよねー?」
エネアスは背後を振り返らず、首を横に振った。
「ダメだ、ボクは誤解されたくないからね」
「でもあの偉そうなオジサン、ワタシがエネアス様の部下だーって言ったから、誤解しましたよねー? やっぱりワタシ、奴隷の方がいいんじゃないですかー?」
「モニカは理解できなくても良い。とにかく君は部下だ、奴隷じゃない」
モニカの言うとおり、エネアスが彼女を人扱いする限り、組織内――少なくともエネアスの過去を知る連中からは、スパーノと似たような反応をされるだろう。
だが、エネアスは自身がモニカを奴隷扱いしていると、余人から思われたくなかった。それは決して、モニカを思ってのことではない。
魔女の元奴隷が魔女の奴隷を従えている。
端から見れば、ある種の滑稽さを思わせる絵面だろう。
だからこそ、シャブランは最初から最後までエネアスを言葉なく嘲っていた。ただ、彼の場合は、元奴隷と貴族の自分が同じ幹部員であることが気に食わないという面もあったのだろうが。
それにエネアスとしては、嫌悪するもの三拍子が揃った存在など、側に置いておきたくはない。今現在でさえ、モニカという女の存在を彼は許容しておらず、単に有用だから仕方なく手元に置いているだけなのだ。
「それはともかくとして、あのオジサン殺さなくて本当に良かったんですかー? エネアス様かなりむかついてましたよねー?」
「確かに腹立たしかったけど……アハッ、君は本当に馬鹿だなぁ」
エネアスは余裕ある微笑みを端正な顔に浮かべ、やはり振り返ることなく肩を竦めてみせた。
背後のモニカはまさに馬鹿相応の緩みきった声で「えへへー」と声を漏らして馬鹿らしく照れている。
モニカに言われるまでもなく、エネアスとてスパーノ如き癪に障る輩は跡形もなく消し去ってやりたいと思っている。
しかし、世の中はそう単純ではない。
エネアスが直接的な戦闘能力でスパーノを圧倒しているように、スパーノは権力という面倒な力でエネアスを圧倒している。
仮にエネアスがあの似非紳士を滅殺すれば、プローン皇国における《黄昏の調べ》の影響力は確実に減衰し、エネアスは組織から厳罰を受ける。それだけなら未だしも、今後は己が目的を果たすために組織の力を最大限利用できなくなる。
エネアスにとって最も重要なことは自由を取り戻すことだ。
故に、その至上目的を達する妨げとなるような行動は自重せねばならない。
それに一応だが、《黄昏の調べ》には少なからず恩義がある。
己が悲願を成就するのに支障がない範囲でならば、可能な限り組織に利する行動をとるのもやぶさかではなかった。無論、彼の矜持に反すること以外でだが。
無駄に広々とした館内を歩き、食堂に到着する。
そこはパーティなどに使われる会場か何かなのだろう、丸テーブルが十以上は並び、入口脇には使用人の若い女が立っている。
「おはようございます、エネアス様。お席の方はご自由にお選びください」
既に使用されているテーブルは四つあり、どこも数人で朝食を供にしている。
しかしエネアスは他の連中と馴れ合う気などさらさらないため、誰もいないテーブルに腰掛けた。当然のようにその隣席にはモニカが座り、ややもせぬうちに次々と食事が運ばれてくる。
「うわぁ、なんですかこれ美味しそ――」
「あ、君、彼女は朝食いらないから下げてもらえるかな」
「えぇっ!? ワタシほんとにご飯抜きなんですか!?」
モニカの驚愕した様子に使用人は一瞬だけ躊躇いを見せるが、すぐにエネアスの指示に従っていく。
どうやらエネアスとモニカの関係は使用人にまで言い含められているらしい。
エネアスは他のテーブルに座る男たちから視線を向けられていることに気付いてはいたが、無視して食事を始めた。
この館では本日、近々行われる皇都フレイズでの大規模な作戦に関する幹部会が開かれるため、現在この食堂にいる男たちは皆、組織内でも少なくない影響力を持つ者たちだ。懇意にしておいて損はないが、それほど有益になるとも思えないので、面倒な接触は避けておく。またスパーノと同様の視線を向けられても、安易に解消できない苛立ちが募るだけだ。
「お腹すきましたぁー」
「…………」
