間話 『老若茶会』
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連休五日目。
その日、アルセリアの部屋のバルコニーで、館の年長者二人は優雅にお茶会と洒落込んでいた。
「ふむ、今日も良い天気じゃ」
「そうだな」
小さなテーブルを間に挟み、向かい合って座る二人はどちらも穏やかに微笑む。
テーブル上にはマリリン愛用の茶器とお菓子が幾つか並んでいる。柔らかな陽の光が疎らに漂う群雲越しに降り注ぎ、風で森の木々がに小さくそよいでいる。
「リゼットたちがいないと、館が静かじゃな。どうにも慣れぬ」
「確かにな。ローズは全然騒がないし、手も掛からない。だからこそ、こうしてゆっくりできているわけだが」
今日は朝方から、リゼット、サラ、クレア、セイディの四人はディーカの町へ行き、魔物狩りへ行っている。無論のことユーハも同行し、今日はヘルミーネとも行動を共にするらしかった。
「ローズも遠慮することないのにの……あの子はリゼットとサラに気を遣いすぎておる」
マリリンの言うとおり、今日の狩りをローズは遠慮した。
まだ子供たちを三人揃って行かせることは危険が大きく、それはせめてリゼットとローズが七歳になるまでは控えようと、マリリンたちは決めていた。だから本当は今日もローズとリゼットの二人が行く予定だったのだが、サラの不満そうな様子を見て何を思ったのか、ローズは身を引いていた。自分は絵を描きながらアシュリンの世話をしていると言い、代わりにサラを行かせたのだ。
「それは同感だが、強ち遠慮だけが理由ではないのかもしれないぞ。この前与えた小遣いで、ローズは画材を買っただろう? アレから夢中で絵を描いているし、本当に絵を描きたかったのかもしれない」
「まあ、そうかもしれぬな。ああも真剣に取り組んでおるようだったしの」
マリリンは頷き、ティーカップに口を付けた。
五日前に魔物狩りを経験させたことで、仕事をすれば金が手に入るということを教えるため、リゼットとローズには小遣いを渡していた。ローズは早速その金で画材を買い、この連休の間はしばしば筆を握っている。
「しかし……ローズか。あの子はどうするつもりなのじゃろうな」
「二年後のことか。いや、もうあと一年半か。ローズもあれで頑固なところがあるし、あの様子だと、本当に出て行くつもりなのだろうな。おれに竜人のことや竜人語の教えを請うてくるのも、レオナという子を忘れないようにするためなのは明らかだ」
「うむ、当初はこの館に留まるつもりもなかったようだしの。頑としてあたしの誘いを断っておったが、リゼットに泣き付かれて折れた故、そもそも本意ではなかったはずじゃ」
ゆったりと大きく鼻から息を吐き出し、マリリンはバルコニーの欄干に留まっている小鳥を複雑な目で眺めた。
「行かせるのか?」
「無理には引き留められんじゃろう。アリアもローズから話されたとき、止めんかったじゃろう?」
「まあな」
短く答え、アルセリアは菓子をつまんだ。
小鳥の視線が菓子を追っていたので、椅子から腰を上げて菓子を近づけてみる。
だが小鳥はそれをついばむことなく、飛び去ってしまった。
「リゼットとサラの引き留め次第では考え直すかもしれないが……おそらくは無理だろうな。いや、おれも一応手は打っておいたが、どうなるか」
「……うむ」
マリリンはティーカップから手を離すと、テーブルの上で手を組んだ。
無論、肘を乗せるような作法を違えた真似はしない。
「心配か? だが、どういう結果になろうと、ユーハは共に行くはずだ。たとえローズから嫌われようとも、彼は無理矢理にでもついていくだろう。あれはそういう男だ。それに《七剣刃》の一本を所持していることからしても、あの腕前は信頼できる」
「まあ、落ち込んでおるせいか、十分に実力が出し切れてはおらぬようじゃがの」
「だが、それも最近は改善してきている。彼ならたとえ聖天騎士……は言い過ぎだろうが、従天騎士以下の相手ならばローズを守りきれるだろう」
アルセリアの言葉にマリリンは「そうだの」と頷くが、その顔には憂色が濃い。
「そもそも、あの子の才は常軌を逸しておる……理解力と応用力の高さ、魔動感、そして適性属性と底知れぬ魔力量。身体能力は人並みのようじゃが……それでも総じて、十二分に常識外じゃ。襲われる襲われない以前に、ありすぎる才は時として不幸ばかりを呼び込む」
それはマリリンの経験に基づく懸念だった。
若くして聖天十三騎士の一角を担うほどの才気を発揮し、活躍し続けた結果、息子夫婦が拉致され、殺された。それが最も大きな不幸だが、それ以外にも数多く、才能や立場故の不幸には見舞われてきている。
