第五十話 『短所は長所』
「あっ、おきた!」
まず目に飛び込んできたのはリーゼの笑顔だった。
「ローズ、大丈夫!?」
リーゼとは逆――視界左側からはサラの心配そうな顔が現れる。
どうやら俺はベッドに寝かされているらしく、二人の顔の向こうには見慣れた天井が確認できる。
「ん、大丈夫です」
俺は答えながらゆっくりと身体を起こした。
特に不快感はなく、意識も記憶も明瞭だ。
「うむ、起きたかローズ」
「お婆様……いったい、何がどうなったんですか? なんで私、倒れちゃったんでしょう?」
俺はリーゼに抱きつかれ、サラには頭を抱えるように抱きしめられながら、ベッド脇の椅子に腰掛ける婆さんに問いかけた。
といっても、半ば予想はついているが。
「その質問に答える前に、ローズに訊いておきたいことがある。もしやとは思うが、誰かが魔法を使おうとするとき、何か感じることはないかの?」
「……はい、あります」
「そうか、やはりの」
婆さんはやけに真面目な様子で一人納得したように何度か頷く。
そこで俺の頭を胸に抱いていたサラが焦れたように声を上げた。
「それでおばあちゃん、いったいどういうことなの? どうしてローズ、あんな風に倒れちゃったの? 全身震えてたし、吐いちゃってたし、最後は白目まで向いて……普通じゃないわ!」
「あ、あの、ところで私、どれくらい気絶してたんですか?」
「ほんの小一時間ほどじゃ。説明は今からちゃんとするからの」
小一時間って、それでも結構な時間だな。
たぶんその間、サラとリーゼは俺の側にいてくれたのだ。
婆さんは軽く咳払いをすると、おもむろに左手に初級光魔法〈光輝〉の小さな明かりを灯した。
「今、ローズは何か感じておるはずじゃが……どうじゃ?」
「はい、感じます。なんか、こう……揺られるような、ビリビリするような、そんな感じですかね? 感覚的すぎて、上手く説明できないんですけど」
「いや、良い。それはの、魔動感という特別な感覚じゃ」
「まどーかん?」
俺の胴体に腕を回したまま、リーゼがおうむ返しに言った。
すると婆さんは光魔法を消し、「うむ」と頷いた。
「周囲にいる人の魔力の励起――魔法や魔法具を使用しようとすると、魔力が活性化するのじゃが、魔動感はその高まりを感じ取れる感覚なのじゃ。持っておる者は滅多におらん」
「……それって、凄いじゃない。なんでローズ今まで黙ってたのよ? って、そうじゃなくて、その魔動感とローズが倒れたことが、どう関係あるの?」
「魔動感を有しておる者は他者の魔力を察知できるが故に、魔力というものを強く感じ取ってしまうため、魔力に酔ってしまうことがある。断唱波は少し工夫した魔力を大量に相手にぶつけて、魔法の行使を妨害するものじゃ。普通なら少し衝撃を受ける程度の感覚で済むはずが、魔動感のせいで過剰に反応してしまったのじゃな」
まあ、だいたいそんなところだとは思ったよ。本当はそんな予想、外れていて欲しかったけどな。魔動感は便利な第六感だが、こりゃいよいよ長所より短所の方が目立ってきたぞ。
「つまり、こういうことですか? 私の場合、その断唱波という魔法妨害をされると、魔法が使えないだけでなく、気絶すると」
「必ず気絶するかどうかは慣れにもよるが、先ほどのように過剰反応を起こしてしまうじゃろうな。別段、断唱波でなくても、ただ大量の魔力を当てられると、それだけでも反応してしまうじゃろうが」
「…………」
おいおい、それって結構ヤバくないですかね?
つまり俺を無力化したければ、魔法など使うまでもなく、ただ大量の魔力をぶち当ててやれば、それで済むってことだろう?
今明かされる最悪の事実。
これもう弱点ってレベルじゃねえぞ!