隣でぐったりとテーブルに突っ伏すモニカを一顧だにせず、エネアスは黙々と栄養を取り込んでいく。さすがというべきか、どれも美味なものばかりだが、彼は味などさして気にしない。
「よぉ、雷光王さん」
半分ほど食事を進めた頃、丸テーブルの向こう側に一人の男が現れた。
長身のスパーノより更に上背があり、横にも大きな偉丈夫だ。さながら熊の如き巨漢の獣人で、全身も毛深く、発せられる声からは豪放磊落な気性が窺い知れる。
そろそろ四十に届く齢のはずだが、以前に会った頃と比べてまた一段と筋肉が増えたのではないかと疑いを覚えるほど、その人並み外れた肉体の質量は圧倒的だ。
エネアスが横に並べば子供と勘違いされかねないだろう。
「どうだ、昨夜は楽しめたか?」
「……モニカをボクの部屋に入れたのはやっぱり君だったか、グレン」
下品な笑みを添えて訊ねられ、エネアスは大げさに溜息を吐いてみせる。
だが内心では無警戒すぎた昨夜の己をあらん限りなじっていた。
「おうよ、真夜中にお前の部屋の前でウロウロしてたからな。ちょろっと鍵穴弄くって中に入れてやったのよ」
「相変わらず見かけによらない特技を持っているようだね」
巨漢の男――グレンは得意げかつ豪快に野太く笑いながら、エネアスに断りなく対面の席にドカッと腰を落とした。
エネアスは悠々とした挙措で食事の手を進めながら、奴の椅子が潰れて無様に尻餅でもつかないものかと思った。しかし、さすがは別荘とはいえ貴族の有する館の調度品か、悲鳴めいた軋みが上がっただけで巨体を支える椅子は健在だ。
「おら、お前も座れ」
「…………」
グレンは片手を無造作に振って面倒臭そうに告げる。
すると今度は一人の女が、やはりエネアスには何の断りも入れず、無言でグレンの隣に着席した。
「あっ、ミルミルだー、おっはよー!」
「…………」
女はモニカの挨拶に何らの反応も返さず、ただ虚な瞳を虚空に投げ出している。
エネアスをして絶世の美女と評せるだけの美貌を有した面には、隣のグレンとは対照的に覇気どころか生気も皆無で、まるで一流の職人が拵えた精巧な人形のようだ。グレンの趣味なのか、モニカより女らしさの漂う身体には楚々とした使用人服を纏っている。
「ねえねえ、その服どーしたのー? あそこにいるメイドさんと同じ格好だよねー?」
「ガハハッ、スパーノの野郎に言って一着貰ったのよ。昨夜はこの格好でこいつが気絶するまで楽しんだぜ!」
「あっ、そうだエネアス様っ、思い出しましたよ! この筋肉男、昨夜廊下で会ったとき全裸だったんですよっ、しかも開けてやるから一発ヤラせろとか言ってきたんですよ変態ですよこの筋肉、変態!」
「そんなことは今更だろう。それより耳元で騒ぎ立てないでくれるかな」
エネアスが視線すら向けず注意すると、モニカはすぐに大人しくなった。
仮にも変態呼ばわりされた男は特に気にした風もなく、食事を運んできた使用人の臀部を撫でて困らせている。
「で、エネアスよぉ、この如何にもな馬鹿女とはヤったのか?」
「……グレン、分かりきった質問はしないでもらいたいね。それとも君はボクを挑発してるのかな?」
食事の手を止めると、エネアスは口元を拭きながら対面の巨漢を睨み付けた。
グレンは使用人の女の胸部に太い指先を這わせ始めつつ、何の悪気もなさそうに笑う。
「ガハハハ、んな怒んなって、肝っ玉の小せえ野郎だな。もしかすっとお前の不能っぷりが治ったのかと思って訊いただけだ。その様子だとまだ使いモンにならねえみたいだな、同情するぜまったく」
「君に同情される謂われはないよ。ボクは女が嫌いだからね、君のように浅ましく腰を振ったりする予定は一切ないんだ。それとグレン、いい加減その使用人を向こうにやってくれないかな? 女々しく卑しい声を聞いていると殺意が湧いてくるんだよ」
使用人の女はグレンに肢体をまさぐられて、息遣い荒く扇情的な声を微かに溢している。が、エネアスから射貫くように睨み付けられると、一転して表情を凍り付かせた。
ただでさえテーブルには女が二人いて、うち一人は身動き一つしないとはいえ、彼女はエネアスの嫌いな三項目を備えた女だ。そこに加えて、使用人の女の醜態を見せられては、さすがに我慢できなくなる。
