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幼女転生  作者: デブリ
四章・日常編
90/203

 間話 『征く者』


 ■ Other View ■



『読書をして、人と話をしなさい』


 かつて、彼女が恩人から受けた言葉だ。

 知識は光となって無知という闇を払い、世界を照らしてくれる。

 他者と関わり相手を理解することで、未だ見ぬ己を知ることができる。

 そうして、自らが歩む道を自らの意志により、選び取ることができるようになる。

 

 彼女は良く本を読み、人と関わり合うようにしている。

 しかし、後者は普通に生きていれば嫌でもせねばならないので、彼女は暇さえあれば読書をすることにしていた。今もまた、青空の下で俯せになり、上体を肘で支えながら紙面に目を走らせている。


「おいこらっ、そっち行ったぞ!」

「ウォン小隊長ッ、こちらは既に手一杯ですッ!」

「ゲーヴお前なにやってんださっさと詠唱しろ!」

「は、はいぃぃぃ、すみません!」

「返事する暇あったらさっさとやれ!」


 随分と白熱した大声が耳に届くが、大して気にならない。

 身体全体が不規則に上下左右に揺さぶられるが、やはり大して気にならない。


「巨槌の如く粉砕せよ、目視適わぬ空寂の風槌。

 柔を圧せ、剛を崩せ、殺戮の血華を我に捧げよ――〈風槌ラトス・アーエ〉!」

「瞬き奔れ、其は禍因を祓う雷霆の如く怨敵を滅せよッ――〈雷撃ト・グイラ〉!」

「今だっ、第三班突撃!」

「地を駆る輩は揺らめく水面に降り立つこと能わず。

 然れど水上たゆたう一葉が如く、不定の地を駆る夢想に焦がれん。

 不沈の加護よ我が身に宿れ、今こそ足跡の波紋を響かそう――〈浮水之理メト・ティア〉」


 様々な詠唱、裂帛の気合い籠もる叫声、激動感じる水飛沫の音。

 彼女の頭は本の内容を噛み砕くことにほぼ全ての思考力を費やしていたが、最低限の義務は忘れず、頭の片隅で周囲の声や音から状況は把握していた。


「おーおー、頑張れ頑張れ。死傷者は一人も出すんじゃねえぞー」


 と彼女はどうでもよさげに声援を送るが、戦闘中の者たちにまでは全く届いていなかった。


「ぼぇぇぇぇぇ……」

 

 だが、一人だけ彼女の声を聞いている者がいた。

 寝そべって読書をする彼女の傍らで力なく四肢を突き、今まさに口から玉虫色の流体を吐瀉した女だ。

 女は真っ青な顔でむせるように嘔吐えずきながら健気にも立ち上がろうとしている。が、そのとき足下が大きく揺れ、転んだ。そして運悪く、今し方自らが吐き出したモノに顔面から突っ込む。


「おいおい、ハンネ……さすがのオレも、側でゲロ吐かれて顔面ゲロ塗れの奴がいたら読書に集中できねえだろが」

「そ、そんなこと……言われても……うっ、ぇぅ、んぐ……はぁ、だって、なら、オルガ様がさっさと……退治してくださいよ……っ、ぅ……っ!」


 視線を本からゲロ女ことハンネローレに移し、オルガは大きく溜息を吐いた。

 

「つーか、お前、吐くなら海に吐けよ。船汚してんじゃねえよ」

「だ、だって、間に合わな――ぅっ、ぼぇぇぇ」

「ぅおいっ、お前どんだけ吐くんだよ!? さっさと治癒魔――いやそれより顔拭け顔」


 ハンネローレは今年で二十九歳の独身であり、背は低めで胸元や腰元の女性らしさにはやや欠けるが、顔立ちは悪くないし社会的地位は相当なものだ。人柄は庶民的で人当たりも良く、彼女と結婚できる男は逆玉の輿となることもあり、少なくない部下から好意を向けられてもいる。

