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幼女転生  作者: デブリ
四章・日常編
79/203

 間話 『そして魔物の世界より――』


 ■ Other View ■



 ディーカに滞在して十九日目。

 その日も彼女は仕事を終えて、夕暮れの町を歩いていた。


 最近のメレディスの行動はほぼ決まっている。

 町は日の出と共に動き出すので、メレディスも同様の時間帯に起床する。宿を出ると近くの露店で朝食を買い、まずは猟兵協会に行くか、あるいはそのまま市壁の外へと向かう。

 その途中で昼食を調達し、厩に行って馬を借り、町周辺の手頃な魔物を狩る。非力な彼女に重たい素材は持てないので戦利品は馬の背中に乗せ、昼食を挟んで日暮れ前まで活動し続ける。それから町に戻り、馬に運ばせた素材を売り払い、厩で馬を返却し、湖畔通りへと足を伸ばす。


 慣れた作業を日々こなし続けることは面倒だが、楽でもある。

 それでも一応は命懸けで魔物と戦っているため、心身共に日々の疲労感は相応だ。魔物狩りではなく、町の中でできる比較的楽な依頼もあるにはあるが、メレディスは人付き合いが苦手だし、そもそもエノーメ語をろくに話せないので無理だ。


 メレディスは疲れた身体で人通りの中を黙々と歩いて行き、湖に面した通りに到着した。既に粗方の露店は制覇して、ここ数日は一番気に入ったものを繰り返し食べている。やはり骨のない焼き魚は食べやすく、それに美味しくもあるので、彼女は気に入っていた。

 店主は中年の男性で、彼から見れば魔女然としたメレディスのことは記憶に残るのか、昨日は少し割り引きしてくれたほどだ。世知辛い世の中ではあるが、何も悪人ばかりが蔓延り、悪いことばかりが起こるわけではない。

 分かってはいたことだが、彼女はそのことを改めて実感したものだった。


「――ん?」


 いつもの露店を視界に捉え、近づいていると、ふと店主の男と目が合った。が、なぜか彼は気まずそうに視線を泳がせ、目を伏せる。

 内心で首を傾げながらも店の前に立つと、店主の中年親父も笑みを向けてきた。その顔は昨日と同じで、今し方の反応は見間違いか何かだろうと、メレディスは疲れた頭で事を片付けた。


「ヒトツ、クダサイ」


 いつも通りに言って、金を渡す。

 しかし、店主は大きな葉にくるんだ焼き魚に加えて、杯まで差し出してきた。安物の土焼きの器には半透明の液体がたぷたぷと波打っている。

 メレディスが眉をひそめていると、店主の男が言った。


「■■■■。■■は毎日買ってって■■■■■■■」


 エノーメ語なのでよくは分からないが、毎日買っているからおまけする、とでも言っているのだろう。この露店では焼き魚と一緒に白ワインも売っているが、メレディスは酒が好きではなかったので、これまで買っていなかった。


「……アリガト、ゴザイマス」


 ぎこちなく礼を言って、受け取る。

 本当は遠慮しようかどうか迷ったが、既に差し出されているのだ。ここで断って微妙な雰囲気になったら、明日以降、来づらくなる。


 メレディスはいつもの夕食と酒杯を受け取ると、いつもの場所へ向けて歩き出す。階段に座る幾人かの男女の横を通り過ぎ、水面近くまで下りて段差に腰掛け、一息吐く。


「お酒、か……」


 以前、旅の最中に一度だけ飲んだことがあるが、それ以来だ。

 解毒魔法があるとはいえ、メレディスは十五歳という年頃の女だ。町中で酔ってしまうと危ないと思い、これまでなるべく飲まないようにしてきた。それに何より、酒といえば父親を思い出す。常時酔っ払っているような人だったので、彼女にとって酒の匂いは父親の匂いであり、嗅ぐと思い出したくない記憶が想起される。


 一瞬、湖に投げ捨てようかと思った。

 しかし、結局飲むことにした。もはや父親などメレディスにとっては過去であり、いちいち気にするような存在ではないのだ。この酒を飲み干すことで、父親の思い出を克服したことにして、完全なる決別を果たす。


 メレディスは焼き魚を食べながら、白ワインを少しずつ飲んでいく。

 飲食の組み合わせが良いのか、意外と美味しい。


「結構、強い……?」


 久々かつ慣れない飲酒だからか、それとも元から強めの酒なのか、喉に少し違和感がある。だが、香辛料がたっぷりと利いた焼き魚との相性は抜群なので、酒に不慣れなメレディスでも飲んでいける。

