間話 『尊尚親愛は日常系のなかで 後』★
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結局、この日も初級火魔法は習得できないまま、練習を終えた。
隣でローズたちが様々な魔法を使っているのを見ていると、彼我の実力差を痛感する。が、ウェインに魔法を極めるつもりはないので、それほど悔しさは覚えない。
「おやつだーっ、おやつー!」
館内に戻ると、林檎のパイを振る舞われた。
普段、おやつの類いはクレアが作ってくれることが多いが、今日は町に出ているという。なのでアルセリアが腕を揮ってくれたようだ。
「パイは久々に作ったから、あまり美味しくないかもしれない」
「そんなことないよっ、アリアのパイおいしー!」
リゼットの無駄に元気な声が広々とした談話室に反響する。左手のパイは自分で食べて、右手のパイはアシュリンに食べさせている。
アルセリアはリゼットの頭を撫でると、談話室を出て行った。おそらくマリリンと二人で静かに紅茶でも楽しむのだろう。
「おいリーゼ、こういう旨いもんを魔物に食わせるなよ。もったいないだろ」
「なんだとーっ、ぜんぜんもったいなくないもん! アシュリンもかぞくなんだから、いっしょにたべるんだ!」
「ピュェェェェェェ!」
灰色の魔物は背中の翼を羽ばたかせて、リゼットに追従するように意味不明な自己主張をしている。
ウェインは無視して、杯に入った牛乳を飲んだ。
「ウェインウェイン」
「なんだよ」
ソファの隣に座る童女から小さく肩をつつかれ、ウェインは杯片手にそちらを見る。
すると赤毛な彼女は口元に手を添えて、耳元に顔を近づけてきた。
「ウェインは大きいパイと小さいパイ、どっちが好きですか?」
「は? そんなの大きい方に決まってんだろ」
「……つまりウェインは、アルセリアさんよりクレアの方が好きだと?」
「ん……は? なんだ急に」
「急じゃないですよ、パイの話です」
ウェインは首を傾げながらも、少し考えてみた。
おそらくローズは、今まさに目の前にあるアルセリアの作ったパイと、普段クレアが作ってくれるパイ、どちらが好きかを訊ねた。しかし、二人の作るパイの大きさはほぼ同じだ。にもかかわらず、クレアの方が好きなのかと問うてくる。
「お前の話はたまに訳分かんねーんだよ。もっと分かるように話せよ」
「分かるようにも何も、パイの話ですよ」
そう耳元で囁き、目と鼻の先にいるローズは笑っている。普段の微笑みではなく、稀に見せるニヤついた笑みだ。
それを見て、ウェインは未だ意味不明ではあったが、とにかくからかわれていることを悟った。
「ちょっとローズ、なにウェインとこそこそ話してるのよ」
サラはどこか不機嫌な様子を覗かせながら、ローズをウェインから引き剥がした。そしてローズはニヤついた笑みを瞬時に引っ込めて、普段の微笑みを見せる。
「あ、いえ、ウェインにどんな女性が好みなのか訊ねてたんです」
「な、なんでそんなこと!? やっぱりローズ、ウェインのこと――」
「は? 女性? そんな話してねーだろ」
妹の肩を掴んで揺さぶるサラを無視して、ウェインは指摘した。
するとローズは例のニヤけた笑みを一瞬だけ垣間見せ、言った。
「さっき、ウェインに大きい胸と小さい胸、どちらが好きか訊ねたんですけど……」
「あっ、大きい方に決まってんだろってウェイン言ってたわよね!?」
「は……?」
突然のことにウェインが唖然としていると、不意に別のソファでメレディスと談笑していたセイディが「ほぅ……?」と常より低い声を漏らし、双眸を鋭く細めた。
「決まってんのか決まってんですか決まっちゃってるわけなのね」
「な、なんだよセイディ……?」
