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幼女転生  作者: デブリ
四章・日常編
76/203

 間話 『在りし日の真実』


 ■ Other View ■



 連休八日目。

 サラは久しぶりにチェルシーの夢を見た。

 それは他愛もない日常風景の記憶で、今となっては掛け替えのない思い出だ。

 そう、思い出。

 サラにとって、チェルシーは大切な家族の一人であると同時に、既に過去の人でもあるのだ。


「サラねえおきておきておきてーっ!」

「……そんなに言われなくても起きるわよ」


 ただ、少々もの悲しくなってしまったので、その日の朝は珍しくすんなりと起きられた。すぐに身体を起こしたサラを前に、リゼットと一緒に起こしに掛かっていたローズが意外そうな顔を見せる。


「今日は随分とあっさりですね」

「もう九歳だからね、これくらい当然よ」


 と強がって見せつつも、サラは明日の朝も今日のように起きられる自信がなかった。

 だが妹の手前、弱気な自分はあまり見せられない。


「ほら、朝の準備するわよ」


 三人でトイレに行き、それから水を一杯飲むと、寝間着のままで館の周りを走る。サラは翼人なのでローズやリゼットほど足腰を鍛える必要性を感じてはいないが、セイディ曰く体幹作りに必要なので走った方がいいらしかった。

 寝起きの走り込みを終えた後は風呂場へ直行し、昨日の残り湯でざっと汗を流し、着替える。そして食堂へ行く前に、部屋へと戻った。


「ローズ、髪に絵の具ついてるわよ。昨日ちゃんと洗わなかったの?」

「え、ほんとですか?」

「ほらここ、茶色い塊になってる。櫛が通らないわ」


 ローズの髪を櫛で梳きながら、サラは長い髪の毛先辺りを眼前に持っていく。

 するとローズは「あー」と関心の薄さが窺える声を出した。


「まあ、今日も絵は描くつもりですし、夜になったらちゃんと洗います」

「適当ね、まったく」

「髪はまた生えてきますから」


 それ以上は何も言わず、赤く長い髪の手入れを終わらせた。

 本当は今すぐに洗ってやりたいところだったが、今日も描くのなら二度手間になる可能性が高い。サラは今日の風呂ではしっかり洗ってやろうと心に決めた。


「リーゼ、食堂行くわよ」

「はーいっ、いくぞーアシュリーン!」


 リゼットはベッドの上で一緒に戯れていたアシュリンを抱き上げる。

 彼女が最近飼い始めたペットはオスだが、白い毛並みがとても綺麗で、大きくなったら更に毛が多くなることだろう。そのうちアシュリンの毛並みも整えた方がいいのかもしれない。

 そんなことを考えつつも、三人で一階に下り、食堂に入った。


「いただきまーす!」


 リゼットは相変わらずの食欲を発揮して、美味しそうにどんどん頬張っていく。

 その隣の椅子の上にはアシュリンが座り、リゼットが口の中のものを咀嚼しながらエサを与えていく。アシュリンは背中の両翼をパタパタを動かし、嬉しそうに食べていた。


 アッシュグリフォンは基本的になんでも食べる雑食らしいので、アシュリンの食事内容はリゼットとほぼ同じだ。クレア曰く、別に用意するより少し多めに作って、それを分け与えた方が手間が少なく済むらしい。


 アシュリンの食事を見て、ふとセイディが感心したように唸った。


「にしても、アシュリンってほんとになんでも食べるわね。まだ生後十日も経ってないのに、さすがは魔物ってとこかしら。逞しいわね」

「リーゼもアシュリンを見習って、嫌いなものもきちんと食べるのよ? 昨日みたいに自分の嫌いなものをアシュリンに食べさせてはダメよ」


 今まさに嫌いな野菜炒めをアシュリンの口元に近づけていたリーゼだったが、クレアの言葉にその手を止めた。


「で、でも、アシュリンがほしーってゆーから……」

「リーゼ」

「……うん、たべる」


 リゼットは肉類が大好きな反面、野菜全般を好まない。

 見え透いた嘘をクレアの一言に押し潰され、リゼットは渋々といった様子で野菜を口にした。その傍らのアシュリンは目前まで迫っていたエサを引っ込められ、残念そうに「ピュェ……」と鳴いた。


