間話 『追う者』★
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夜闇に沈んだ町中を二つの影が駆けていた。
路地の沈滞した夜気を攪拌し、猛然と疾走するのは獣人の男だ。通常ではあり得ぬ速度で双月の下を縦横無尽に走り抜け、今まさに壁面を蹴って屋根上に飛び乗り、まさに獣さながらに跳梁して行く。
そんな男の躍動する背を、薄闇越しに一人の青年が追っていた。群青色の頭髪と吊鐘型の外套を疾駆による荒風で乱しながら、前方を行く獣人に劣らぬ走りを見せている。
「一切退く冥き衝波こそ我が邪念の煥発なり――〈黒衝弾〉」
青年の唇が陰々と詠唱を紡ぎ出した。屋根から屋根へと飛び移っていた獣人の男へ、夜闇より尚暗い漆黒の弾が瞬速で迫る。
だが獣人故の聴力か、青年の囁くような詠唱が聞こえていたのだろう。迫る小さな黒い球体に対し、獣人の男は虚空にあって半身を捻り、手にしていた刃を閃かせた。
「――ッ」
結果、獣人の得物は明後日の方へと弾き飛んでしまうが、持ち主は無傷のまま着地して、更に駆けてゆく。
辺り一帯の道は入り組んでおり、一度見失えば再発見できる可能性は低くなる。
青年は思わず舌打ちを一つ溢すも、今度は外套の下から一振りの長剣を引き抜いた。前方を行く獣人は再び地上に降り、家々の間をひた走る。
「逃がすか……っ!」
殺意に満ちた暗い声を漏らしながら、青年は屋根上からの追跡を続け、感覚を研ぎ澄まして気配を追う。二人が走っている地点は町中でも人気が少なく活気のない貧民区だ。深夜でも尚、盛況な賑わいを見せる歓楽区に逃げ込まれると、追跡は困難を極める。
青年は屋根の縁を全力で蹴り、虚空に身を躍らせた。三軒分ほどの距離を隔てて地を駆る獣人との間に遮蔽物はなく、直線上の間隙ができている。
「我が愚想は変幻にして自在なる凶変の因、志操なき我意が制するは引斥の理。
猛射せし弓兵、逃遁せし懦夫、我は間遠にて嘲笑せし敵手を引き寄せん――〈霊引〉」
青年が暗々と詠い唱えると、獣人がちらりと後方を振り向く。そしてそのまま十字路を左に折れようとしたところで、しかし強勢な遁走を為していた両脚がふわりと地を離れた。かと思いきや、その身は中空で白刃を構える青年のもとへ、虚空を滑るが如く一直線に飛翔する。
「――グァッ!?」
獣人は姿勢制御もままならぬまま、脇腹を貫かれた。舞い散る滴は夜天でその偉容を湛える紅月の色彩そのもので、青年の外套に数滴付着する。
しかしそんな些事など意に介することなく、青年は捕らえた獲物を瞳に映し、口端を歪めた。
「グゥ……ッ!?」
獣人を下に、青年を上にして、二人は地上に落下した。
当然のように剣士は下の者を緩衝材にして衝撃を和らげ、緩衝材は上下からの激しい衝撃を受けて胃液混じりに吐血する。
獣人は人間や翼人と比べて幾分か身体が丈夫だ。その例に漏れず男が意識を失った様子はなく、しかし上手く呼吸できないのか、苦悶の表情で陸に上がった魚の如く開口と閉口と繰り返している。
「貴様が《黄昏の調べ》に属し、幹部員に近い一等員であることは知っている」
青年は刃を脇腹に貫通させたまま地面に突き刺して固定すると、冷厳とした声を放った。
「グレンという獣人の幹部員を貴様は知っているはずだ。言え、奴は今どこにいる」
「……た……のむ、こ、殺さないで、くれ……ぅぐ……っ」
息も絶え絶えに、弱々しい声で獣人の男は呻き漏らす。三十代半ばほどと思しき面構えは恐怖で塗り潰され、両の瞳は苦痛と怯懦に潤んでいる。