アルセリアは椅子に座り直した。ゆっくりと紅茶を飲みながらマリリンを見つめた後、僅かに双眸を細めて口を開く。
「本当の適性属性を教えないのも、心配だからか?」
「そうじゃ。そもそも教えたところで、どうにもならぬしの」
マリリンは溜息混じりに言い、目を伏せて首を横に振った。
「ローズは自分が無属性だと思い込んでいる。教えてやった方が良くないか?」
「あたしでも、空属性のことはその存在しか知らぬし、詠唱はもちろん、どんな魔法なのかも実際には知らぬ。どだい遙か昔に失われた魔法じゃ。どれだけ調べようと、鬼人共の記憶にしか詠唱や詳細は残っておるまい。三日月島の魔人共の記録には残っておるかもしれぬが……あやつらは引きこもっておるし、フィロメラの奴も詳細は知らんと言っておった。故にその存在だけを教えたところで、どうにもならんじゃろう」
そう口にするマリリンの表情はやはり憂慮で色濃く彩られている。
アルセリアは腕を組み、対面の友に言い放つ。
「だが、教国は空属性適性者を探しているぞ。だからこそ、その存在を聖天騎士と従天騎士にだけ教えている。いずれ見つかり、教国に"保護"される恐れがあるのに、それでも教えないのか」
「だからこそじゃ、無闇に心配させたくはない。探しておるといっても、そう熱心にではないしの。子供たちには無闇矢鱈と魔剣や魔石は人目に晒すものではないと教えておる」
「まあ、そうだな。そもそもあの色の違いはまず分からない。最高級の蓄魔石でようやくはっきりと判別できるくらいか」
「うむ、変に噂になることもなかろうし、だからこそあたしらも騎士団にいた頃は一人も見つけられんかった。少しくらいくすんでおっても、端から見れば魔石の質のせいだと思われるだけじゃろうて」
マリリンは一息吐くと、若い頃とは比べものにならないほど増えた皺を苦笑で深くした。
「そもそも……この話は以前にもしたじゃろう?」
「お前の考えが変わったかもしれないと思ってな」
「変わらぬよ……あぁ、変わらぬ。ときには無知が平穏をもたらすものじゃ。ローズには心安くおって欲しい」
その意見にはアルセリアも同感だが、しかし当人はそう思わないだろう。
他の誰でもない、自分のことなのだ。可能ならば真実が知りたいだろうし、アルセリアが当人だったならそう思う。
しかし、ローズは知らないことすら、知らない。
「そういえば」
マリリンは気を取り直すように紅茶を一口飲むと、思い出したように口火を切った。
「空属性で思い出したのじゃが、十三位の若者が解任されたという話、やはり引っかかるの」
「なんだ、まだ気にしていたのか?」
「四十年も身を置いておった古巣の様子じゃ、僻地で隠居していようと気にはなる。《無幻煌》のルフィノだったかの、叙任して二年もせぬうちに解任されるとは異例じゃが……それはまだ良い。問題は新たにその空位についた者のことじゃ」
「《虚空の銀閃》……だったか。異称しか明かされていなかったな」
やけに重く頷いて、マリリンはまたしてもティーカップを持ち上げる。
が、中身が空になっていたことに気が付き、代わりに菓子を口にして嚥下し、話を再開した。
「異称は各聖天騎士の特徴を冠して付けられる。今回もその例に漏れぬなら、こやつおそらく空属性適性者じゃ。上の鬼人共も思い切ったことをしたものじゃが……その意図が分からぬ」
「だが、聖天騎士と従天騎士にしか、その異称の意味は分からないだろう」
「仮にも聖天騎士の一人として位を与えたということは、何かあるはずじゃ。それに上の連中が空属性適性者を今更表に出すとは思えぬ。これまで散々世に秘しておったのにじゃ」
アルセリアはやや冷めた紅茶を飲み干すと、眉をひそめるマリリンに諫めるような声で告げた。
「確かに気にならないと言えば嘘になるが……おれたちが考えても仕方のないことだろう。既に騎士団を去った身だ、考えるだけ徒労だぞ」
「分かっておる、じゃが気になるのものは致し方なかろう」
かつて聖天騎士団の頂点に君臨し、騎士団運営に携わった者として、それはある意味当然の反応だろう。
しかし、六十年の長きに渡って共に歩んできたアルセリアから見れば、マリリンの内心は透けているも同然だ。
「マリーが気にしているのは教国の思惑より、空属性魔法の真実だろう?」
「……そちらも気にしてはおる」
「はは、嘘を吐くな、大部分がそちらだろう。《全天騎》の名を譲った今でも、やはりお前は根っからの魔法士だよ」
普段クレアたちには見せない、やや憮然とした様子を覗かせて答えたマリリンに、アルセリアは静かに笑った。
