間話 『そして魔物の世界より――』
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微睡みに沈んでいた意識がゆっくりと浮上し、彼女は目を覚ました。
上体を起こし、大きく伸びをする。
部屋は薄暗いが、鎧戸の隙間からは陽の光が漏れ入っている。
「……朝か」
メレディスはベッドから降り立ち、鎧戸を開けて陽の光を浴びた。
宿泊している部屋は二階なので、下を覗き込んでみれば多くの町人たちが通りを行き来している。町の生活音と野鳥のさえずりは魔大陸の町とは思えないほど穏やかで、そのくせ力強さを感じる。
一昨日までのメレディスはひたすら街道を歩いての旅路生活だった。
昼夜問わず、魔物と賊徒に対する警戒を怠れなかったせいか、町の宿に辿り着いた頃にはこの三年で最も疲労を感じていた。
本来ならば町から町への移動には商隊の護衛として同行するのが何かと安全で上策なのだが……メレディスは魔女とはいえ、まだ十五歳の少女で、ここは危険な魔大陸だ。条件付きでならばともかく、どこにも受け入れてもらえなかった。
その条件というのも、商隊が夜に野営をする際、娼婦の真似事をするという最低の条件だった。当然飲み込めるはずもなく、彼女は単身で街道を進み、この町ディーカまでやってきた。その緊張感から生じる疲労はすさまじく、昨日はほぼ一日中、宿のベッドに身体を沈めていたほどだ。
「さて、今日から動こうかな」
そう言って両頬を叩くメレディスの格好は既に準備万端だ。
たとえ宿で休んでいるときでも不測の事態が起こり得ることを彼女はこれまでの旅路で学んでいる。
具体的には、ネイテ大陸南東部を旅していた頃。とある町の宿酒場に泊まったとき、真夜中に宿の主人の息子が彼女の部屋に侵入してきたのだ。相手は十代半ばほどで、その年頃の男が性欲盛んなことは知っているつもりだった。
しかし、まさか客の寝込みを襲って"そういうこと"をしてくるだろうとは露ほどにも予想しておらず、なんとか胸を揉まれる程度の段階で撃退できたものの、その一件以降メレディスは大いに警戒するようになった。
そういった理由から、彼女は寝るときも楽な格好にはならず、いつでも敵と戦えて、かつ外に飛び出せるように備えている。そして宿に泊まるときは従業員に若い男がいないかどうかも、良く確認してから利用することにしている。
メレディスは肩掛け鞄を提げ、ローブを着込み、魔杖を片手に部屋を出た。
一階受付にいた主人に軽く挨拶をした後、宿を後にする。
やや寝過ごしてしまったため、既に朝食時は過ぎており、町の人々は既にその日の仕事に従事している。とりあえず朝食はそこらの露店で買うことにして、メレディスは猟兵協会を目指して歩き出した。場所は昨日、宿の主人に聞いていたので問題はない。
まだ町に来て三日目なので、メレディスには色々と新鮮だった。新しい町には様々な発見があり、歩いているだけでも楽しい。
宿から少し進んだところで、通りの隅にパンらしき何かを売る露店を見つけて、メレディスはそちらに足先を向けた。
「ヒトツ、クダサイ」
露店の主に人差し指を立ててみせ、ややぎこちないエノーメ語で告げる。
「おう、70ジェラだ」
店主に金を渡し、釣りをもらって、メレディスは朝食片手に歩き出す。
この町ディーカに来るまで、メレディスは幾つもの町や村を経由してきた。
だが、港町クロクスは未だしも、どの町もエノーメ語が主流でネイテ語を話せる人は少なかった。その理由を知ったのは一つ前の町でのことで、ネイテ語が堪能な宿屋の主人から教えてもらえた。
まさか魔大陸北西部がエノーメ語圏などとは露知らず、彼女は愕然としたものだ。ネイテ大陸を出るとき、もっと情報収集をして、船選びに慎重になるべきだったと悔やまずにはいられない。なにせ初めての船旅だったのだ。