「さっきのことでまだアンタも子供だと思ったけど七歳児でもやっぱ男なのねぇ男はどいつもこいつも巨乳だのデカパイだのが最高だとか言いやがってクッソふざけんじゃないわよコンチクショウいやでもアタシはお姉様一筋だし別に男の意見なんてどうでもいいけどだからってなんで決まってんのよ小さいのの何がいけないのよ決まってるって決まってるっておかしいでしょ別にいいじゃない小さくてもアタシくらい小さい奴なんてむしろ希少だってのに――」
恨めしげな声でぶつぶつと呟くセイディから、かつてないほどの眼光で睨まれ、ウェインはその異様に気圧された。そしてなぜかサラからは汚物に対するような眼差しを向けられ、ローズは口端をニヤりと釣り上げ、メレディスは困惑した様子ながらもセイディを宥めようとしており、リゼットはアシュリンと共に夢中でパイを食べている。
「ウェイン、ほら、セイディに謝らないと」
「な、なんで俺が……いや、元はといえばテメェのせいだろローズ! なにがパイの話だふざけんじゃねーぞっ、嵌めやがったな!?」
「嵌めるだなんて、そんな人聞きの悪い」
「ならなんでパイ食ってるときにパイとか言いやがったんだよっ!?」
「じゃあ、なんて言えば良かったんですか?」
「普通に胸とかおっぱいとか言えばいいだろっ」
と言い返したところで、まるでウェインのもとから遠ざけるように、サラが元凶を抱き寄せた。
「女の子になんてこと言ってるのよ、ウェイン最低」
「おい待てサラッ、最低なのはこいつ――」
「ローズ、男と胸の話なんてしちゃダメよ」
「はい、分かりました。でもサラ、ウェインは許してあげてください。彼にも悪気はなかったんです、ちょっとした出来心だったんですよきっと」
「む……うーん、ローズがそう言うならいいけど……今回だけだからねウェインッ、次変なこと言ったら許さないから!」
「……………………」
いつの間にか全ての責任を押しつけられていて、ウェインはもう反論する気すら起きなかった。
サラに抱かれつつも、ちらりと振り返ってきたローズの顔は楽しげに笑っている。それが妙に可愛らしくて余計に腹立たしく、しかしこれ以上何か言えば自分の首を絞めるだけであろうことは、さすがに理解できた。
いつか絶対に仕返ししてやる……と心に誓い、その場は耐えるウェインだった。
■ ■ ■
「そういえばウェイン、神那流の方はどうなのよ? 鍛えてもらってるんでしょ? トレイシーって人に」
ローズの罠による一騒動が落ち着き、飲食を再開して間もなく。
サラが割とどうでもよさげに訊ねてきた。
「まあ、どうって言われても……ぼちぼちだ」
「そーだっ、あたしとしょーぶしよーウェイン!」
唐突にリゼットが言い出すが、驚く者はいない。
この幼い獣人が突然なのはいつものことだ。
「あ、それいいわね。わたしもどのくらいウェインが強いのか、見てみたいわ」
「は? なに言ってんだ、やらねーよ」
「なんでよ、いいじゃない」
「お前らを殴るとトレイシーに殺される」
「勝負なんだから大丈夫よ」
「大丈夫じゃねーよ、とにかくやらねーよ」
ウェインは一顧だにせず拒絶して、甘いおやつを咀嚼する。
だが、そこで視界の端にまたしても例の笑みが映っていることに気が付き、ウェインは嫌な予感を覚えた。
あの妙にニヤついた顔をしたときのローズは絶対にろくな事を口にしない。
「サラ、ここは察してあげましょうよ。ウェインは男の子ですからね、リーゼに負けちゃうと示しが付きません」
「おいなに言ってんだローズ、俺がリーゼより弱いわけねーだろ」
「……そうね、ローズ。ウェインは二人より年上だし、可哀想よね」
サラはローズに賛同しているが、ローズと違って表情に遊びがなかった。真剣にウェインが負けたときのことを慮り、自分が間違っていたと本気で思っているような言い草だった。
「えー、しょーぶしたいーっ!」
「ダメよ、リーゼ。我慢しなさい」