「なんでも食べるといえば、ローズもなんでも食べるわよね」

「クレアたちの料理は美味しいですし、成長のためなので」


 サラが話を振ると、リゼットに負けず劣らず食べていたローズが手を止めて微笑んだ。

 

「サラもたくさんお食べ。子供のうちは、お腹いっぱい食べるくらいでちょうどいいのじゃ」

「ええ、食べるわ……お腹いっぱいまでは食べないけど」


 そうしていつも通り、和やかに話しながら朝食は進んでいく。

 一番早く食べ終わるリゼットが皿を空にして、アシュリンへのエサやりに専念し始め、そろそろ他の皆も食事を終える頃。

 サラは前々から考えていたことを告げることにした。


「ねえ、クレア」

「ん、どうしたの? おかわり?」

「ううん。そうじゃなくて、わたしそろそろ自分の部屋が欲しいわ」

「ほう」


 マリリンが小さく声を漏らす他方、リゼットが意外そうな声を上げた。


「え、サラねえ、もういっしょにねないの……?」

「そういうわけじゃないわよ。ただ、なんていうか、わたしももう九歳で、来年は十歳よ。なにかと自分の部屋はあった方がいいのよ」

「えー、なんで、べつにいらないじゃんっ」

「リーゼはアシュリンと遊んで、ローズは絵を描いて、そろそろ三人で使うには手狭でしょ。いい機会だから、わたしは隣の部屋に移るわ」


 本当は今朝の夢の影響が大きい。

 ここ数日の間は確かに、三人部屋がそろそろ窮屈に感じてきていた。

 だが、わざわざ一人部屋を所望するほどではなかった。

 それが今こうして実際に口に出しているのは、思いがけずチェルシーのことを思い出したからだ。チェルシーはサラが物心ついた頃には既に自分の部屋を持っていた。だからそろそろ自分も、自分だけの部屋を持っても良いと思ったのだ。

 一人でなければできないことも、色々……うん、色々ある。


 リゼットの反応はともかくとして、サラはローズに目を向けてみた。

 彼女は実に複雑な面持ちとなり、無言で見つめてくるだけだった。


「なによ、ローズ」

「いえ、その……まあ、いいんじゃないでしょうか。サラも来年で十歳ですしね、ええ、いいと思います」


 サラはローズの様子に違和感を覚えたが、そこでクレアが二人と違っていつも通りの様子で訊ねてくる。


「それじゃあ……どうしましょうか。どの部屋がいいとか、希望はある?」

「チェルシーが使ってた部屋を使うわ。リーゼとローズの部屋の隣だし」

「いいのか、サラ。その部屋にバルコニーはないぞ。翼人のお前には外に繋がる窓があった方が良いのではないか?」


 アルセリアが確認するように問うてくるも、サラはすぐに頷きを返した。


「大丈夫よ」

「ほんとにいいのサラ? なんだったら勉強部屋をサラの部屋にしてもいいけど」

「ずっと部屋にいるわけじゃないし、大丈夫よ。それにチェルシーの部屋なら家具も一通り揃ってるし、すぐにでも使えるわ」

「まあ、アンタがそれでいいならいいんだけど……」


 同じ翼人としてセイディは気遣ってくれたが、サラはバルコニーの有無は特に気にしていなかった。陽の光に当たりたければ今の部屋に行けばいいだけだし、子供だけで館の外へ出るのは基本的に禁止されているのだ。

 バルコニーから飛び立とうにも、そのときは必然的にセイディと一緒になる。それに彼女のように窓から覗かれる心配もないし、今はチェルシーの部屋で十分だった。


「うむ、ではサラはチェルシーが使っていた部屋を使うと良い。リゼットとローズは少し寂しくなるかもしれぬが、すぐ隣の部屋じゃ。いつでも行き来できよう」

「じゃーサラねえのへやにあそびにいくーっ」

「べつにいいけど、ちゃんとノックはしなさいよ」


 その言葉にクレアとセイディの顔が一瞬引き攣ったが、サラは気付いていない振りをしておいた。




 ■   ■   ■




 部屋の移動はすぐに終わった。

 食後の家事手伝いの時間、掃除を引き受けたサラは事のついでに引っ越しを終わらせた。元から生活に必要なものは一通り揃っていたので、ただ改めて掃除して幾らかの私物を運んだだけだった。


