第六十話 『大好きなもの、大切なもの』★
信用と信頼は全くの別物だ。
信じて用いるのか、信じて頼るのか、その違いは存外に大きい。
例えば、魔物と戦っているとき。
俺が突撃すれば援護してくれるだろう……と仲間を"信用"して突撃し、援護してくれなかったとき。俺の心は何ら傷つかない。
俺が突撃すれば援護してくれるだろう……と仲間を"信頼"して突撃し、援護してくれなかったとき。俺の心は大なり小なり傷つくだろう。
信用とは他者や道具を信じて、用いる行為だ。その信じた何かを用いるのは他ならぬ己自身なのだから、己以外から裏切られることがない。
信頼とは他者や道具を信じて、頼る行為だ。こちらは前者と違い、信じた何かに期待という感情を乗せ、その何かに少なからず心を預けるが故に、己以外から裏切られる。
だからこそ、俺は誰かを信用はしても、信頼はしない。
誰かに何かを期待したりなどしない……できない。
そもそも信頼とは酷く身勝手な行いなのだ。一人勝手に何かを期待して、頼りにして、それが果たされなければ、一人勝手に裏切られたと感じる。
信頼された相手も良い迷惑だろう。
前世において、俺は自業自得の事態により苛めを受け、逃げ出すように高校をドロップアウトした。誰からも好かれるように努力していた俺にとって、苛めとは天地がひっくり返るほどの衝撃をもたらす前代未聞の大事であり、当時の俺は混乱の最中にあった。自らのアイデンティティが崩壊するようなものだったので、いま思い返しても仕方のない反応だったと思う。
まともに考えることなどできず、ただ耐えがたい恐怖から逃れるため、俺は一人になった。もちろん、その後のことなど考える余裕すらなかったので、ある程度心が落ち着いた頃、俺はこの先どうすれば良いのか分からなかった。
だから、母親に相談した。
すると無慈悲に、突き放すように、こう告げられた。
――自分で考えろ。
もちろん、母親の意図は分かっていた。大事なことだからこそ、誰かに頼らず自分で考えさせることで、自立心を促そうとしたのだろう。
加えて、俺は親に高校を辞めた理由を一切話さなかった。苛められて怖くなったからなど、クソ兄貴の代わりに叱られない優秀な子であらねばならないと思っていた当時の俺には、とてもではないが言えなかった。
だから親は、肝心なことを話さないくせに都合良く頼ろうとした子供を叱る意味合いも兼ねて、そう告げたのだろう。
しかし、頭ではそう理解していても、俺の心はかつてないほど甚大なショックを受け、裏切られたと感じた。それまで両の足で踏みしめていた地面がガラガラと音を立てて崩れ去っていく錯覚を覚えた。
日々好き勝手に怒りを振りまくクソ兄貴はろくに叱らないくせに、俺にはそんな厳しいことを言うのかと、絶望した。
そして、こうも思ったのだ。俺がクソ兄貴の暴威に怯え、耐えていることを両親は知っているはずなのに、奴を止めようとしない。世間では手の掛かる子供ほど可愛いとも言う。
つまり、両親は俺の我慢を許容した上で兄を伸び伸びと自由に育てていることを意味し、父も母も俺なんかより、長男であり第一子である兄の方が大事なのではなかろうか。
一度でもそう思ってしまうと、心理的に不安定だった当時の俺は際限のない疑心に苛まれ、この世に信頼できる者はいないのだと痛感させられてしまった。
なんだかんだで、俺は心底から親という存在を信じて頼りにしていたのだと、そのとき初めて自覚した。
そうして、俺は誰も信頼しなくなった。高校を去る切っ掛けとなった一件で、味方した友人が俺を見捨てたことも大いに拍車を掛けた。
母親に裏切られたと感じた俺は父親や祖父母、小中学校からの友人たちにも裏切られるのが怖くて、完全に自分の殻に閉じこもった。
俺が十六歳になる前の話だ。
前世ではそれから死ぬまで、誰一人として信頼しなかった。自分自身にすら裏切られ続けた俺はクズニートと成り果てた挙句、時空魔法という馬鹿な幻想に縋って母親に殺された。しかし転生し、新たな人生を歩み始め、今では前世からの様々な呪いも解けつつあるが……
未だに、俺は誰かを"信用"はしても、"信頼"はしていない。
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蒼水期の半ば。
猟兵協会のランクが九級になった。
一人旅では猟兵生活になるだろうから、昇級は単純に嬉しい。俺は道中、人前でもバンバン魔法を使っていくつもりなので、魔法さえ使えば八級の魔物も余裕で倒せるはずだ。なにせ特級魔法を使えば四、五級程度の魔物なら一撃で屠れる。
この前もマッドヘッドウルフという五級の魔物と遭遇して戦ったが、特級の火魔法を使ってやったらオーバーキルして、後に残ったのは宙を舞う灰燼だけとなった。魔大陸の魔物でこれだから、たぶん他大陸の魔物なら二級くらいでも狩れると思う。