「そうですよ、リーゼ。男の子には面子というものがあるんです。それを壊してあげないようにするのも、女の子の優しさですよ」
ローズはリゼットの肩に手を置いているが、視線はウェインに向いていた。
からかい混じりの舐め腐った微笑みを浮かべて挑発しているのが分かる。
「この野郎……」
だが、ウェインはぐっと堪えた。ローズの挑発に乗るのは酷く癪に障った。
しかし、このままではローズとサラから哀れに思われ続けたまま終わってしまう。
「……いいぜ、やってやるよ」
「やったーっ、じゃーあたしやりもってくーるー!」
「ただし相手はリーゼじゃなくてローズだ」
「え……?」
驚きの表情を見せるローズ。
そんなことを言われるとは思ってもいなかったようだ。
「お前も剣習ってんだろ、だったらそれで勝負だ」
「い、いえでも、私は魔剣ですから……」
「木剣使えばいいだろ」
「…………」
ローズは真顔になって、ちらりと助けを求めるようにサラとリーゼに目を向ける。しかし二人が何か言う前に、セイディが口を挟んだ。
「いいじゃないローズ、やってみれば。せっかくウェインがやる気になってるんだしさ」
「で、ですが……その、私、怖いです……」
逡巡するように視線を彷徨わせた後、ローズはか弱く声を漏らした。
そして立ち上がり、ソファに座すメレディスに助けを求めるように抱きつく。
「こらこら、いつもユーハ相手に頑張ってるくせに、なに言ってんのよ。いいからやってみなさいっての」
「でもセイディ、今日は私ちょっと調子が――」
「昼前は元気にユーハと剣振ってたでしょーが」
「ちょっとセイディ、ローズ嫌がってるじゃない」
「ローズは負けるのが嫌なだけよ、そうでしょローズ?」
「…………」
ローズは返事をせず、メレディスの胸元に顔を埋めている。
セイディはそんなローズを引き剥がして立たせると、その小さな背中を押して、談話室を出て行こうとする。
「よーし、じゃあみんな中庭行くわよー。あ、メルは木剣持ってきて」
相変らず強引な所のあるセイディの背中を四人は追いかける。リゼットの自分がやりたいという抗議やサラの制止を抑え込み、セイディは準備を整えさせた。
木剣を持ったローズと向き合い、ウェインは自らの強さを思い知らせてやれる好機の到来にやる気を漲らせる。
そこでふとセイディが近づいてきて、腰を屈めると耳打ちしてきた。
「ウェイン、アンタ絶対勝ちなさいよ」
「……なんだよセイディ、なんか変だぞ」
「ローズがアンタのこと舐めてるのは分かってるつもりよ。ここでいっちょ男を魅せて見返してやりなさいな」
思ってもみなかった言葉に、ウェインは目を丸くし、間近からセイディの顔を見つめてしまう。
「それに……まあ、なんていうか、ローズも負けないと成長しないからね。あの子は魔法も勉強も人一倍できるけど、武術だけは苦手というか人並みなのよ。リーゼやサラ相手ならともかく、舐めてるアンタに負ければ相当悔しく思うはずだし、それはそれでいい経験になると思うわけよ」
「……実は俺、今さっきまでセイディのこと馬鹿だと思ってた」
「なんだとこいつー!」
拳を頭にぐりぐりと押しつけられるが、手加減してくれているのか、トレイシーのと比べれば全然痛くなかった。
セイディは最後にウェインの背中をバシッと叩くと離れていく。そして対峙するウェインとローズの中間地点に位置取ると、勝負の説明を始めた。
「当然だけど、ローズは魔法使っちゃダメよ。勝敗の判定はアタシがするけど、文句は受け付けません。いいわね?」
ローズはあまり乗り気でない様子だったが、覚悟を決めたのか、愛らしくも理知的な面持ちはきりりと引き締まっている。
対峙する二人が了解すると、セイディが「準備はいいわね?」と確認してくる。互いに頷くと、セイディは気負いなく手を上げて、振り下ろした。
「じゃ、はじめっ」
ウェインは開始直後に突っ込んだ。