「なんか、実感ないわね」

「ま、初めはそんなもんよ。今日はこの部屋で一人で寝てみたら? 自分だけの部屋って感じするかもよ」


 元はチェルシーの、今は自分の部屋となった室内を見回すサラに、セイディが軽く笑いながら言った。

 この部屋にベッドはあっても、昔からチェルシーは全然使っていなかった。いつも隣の部屋で、サラとリゼットの三人で寝ていたのだ。


「この際だから、これからずっと一人で寝てみる? リーゼもローズとアシュリンがいれば寂しくないだろうし」

「今日一度寝てみて、考えてみるわ。リーゼにも一緒に寝ないわけじゃないって言っちゃったし」


 しかし、とサラは思う。

 自分が朝起きられないのはリゼットたちと寝ているからではないだろうか。誰かが起こしてくれると安心しきっているから、微睡みから抜け出せないのだ。一人なら自力で起きようという心構えが得られるかもしれない。

 早速明朝、試してみよう。


「それじゃあ、何かあったら呼びなさい」


 セイディはそう言い残して出て行き、部屋にはサラ一人だけとなった。

 もう家事は終わらせたので、既に自由時間だ。

 小一時間もすれば剣の練習が始まるが、それまで時間がある。


「本でも読もうかな……」


 机に座って、予め持ってきておいた歴史書を開く。

 陽の光が入ってこないせいか、いつもより部屋が薄暗く感じるが、問題になるほどではない。魔石灯は十分な明かりを振りまいている。


「……………………」


 しばらく、サラが一人だけの部屋で読書に集中していると、


「サラねえきたよーっ」

「……だから、ノックしなさいって言ってるでしょ」


 いきなり扉が開き、リゼットが現れた。その後ろからはアシュリンが四本の足でとことこと歩き、主の背中を追いかける。


「なんか……ふつーだね!」

「いいのよ、普通で。ローズは? また絵?」

「うん、すごいいっしょーけんめーかいてた。じゃましちゃめーわくかとおもって、きた!」


 リゼットは近くまでやって来ると、「なによんでるのー」と本を覗き込んでくる。だが歴史書だと分かると、つまらなさそうに顔を引っ込めた。


「そういえば、リーゼはローズの絵のこと、どう思う?」

「ん? じょーずだね! あとかわいい!」

「……まあ、あんたとローズの感性はともかくとして、あの絵に描かれた子のことよ」

「りゅーじんのおんなのこだね」


 それがどうかしたの?

 とでも言いたげな顔で小首を傾げるリーゼに、サラは小難しい顔で言った。


「なんでわざわざ竜人なのよって話。ローズに訊いてみたら、奴隷だった頃の友達って言われたけど……なんか、おかしくない?」

「え? なにが?」

「だから、なんで今更、奴隷だった頃のことなんて思い出して、その友達の絵を描いてるのかってこと。それにローズ、アリアから竜人語とか教えてもらってるし」

「ローズはりゅーじんがすきなんだよっ、あたしもすき! アリアかっこいーからねっ!」


 リゼットは無邪気に笑っている。

 脳天気な彼女とは微妙に話が噛み合っておらず、サラは諦めて「ええ、そうね」と頷いておいた。そしてリゼットの意見はあてにせず、聞きたいことを訊ねてみる。


「ローズって最初、ここを出て行くつもりだったのよね?」

「それがどーかしたの? もーローズはかぞくだよっ、ずっといっしょにいるよ!」

「ええ、それはわかってるけど、初めは出て行く気だったのよね? そしてユーハと一緒にプローン皇国に行くつもりだった」

「そーだね、なんかきづいたらふねのなかにいて、またいりくにきたらしいからねっ。でもあたしがおねがいしたら、ローズいくのやめてかぞくになってくれたよ!」


 ローズの事情は館で一緒に暮らすことになったその日、聞いている。

 奴隷だったところを助けてもらった人がいて、その人たちと皇国へと向かっていたが、その道中で見知らぬ女性に襲われて、気が付いたら船の中。そしてローズは助けてくれた人たちに会いに行くため、皇国へ行こうとしていたという。しかし、リゼットにお願いされて皇国行きを取りやめ、館に住まうことになった。


