間話 『そして魔物の世界より――』
今回から始まる間話は全五話(計6.5万字ほど)の中編になります。
間話の例に漏れず、読まなくとも本編の理解に支障はありません。
■ Other View ■
かつて存在したという妖精族の物語に、彼女は憧れていた。
特に、水の妖精が月下の湖面で舞い踊る様が描かれた、如何にも女児受けしそうな物語を好んだ。五つにも満たない頃に知ったその物語が忘れられず、彼女は十二歳となった今でも幼き日の夢想に容易く浸ることができる。
湖畔都市ロッソ。
リーンカルン王国で三番目に大きな都市で、彼女は暮らしている。
王国一の大きさを誇るコラライ湖――その東の畔に都市ロッソは栄えており、湖の接する壮麗な城を中心に町が広がり、コラライ湖の東部一帯は立派な市壁がそびえ立っている。
光天歴八九一年、紅火期第二節のある日。
日が沈み、父と姉が寝静まった頃、彼女はいつものように家を出た。
都市ロッソは長い歴史の中で増設された四層の市壁を有し、彼女の自宅はちょうど真ん中――二層目と三層目の古びた壁の間にある。彼女の住まう街区は夜になれば静まり返るが、やや離れた大通りともなれば、その限りではない。
夜の町を楽しむ大人たちの喧噪の中、彼女はフード付きのマントを被った格好で、そそくさと歩みを進めていく。通りの騒々しさや、すれ違う人々の格好や言動は壁を越えるごとに粗野なものへ変わっていくが、彼女はそれらを無視して最も外側の壁を抜け出た。
といっても、見上げるほど大きな門は日暮れと共に閉ざされるため、壁に幾つかある通用口からだ。いつも通り、そこを守る衛兵に数少ない小遣いから工面した駄賃を渡して、こっそり通らせてもらった。
壁の外にも相変わらず町は広がっている。
そこに建つ家々や暮らす人々は都市内のそれらと比べると、お世辞にも品が良いとは言えない。だが決して廃墟ばかりの貧民街というわけではなく、王国内に数多く存在する中小規模の町々と大して変わらないだろう。壁に囲まれた都市ロッソが栄えすぎているだけなのだ。
その町並みはコラライ湖全周を囲うように細く長く広がっており、都市内の人々からはしばしば下町と称されている。
先ほどまで歩いていた大通りの喧噪に比べて、下町の夜は一層猥雑で賑やかだ。
しかし、それも都市内と同じく一部だけのことなので、基本的には路肩に点々と灯された篝火と、天の煌めきだけが降り注ぐ静かな町並みとなっている。
彼女は湖に沿って北の方角に足を向け、歩きながら小さく唱えた。
「凶兆たる風狼よ、我に颯爽と駆ける殺陣の美風を与えよ――〈風速之理〉」
下町まで出るのにだいぶ時間が掛かっている。
都市内で疾走して衛兵に見つかれば物盗りに類する不審者として見られかねず、そうなれば追いかけられて面倒なことになり得るが、下町ならばその心配もない。
彼女は風の速さで駆けていった。
家を出て、二時間は経過しただろうか。
既に夜は完全に深まり、下町でも特に人気のない場所で彼女は立ち止まった。何度も大きく深呼吸して息を整えると、道を外れて湖畔へと近づいていく。
波打ち際に立ち、淡く輝く湖面を眺める。天上で光を放つ双月と無数の星々は水面に反射して、幻想的な光景を作り上げている。
彼女はマントのフードを取り払うと、垂れた両耳を外気に晒し、マントの下で尻尾を振りながら喜々とした声で詠唱する。
「地を駆る輩は揺らめく水面に降り立つこと能わず。
然れど水上たゆたう一葉が如く、不定の地を駆る夢想に焦がれん。
不沈の加護よ我が身に宿れ、今こそ足跡の波紋を響かそう――〈浮水之理〉」
僅かに波打つ湖面へと足を進め、彼女は水上を歩いて行く。
星々を映す水面に一歩、また一歩と波紋を響かせて、湖に幾つか点在する小さな無人島の一つを目指し、だが決して急ぐことなく、弾むようにステップを踏みながら踊り歩く。
かつて読んだ物語で水上を舞い踊る妖精族の夢想に惹かれた彼女は、この水属性上級魔法の習得を目指して頑張ってきた。彼女は水面を歩いているだけで、ただただ楽しかった。
結構な距離を歩いたはずだが、彼女にはあっという間に感じられた。
やや名残惜しさを感じつつも、小さな無人島の一つに足を踏み入れ、砂浜を進んでいく。いつもの場所で、いつものようにマントを敷いて、その上に横たわって一人のんびりと星空を眺める。
「――っ!?」
そうするはずだったのに、彼女の指定席近くには人影があった。
ここ六節ほどの間、この場所では一度も人を見掛けたことがない。
彼女は想定外の事態を前に肩身を強張らせた。
「おーい、そこのお嬢ちゃん」
「ぇ、あ……え?」