 途中でパンもかじり、しばらく暗い湖面を眺めながら静かに食事を進めていく。次第に酔いが回ってきて、いい感じに意識がぼうっとしてくる。


 メレディスは頬を薄紅色に染めながら、牛乳はどうしようかと考える。

 明日の朝まで常温のまま革水筒に入れておくと、腐りそうだ。それに早く飲んでしまわないと水筒に匂いが染みついてしまう。だが今は酒があるので、牛乳は飲む気になれない。

 さて、どうするか。


「……………………」


 焼き魚とパンを食べ終え、杯も空にして、脳内で幾度となく牛乳のことについて考える。牛乳、牛乳、牛乳。宿の部屋にある桶に氷水を張って、そこに入れておくか。あるいは今ここで湖に捨ててしまうか、誰かに上げるか、やはり自分で飲むか。

 酔いで纏まらない思考をぐるぐるとこねくり回していると、不意に肩を叩かれた。


「なあ、おいアンタ」


 のっそりと顔を斜め後ろに向けると、そこには男がいた。

 これといった特徴のない、どこにでもいそうな二十歳前後の男だ。


「大丈夫か?」

「お……に、……な」


 俺に触るな。

 そう言おうとしたが、上手く声が出なかった。

 だが、肩に置かれた手は振り払うことができた。


「なんだって? よく聞こえなかったんだけど」

「う……ぃ、……ぉ」


 うるさい、消えろ。

 口にしようとした言葉が言葉にならなかった。

 そこでメレディスはようやく違和感を覚え、なんでもいいから声を出そうとするが……


「あ……っ、ぅ……」


 やはり上手く声が出ない。

 思わぬ事態に直面して、焦燥感で酔いが引いていく。

 そして再び肩に男の手が置かれた。


「声が出ないんだろ?」

「――っ!?」

「そりゃそうだ、お前が飲んだ酒にはそういう薬が入ってたんだから」


 にやりと暗く粘性のある笑みを男の口元に見て、メレディスは咄嗟に帯革の短剣に手をやった。

 しかし、それを引き抜く直前、腹部に重たい衝撃を受ける。


「ぐ……っ、ぼぇっ!」

「おいおいおい、吐くなよ汚いなぁ。オレの腕にも少しかかっただろ」

「ごは……っ!」


 もう一度、勢い良く腹部に拳をねじ込まれ、メレディスは先ほど胃に収めたはずのものを再び口から吐き出した。自分の膝の上に吐瀉物が撒き散らされるが、幸いといっていいのか、使い古されたローブに掛かっただけだ。

 だが、今はそんなことどうでもいい。


「ちょーっと来てもらおうか、魔女さん」


 吐瀉物混じりに喘ぐメレディスに男は上機嫌な声で言って、彼女が掴んでいた短剣をかすめ取る。そして腕を掴んで引き上げてくると、そのまま階段を上がり始める。

 メレディスは腹部の衝撃でろくな抵抗もできず、引き摺られるように階段を歩かされた。その階段には誰もおらず、湖畔通りとの間には二人の男が立っている。彼らはメレディスを引き摺る男の前後に付き、人通りの中を歩いて行く。


「……ぐ、ぅ」

「おっと、どうせできないと思うけど、変なことはするなよ。腹をぶっ刺されたくはないだろう? 今は治癒魔法も詠唱できないんだから、死んじゃうぞ?」


 メレディスは短剣を腹に突きつけられながら、力の入らない両足で歩かされる。

 突然のことに思考は混乱し、それでも一秒でも早く男たちから離れなければと本能が叫ぶ。しかし連続した腹部への強拳打は確実にメレディスから抵抗力を奪っており、更に喉の不自由によって詠唱すらままならない。


 どういうことだか、分からない。だが、間違いなく危機的状況だ。

 もはや酔いなど吹っ飛んでいるが、かつてない現状とこれから起こりうるだろう事への恐怖心で上手く頭が働かない。


 そうこうしているうちに、一台の馬車に乗せられた。馬車といっても、牛に似た十級魔物カームブルが二頭で牽く中型車で、車両部に窓はない。その小部屋のような空間に三人の男と共に座らせられた。

 メレディスは左右を三十代ほどの屈強そうな男二人に挟まれ、対面には先ほど腹部を殴りつけてきた若い男が腰掛ける。

 馬車が動き出すと、対面の男は暗く楽しげな笑みを浮かべた。


「遅まきながら……久しぶりだな、魔女」

「――っ!?」

「やっぱり今の今まで忘れてたか。そうだとは思ってたけど、やっぱりむかつくな」


 メレディスは両目を見開き、対面に座す男の顔を凝視する。

 ディーカに来て初めて猟兵協会に行ったとき、絡まれた男だ。

 あのような一件はこれまでの旅でも幾度かあったので、大して気に留めず、むしろ気分転換のために早々に忘れてしまっていたが……まさかこんな形で再会し、思い出すことになるとは思いもしなかった。