というか、俺は当然のように特級魔法を使っているが、特級魔法が使えれば世間では一流の魔法士として認められるのだ。どこの国でも特級魔法士は好待遇で迎えられ、そこらの一般兵士とは比較にならない給金を貰える高給取りになれる。
婆さん曰く、魔法士の中で特級まで使えるようになる者は全体の一割もいないらしい。つまり、俺は既に魔法士の中でも上位十パーセント以内に属する実力者ということになる。
覇級やら戦級やら、特級よりも高位の魔法が存在するとはいえ、そもそも特級魔法は必殺レベルの攻撃力を秘めているのだ。特級以下は狭い範囲の小規模魔法、覇級以上は広範囲の大規模魔法が多いため、一部の例外を除いては、実質的に敵単体へ放つ魔法の威力では特級が最高クラスとなる。
なので俺は七歳にして既に魔法士としては一流なのだ……たぶん。
「その年でローズほど魔法に熟達しておる者は、世界でも数人おるかおらんかくらいじゃろう」
とは元聖天騎士の婆さんの言葉だ。
俺はたぶん同年代では最強クラスの魔法士ということになるが、しかし同時に俺レベルのガキンチョ魔法士も数人なら存在するということになる。
転生者である俺は曲がりなりにも三十年の人生経験があったため、効率よく魔法を習得してこれた。だが、正真正銘天然の、純度100%な天才魔法士という奴も、確かに存在するのだろう。
そう考えると、俺は自分のことを天才だなんて思えない。実際、リーゼもサラも適性属性の魔法なら既に上級まで詠唱省略して使えている。婆さんと俺による英才教育を差し引いても、俺より二人の方がかなりの才能を秘めているはずだ。
人は学ぶことを止めたとき、向上心を捨てたとき、成長が止まる。
だから俺は学び続けるし、更なる高みを目指し続ける。
途中で投げ出したりなんて絶対にしない。
俺は生まれ変わったのだ、もうクズニートになど決してなるものか。
九級猟兵として活動し始めて、三節ほどが経った頃。
その日、俺は朝から猟兵として動き回り、日暮れ頃にくたくたになって館に戻った。が、転移したところで、またアルセリアが竜戦の纏を使った全身竜鱗状態となった。これでもう去年から数えると、かれこれ二十回近くは同じ事が起こっている。
だからか、みんな以前ほど心配はしていないようだったが、その日は解除されるまでが異様に長かった。いつもはすぐに通常状態に戻れていたのに、夕食になっても風呂に入っても竜戦の纏は解けず、俺たちがそろそろ寝る頃になって、ようやく元に戻れたのだ。
これにはさすがに、俺たち家族はみんな不安の色を隠せなかった。
「アリアよ、本当に大丈夫なのかの?」
「大丈夫だ……と言っても、さすがに説得力はないか」
アルセリアは今、自室のベッドで横になっている。竜戦の纏は体力の消耗が激しいため、普通は何時間も連続使用するものではないのだ。故に、顔色はあまり良くなく、表情に疲労感が滲み出ている。
「おばあちゃんっ、治癒魔法は!?」
「いや、リーゼ、治癒魔法は必要ない。今は単に疲れているだけだ」
治癒魔法は怪我を治すだけで、失われた体力まで回復させることはできない。
今のアルセリアには休息が最も有効な回復手段だろう。
「マリリン様、そろそろヤバくないですか? やっぱり転移盤になにかあるんじゃ?」
「ふむ……そんな話は全く聞いたことがないのじゃが……個人によって相性があるんじゃろうか……? それとも竜人だからかの?」
「どうして竜人だからって話になるの?」
婆さんの独り言めいた言葉にサラが反応し、問いかけた。
「皆も知っての通り、竜人は他種族との交流を厭うておる。それ故に、彼らは昔からカーウィ諸島以外の地にはほとんどおらぬ。つまり、ただでさえ希少な転移盤を使用する機会も他種族に比べて少なかったはずじゃ。じゃから記録などに残っておらぬだけで、あるいは竜人は転移盤と相性が良くないのかもしれぬ」
「それでも、去年あたりまでは何事もなく、普通に使えていましたよね?」
クレアの言うとおり、アルセリアは十年以上にわたって日常的に転移盤を使用していた。なのに去年あたりから徐々に体調――というか調子がおかしくなっている。
「ディーカの町とこの館を繋ぐ転移だけでのこと……ってわけでもないんですよね?」
メルは不安げな様子をまざまざと顔に浮かべ、誰に向けるでもなく訊ねる。
「そうだな、むしろラヴルへの行き帰りのときの方が、割合としては多いな」
「だったら転移盤自体がおかしいってこともないだろうし……」
セイディは顔に似合わぬしかめ面で何やら考えているが、他のみんなと同様、特に何も思い浮かぶような様子はない。
「何かの病気……の可能性は低いですよね。前に何度かお婆様が天級の解毒魔法かけましたし」
「でも、現にだんだんおかしくなってきてるじゃない。アリア、普段からどこか体調が悪いとか、本当にないの?」
「ないな、今日もいつも通りだった」
アルセリアはこういうときに嘘を吐くような人ではないから、本当だろう。
博識な婆さんにもアルセリア本人にも心当たりがないとなれば、俺たちではどうしようもない。
なんとなく、室内に妙な沈黙が漂った。