突然の声に、元来人見知りな彼女は戸惑った。
薄暗くてよく分からないが、さながら長年の友にでも呼び掛けるような口ぶりの声は低く、男のそれだ。
「まさかこんな時間に、こんなショボい無人島で人に会うなんてな。ん、なんだお嬢ちゃん、そんな怯えた顔して。ははっ、怖がることはねえよ、べつになんもしねえから」
「…………」
「どうだ、これも何かの縁だろう。ちょっと話でもしてみねえか?」
向こうからは彼女のことが見えているようだが、彼女からは黒い影の詳細は分からない。彼女は獣人だが、あまり夜目が利く方ではないのだ。
逡巡した後、恐る恐る近づいてみることにする。
「おう、こんばんは」
砂浜に直に腰を下ろし、一人の男が片手を挙げながら挨拶してきた。
都市ロッソのあるネイテ大陸南部はやや寒冷な気候で、夏でも涼しいとはいえ、その男は裾長の真っ黒いコートを着ていた。同色のブーツにグローブ、夜明け前の空を思わせる紺碧の髪は乱雑に後ろへ撫で付けられ、口元には旧友へ向けるような人懐こい笑みが浮かんでいる。
露出の少ない服装なので顔や首元くらいしか素肌は見えないが、男とは思えぬほど妙に生白い肌をしていた。砂地に投げ出された両脚は背丈の高さを窺わせるほどに長く、体格も良さげだ。
「ん? おいおい、そんなに見つめるなよ、照れるだろ」
「ぁ、その……すみません」
「ふぅ、初対面の美少女から出会って数秒で熱視線を注がれるとは……相変わらず俺様も罪な男だぜ」
反射的に謝ると、男はやれやれと首を横に振り、気障ったらしい笑みを見せた。
彼女は反応に窮してしまう。
「……………………」
見たところ人間のようだが、しかし彼は見るからに不審者だった。
この真夜中に、黒い眼鏡をかけているのだ。 主にきつい日差しを和らげるために黒い透鏡のついた黒眼鏡だ。そのせいで年齢が不確かで、二十代半ばから後半、あるいは三十代のようにも見える。先ほどよく見えなかったのは男の格好が上から下まで黒々しかったからでもあるのだろう。
「どうした、お嬢ちゃん。そんなとこで突っ立ってないで、座ったらどうだ?」
「あの、えっと……」
「え、おいおい、まさか俺様が名も知らぬ美少女に襲いかかるような不審者に見えるってのか? これほどの紳士、世界中どころか歴史上でも俺様ただ一人くらいなもんだぜ?」
「…………」
「うん、まあ……アレだ、お嬢ちゃんは恥ずかしがり屋なんだな。こんなイケメンの隣になんて恥ずかしくて座れないんだよな、うん……」
自慢げな語り口から一転して、やや落ち込んだように男は声を落とした。
彼女は幾ばくか迷ったものの、なんだか申し訳なく、かつ可哀想だったので、外套を脱いで砂浜に敷くとその上に腰を下ろした。
尚、男との間には二人分ほどの距離を空けてある。手を伸ばされてもぎりぎり届かないくらいだ。
しかし、彼女は座ってから気が付いた。
男の向こう側に、黒鞘に収まった一振りの刀らしき何かが砂地に突き刺さっている。彼女は少々の不安を覚えたが、今更距離をとるのも失礼だし、それで男を不快にさせるかもしれないと思うと、動くに動けなかった。
「ところで、お嬢ちゃんは何しにこんなとこに来たんだ?」
「わたしは、その……星を見に」
正確には水上散歩の休憩ついでに星を眺めて、一人ゆっくりと穏やかな時間を過したかったからだが……嘘は言っていない。
「おぉ、そっか、俺様もだぜ。この時間はいつも町を適当にぶらついてるんだが、たまには一人静かに空を眺めたくてな」
「あ、その、すみません、邪魔してしまって……」
「いやいや、それはお互い様だろ。それにどうにも、お嬢ちゃんは良くここに来てる感じだしな。だったらむしろ邪魔したのは俺様の方になる。だからそんな暗い顔すんな、女の子は笑顔が一番似合う」
自分の方が邪魔だと言っておきながら、全く悪びれていない。
だがそのことに彼女が不快感を覚えることはなく、隣にいる男はそういう人なのだとなぜだか妙に納得できた。
「そういや、お嬢ちゃんはなんて名前なんだ?」
「わたしは……その……」
見知らぬ不審者風の男に本名を名乗って良いものかどうか、逡巡する。
だが偽名など咄嗟に思いつけず、彼女は結局本名を名乗ることにした。
「メレディス、です」
「ほう、いい名前だ。俺様が今まで出会ってきた女の中で、メレディスって名前の奴に悪い奴はいなかった」
彼女の名前はそう珍しいわけではないが、そんなにメレディスという名の女性と知り合ってきたのだろうか。
そんな疑問を余所に、黒い眼鏡に黒い外套の黒い男は軽妙な口調で訊ねてくる。
「で、淑女に対して失礼だとは思うんだが、メルは幾つなんだ?」