「オレはハーゲン、これからよろしくな、ユリアナ。さて、思い出したなら、どうしてこんなことになっているのか、分かるよな?」

「ぁ……ぐ、ぅっ」

「ははっ、声が出ないから訊いても意味ないか。でも今のオレは気分がいいから教えてやるよ」


 上機嫌に笑いながら、男――ハーゲンは足を組むと、メレディスの魔杖を手にとって、その柄をパシパシと掌に打付ける。その余裕綽々な態には腹が立つが、それ以上に、遙かに恐怖心の方が勝っていた。


「あのときさ、オレは本当に善意から声を掛けたんだよ。なのにお前は暴言を吐き、あまつさえオレを魔法で攻撃した。大勢の前で恥を掻かされて、本当にむかついたよ、オレは」

「……っ、い……ぅ」

「だから仕返ししようと思って、しばらく町中でお前の後を付けて様子を窺っていたんだ。そうしたら、そこの人たちが声を掛けてきてさ、仲間に入れてもらったんだよ」


 両脇の男二人は無言だ。

 しかし、その表情は愉悦、あるいは侮蔑に彩られ、瞳には好色さが表れている。

 メレディスの背筋に嫌な汗が流れた。


「《黄昏の調べ》って知ってるか、魔女? この人たちもお前の様子を窺っててさ、しばらく様子を見た後、お前を拉致して殺すつもりだったらしいんだよな。で、今回はオレの初仕事ってことで、こうして一緒に協力しているわけだ」


 《黄昏の調べ》? 様子を窺う? 自分を殺す?

 意味が分からなかった。

 ただただ恐怖だけが際限なく溢れ出てきて、これまでの旅路で培われた強固な仮面が浸食されるように溶け落ちていく。

 

「これからどうなるか、教えてやろうか、魔女?」

「…………っ」

「お前、オレに言ったよな? 『魔女とヤりたきゃ他をあたれ』ってさ。だが、そりゃ無理だわ。お前はまずオレが犯しつくして、その後は仲間たちがお前を廻してボロ人形みたいになったところで、四肢を刻みながらゆっくりと殺してやる」


 なぜ、という疑問が脳内を駆け巡った。

 確かにメレディスは目の前で彼をすげなくあしらった。

 善意でもって近づいてきたらしい男に酷い態度を取り、あまつさえ跪かせた。

 だが、仕方のなかったことだ。これまでのメレディスの旅路は生易しいものではなく、それ相応の仮面が必要だった。それに攻撃したといっても、何の傷害も残らない幻惑魔法による一撃だった。

 

 世の中には様々な人々がいることは知っている。

 しかし、これはあまりに理不尽なのではないか?

 無茶苦茶だ、割に合っていない。


「が……っ、ぐ!」


 メレディスは両腕をがっちりと掴む男を振り払い、立ち上がろうとしたが、間髪入れず顔面を殴られる。唇が切れ、鼻血が垂れてくるが、それでも諦めずこの場を脱しようと身体を動かすも、今度は側頭部を殴打された。

 身体から力が抜け、意識が落ちかけるが、恐怖と生存本能がそれを許さない。

 メレディスのその様をハーゲンは下卑た笑みを浮かべて眺めた後、彼女の両隣に座る男に友好的な目を向けた。


「■■■■、■■■が■■■■■■、魔女って弱いですね。詠唱さえ■■■■■■にすれば、これですもん」

「そうだ、これが魔女だ。■■の魔法が■■■女共がいる■■■、■■■■は男と■■■■に立っている」

「■■、■■■■女は男に■■■■■■■だけの生き物なんだよ。なのに、この■■■■■の存在がそれを■■■■■■。■■■■に■■の魔力を持って■■■■■■、■■■■■■■より上手く魔法が■■■だけで■■■■■■■■■■■。この世で■■■■■■■■■」