という心情が顔に出ていたのか、婆さんは俺を安心させるように微笑みかけてきた。
「なに、そう案ずることはない。ただ魔力だけを当ててやろうとは普通誰も思わんじゃろう? 実際、これまで一度もなかったじゃろう」
「それは、そうですけど……」
「それに断唱波もそうじゃが、魔力そのものを相手にぶつけようにも、その射程は存外に短い」
そう言って、婆さんは説明してくれた。
曰く、断唱波の有効射程はせいぜい十リーギスほどらしい。断唱波だけでなく、魔力そのものを空気中に放出しても同様で、すぐに魔力は霧散してしまうそうだ。
「じゃが、それは魔女の場合に限る。男の魔法士の場合は、魔女の倍ほどの距離まで届かせることが可能じゃ。無論、男女ともに個人差はあるし、放つ魔力量によっても前後するが、だいたいはそれくらいじゃな」
「それじゃあ、〈魔解衝〉の射程距離も男女で異なるんですか?」
〈魔解衝〉も目には見えない衝撃波のようなものを当てることで、〈風速之理〉や〈邪道之理〉などの魔法効果を強制解除させる。こちらの射程距離はおおよそ五十リーギスほどだが、込めた魔力量によって射程距離は大幅に前後する。
だが、〈魔解衝〉では魔動感が過剰反応を起こすようなことはなかった。
「いや、そちらは男女共に変わりないの」
「似たようなものなのに、どうして違いがあるんでしょう?」
「〈魔解衝〉は魔法じゃが、断唱波はあくまでも魔力じゃ。魔力は体外へ放つと雲散霧消する性質があるのでな、断唱波もまた霧散してしまう。じゃが、〈魔解衝〉は魔法じゃ」
なるほど。
とは思うものの、ではなぜ男女差が……と考えたところで、気が付いた。
そもそも女性に魔力がないのは邪神オデューンが奪い取っているからで、魔女は聖神アーレの加護があるから、その影響を受けずに済んでいるのだ。おそらく聖なる加護は身体そのものに掛かっているから、体外に放出された魔力まではカバーしていないのだろう。
いや、それよりもだ。
つまり、もし今後魔法士と戦うことになったら、俺は最低でも二十リーギスは距離をとって戦わねば、常に一発KOされる危険があるということだ。
なんかもう、魔動感いらなくなってきたかも……。
「ローズ、そんな顔をすることはないぞ。もう一度言うておくが、魔力そのものを当てようだなどとは、普通思わぬじゃろう? 魔動感を持つ者以外、意味がないからの。それに断唱波は詠唱省略ができる者にしか扱えぬ。じゃから使える者は数少ないし、断唱波自体もあまり知られてはおらぬ」
「でも、ただ魔力をあてられただけで、気絶しちゃうんですよね?」
正直、あの衝撃による酩酊感やら脱力感、意識混濁には抗える気がしない。否応などなかった。加えて魔力も巧く練ることができなかったし、たぶんあの状態に陥れば魔法も使えなくなるだろう。致命的すぐる……。
「今のままではそうじゃろうが、耐性を付けて慣れることはできる。実際、あたしも訓練を積んである程度の耐性を身に着けた」
「おばあちゃんも、その魔動感っていう感覚があるの?」
サラが俺の驚きを代弁するように訊ねると、婆さんは何でもないことのように悠揚と首肯した。
「うむ、まあの」
「……全然知らなかったわ」
「すまぬの。じゃが、魔動感は持っておる者にしか分からぬ感覚故、まだ魔法について勉強中のサラたちに教えたところで、無用な混乱を招くだけと思ったのじゃ」
うん、一理あるな。
魔動感は実際に体験してみないと、まず理解不能な感覚だ。生まれ付き目の見えない者が、光や色について説明されても要領を得ないのと同様だと思われる。俺も魔力を感じ取れなかったら、何が何だか分からずにもやもやしていたはずだ。
実際、リーゼは未だに小難しい顔で小首を傾げて固まっている。
「上手く慣れることができれば、断唱波をあてられても少し身体がふらつく程度になるはずじゃ。程度の差こそあろうが、ローズも慣れてゆけば良い。それに何より、魔動感は本当に珍しいからの。イクライプス教国の聖天騎士団では、魔動感を有しておるだけで聖白騎士の位を授かることができるほどじゃ」
「つまり、それほど魔動感って希少なのね……」
サラが呆然と呟く気持ちは理解できる。
婆さんが聖天騎士だったため、俺は教国の聖天騎士団についても勉強していた。彼の国は他国より魔法を重んじており、騎士の名を冠する位を授かるには必ず魔法が使えねばならない。