前の町で先に進むか引き返すかで悩みはしたが、これも良い経験だと自分に言い聞かせて、ここディーカまでやって来た。
購入した朝食はパンに肉やら野菜やらがたっぷりと挟まったもので、結構な量と大きさがある。しかし彼女も少女とはいえ十五歳の食べ盛りなので、これくらいはペロリと頂ける。今日から資金稼ぎをしなくてはならないし、腹ごしらえはしっかりとしておく。それに現在の体調や周期を鑑みるに、そろそろアレが始まるはずなので、血は多く作っておいた方がいい。
食べながら人通りを歩いて行き、無事に猟兵協会へと到着する。
会館の大きさは町によって大小様々だが、ディーカのそれは魔大陸では中規模程度だろう。クロクスの協会会館はネイテ大陸で立ち寄ったどの町のものよりも大きかった。
何はともあれ、開きっぱなしの大きな扉から中に入る。
まずは仕事を探すため、掲示板の方へ足を向け、進んでいくが……
「――わぷ!?」
いきなり横合いから衝撃を受けた。
幼い声音の変な悲鳴を耳にしながらメレディスはふらつき、しかしすぐに体勢を整える。
この三年で、彼女は成長した。多種多様な人々で構成される社会という荒波に揉まれ、嫌というほど学習させられた。
まだ十代半ばの少女であるメレディスは往々にして舐められることが多い。街道を一人で歩いていれば賊徒に襲われたり、同じ猟兵たちからは見下され、ときにはいかがわしいことを目的に隊に勧誘され、あるいは無知さにつけ込まれて何かと酷い目に遭ってきた。
多くのことを経験する度に彼女は変化を強いられて、一人旅をする少女猟兵に相応しい仮面を手に入れた。いや、手に入れざるを得なかった。
舐められないように隙を見せず、手を出せばタダでは済まないと思わせる雰囲気を作り、女と幼さを匂わせる言動を控える。わざわざ魔杖を手にして魔女らしい格好をするのもその一環で、少女とはいえ魔女だと分かれば、悪意ある輩も簡単に手を出そうとは思わないだろう。それらは全て、砂漠のように過酷な世の中を旅するために必要な自衛行為で、彼女が手に入れた強さでもある。
故に、メレディスは反射的といっていい素早さで、仮面を被った。
正確には宿の部屋を出たときから被っていたが、それよりも強固な、より鋭く研ぎ澄ましたものを分厚く鎧う。
しかし、目を向けた先にいたのは小さな女の子だった。それもメレディスと同じ獣人で、背負った槍や格好を見る限り、猟兵だ。小さく可愛らしい猟兵だった。
「あ、ごめんなさい、■■■■■」
やはり言葉はエノーメ語だったので、半分ほどしか意味が聞き取れなかったが、メレディスは頷きを返すことで謝罪を受け取った意を返す。そして必要以上の無駄話は避けて、歩みを再会する。
小さな女の子と話す魔女など端から見れば微笑ましいだけなので、周囲の猟兵共に舐められないようにする必要があった。この町の猟兵協会は初めてなので、尚更だ。
「なあ、■■■■■アンタ魔女か?」
掲示板へ向かう途中、今度は二十歳前後と思しき男に話しかけられるが、無視する。取り合っていては、いちいち相手にしてくれる魔女だと思われて、他の猟兵たちも群がってくるからだ。
魔女を隊に勧誘したがる者は多い。
だがメレディスは誰とも組む気はなく、それは相手が男であろうと女であろうと変わらない。以前に女性だけの隊に入ったことはあるが、一番年下だった彼女は色々といいようにこき使われ、報酬も均等とは言い難い額で折半され、なんだかんだで面倒事ばかりだった。
「魔女■■■? ■■■■■顔だけど、この町■■■■? ■■■だろ? ■■■■■■オレと■■ないか? なあ?」
「…………」
視線すら向けず無視し続け、掲示板近くに立つ代読屋と思しき女性の前で立ち止まる。懐から銅貨を一枚取り出して、それを差し出しながら、メレディスはエノーメ語で告げた。
「ネイテ語、ハ、デキルカ」