 両隣の男は冷静に、あるいは憎々しげに言う。

 交わされる言葉はエノーメ語なので、やはり意味は判然とせず、その不透明さは彼女の不安感を大いに煽る。

 メレディスは朦朧とする意識のせいで項垂れかけていたが、対面の男から魔杖の先端で顎を上げさせられ、瞳を覗き込まれる。


「だってよ、能ある豚さん」

「……っ、はぁ……ぅ」


 声が上手く出せなくても、たぶんメレディスは何も言い返せなかった。

 このあっという間の出来事で、彼女の心は旅に出る前のメレディスに戻っていた。メレディスという少女の奥底には父親――引いては男への恐怖心が根付いている。それを思い出させるような男からの暴力的な言動や眼差しだけなら未だしも、こうして窮地に追い込まれてしまっている現実は、彼女が必死に作り上げてきた強い自分――猟兵ユリアナという仮面を容易く破壊し、弱い自分を剥き出しにさせた。


「そういえば、■■■■■■■とかいう■■のことはいいんですか?」


 ハーゲンは魔杖でメレディスの顔を叩いた後、仲間の男に問いかける。


「奴らの■■は仲間が■■■■■。もし魔女に出てこられたら、■■■■■」

「あの魔女共は■■■■■■■■■■■■■、■■■■やりようはあるんだが……クソッ、あの■■■、■■な命令だけ残して■■■■■■」


 男の一人は苛つきを抑えられないのか、既に抵抗する力すら失われたメレディスの顔面を再び殴った。当然痛みは生じるが、もはや彼女にとってはどこか他人事のように感じていた。


「口を■■、■■■■アレはアレで■■の一人だ。それに、そう■■■■■、あの方が■■■■■■■■狩り尽くせる」

「分かってるっ……あぁ■■■■、あの■■の魔女だけは■■■■にして■■■■■■■■。■■と■を■■■■■、俺たちの■■で■■■■■■……あ、やべ、考えただけで■■■■■。そろそろ■■の■■だったんだよ、早くこいつを■■■■■■――」


 不意に、馬車の振動が止み、車内が大きく揺れた。

 外からは馬の鳴き声と多数のざわめきが響いてくる。


「な、なんだっ、どうなってるんですか!?」

「■■■■■、お前はこいつを■■■■。■の様子を■■■■」


 メレディスの右側にいた男が何事かを言いながら馬車の扉を開け、外に出て行った。が、すぐに吹っ飛んで戻ってきた。仰向けに倒れた男の顔は鼻が潰れ、どころかその周辺が見事なまでに陥没していた。


 他の男二人は素早く、メレディスはのっそりと扉の方へ目を向けると、ゆったりとした動きで人影が姿を見せる。それは身長体格から女だと思われた。顔全体を黒一色の仮面で覆い、やや大きめの上衣とズボンを身に纏っている。

 黒仮面の女は何事もなかったかのような挙動で車内に足を踏み入れ、やにわに腰を上げるメレディスの左隣の男に殴りかかった。男はそれを丸太のような片腕で防ぐも、女性らしい繊細そうな拳はそれを半ばからへし折り、もう一方の拳で男の顎を下から打ち抜く。

 二回、骨の砕かれる異音が狭い車内に響き渡る。


「このおおおぉぉぉぉぉ!」


 果敢にもハーゲンがメレディスの短剣を振るうも、黒仮面はその腕をあっさりと掴み上げ、流れるような動きで短剣を掠め取って、一突き。刃は彼の喉笛に根元まで突き刺さり、女はそれを捻りながら引き抜いて、泉のように鮮血を溢れさせる男を突き飛ばす。そしてそのまま血糊のついた短剣を他の男二人の喉にも突き入れて、同様の姿を作り上げる。


「……ぁ、あ……」


 メレディスは座席に腰を下ろしたまま、怯えた瞳で黒仮面女を見上げる。

 すると謎の闖入者は仮面をとって、メレディスに素顔を晒して見せた。


「苦労して助けに来たのに、そんな顔されるのは心外だなぁ。まあ、分からなくもないけどぉ……」


 見聞きする者を脱力させるような緩い表情と声音で女は言う。その瞳に敵意はなく、どころか友好的な色合いを浮かべたまま、おもむろにメレディスの頭に手を伸ばした。

 メレディスは喉を引き攣らせて後ずさろうとするが、女の手は彼女の頭をあっさりと捉え、場違いなまでの穏やかさで撫でた。


「ワタシは味方だから、安心してぇ。だから、一緒に逃げてくれるぅ?」

「ぁ……」


 それはまさに相手の力を抜くような言動だった。

 メレディスの強張っていた全身はゆっくりと弛緩し、彼女の意識を繋ぎ止めていた緊張の糸はぷっつりと切れた。そのせいで膀胱が緩み、下着その他を濡らしてしまうが、今のメレディスはそれを自覚すらしていなかった。