正眼に構えるローズの姿はどことなくユーハと似通っているが、気迫は感じられない。相手の間合いに入る直前で、ウェインは右側面に回り込み、迎え撃とうとして空振ったローズの隙を突く。
「ローズ頑張って!」
「ほぉーふふぁへふふぁー!」
中庭の隅の方でサラは普通に応援し、リゼットはパイの皿を抱えて咀嚼しながら謎の声援を送っている。口内のものがぼろぼろとこぼれ落ちるが、それらはアシュリンが一心に拾い食いして片付けていた。メレディスはローズとウェイン、どちらも応援しているようで、怪我の心配をしているのか、なんだか落ち着きがない。
「――っ!?」
ローズは初撃を躱されることを見越していたようで、側面に回り込んだウェインの蹴りを軽く横跳びしてやり過ごし、木剣の先を突き出してくる。
反射的に木剣を掴み取ろうとするが、もしこれが真剣だと素手で刃を掴むことはできない。トレイシーには可能らしいが、今のウェインにはできるはずもない。だから今回も鍔から上を掴めば、セイディは負け判定を下すだろう。
一瞬遅れつつも、姿勢を低くして刺突を避けながら、地を這うようにローズに迫る。爪先が顔面に迫るものの、トレイシーのそれと比べれば遅鈍に過ぎる。だがユーハと鍛錬しているローズからしても、ウェインの動きは遅く感じているだろう。
ウェインはローズの足先を掴み取り、真横に引っ張った。
体勢を崩しながらもローズは手にした木剣を振り下ろそうとするが、ウェインは刃が届く前に握り手を押さえ、力任せに捻る。あっさりと木剣がローズの手からこぼれ落ち、奪い取った木剣を逆手に持ったウェインは柄頭をローズの横っ腹に叩きつけた。
「ぐぇ……っ」
ローズは苦鳴を上げてよろめくも、まだ諦めてはいないようで、ウェインに手を伸ばす。が、足下がお留守だったので払ってやると、更に体勢を崩して尻餅をついた。
「はい、ウェインの勝ち!」
「うわぁぁぁローズがまけたぁぁぁぁ!」
「ローズ大丈夫!?」
リゼットはパイの皿を抱えながら悲鳴を上げ、サラはメレディスと一緒にローズに駆け寄る。
「二人とも頑張ったわね」
セイディが肩を叩きながら、労いの言葉を声を掛けてくる。
それを聞き流しつつ、ウェインは密かに拍子抜けしていた。
ローズは腹が立つほど頭が良く、魔法の腕前はマリリンやアルセリアも認めるほどで、ときおり大人びた微笑みを垣間見せている。先ほどのようにからかってきたり、妙に悟ったことを言ったり、生意気に挑発してきたりして、何か言い合いになれば大抵の場合は巧く言い負かされて丸め込まれる。
リゼットやサラ、町の子供たちと比べると幾分も変わっていて、だからこそウェインも友人として関わり合っていけていた。そんな普通とは違う子供だと思っていたので、実際に戦ってみればもっと強いと思っていたのだが……
弱い。弱すぎる。
魔法を使われれば勝ち目などなかったのだろうが、純粋な身体能力だけで戦えば、まるで普通の子供だった。非力だったので簡単に木剣を奪い取れてしまえたほどだ。
見た目通りの、普通の女の子だった。
「お、おい、大丈夫かよ、ローズ」
なんだか素直に喜べず、ウェインはどう接して良いのかも分らず、ぎこちなく声を掛ける。
サラに治癒魔法を掛けてもらっていたローズは立ち上がりながら、実に複雑な面持ちで呻くように呟いた。
「わ、私はリュース四天王の中でも最弱……」
「大丈夫そうだな」
発言の意味は分からなかったが、たまに変なことを呟くのはいつものことだ。
ウェインがひとまず安心していると、ローズが縋るような眼差しでリゼットを見た。リゼットもローズの側に来てはいるが、相変らず美味しそうに林檎のパイを食している。
「リーゼッ、私の仇をとってください!」
「ふぁふぁっふぁー!」
それから流れでリゼットとも戦ってみることになった。