本来はネイテ語で訊ねた方が手っ取り早いのだが、メレディスはエノーメ語にまだまだ不慣れだ。だからその練習として、可能な限りエノーメ語を話すようにしている。ただ、依頼の内容などは下手すれば命に関わることなので、無理に一人で解読しようとせず、きちんと代読屋にネイテ語で教えてもらいたかった。
確認したメレディスに代読屋の女性が答えようとした直前、二人の間に男が割り込んできて、言った。
「なんだアンタ、ネイテ大陸から来たのか? 奇遇だな、オレもネイテ大陸出身だよ。代わりにオレが読んでやるよ、な?」
「必要ない」
邪魔だったので素っ気なく答えて、さっさとどいてもらおうと思ったのだが……
相手の男はしつこかった。
「そう言うなよ。あぁ、さっきまでの話、エノーメ語だったから分からなかったのか? アンタ魔女だろ? オレはアンタと隊を組――」
「俺は誰とも組む気はない」
敵意に近い雰囲気を作って言い返し、男を避けて代読屋の女性に金を手渡そうと腕を伸ばす。が、その腕を男が掴んできた。
彼女は不意のことに驚いて、思わず尻尾をビクリと動かしてしまう。
「なんだよ、だから読んでやるって。オレならタダで読んでやるぜ」
余計なお世話だった。
メレディスは人の話を聞かない強引な男が嫌いだ。
ベオという例外は存在するが。
「この手を離せ」
「あっ、そういえばアンタ、階級はなんだ? ここ五級の掲示板だから、五級だよな? オレも五級なんだよ、ほんと凄い偶然だな」
「いいからこの手を離せっつってんだよ、クソ野郎。耳に異常のある奴となんざ土下座されても組まねえよ」
今度は完全に敵意を込めた声をぶつけ、頭一つ分は上背のある相手を睨み上げる。すると相手の男は友好的だった相好を崩し、鋭い眼光で見下ろしてきた。
メレディスの内心は恐怖を覚えるが、これくらいで屈していてはとても一人でここまで来られなかった。
「なんだよ、こっちは親切に代読してやろうって言ってんだぞ?」
「下心丸見えなんだよ、童貞野郎。魔女とヤりたきゃ他をあたれ」
丸見えというほどではなかったが、実際に少しはそういった視線を感じていた。
あるいは相手の男は本当に親切心を発揮して、良き友となるべく近づいてきたのかもしれないが、そうだと簡単に信じられるだけの純真さはメレディスの心から失われて久しい。
「んだと、こっちが下手に出てやってれば、生意気な口利――」
「もう一度だけ言ってやる。この手を、離せ」
威勢良く声を上げる男に、メレディスは力強くも淡々とした声で告げた。
十秒にも満たない時間、視線をぶつけ合う。
メレディスの威嚇は効果があったのか、相手の瞳はやや揺れていた。それでもここは公共の場なので、男としての外聞もあるのだろう。素直に大人しく退く気配はないらしく、掴まれた手首により強い力が込められて、彼女は思わず口を開いた。
「この手を離せ」
「なんだ、もう一度だけじゃなかったのか?」
ここで男の嘲笑を上回る行動を起こせなければ、舐められる。
メレディスは咄嗟にそう判じて、詠唱を口にした。
「老若問わず男女の別なく、屈強たる戦士すらも竦み上がりて萎縮せん。
我が幻象に蒼惶せよ、其の身は虚の彼方へ果てなく墜ち行く――〈幻墜〉」
「ぅわあああああぁぁあぁ!?」
中級幻惑魔法は正しく男に作用して、情けない叫び声を上げて膝を折る。
メレディスは男の手を乱雑に振り払い、一歩距離をとって、軽く息を整える。
やってしまった……という後悔は少しだけあった。実際、アレの前だからか、少し苛々していて感情が高ぶりやすかったことは否めない。
蹲って震える男の様子をちらりと盗み見てから、メレディスはさも冷静な態を装って、代読屋の女性に金を手渡した。
「ネイテ語はできるな?」
「あ……は、はいっ、大丈夫です」
女性は少し戸惑っていたようだが、すぐに何でもないように振る舞ってみせる。