一方、そんな男を見下ろす青年は顔立ちから二十歳ほどを窺わせるが、凛々しい面差しを凶相に変じた姿は年齢不詳の感がある。背丈は一般的な成人男性よりもやや高めだろうか。吊鐘型の外套から覗く右腕は良く引き締まり、震えるほど力強く剣の柄を握っている。
「其は奇禍の如く顕現せん、我が暗影より出でし凶刃よ密殺せよ――〈影刃〉」
獣人の男の右腕が這うように動いているのを知覚し、青年は素早く詠唱した。
男の指先が腰の短剣の柄に届く直前、青年の影から伸びた黒刃が腕を肘から切断する。
「ぐガっ……アアァァアァァアァアァァッ!」
「次は首を刈取るぞ。言え、グレンは今どこにいる」
片脚で獣人男の腹を抑えながら、青年は冷たく激した声で問い質す。
しかし問われた男は首を左右に振り乱し、涙と鼻水を撒き散らす。
「し、知ら、知らないっ、どこへ行ったかは知らないぃっ!」
「……グレンは知っているんだな?」
ここぞとばかりに首を縦に振る獣人男。
青年は脇腹に突き刺した剣を少しだけ捻り、更に問う。
「本当のことを言え、死にたくなければな」
「ぎァ、ぃ……ほ、ほんとだっ、知らな……知らないんだっ! どこかへ行くとは言ってたが、それがどこまでかは、知らないっ!」
「…………」
「た、頼む、お願いだから、こ、殺さなぃ……ごろざないでぐれぇぇぇ!」
死の恐怖に煽られてか、獣人男は恥じもへったくれもなく泣きながら懇願する。
しかし、青年の意識はそんな男の無様には向けられていなかった。
探している男の行方が分からずじまいという一事に苛立っていた。
「正直に答えろ。お前は間違いなく《黄昏の調べ》の一員だな?」
もはや獣人男が何を言っているのか青年には定かではなかったが、肯定していることだけは分かった。
故に、脇腹から剣を引き抜いた。
獣人男は泣き濡らした顔に怪訝そうな色を浮かべながらも、安堵に表情を和らげる。その寸前、青年が刃を一閃したことで、それは一瞬で凍り付いた。
「……なら貴様が生きていることを、俺は認めない」
首から上下に分断され、地面に血だまりを作り始めた肉塊に、青年は昏い声で小さく呟いた。それから溜息を吐きながら刀身を血振して、剣を外套下の鞘に収める。
死体の側でしばし悄然と、あるいは呆然と立ち尽くし、小さく頭を振って溜息を吐いた。
「相変わらず容赦ないの」
不意に、人気の皆無な路地に声が響いた。青年は身体を強張らせて咄嗟に顔を上げるも、すぐに脱力して、声の主を見上げる。
「ゼフィラか……お前、見ていたのなら手伝えよ」
「なんと、こんなか弱く可憐な女子に殺人の助力を求めるとは……お主どれだけ情け容赦ないのだ、ルティカが聞いたら泣きそうだの」
「お前がか弱く可憐だと? 寝言は寝ているときに言え」
鼻で嗤う青年の視線の先――三階建て建築の屋根の縁に腰掛け、彼を見下ろしているのは一人の少女だった。星空を背景に銀の美髪が夜風に煽られ繊靡な煌めきを振りまき、中空に投げ出されたか細い両脚をぷらぷらと揺らしている。
鮮血のように赤々とした双眸は異様な輝きを秘め、死人の如く生白い肌が夜闇の中で不気味に浮かび上がっていた。身震いするほどに整った顔立ちは体格に見合った少女然とした造形をしており、十代前半ほどの齢を思わせる。
が、そこに浮かぶ表情は酷く不釣り合いなものだ。
成熟した美女を思わせる妖艶さ、歳経た者特有の老練さ、そして全てを見透かし俯瞰する神の如き神秘性――それらが混じり合った超然とした雰囲気を滲ませ、実に少女らしからぬ顔貌を作り上げている。
「いや、それよりお前、ルティを一人で宿に置いてきたのか?」
「妾が今ここにおるのだ、当然そうなるの。なに、そう心配することもあるまい。幼子らしくすやすやと寝息を立てておったぞ」