ウェインとしてはあまり乗り気ではなかったが、ローズ戦でのモヤモヤを晴らすのに良いと思い、受けて立ってみた。
結果、なんとか勝利をもぎ取れた。
「あーっ、アシュリンあたしのパイたべたなぁー!」
「ピュェ、ピュェェェ……」
「いいわけするなー! あたしのものかってにたべちゃ……めっ!」
「ピュェン!?」
更にそれから、妹二人の仇をとろうとサラも木剣片手に挑んできた。
仕方なく勝負してみると、普通に勝ってしまった。
「……まだです、まだ四天王最強の戦士が残っています!」
「え、え……? わたし……?」
ローズたち三人に強要され、リゼットの木槍を持ったメレディスとも戦うことになった。彼女もアルセリアに師事しているようなので、弱いとは思えない。
ウェインは最も気構えて戦ってみたが、勝ってしまった。どうにもメレディスはウェイン相手に戦意もなく遠慮していたようだったが、それを差し引いても弱かった。体感的に運動はローズより苦手だろうことが察せられた。
四人を比べれば、リゼット、サラ、メレディス、ローズの順で強かった。
「お前ら……弱かったんだな」
「うわぁぁぁぁみんなウェインにまけちゃったぁぁぁぁ!」
「わ、わたしは飛べなかったら負けたんだからね! 飛んでも良かったならわたしが勝ってたし、魔法使っても良かったらみんな楽勝だったんだから、勘違いするんじゃないわよっ!」
「あはは……ウェイン、強いね」
三者三様の反応を見せる中、ローズは一人だけ哀愁漂う笑みを浮かべていた。例によって例の如く、その表情は子供が浮かべるものではなかったが、今のウェインにはもうその面差しが大人びては見えない。
ただ一人の女の子が苦笑いしているようにしか見えなかった。
「……んだよ、ちくしょう」
自分でもよく分からない感情が湧き上がってきて、思わず呟きを溢した。
リゼットには少し苦戦したとはいえ、相手は一つ年下で、体格も同年代の子供より小柄だ。
サラには辛勝でも楽勝でもなく普通に勝てたとはいえ、翼人で年上の彼女が翼を駆使していれば、勝てなかったかもしれない。
だが、ローズは一つ年下とはいえ、あまりに弱すぎた。
もし魔女でなかったなら、ローズはひ弱な女の子なのだと実感させられた。
『あいつら強いんだし、俺が守る必要なんてねーだろ?』
つい今朝方にも口にした自らの言葉を思い返し、ウェインは認識を改めた。
場合によっては魔法が使えないときだってあるだろうし、そうなったら彼女らは――特にローズはか弱い女の子に成り下がる。
そう思うと、なぜだか明日からの鍛錬が頑張れそうなウェインだった。
■ ■ ■
町と館では日暮れの時間が少し異なる。
ローズたちの住まうリュースの館はディーカの町より東に位置するため、日の出も日の入りもディーカより早い。
「じゃーねーウェイーン!」
「おう、じゃあな」
館から見上げる空が暗くなったところで、ウェインは帰宅することにした。
転移してヘルミーネの家に出ると、ちょうど地下階段の前でクレアと鉢合う。
「あら、ウェイン、今から帰るところ?」
「そうだけど。クレアは今日、何してたんだ?」
何気なく訊ねると、クレアは喜色の滲んだ微笑みを浮かべ、感慨深そうに言った。
「知り合いに頼み事をされてね、少し協力していたの」
「でも、なんか嬉しそうだな」
「ええ、そうね……昔から全然私を頼ろうとしてくれない人が、珍しく頼ってくれたからね」
「そうか……?」
よく分からなかったが、とりあえず相槌だけ打っておいた。
トレイシーから、最低でもクレアにだけは無礼を働くなと小うるさく言われている。ローズやセイディに対するように振る舞ったことが奴の耳に入れば面倒だ。が、そもそもクレアやアルセリアのことは立派な大人としてウェインなりに敬っているので、いちいちトレイシーから言われずとも弁えている。
「それじゃあね、ウェイン。寄り道せずに、気を付けて帰るのよ」