 最近のローズが執心している竜人のこととは何の関わりもない事情のように思える。だが、サラの勘は否と告げていた。

 何かおかしい。


「…………」


 サラは口を閉ざして一人思考を重ねていく。

 その一方、リゼットは一通り部屋を眺め回した後、ベッドに飛び込んでいった。アシュリンもその後ろに続くが、ベッドの高さはアシュリンの背丈より高く、上るのに苦労している。かと思いきや、前足の爪がシーツに引っかかり、音を立ててシーツが破れた。

 ビリっという異音にサラの意識は否応なく音源へ向けられ、しかし当のアシュリンは気にした風もなく、なんとかよじ上るとリゼットの隣に寝転ぶ。


「ちょっとこらアシュリンっ、リーゼもなに暢気にくつろいでるのよ! シーツやぶけちゃったじゃないっ!」

「ふぇ? シーツ? …………あちゃー」

「あちゃー、じゃないわよっ」


 問題を軽視するリゼットは隣のアシュリンに「めっ」とだけ注意して、またすぐに横たわった。

 確かにそこまで大きく裂けているわけではないが、一人部屋になった初日に自分のベッドのシーツを破られたのだ。サラとしてはそれだけでは気が収まらない。


「アシュリンッ」


 サラはアシュリンの前足の付け根に手を入れて抱え上げ、自分の顔の前に持ってくると、真正面から見つめた。

 

「もうわたしのベッドには乗らないことっ、いいわね!」


 強い語調で言いつけるが、一丁前にもオスであり魔物でもあるアシュリンはその本能故か、「ピュェェェッ!」と叫びながら全身を激しく暴れさせて抗議した。

 貴様の命令になど従わん!

 とでも言いたげな傲然とした振る舞いだ。

 その生意気かつ我が侭そうな様子は今より更に幼き日のリゼットを彷彿とさせ、より一層サラの神経を逆撫でた。


「……アシュリン、あんた珍味なお肉になりたいわけ?」


 サラの一転して静かな物言いに何を感じたのか、アシュリンはぴたりと大人しくなった。リゼットがベッドから飛び降りて「サラねえやめてぇっ、ちゃんとちょーきょーするからぁ!」と必死に弁護してくるが、無視する。

 こういう子にはきちんと言いつける必要がある。


「ピュェッ、ピュェェェピュェェッ!」


 しかしアシュリンはリゼットの介入を好機と見たか、彼女に顔を向けながら再び手足や翼をばたつかせる。

 まるで助けてくれと言わんばかりだ。


「サラねえっ、アシュリンが――」

「リーゼは黙ってなさい」


 いつになく淡々とした口調の言葉を前に、リゼットはアシュリンとサラの顔を幾度か見比べた後、大人しく口を閉じた。

 アシュリンはそんな親の様子を見て手足や翼の動きを止めて顔を正面に戻し、サラの不機嫌な双眸と見つめ合う。


「ねえ、アシュリン。分からないとは思うけど、一応言っておくわよ」

「……………………」

「いい? わたしはあんたの親のお姉ちゃんなの。そのわたしのベッドにあんたは勝手に上がり込んだ挙句にシーツを破った」


 アシュリンは嘴を開くも、何の鳴き声を発することなく閉じ、また開けて、閉じた。それからはピクリとも動かず、まるで蛇に睨まれた蛙のように大人しくなる。


「今度やったら、珍味なお肉にするから」


 サラは魔物なペットを鋭く睨んだまま、殊更ゆっくりとした口調で告げて、アシュリンを床に下ろした。まだ赤子とはいえそれなりに重いので、持ち上げ続けておくのも疲れるのだ。