ゼフィラと呼ばれた彼女は鈴を転がすような音色で、しかし妙に落ち着きある響きを有した美声でそう答えた。
「だが小便にでも起きて、俺たちがいないことに気が付くかもしれない。あの子は怖い物知らずだが、あれで寂しがり屋でもある。俺たちを探すためなら一人でも夜の町に出るだろう」
「フフ、それもまた良い社会勉強になるだろうて」
艶然と微笑みながら、ゼフィラが屋根の上から飛び降りた。
銀糸めいた長髪と裾長の外套の尾を引いて、三階――実質四階の高さからとは思えぬ華麗な着地を当たり前のように遂げてみせる。
「適当なこと言いやがって。俺はお前がいたから、さっきまで安心してこいつを追っていたんだ。十分に注意はしているが、俺という敵がこの町にいることを連中が感知している可能性はある。なのにお前は――」
「えぇい、やめい鬱陶しい、妾に説教するでないわ。以前から幾度となく口にしておるが、妾は乳母ではないのだぞ。ジークハルト、お主が仇敵の捜索と殺害を目的としておるように、妾はそんなお主の観察を目的としておるのだ。だのにその目的を二の次にして幼子の世話などしてたまるか、面倒臭い」
羽虫でも振り払うかのように手を振りながら、ゼフィラは獣人の死体に目を向ける。彼女の瞳に憐憫や同情の色など欠片もなく、無数に散らばる星々を観察するのと同等の眼差しをしている。
人はそこにあって当然のものを見るとき、特に何の感慨も抱くことはない。
だが、その視線が青年――ジークハルトに向けられると、真紅の瞳は少々違う輝きを見せた。まるで珍しい動植物にでも向けるような、子供が玩具に向けるような、あるいは親が子に向けるような、奇妙な眼差しをしている。
「俺はお前の同行を許してやってるんだ、少しくらい気を遣え」
「そういうお主が妾に気を遣うと良い。これまでにいったい幾度、お主のために飛んでやったと思っておる? そもそも、若者は年長者をもっと敬うべきなのだ」
「年長者ね……ならゼフィラ、お前いくつなんだ?」
「淑女に歳を訊ねるでないわ、馬鹿者が」
こういった応酬は既に幾度か繰り返されてきたことではあるが、常にジークハルトは馬鹿者呼ばわりされ、はぐらかされる。
彼は右手で気怠げに首筋を揉むと、欠伸を溢しながら言った。
「……まあいい、宿に戻るぞ」
「ん? なんだ、こやつは燃やしてゆかぬのか?」
「魔力がもったいないし、目立つだろ」
ジークハルトは死体など一顧だにせず人気のない夜道を歩き出す。
ゼフィラもまた路傍の石ころの如く無視して、彼の隣に並んだ。
「ここではまだいいが、通りに出たらちゃんと頭巾は被ってくれ。その髪も目も無駄に目立つからな」
「分かっておる。して、このまま一直線に宿へ戻るのかの? 良い機会だ、賭場あたりで遊んでゆかぬか?」
「俺は眠いんだ、夜遊びなら一人でしてろ」
「つれないの、お主は。最近は昼夜逆転生活で妾も疲れておるのだぞ? 少しは気分転換でもしてやろうという気にはならぬのか」
「ならん……ったく、何様だお前は。人間の俺を夜行性の鬼人と一緒にするな」
隣を見ることもなく、ジークハルトは疲れた声で言い返す。
彼は今夜の活動が無駄足に終わったことに失望し、消沈していた。
ここしばらくは苦労して情報を収集し、ようやく今夜、目を付けていた男を追い詰めたというのに……何の成果も上がらなかったのだ。
ジークハルトは早く不貞寝したかった。
「酷い顔をしておる、寝る前に酒でも飲むかの? 付き合ってやるぞ」
「……お前が飲みたいだけだろ」
と言いながらも、ジークハルトは誘いそれ自体を蹴りはしなかった。酒はあまり飲む方ではないが、やけ酒でもしなければやっていられない気分ではある。
