第五十一話 『魔幼女は見た!』★
百合展開注意。
印象的なサラ九歳の誕生日から一転して、翌日は特に代わり映えしない一日となった。朝方こそウルリーカがいたが、彼女はしっかりと朝飯を食べた後、館を去って行った。
セイディもクレアも昨日の一件などなかったかのようにいつも通りだったし、婆さんとアルセリアとリーゼもそうだ。唯一、サラだけはどこか釈然としない顔をしていたが。
とりあえず、俺も昨日のことはもう気にせず、自己強化に励んでいった。
剣術、魔法、座学、絵、竜人語など、自分のすべきことを着々とこなし、未来のためにできることをした。ここ最近の例に漏れず、一日はあっという間に終わってしまい、俺はいつも通りリーゼとサラと一緒にベッドに入った。
リーゼは驚くほど寝付きが良く、ベッドに入って明かりを消すと、十秒もしないうちに夢の世界へ旅立っていく。
俺はその日の気分による。疲れていてリーゼ並に早く寝付ける日、何か考え事があってなかなか寝付けない日。そして今日はサラと話をして寝付けない日だった。
「ねえ、ローズ」
薄闇の中、すぐ側でサラの声が小さく響く。
俺は微かな眠気を感じつつも、早々に暗順応した瞳を左隣に向けた。
今日は紅月が満月だ。幼女部屋の窓にカーテンは付いているが、いつも開けている。ガラス越しに月と星の明かりが差し込み、サラの顔を幻想的に照らしていた。とはいえ、サラは褐色肌だから闇に溶け込みぎみで、そこまではっきりとは見えないんだが。
「なんですか、サラ」
「やっぱり、なんかおかしいわよ。ローズだってそう思うでしょ?」
主語が抜けてはいたが、サラの言いたいことは分かった。
「クレアのことですよね?」
「ええ、クレアが冗談とか物の弾みで、付き合ってるとか言うなんて……どう考えてもおかしいわ。クレア、今までそういう冗談は言ったことないのに」
サラは如何にも不可解そうに眉根を寄せている。
「それはそうですけど……」
と同意を示しつつも、もうその件は割とどうでも良かった。そもそもクレアが付き合ってる云々の話を俺が聞いたのだって、一期以上は前のことだ。昨日になってあのときの話は冗談だったと言われて、俺も確かにクレアらしくないとは思った。
だが、今になってあのときの会話の流れを思い返してみると、クレアはただ見栄を張りたかったのかもしれないとも思えるのだ。無論、あの黒髪美女が幼女相手に見栄を張るとも思えないが、クレアだってもう二十四歳だ。実は俺たちが知らないだけで、そろそろ結婚しないとヤバいと焦っている可能性もある。
「それに、なんかセイディも変よ。二人を見てると何か隠し事してるように見えるのよね」
「……勘ぐり過ぎなんじゃないですか?」
「いえ、なんか思い出してみると、昔からそうだった気がする。昔はわたしもまだ小さかったから、ただ今まで気がつけなかっただけで」
子供の戯言だと、そう一蹴するのは簡単だ。
しかし、相手がリーゼなら未だしも、サラがここまで言うのは珍しい。
「まあでも、気にしても仕方ないですよ。明日、クレアとセイディに直接聞いてみたらどうですか?」
「それはもう今日訊いたわ。何もないって言われたけど。でもアレはやっぱり何か隠してるように見えたわ」
サラは両目を細め、口を閉ざして思案げに沈黙した。
どこぞの名探偵のような雰囲気が感じられる。自分でもよく分からない違和感の正体を突き止めようと、必死に考えているのだろう。
「とりあえず今日は寝ましょう、サラ。夜更かしは良くないですよ」
「……そうね」
釈然としない素振りを残したまま、サラは目蓋を下ろした。
翼人であるサラはいつも俺のほうを向いて眠る。仰向けになると背中の翼が左右に広がるため、誰かと寝ることができないのだ。二人に挟まれて眠る俺は、右を見ればリーゼの寝顔、左を見ればサラの寝顔が見られる。
幸せだ。
改めて考えてみると、誰かと一緒のベッドで寝ることができるというのは、もの凄く幸福なことだ。前世ではずっと孤独を友に引きこもっていたから、尚更そう感じる。皇国への道中ではラヴィとエリアーヌに挟まれて寝ていたが、アレも今思えば得難すぎる体験だった。
そういえば、ラヴィは今どうしているのだろうか。
二年前、婆さんに手紙を出してくれと頼んだ後、手紙は届けたという報告と同時にラヴィが生きているということも知らせてもらった。エリアーヌとロックとオーバンのことは不明だが、ラヴィは生きているのだ。彼女はリリオで俺に、軍を辞めて学校の先生になると言っていた。
猫耳美人教師として頑張っているのだろうか……ううむ、気になる。
少し考え始めると色々連想してしまって、つい考え込んでしまう。
俺は昔から無駄にアレコレと考えては思い悩んでしまうところがあるので、一度考え始めたせいか、なかなか寝付けない。早く寝ないといけないのに……という焦燥感のせいで余計に眠れなくなる。
最近は特に思い悩むこともなく、割とすぐ眠れていたのだが、サラの考えすぎに影響されたのかもしれん。
どれほどの時間、考えたり、眠れずに悶々としたりしていたのか。
いい加減、俺は諦めた。
眠れないときは無理に眠ろうとするより、少し気分転換をした方がいい。
というわけで、一度ベッドを出ることにした。
抱きついてきているリーゼの手足を慎重に引き剥がし、静かに上体を起こしてベッドから降り立つ。
「ローズ……?」
が、そこでサラに呼び掛けられた。
声音には微睡みが混じっているので、俺のせいで起こしてしまったらしい。
「あ、すみません、サラ」
「なに……トイレ……?」
「いえ、少し眠れないので、夜風に当たってきます」
そう言い残してバルコニーへ向かった矢先、後ろで人の動く気配がする。振り返ってみると、サラがベッドを降りてこちらに歩み寄ってきていた。
「……わたしも一緒してあげる」