 意に反して目蓋が落ち、身体が崩れ落ちて、座席に倒れ込んでしまう。


「あらら……落ち着かせ過ぎちゃったかなぁ。まあでも、こっちの方が運びやすくていっかぁ」


 女の間延びした声を最後に、メレディスの意識はそこで途切れた。




 ■   ■   ■




 目を覚ますと、知らない天井が視界を埋め尽くした。

 メレディスはぼんやりとした頭で左右に目を向けると、ベッド脇で椅子に座っている一人の女性が目に付いた。紺色の長い髪を垂らし、静かに寝息を立てているようだった。

 室内は実に簡素で、小さな丸テーブルと椅子が二つ、今まさにメレディスが眠っているベッドしかない。あとは壁際に、見慣れた魔杖と愛用の肩掛け鞄が置いてあるだけだ。


「ん……起きたぁ?」


 姿勢良く椅子に座っていた女性は目を閉じて面を伏せていたが、おもむろに顔を上げてメレディスに目を向ける。

 長髪の女性と視線がぶつかり、再び微睡みに沈みそうな相手の顔と声を認識して、メレディスは冷水をぶっかけられたかのように完全覚醒した。椅子に座る女性を見つめながら、ゆっくりと上体を起こす。身体には毛布が掛かっているが、下着と簡素な上衣しか着ていないことを遅まきながら自覚しつつ、恐る恐る訊ねてみる。


「あの、えっと……貴女は、誰ですか……?」

「ワタシはトレイシー、二十六歳。職業は色々、趣味は日向ぼっこかなぁ。そちらはぁ?」

「え……あ、その、メ……ユリアナ、です」


 思わず本名を答えそうになったが、咄嗟に偽名の方を名乗った。


「どこか痛むところはない? 一応、治癒魔法で治してもらったんだけどぉ」

「だ、大丈夫、です」


 答えながら身体の調子を確かめてみるが、特に異常はない。

 トレイシーと名乗った女性は椅子から立ち上がり、「んー」と緩い声を出しながら腕を上げて身体を伸ばす。そして再び椅子に座ると、メレディスに和やかな双眸を向け、口を開く。


「昨日のことは覚えてるぅ? あ、もう一日経って、今は朝なんだけどぉ」

「……は、はい、一応」


 起きた当初はともかく、トレイシーの顔を見て一気に記憶が繋がっていた。思い出しただけで内臓が締め付けられるような恐怖に囚われる。

 しかし、メレディスは無理矢理に記憶を振り払い、現状に意識を集中させる。今まさに話している女性が助けてくれたことは確かだろうが、未だ何が何だか分からない。


「どうして、わたしを助けてくれたんですか……?」

「それが仕事だからねぇ。それに、女の子が襲われてるのに、助けない道理はないんじゃない?」


 ゆらりと首を傾げるトレイシー。

 彼女の言うことはもっともだろうが、あのときのメレディスが置かれていた状況は尋常の範疇になかった。そんな場面に乱入し、男たちを容易に殺して見せた腕前も考えれば、トレイシーが只者であるはずがない。

 部屋には窓がないので陽の光は感じられず、明かりは幾つもの蝋燭だけだ。外の物音などが聞こえてこないあたり、もしかしたら地下なのかもしれない。揺らめく光で薄明るい密室の中、メレディスは更に問う。