その後、ジークハルトは少女らしからぬ鬼人と共に、宿泊している酒場兼宿屋に帰り着く。そこの一階で幾らか酒を飲んで気分を紛らわせると、二階の借り部屋のベッドに倒れ込み、徒労に終わった一夜に幕を下ろした。
■ ■ ■
翌朝。
ベッドに沈む身体を小さく揺さぶられ、ジークハルトは微かに眉をひそめた。
「ジーク、朝、起きて」
感情に乏しい片言に意識を引かれ、うっすらと目蓋を開ける。
すると、ベッドに入る前は隣にいた童女が、ベッド脇に降り立って見下ろしてきていた。
「いや……今日は昼まで寝る。悪いが朝食はルティ一人で行ってくれ」
「……夜、何、してた? ジーク、ゼフィ、ちょっと、お酒臭い」
薄暗い部屋の中、童女ルティカは訝しげに双眸を細め、ジークハルトの瞳を覗き込む。幼さの色濃い小顔に浮かぶ感情は乏しいが、少し怒っているのか、可愛らしく若干眉根を寄せている
ゼフィラより少し短めの茶髪は癖っ毛と寝癖が合わさって乱れているものの、本人に気にしている様子は皆無だ。六歳児らしい小さな手で、毛布越しにジークハルトの胸を圧迫する。
「散歩して、少し飲み食いしただけだ」
「外套、血、ちょっと、ついてた」
「……そうか」
横たわったまま、ジークハルト力なく呟いた。
一応は宿に帰る前に粗方ぬぐい取ったつもりだったが、どうやら見落としがあったらしい。いや、ルティカが目敏すぎるのだろう。
「ぼく、置いていった」
「一人にしたのは悪かったと思ってる。だが、お前はまだ子供だからな。危険だし足手まといだし、血なまぐさい現場になんか連れて行けない」
「ぼく、子供、だけど、弱くない」
表情をあまり動かさず、むすっとして見せる。
淡々とした片言もあり、余人が見れば無愛想な子だと思うのだろうが、ジークハルトにはその感情の機微が良く読み取れている。
面倒なことになりそうだったので、適当に頷いておいた。
「あぁ、うん、そうだな、弱くない、ルティは弱くない……だからもう少し寝かせてくれ、俺はまだ眠たいんだ」
「……朝ご飯」
「さっきも言ったが、一人で食べてきてくれ」
朝食は一階の酒場で食べられることになっている。連泊で顔は覚えられているため、ルティカ一人でも出してもらえるはずだし、何か物騒なことが起こる可能性は限りなく低い。
しかしルティカは納得せず、再び閉じかけていたジークハルトの目蓋を指先で固定した。
「ぅぐ……離してくれ、ルティ」
「ご飯、みんなで、食べるもの。ジーク、そう言った」
「…………そうだったな」
逡巡した末、ジークハルトは欠伸をかみ殺しながら上体を起こした。
「おはよう、ルティ」
「うん、おはよう、ジーク」
表情も声音もやはり童女らしく躍動することはないが、満足げな様子は伝わってくる。
ジークハルトは思わず微笑しながらボサボサの頭を撫でてやり、ベッドから降り立った。
「ゼフィ、起こす」
ルティカは独り言のように呟いて、隣のベッドで姿勢良く仰臥するゼフィラに近づく。白蝋の如き肌もあって死人そのものな態で眠っているが、整った面差しと銀色の髪のせいか、何か侵しがたい神聖なもののようにも見える。
現在、部屋はかなり薄暗い。
木窓はあるが閉じられており、隙間から微かな朝日が漏れ入ってくるのみだ。ジークハルトは木窓を開けて朝の新鮮な空気と陽光を味わいたかったが、それをするとゼフィラが不機嫌になり、かなり面倒臭いことになる。
「……なんだ、小娘。妾の眠りを妨げるでないわ」
ゼフィラは自らの腹に馬乗りになったルティカを真紅の瞳で睨み上げるも、当の童女は意に介した様子もない。