彼女も猟兵協会の会館を稼ぎどころとしているのなら、男同士の猟兵が言い争う場面などは飽き飽きするほど見てきたはずだ。これくらいでは動じないのだろう。
代読屋の彼女が腰元の砂時計をひっくり返したので、メレディスは気を取り直して早速依頼選びを始めることにした。ディーカではどんな魔物のどんな素材が高く売れるのか、まずはそういったことから質問していき、希望の依頼を探してもらう。
そうしていると、不意に横から外套を引っ張られた。やはり反射的に厳しい眼差しを作り、またかと思いながら顔を向けるが、今度は小さな女の子だった。
「あの、すみません」
先ほどぶつかってきた子の後ろにいた、あの子と同い年ほどの女の子だ。獣人の子と似たような服装で、利発そうな可愛らしい顔に似合わず、勇ましく腰に剣を帯びている。後頭部の高いところで一つに束ねられた紅い長髪と綺麗な蒼い瞳が目を惹く。
「これ、さっき■■■■■■」
猟兵証と思しきものを差し出され、メレディスは受け取ってそれを見てみた。
すぐに自身のものであることに気が付き、思わず懐をまさぐってみるが、やはりない。いや、今まさに手に持っているのだから、それも当然だ。
思いがけない事に彼女は少し焦ってしまった。
こういった隙や間抜けさはまだまだ改善の余地がある。
尚、猟兵証に記された名前はユリアナだが、これは当然偽名だ。
メレディスは家出同然に都市ロッソを出ていった。父と姉は元より、所属していた学院にも何も告げず、旅に出るとだけ書いた紙を残して旅立ったのだ。
当然、捜索されるだろうと予想して、長かった髪をバッサリと切り、猟兵協会に登録した際は偽名で申請して、職業も当初は剣士にした。ネイテ大陸東部で七級に上がる頃に職業を魔法士に変更してもらい、魔女然とした格好をし始めたのだ。
ちょうどその頃、偶然にも森で骸を晒していた魔法士の猟兵を発見した。猟兵証によると三級の彼は二度と動くことのない片手に魔杖を握っていたので、丁重に葬ってやった代わりに有り難く貰い受けたのだ。当時は相当な拾い物だと、人死にも忘れて無邪気に喜んだものだ。
閑話休題。
メレディスは銀貨を一枚取り出すと、それを赤毛の女の子に差し出した。
わざわざ受付を経由せずに届けてくれたのだから、相応の礼は必要だ。
そう思ってのことだったが、
「いえ、■■■■■」
受け取ってもらえず、少し戸惑ってしまう。
メレディスはつい六節ほど前に五級になったばかりで、ようやく旨味のある仕事に取りかかれるようになってきたのだ。
世の中にはあくどい連中もいるもので、拾った会員証を協会に届けず、本人を探し出して直接渡してくる輩もおり、そうした者共は往々にして礼金と称し、大金との交換を迫ってくるという話だ。五級は未だしも二級や一級ともなれば、再度十級から昇級していく手間を考えれば、猟兵協会規定の礼金より多くを求められても、手間暇やその期間で本来稼げる金額を考慮して、応じてしまった方が楽だ。
そういった理由から大抵はずる賢く大金をふっかけてくるもの、らしいのだが……女の子はいらないという。まだ純真な心を持っている証だ。
何かと世知辛いことの多い旅路の中で、たまにこういうことがあると、メレディスはとても癒されてしまう。
赤毛の子はメレディスが感じ入っている間に、低頭して背中を向けていた。
「ア、アリガ、ト」
せめて礼だけでもと、エノーメ語でぎこちなく声を掛ける。
すると、女の子は軽く振り返って笑顔を返してきた。すぐに駆け去ってしまうが、メレディスは先ほどの男との一件で荒んだ気持ちを帳消しにしてお釣りが来るほど、温かい気持ちになれた。
というのに、それもすぐに台無しにされる。
「■、■……■■■■オレが……■■■■■、絶対に……」