 しかし、今の顔面ゲロ塗れ状態を見て、彼女と結婚したいと思う男はまずいまい。百年の恋もたちまち凍てつく悲劇的面相をしている。


「はぁ、ったく……お前それでも水属性の適性者かよ……海戦で使いもんにならねえって、それさえなけりゃお前も聖天騎士になれただろうに」


 オルガは溜息を吐きながら本を閉じて身を起こす。

 対照的に、ハンネローレはその場に背中を曲げてへたり込み、蒼白した面で長身の上官を見上げる。盛大に吐いたせいか、つい先ほどと比べると多少はマシな様子だ。


「適性属性は関係ありませんよ……酔う人は酔うんです……それに、私は天級魔法……使えませんし、聖天の位は重すぎます……」

「言い返す暇あんだったら、さっさと顔拭いて治癒かけろ」


 ハンネローレは懐から少女趣味なハンカチを取り出すと、顔中の吐瀉物を拭き取っていく。その代償として、成人前の乙女が好みそうな花柄刺繍の施された布がゲロ塗れになった。

 しかし、詠唱を省略した水魔法で洗って何度か顔を拭い、花柄からも汚れを落とした。軽く水気を切ったハンカチを丁寧に畳みながら、仕上げに上級治癒魔法の詠唱をブツブツと呟く。

 

「はぁ……ふぅ……ぅん、良し。少しだけ楽になりました」

「そりゃ良かったな」


 未だ立ち上がろうとはしないので、快復具合は本当に少しだけなのだろう。

 

「にしても、苦戦してんなぁ、あいつら」

「それはそうですよ。魔大陸近くの危険海域なんですから。しかもアレ、あの一番大きな魔物、二級ですよ」


 オルガとハンネローレの視線の先には巨大な白い魔物が海面から姿を覗かせている。無駄に巨大な頭部だけでも巨人の全長程度はあり、その数倍の長さを誇る触手めいた腕が幾本も暴れ回っている。魔大陸近海と一部海域にしか生息しない二級魔物、クリスタルクラーケンだ。


「ま、そりゃこの戦闘の中心はあいつだわな。他にも雑魚がウヨウヨしてるみてえだが」


 クリスタルクラーケンの周囲にも三級から五級の水棲魔物が数十体ほどはいるのだろう。騎士たちは船上から魔法を放ち矢を射掛け、あるいは海面を駆けながら刀剣槍槌とうけんそうついで血祭りに上げ、片や上空から一方的に攻撃している。

 魚人たちもまた、海面下で人知れず奮闘しているのだろう。


 二人は騎士たちの守る十隻の大型船の一隻、その船室の屋根から悠々と戦況を眺め回している。いや、余裕があるのはオルガだけであり、ハンネローレは海戦による荒波と今も必死に不可視の内的戦闘を繰り広げている。

 とはいえ、魔物と交戦中の騎士たちから見ればどちらも良いご身分には違いなく、実際に二人は大層な地位と役職に就いている。


「いくら危険海域だからって、二級の魔物に襲われるなんて……普通は五級か四級か、せいぜい三級だって話なのに……」

「こりゃアレだな、聖神アーレがハンネに試練でも課してんだろ。この荒波に耐えきったとき、汝はささやかな、しかし確かな成長を遂げるでしょう――ってな感じによ」

「ぁ……そ、そうだったのですね……確かにそれならこの不運にも辻褄が……でも皆さん必死に戦ってるのに、もし死んじゃったりしたら私のせいで……」


 ハンネローレは敬虔な信者よろしくオルガの適当な言葉を信じて船酔いと戦いつつ懊悩し始める。と思われたが、ふとハンネローレは両手を組んだ祈り姿のままオルガを見上げ、言った。


「……あの、オルガ様、もうよろしいんじゃないですか? そろそろ加勢されては」

「それじゃ訓練にならねえだろうが。せっかくの状況だ、魔物相手の実戦経験積むにはもってこいだろ」


 二人が話している間にも戦闘は続いている。

 優に三百名を超える騎士たちは四方八方から襲い来る魔物共から、十隻の巨船を守り抜き、駆逐している。

 オルガの見る限り、三級以下の雑魚たちはクリスタルクラーケンという親玉に率いられているように見えなくもない。騎士たちも同じ考えは持っているのだろう、大将を討ち取ろうと白く巨大な魔物を攻めようとしているが、雑魚による妨害と親玉自身の力によって阻まれている。