みんな考えているのか、あるいはどう反応すれば良いのか分からないのか、誰も何も言わない。
「……まあ、そう心配することはないさ。今のおれはただ疲れているだけだ、明日になれば体力も戻るだろう」
「そうじゃな、とりあえずは様子を見てみるかの。明日から十日ほど、アリアは転移盤を使わずに過してみるのが良かろう。その後に再び使用してみて、また同様の症状がでるようならば、改めて考えてみるとしよう」
俺たちは婆さんの言葉に頷くしかなく、結局その日は解散となって、それぞれの部屋に戻っていった。
翌朝になると、アルセリアは常と変わらぬ様子で食堂に顔を見せ、その後の一節もごく普通に過していた。そして一節ぶりに転移盤を使ったところ、今度は特に何の異常も見られなかった。
しかし、それから更に一節ほど経った頃。
いつものように転移盤を使用した直後、アルセリアはまたしても竜戦の纏を無意識的に使ってしまっていた。幸いと言って良いのか、数分ほどで元に戻れたが、やはりアルセリアは転移盤に何らかの影響を受けていると見て間違いなかった。
それでも転移盤は生活必需品だし、アルセリア以外の誰かには何も起こっていない。アルセリアにしても、単に竜戦の纏を使ってしまうというだけで、特に命に別状はない。
そういうわけで、アルセリアの体調不良は気になりつつも、彼女を含めた俺たち全員は転移盤をこれまで通り使い続けていった。
♀ ♀ ♀
橙土期第六節。
迫る期日を思いながら、いつも通り三人で就寝した……と思ったら、微睡みに沈んでいた意識が感じ慣れぬ魔力の活性を察知して、目蓋を押し上げさせる。
「起きなさい」
白装束の人影は左手に光魔法の明かりを灯しながら、横たわる俺を見下ろしていた。俺は突然のことに驚きながらも、すぐに冷静さを取り戻す。
「えっと……どうも、お久しぶりです……アインさん」
起き上がりつつ挨拶して、辺りを見回す。前回同様に森の中だが、昨日は快晴だったので特に雪化粧が施されているわけではない。
ただ不気味なまでに暗くて深い、夜の森だ。
一本の樹の根元に土魔法で作っただろう無骨な椅子があったので、俺はそこに腰掛けた。アインさんは二年前と変わらず、目元以外の全身を白いローブで覆い、ただ突っ立ったまま黄金色の瞳でジッとこちらを見つめている。
「期日が迫っています。準備はできていますね?」
挨拶もなく、早々に本題に入られる。
だが、俺は特に惑ったりしない。そろそろ現れるだろうと思っていたのだ。
むしろここ最近はまだ会いに来ないのかと、少し訝っていたところだ。
尚、これは婆さんから聞いて知り得たことだが、黄金色の瞳は魔人、鮮血色の瞳は鬼人の証であるらしい。どちらも見た目は人間と大差ないようで、瞳の色で見分けるか、あるいは魔人なら耳の長さで判別するしかないそうだ。魔人は前世でいうところのエルフみたいな笹穂耳らしいからね。
とはいえ魔人も鬼人もまず見掛けることはないそうで、それは俺もこれまでの日常で実感してきたことだ。しかし、もし仮にこれらの特徴を有した者を見掛けたら、下手に関わってはいけないと忠告されている。
今まさに俺の目の前には白装束に身を包んだ金眼の少女がいる。
婆さんの話が本当なら、アインさんは魔人なのだが……大丈夫なんだろうか。
「えっと、準備は何とかできています。ユーハさんから剣を習ってきましたし、魔法も練習しましたし、レオナのことを忘れないように頑張りました。あとは……みんなに館を出て行くことを伝えるだけです。でもそれも、もう覚悟はできています」
「そうですか。神は貴様の全てをご覧になっておられましたが、確認のため、貴様の口からこの二年における活動の詳細を報告しなさい」
感情の色を全く見せることなく、ただ淡々と要求してくる。
俺は逡巡した後、二年前から今に至るまでの出来事から剣術と魔法、竜人語やネイテ語の習熟状況なども話していった。
しかし、こちらも確認のために少し嘘を吐いてみる。
「まだ上級魔法の同時行使は全くできませんけど、特級までの魔法はだいたい習得しました。詠唱省略化もほとんど済んでいます。……まあ、だいたいこんなところかと」
「そうですか。いま貴様が報告した内容、一つとして嘘偽りがないと断言できますか?」
「で、できますけど……それが何か?」
俺は努めて平然とした様子を装い、金色の瞳を真っ直ぐに見上げた。
自称神の使徒は無感情な双眸でじっと視線を合わせながら、無色透明な声を小さく響かせる。
「これは警告です。我に虚偽の報告したところで、神は全てお見通しです。訂正するのなら、今のうちですよ」
「な、なんのことですか? 私は何一つ嘘偽りなんて言ってませんけど……」
「我が神は嘘がお嫌いです。神の怒りに触れると、罰が下るでしょう」
「ですから、私は何も嘘なんて吐いてません。どうしてそんなこと言うんですか?」
強がった。
さも理不尽に尋問される哀れな子羊の皮を被った。
「…………」
「…………」