幻惑魔法によって膝を突いていた男がふらつきながらも立ち上がり、暗い視線を向けてきた。何を言っているのかよく分からないし、興味もなかったが、そのせいで余韻も何もなくなってしまった。
子供に比べて、大人は面倒でいけない。
それからメレディスは男の背中を見送ることなく、なんとか早々に気分を入れ替えて依頼を選び終え、猟兵協会を後にしたのだった。
■ ■ ■
ディーカに滞在して、十日目。
三日目から活動を開始したメレディスは毎日休まず、金稼ぎに従事していた。
旅には金が必要不可欠だ。
たとえ言葉の通じない地域だろうと、金さえあればどうにかなる。日々の食費と宿代を賄うためだけでなく、金は少し多めに持っておいた方が精神的な余裕が生まれる。これまでの旅路の中、金がなくて困った経験は一度や二度ではない。
その日も猟兵協会での仕事を終えて、メレディスは日没後の町中を一人歩いていた。日は沈んでも人々の活気は収まりを見せず、むしろ一日の仕事を終えて、お楽しみはこれからだと言わんばかりに賑々しくなる。
どの町でもそうだが、特に娼館が多く軒を連ねる歓楽区域は商売女と男共が跋扈し、金と欲望が渦巻いて独特の盛況さを見せる。無論のこと、そちらには決して近づかないようにして、メレディスはここ最近の習慣に従い、アクラ湖を臨める湖畔通りに顔を出した。
「ヒトツ、クダサイ」
湖畔通りには多くの露店が並んでいる。
メレディスは滞在三日目から夕食を湖畔通りで食べており、毎日違った露店を利用していた。食は旅の醍醐味の一つだ。
魔杖を背負い、夕食を持って通りをしばし歩き、水面へと続く大きな階段に腰掛ける。通りには幾つか階段があり、主に昼間は子供たちが水遊びに興じるための場となっている。湖畔通りは幾つもの長椅子が設置されているが、この時間帯はだいたい埋まっているのだ。
彼女のように階段に腰掛けて、夕闇に沈んだ湖面を眺めながら露店の飲食物を口にしている者は多いが、一人の者は少ない。長椅子然り、階段然り、大抵は恋人と一緒だったり、家族と一緒だったり、はたまた友人と一緒にいる者ばかりだ。
今まさに、メレディスの十段ほど上にいる家族が楽しげに談笑しながら、露店で買ったものを食べている。ちらりと振り返ってみると、二十代半ばほどの若い男女に挟まれて、十にも満たない女の子が笑顔を見せている。
聞こえてくる会話はエノーメ語なので意味はよく分からないが、彼らの家族仲が良好かつ幸福であることは嫌と言うほど伝わってくる。
「さて、と。今日の夕食はどうかな」
気を取り直して呟く。
一人旅をしているうちに、自然と独り言が多くなってしまっていた。
本日の夕食は焼き魚だ。
おそらくはアクラ湖で採れただろう白身魚に香辛料がたっぷりとまぶされ、更に香ばしいチーズまでかかっている。大きな葉にくるまれたそれにメレディスはかぶりついた。予め主だった骨は取り除いてあるようだったので、気にせず食べられる。これまでの旅で焼き魚は幾度となく食べてきたが、その中でも上位に位置する味だった。
パン屋で買った丸いパンも同時に囓り、飲み物には牛乳を嚥下する。牛乳もパンを買うついでに購入していて、革水筒に入れてもらってあるのだ。メレディスの肩掛け鞄の中には杯があり、旅の最中はそこに水魔法で生み出した水を入れ、それを飲んでいた。だが、やはり町にいるときは味気ない水より、彼女の好きな牛乳を飲みたかった。
焼き魚とパンと牛乳を胃に収め、彼女は食後のデザートとして林檎を取り出した。それを腰の帯革に差してある護身用の短剣で半分に切り、齧り付く。
「……………………」
家族連れ、あるいは恋人たちの談笑を含む町の喧騒を背に、メレディスは一人アクラ湖を眺める。彼女の左右はもちろん、前方にも人影はなく、数段も下りれば暗い水面が広がっている。誰かの楽しげな後ろ姿を見ながら食事したくはなかったので、下の方に座っているのだ。
町明かりが近いせいか、夜天で煌めく光は湖面に反射していない。