 計十六本と思われる野太い触手は上空からの攻撃をも巧みに防ぎ、その防御をかいくぐった一撃が頭部らしき部位に命中しても、大した手傷を負わせられていない。


「うーん……決定打がねえなぁ。つか、あのクリスタルクラーケンって魔物、ほんとに二級か? いや魔大陸近くだから実際は特三級くらいか?」

「嗚呼、アーレ様、どうか皆さんにご加護を――ぅぷっ、ぐぃ、やっぱり私にも、ご加護を……ぅう、ダメ、気持ち悪い……」


 戦況を俯瞰する限り、倒せなくはない。

 今回の戦いには昨年入ったばかりの新人から古参の従光騎士まで幅広く参加させている。集団戦における連携練度の向上を狙い、各員には覇級以上の魔法使用を禁止しているため、面制圧ができず雑魚に手間取っているようだ。

 このまま戦闘を継続すれば、そう遅くないうちにクリスタルクラーケンを討ち取り、魔物共の襲撃は退けられるだろう。

 しかし、犠牲者は出るはずだ。今のところは負傷者程度で済んでいるが、数人は死ぬだろう。


「訓練で死者は出したくねえなぁ」

「で、でしたら……ぅぐ……ぇふっ……ぅ、もう覇級以上の魔法使用を、解禁してはどうですか……?」

「いや、この混戦状態だ。一度味方を退避させるときに誰か死にそうな気がすんだよなぁ。仲間にだけ当てないようにするにしても、そこまで完全にコントロールすんのはオレでも無理だし」

「え、じゃあ……どうするんですか……? まずくないですか……これ」


 青白い顔のハンネローレから不安げに見上げられ、オルガは顔をしかめた。

 当初の想定では部下たちの戦闘力ならば死者を一人も出さず対処できるはずだった。しかし、クリスタルクラーケンが予想以上に精強だった。柔軟にしなり打付ける触手の硬度たるや金剛石に負けず劣らずといった様相だ。


 実は戦闘開始直前、オルガは壮年の練達した従光騎士からクリスタルクラーケンの危険性を説かれていた。ハンネローレはそのとき既に内戦状態にあったので聞こえていなかっただろうが、オルガは大丈夫だろうと高を括って、実戦訓練を強行したのだ。

 これで死者が出れば、部下からの信頼が暴落しかねない。いくら聖天騎士とはいってもオルガは二十七歳とまだ少し年若いため、経験豊富な古強者の多い従白騎士からは見くびられやすい……と本人は思っている。


「あー、クソ、やっぱアレか。人生の先達の言うことは素直に聞けっつー聖神様の忠告かこりゃ」


 オルガは頭をボリボリと掻いた後、大きく息を吐き出した。

 一方、ハンネローレの方は再度敵勢力に盛り返されているのか、口元を抑えながら力ない声で治癒魔法を詠唱している。


「……仕方ねえ、オレもいくか」


 と腰に手を当てて気合いを入れたとき、オルガはふと気が付いた。


「ん……? いや、そうだ、こりゃ良い機会かもな……今のうちに聖天騎士様の素晴らしさを見せつけとけば、今後の行動とでチャラにできるか……? うっし、ここはいっちょ華麗に一撃でいくか」

「オ、オルガ様……?」


 何か期待するような眼差しを向けられたので、オルガは膝を突いてハンネローレの肩に手を置き、力強く笑ってみせた。


「ハンネ、心配すんな、あの魔物はオレが撃滅してやる。それでこの揺れもマシになるだろうから、お前の酔いも和らぐだろうよ」

「あ、あぁ……オルガ様がいつになく頼もしく見える……いつもは私に雑務ばかり押しつけて一人好き勝手やってるけど、やっぱりオルガ様は肝心なときには動いてくれるんですね……っ!」

「お、おぉ、まあな」


 微妙に罪悪感を刺激されたので、早々に目を逸らして立ち上がった。

 オルガはそこらの成人男性より上背があり、頭髪は肩口辺りで適当に切り揃えられ、普段からの振る舞いを見て取っても女性らしくはない。

 しかし彼女の肉体はハンネローレより遙かに女性らしく、全体的に引き締まりながらも肉付きが良い。特に胸元は多くの同性から羨望の眼差しを受けるほどに隆起しており、今のオルガは胸甲どころか一切の防具を纏っていないので、その豊麗さと腰のくびれが良く分かる。