アインさんは俺から僅かも視線を逸らさず、しばらく互いに無言で見つめ合う。
二十秒ほどそうした後、アインさんはゆっくりと目を閉じた。
「今のは貴様の我に対する態度を試しただけです。我は神から既に詳細を聞いているので、貴様が虚言を弄していないことは始めから分かっていました」
「そう、だったんですか。なんですかもう、そんな意地悪しないでくださいよ。神様の使徒様に嘘なんて吐きませんって」
俺は極々自然な笑みを浮かべて言いながら、やはり神だの使徒だのの存在は眉唾かもしれないと、認識を改める。
先ほどアインさんに報告した内容とは異なり、俺は上級魔法の同時行使は一応だができるようになっている。ただ、中級魔法ほど習熟していないし、馬鹿みたいに集中力と時間がかかるから、実戦ではまだまだ使いものにはならないが。
それでも、できるにはできるのだ。
しかし、アインさんは俺の嘘を見破れなかった。
本当に神が俺のことを見ていて、その内容をアインさんも知っていたのなら、嘘だと指摘してきたはずだ。
前回は色々突然すぎて余裕がなかったが、今回の俺はひと味違うぜ。
今し方の一件で、アインさんの言うことを鵜呑みにはできないと分かった。
と考えられるが、しかし彼女は俺が転生者だと知っている。やはりその点を鑑みれば、神の存在は否定できない。ただ、神という存在特有の全知全能的な絶対性に対する信憑性は揺らいだが。
「では、貴様は翠風期の初日に出発してください。それより遅くても早くてもいけません。必ず一人で、プローン皇国の皇都フレイズを目指し、出発してください」
神の使徒を自称する少女は再び妖美な瞳を露わにすると、起伏のない声で告げてきた。
「もしその日より遅く、あるいは早く出発したら、どうなるんですか?」
「道中において神のご加護を受けられなくなります」
それは……どうなんだろうか。
神の加護が受けられるのなら受けたいところだけど、今更の話、そもそもなぜ俺なんかに関わってくるのか理由が分からん。果たすべき約束を果たしていないから、神は怒っているらしいが……。
約束を果たしていない輩など、世界にはごまんといるだろうに。
「どうして、私に親切……というか、道を指し示してくれるんですか?」
「それが神のご意志だからです」
なんか隠してそうな感じがするんだよなぁ。
どうせ何らかの理由はあるのだろうが、この調子だと答えてはくれないだろう。
「とりあえず、分かりました。翠風期の初日に旅立ちます」
「そうしてください」
俺の首肯にも、アインさんはやはり人間味のない反応を返すだけだ。
「今宵はここまでとします。出立した後、再び会うことになるでしょう」
「次はいつですか?」
「明言はできません。……さて、では最後に一つ、もう一度貴様を試させてもらいます」
白装束のたぶん少女は右手をこちらに方に突きだしてきた。
かと思いきや、急激な魔力の活性を魔動感は捉え、俺は咄嗟に立ち上がる。
「――っ!?」
だが腰を上げた瞬間、異常な揺さぶりを感じた。
本能的に魔力を当てられたのだと悟りながらも、再び椅子に尻をつけてしまい、途切れそうになる意識を必死につなぎ止める。
一年半ほど前、婆さんから断唱波の指導で当てられた魔力より強力だ。もし耐性訓練をしていなければ、今頃は完全に気絶していただろう。
「な……に、を……」
「それでは、これはどうでしょうか」
力なく椅子から転げ落ちながらも、悠然と、あるいは粛然と佇立する白装束を見上げる。しかしアインさんは淡々とした様子を崩さず、先ほどの倍はあるだろう魔力波動を放ち始める。
俺は咄嗟に無属性魔法で盾を張った。
ろくに集中などできなかったが、中級魔法程度ならなんとか行使できた。それでもアインさんから放出された魔力は急拵えな盾など容易に押し流し、莫大な魔力の奔流を浴びせかけてくる。
なんだこれ、これが魔人の魔法力か。
「…………っ」
もはや微かに呻くことしかできなかった。
急速に意識が遠のいていき、酩酊状態のように視界は歪み揺れ乱れ、身体に力は入らず、ただ痙攣するしかない。
だが、俺は抵抗することなく、もうそのまま気絶することにした。
この状態になったら、もう無理だと分かる。経験則だ。
「……………………」
意識が途切れる前に、ふと思った。
前回も今回も、いったいどうやって俺を館から連れ出したのだろうか。魔法を使えば例え就寝中でも俺の魔動感は少なからず反応するはずだし、それは婆さんも同様で、今回はアシュリンという番犬もいた。まあ、あいつは多分に野生味が欠如しているので、不審者が侵入してきても気が付かないかもしれないが……。
「残りの三節、十分に英気を養ってください。貴女は……貴女に容赦がありませんから」
少女らしくも知的で大人びた不思議な声には、少々の苦味と労りが感じられた。
俺はその声を最後に、意識を失った。
♀ ♀ ♀
アインさんとの接触から数日。
橙土期も第七節に入った。
ちょうど三節後、俺は館を発つ。
故に、今日この日は覚悟を決めて皆に告げなければならない。