「朝、起きる、ご飯」
「今日はいらぬ……気分ではない。それよりジークハルト、窓の隙間を塞がんか馬鹿者」
「起きない、なら、窓、開ける」
「…………」
以前、なかなか起き出さず朝食を共にしようとしなかったゼフィラにルティカが怒り、窓を全開にしたことがあった。そのときのことを思い出したのだろう。
苦々しい顔でしばしルティカと視線を合わせて見つめ合った後、ゼフィラは溜息を吐きながら首肯した。
「妾を脅すとはつくづく怖いもの知らずな小娘だの……ほれ、さっさとどかぬか」
ルティカがベッドから飛び降りると、ゼフィラは気怠げに立ち上がり、コキッと首を慣らした。そして首を傾げたまま、剣呑な眼差しで幼子を射貫く。
「本来ならば、妾にあのような脅しをかける者など八つ裂きにしてやるところなのだぞ? お主らはまあまあ気に入っておるから、仕方なく許しておるだけだ。せいぜい妾の寛容さに感謝するが良い」
「うん」
「……こやつ絶対分かっておらぬな」
素直に頷いたルティカに対し、ゼフィラは一転して呆れたように目を閉じ、上品な仕草で欠伸を溢す。
それから三人は軽く準備をして部屋を出た。一階の酒場に降りると、まだ朝だというのに席が半分ほど埋まっており、割かし繁盛しているのが分かる。
「あの席だ」
窓から一番遠く、日差しの当たらない暗所となっているテーブルをゼフィラが指差した。三人はその不人気なテーブルを囲み、ちょうど配膳を終えて戻ろうとしていた若い獣人の女給を捕まえる。
「あ、おはよーございます、ジークハルトさん」
「あぁ、おはよう。注文良いかな」
三人は既にこの酒場兼宿屋には十日ほど滞在している。すっかり顔なじみとなった彼女はジークハルトの言葉に朗らかな笑顔で頷き、注文を取っていく。
そして三人から全て聞き終えると、まだ十五にもなっていないだろう獣人の少女はゼフィラを見て、気の毒そうに眉尻を下げた。
「ゼフィラさんも大変ですね、いつもそんな格好しなくちゃいけないなんて」
「お主に気遣われるようなことではない」
ゼフィラは憮然とした声で応じた。
今の彼女は長いローブで身体を覆い、頭巾をかなり目深く被っている。更に袖口から覗く両手は肘まで覆う長手袋に隠れ、全身で素肌はほとんど露出していない。
女給の少女にゼフィラの格好のことは適当に言い繕ってある。
生まれ育った村の掟により、未婚の女性は日が沈むまで余人に素肌を見せてはならない……とか、そんな理由だ。多数の獣人部族が存在するこの南ポンデーロ大陸では、各一族や村独特の変わった風習など馴染みのものなので、特に怪しまれるようなことはない。
「ほれ、さっさと妾たちの食事を持ってこぬか」
「はーい、少し待っててね」
獣人の彼女はゼフィラの態度に気分を害した風もなく、むしろ楽しそうに答えて引っ込んでいった。
「完全に子供扱いされてるな」
「あのような小娘にどう勘違いされようが構わぬ。とうに慣れておるし、むしろ都合が良い」
「ゼフィ、子供、でも、大人…………おばあちゃん?」
ゆっくりと小首を傾げるルティカ。
ゼフィラの表情は目深く被った頭巾のせいでほとんど分からないが、雰囲気から彼女が不機嫌になったことをジークハルトは悟った。
「小娘、再び妾を婆と呼んでみよ。いくらお主でも容赦はせぬぞ」
「わかった」
ルティカは子供らしく素直に頷き、ゼフィラは尊大に腕を組む。
そして頭巾の影から血色の瞳を覗かせ、ジークハルトにその輝きを向けた。
「してジークハルトよ、今後はどうするつもりなのだ? まだこの町で情報を集めるのかの?」
「いや……どうするかな」