 顔立ちも優しげなハンネローレとは対照的に勝気で強気な性格を窺わせる造形となっており、それが良く整っているものだから妙な雄偉を醸し出し、暗紅色の両翼からも柔和な印象は受けない。


 そんな姿を下から見上げる形となるハンネローレは自身の情けない現状を再認したのか、やけに落ち込んだ様子で頭を下げた。


「すみません、オルガ様……こういうとき、本来なら私が頑張るべきなのに……ご迷惑をお掛けします」

「いや、気にすんな、ハンネにはクロクスに着いてから迷惑掛ける予定だからよ」

「え……?」


 深く追及される前にオルガは背中の両翼を羽ばたかせ、天へと飛翔した。

 彼女の翼は風を掴んで空を切り、あっという間にクリスタルクラーケン上空まで移動する。


「オリファント卿!? 如何されましたか」


 同じ翼人の従光騎士――幸か不幸かオルガに事前忠告をした壮年の彼は驚きを露わにする。


「おう、なんか死人出そうなんで一発だけ加勢するわ。大丈夫だとは思うが、一応あいつの周りにいる連中だけ避難させてくれ。あ、海中の奴らもだぞ」

「りょ、了解です!」


 オルガは我ながら厚顔無恥だと自覚しつつも、当然のような面で堂々と命令した。すると従光騎士は上空から戦域全体にまで届く大音声で、オルガの指示を伝達する。

 大型魔物と近接戦を行っていた騎士たちは練達ばかりだったことが幸いし、危なげなく迅速に退いていく。ややもせぬうちに、海面から顔を出した魚人によって退避が完了したことが告げられた。


 オルガは気負いのない態で右手を突き出し、無言のまま魔力を練り上げ、魔法として現象させた。中空に、球状の焔が形成される。直径は優に成人男性の背丈の倍はあり、紅蓮に輝くそれは今まさに蒼天にて輝く太陽を思わせる威容だ。

 既に鋼鉄をも溶解する熱量を秘めた焰球ではあるが、オルガは念を入れて大量の魔力を注ぎ込む。すると炎色が紅から橙、黄、白と変化し、直視しがたいほどに目映い光を放つに至った。


 超高熱源体は周囲へ熱波を振りまき、激しく気流が乱れ始める。

 周囲で飛んでいた騎士たちも慌てたように距離を取り、見守ってくる。

 オルガは両翼の羽毛と短い髪を熱風で乱しながら、退避した騎士たちを追いかけようと巨体を前進させる眼下の水棲魔物目掛け、白銀の光輝を放つ焰球を放った。


 クリスタルクラーケンは特級火魔法の一撃に気付き、強硬な触手を幾本も重ねて防ごうとする。が、剛速で落下する焰球は容易くその防御を溶かし尽くし、異形の悲鳴が辺り一帯へ響き渡る。

 オルガの放った魔法は勢威衰えることなく頭部と思しき海上に突き出す巨大な肉塊に接触し、生半可な刀剣槍槌あるいは魔法では傷一つ付かぬ身体を溶解させた。

 肉の焼ける音すらなく、焰球は瞬きの間に円柱状に溶かし進んで海面下へ消え……急激に熱せられた海水が、音高らかに爆ぜた。


「やべえ、やりすぎた……無駄に魔力込めすぎたなこりゃ。つかなんだよ、そこまで硬くねえじゃねえか、やる気あんのか全員」


 オルガは思わず呟いてしまった。

 今し方まで二級魔物が占拠していた一帯は蒸気に覆われ、様子が確認できない。

 と思ったのもつかの間、優秀な部下の誰かが風魔法で即座に靄を払った。


「お、おぉ……さすがです、オリファント卿」


 いつの間にか側に寄ってきていた例の従光騎士が感嘆の吐息と共に賞賛を溢す。

 クリスタルクラーケンの巨体は溶解され爆散され、跡形もなく消え去っていた。

 