朝、俺はメルの双丘に五指を駆け巡らせる。
この習慣は今朝で終わらせるつもりだ。
意識を切り替えるため、これまでの自堕落だった部分とはおさらばせねばならない。ちなみに、クレアの浮乳双島の探検は昨日の風呂で済ませてある。
抜かりはない。
「それじゃーいってきまーす!」
朝食と家事を済ませた後、リーゼとサラ、それにクレアとセイディの四人は館を出て行く。今日は彼女ら四人で猟兵活動に励むのだ。アインさんと会った翌日から、そうなるように予定をさりげなく誘導してきた。
抜かりはない。
「アルセリアさん、私たちは昼過ぎに行きましょう」
「……分かった」
そう返事をするアルセリアの様子は普段と変わりないように見える。だが、俺の魔眼は彼女が俺の決意に気付いていることを伝えていた。
今日はユーハがリーゼたちに同行して不在なため剣術稽古はお預けで、代わりにメルとアルセリアに混じって身体を動かした。
それから三人で昼食を作り、何事もなく食べ終えて、町へと出掛けるために部屋で準備をする。
「私も行って良いかな?」
計八枚のレオナ絵を丁寧に布でくるみ、アルセリアを呼んでこようとしたところで、メルが同行を申し出てきた。気のせいかもしれないが、メルの俺を見る顔にはどことなく不安の色が浮き出ている。
彼女は人の機微に聡いので、俺の様子から何かを感じ取ったのかもしれない。
「もちろん良いですよ。でも一緒に荷物を持ってくださいね」
「荷物って、この絵だよね? どうして町に持っていくの?」
「売るので」
アルセリアが五枚、メルが二枚、そして俺が一枚のキャンバスを持って、町へ繰り出す。幸い、館からヘルミーネ宅への転移でアルセリアが例の症状を出すことはなかった。
町は普段と変わらない。
漂う空気は魔物の世界とは思えない活気と生活臭に満ちていて、今日も今日とて穏やかな日差しの下で人々が精力的に動いている。
俺たち三人は町の通りを並んで歩き、目的の店へと向かっていく。
「本当に売っちゃうの? あんなに一生懸命描いてたのに」
歩きながら、隣のメルが確認するように訊ねてくる。
俺はそれに躊躇いなく頷きを返した。
「はじめから売るつもりで描いていたので」
だからこそ一枚一枚、数節の時間を掛けて仕上げていたのだ。
無論、丁寧に描いていたのはレオナを忘れないためなのが一番の理由だが。
俺たちは普段から良く利用している商店に足を運んだ。
そこで俺の作品を買い取ってもらおうと査定してもらったところ……。
「これは……また何とも変わった画風の絵ですね……40ジェラ、といったところでしょうか」
そこらの露店で安メシが買えるかどうか、といった値段だった。端から期待はしていなかったが、やはり俺の芸術を理解できる奴はそうそういないらしい。
一番最初に描いた習作だったので、まあいいかと思って売り払い、次に行く。
それから色々な店や行商人を回って、残り七枚の絵を一枚ずつ売り払っていった。
「……なぜだ」
最後の店を出て、俺は思わず素で呟いてしまった。
「で、でも、ほら、さっきのところは10000ジェラで買い取ってくれたし」
「この店は10ジェラでした……あのオジサンは美的感覚が欠片もないです……」
メルは気まずそうに苦笑いを見せ、アルセリアは無言で俺の頭を撫でてくる。
八枚の絵は最低10ジェラから10000ジェラと、幅広い値段で売れた。
別段、10ジェラでも売らずに別のところへ持っていけば良い話なのだが、俺は色々なところに売りたかった。一ヶ所に纏めて売ってしまうと、纏めて取り扱われることになる。せっかく俺が丹精込めて描いた作品だったので、できれば世界中に拡散して欲しい。だからこそ分散して売り払った。
その結果、八枚で14490ジェラとなった。
数日猟兵として活動するよりかはマシな値段になったとはいえ、せめて30000ジェラくらいにはなって欲しかった。それでも現実を知った今となっては、計10000ジェラを超えたのは奇跡的だと思えるので、まあ良しとする。
「さて、全ての絵を売却したが、これからどうする? 何か見ていきたいものがあれば、このまま買い物を続けても良いが。それともどこかの露店で何か食べるか?」
アルセリアが通りを歩きながら俺とメルに訊ねてくる。
いつもなら、そろそろおやつの時間なので、露店で軽く食べても良いが……。
「私はもう一度、10000ジェラで買い取ってくれた行商人さんのところへ行きたいです」
「さっきのところで、何か欲しい物でもあったの?」
「いえ、まだ売りたいものがあるので」
俺がそう言うと、メルは不思議そうな顔をする。
当然のように「もう絵はないよ?」と言われるが、俺は「別のものです」と曖昧な笑みを返しておいた。アルセリアは少し怪訝そうな様子を覗かせるも、深くは突っ込んでこない。
なにはともあれ、俺たちは優秀な審美眼を持っていた行商人のもとを目指し、歩みを進めた。