「そんな、いいですよ。眠たいのなら寝ててください」
サラは両腕を上げて軽く伸びをし、背中の翼を一度だけ羽ばたかせた。すると瞬く間に表情から眠気が消えてしまう。寝起きの悪いサラらしくない。
「べつに、ローズのためだけじゃないわよ。たまには二人だけでゆっくり話すのもいいかと思って。リーゼがいると、いつも騒がしくなっちゃうし」
「まあ……サラがそう言うのなら」
もしかしたら、レム睡眠のときに起こしてしまったのかもしれない。身体は眠っているのに、脳は覚醒しているっていう睡眠状態だ。
それか、よっぽど俺と二人きりでお喋りがしたいのか。
後者だともれなくローズが泣いて喜びます。
俺とサラは窓を開け、バルコニーに出た。現在は夏期だが夜はそれほど暑くないため、虫の侵入を防ぐために窓は閉めて寝ている。
ちなみに、俺とサラはズボンを穿いていない。この季節は風呂から上がると大きめのシャツとパンツだけを身に纏い、ワンピースっぽい服装で翌朝まで過すのが常だ。俺はこれまで頑としてスカートの類いは着てこなかったが、これは厳密にはワンピースではないのでノーカンだ。
だって、パンツにシャツってかなり過しやすいし、家の中だから問題はない。
「今日は雲がないから綺麗ね」
サラが夜空を見上げて呟いた。
星々と双月の光を遮るものは何一つなく、色とりどりの煌めきが全天を覆い尽くしている。月の位置からして、おそらくもう日付は変わっているだろう。
前世のプラネタリムなど比較にもならないほど雄大かつ壮麗な景色はなかなか見飽きることがない。館周辺に広がる森からは虫の鳴声がBGMのように止めどなく流れてきて、夏の夜を実感させる。
「あれ? セイディはまだ起きてるんでしょうか?」
「みたいね」
セイディの部屋の窓からは微かに明かりが漏れていた。
彼女の部屋と俺たちの部屋は玄関ホールを挟んだ向こう側にあるので、結構な距離がある。あの色と明るさからして、常夜灯の役割を果たす低質光魔石の光だろう。我が家の常夜灯は低質な赤光魔石を使用している。尚、光魔石と一口に言っても色合いは様々あり、白く光るのが一般的だが、赤や青、緑に光る光魔石なども存在するのだ。
「ところで、サラは私に何か話したいことでもあるんですか?」
「ん、まあ話したいっていうほど、大げさなことでもないんだけど……」
サラは星空を見上げながら答えると、視線を下げて俺に向けてきた。そして人差し指を立てた片手を空へと向ける。
「ひとまず、せっかくだから上にあがってみない?」
「上って……屋根の上ですか?」
「そうよ。ほんとは危ないからダメなんだけど、今はリーゼがいないからね。ローズなら落っこちるようなことはないだろうし、落ちても魔法でなんとかできるでしょ」
そう口にしつつ、サラは背中の翼を羽ばたかせる。返事を口にする前に、「それじゃあ行くわよ」と言って小悪魔は飛び上がっていった。
「ま、いいか」
俺は呟きながらも、軽く屈伸と伸脚をする。
それからバルコニーの隅に移動すると、壁に向かって走り出した。既に無詠唱化は済んでいるので詠唱はしない。俺は壁に接地した足に力を込めて、足音に注意しつつ壁面を駆け上がった。
そういえば、婆さんも魔動感持ってるんだから〈邪道之理〉を使えば屋根に上がったことがバレて後で怒られそうだけど……寝入って気付いてないことを祈ろう。
「落ちないように気を付けるのよ。まあローズなら大丈夫だと思うけど」
館の屋根は三角形だ。
傾斜は二十度ほどで、中庭方面と外側方面にそれぞれ均等に傾いている。サラはバランス良く頂辺部に立って俺の到来を見守っている。
俺は念のために魔法を維持しながら傾斜を上り、サラの隣に並び立った。
「んーっ……こうやって夜中にこっそり上がるのって、なんか楽しいわね」
背中を反らして両手を広げ、星々を眺めながら小さく笑う。そんなサラのセミロングなプラチナブロンドヘアーは星と月の光に照らされて、どことなく幻想的な煌めきを放っている。こうして見ると、ほんとサラは美幼女だな。
日焼けした北欧美人を幼くした感じで、将来有望すぎるわ。
「ねえ、ローズ」
「なんですか?」
サラは姿勢を正し、隣に立つ俺を真顔で見つめてきた。
「クレアとセイディもそうだけど、ローズも何か隠し事してるわよね」
「――っ」
いきなりの指摘で、俺は反応に窮してしまった。
「その顔、やっぱりそうなのね」
「……鎌かけたんですか」
「そんなつもりはなかったけど。微妙なところだったから、ちょっと確認しただけ」
それこそ鎌をかけたいうのだが、まあ今は置いておこう。
今はもっと気にするべき事がある。
「さあ、もう隠してることはバレちゃったわよ。どんなことか話してくれない?」
「そ、それは……」
迷いが俺の口を重くし、答えられずに沈黙してしまう。
俺の隠し事といえば、一つしかない。
あと二年で……いや、一年半くらいで館を去ることだ。正確には俺が転生者だという件もあるが、これは一生誰にも言うつもりはないので、数には含めない。
館を出て行くことは婆さんとアルセリアには話したが、あの二人以外にはまだ話していない。サラは俺の何を見て感じ取ったのか、隠し事をしていると気が付いていたらしい。クレアやセイディの様子がおかしい云々の件はともかく、鋭いと言わざるを得ない。これが女の勘ってやつか。
いや、あるいは単に俺が隠し切れていないだけで、もう美女二人も何か感付いているのかもしれないが……。
「…………」
今ここでサラに真実を告げることは簡単だ。
しかし今言ってしまえば、サラは残りの一年半を複雑な気持ちで過すことになるだろう。婆さんやアルセリアくらい年長者なら大丈夫だろうが、十にも満たない子供に別れの決まっている相手と一年半も過させるなど、酷なはずだ。それが家族として接している相手であるなら、尚更だろう。これも良い経験なのかもしれないが、俺はサラに少しでも辛い思いをして欲しくない。