「貴女は、何者ですか?」

「うーん……元姫巫女の御側付きで、現草の一人、かなぁ? まあとにかく、ワタシはキミの敵じゃないから、安心していいよぉ」


 敵でないことは確かなのだろう。でなければ、自らの命を危険に晒してまで助けには来ない。

 だが、なぜ助けたのかが分からず、先ほどもそれを訊いたのだが……上手くはぐらかされた。


「ところで、ワタシの方も訊きたいことがあるんだけど、いいかなぁ?」

「なん、ですか……?」

「どうして、この町に来たのかなぁ? ユリアナはなにしてる人ぉ? 旅人さん?」

「……そうです」


 メレディスはぎこちなく頷いた。

 とりあえずトレイシーから敵意は感じないし、助けてくれたことからも、いい人そうだ。

 しかし、気は抜かない。露店の主のように、酒に薬を混入して飲ませてくることもあるのだ。自分の身を守れるのは自分だけだ。

 ……今となっては、随分と説得力に欠けるが。


「どうして旅してるのぉ?」

「それは……故郷に、いたくなかったので……」


 オアシスを探すためです。

 なんて、恥ずかしくて言えるはずがない。


「そっかぁ、まあ人生色々あるよねぇ。で、少し話は変わるけど、ユリアナは《黄昏の調べ》のこと、知ってるぅ?」 

「――っ、それは、あの男たちが言っていました。なんなんですか、それは」

「なるほどぉ、やっぱり知らなかったわけかぁ。ワタシから説明してもいいけど、その前にもう一つだけ質問」


 トレイシーは昨日の鋭い殺人拳を微塵も感じさせない動きで人差し指を立てた。


「ユリアナは、魔女の仲間が欲しい?」

「え……?」

「それとも、昨日みたいなことが起きることを承知で、まだ旅をしていたい?」


 質問の意図が不鮮明だった。

 だがそれ以上に、メレディスは自らの本心さえも分からず、返答に窮してしまう。


「分かりません、けど……旅は、もういいです……」


 それでも彼女は昨夜のことを思い出すと、もう旅など怖くて続けたくないと思ってしまった。この世はまさに砂漠のようで、どこにどんな危険が潜んでいるのか分からず、常に命の危険があるのだと身をもって再認してしまったからだ。 

 もしトレイシーに助けられていなければ、最悪の辱めを受けて死んでいただろう。


「そっかぁ。まあ、とりあえず今はそれでいいかなぁ」 


 トレイシーはのんびりと頷き、立ち上がった。


「お腹、すいてるでしょぉ? ご飯持ってくるから、着替えててぇ。服は洗っておいたのがそこにあるからぁ」


 テーブル近くの椅子の上には折り畳まれたメレディスの服が置かれていた。

 トレイシーはそれだけ言い残して、部屋を出て行ってしまう。


「…………着替えよう」


 メレディスはベッドから降り立って服装を整え、なんとはなしに椅子に座って待っていると、ふと気が付いた。

 そういえば、まだトレイシーにお礼を言っていなかった。

 少しして、食膳にパンやらスープやらをのせてトレイシーが戻ってくる。何はともあれ、メレディスが立ち上がって礼を述べると、相手の女性はなぜか口元に苦い笑みを覗かせた。


「んー、まあ、うん。でもお礼を言われると、少し心苦しいんだけどなぁ」

「……?」


 疑問を覚えるメレディスに、トレイシーは朝食を食べるように言って、再び部屋から出て行ってしまう。

 メレディスは釈然としなかったが、現金にも身体は食事を欲しているようで、頂くことにした。無論、酒に混入された薬のことを思い出すが、トレイシーが自分を害さないことが分かる程度には、彼女も冷静だった。




 ■   ■   ■




 食事を摂ってしばらく経っても、トレイシーが戻ってこない。

 一人部屋に取り残されたメレディスはどうしようかと逡巡していると、不意に扉が開いた。


「ちゃんとご飯食べたぁ?」


 間延びした声で言いながら、トレイシーが姿を見せる。

 だけでなく、彼女の後ろから二人の見知らぬ女性が現れた。

 一人は艶めいた長い黒髪の美女だった。同性のメレディスから見ても見惚れるほど綺麗で、すらりと背は高めで、服の上からでも一目瞭然な女性的魅力に溢れた肉体は完璧すぎて嫉妬心すら湧き上がってこない。柔和な微笑みを端正な美貌に浮かべ、優しげな眼差しでメレディスを見つめている。

 もう一人は優美な白翼を持った美人だった。黒髪の女性に比べて背はやや低く、一瞬男性かと見まがうほど胸の膨らみは確認できないが、引き締まった健康的な肢体からは確かに女性特有のしなやかさが感じられる。朗らかな笑みの似合う顔立ちからは、メレディスと正反対の気性であることが窺える。

 まるで対照的な二人の女性は入室すると、まず黒髪の女性が口を開いた。


「初めまして、私はクレア、こちらはセイディ。突然だけど、少しお話させてもらっていいかしら?」

「あ……はい」


 メレディスは自然と背筋を伸ばして立ち上がり、低頭した。

 その隙にトレイシーはベッド脇の椅子をテーブル前に移動させ、そこにクレアと名乗った女性が腰掛ける。セイディという翼人の女性は「よろしくー」とメレディスに軽く手を上げつつ、ベッドの縁に座った。

 クレアはネイテ語で話しかけてきたが、今のセイディの挨拶は魔法言語ことクラード語によるものだった。


「ユリアナさん、よね? トレイシーからある程度の事情は聞いているけれど……大丈夫?」

「は、はい、おかげさまで……」


 ぎこちなく頷くと、クレアは「そう、良かった」と安堵の吐息を溢す。


「まず、私たちは貴女に謝らなくてはならないの」

「え……?」

「私たちは貴女が魔女だと知っていて、《黄昏の調べ》に狙われていると知っていて、放置していたの。奴らの反応を見るために、貴女を泳がせていたの。もちろん、ここにいるトレイシーだけでなく、別の人にも貴女を見守っていてもらっていたのだけれど……ごめんなさい、怖い思いをさせてしまって」