ディーカの大きな広場では市が開かれていて、そこに軒を連ねる露店の一つが目的地だ。賑わいを見せる市場に再度入って、芸術を解する男に話しかける。
「おう、さっきの嬢ちゃんたち。今度はどうした?」
店主は二十代半ばほどの気安そうな若造だ。
取り扱っている商品は様々で、変な形の壺だったり、装飾過多な短剣、色鮮やかなマントに珍味らしい香辛料まで幅広い。たぶん少し変わった雑貨屋なのだろう。
「さっきの絵はもう売れましたか?」
「ははっ、そんなに早くは売れねえよ。それにあの絵はエノーメ大陸あたりに持ってって、物好きそうな貴族に売る予定なんでな。なんだ、用はそれだけか?」
「いえ、今度は髪を買い取って欲しくて」
雑談を交えながら野郎に告げると、まず反応したのはメルだった。
「え、ローズ、急にどうしたの?」
「髪を切るついでに売ろうと思って。自分で言うのも何ですけど、結構綺麗ですから。ほら、こんなにさらさら」
俺は野郎に背中を向けて、毎日サラが櫛を通し続けてきた長髪の美点をアピールしてやった。ここ一年ほどは前髪以外切ってこなかったので、後ろ髪は尻にまで届いている。
若造は俺の髪に触れてきて、「ほぉ」と声を漏らしながら検分している。
「綺麗な赤毛だな、ちゃんと手入れされてる」
「肩のところから切れば、どのくらいで買い取ってもらえますか?」
この世界にもウィッグやつけ毛はあるっぽいので、綺麗な髪にはそこそこ需要がある。それに髪は束ねるとかなり強固になるので、編んで紐状にでもすれば、使い道も多い。10ジェラよりは高く売れるはずだ。
「ちょ、ちょっとローズ、本当に売っちゃうの? というか、切っちゃうの?」
「もう鬱陶しいので、そろそろ切りたかったんです。どうせ切るならお金になった方が良いですし」
メルは驚きながら訊いてくるが、これはずっと前から計画していたことだ。
俺は一人旅をするにあたって、男装することに決めている。
八歳程度なら男女の区別も付きにくいし、俺は中身が男だから立ち振る舞いをより男っぽくできる……かもしれない。女集団の中で三年以上も過したせいか、最近はすっかり幼女らしい仕草に慣れ、男っぽさを忘れかけているが。
それでも男らしくしていれば、人前で魔法を使っても《黄昏の調べ》に目を付けられる心配はないからな。それに女ってのは男より舐められることが多いし、道中でロリコン野郎に遭遇して襲われる可能性だって少なからずある。
髪を切って売却することで、男装の準備と旅費の足しになり、まさに一石二鳥だ。俺の髪を大切にしてくれていたサラには悪いが、だからこそ俺は色々と吹っ切って決意を固めることができる。
「そうだな……子供の髪ってのは繊細で人気がある。5000ジェラでどうだ?」
「10000ジェラでお願いします。あの絵と一緒に売れば、きっと良い値になりますよ」
「ほう、少女画家の描いた少女絵って触れ込みで売れば……変態貴族なんかが喜びそうだな。うしっ、良いだろう、7700ジェラで買ってやる」
少し背筋が寒くなりはしたが、俺は自分の髪を7700ジェラで手放すことにした。
所詮は髪だ、気にすることはない……はずだ。
そうして、メルとアルセリアに見守られる中、若造の手によって肩の辺りからバッサリと髪を切られる。一気に頭が軽くなり、なんだか妙に涼しくなった気がした。
「じゃあな、毎度あり」
若造の露店を後にして、市場を出て通りを歩いて行く。
メルは俺の様子を窺うようにチラチラと見つめてきて、複雑そうな顔で声を漏らす。
「なんていうか、本当に切っちゃったんだ……でも……うん、ローズは短いのも可愛いね」
「格好良くないですか?」
「え? 格好良くはないけど、可愛いよ。ところで……ローズ、何かあったの?」
気遣わしげな声を向けられ、返答に困った。俺も幼女とはいえ、女がある日突然、それまでずっと長くしていた髪を短くしたのだ。
メルでなくとも同じことを訊ねてきただろう。
しかし、アルセリアは特に何も言わない。
先ほど「短いのも似合っているな」程度のことを口にしただけで、深くは追及してこない。たぶん彼女のことだから、俺の意図など訊くまでもなく明らかなのだろう。
「髪を切った理由は……今晩話します」
そんなことを話ながら館への帰路を歩いていく。
頭が軽くて涼しくて、そよ風に吹かれただけでも普段と違う感覚に新鮮さ感じる。
「アルセリア」
雑踏のざわめきの中で、ふと聞き慣れた声が聞こえた。
三人揃って振り返ってみると、案の定、紺色の髪に灰色の瞳をした少年が軽く走って近寄ってくる。
「ちょうどこれから行こうと思――って、なんだお前?」
「見ての通りローズですよ」
ウェインは俺を見て、ぎょっとした顔をしやがる。
失礼な奴だな。
「いや、お前……髪切ったのか」
「さっき切ったばかりです。どうですか? 似合いますか?」
「んなもん知るかよ」
俺から目を背けて素っ気なく言われた。
まったく、この子ったら照れちゃって。
でもこういうときはお世辞でも可愛いと言うのが、幼女に対する礼儀なんじゃないですかね?