ジークハルトは呟きながら嘆息し、思い悩む。
現在、ジークハルトとゼフィラとルティカがいるのは南ポンデーロ大陸南部に位置する、タウレルという港町だ。
南ポンデーロ大陸は中央部から南部全域にかけて大小様々な獣人部族が住み別れ、ときに共存し、ときに対立し、各地を支配している。タウレルの町もその名の通り、タウレル族と呼ばれる部族が治めている港町だ。町行く人々は獣人が多いが、港町なせいか人間や翼人もよく見かけ、港湾部では魚人と巨人もいた。
ジークハルトは仇敵を追ってタウレルまで、はるばるネイテ大陸から海を越えてやって来たわけだが……昨夜で手がかりが途絶えた。
今度こそはと意気込んでいたため、その反動で失望も大きく、昨夜は今後のことを後回しにして眠ってしまった。
「奴はどこかへ行ったと言っていた。それが一時的な出向なのか、配置転換があったのか……いずれにせよ、この町にいないことは確かだし、ここに長居する理由はないな」
「次、どこ、行く?」
「それが問題だ……」
ジークハルトはこの四年でエノーメ大陸、ネイテ大陸、北ポンデーロ大陸の三大陸を主に巡り、そして先日この町――南ポンデーロ大陸までやってきた。全ては仇敵の情報を辿っていたわけだが……ここに来て糸が切れてしまい、次はどこへ行くべきなのか分からなくなってしまった。
別段、こうした状況は初めてではなく、情報がなければ収集すれば良いだけだ。しかし、南ポンデーロ大陸南部における《黄昏の調べ》の主要拠点はこの港町タウレルだ。昨晩襲撃した男は幹部員――グレンに近しい構成員のはずであり、あの男が知らないとなると、この町で奴の行方を知っている者はいないとみて良い。
「……最近の奴はこの地を拠点にして活動していたという話だった」
ジークハルトは顎先に手を当てて、目を伏せた。
「なのにどこかへ行った……順当に考えれば、本部から呼び出されて俺たちと入れ違いにネイテ大陸へ渡った可能性が高いが……本部へ行くだけなら本部へ行くと部下には告げるだろうし……クソ、情報がないんじゃ考えても分からん」
「ならば、まだ未踏の大陸へ渡ってみて、そこで情報を収集してみるのはどうだ? 妾は久々にザオクの地を訪れたいの。あそこは自由気ままな猟兵共ばかりだから、気楽で良い。そういえば、最近はどれほどまで開拓できておるのかの……?」
「単にお前が魔大陸へ行きたいだけだろ」
「うむ」
ゼフィラは何ら臆することなく傲然と頷く。
彼女の意見も一理くらいはあったが、しかし魔大陸では《黄昏の調べ》もあまり熱心に活動していないと聞く。
「いや、だからこそか……?」
ジークハルトが考え込む傍ら、ルティカは「魔大陸、どういう、場所?」とゼフィラに質問する。
考える限り、今のジークハルトには三つの案があった。
一つ目は北ポンデーロ大陸へ渡り、《黎明の調べ》本部を訪れて協力を仰ぐこと。
二つ目はネイテ大陸に戻り、《黄昏の調べ》の本部あたりに探りを入れること。
三つ目は特にあてもなくフォリエ大陸かザオク大陸にでも渡り、未知の状況で新たに情報を収集してみること。
一つ目は面倒なことになる。《黎明の調べ》の力を一方的に借りることはほぼ不可能であり、おそらくは何らかの要求を突きつけられる。
二つ目はほぼ論外だ。あまりに危険が大きく、尚且つ得られる結果が不鮮明すぎる。
三つ目は博打だ。行き先に仇敵がいるとは限らず、現地で《黄昏の調べ》の情報を収集して接触し、昨夜のように尋問する必要がある。
「いずれにしても、容易くはいかないか……」
「ジーク」
ふと上着の裾を引かれ、左隣に座るルティカに目を向ける。