伝えるのなら、三節前くらいがベストだと考えている。
だが俺は、伝えることは大切なのだと、前世で身をもって知っている。
聞く側からすれば、後々になって真実を知らされるより、予めきちんと伝えてもらっていた方がいいのかもしれない……とも思う。
俺は、どうするべきなんだ。
事前に伝えておくなら、今がそのときだ。今を逃せば、もう出発の三節前まで言おうにも言えなくなってしまうだろう。いや、それどころか三節前になっても告げられない可能性すら出てくる。あと一年半も一緒に過せば、情が移りすぎてこの館を去るなどとは口が裂けても言えなくなってしまっているかもしれない。
「なによ……そんなに言いたくないなら、べつに言わなくてもいいわよ」
サラは少し拗ねたような口ぶりで呟きながら、手を後ろで組んで軽く身じろぎする。アレコレ悩んでいるうちに、タイムオーバーになってしまったっぽい。これがゲームなら選択肢の場面でじっくり悩めるのに、リアルは本当に容赦ないな。
「あ、その……言いたくないというわけでは、ないんですけど」
「無理しなくてもいいわよ。そうよね、ローズはしっかりしてるから、わたしなんかじゃ頼りにならないわよね」
「え、あの――」
「ローズはわたしより三つ年下だけど、何でもちゃんとできるから、ローズから見ればわたしなんてお姉ちゃんっぽくないわよね。だからわたしに話したって意味ないわよね」
プイッと顔を背けられた。
どうやらサラは、俺が悩み事や困り事の類いを抱え込んでいると思っていたらしい。しかもそれを自分に相談して欲しいようだ。
それほど間違っていないあたり、やはり鋭いな。
「そんなことないですよ、サラは頼りになります」
俺は幼女の優しさに感動しつつも、反射的に口を開いていた。
「でも、話してくれないのよね。それに、ローズはリーゼみたいにわたしのこと『サラ姉』って呼んでないじゃない。それって、わたしが頼りないからお姉ちゃんって思えないってことでしょ」
確かに俺はサラを『サラ姉』とは呼んでいない。
だって……ね?
中身は俺の方がだいぶ年上なわけで、どうしても姉扱いできないのよ。それに、まだサラと仲良くなかった頃に言われた言葉が未だに忘れられないという理由もある。
『うるさいっ、あんたにサラ姉なんて呼ばれたくないのよ!』
『わたしはあんたのお姉ちゃんなんかじゃないんだからっ!』
実はこれ、当時かなりショックだったのよ……?
それこそ今まで引きずるくらい、ある種のトラウマになっていたわけです。
しかしまあ、今のサラは姉扱いして欲しそうなので、勇気を出して呼んでやろう。
「では、これからはサラ姉と呼ばせてもらいますね、サラ姉」
「いいわよ、もう。ローズって妹だけど、妹って感じしないし。勉強だってわたしが教えてもらうこと多いし、魔法だってローズの方が凄いし」
「――――」
そんな……確かに俺は妹っぽく振る舞ってこなかったけど……。
なんだかサラの俺への好感度が急激に減少している気がする。このままでは小悪魔ルートに入れなくなってしまうだろう。いや、入る気はないんだけどさ。
「今日はもういいわよ、話してくれなくても。でも、いつかちゃんと話してよね」
「あの、サラ、私は――」
「そろそろ戻るわよ、あんまり夜更かししちゃ明日起きられなくなっちゃうし」
俺の目を見ずに言い、サッと身体を反転させて屋根を駆け下り、そそくさと飛び降りてしまう。
結局、言えなかった。結果的にそれで良かったのか悪かったのか、もう自分でもよく分からない。思わず胸の前に垂れかかっていた長い赤髪を女々しく弄りつつ、深く溜息を吐いてしまった。
とりあえず、今はサラの後を追いかけよう。
俺は再び魔法を使って、ウォールをウォークしてバルコニーに降り立った。
これ、上りより下りの方が遙かに難しくて怖いんだよね。
「……まだ起きてるのね」
サラは部屋の中に戻っておらず、セイディの部屋を見遣っていた。
外に出たとき同様、まだ微かな明かりが漏れ出ているのが見て取れる。
「サラ?」
何を思ったのか、サラは再び翼を躍動させ始めた。
「なんだか気になるから、少し様子見てくるわ。ローズは先に戻ってて」
言うや否や、サラは飛び立ってしまう。まだ少し拗ねているのか、やはり俺の顔は見てくれなかった。
俺はまたもや溜息を溢し、サラの言う通り先に部屋に戻っていった。
♀ ♀ ♀
サラが戻ってくるまで起きていよう。
そしてさっきのことを謝って、本当のことを話そう。
そう決意して、再びベッドに入って漫然と暗い天井を眺めていく。先ほど窓を開けっ放しで出て行ったせいか、微かに鼓膜を震わせる羽虫が地味に鬱陶しい。頭は冴えてしまっているので、眠ろうにも眠れないから、べつにいいんだが。
やはりというべきか、サラには伝えておいた方がいいだろう。隠し事をしていると指摘されたのだから、今がいい機会だ。この機を逃せば後々になって更に気まずくなる気がするし。
それに、今のうちに言っておかなければ、一年半後に言える自信がない。先ほどサラに問い詰められたとき、強くそう感じた。
そんなことを考えながら待ち続けて……だいたい十分くらいか。
サラが戻ってこない。
「…………」
なんか、不安になってきた。
もうそろそろ戻ってきてもいいはずだ……あ、いや、もしかしてセイディの部屋に入って雑談でもしてるのか? そしてそのまま今日は翼人同士で仲良く寝ることにしたのか? それなら俺に一言……いや、今のサラは少し機嫌を損ねている。
あるいは、俺のせいで気分転換したくなって、そこらを空中散歩してるのかもしれない。
しかし、もし何か良くないことが起きていたら?