マリリンは組んでいた手を解くと、大きく息を吐きながら椅子の背もたれに身体を預ける。
「ふぅ……そういうアリアは気にならんのか? かつての魔法文明、その末期にして全盛期に活躍した、あの《閃空姫》も使っておったという禁忌魔法の一つじゃぞ? ローズにも関わりのあることじゃ、気にならんはずがない」
「まあな、知れるものなら知りたいさ。だが、マリーと同じくおおよその見当は付いているし、おれはお前ほど魔法自体に興味はない。今はただ、皆と共に静かに暮らせていければ、それだけで満足だ」
「アリア、竜人のお主はあと百年前後は生きるじゃろう。にもかかわらず、まだ九十代でそのように枯れておってどうする」
溜息を吐きながら、マリリンは割と本気で心配するような眼差しを対面の友へと向ける。
当のアルセリアは如何にも呆れたような視線を相手に送り返してみせた。
「そういうマリーは盛りすぎだ。来る日も来る日も読書ばかりして、それ以上知識を増やしてどうするというんだ」
「仕方なかろう、未知を既知に変える瞬間は幾つになっても胸が躍る。それに、もはや読書をしておらぬと落ち着かぬのでな。書庫に溜め込んである分くらいは読破せんと、死んでも死にきれぬわ」
アルセリアは意気揚々と答えたマリリンをじっと見つめる。
チェルシーが亡くなったあたりから、マリリンは少し衰えた。未だに八十代とは思えぬ身体付きと立ち居振る舞いは健在だし、食事もしっかりと摂っている。
だが、間違いなく意気は落ちた。当時は泰然として見せていたが、チェルシーが亡くなったことで精神的に相当参ったのか、それ以前までに感じていた確かな生気は薄れ、それは今も徐々にだが希薄になってきている。
ローズがいなくなると、更に老け込むかもしれない。
「マリー、本を読破するだけでないだろう?」
「……む」
すぐに言わんとするところを察したのか、マリリンはいつになく気まずそうな顔で視線を落とした。
「もう一度キャルに会わねば、お前は未練たらたらで死ねないはずだ」
「そうしたいところじゃが……あの子は完膚無きまでにあたしを嫌っておる。いや、もはや嫌ってすらおらぬか。いずれにせよ、今更和解しようにも手遅れじゃ」
「かもしれないな。だが、もう一度くらい顔は見たいだろう。もう十年は会っていない」
「……うむ、そうだの」
そう頷くマリリンの面持ちは複雑だ。
かつて、孫娘の手により魔大陸という僻地に押し込まれ、マリリンはそれを甘んじて受け入れたのだ。そうするほど孫娘が自身を嫌っていると認識しており、それは第三者であるアルセリアの目から見ても真実だと判断できる。
「本部にお前が重病だとでも伝えてみるか? あるいはキャルもすっ飛んでくるかもしないぞ」
「アリアよ……本気でそう思っておるのか?」
「…………すまない、今のはいい加減すぎたな」
アルセリアが謝罪してからは、しばらく二人は無言になった。
森の方から聞こえる小鳥のさえずりが、落ち込んだ場を和ませようとでもしているかのようだ。
どれほどの時間、沈黙をそのままにしていたのか。
マリリンはおもむろに口を開き、手を叩いた。
「やめじゃ、辛気くさい。今はもっと明るく楽しい話をするぞ。どうにもアリアが相手だと何でもかんでも話せるせいか、クレアたちとでは話題にも上がらん暗く真面目な話ばかりになっていかん」
「そうだな、やはり若さが足りないせいか」
アルセリアはわざと重々しく頷きながら、やけに真剣な声を作ってそう応じる。
「アリアは竜人としてはまだ十分に若かろう」
「年齢だけでいえば、お前の方が若いだろう」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑みを溢した。
それからマリリンが齢を感じさせない挙動で立ち上がり、茶器を持つ。
だが、やはり数年前と比べれば、些か以上に精彩を欠いた動きだ。
「茶を入れてくる」
「いや、おれがいこう」
腰を浮かしかけるアルセリアだが、マリリンの皺だらけの片手に肩を押さえられた。
「いいや、あたしが行く。自分より年上の老人に、無理はさせられぬのでな」
「……では、ここは若者に任せようか」
「うむ、任されよ。戻ってきたら、オルガのことでも話そうかの」
冗談めかしたやり取りをして、マリリンはバルコニーから部屋に戻り、扉を開けて厨房へと向かっていく。
その背中を見送ってから、アルセリアは椅子の背もたれに大きくもたれかかった。そして青空を見上げつつ、呆れと喜びが綯い交ぜになった笑みを溢した。
「あれはまだまだ長生きしそうだな……」
その後、戻ってきたマリリンと再びのお茶を楽しみながら、二人は他愛もない話に花を咲かせていった。