 だがアシュリンはサラのそんな思いなど露知らず、その場で全身を震わせており、やがて床に敷かれた絨毯を濡らし始めた。


「あぁっ、アシュリンおもらししちゃった!?」

「……………………はぁ」


 サラはもはや怒りを通り越して呆れ果ててしまった。

 アシュリンは放尿を終えても尚、小刻みに震え続けており、リゼットはそんなペットを抱き上げて、小さな背中を優しく撫でる。

 アシュリンも母に縋る子のように、リゼットの胸元にすがりついていた。


 サラは再び大きく溜息を吐いて、ひとまずベッドに歩み寄り、シーツの状態を確認してみた。こちらは繕えば大丈夫そうだが、絨毯は洗って干す必要がある。

 初っぱなからやらかしてくれたものだ。さすがはリゼットのペットだといえる。


「サラねえ、おこってる……?」

「少しね、でももういいわよ」

「うん、ごめんねサラねえ……アシュリンがでていきたそうにしてるから、もういくね。じゅーたんはクレアといっしょにあらうから……ゆるしてくれる?」

「ええ、許してあげるから……なるべく早く洗って」


 リゼットはふさふさの尻尾と三角な両耳を力なく垂らして、アシュリンを抱えたまま、とぼとぼと部屋を出て行った。

 再び一人になったサラはもう一度だけ溜息を吐く。


「……縫わなきゃ」


 ベッドからシーツをとり、机に座って引き出しを開け、先ほど入れたばかりの裁縫道具を取り出す。マリリンから少し教えてもらったことがあるので、サラも簡単な縫い物くらいならばできるのだ。


「あら……まさかお漏らししちゃうなんて、トイレもきちんと躾けないとダメみたいね。サラ、絨毯は洗っておくけど、シーツは一人で大丈夫? 新しいの出してもいいのよ?」


 リゼットと共にクレアがやって来て、二人で絨毯を回収していく最中に問われるが、サラはシーツを繕いながら「大丈夫よ」と答えた。

 その後、クレアとリゼットが去って間もなく、修繕は完了した。

 見た目が良いとは言い難いが、悪くもない。サラはシーツを敷き直して「よし」と頷くと、裁縫道具を机の引き出しに仕舞った。

 

「ん?」


 何か違和感を覚えて、サラは引き出しを閉める直前で手を止めた。

 今サラが使用している机は元からこの部屋に置かれていたもので、昨日まで使っていた机と同じ種類だ。だから引き出しも同じ位置に同じ寸法で作られている。

 だが、サラは引き出し内部の高さが少し低いことに気が付いた。それに良く見ると、内側の壁に小さな擦り傷が幾つか付いている。


 しばしサラはじっと引き出しの内部を見つめた後、おもむろに引き出しそのものを引き抜いた。そして中のものを机上に出し、引き出しを立ててよく観察してみる。

 すると案の定というべきか、異常があった。引き出しの底板裏に見られた小さな穴に指を突っ込んでみると、底板が浮かび上がる。


「なによこれ……?」


 二枚の底板の間には本が挟まっていた。

 そんなに分厚くはなく、指の第一関節程度の厚みもない。

 そして表紙には見慣れた――懐かしい筆跡で文字が書かれていた。


「『これは私の日記です。恥ずかしいので、読まないでくれると嬉しいです』」

 

 サラは思わず声に出して呟いた。

 

「チェルシーの日記……? なんでこんな変なところに……」


 と思いかけたが、表紙に書いてあるとおり、恥ずかしいから隠していたのだろう。仮に、サラも日記を付けていて、それをリゼットやローズに読まれると思うと……考えただけでも恥ずかしい。


「んー……」


 表紙を見つめたまま固まって、逡巡する。

 読むべきか、読まざるべきか。


「……ごめん、チェルシー」


 しばらく悩んだ末、ゆっくりと表紙を開いてみた。

 そして文面に目を通して見る。


「えーと……最初の日付は八八八年、翠風期第五節五日……ってことは、十一歳の誕生日からね」


 ひとまずは詳しく文面を追わず、ぱらぱらと頁をめくっていく。

 日付の間隔はばらばらで、数日空いたり、数節空いたりしている一方、連続して書いている日もある。日記は最終頁までは埋まっておらず、四分の一程度の余りがあった。そして最後に書かれた日付は……