このあたりに魔物はいないはずだが、空中散歩中に魔物に襲われたという可能性は否定できない。それか、戻ってくる途中で翼が痙ってしまい、墜落したという線もある。
案ずるより産むが易し。
なにはともあれ様子を見に行こう。
俺は再度ベッドから降り立つと、窓を開けてバルコニーに出た。そしてセイディの部屋の方を見てみると……いた。褐色の肌と濃紫色の翼が夜闇に溶け込んでいる一方、窓から漏れ出ている薄明かりも相まって、綺麗な金髪だけは良く目に留まる。光に反射した美髪の煌めきがバルコニーの欄干越しに確かに見える。
どうやら座り込んでいるようだが、一体なにをしているのか。
やはり考えても仕方がないので、俺も向こうに行くことにした。
「っと、その前に」
今度はちゃんと窓を閉めておく。これ以上、室内に虫が入り込んでは厄介だ。
俺は再び闇属性上級魔法を駆使して、今度は壁を水平方向に走る。えっちらおっちらセイディの部屋のバルコニーまで駆け抜けて、欄干の上に華麗に飛び移る。
わざわざ足音を立ててサラのすぐ後ろに着地しても、彼女は気が付いていないのか、振り向いてくれない。
「サラ、何してるんですか?」
「――――」
声を掛けても無反応だ。
サラはツンデレなところがあるから、意固地になっているのかもしれない。
いや……というか、なんだ……?
なんか変な声が聞こえるな。妙に甲高い声だ。
俺とサラは窓の横の壁際――ちょうど室内からは見えない位置にいる。サラは両足の間にお尻を落とすという女の子特有の可愛らしい姿勢で座っており、やや首を伸ばして室内を覗き込んでいるようだった。後ろ姿からでも一心不乱に凝視しているのが分かる。
ふと気になって、俺もサラの上から首を伸ばし、薄明かりを漏らすガラス窓から室内の様子を窺ってみた。
するとそこには、筆舌に尽くしがたい壮絶な場面が繰り広げられていた。
♀ × ♀
目を疑うとはこのことだ。
俺は夢でも見ているのかもしれない。
「――っ」
鼓膜を振るわせる淫靡な声で我に返った。金縛り状態だった身体を無理矢理動かして首を引っ込めると、いつの間にか止まっていた呼吸を再開する。
が、今はそんなことどうでもいい。
な、なんだアレは、いったい何がどうなってるんだってばよ……。
訳が分からない、俺は幻覚を見ていたのか?
い、いやいや、落ち着け、まだ慌てるようなときじゃない。
まずは三回大きく深呼吸をして……よし、もう一度見てみよう。
♀ × ♀
目を疑うとはこのことだ。
俺は夢でも見ているのかもしれない。
「――っ」
我に返って首を引っ込めた。
まだ、まだあわわわわわわわわわわわ…………う、うん、慌てるな。
落ち着け俺、冷静になるのだ、クールだよクールダウン。
ふぅ……よし、うん、大丈夫。
俺は大丈夫、冷静だ。
なんか淫猥な響きの声が微かに漏れ聞こえてくるけど、俺は大丈夫、冷静だ。
このままの気持ちでもう一度、今度は心を無にしたまま、部屋の中を様子を覗き見てみよう。
♀ × ♀
「…………」
俺は仙人の如く達観した眼差しで室内の光景を見据えつつ、いい加減いま視界に映っているものを受け入れ、納得した。
これはこれで……まあ、うん。
何も不思議なことではないように思う。思い返せば、納得できる事実だ。
どちらも男っ気がなく、若い身体を持てあましているだろう女二人が同居していて、一人はもう一人のことを『お姉様』と呼んでいる。二人が仲良くしている場面など腐るほど見てきたし、昨日のセイディの話と反応を鑑みれば、むしろ当然ともいうべき真実だ。
とはいえ、なんだろうね、この気持ちは。
両親――いや姉同士の行為を目撃した弟妹ってのは、こんな気分になるのだろうか。俺は明日から二人を見る度に、百合の花の美しさを思い出すだろう。
しかし、まさかクレアがSだったとは。
俺の知るクレアは『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』を地でいく巨乳美人の優しく穏やかな大和撫子的お姉さんなのに、まさかの緊縛目隠しプレイだなんて……まったく、世の中ってやつは何がどうなってるのか分からないもんだぜ。
それにしても……目が離せんな。
うらやまけしからんですよ、アレは。
見ちゃダメだと思えば思うほど、見続けたいという誘惑が強くなるから不思議だ。
もの凄い吸引力である。
目が釘付けとはよく言うが、今の俺がまさにそんな状態だ。
い、いかん……なんか股間がむずむずしてきた……。
「……はぁ……はぁ」
ふと聞こえた熱っぽい吐息に疑問を覚え、俺は強烈な吸引力を振り切って、すぐ下に目を向けた。
俺の身体の前にはサラがいる。女の子座りをして、未だに俺の存在に気が付いていないほど、クレアとセイディのソレにじっと見入っている。
いや……じっとしてはいないか。どうにも見る限り、右手が下腹部に伸びていて、微動しているような…………って、あぁ?