幸か不幸か、相手は有象無象の使用人なので思わず殺してしまっても大した問題にはならないだろうが、シャブランに借りは作りたくない。
「んだよ、そんな怖い目で睨むんじゃねえよ。萎えるだろ……ったく、雷光王様は狭量でいけねえや」
「…………グレン、どうやら君は余程ボクに殺されたいらしいね」
「だからマジになるなって、悪かった、オレが悪かったよ」
グレンは軽く両手を挙げてはいるが、毛深い顔からは謝意など微塵も感じられない。ただ面倒臭そうな表情が浮かんでいるだけだ。
使用人の女は乱れた着衣を直しながら逃げ出していき、エネアスは視界からその姿が消えると同時、殺意を霧散させた。
そして先ほどからこっそり食事している部下に目を向ける。
「モニカ、君はなぜミルシェの朝食を食べているのかな」
「ミルミルがくれるって言ったのでー。人の好意は無碍にしちゃいけませんよねー?」
「見え透いた嘘は嫌いだよ。君は昼食と夕食も抜きだ」
「えぇっ!?」
泣きそうな顔で落胆しているモニカに対し、朝食を奪われていた女――ミルシェは身動き一つせず、ただ姿勢良く着席している。
彼女の端正な相貌には如何なる感情も表出していない。
しかし、それも当然といえば当然だろう。ミルシェはモニカと違い、上手く壊れることができなかったのだ。廃人同然のミルシェにはグレンが命令しない限り、食事だろうと排泄だろうと魔法だろうと、睡眠以外の如何なる行動も自発的に行えない。
「ガハハハ、お前の馬鹿女の馬鹿な行動で、今のはチャラでいいなエネアス」
「仕方がないね」
エネアスは涼しげな顔でわざとらしく肩を竦めた。
グレンは食事を始めながら隣のミルシェに「食え」と命じ、命じられた魔女奴隷は緩慢な動きでスプーンを手に取り、スープを口に含み始める。
「そーいえばエネアスよ、聞いたぜお前。ここでの狩りが終わったら、魔大陸行くんだよな? 前にやり損なった魔女をぶっ殺しによ」
「それがどうかしたのかい?」
「それ、オレも行かせてもらうぜ」
汚らしく咀嚼しながらグレンは意気揚々と宣う。
エネアスは微かに眉根を寄せた。
「ボクの獲物を横取りする気かい?」
「安心しろって、ちゃんと協力するし翼人の魔女はお前にやるから。ほら、お前だって戦力は多い方が良いだろう? オレがいりゃ万人力だぜ」
「万人は言い過ぎだけど……確かにそうだろうね。でも、なぜわざわざボクについてくるんだい?」
「勘だよ、勘。お前についていけばなんか面白いことがありそうだって、オレの勘が囁いてんだよ。それに魔大陸なら細かいこと気にせず好きに暴れてぶっ殺せるだろ?」
エネアスはグレンの言葉を聞き、逡巡する。
既に魔大陸での準備は全て整い、後はエネアスや他の幹部員が彼の地に戻って指揮を執り、かつての雪辱を晴らすだけだ。現段階でも戦力は十分に確保できる手筈となっているが……保険は幾らあっても困ることはないだろう。
グレンは野性的とさえ表せるほど品性の欠片もない男で、しばしばエネアスを不快にさせるが、その戦闘力は信頼に値する。
魔大陸からの報告では、三年半前にエネアスの邪魔をした剣士が《黎明の調べ》を常日頃から守護しているらしいことは聞いている。あの男に対する保険として、グレンは有用だろう。
「ボクは構わないけど、君の方は良いのかい? 南ポンデーロ大陸での活動を疎かにして」
「部下に任せるから問題ねえよ。ほれ、今だってオレ真面目に本部命令に従って皇国くんだりまで来てるんだぜ? ここ数年は働きすぎたし、これといって面白えことは何もねえしで、そろそろ息抜きしてえのよ」
「君の場合、仕事が遊びだろうに」
《黄昏の調べ》という組織はこの世から魔女を排し、完全な男性主権社会という秩序の形成が基本的な目的となっている。しかし当然のことだが、組織に身を置く全ての者が、その理念に賛同して活動しているわけではない。
金銭目的の者、魔女に恨みを持つ者、邪神オデューンを崇める邪教徒、社会から爪弾きにされた者、あるいは単純に魔女狩りを楽しみたい者など、様々だ。