「……十二歳、です」
「おぉ、十二か。その歳で上級魔法使えるってことは、なかなか才能ある魔女だな」
「え……?」
どうして魔女だと……と思いかけたが、彼女は船でこの無人島まで来たわけではない。翼人でもないので翼もなく、男は彼女が来る前から砂浜にいた。
見られていたのだろう。
とはいえ、男はこの薄闇の中で黒眼鏡をしているので、人間の彼にはほとんど何も見えていないはずなのだが……。
「でもいかんなぁ、あんまりよろしくない。いくら魔女だからって、十二歳の女の子が一人で夜歩きなんて危ねえぞ? 魔女って立場には色々あるし、家族は何も…………って、当然内緒で来てるか。ははっ、大人しそうなのに趣味は夜歩きか、こりゃ紳士な俺様としちゃあ将来が心配だぜ」
「…………」
まるで悪童が別の子の悪戯を見掛けたときのように、男はどこか楽しげに笑う。
だが、ふと笑みを収めて、男が黒眼鏡越しにじっと見つめてきたことに気が付き、メレディスは少し焦った。何か相槌でも打って、愛想笑いの一つでも浮かべておくべきだったのかもしれない。
「ふむ、メルの顔を曇らせているのが何か、当ててやろうか?」
「え……?」
「メルがこの島に来たときは少し楽しそうな顔をしていた。俺様に声を掛けられてからは、俺様のあまりのイケメンっぷりに緊張して少し硬い表情になった。そして今さっき、その顔に影が落ちて、可愛いらしい顔が更に曇ってしまった」
先ほどまでの軽妙かつ快活な語り口は鳴りを潜めて、まるでメレディスの通う学院の教師を思わせる、落ち着きのある低い声で男は言う。
「女の子が俺様と話して不快なはずはないし、さっき微妙に反応した単語からすると……メルは家族と上手くいってないみたいだな」
「――っ!?」
「図星か。こんな真夜中に一人でこんな場所来てるのも、それが一因だな」
メレディスは純粋に驚いていた。
黒い男は遊び人のような雰囲気を感じさせるのに、出会って間もない彼女の悩みを一発で言い当てた。いい加減そうなくせに、よく人を見ている。
「ま、最初にも言ったが、これも何か縁だ。ここは一つ、人生経験豊富な俺様が相談に乗ってやろう。あ、もちろんタダだぞ? 普通は相談料をがっぽり頂くところだが、メルは可愛いから特別だ」
またしても軽薄そうな口調に戻り、男は少し偉そうに嘯く。そして腰の後ろに手を回すと、掌ほどの平たい水筒を取り出し、口を付ける。お酒か何かなのだろう、「うむ、金の水だ」と一人頷いている。
メレディスはどうしようか迷った。
見ず知らずの出会ったばかりの男性に相談するようなことではないし、そもそも彼女は人見知りだ。上手く話せる自信はなく、また話したところで何がどうなるというわけでもない。
しかし、隣に座る男を見ていると、なんだか気が抜けてしまった。
見た目は怪しいくせになんだか偉そうで、適当な言動を見せながらも妙に鋭い。それに男から一方的に話されただけだが、彼が悪人でないことくらいは人生経験の少ないメレディスにも直感的に分かった。
「あの、わたし……話すの、あまり得意ではなくて……」
「心配すんな、俺様の懐はこの湖なんぞとは比べるのも馬鹿らしいほど、広く深い」
仰々しく両手を広げて、如何にも大げさに男は言う。
メレディスはどういう風に話し始めようか少しだけ考えてみるが、やはりどう口火を切ればいいのか分からない。
「えっと、何から話せば、いいのか……」
「そうだなぁ、じゃあ俺様から質問して、メルがそれに答えればいい。その方が話しやすいだろう?」
「あ、はい」
思わぬ提案に頷きを返すと、男は意気揚々とした声で口火を切った。
「よーし、じゃあ早速始めようか。まずは胸囲から」
「…………え?」
「え、まさか自分の知らない? ふむ、ここは俺様直々に測定してやりたいところだが、まあしょうがない。じゃあ代わりに、初恋はいつだ?」
「あの、それは、どういう……?」
「いいからいいから、ほれ、騙されたと思って答えて」
もはや騙された、あるいはからかわれたのかと疑いかけながらも、強く押されてメレディスは答えてしまった。
「ま、まだ、そういうのは……」
「ないのか。まあ、メルは男に興味なさそうな感じだもんな。でもお父さんが初恋ってことは?」
「父は……その、厳しい人なので……」
「なるほど、だからあまり好きになれないと。父親が厳しいのは、メルが魔女だからか?」
男は何気ない様子で訊ねながら、上着の内側に手を突っ込み、一片の干し肉を取り出した。そしてそれを囓り始める。
「……それだけでは、ないと思いますけど……だいたいそうです。父は、わたしを貴族にしようと、していますから」