「サラッ」
思わずサラの肩を掴み、小声で呼び掛けた。
するとサラは俺より幾分か大きな身体をビクリと振るわせ、バッと勢い良く振り向いてくる。嫌な予感がしたので反射的に彼女の口元を塞ぎ、俺は見開かれた目を見つめながら言った。
「落ち着いてくださいサラ、私です」
「……ローズ」
ゆっくりと口元から手を離すと、熱っぽい声でうわごとのように呟くサラ。
俺は続けてサラに何事かを言おうとするが、不覚にも彼女の顔に見とれてしまった。
サラは今まで見せたことのない顔をしていた。
驚愕の念が籠もっているはずの両目は尚、力なくとろんとしていて、頬だけでなく耳まで紅潮し、小さな唇の間から漏れ出る吐息はその熱が俺にまで伝わってくるほどだ。片手を置いた肩からも火照った温もりがこれでもかと感じられ、その熱にでもやられてしまったのか、意に反して俺の身体は動かなくなってしまう。
「ローズは……キスしたこと、ある……?」
サラはのっそりと腰を上げると、身体ごと俺に向き直ってきた。そして俺の顔に両手を伸ばし、濡れた指先で頬を撫でてくる。まだまだ小さく細い手が俺の両頬に添えられると、サラは何かに魅入られたかのような目でこちらの口元を凝視したまま、ゆっくりと顔を近づけてきた。
俺の方もまた、サラの見たことのない恍惚とした面持ちに意識を奪われ、小さな唇の艶めきから目が離せなかった。
そうして、俺は未知の感触を覚えた。
柔らかくも温かく、心地良い感触が唇から全身に拡散し、鮮烈な感覚が脳を痺れさせる。眼前には目を伏せたサラの顔があり、俺も彼女も息を止めて、ただただ唇の神経に全意識が集中していた。微かに耳朶を打つ喜悦に満ちた甲高い艶声は、どこか遠く、遙か彼方から聞こえてくるかのようだ。
「――――」
どれほどの間、硬直していたのか。
それは永遠にも刹那にも思えるひとときだった。
サラは名残惜しげに緩慢な動きで少しだけ顔を離し、大きく息を吐き、吸った。
俺も止まっていた呼吸を無意識的に再開するが、息を吸ったところでもう一度口が塞がれてしまう。
今度は歯があたった。だがその痛みさえも、今は心地良かった。思考は甘い痺れのせいで機能せず、ただただ俺はされるがままだ。
「――っはぁ、はぁ」
荒い息継ぎはもはやどちらのものか分からない。
俺は身体から力が抜け、その場にへたり込んでしまった。しかし、サラはそんな俺を掴んで離さず、腰を屈めて再三に渡り唇を重ねてきた。
巧いな、とぼんやりとした頭で漠然と思った。
まだ三度目なのに、サラのついばむような口付けは拙くも丁寧だ。もう歯があたることもなければ、鼻がぶつかることはそもそもない。サラは右に顔を傾けた状態で、ゼロ距離から熱に浮かされたような瞳に俺を映している。
目を合わせたまま少しだけ顔を離すと、息を吸い、再びサラが顔を近づけてくる。
そこでようやく、俺は理性を取り戻した。
「サ、サラッ」
俺は先ほどのサラのように女の子座りの姿勢から、彼女の肩を両手で掴んで止めた。次いで顔に添えられた褐色の両手を掴んで引き剥がし、温もりと心地よさの余韻が強く残る唇を必死に動かす。
「サラ、お、おお、落ち着いて、ください……」
「ローズ……?」
俺は素早く深呼吸し、未だに熱っぽさが抜けないサラの両頬を両手で叩いた。
パシンっ、と小気味よい音が鳴る。
サラの表情は次第にいつもの張りを取り戻していき、目を白黒させて俺を見る。
「…………ロ、ローズ……ぁ、わ……わた、し……っ」
「落ち着いてください、サラ。大丈夫です、大丈夫」
俺は足腰に力を入れて立ち上がると、強くサラを抱きしめた。
正直、まだ俺の頭も混乱しまくっているが、まずはサラを落ち着ける必要がある。もし万が一、室内の美女二人に俺とサラが見ていたことを知られると……色々大変なことになるだろう。
しばらく俺はデビル可愛い金髪褐色な美幼女を抱きしめ続けた。
相変わらず官能的なバックグラウンドボイスが微かに聞こえてくる。
どこのエロゲだ、こんちくしょう。
だが俺はサラの耳元で「大丈夫、大丈夫です」と呟き続けて、余計な音を上書きした。
今のサラはたぶん大混乱の只中にいる。
クレアとセイディのアレな姿を見て、一時は思考が飽和し、雰囲気に呑まれていたのだろうが、今は違う。おそらく我を取り戻しただろうし、色々ありすぎて自分の中で整理ができず、許容し切れていないはずだ。
まずはこの場からの速やかなる撤退が望ましい。これ以上ここにいると、俺もまたいつ正気を失うか分からん。
「サラ、飛べますか?」
「う、うん……あの、ローズ……その、え、っと……クレアと、セイディのアレ……」
「それは後で、二人で話しましょう、ね?」
「え、えぇ、そ、そうね……うん、そうね」
サラは何度も頷きながら、幾分か落ち着いた声で答えたので、俺は彼女から身体を離した。しかし、俺もサラも互いの顔を直視できない。
「行きましょう」
俺がサラの背中を押して、そう言ったそのとき。
ほんの微かにだが、ピンク色なBGVに混じって、別の声が聞こえてきた。
誰かが俺の名を呼んでいる。
そう思うと、俺は何か……そう、途轍もなく嫌な予感を覚えて、窓から室内を覗き込んでみた。ベッド上の二人は絶賛プレイ中だからか、気付いている様子はない。だが、確かに聞こえる。
「リーゼ……?」
サラが怪訝そうに呟いた瞬間、窓の向こうからバンッという開扉音が大きく響いてきた。そして、幼狐の慌てたような半泣きの叫び声も。
「セイディっ、ローズとサラねえとクレアがどこにもいない! あとみみのなかにむしがいてね、きもちわるくてどーにか……ふぇ?」
「――――」
「ふたりとも、はだかでなにしてるの?」
「――――――――」
「ううん、それよりローズとサラねえがどっかいっちゃった! むしとってっ!」
唖然とするのもつかの間、俺とサラはどちらからともなく、すぐさまバルコニーから飛び出した。
俺は足音に注意しつつ全力で壁を走り、サラは翼を躍動させて宙を駆ける。そして二人で幼女部屋の窓を開けて中に入ると、そそくさとベッドに潜り込んだ。
♀ ♀ ♀
それからすぐ、館は少々騒がしくなった。