「ウェイン、似合ってるよね?」
「まあ、長いと目障りだから、短い方がいいんじゃねーの?」
メルが優しく問いかけると、ウェインはぎこちなく頷く。
前世では分からなかったけど、こういうときはお世辞でもきちんと褒めてくれた方が嬉しく思えるな。まあ、ウェインも今年で九歳だし、幼女相手に素直な言葉を掛けるのも照れくさいんだろう。
そうでも思わないと、実は似合ってないんじゃないと心配になってくる。
「この道歩いてたってことは帰ってたとこなんだろ? だったらさっさと行こうぜ」
ウェインは一人ですたすたと先に行こうとする。
アルセリアとメルは顔を見合わせて苦笑していた。
それから俺たちは特に寄り道することもなく、そのままヘルミーネ宅へ帰り着き、館へ転移した。しかし、転移直後にまたもやアルセリアの全身が鮮やかな緑色の竜鱗に覆われてしまう。
「あ? なんだ、どうしたんだアルセリア。まさか前に言ってたあれか?」
いきなり目の前で全身竜鱗状態に変貌したアルセリアを見て、ウェインが戸惑っている。だが俺やメルは初めてでもないので、割と冷静だ。
「今日もすぐには戻れそうにないですか?」
「…………そのようだな。いや、三人とも心配することはない、今夜までには戻るさ」
もはやアルセリアも慣れてしまったのか、心配する俺たちを気遣って、特に気負いのない足取りで転移部屋を出て行く。
俺はそれでも尚、アルセリアの体調が気掛かりではあったが……別のことにも不安を覚えていた。
アルセリアがあの状態のときに、みんなに別れ話を切り出して良いものかどうか。たぶんクレアもセイディもサラもリーゼも、少なからずアルセリアのことを心配するはずだ。そんな空気の中、三節後に館を出て行くという発言は、なんだか不謹慎で不誠実だと俺自身は感じてしまう。
とりあえず、夕食までに通常状態に戻れたら、話を切り出すことにしよう。
強引に自分に言い聞かせ、俺は思考を打ち切った。
今日はクレアたちが出掛けているので、ある程度まで夕食の準備をしておく必要がある。アルセリアはあの状態なので部屋で休んでもらい、婆さんと一緒にウェインに見守らせておく。
そして俺とメルは二人で厨房に立ち、仕込みを始めた。やはり髪が短いと何をするにしても動きやすく感じられる。不意に前傾姿勢になったときなど、髪が垂れないように手で押さえる手間もいらないし、料理するときにいちいちポニテにする必要もない。
実に快適だ。
それから、ちょうど日が暮れた頃にクレアたち四人が帰ってきた。
「ローズ!?」
「……あっ、一瞬誰かと思った!」
俺を見て、サラは大きく目を見開いて驚愕を露わにし、リーゼは二、三度の瞬きを挟んで声を上げる。
「どーしたのローズ、バッサリ切っちゃって。なんかかなり見違えちゃったわよ」
「そうね、びっくりしちゃった。でも良く似合っているわ、可愛いわね」
美女二人も驚いてはいたが、サラほどではなかった。
クレアは短くなった俺の髪を撫でてくれる。
「ローズッ、なんで勝手に切っちゃうのよ!? あんなに長くて綺麗だったのにっ、わたしあんなに毎日梳いて……あぁもうなんでローズッ!?」
「お、落ち着いてください、サラ。そろそろ長くて鬱陶しかったですし、良い機会だったので、切って売ったんです」
「売ったの!? いくらでっ!?」
「7700ジェラでした」
「わたしに言ってくれれば10000ジェラ払ったのに!」
でもそうしたら、『これでローズの髪はわたしのものよ』とか言って、切るのを許してくれなくなっただろう。サラ自身も長髪にしようと思えばできるが、翼人なので飛行の邪魔になりやすいし、飛行で髪も傷みやすい。
だからサラは俺の髪を綺麗に手入れすることで、代償行為として女の子らしい欲求を発散していた節があった。
「わたしがいないときに勝手に切るなんて、どういうつもりよローズ!」
「まあ、それには色々と訳がありまして……」
「どんな訳よ、言ってみなさい」
「それは、えーっと…………あ、後で話しますっ!」
「あっ、ちょっとこら、待ちなさいローズ!」
このままでは追及を躱しきれないと悟り、逃げた。
きちんと夕食の席で、改まってみんなに話したいのだ。こんなコメディチックな雰囲気は話の内容にそぐわない。
少し騒がしくしなりながらも、俺は夕食までの時間を楽しく、そして少し緊張しつつ過していった。だが幸か不幸か、アルセリアの竜戦の纏はディナータイムになっても解けず、疲労感の隠せない様子で食堂に現れた。
みんなはアルセリアを心配し、彼女は相変わらず「大丈夫だ」と言って、顔色に反した涼しげな微笑を見せつつ夕食が始まる。
「…………」
「ローズ、どうかした? なんだかいつもより元気なさそうだけど……」
普段より口数が少ないからか、あるいは緊張が表情に出ているのか、メルが俺を心配し始める。いや、もしかしたら彼女は今日一日、ずっと俺を気に掛けてくれていたのかもしれないが。
俺はメルに笑顔を返し、楽しげに話しかけてくるリーゼに応じながら逡巡する。
今日、言うべきか否か。
アルセリアがあの状態なので言い出すまいとは思ったが、今日を逃せばもう後がないように思える。それに……俺はアルセリアを口実にして、逃げ出そうとしていないか?