「ほう、そりゃまた大層なお父様で。で、この国の貴族って、どうやったらなれるんだ?」
男から干し肉を咥えながら訊ねられ、メレディスはたどたどしくも説明した。
リーンカルン王国では他の多くの国と同じく、魔女は優遇されている。
たとえ庶民でも魔女だと判明し、その魔女が国の魔法士養成機関――主に学院などに入って将来国に仕えることを約束すれば、相応の待遇が用意される。希望すれば都市内に住居を与えられ、更に魔女の家族には毎年、その年の生活には困らないだけの援助金も支払われる。
庶民出の魔女が貴族になるには大きく二つの道があり、一つは貴族の嫁に迎え入れられることだ。魔法力は概ね遺伝するものとされているため、優秀な魔女は優秀な血統を重んじる貴族に人気がある。また、魔女は魔女を生みやすい傾向にあるため、尚更貴族たちには受けが良いのだ。
だが、それは人間の魔女である場合がほとんどだ。
一般に、魔人を除く七種族の中で、魔法力は人間が最も高いとされている。更に多くの国々では人間たちが国政の実権を強く握っており、獣人や翼人が国の重鎮になっている場合は少ない。無論、浮遊双島や南ポンデーロ大陸など、各種族が多く住まう地域や国々は別だが。
そのため多種族国家の貴族には人間が多く、人間以外の種族は貴族社会において倦厭される傾向にあるのだ。メレディスは獣人なので、よほど優秀な魔女にならない限り、貴族への嫁入りは不可能だ。
つまり彼女には消去法的にもう一つの道しか残されていないことになるが……こちらも困難を極める。魔女として国に仕え続けて何らかの功績を残し、その報奨として爵位を賜るのだ。これは一代貴族となる場合がほとんどだが、優秀さ如何によってはその限りではない。
世界の国々も似たようなものだとメレディスは聞いているが、その詳細まで知らない。ただ、リーンカルン王国では概ねこのようになっている。
……ということを、メレディスはなんとか男に説明した。
「なるほど、今も昔もそんなに変わんねえってことだな。メルは貴族になるため、父親から勉強しろ勉強しろと厳しくされていると。母ちゃんはそのことについて、なんて言ってるんだ?」
「お母さんは……いないので。わたしを産んですぐ、亡くなったそうです。産後の肥立ちが悪かったとか、なんとか……」
「おぉ、そりゃまたご愁傷様で」
顔すら知らない母の死を話したせいだろう。
考えるより先に口が勝手に動くに任せ、メレディスは話を続けた。
「わたしには、五つ上の姉がいるんですけど……姉は、母が大好きだったそうです。それに父も、母をとても愛していたようです。だから……わたしを生んだせいで、母が亡くなって、二人ともわたしを恨んでるんです」
「それはメルの思い込みじゃなくて、確かなことなのか?」
「はい……小さい頃、姉に言われました。昔は優しかった父が、すぐに暴力を振るうようになったのも、お前のせいだって……父は昔、下町で靴職人として働いていたそうで、でも母が亡くなって、辛くて仕事もできなくなったそうです」
「……………………」
「わたしは生まれて間もなく、教会の魔力検査で、魔女だと分かって……父はそれを国に申告して、都市内に移り住んで、わたしは魔女として学院に入れられました」
改めてメレディスは、初対面の相手に自分の事情を話している現状を思い、我がことながら驚いていた。これまで誰にも話したことなどなかったし、そもそも話せるような親しい友人も知人もいない。
「つまり、こういうことか? 父親と姉ちゃんは、メルが切っ掛けで死んじまった母ちゃんが大好きで、だからメルにキツくあたってくる。だが父親は無職で、メルのおかげで貰えている金で暮らしている。あぁ、あと姉ちゃんからは妬まれてもいるだろ?」
「……はい、わたしのせいでお母さんが亡くなったのに、わたしは魔女で、姉は違います」
頷くメレディスを男はじっと見つめてから、「ふむ……」と顎に手を当てる。
「ところで、メルは父親似か?」
「え……? いえ、わたし、父とは似ていないので、たぶん、母親似だと思います」
「姉ちゃんは母親似?」
「父親似だと思いますけど……それが何か?」
意図の読めない問いだったが、何はともあれ答えておく。
すると男はなぜか苦々しく口元を歪め、溜息めいた呟きを溢す。
「なるほど……ま、男女ってのはそういうもんだしな」
「あの……?」
「おっと、悪い悪い、メルがあまりに可愛いからな。メルの母ちゃんがどんな美人だったのか、思わず想像しちまってたぜ。きっとモテモテだったんだろうな」