彼女は相変わらず表情に乏しい顔で、しかし珍しく興奮したような眼差しでジークハルトを見上げた。
「魔大陸、行く」
「ん、どうした?」
「魔大陸、行く、ぼく、猟兵、なる」
「……ゼフィラ、ルティに何を吹き込んだ」
思索に没頭して二人の会話を聞いていなかったジークハルトは、表情の窺えないローブ姿の少女に問う。
すると彼女は軽く肩を竦めてみせた。
「特にこれといったことは何も言っておらぬ」
「魔大陸、強い魔物、たくさん、楽しそう」
「いや、楽しそうって……」
少年ならば未だしも、一般的な六歳の女の子ならば普通は怖がるだろう。
にもかかわらず、真逆のことを言っている。
ジークハルトは道中の金策として猟兵活動を行っており、ルティカもそれを手伝っている。ジークハルトは剣術と魔法、ルティカは並外れた魔法力を持っているため、魔物相手に苦戦することなどほとんどない。彼女は魔法を使うこと自体は好きなようなので、手応えのある魔物と多く戦ってみたいのだろう。
その戦意が彼女の子供らしい好奇心によるものなのか、あるいは擦り込まれたものなのかは別としても。
「お待たせしましたーっ」
先ほど注文を受けた女給の少女が両手にそれぞれ盆を持って現れた。
次々と手際よく配膳していき、三人の前に朝食が並ぶ。
「それじゃあ、ごゆっくりどーぞ。ルティカちゃん、今日もジークハルトさんのお世話頑張ってね」
「うん、頑張る」
意気の感じられないルティカの返答を気にした風もなく、少女は快活な足取りで去って行った。
ゼフィラは一人勝手に食べ始め、場末の酒場宿に相応しくない無駄に洗練された所作で食事を進めていく。見る人が見ればお忍びで庶民の店に訪れた貴族のように見えなくもないだろう。
「とりあえず、俺たちも食うか」
「うん」
こくりと頷き、ルティカはフォークでゆで卵を突き刺し、それをジークハルトの口元に近づけた。
「いや、それはいいから」
「ん」
「俺は一人でも十分食べられる。手伝って欲しいと思ったら、そのと――」
「ん」
ルティカはジークハルトの目を真っ直ぐに見つめたまま、フォークを揺らし、無表情に強いてくる。
それを端から見たゼフィラはくつくつと笑みを溢した。
「ジークハルトよ、女子の好意を無碍にするものではないぞ」
「ん、ジーク、食べる」
羞恥心を抑え込み、ジークハルトはゆで卵にかぶりついた。
するとルティカが満足げに頷き、口元に淡い笑みを浮かべる。
本来ならば食べさせてもらう必要などなく、むしろ止めて欲しいとさえ思っているが、あまり笑わないルティカのことを思うとジークハルトは毎度拒否しきれなかった。
「……暢気なものだな」
卵を嚥下して、密かに自嘲する。
一日でも早く仇敵を探し出して過日の復讐を遂げねばならないのに、朝から童女と和やかに食事をしている。ジークハルトはそんな己を俯瞰すると、決まって焦燥感と罪悪感を覚える。
五年前に比べて決意が鈍っているのではないか、いつか諦めて投げ出してしまい、もうルティカと楽しくやっていけば良いかと妥協してしまうのではないか。
そうした思いが否応なく湧き上がってくるのだ。しかし、それを許さぬように失われたはずの左腕が幻の痛みを訴え、意識を引き締めてくれる。
ジークハルトは淡々と右手を動かし、咀嚼しながら思考を働かせる。
これからどうするか。どこへ行くか。どう探すか。
憎しみにより研ぎ澄ませた頭で考えていく中、しかし先ほど「楽しそう」と言ったルティカの顔が忘れられないでもいた。
「魔大陸、か……」
そう呟く青年を、目深く被った頭巾の向こうから紅い瞳が興味深げに、あるいは優しげに見守っていることに、彼は気付いていなかった。