「八九二年……紅火期第三節……五日」


 チェルシーはもう帰ってこない。

 セイディからそう告げられた日の前日だった。


 サラの心臓が普段よりも早く大きく脈打ち始めた。

 あの頃の悲しみは今でも忘れていない。

 遅まきながら、サラの脳裏にチェルシーとの思い出が溢れてきた。


「…………ん?」


 サラは最初からゆっくり読み進めていこうと思い、頁を戻しかけた。

 しかし、最終日の文面に「サラの誕生日」という一文を見掛けて、つい手を止めてしまう。


 そして、彼女はその頁に書かれた日記を読んでしまい、真実を知ってしまった。




 ■   ■   ■




「サラ、晩ご飯できたわよ?」


 クレアが元チェルシーの――今日からサラの部屋となった扉をノックしながら呼び掛ける。

 だが、扉の向こう側からは沈黙しか返ってこない。


「何やってんのよ、サラ。お昼も食べなくて、もうお腹ぺこぺこでしょ? 今日はサラの好きなデザートもあるけど、来ないとリーゼとアシュリンが食べちゃうわよ」


 クレアの隣からセイディが声を掛けるも、やはり反応はない。

 若い二人は互いに不安げな顔を見合わせると、どちらも振り返った。


「どうしましょうか、マリリン様。ずっとこの調子ですけど……」

「まさか一人部屋を与えた初日から引きこもるとか……まったく、なに考えてんだかあの子は」


 部屋の中にまで届かないように、小さな声でクレアとセイディは言う。

 そんな二人の様子に反して、マリリンとアルセリアは冷静な面持ちで答えた。


「さすがにそろそろ、なんとかして出てきてもらいたいところじゃな。原因が何か分かれば、手っ取り早いんじゃが……」

「だが、考えても分からなかったし、誰にも心当たりはないのだろう? サラはもう九歳だ、色々と難しい年頃でもある。おれたちの何気ない言動が、あの子の何かに触れてしまったのかもしれない」


 そんな年長者二人組の後ろにいる童女二人組のうちの一方が、今にも泣き出しそうな顔で口を開いた。


「やっぱり、あたしのせい……アシュリンがシーツやぶいちゃって、おもらししちゃったから、サラねえおこってるんだ。あたしがアシュリンをちゃんとちょーきょーできてなかったから……」


 リゼットにぎゅっと抱きしめられた腕の中で、アシュリンが悲しげに「ピュェ……」と声を上げる。だが、その隣に立つローズは不安げな様子を見せながらも、リゼットの肩に手を置き、しっかりした口ぶりで言った。


「リーゼのせいじゃないですよ。そのシーツや絨毯のことだって、サラは許してくれたんでしょう?」

「でも、やっぱりおこったのかも……」

「サラは一度許して、また怒るようなことはしませんよ」


 耳も尻尾も眉尻も力なく垂れ下げるリゼットの頭を、アルセリアは優しく撫でた。

 

「ローズの言うとおりだ。それに扉越しとはいえ、リーゼは昼頃もう一度謝っただろう? きちんと謝って、許してくれないサラではない」

「ぅん……」


 リゼットは頷くが、やはり自分のせいだと思っているのか、普段見せる溌剌さは戻らない。


 既に半日ほど、サラは自室に引きこもっていた。

 剣術修行のため、セイディが呼びに来たときには既に反応がなく、ドアにも鍵が掛かっていた。一度、昼過ぎ頃にトイレから出てきたサラをローズが偶然目撃したが、あっという間に走り去られている。

 

「あのときのサラの目元、少し赤くなっていました。きっと何か悲しいことがあったんです」

「じゃが、それが何かは分からぬ、か……」


 六人はサラの部屋の前で顔を突き合わせ、それぞれ改めて考えるも、やはり理由は不明だ。かつてない状況に、誰もが対応に窮していた。


「やっぱり、あたしのせいだ……シーツやぶられて、おしっこじゅーたんにかけられて……おこって、かなしすぎて、ないてるんだ……」


 リゼットは目尻からぽろぽろと涙を溢れさせる。

 滴はアシュリンの顔に落ちて、その毛並みを濡らしていく。


「ぅぇ、ふぅぇぇぇ……サラねぇごめんなざいぃぃ、ごれがらぢゃんとじょーきょーずるがらぁ、ゆるじてぇ……ばんごはんのおにぐあげるからぁ、デザートもあげるがらぁ……でてぎてよぉ、いっじょにごはんだべよぉよぉぉぉぉぉ」