「ん、じゃあ後は頼んだ」


 オルガは男にそう言い残して、鷹揚と堂々たる挙措で両翼を動かし、その場を離脱した。こういうときに威厳というものを示しておくべきだと、彼女は良く心得ている。他の騎士たちの視線をひしひしと感じつつも、ゆったりとした飛行で元いた船に帰り着き、座り込んでいるハンネローレの隣に着地した。


「やっぱりオルガ様の魔法力は異常ですね……」

「他の聖天騎士もこんなもんだろが。異常ってんなら《全天騎》のオッサンの方が異常だっての」

「それはそうかもですけど……でもやっぱり凄いですね。私いつ見ても圧倒されちゃいますよ」


 畏怖し尊敬する眼差しで見つめられ、オルガは辟易とした。

 そうした目で見られることはしばしばだが、未だに慣れないので少なからず居心地の悪さを感じてしまうのだ。オルガ本人はそこらの酒場にでもいる女猟兵に対するような態度で接してくれて全く問題ないと思っているが、敬われるのも必要なことだと理解してもいる。


「ところでハンネ、酔いは良いのか?」

「あ、はい、オルガ様が戻ってくる直前にまた吐いたので、少しすっきりしました。まあ、少しですけどね……たぶんクロクスに着くまでにあと五回は吐きそうですけどね……」


 相変わらずハンネローレの顔色はよろしくないが、確かに先ほどよりはマシだった。おそらくは先の爆発で船体が大きく揺さぶられ、その後押しによって再三にわたる嘔吐を為したのだろう。

 しかしその痕跡が見当たらないあたり、今度はきちんと海へ吐いたらしい。


「さて、んじゃま後はのんびりしておくか。雑魚だけなら死人も出ねえだろうし」


 オルガはその場に横たわると、本を拾って広げ、顔に被せようとした。

 が、そこで、ハンネローレに訊ねる。


「このままいけば、クロクスには昼過ぎ頃に着くんだよな?」

「はい、そのようですね。オルガ様は寝るんですか……?」

「おう、寝る。あ、昼飯はいらねえから。昼過ぎ到着なら町で食いてえし」


 言うだけ言って、オルガは返事も待たずに本を顔に被せ、一眠りすることにした。まだ朝方というべき時間だが、彼女の今後の予定を考えれば睡眠は必要だった。幸いというには苦々しい思い出が付随するものの、昔取った杵柄により、眠たくなくても時間場所問わずいつでも眠れる特技が彼女にはある。

 日頃から身体は十二分に鍛えているとはいえ、体力は温存しておきたいオルガだった。




 ■   ■   ■




 聖天騎士オルガ・オリファント率いる一団は予定通りの航海を経て、昼過ぎ頃に魔大陸北西部の港町クロクスに無事到着した。航海中は幾度となく魔物との戦闘が起こったが、負傷者は出ても死者は一人も出なかった。


「あぁ、地面……地面ですよ、揺るぎないですよ……やっぱり地面が一番ですよオルガ様……っ!」


 早くも調子を取り戻したハンネローレは長く苦しい内戦生活を思い出してか、双眸に感涙の煌めきを見せている。

 しかし一息吐く間もなく、事前に通達していただけあって、町の有力者たちや教会の司教司祭から執拗なまでの歓待を受け、オルガ共々その対応を迫られた。

 二人は四人の聖光騎士を伴って町の庁舎に案内され、少し遅めの昼食を振る舞われた。というより、まだ昼食を摂っていないことをさりげなく告げてオルガがそう仕向けた。

 彼女は自らの立場につきものの面倒な挨拶やら何やらを食事のついでにそつなく済ませ、部下たちの宿泊場などを聞き出してから、媚びへつらう連中を半ば強引に追い散らした。


「オルガ様、ここはもう少し威厳ある聖天騎士らしく振る舞ってはどうですか」

「いいんだよ、あんなもん適当で。そもそもあのジジイ共、オレらのことなんて大して敬ってねえだろ。単に聖天騎士であるオレや従天騎士のお前と繋がりを持ちたいだけの強欲野郎共だ」

「いえ、皆さん普通に畏れてたと思いますけど……」


 オルガだけに限らず、ハンネローレはもとより同行した聖光騎士でも、単騎で一つの町を蹂躙できる力を有している。魔法という力を扱えぬ者たちからすれば、ある意味で魔物以上の化け物だ。