リーゼのせいでアルセリアと婆さんも目覚めてしまい、説教タイムが始まったのだ。俺とサラが部屋にいなかったことに関しては、夜中に目が覚めてしまったので屋根の上にあがって星を見ていた、ということにした。
嘘は吐いていない。
「サラ、ちゃんと聞いておるのかの?」
「…………」
「サラは翼があるから良いが、もしローズが落ちたら大変なことになる。もし今後、ローズが屋根の上にあがろうとしたときは姉として止めるのじゃぞ」
「あ……う、うん、ごめんなさい……」
サラは終始呆然としていた。
俺も似たようなものだったが、必死に普段通りを装った。
だが内心ではまだほとんど整理がついておらず、加えてサラが婆さんに変な質問をしてしまわないか気が気でなかったのだ。
まあ、結局はしなかったが。おそらくサラは本能的な部分でアレがアンタッチャブルなことなのだと悟ったのだろう。
他方、クレアとセイディはアルセリアと何やら大人の話をしていたっぽい。夜の営みを幼狐が目撃してしまったのだから、俺たち同様にそれ相応のお叱りでも受けたのだろう。
尚、リーゼが起きてしまった原因は虫らしい。どうやら獣耳の中に虫が侵入して、くすぐったくて目が覚めてしまったようだった。そこで俺とサラがいないことに気が付き、トイレなんかを探しながら耳の虫の駆除を試みるも適わず、俺たちも見つからない。耳を澄ませようにも虫のせいで集中できず、鼻を利かせてみても館内に匂いはない。
不快感と不安感が幼狐の心をざわつかせ、急いでクレアの部屋を訪ねてみるも、クレアもいない。という訳で、セイディの部屋に突撃したらしい。
「あたしたちもぜんらくみてしよー!」
三人で幼女部屋に戻ってくると、リーゼがそんなことを宣った。
どうやら大人たちは百合百合しい行為を『全裸組手』と説明して誤魔化したらしく、純真無垢な六歳児は何の疑いもなくそれを信じている。
「今日はもう遅いから寝るわよ」
「リーゼ、全裸組手は大人になってからの方がきっと楽しいですよ」
一人素っ裸になった幼狐をサラと共に宥めて、俺たちは寝直すことにした。
だが結局、その夜は眠れなかった。
サラも眠れないようだったが、俺たちの間に会話はなかった。とてもではないが、俺が館を出て行くことを切り出せる雰囲気ではなかったし、そもそもそんな精神的余裕もなかった。俺の脳内はそれどころではなかったのだ。
美女二人のアレな場面の記憶は、まだいい。
俺が延々と考えていたのは、すぐ左隣に横たわるサラとのことだ。
前世では一度もできなかった行為を、してしまった。
ファーストどころかセカンドもサードも、奪われてしまった。
思うところはありすぎるが……しかし、一つだけ確かなことがある。
俺はもう決してサラのことを忘れられない。
言い換えれば、それだけサラという存在が俺の中で肥大化したのだ。
それこそレオナと肩を並べてしまうほどに。
人ってやつは、しがらみが増えればそれだけ身動きが取りづらくなるものだ。
俺は完全に囚われてしまった。
情というやつに、しがらみというやつに。
一年半後にサラと別れる?
本当にできるのか、この俺に?
決意が揺らぐのを感じながらも、俺はただリーゼの暢気な寝息だけをBGMに夜を明かしていった。
♀ ♀ ♀
翌朝の朝食はいつもと違う空気が流れていた。
クレアもセイディも表向きは普段通りを装っていたが、全体的にどこかぎこちなさがあった。リーゼに見られただけでコレなのだから、俺とサラにじっくりたっぷり覗かれていたことを二人が知れば……うん、何があっても真実は言えんな。
しかし、サラの様子は美女二人以上におかしかった。
「ねえセイディ、きょうそらとんでー」
そろそろみんな食べ終わる頃、リーゼがセイディにおねだりした。いつも通りの天真爛漫な口調には悩み事など皆無であることが窺える。
「ひ、飛行ね、いいわよ。それじゃあ……お昼過ぎ頃にでもね」
「やったー!」
素直に喜びを露わにする幼狐は次いで俺に穢れなき瞳を向けてくる。
「あたしがいったから、ローズはあたしのあとね」
「あ……私は、今日はいいです」
「いいの? たのしーのに」
さすがに昨日の今日――というか今日の今日で、セイディに抱えてもらっての空中散歩は楽しめそうにない。
「サラねえはいっしょにいくよねっ?」
「ええ、そうね、気分転換にはいいし」
そう頷くサラは特に昨日と変わった様子はない。
そんないつもの小悪魔に、何も知らない美天使も普段通りに話しかけた。
「サラ、今日は寝不足みたいだけど、大丈夫なの? 寝ぼけて飛んで落ちたら、洒落にならないわよ」
「大丈夫よ、飛ぶ前にお昼寝するから。それに、そう言うセイディだって少し眠そうじゃない」
「アタシはいいのよ、大人だからね」
二人が言葉を交わす様に違和感はない。それは先ほどしていたクレアとの会話でも同様で、これまで何度も見てきた朝食時の雑談そのものだ。
明らかに、おかしい。
「ふーん……大人だから、ね」
ただ、サラは独り言のように小さくそう呟いていた。
やけに意味深な含みを持たせて。
それをどう受け取ったのか、セイディは軽く笑いながら言った。
「なによサラ、もう自分は大人だって言いたいの? でも、翼人は大人ひとり抱えて飛べないと、大人とは呼ばないのよ。今のローズを抱えて飛べるようになったとしても、まだ半人前ってとこね」
その言葉で思わずといったように、サラは俺に目を向けてくる。
が、すぐに目を逸らされてしまった。
「べつに、わたしはまだ大人じゃないって、分かってるわよ」
「あら、どうかしたのサラ。ローズと喧嘩でもした?」
「し、してないわよっ!」
これまでの普段通りの反応から一転、クレアの指摘に声を詰まらせながら叫ぶサラ。
美女二人への態度は普通なのに、俺に対しては普通じゃない。実際、起床後の日課であるヘアブラッシングのときも、サラは俺に話しかけてくれなかった。
まあ、俺も話しかけられなかったが……。
しかし……これは一体どういうことだ?
なぜサラはクレアとセイディに対して、いつも通りに振る舞えるんだ?
ショックのあまり記憶が飛んでいるのか?