「おいなんだよローズ、お前がそういう顔してるときって、なんか言いたいことあるんじゃねーのかよ?」
それに今日の夕食にはウェインも同席している。
こいつはたまに――三節に一、二回くらい俺たちと夕食を共にする。今日はウェインもいることだし、伝えるのなら全員揃った今このときが好機だろう。
「あのっ」
そろそろみんなが食べ終わる頃、俺は椅子を蹴って立ち上がった。
「どうかしたの、ローズ?」
クレアの疑問に倣うように、アシュリンを含めたみんなの視線が俺に集まる。
思わず怯みそうになるが、両手を固く握りしめて克己すると、硬い声で口火を切った。
「みんなに、話したいことがあります」
そうして、俺は告げていった。
レオナを探すため、この館を出て行くこと。
とりあえずプローン皇国を目指して、一人で旅をすること。
ちょうど三節後に出発すること。
余計な言い訳を織り交ぜることなく、淡々と事実だけを述べた。
「…………」
俺が口を止めると、シンとした静寂が食堂を満たした。
その静けさが気まずくて、俺は空になった自分の皿に目を落とし、みんなの反応を待つ。
二秒か、五秒か、十秒か、三十秒か、一分か。緊張で時間感覚の狂った俺には沈黙がどれほど続いたのか分からない。
が、とにかくしばらくすると、聞き慣れた元気な声が食堂に響いた。
「じゃーみんなでレオナ探しに出発だー!」
顔を上げると、リーゼが勇ましく立ち上がり、勢い良く左手を突き上げていた。
その横でお座りしていたアシュリンも追従するように「ピュェェ!」と鳴く。
「そうね、一人で行くなんて許さないんだから」
サラは椅子に座ったまま腕を組み、やや憮然とした様子を覗かせて、当然のことのように言い切る。
二人の反応はある程度予想していたとはいえ、実際にされると温かな思いで心が満たされ、しかしその内圧で胸が張り裂けそうだった。
「……リーゼ、サラ、ありがとうございます。でも、私は一人で行きます」
「ローズよ、なぜ一人で行こうとするのじゃ?」
婆さんが静かな口調で、穏やかな表情を見せながら問いかけてくる。
真実は話せないので、俺はやや口ごもりつつ答えた。
「それは……えっと、これは、私のことなので。みんなに迷惑は掛けられません」
「ローズ、アンタそれ本気で言ってるんなら、アタシかなり悲しいわよ? ついでにローズって実は相当馬鹿だったのかって、認識改めちゃうわよ?」
セイディがわざとらしく溜息を吐きながら、呆れ顔を見せる。
「なにが迷惑は掛けられませんだよ、今更すぎるだろ。お前、これまで俺たちに迷惑掛けずに過してきたとでも思ってんのか?」
ウェインはぶっきらぼうな言い草ながらも、声音は柔らかく、恥ずかしそうに目を背けている。
「そうね。でも迷惑だなんて、そんなこと全く思わないわ。ローズにどうしてもしたいことがあって、それが大変だったり危険の伴うことだったら、私たちは当然協力するわよ」
クレアは常より包容力溢れる優しい微笑みを向けてくる。
「私、これでも三年くらいは旅してたから、きっと力になれると思う。だから、一人で行くなんて、そんな寂しいこと言わないで」
メルは少し困ったように、でも俺の目を真っ直ぐに見つめて、いつになくはっきりと言った。
「ローズ、約束を覚えているか?」
「え……?」
不意にアルセリアから訊ねられるも、今の俺はまともに頭が働かないし、口も動かなかった。
「竜人語を教えるとき、おれは言ったな。皆にきちんと理由を説明して、理解してもらってから発つこと。そして、またここへ帰ってくること。この状況で、その約束を果たすにはどうすれば良いか、ローズには分かるだろう?」
「――――」
やられた。
俺はずっと、アルセリアは俺に理解を示してくれていて、応援してくれていると思っていた。
だが、違った。
二年前に話したとき、彼女は既にこの状況を想定していたのだ。
俺はみんなの顔を見回した。
いや、改めて見回すまでもなく、既に悟れている。
俺が一人で行くことをみんなに理解してもらうなど、たとえ天地が逆転しようと不可能だ。そんなこと、リーゼが、サラが、クレアが、セイディが、メルが、アルセリアが、婆さんが、ついでにウェインが、認めるはずがない。
「ぁ……」
認めるはずがない。
当然のようにそう思った自分に対し、俺はかつてない衝撃を受けて、愕然とした。自分が誰かを心の底から信じていて、俺にそうさせているみんなの存在を――これほどの幸福を自覚して、それが現実とは思えなかった。
前世では自分を含めた人間全てに対し、不信感を抱いていた。
その俺が、何の疑いもなく、みんなを信じている。
みんなが俺を一人で行かせるはずがないと、信じ切っている。
これは夢幻などでは断じてない。前世の家族でも感じたことのない、この場に満ちた肌で感じられるほどの温かさは、確かに現実だ。
「でも、俺は……」
上手く動かない口で反射的にそう呟いてから、ふと気が付く。
そもそも、なぜ俺は、神様やらアインさんの言うことを素直に聞いているのだろうか? たしか、神罰やら何やらが下るとか言われて、それで一人で発つことを強制させられているのだ。
しかし、神なんて本当にいるのか?
神罰なんて本当にあるのか?
だったらどうして、ついこの前アインさんに嘘を吐いたとき、それを見破られず、神罰も何も下らなかったのか?
それに何より、どんな理由があろうと、この掛け替えのない絆を断ち切って、本当にいいのか?
決して目には見えず不確かで、しかし何よりも尊く、儚くも強固な繋がり。これこそ前世の俺が最も欲し、そしてついぞ手に入れることの適わなかった温もりではないのか?
「なんでローズ泣いてるの?」
「もう、リーゼ……こういうときは見て見ぬふりをするものだって、メルのときも言ったでしょ」
「あれ? そうだっけ?」
リーゼとサラの遣り取りを聞いて、俺は思わず笑みを溢しながら、確信した。
みんなの想いを無碍にして、みんなの信頼を裏切ることなど、許容できるわけがない。仮にどんな神罰が下ろうと、どんなものより価値あるこの絆を、俺は断ち切りたくない。
俺はみんなを愛している。
みんなも俺を愛してくれている。
だから、みんなを信じて、頼ってみよう。
「みんな……私に……っ、力を、貸して……くれますか……?」
馬鹿みたいに泣きながら、それでも笑顔で問いかけた。
涙でぼやけてみんなの顔は見えなかったが、返答など聞くまでもないと、俺は心底から信じ切っていた。
しかし、三節も経たないうちにこの選択を後悔することになるなど、このときの俺は微塵も思っていなかった。