 イクライプス教国の余りある威光も相まって、オルガの言うように聖天騎士と繋がりを持とうと企む剛の者はそう多くない。

 強すぎる力というのは逆に人を遠ざけるものだ。


 その後、二人は宿泊場として用意された館へ向かい、とりあえず一息吐いた。

 船からの荷下ろしや雑務は部下に任せてあるため、余程の緊急事態でも起こらない限り、二人に仕事はない。


「はぁ……ようやくゆっくりできますね」

「おうおう、今のうちにゆっくりしとけ。お前はこれから忙しくなるんだからよ」

「…………私は?」


 そのとき、扉が外から厳かに叩かれた。

 次いで聞き覚えのある部下の緊張した声が聞こえ、その用向きを告げた。


「オ、オリファント卿、ゲーヴです! たた、頼まれていたものをお持ち致しましたっ!」

「おう、あんがと」


 応対しようとしたハンネローレより先に動いて、オルガ自ら扉を開けて部下を労う。相手は去年入ったばかりの十七、八ほどの新人だったので、痛々しいまでに緊張したまま頭を下げ、そそくさと去って行った。


「あの、オルガ様、なんですかそのリュックは……?」

「なんだ、見りゃ分かんだろ」

「そうですね……何の変哲もない、そこらの猟兵なんかが使ってそうな有り触れたリュックですね」


 オルガは神妙に呟くハンネローレを無視して、中身の詰まったリュックをベッドに置き、着替えを始めた。下船してから今まで、外交用として着ていた聖天騎士の正装(といっても鎧甲冑は装備していなかったが)を脱ぎ捨てて、下着姿になる。そしてリュックから取り出した服に着替えると、軽くリュックの中身を確認していく。


「あの、オルガ様、なんですかその服装は……?」

「なんだ、見りゃ分かんだろ」

「そうですね……何の変哲もない、そこらの猟兵なんかが着てそうな有り触れた服装ですね」


 不安げに震え声で呟くハンネローレを無視して、オルガは愛剣を腰の剣帯に差し、リュックを右肩に掛けて「うしっ」と一人頷く。

 ハンネローレの顔色が船上でもないのに青くなった。


「ま、まさか、オルガ様……?」

「おう、後は任せた。ハンネは部下共々、この町で航海の疲れを癒した後、隊を率いて予定通りに行け。オレは一人で先に行ってるから」

「一人でって……な、なな、なんでそうなるんですか!?」

「ちょっと野暮用があるから、お前らより先に行きてえんだよ。安心しろ、フリザンテまでの道中にディーカって町があんだろ? そこで合流した後は一緒に行くからよ」

「いえいえいえ、ここから一緒に行ってくださいよっ!」


 既に決定事項として告げるオルガに、ハンネローレは仮にも年上とは思えない狼狽っぷりで反論する。

 

「別にオレがいなくても、移動くらいお前一人いれば率いていけんだろ」

「いけますけど、道中の町々にある教会にも寄っていかないといけないんですし、そこにオルガ様がいないと不味いでしょう!?」

「体調悪いから会えんとか言って、適当に誤魔化しといてくれ」

 

 オルガは面倒臭そうに手を振りながら歩き、扉の把手を掴んだ。

 それを受けてハンネローレはなぜか間の抜けた顔になり、心許ない声で問いかける。


「え、あの、本当に行っちゃうんですか……? 冗談とかではなくて、本当の本当に?」

「こんな格好までして冗談なんて言うかよ……ったく、そんな顔すんな、こんくらいのことで。お前、船の上じゃろくに使いもんになってなかっただろ? これまでの失態を埋め合わさせてやろうって言ってんだ、ここは喜んどけ」

「喜べませんよ……なんでまたそんな一人で……部下たちになんて説明するんですか……」

「『己に厳しく向上心を忘れない我らが聖天騎士様はその身一つで征くこととなった。我々もその独立独歩の精神を見習い、道中襲い来る魔物共との戦いで更なる練度向上を図りつつ勇猛なる背中を追いかけるぞ』……とでも言っとけ」

「部隊行動なのに独立しちゃダメじゃないですか……独歩して足並み乱しちゃダメじゃないですか……」

「なら細かいとこは修正しとけ」

 