男は笑みを浮かべて何度か頷き、指先で黒眼鏡の弦を軽く押し上げる。
羞恥を覚えたメレディスはなんだか落ち着かず、足を崩して座り直した。そして組んだ両手をもぞもぞと動かして、照れ隠しにとりあえず口を開く。
「わたし……魔法力は、獣人の魔女としては並だし、頭も特に良くないので、父からはよく叱られて……それに、話すの上手くないですし、性格も……明るくないから、学院ではよく、からかわれたりしてて……」
というより、苛められていた。
学院には貴族生徒も多く在籍しているが、一般生徒の方が大多数だ。なので男子生徒は貴族生徒だけ教室が別にされているが、メレディスの在籍する魔女だけの特別教室では貴族生徒と庶民出の生徒が混在している。教室内には明確な身分格差があり、人間ばかりの貴族は他種族を見下すことも少なくない。メレディスは獣人で、更に大人しい性格なので、しばしば意地の悪い貴族生徒の標的にされていた。
「家にも学院にも心の安まるときがないってわけだ。いや、居場所がないって言った方が合ってるか? とにかく、メルは今の生活が苦しくて、辛くて、嫌なんだな?」
「……そう、ですね」
居場所がない。
人からそう言葉にされて、これまで漠然と感じていた辛苦の原因はそれだと、メレディスはようやくしっくりきていた。
心を許せる人のいる、安心できる場所と時間がない。
「だからこうして、真夜中にこんな場所まで一人で星を見に来るような、感傷的な気分になるわけか」
男は納得したように頷く。
いつの間にか彼の口先に咥えられていた干し肉がなくなって、小さな鈍色の水筒を傾けて喉を上下させると、男は前方――湖に顔を向けたまま、一息吐くように口を開いた。
「そうだなぁ……敢えて率直に言ってやると、だ。メルの悩みはよくあることだな」
「……はい」
「世界には色んな事情を抱えた奴が無数にいて、誰しも大なり小なり何らかの悩みを抱えて生きてるもんだ。メルの悩みも、そんな中の一つでしかない」
「そう……なんですよね、やっぱり」
メレディスも男と同じく湖の方へ顔を向け、呟いた。
暗い湖面には天上で光を湛える星々と二つの月が映り込み、揺らめいている。所詮、他人から見た誰かの悩み事などは水面に映る風景のように、朧で実感の湧かない虚像のようなものなのだ。
「だが、端から見てそれがどんなに有り触れた小さな悩みでも、当人にとっちゃ一大事だわな」
それでも、男はそう言った。
特に同情している様子はなく、日常会話でもする気楽さしか感じられない。
「普通、人はこういうとき『そうか、分かるよ』とか耳当たりのいい言葉を吐くもんだ。だがよ、他人の悩みとその気持ちなんて、たかが数十年生きた程度で簡単に分かるはずねえんだよな。せいぜい表面上だけで、本質なんてろくに分かっちゃいねえ」
「…………」
「しかしだ、誰よりも多くの老若男女と関わってきた人生経験豊富な俺様は、特別だ。俺様にはメルの悩み、分かるぜ。そりゃあもう痛いほど分かる、今まさに俺様の心は血の涙を流している」
十人が聞いたら十人が嘘だと断言するほど、その言葉そのものはいい加減で安っぽい。だが、メレディスはそれが嘘だとは思えなかった。
隣に座る、まだ出会って間もない不審者風の男には、そう思わせる何か不思議な魅力がある。言動に反して落ち着いた気風のせいか、口調に反して深い響きを有する声音のせいか、あるいは単にメレディスがそう思いたいのか、はたまた彼女の頭は想定外の出会いで麻痺しているだけなのか。
いずれにせよ、メレディスは誰かに自分を理解されたことが、嬉しかった。
「そりゃあ辛いだろうさ、メルは何にも悪くねえのにな。メルを産んだせいで母ちゃんが死んじまったからって、誕生の尊さはたとえ俺様であろうと冒せねえ、最高に素晴らしいことだ。父親だろうと姉ちゃんだろうと、それを否定することは完膚無きまでに間違ってやがるし、それを原因に厳しくするのも同じだ。メルは毎日息苦しいんだよな、ここに来ることだけが楽しみなんだろ」
「ぅ……っ、はぃ……」
「あー、おいおい、女はそう易々と男に涙を見せるもんじゃないぜ……と言いたいところだが、相手が俺様なら話は別だ。泣きたければ泣けばいいさ、俺様の胸に飛び込んできたっていいんだぜ?」
それが本気なのか冗談なのか、メレディスにはもう考える余裕などなかった。彼女の本能は人肌の温もりを欲していて、大きく両腕を広げる黒い男の胸に飛び込んでいった。硬い胸板に額を押し当てると、男は何も言わず、幼子をあやすように抱き留め、優しく背中をさすってくれる。
メレディスはしばらく小さく声を上げて泣いた。