俺は訳が分からず、しかしサラに直接訊くこともできず、悶々としたまま朝食を食べ終えた。
♀ ♀ ♀
朝食後はいつも通り家事の手伝いとなる。
その日の割り振りはリーゼが朝食の後片付け、サラが洗濯、そして俺は掃除だ。
掃除と一口に言ってもやることは雑多で、今日は二階の普段は使用していない部屋の掃除だった。
俺は一人黙々と空き部屋の掃除をしていく。空き部屋といってもベッドやタンスなどの家具はあるので、そこそこ大変だ。しかしもう慣れたものなので、ルーチンワークとして片が付く。
早々に一部屋目を終わらせ、二部屋目の掃除を始める。
身体を動かしながらも、俺はサラとのことばかり考えていた。だから、開けっ放しにしていたドアから突然サラが入室してきたときには心臓が止まるかと思った。
「…………」
サラは無言で入ってくると、無言でドアを閉めた。
そして鍵も掛けた。
シンと静まり返った室内で、しばし見つめ合う俺たち。
だが俺は妙な緊張感に耐えきれず、視線を逸らして口を開いた。
「あの、どうかしましたか、サラ……?」
対するサラはドアの前から俺の方に近づいてきながら、答える。
「その……夜の、ことだけど」
思いがけず目を合わされたので、やはり俺は反射的に逸らしてしまった。
「あ、えっと、そうじゃなくて、クレアとセイディのことよっ」
「…………」
「ローズは二人が何してたか、知ってる?」
サラの声は少し緊張しているようではあったが、恥じらっている様子はあまりない。
俺はどう答えるべきか逡巡した。
知っていると答えれば、たぶんサラは俺に説明を求めてくるだろう。もしそれが男と女の行為に関してのことなら、今後のためにも正しい性知識を伝授してやるところだが、今回は女と女の行為だ。
……どう説明しろと?
「い、いえ、知りません……」
「そう」
荷が重すぎたので無知であることを告げる。
するとサラは俺の予想に反して、どこか得意げな声を返した。
疑問に思って足下からゆっくりと視線を上げてみる。
サラは、俺に対しては普段あまり見せない如何にもなお姉さん顔で、やはりどことなく得意げな笑みを覗かせていた。彼女はベッドに腰掛けると、隣をポンポンと叩く。
「ローズ、座りなさい」
「え、あ、はい」
大人しく隣に座るが、まだなんとなく気まずくて、幼女一人分の隙間を空けてしまう。だがサラはそれを気にした風もなく、リーゼに勉強を教える際にするような、年上ぶった口調で言った。
「アレはね、セックスっていうのよ」
「…………は、ぇ……セッ、えぇ!?」
あまりに予想外なことを意気揚々と告げられ、俺は愕然とした。
サラはそんな俺を見て満足そうに頷くと、続けて教えてくれる。
「セックスっていうのは、愛し合う大人がすることよ」
「え、あ、あの……サラは、どうして、そんなことを……」
知っているのか。
という俺の問いに、サラは何でも無いことのように答える。
「前に猟兵協会で、周りにいた男がセックスがどうこうって言ってたのよ。クレアにセックスって何って訊いてみたら、愛し合う大人がすることって教えてくれたわ。他人には見せられないようなことで、女の子は普段口にしちゃダメだって、セイディも言ってたし。確かに、その……凄く恥ずかしそうなことだったし、たぶん、アレがセックスなのよっ!」
「――――」
「ふふ、やっぱりローズは知らなかったみたいね。ローズでも知らないことはあったわね」
サラは俺に知らないことがあって、それを自分が教えられることが嬉しいらしい。いつもは俺がサラに色々教えているからな……っていや違う、そんなことはどうでもいい。
「あ、あのでも、えっと……セ、セックス、って、普通は男性と女性がするもの、ですよ……?」
「なによローズ、やっぱり知ってたの?」
「い、いえ、本にそう書いてあったので……どういう行為かまでは、知りませんでしたけど」
ここでかまととぶるのもどうかと思うが、今はサラの機嫌を損ねない方がいい。
サラは「そう」と安心したように一息吐きながら頷き、さも訳知り顔で説明する。
「まあ、そうらしいわね。猟兵協会にいた男たちも、どこの娼館のなんとかって女の抱き心地がいいとかって言ってたし」
「……そ、その、娼館というのがどんなところか、サラは知ってるんですか?」
「男が楽しむ最低なところって、セイディが言ってたわ。最低っていうくらいだから、たぶん愛のないセックスをするところね」
あ、愛のないって……おいおいマジかよ九歳児。
もう驚きすぎて言葉が出てこないが、今は呆けている場合ではない。
サラのためにも、彼女の性知識が正しいものかどうか、確認した方がいいだろう。そして間違っていたら、それを正してやらねばならない。
「え、っと……それじゃあ、クレアとセイディがセ、セックスしていたことについては、どう思うんですか? 二人は女性で、女性同士のセックスは普通じゃないですけど」
「普通じゃなくても、愛し合う大人なら……するものなのよ。二人は家族だし、家族が愛し合ってるのは当然だわっ」
サラはそう断言するが、たぶん半信半疑のはずだ。
俺に見栄を張っているのだろう。
「それにわたし、男と、あ、あんな恥ずかしそうなことなんて、で、できない、し……だからっ、女同士でもいいのよクレアとセイディもやってたし!」
どうやらそれが本音っぽい。
しかしこれは……どうなんだ? 俺は同性愛を否定するほど狭量ではないつもりなので、サラの言っていることは別段間違っていないと思う。
だから彼女の知識を修正してやる必要は……ないのか?
未だ困惑が抜けきらぬ中、サラの性教育のために頭を捻っていると、ふと手を掴まれた。突然すぎて身体を強張らせる俺に、サラは視線を彷徨わせながら問うてくる。
「ローズはわたしのこと、好きよね?」
「そ、それは、もちろん……」
「わたしも、ローズのことは好きよ」
な、なんだ、この雰囲気は。
なんで俺の心臓はこんなにも激しいビートを刻んでるんだ?