「分かってるよ、トレイシーがうるさいからな」
「ふふ、また来てね、ウェイン」
セイディにはない大人の女性らしい淑やかな所作で手を振り、クレアはウェインがヘルミーネの家を出るまで見送ってくれる。子供扱いされるのは嫌いなウェインだが、クレアやアルセリアからならば許容してしまえる。
「うちのババアもあんな風だったら良かったのに……」
本日二度目の愚痴を吐きつつ帰路を行く。
ディーカから見上げる空は茜色で、まだ日は沈んでいないようだ。この分だと、ちょうど帰宅する頃には館から見上げた空と同質の色合いに変じるだろう。
夕暮れの町並みは騒々しく、一日の仕事を終えた人々が解放的な雰囲気を放っている。通りを歩く猟兵たちの集団などはこれから酒場にでも繰り出し、その後は賭場や娼館で一日の稼ぎを落としていくのだろう。
そんな子供らしからぬことをぼんやりと思いながら、寄り道はせず一直線に自宅を目指す。近所の人から挨拶され、挨拶を返しつつ玄関前まで辿り着くと、扉を開けた。
「ん……なんだこの匂い?」
やけに空腹感を刺激する匂いに釣られて厨房に顔を出すと、トレイシーが夕食の準備をしていた。彼女は振り返り、いつもの緩んだ笑みを浮かべた顔を見せる。
「おかえりぃ」
「おう」
「じゃなくてぇ?」
「……ただいま」
ウェインは憮然と答えつつ、夕食の準備を手伝い始める。
といっても、いつもこの時間にはほとんど出来上がっているので、ウェインがするのは配膳くらいだ。
「なんか……今日の料理、ちょっと豪華だな」
「ん? そうかなぁ?」
どこかわざとらしく首を傾げるトレイシーから皿を受け取り、ウェインはテーブルに運んでいく。
おそらくは鯉か何かの香草焼きがのった大皿が一つ、腸詰め肉や豆や野菜を煮込んだ色彩豊かなスープが二皿、半分になったかぼちゃが器になったグラタンが二皿、幾つかの果実を使った見るからに美味しそうな焼き菓子が二皿。パンはいつも通りだが……それでも普段の夕食とは明らかに違う。
「というか、今日はトレイシーも夕方までどっか行ってたんじゃなかったのかよ?」
「んー、どこにも行ってないよぉ」
ウェインはトレイシーと共に食卓に着くと、対面の彼女に訝しげな視線を向けた。まずそうしなければ、なんだか怪しくて食べ始められなかった。
「今日、なんか特別な日だったか?」
「そんなことないけどぉ」
「じゃあなんだよ、これ。いつもならこの焼き魚に、野菜とか卵をぶっ込んだスープがあるくらいだろ。良くてパンか芋にチーズがのってるくらいなのに……なんだこれ、かぼちゃ丸ごと使ってんじゃねーか」
ウェインは香ばしいチーズや香辛料の匂いに引かれて料理を凝視してしまうが、ふとトレイシーから見つめられていることに気が付いた。
顔を上げると、普段はのんびりとした笑みがどことなくニヤついている。
「なんだよ……?」
「いやぁ、とりあず食べよっかぁ」
「あ、あぁ」
ウェインもトレイシーも食前に聖神アーレへ祈りを捧げるほど敬虔ではない。どころか、ウェインは父母を助けてくれなかった神などクソ食らえと思っているので、ただ「いただきます」と口にして食べ始める。
まずはテーブル中央にある焼き魚を摘んでみると、普段より焼き加減が絶妙で味に深みがあった。他の料理も食べていくが、どれも今朝まで口にしていたものより美味しい。
「……まさかこれ、クレアが作ったのか?」
「ワタシが作ったんだよぉ。まあ、クレアには色々と教えてもらったし、手伝ってももらったけどぉ」
「なんでまた……?」
と言いつつスープに入った腸詰め肉を食べてみると、他の食材の味が良くしみ込んでいて、肉汁と合わさると頬が落ちそうだ。
トレイシーはそんなウェインを見つめたまま、いつもの間延びした声で言う。
「んー、ウェインがなかなか美味しいって言ってくれないからねぇ」