「……………………」
どれほどの時間、そうしていたのか。
メレディスが身体を離そうとすると、男はあっさりと腕を解いた。
「あ、あの……すみません、わたし、その……」
「ははっ、気にすることはねえよ。俺様もメルのような可愛い女の子を抱きしめられて役得だ」
羞恥に顔が熱くなり、メレディスは再び敷いた外套の上に腰を下ろしつつ、顔を俯ける。だが沈黙を嫌って、恥ずかしさを誤魔化すように問いかけた。
「あの、貴方の名前、聞かせてもらってもいいですか」
「ん? あぁ、そういえば俺様だけ名乗ってなかったか。俺様はベオだ、ベオ様でもベオさんでもベオちゃんでもベオでも好きに呼んでいいぞ」
「で、では……あの、ベオさん……は、何をしている人、なんですか?」
「そうだなぁ、普段はあちこち旅してるな。最近は議長もやってたりするがな」
「議長……?」
「おうよ。なんつーのかね、俺様はとにかく色々なことに挑戦して、新しいことを学んでいくことが生き甲斐なわけよ。で、最近はちょっとした分野の有識者たちを世界中から集めて、会議を開いたりしてるんだな」
まだ二十代か、せいぜい三十歳ほどのはずだが、実は偉い人なのかもしれない。
もしかしたらどこかの国の貴族か何かで、それならば少し変わった格好や言動も納得できなくはない。黒眼鏡は高価な品のため、豪商や貴族くらいしか着用しないものでもある。
「ま、俺様のことはさておき……メル、誰かに話せて少しはすっきりしたか?」
「あ、はい、その……すみません、ありがとうございました」
「いやいや、礼を言うのはちっと早いぞ。俺様は相談に乗るって言ったんだ、まだ話を聞いただけで、何の助言もしてねえ」
男――ベオは当然のように言って、ニヤリと得意げに口端を釣り上げた。
まるで少年のような笑みである。
「メルが幸せになるにはどうすればいいか、方法は簡単だ」
「それは……?」
「笑うことだ、笑顔になれば人は幸せになれる。今だから言えるが、俺様も昔はメル以上に暗い顔をした、それはもう死人そのものなクソ野郎だったが、今はこれだ」
男の格好はほぼ真っ黒だが、暗澹とした雰囲気は全く感じない。口元に浮かんだ笑み然り、先ほどからメレディスはベオのことを、人生を謳歌していそうな人だと思っていた。
「つっても、いきなり笑顔になるのも難しいもんだ。というわけで、まずは笑顔になることを目的に、自分を変えようと頑張ってみろ」
「自分を、変える……」
「自分が変われば、状況も変わって、環境も変わる。そうして少しずつ、自分に過しやすい世界を作っていけばいいんだ。そして笑っていれば、向こうから勝手に幸せが転がり込んでくる」
ベオの言うことは正しいのかもしれないと、メレディスも思う。
しかし、そう簡単には変われないからこそ、悩み苦しんでいるのだ。
そんな彼女の心情を見透かしたように、ベオは続けて語りかけてくる。
「メル、この世界はな、砂漠みたいなもんだ」
「砂漠、ですか……?」
「ああ。メルは砂漠に行ったことあるか? 昼は暑くて、夜は寒い、歩いても歩いてもオアシスは全然見つからねえし、見渡す限りどこもかしこも砂だらけ。魔物共がいちいち絡んできて鬱陶しいわ、よしんば人と会ってもそれが賊ってこともある。基本的に、世の中ってのはいつの時代も世知辛くて、何事も思い通りにはいかねえもんなんだよ」
ベオはメレディスとの間にある砂を黒革の手袋越しに一掴みしてすくい上げ、さらさらと溢していく。周囲は夜の静けさが支配し、微かな波音しか聞こえない。
「だが、だからこそ人は幸せになれるんだ。今いる場所が乾いた砂地でも、頑張って努力して穴掘れば、そこをオアシスにできるかもしれねえ。ただ、完成させるには一人じゃ無理だ。心を許せる誰かが、喜びを分かち合える誰かが一緒にいて、初めてそこが楽園になる。辛さ余って嬉しさ百倍、自分だけのオアシスが作れれば、きっと幸せになれる」
「でも……そんなに簡単なことでは、ないですよね。魔物も、賊も、色んなことが邪魔をして、全然上手くいかないことも、ありますよね……?」
「まあな、当然ある。自分の持ってる円匙がボロっちかったり、砂地の下に硬い岩盤があったり、ようやくできたオアシスを理不尽に蹂躙されることだってある。だからこそ、まずは心身共に強くならなくちゃいけねえ。自分を変えるんだ、何かに負けたりしねえように、自分と大切な誰かを守って、幸せになれるようにな」
整っていると思しき顔を隣に座る少女へ向けて、ベオは黒眼鏡越しにメレディスの不安げな瞳を覗き込む。彼女もまた、力強い微笑を湛えるベオの顔を見つめて、続く言葉に耳を傾けていった。