 遂に声を上げて泣き始めるリゼット。

 廊下に幼くも泣き濡れた声が響き渡る。

 クレアは膝を突くと、アシュリンを抱きしめるリゼットの背中に手を回し、あやし始める。だが、よほど自分が悪いと思い込んでいるのか、リゼットが落ち着く様子は欠片もなく、泣きながら「ザラねえごべんなざぃぃぃぃ」と謝っている。

 そんな幼子の様子をローズ、セイディ、マリリン、アルセリアは悲しげな顔で見守りつつも、彼女らは内心で一様に期待してもいた。

 そしてその期待は扉の向こうから聞こえてきた声によって果たされる。


「……リーゼのせいじゃ、ないわよ」


 ややくぐもった小さな声ながらも、確かにサラの声がリゼットの泣き声に混じって全員の耳に届いた。リゼット以外の五人は素早く目配せすると、一瞬かつ無言の話し合いの末、リゼットに視線が集まった。

 当の本人は全員から密かに注目されていることなど気付いた様子もなく、泣き声を小さくして、嗚咽混じりの涙声を発する。


「おごって、なび……?」

「……そう言ったでしょ」

「じゃあ、どーじででてきてぐれないの……?」

「…………」


 リゼットの問いに返ってきたのは沈黙だけだった。

 彼女は何度か鼻をすすった後、不安を隠そうともしない様子で呼び掛ける。


「サラねえ……はなしてくれきゃ、わかんないよ」

「…………」

「ねえ、サラねえ……?」


 クレアの腕から抜け出て、リゼットは扉の前に立つ。

 しばらく誰も何も口にせず、アシュリンが「……ピュェ」とか細い鳴き声を発してからは、痛いほどの沈黙が漂う。

 マリリンとアルセリアが顔を見合わせ、何事かを言おうとしたとき、ようやく扉の向こう側から声が響いてきた。


「わたし、の……」


 その声は今にも掻き消えてしまいそうなほど小さく、そして痛々しいまでの自責に濡れていた。


「わたしの、せいで……チェルシー、死んじゃったんでしょ……?」


 その言葉に、マリリン、アルセリア、クレア、セイディの四人は僅かに顔を強張らせた。リゼットは不思議そうに小首を傾げ、ローズは困惑の面持ちで他の五人を見回している。


「わたしの、誕生日の贈り物……クロクスに買いに行ったから……だからチェルシー、殺されちゃったんでしょっ!?」

「サラ、どうしてそんな――」

「なんでみんなずっと黙ってたのっ、みんな知ってたんでしょ!? リーゼだってあの日クロクスに行ったから知ってたはずよっ、なのになんで……っ、チェルシー、わたしのせいで、死んじゃった……なのに、わたしローズに酷いこと言って……ほんとは全部わたしのせいだったのに、わたしが……っ!」


 クレアの声を遮って、大声で詰問するように叫んだかと思いきや、次第に声が萎んでいく。聞いている方も辛くなるような、深く沈んだ声だった。


「サラ、なぜそう思うのじゃ?」

「……チェルシーの日記に、書いてあった……明日はサラの誕生日に贈る、櫛を買いに行くんだって……神那島の綺麗な櫛で、だからわざわざ取り寄せてもらって、それをクロクスに受け取りに行くんだって書いてあった! でもっ、わたしたちに協力してくれてた商人に裏切られたから、襲われたんでしょっ!? わざわざわたしのためにクロクスに行かなきゃ、チェルシーは死ななかったしセイディも怪我しなかったんでしょ!?」

「……………………」


 マリリンは目を伏せて、扉の向こうに聞こえないよう、そっと深く息を吐き出した。アルセリアも、クレアも、セイディも、各々似たような顔をして、どう反応すべきなのか分からないとでも言うように、気まずそうに押し黙る。

 

「サラのせいではない。《黄昏の調べ》の連中に襲われたからじゃ」

「でもクロクスに行かなきゃ襲われなかったっ!」

「そうかもしれぬ。じゃが、実際に襲ってチェルシーを殺したのは、《黄昏の調べ》の連中じゃ。そしてサラに櫛を贈ろうと決めたのは、チェルシーを含めたみんなじゃ。サラのせいだというのなら、あたしらも、チェルシー自身も悪いことになる」