 クレアは椅子に座ったまま、目を伏せて頭を下げた。

 突然の告白と謝罪にメレディスは戸惑い、上手く言葉を返せない。

 するとクレアの斜め後ろに立つトレイシーが肩を竦めて見せた。


「といっても、ワタシたちがいなかったら、ユリアナも無事では済まなかったんだけどねぇ」

「それはそれ、これはこれよ」


 ちらりと振り返って注意すると、クレアはメレディスと目を合わせてきた。

 同性とはいえ、気後れするほどの美人から見つめられて、メレディスはなんだか居心地が悪くなってしまう。


「あの、それで、貴女たちは何者なんですか?」

「私たちは《黎明の調べ》。魔女で構成される互助組織の者、というのが適切かしら。もちろん、私もセイディも魔女よ。トレイシーは違うけれど。ユリアナさんは聞いたことない?」

「いえ……」


 これまでの旅路では色々あったので、絶対にないとは言い切れないが、少なくとも記憶には残っていない。

 メレディスの否定を受けて、クレアは「そう」と短く返し、続けて言った。


「貴女にはあまり思い出したくないことだとは思うけれど……昨夜何があったのか、詳しく話してもらえる? できれば、貴女を連れ去ろうとした男たちが話していたことも、覚えている限りでいいから教えて貰えないかしら」

「それは、構いませんけど……でも会話の方は、エノーメ語だったので、よく分かりませんでした」

「ええ、分かる範囲で大丈夫よ」


 それからメレディスは昨夜のことを覚えている限り話した。

 露店の店主の件から、トレイシーに助けられて気絶するまで、思い出しながらゆっくりと口を動かしていった。改めて振り返ってみると、相当に危うかったのだと再認して、今こうしていられることが奇跡のように思えてくる。


 クレアは話を聞き終えると、労るような眼差しでメレディスを見て、「ありがとう」と礼を述べた。

 尚、ベッドに腰掛けたセイディはただ黙って成り行きを見守っている。


「あの、《黄昏の調べ》とは、何なんですか? どうして、わたしを狙っていた男に協力して、あんなことをしてきたんですか?」

「一言で言えば、魔女を疎んでいる連中のことかなぁ。ねぇ、ユリアナ、もしも魔女がいなくなってしまったら、世界中の女性はどうなると思う?」


 トレイシーは眠たげな声で問い、「どう、って……?」と呟きを漏らすメレディスに相変わらずの様子で告げた。


「魔法が使えないという点で、男より完全に劣っている女性はほぼ確実に、現在より格段に男たちからの扱いが悪くなる。要は男女の社会的な立ち位置が変わる、上下にねぇ。魔法が全てではないけど、知っての通り、魔法の力は強大だからねぇ。初級魔法ですら、人を殺せてしまえる力があるしぃ」

「…………」

「人は次々と生まれてくるから、魔女が自然と根絶することはもちろんあり得ない。でも、魔女に限らず、各国の要職に就いている女性が排除されていき、男性ばかりが権力を握るようになったらぁ? そしてもし、魔女だと分かった子は殺されることになったらぁ? 最近は魔弓杖なんていう、魔力があれば誰でも使える強力な魔法具も出てきたしねぇ。魔女のいない世界で、ワタシを含む魔力のない女性は、男性からどういった扱いを受けるのかなぁ?」


 メレディスは衝撃を受けていた。

 そんなこと、これまで考えたこともなかったのだ。

 

「そういうことで、《黄昏の調べ》っていうのは魔女を排除して、男優位な世界を作りましょうって組織なわけぇ。まあ、中にはオデューンを崇拝する邪教徒の連中もいるんだけど……とにかく、それに対して《黎明の調べ》は、連中の暴虐から身を守りましょうっていう、相互扶助な組織ねぇ。魔女は絶対数が少ないから、《黄昏の調べ》ほど規模も大きくないんだけどねぇ。あまり大っぴらにすると潰されちゃうし、一応は秘密ってことになってるけどぉ」