「しかしだ、いま自分のいる場所が蟻地獄みてえに最悪な場所だった場合、そこをオアシスに変えるのは相当に難しい。なにせまずは蟻地獄の主と話し合って和解するか、ぶっ倒さなきゃならねえんだからな。それが無理だと思うときは、いっそのことオアシスを探す旅に出てみればいい」
「旅……?」
「そうだ、なにもオアシスは自分で作る必要はねえんだ。今の自分には無理だと思ったら、旅に出て誰かの作ったオアシスを探せばいい。もちろん旅は危険だが、危険を恐れてちゃあ何もできねえし、人として強くなるには旅が一番だ。で、もしオアシスに辿り着ければ、そこの主が入れてくれるかもしれねえ」
「……入れて、くれなかったら?」
「そのときはそのとき、また別のオアシスを探せばいい。よしんば見つからなくても、旅していれば心身共に嫌でも強くなってくからな。その強さを糧に、改めて自分でオアシスを作るって手もあるし、旅していれば心を許せる誰かと出会う機会だってある。まさに一石二鳥どころか三鳥四鳥だ」
ベオの話はメレディスにまず恐怖を抱かせた。
市壁に守られた安全な生活を捨てて、魔物や野盗のいる危険な世界に飛び出して旅をするなんて、自分には到底無理だと思ったのだ。
しかし同時に、希望を見出してもいた。
「とまあ、こんなところだ。具体的な助言ができなくて悪いが、そこまで俺様が道を指し示しちゃ、メルのためにならねえからな。どうするかはメルが自分で考えて、行動に移すんだ……と言いたいところだが、一つだけ具体的な助言をしよう」
ベオは人差し指を立てて、あくまでも軽妙な口ぶりで優しく続けた。
「メルが旅に出ようとするにせよ、しないにせよ、一度きちんと家族と話し合った方がいい」
「そ、それは……」
「気持ちは分かるが、勇気を出して、一度だけな。互いに腹割って話そうぜって、持ちかけてみるんだ。それでも応じてくれず、分かり合えなきゃ、あとはメルの好きにすればいいさ」
「……はい」
と頷きはしたものの、メレディスはその具体的な助言を実行する気にはなれなかった。今更、父と姉と話し合ったところで、何がどうなるとも思えなかったのだ。
それよりも、もっと希望のあることに勇気を使いたい。
「あの、ありがとうございます」
メレディスは立ち上がって、ベオに頭を下げた。
これほど有意義な時間を過したのは生まれて初めてかもしれなかった。
ベオは「おう」と鷹揚に頷くと、おもむろに腰を上げた。
「ふぅ……結構長話しちまったな。メルはいつ頃帰るつもりなんだ?」
黒いコートに付いた砂を乱雑な手つきで払いながら訊かれて、メレディスは双月を見上げてみた。位置からして、そろそろ帰路に就いた方が良い時間になっている。それほど時間が経っていたようには思えず、少し驚いてしまった。
「わたしは、そろそろ帰らないと……もしお父さんに見つかったら、怒られそうなので」
明日は学院が休みなので夜更かししても問題はないが、勉強もせずに遊び歩いていたとなれば、父の怒りは暴力となってメレディスに襲いかかってくる。
だが彼女はベオに答えてから、遅まきながらに彼との別れを察して、すぐに思い直した。
「あのっ、ベオさん!」
「ん? どうした急に、元気良く」
「ベオさんは、旅してるんですよね!? わ、わたしもっ、一緒に連れてってください!」
勢いに任せて、なんとか言い切った。
普段のメレディスならこんな図々しいことはまず言えないが、今宵の彼女は目の前の男によって少なからぬ勇気を得ていた。
それを他ならぬ彼にぶつけたのだ。
「……んー」
ベオは悩ましげに眉根を寄せて小さく唸る。砂浜に突き刺していた黒鞘を引き抜き、腰の帯革に差したところで、彼は口を開いた。
「メルみたいな可愛い女の子の頼み事は聞いてやりてえところなんだが……生憎とそれはできねえんだ、悪いな」
「ど、どうしてですかっ、わたしがまだ子供だからですか!?」
「いや、歳は関係ねえよ。ただな、俺様と同じ歩調で歩き続けられる奴なんざ、いねえからな……」
これまで陽気な軽妙さで話し続けてきたベオだが、静かにそう漏らした彼の立ち姿は酷く寂しげで、哀愁が漂っていた。
不意に見せられた様子に、興奮していたメレディスは冷水を浴びせられたかのように我に返った。
「ま、それに俺様について来ちゃあ、メルは本当の意味で強くなれねえしな。超絶強くて頼りになりすぎる人気者の俺様が側にいると、メルのためにならねえ」
すぐに先ほどまでのベオに戻って、彼は偉そうにうそぶきながらメレディスの頭をぽんぽんと撫でた。
彼女は何も言えず、ただ黙って撫でられる。