 頭を抱えるハンネローレに、オルガはぞんざいな口調で助言らしき言葉を送る。

 今にも出発しそうな彼女だが、しかしまだ扉は開けない。オルガも己の立場くらいは理解しているので、ハンネローレがどうしてもと強硬に反対するのならば、行くつもりはないのだ。

 ただ、こうして不意打ちして強引に事を進めようとする辺り、彼女の性格が如実に表われている。


「……………………」


 ハンネローレは両手を髪の間に突っ込んで俯き、しばし石像のように固まっていたが、おもむろに顔を上げた。


「……考え直してはくれないんですか?」

「おう、悪いな。正直言うと、お前らと一緒に行っても用は果たせるんだが、それだとのんびりできねえ。ちゃんとディーカで合流してからは一緒に行ってやるからよ、まあ頼むわ」

「その用というのは……?」

「あー、アレだ、知り合いに会う。ほらお前、旧交を温めるのに一日二日程度の滞在じゃ相手に失礼ってもんだろ。だからオレだけ先に行って、お前らが追いついてくるまでの間、のんびりしてえんだよ。ハンネなら分かんだろ、これまでの日々の忙しさが。ここらでそろそろ一息入れてえんだよ、聖天騎士じゃねえオレの時間が欲しいんだよ。そうすりゃフリザンテでの任務も張り切ってできるってもんだ」


 ハンネローレはオルガが聖天騎士に叙任される前からの付き合いだ。

 ここ数年は休日などなきに等しく、忙しなく活動してきた。

 つい昼頃までの航海でも部下たちの手前、聖天騎士として最低限の振る舞いが求められ、オルガという一個人の完全な自由時間などなかった。


「…………はぁ、もう、分かりましたよ。オルガ様がそこまで言うなら好きにしてください」


 疲れたように溜息を吐きながら、ハンネローレは消沈した顔で頷いた。


「本当に良いんだな? 後でぐちぐち文句言うなよ?」

「言いませんよ……オルガ様の言うとおり、船上では私ダメダメでしたから、文句なんて言えません。それに、オルガ様は私が船酔いで役立たずでも、一度も怒ったりしませんでしたし」


 根が真面目なハンネローレは長らく無能状態だったことに責任を感じているらしい。とはいえ、彼女のそんな心情も織り込み済みで、オルガは今回の単独先行計画を企てている。

 ハンネローレは仕方なさげに苦笑すると、懊悩から一転して心配そうな眼差しをオルガに向けた。


「オルガ様なら大丈夫だとは思いますけど、気をつけてくださいね? ここは魔大陸なんですから、万が一にも油断して魔物に後れをとるようなことのないように……」

「アホか、心配しすぎだ」


 先ほど荷物を持ってこさせた新入りの青年騎士一人だろうと、余裕でディーカまで行くことはできるはずだ。そんな容易い道中でオルガの身を案じる行為は、天から月やら太陽が落ちてこないかと心配する程に愚かしい。


「んじゃ、行ってくるから後は任せたぞ。あ、一応言っておくが、お前らがディーカに着いたらこっちから合流するから、いちいち探さなくても良いからな」

「分かっていますよ、オルガ様は強引なくせに色々気を回しますからね。今だってちゃんと私を納得させようとしてから行こうとしてますし」


 だから私も貴女の無茶を許容できます、とでも言いたげに微笑むハンネローレ。

 オルガは苦い顔で顔を背け、ようやく掴んだままだった把手を捻って扉を開けた。

 

「行ってくる」

「はい、お気を付けて」


 気遣わしげな声を聞きながら、オルガは部屋を出た。

 後ろ手に扉を閉めて、しかしそこで足を止めると、彼女は軽く溜息を吐いた。


「普通に責められた方が気楽だってのに……アレはアレで容赦ねえな」


 ハンネローレは意識していないのだろうが、オルガにとっては妙に罪悪感を喚起させられた。しかし彼女はすぐに気持ちを入れ替えると、久々の自由行動を楽しむため、意気揚々と歩き出す。


 目指すは湖畔の町ディーカ。

 目的は恩返し。

 オルガは成長した己の姿を恩人に見せてやることで、ささやかな恩返しとすることにしていた。


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