「だから、ユリアナさんが知らないのも無理はないわ。《黄昏の調べ》の方も事情は似たようなもので、魔女に友好的な権力者も多いから、表だって行動はしない」


 それからクレアは口を閉ざし、やや目を伏せて逡巡した素振りを見せた後、テーブル対面からメレディスの顔を真っ直ぐに見つめる。


「ユリアナさん、単刀直入に訊くわね」

「は、はい」

「貴女、旅をやめて《黎明の調べ》に入らない?」

「……え」


 突然の勧誘にメレディスは戸惑う。

 否、あるいは魔女の互助組織という話を聞いたときから、こういった展開もあり得るとは予想していたが、まさか本当に誘われるとは思っていなかったのだ。

 その理由は単純明快で、メレディスは自身に価値を見出していない。魔女という点以外、何の取り柄もない暗い女。それがメレディスという獣人なのだと彼女は自認している。唯一の取り柄にしても、魔法力は凡百の魔女並で、特別優秀というわけではない。なにやら凄そうな組織から勧誘されるほど、自身が特別であるとは自惚れられないのだ。


 自らを低く見る魔女はそれだけである意味特別なのだが、彼女自身はそんなこと自覚できていない。魔女は往々にして相応の自負心を持って育ち、その自信は育成環境によって植え付けられる。

 メレディスの場合、学院での苛めだけなら未だしも、実の家族から人並みの愛情を貰えずに育ったことで、彼女は魔女として、あるいは一人の人として、相応の自信を持てずにいた。三年に及ぶ一人旅はそれを改善しただけであって、彼女の自意識を完全に変容させるまでには至っていないのだ。


「少し詳しく説明すると、同じ魔女たちと一緒に暮らしましょう、ということになるわ。その相手は、私たちではないのだけれど……少なくともこのまま旅を続けるよりは、安全だと思うわ。どこの国にも属していない魔女は、何の後ろ盾もないということだから、連中から狙われやすいし」

「……どうして、わたしを?」

「先ほども言ったように、《黎明の調べ》は互助組織だから」


 友好的な笑みを浮かべ、クレアは答えた。

 メレディスはその綺麗な顔からテーブルに視線を落とし、少し考えてみる。

 魔女が助け合う組織で、自分と同じ魔女たちと一緒に暮らす。かつて学院において、魔女だけの特別教室で苛められていた彼女にとって、他の魔女たちとの共同生活など不安しか覚えない。

 しかし、その一方でメレディスは思った。

 今まさに自分はオアシスに勧誘されているのではないか、と。

 不安はもちろんある。だが、魔女だからという理由で命を狙われる危険と、共同生活への懸念。どちらがより深刻か、昨夜の経験を引き合いに出せば比べるまでもない。

 

「突然の話だから、今日一日考えてみて、明日にでも――」

「いえ、入ります」


 クレアの声を遮って言うと、彼女は少し驚いたように目を見張った。


「いいの? いきなりで混乱しているでしょうし、返事はもう少し考えてからでもいいのよ?」

「大丈夫です」


 メレディスは思考を止めて、ただ首肯する。

 彼女の場合、時間を置いてしまうと弱気が意志を鈍らせるおそれがあった。危険があると分かっていても、昨夜までの旅路では襲われなかったから、もしかしたら今後はもうないだろうと都合良く考えることができる。

 反面、共同生活への不安は確実に的中する未来だ。脅威度は比較にならないが、起こりうる可能性という点で両者には明確な差がある。

 故にメレディスは即決した。


 クレアとトレイシーは顔を見合わせ、トレイシーが小さく頷いてみせると、クレアは顔を正面に戻した。


「では、そうね……まだ昨日の今日だから、少し様子を見ようと思っているの。ここはディーカにある民家の地下で、連中にも感知されていないはずだから大丈夫だけれど、町中を移動しているときにまた襲われたら大変だからね。とりあえず明日、まずは私たちの住んでいる館に移動して、少しの間そこで暮らしてもらうことになるわ」

「あの、わたしはクレアさんたちとは暮らさないのでは……?」

「ええ、ユリアナさんはザオク大陸東支部の方に行ってもらうことになるわ。私たちは西支部の者なのだけれど、この町を主な活動拠点にしているから、ユリアナさんには不都合でしょう? 向こうの支部に連絡したり、準備を整えたりと色々あるから、数日は私たちの館に滞在して」


 メレディスは迎え入れられる側なので、不満は特になかったし、そもそも何かを要求できる立場だとも思っていない。

 クレアの言葉に頷きを返し、その日はそれでお開きとなった。

 おそらく彼女たちには色々と話したいことがあったのだろうが、気を遣って早々に話を切り上げてくれたのだろう。それはメレディスにとって有り難かった。

 色々な話を聞かされて、突然まだ見ぬ誰かと一緒に暮らすことになって、それらに対する感情が湧き上がってきて、もう頭と心が一杯一杯だった。

 まずは一人で落ち着きたかった。


 結局その日、メレディスは地下で一日を過し、翌日になってクレアたちが住むという館を訪れることになった。


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