「さて、んじゃそろそろメルは行くといい」
「……ベオさんは?」
「俺様はメルを見送ってから行く」
常に我が道を行くことを思わせる堂々たる仕草で腕を組み、その場に佇むベオ。
この人には何を言っても発言を翻させることはできないだろうと、メレディスは諦めにも似た直感に従い、ベオから一歩離れた。
そして大きく頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました。あの……また会えますよね……?」
「どうかな、俺様は世界を適当に流離ってるから、メルが旅に出ればどっかで再会できるかもな」
「はい、ではまたっ」
さようならとは言わず、再会の言葉を口にする。
それは彼女なりの一つの決意の表れであり、宣言であった。
「おう、またな。メルが心からの笑顔を浮かべられること、祈ってるぜ」
気さくに片手を挙げて、口元には人懐こい笑みを見せて、ベオはそう言った。
メレディスは砂浜に敷いていた外套を拾い上げ、再び着ようとした。が、そこに待ったが掛けられた。
「あー、メル、帰りはそのままで頼む」
「外套は羽織らずに、ですか」
「おう、それで来たときみたいに、楽しそうに歩いて行ってくれ」
少し恥ずかしくはあるが、別に断るほど嫌というわけでもない。
だが、そこでメレディスは不意に思い立ち、駄目元で言ってみることにした。
「それは、それは構いませんけど……その、代わりといってはなんですけど、お願いがあります」
「お、なんだ?」
「その眼鏡、とってくれませんか……?」
恐る恐る訊ねてみる。
もしかしたらベオはどこかの貴族で、だから黒眼鏡で顔を隠し、素性を秘しているのかもしれない。そうは思ったが、どうしても素顔が気になった。
「……仕方ねえ、普段は絶対に見せねえが、特別だ」
しばしの沈黙の後、満更でもないような口調で言って、ベオは黒眼鏡に片手を掛けて目元から取り去った。
「――――」
「おいおい、そんなに見つめるなよ、照れるだろ」
力強くも穏やかさの感じられる双眸だった。
彼が幾度となく自賛していたように、黒眼鏡のない今ならば、確かに良く整った顔立ちなのが十二分に窺える。逞しくも美しい相貌から窺える年齢は相変わらず不詳だが、二十代半ばか後半ほどだろう。
しかし、メレディスが見つめてしまった原因は別にある。
ベオの瞳は、今まさに夜空で満月を晒す紅月のように、紅かった。
初めて見る色合いだ。妖しくも優しい光を湛えたその瞳は鮮血色そのもので、不思議な魅力が宿り、目を離すことができない。
「やはり俺様の素顔はイケメンすぎて危険だな……」
ベオは気障ったらしく髪をかき上げて、やれやれと首を横に振る。
それから無駄に格好良い声で「封印!」と言いつつ再び黒眼鏡を装着する。
「ほれ、次はメルの番だ。さあ行った行った」
「……あ、はい、あの、ありがとうございましたっ」
もう一度、今度は素顔を見せてくれたことに対して礼を述べて、メレディスは歩き出した。波打ち際で立ち止まると、そっと深呼吸をして詠い唱える。
「地を駆る輩は揺らめく水面に降り立つこと能わず。
然れど水上たゆたう一葉が如く、不定の地を駆る夢想に焦がれん。
不沈の加護よ我が身に宿れ、今こそ足跡の波紋を響かそう――〈浮水之理〉」
メレディスの魔法力は凡百の魔女並だ。
適性があるのは光属性だが、そちらは中級魔法までしか習得できていない。光、闇、治癒解毒の三属性は他属性に比べて難しいという理由もあるが、彼女は己が憧れのために、まず何よりもこの水属性上級魔法の習得にこだわり、我が物とした。
一度だけ後ろを振り返ってから、ゆっくりと湖面に足を進める。
水面には無数の淡い光が映り込んでおり、メレディスは煌めく星空を渡り歩く錯覚に囚われながら、踊るように軽快な足取りで波紋を響かせていく。手を振り、長い髪を揺らし、幼き頃に憧れた物語を思いながら歩いて行くと、自然と笑みが溢れてくる。
「やはり、妖精族を思い出すな……」
懐古の念の滲み出た微かな呟きが後ろから届いてきたが、メレディスはもう振り返らない。今はただ前だけを向いて歩いていたかった。
旅に出れば強くなれて、自分を変えられて、心安らげる居場所を見つけられるかもしれない。蟻地獄を抜け出す力がメレディスにはなかったが、今は違う。
一生囚われ続けて抜け出せない。
そう思っていた場所から旅立つ勇気くらいは彼にもらえた。
後は自分の力で、踏み出すだけだ。
「……オアシス、か」
水上散歩を楽しんで、大地に降り立ち踏みしめたら、そこを目指して歩き出そう。
とある夏の夜、十二歳のメレディスは強く決意した。