「違うっ、みんなはわたしのためにしてくれたのに! だからわたしが……わたしのせいで、チェルシーがっ!」


 嗚咽が混じっていた。

 まるで血を吐き出しながらも尚、自ら傷口を抉り続けるような哀叫だった。


「違います」


 ローズが間髪入れずに断言した。

 力強く、はっきりとした声で、サラの発言が間違っていると指摘する。これまでローズが口にしてきたどんな言葉より、それは明確な響きを持っていた。


「サラのせいじゃありません」


 ローズはドアの前に進み出て、リーゼの隣に立つ。

 そして扉の向こうにいるサラを見つめるように、真っ直ぐな視線で告げた。


「お婆様の言うとおりです。悪いのは《黄昏の調べ》で、サラには何の責任もありません」

「でもっ、わたしのために――」

「そうです、サラのために、サラのことを想って、皆さんはその日クロクスへ行ったんです。そしてその想いを、奴らが踏みにじったんです」


 ローズは決して怒らない。

 それは館で生活を共にしてきた全員がよく分かっていることだ。

 たとえサラにどれだけ酷いことを言われようと、リゼットのせいでどんな酷い目に遭おうと、一度も怒ったことがなかった。

 だが今のローズの静かな声には怒りか、敵意か、あるいはそうと錯覚するほどの強い感情が滲んでいた。


「もしサラのせいだと責める馬鹿がいたら、私はそいつを問答無用でブン殴ってやりますっ。私だけでなく、リーゼも、お婆様も、アルセリアさんもクレアもセイディも、ユーハさんとヘルミーネさんとウェインだって、みんなでその馬鹿を全力でブン殴ってやりますっ!」

「――――」


 扉の向こうのサラも、マリリンたちも、声など出せなかった。

 ローズは勢い良くそう断言した後、しかし今度は一転して柔らかな声音で、ゆっくりと語りかける。


「例えその馬鹿がサラ自身であろうと、私はブン殴ってやりますよ。サラが見当違いの間違ったことを信じ込んで、苦しんでいるなら、その思い違いを正すために何だってしてやります。だからサラ、早く出てきてください。みんなでその馬鹿な勘違いを正してあげます」

「……………………よ、余計、出られないわよ……ばか」

「馬鹿はサラですよ」


 嗚咽混じりの声に、ローズは優しく声を返した。

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 ドアの向こう側から鼻をすする音だけが、微かに響いてくる。


 先ほどの沈黙と違い、今度のそれは和やかな静寂だった。

 マリリンとアルセリアは口元に微笑みを湛え、クレアは穏やかな眼差しで扉を見つめ、セイディも笑って待っていた。リゼットはアシュリンを抱いたままローズに肩を寄せて、少し不安そうに見つめている。だがローズが「え、な、殴りませんよ……?」と囁くと、リゼットは嬉しそうに笑みを浮かべた。


「…………」


 ゆっくりと、少しずつドアが開いていき、如何にも気まずそうにサラが顔を見せた。目元は赤く腫れ、金髪はあちこちが乱れ、唇はキュッと閉じられている。どんな顔をすればいいのか分からないようで、表情は硬い。


「サラ」


 ローズが名を呼ぶと、サラは俯けていた顔を少しだけ上げて、視線を泳がせる。


「まだ自分のせいだと思ってますか?」

「それ、は……」

「みんなの顔を見てください、誰もサラのせいだなんて思ってません」


 サラは恐る恐る、廊下に立つ家族の顔を順番に見回していった。いずれからも優しさしか窺えず、そもそも誰からも負の感情すら感じられなかった。


「私は知りませんでしたけど……どうしてみんなが今まで黙っていたのか、サラなら分かりますよね? サラより三つ年下の私でも分かります」

「……ぅん、みんな……わたしのこと、心配して……想ってくれてて……だから……っ、ぅう、ごめんなさぃ……ありがとう……」


 サラは瞳から涙を溢れさせ、可愛らしい相貌を歪めて、泣いた。両手で目元を拭っても、次から次へと滴は溢れ出て止まらない。

 ローズが抱きしめると、サラはみんなが見守る中、しばらく涙を流し続けた。


 その日、サラは昨夜と同じく、ローズとリゼットと共に眠りに就いた。


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