それでも、メレディスは広々としたアクラ湖が好きだった。理由はもちろん、三年前のあの日を思い出すからだ。
「…………どうしようかなぁ」
そっと呟き、林檎にかぶりついて咀嚼する。
旅に出て、早くも三年が経った。
やはりというべきか、未だオアシスは見つからない。
故郷のネイテ大陸を出て、他大陸へ渡ることを決意したとき、メレディスはどこへ行こうか迷った。そして悩み抜いた末、彼女はザオク大陸へ渡ることを決めた。
理由は単純で、強くなりたかったからだ。
メレディスはいずれ世界各地を回るつもりでいるが、彼女は自身の弱さを痛感している。だからこそ、自らを窮地に追い込んで鍛え上げてやろうと思い、魔物の世界と呼ばれる危険な地に足を踏み入れた。
過去の弱い自分と、早く決別したかったのだ。
そのおかげか、元来が内気で気弱な性格であるメレディスは結構自信が付いてきていた。
この三年、様々なことを経験した。
悪意ある輩を撃退し、魔物共をはねのけて、幾度となく命の危機に陥りながらも何とか魔大陸を一人で旅し、ここまでやって来たのだ。無論、失敗とて数多く経験したが、それもまた彼女の糧になっている。
しかし、ここ最近は少し厳しさを感じている。
これ以上先に進めば、さすがに命がないかもしれないという予感がある。魔大陸は内陸地ほど危険な魔物が多くなっていく傾向にあるのだ。もし次の町への移動中に三級、あるいは四級の魔物にでも襲われれば、撃退できる自信はない。
「しばらく、この町に滞在しようかな……」
冷静さを欠き、己を過信すれば命が危うい。
それにメレディスはディーカという町がそこそこ気に入っている。特に大きな湖があるという点は素晴らしく、ベオとの思い出は彼女に勇気を与えてくれる。
ふと背後から女の子の元気な笑い声が聞こえてきた。
振り返ってみると、女の子は階段を上る父親の逞しい片腕にぶら下がっている。その隣の母親は幸せそうな横顔を見せ、三人で仲良く階段を上りきって町中へと消えていった。
「……はぁ」
自然と溜息が溢れ出る。
それは家族というものに対する彼女の感情と、早く自分もオアシスを見つけたいという願望、そしてそれが叶わぬ望みだという自覚から生じた。
あの日、ベオは言っていた。
一人ではなく、誰か心を許せる人と一緒でなければ、オアシスは真に楽園とはなり得ないのだと。
しかし、メレディスは人付き合いが苦手だ。彼女は他人に対して不信感を抱いている。実の父と姉から愛情を受けられず、学院では苛められて友達もいなかったメレディスにとって、それは当然ともいえる心理だった。
それが一人旅によってより強固になった今、他人を信じ切れない彼女にはオアシスを見つけたとしても、そこに入ることはできないだろう。心安らげる楽園にはそれを作った人がいて、そこには既に幾人かの他人がいるはずで、メレディスは入れてもらう側なのだ。
仮に自分で作り上げたとしても一人では楽園たり得ず、どちらにしろ他人に対する不信感の強い彼女は誰にも心を許せないため、オアシスがあっても意味はないのだ。
最近、そのことを自覚して、メレディスは落ち込んだ。
臆病で不器用な自分が嫌になった。
三年前のあの日、無理矢理にでもベオについていくべきだったのだと後悔した。旅によって様々な人々と否応なく関わってきた今、ベオという男が如何に特異で特別な存在だったのか、遅まきながらに彼女は身に沁みて理解していた。
「帰ろ……」
溜息混じりに呟いて、立ち上がる。
明日も朝は早いので、早々にベッドに入って寝てしまった方がいい。そうすれば、後ろ向きな思考もとりあえずは振り払える。
だが、彼女は帰路を歩きながら、ぼんやりと思った。
自分にとってのオアシスとはベオのことであり、これから先はベオ探しの旅に切り替えた方が良いのではないだろうか……と。