「は……?」
「ワタシ一人なら、もう何年も自炊してきたし、べつに良かったんだけどさぁ。娼館で食ってた残飯よりはマシとかって言われると、さすがにそろそろねぇ」
「…………」
ウェインはこれまでの記憶を掘り起こしてみた。
この家で暮らし始めた当初から今朝まで、トレイシーの料理に美味しいと言った記憶がない。美味しいと思ったことはあっても、小っ恥ずかしくてそれを口に出すことができなくて、照れ隠しに今朝のようなことばかり言っていた。
「だから色々迷ったけど、クレアに教えてもらうことにしたんだぁ」
「な、なんで今更、そんな……?」
「本当は前々から考えてたんだけど、クレアに教えを請うのは……まあ、色々恐縮することでねぇ。セイディやアルセリアさんに教えてもらっても良かったんだけど、どうせなら一番上手な人に教えてもらいたいでしょぉ?」
だから迷った末、先日クレアに頼んで、今日教えてもらったという。
なぜトレイシーがクレアにそこまで遠慮するのか、それはウェインには分からない。だが、トレイシーが何か曲げられないものを曲げてでも、自分のために料理を作ってくれたことは分かった。
「まあ、そういうわけで、今日は少し頑張ってみましたぁ」
「……そうか」
どう反応すれば良いのか分からず、ウェインはぎこちなく頷く。
トレイシーは先ほどから食事の手を止めて、のんびりとした笑みを浮かべたまま、じっと見つめてくる。
言うべき言葉は分かっているが、それを正面切って言えなくて、ウェインは少し顔を背けて独り言のように呟いた。
「まあ……旨いんじゃねーの」
「ん? 何か言ったウェイン?」
「だ、だからっ、旨いんじゃねーのって言ったんだよ!」
思い切って叫び、杯に手を伸ばして大きく傾ける。
昼食時に露店で買ったものより、甘酸っぱい果物の味が口内に広がった。
余計に気恥ずかしくなって、杯は置いた。
「旨いって、どれくらいかなぁ? 娼館で食ってた残飯よりマシってくらい?」
「い、いや……まあ、クレアのより旨いんじゃねーの」
「なんだと」
「え……は? なんでそこで怒るんだよ!?」
思いがけず眼光鋭く睨まれたので、ウェインは少々たじろいだ。
訳が分からなかったが、とりあえず言い直してみる。
「じゃあ、あの、セイディのよりは旨い……あぁ旨いよっ、凄く美味しいですよ!」
もうやけになって素直に心情を口にした。
するとトレイシーの微笑みに和やかな温かみが加わり、小さく頷いた。
「そっかぁ、それなら良かったなぁ」
「そうかよっ」
「あ、でも明日もこのくらい豪華なのは期待しないでねぇ。なるべく美味しく作るつもりではいるけどぉ」
「……べつにいいっての」
実際に料理が美味しかろうと不味かろうと、もうウェインにはどうでも良かった。トレイシーが作ってくれればそれで良いと、心底からそう思えてしまった。
「ん? なんだってぇ?」
「なんでもねーよっ、旨いって言っただけだ!」
「そっかぁ」
ウェインは実の母親が作ってくれた料理の味はもうほとんど覚えていない。
だが父が亡くなった後、以前より食卓の彩りが乏しくなって、具の少ないスープを出されていた頃のことは忘れていない。あのスープは明らかに味が薄くて美味しいと言えるものではなかったはずなのに、当時の自分は確かに美味しいと言って食べていた。母が作ってくれるものは、それが何であれ美味しかった。
「ほんと、美味しいよ……」
我知らず笑みを浮かべて、ウェインはテーブルに並んだ料理を味わっていく。
食前に神へ感謝するなどアホ臭くてやっていられないが、トレイシーには心中で感謝してから頂こうと素直に思えた。
この日以降、少年は冗談でも彼女の料理を悪し様に言うことがなくなった。
代わりに美味しいと口にするようになったが、素直になれる頻度はあまり高くない。
挿絵情報
企画:Shintek 様