エネアスは《黄昏の調べ》に助けられた恩に報いるため……という理由は僅かで、九割方は自らの至上目的のために組織を利用している。グレンの場合は本人曰く『楽しい』から組織にいる。
「んじゃま、魔大陸のことはここでの仕事が終わった後に詰めるとしてよ。そもそもお前、なんでわざわざ魔大陸の魔女ほったらかして、皇国にいんだよ。聞いた話じゃあ、お前ここ二、三年は本部の命令に素直に従って真面目に動いてたらしいじゃねえか」
「君は失礼だね、ボクは真面目だよ」
「あぁ、テメェ自身の目的に対してだけはな」
グレンは不作法にもフォークの先を向けてくるが、エネアスは素知らぬ顔で悠然と杯を傾けた。
「前に魔剣を盗られちゃったからね、ボク」
「はぁん、なるほど。また魔剣を貰うために頑張って働いてるわけか」
「ま、そういうことだね。幸い、皇都での活動が終われば貰えることになってるんだ」
《聖魔遺物》の魔剣は本来、一般人が手に入れられる代物ではない。
なにせエイモル教会由来の遺跡管理機構が管理しているのだ。
その価値は莫大であり、特に魔剣は使用者の魔力を消費しないことからも、非常に有用な武器とされている。実際、三年半前までエネアスは《聖魔遺物》の魔剣を重用していたし、そのための戦術も多く身に着けてきた。
あの敗北を喫した日以来、これまで魔剣なしに活動してきたが、一向に慣れることなく必要性を痛感するばかりだ。
しかし、それももう少しの辛抱だ。このプローン皇国での活動を終えれば、再びこの手に至高の武器を握ることができる。そして三年半前に仕留め損なった標的を確実に狩り、今度こそ過去を乗り越えて自由を取り戻す。
エネアスという翼人の未来はその先にしか存在しないのだから。
「なーに笑ってんだよ、そんなに待ち遠しいのか?」
「あぁ、待ち遠しいね。君の勘じゃないけど、ボクもなんだか予感がするんだ。あの日、魔大陸で取り逃がした翼人の魔女……奴を蹂躙すれば、今度こそボクは自由を取り戻し、再びあの世界に至ることができる」
眉目秀麗な顔に歪んだ笑みを深く刻みながら、ちらりと隣に座る女を見遣る。モニカは空腹のためか消沈のためか、テーブルに突っ伏して身動き一つしない。
正直なところ、エネアスは常日頃から彼女が煩わしくて仕方がないが、有用であることは疑いようがなく、特に今後の活動には欠かせない人員でもある。
だからこそ我慢して側に置き、他の者の手に渡らないようにしているのだ。
「モニカ」
食事を終えたエネアスは椅子から腰を上げ、呼び掛ける。すると、長い両耳を力なく垂らした彼女は物欲しそうな顔でのっそりと見上げてくる。
「行くよ」
「はぁーい……」
「仕方がないから、パン一つだけなら食べてもいいよ」
「はーいっ!」
ガバッと音を立てて起き上がり、テーブル中央に備え置かれた丸いパンを鷲掴み、かぶりつくモニカ。
「それじゃあ、また後でね、グレン」
エネアスは軽く手を振ってテーブルを離れ、パンに貪りつくモニカを引き連れて食堂を後にする。そうして廊下を歩いていくが、ふと数歩後ろで響いていた足音が途切れたので、軽く振り返ってみた。
モニカはガラス窓に両手を付いて、庭先を呆けたように見つめている。
「何をしてるんだい」
「ねえ、エネアス様、あの木ってあと三節くらいで花が咲くんですよね? ワタシたち三節後にはまだこの町にいますか?」
「いや、あと数日もすれば皇都に向かうだろうね」
「そうですかー……」
さも残念そうに呟き、未練がましく蕾のついた木々を眺める。
スパーノ曰く、庭先の木はこの町セリジュと同じ名を冠していることからも、華の都の名に相応しい美しさで咲き誇るのだろう。
どうやらモニカは半壊した頭でそれを理解しているようだ。
「でもっ、今年は見れなくても来年がありますよね! 来年は見に来ましょうねエネアス様っ!」
しかしモニカは表情の陰りを一瞬で吹き飛ばし、間抜けなまでに明るい声でそう言った。
エネアスが適当に「気が向いたらね」と口ずさみながら歩みを再開すると、モニカは上機嫌な足音を立ててついてくる。
彼は静かに溜息を吐き、心底から辟易としながら思った。
来年までには必ず目的を遂げ、こんな馬鹿で哀れな部下とは早々に別れよう……と。