「それで、その……ほら、わたしたちもうキスしちゃったでしょ? それでもローズはわたしのこと好きってことは、キスしちゃったこと、嫌じゃなかったのよね? だから、えっと……うん、セックスするわよ!」
そうかすごいな。
なに言ってんだおまえ。
「ちょちょ、ちょっと待ってください! わたしもサラもまだ子供ですよ!?」
「それはそうだけど、前に猟兵協会の誰かが『愛には歳も種族も関係ない』って言ってたの聞いたわ!」
おいコラ誰だよそんな定番フレーズ言いやがったのは!?
「それで? どうなのローズ!?」
もう訳が分からなかったが、とにかく今はサラを止めなければいけない。
サラの瞳はいつになく興奮していた。昨日の恍惚とした様子ではなく、どことなくセイディの暴走を思わせる興奮状態だった。
サラは美幼女で、俺はたまにドキドキしちゃったりもするけど、俺はロリコンではないのだ。しかも俺はまだ六歳だ、さすがに無理がありすぎる。
「す、好きと愛は、違うんですよ? 愛は特別に好きって意味で、サラの言う好きは――」
「そんなこと分かってるわよっ」
「でもまだ子供ですしっ、それにセックスは大人同士でするものなんですよね!? クレアがそう言ってたんじゃないんですかっ?」
焦りながらも疑問を突きつけるが、しかしサラは不機嫌そうにムッと眉根を寄せた。そんな表情もいちいち可愛いから困る。
「そんなに嫌がるなんて……なによ、ローズもしかしてウェインのこと好きなの?」
「……は? ウェイン?」
「ローズって、ウェインと話すときはわたしたちと話すときと、なんか感じ違うし……あの子のこと好きなの? 好きなんでしょ!?」
「いえいえいえいえ! 好きじゃないですからっ、絶対にありえませんから!」
全力で否定すると、それが逆に怪しく見えたのか、サラは両目を細めて俺の顔を凝視してくる。
「本当に?」
「本当です。私は男の子より女の子が好きですから」
「じゃあ、わたしとするわよっ」
ちょっと待て、なんでそうなる。
やはりサラは興奮してるな。
いや、俺ももっと冷静にならないと。
「サラ、少し落ち着いて、よく考えてみてください。私たちはまだ子供で、身体も成長し切っていません。ですから、そういうことをしようにも、きちんとできないんじゃないですか?」
「む……ん、それもそうね。それにわたしも、なんとなくまだ早すぎるかなって、思ってたし……」
どうやらサラも少しはおかしいと自覚していたらしい。
寝不足だから、あまり頭が回っていないのだろう。
お互いに。
サラは俺の手を離して、軽く息を整える。
俺も深呼吸した。
どうも今日は妙なことが起こりすぎている。
「それじゃあ、その……ローズ」
サラは姿勢を正すと、隣に座る俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
こうして見る限り、正常だ。いつものサラだ。
「大人になったら、しましょう」
「…………え?」
「だからっ、わたしたちが大人になったらセックスするのよ!」
俺とサラが、クレアとセイディみたいになる……?
「あ、でもローズが十五になったとき、わたしは十七ね。あと八年……長いわね。うん、やっぱりローズが十三歳になったらしましょうっ。ローズは私より大人びてるから、ちょっとくらい早くてもいいわよね!」
「――――」
「分かった? 約束よローズ。聞いてるの、ローズッ!」
「え、ぁ、はい、聞いてます」
サラに肩を揺さぶられ、俺は真っ白な思考でぎこちなく声を返す。
「それじゃあ約束ね」
「約、束……」
「いいわねローズ、約束よ! ウェインのこと好きじゃないなら、約束できるわよね!?」
ずいっと身体ごと顔を近づけられ、赤みがかった褐色肌が視界を大きく占有する。ふわりとサラの――女の子の匂いが鼻腔をくすぐった。
「は、はい……」
気が付いたときには、俺は頷いていた。
サラは「うん、よし、うん」と顔中を紅茶色にして何度も何度も頷き、いきなり立ち上がった。
「みんなには内緒だからねっ、リーゼにも言っちゃダメよ!」
ドアに向かって走りながらそう言い、サラは鍵を開けてノブを掴む。が、なぜかそこで動きを止めると、くるっと踵を返して駆け戻ってきた。そしてベッドに座ったままの俺の前まで来ると、
「――っん!?」
腰を屈めて、呆然と見上げる俺の唇を塞いできた。
しかしサラはすぐに顔を離して、俺と目は合わせずに斜め下を見ながら、ぽつりと呟くような声を溢す。
「セックスは大人になってからだけど、その……キスは別よね。もう三回も……今ので四回もしちゃったし、それに、うん、なんか気持ちいいし、だから……えっと、これからもするけど、いいわよね……?」
「ぅ……うん」
飽和した思考ではなにも考えられず、呆然と首を縦に振ると、サラは視線を上げて俺と目を合わせてきた。そうして、はにかむような微笑みを残して、今度こそ走り去っていった。
「……………………」
俺は開けっ放しのドアを見つめながら、口を半開にして硬直した。
何も考えられなかった。
どれくらいそうしていたのか、部屋の前を通りかかった婆さんに声を掛けられて、ようやく俺は立ち上がり、掃除を再開した。
寝不足も相まって、もはや俺の頭はオーバーヒート寸前だ。
いや、もう完全にオーバーヒートしてる。
しかしそんな状態でも、思考を止められなかった。
十三歳になったら、俺はサラと致すらしい。
美幼女なサラはまず間違いなく相当な美少女になる。十五歳という美少女期真っ直中のサラと、前世ではついぞ為し得なかったことを、する。
俺は女だが、中身は男だ。
この先の人生において、そんな俺が男とベッドを共にすることなど無論あり得ず、そうなれば必然的に相手は女になる。だからサラとそうなることに問題は何一つなく、むしろ歓迎すべき未来であるといえる。
諸手を挙げて歓喜の叫びを上げるべき約束だ。
だが、俺はあと一年半でこの館を去る。
一人でレオナ捜索の旅に出なければならない。
だから、みんなと別れる。サラとも別れる。
…………別れる?
そんなこと、本当に俺にできるのか?