位は上から順に、聖天騎士、従天騎士、聖光騎士、従光騎士、聖白騎士、従白騎士、正騎士、従騎士の八つに分けられ、最も下っ端の従騎士でも初級魔法の習熟が必須条件だ。聖白騎士は最低でも上級魔法を使えることが叙任条件の一つなので、下から四番目の位とはいえ結構な難易度となる。
「でも、魔動感は長所でもありますけど、短所でもありますよね」
「短所は克服すれば良いのじゃから、長所をどう活かしてゆくかを気にした方が良かろう」
「そう、ですか……いえ、そうですね」
うん、そうだ。
もうあるものは仕方がないんだから、短所より長所に目を向けよう。
実際、魔動感は便利だと思うし。だいたい、俺が魔動感を持っていると知られなければ、魔力をぶち当てようとは誰も思うまい。魔動感自体、知名度が低いっぽいので、よほど博識な奴でない限りは大丈夫だろう。
まあ、これからの耐性訓練を思うと鬱になるが……。
「ローズのじゃくてん、まりょくなの?」
抱きついたままのリーゼが間近から俺を見上げ、問いかけてきた。
力なく苦笑しつつ首肯してみせると、リーゼは「うーん?」と呻きながら首を捻る。かと思うと、俺の背中に回していた手を自分の顔の前に持ってきて、
「えい」
不意に俺の胸に小さな掌を押し当ててきた。
一瞬だけリーゼの魔力が高まったのを感じた瞬間、俺の全身は電気ショックでも喰らったかのようにビクッと強張り、すぐにふらつく。
「ちょっとリーゼッ、なにやってるのよ馬鹿! あんたおばあちゃんの話聞いてたの!?」
軽い脱力感に見舞われた俺は再びベッドに横たわることなく、サラに上体を支えられた。リーゼは自分の手のひらと俺を見比べつつ、「おぉ……」と驚き半分に小さく感嘆している。
「ごめんねローズ、なんかよくわかんなかったから、ためしてみた」
「い、いえ……」
「だからって何も言わずに試しちゃダメでしょっ」
ゆるゆると首を振る俺を抱きしめながら、サラがリーゼに怒鳴った。だが幼狐はあまり気にした風もなく、また俺の身体に抱きついてくる。
相変わらず自由な幼女だな。
しかし……これで改めて実感したよ。
俺を一発KOするにはただ大量の魔力をぶち当てればいいという単純明快な事実は確かに存在する。ちくしょう、なんてこった……。
いや、ダメだ、落ち込むな。ネガティブになることはない。
慣れれば大丈夫らしいしね、うん。
それよりも今は断唱波のことだ。
下手したら魔動感より便利な魔法妨害技の方を今は気にしよう。
「それで……断唱波って、どうやって使うんですか? 詠唱省略ができないと、使えないって言ってましたけど」
今し方のリーゼの一撃の余韻を落ち着かせながら、俺はゆっくりと声を出した。
「うむ、簡単に言うと……そうじゃな。まず相手が使おうとする魔法と同じ魔法を、こちらは詠唱せずに使おうとするのじゃ。そして魔法として現象させる手前の状態まで魔力を練り、それを魔法として完成させることなく、魔力として放出する」
「なんか、意外と簡単そうね」
サラが拍子抜けしたように感想を溢すが、婆さんは首を横に振った。
「そう容易いものではないぞ。魔力を練って放出すると言っても、相手と同じ段階まで練った魔力をぶつけなければ、効果がないからの」
「それって、えっと……つまり、合わせるってこと?」
「うむ、じゃから必然、相手が詠唱していなければ機を見極められぬし、そもそもどんな魔法を使おうとしているのか分からなければ、断唱波は使えぬ。それだけでなく、こちらも同じ魔法を使える必要があるのじゃ。魔力とて、相手がその魔法に込めておる以上の量が必要となるしの。なにより詠唱省略で練った魔力でなければならぬし、相手が魔法を現象させた後に放っても効果はない」
「どーして、えーしょーしょーりゃくのじゃないと、だめなの?」
「さての、理由は分からぬ。普通に詠唱して魔力を練り、それをどれだけ正確な時機に相手へ当てても、効果はない。そうなっておる、としか言えぬな」
婆さんはいつもの落ち着いた口ぶりで言い、困ったように微苦笑を覗かせる。
少しややこしいので、整理してみようか。
断唱波を使用するには前提条件として、相手がどんな魔法を行使しようとしているのかが分かり、尚且つその魔法をこちらは詠唱省略で使用できる必要がある。そして相手と同じ段階まで魔法を練り上げ、それを魔法として完成させることなく、魔力として放ち、相手にぶつける。
ただし、魔力放出の射程はおよそ二十リーギス前後であり、魔女の場合はその半分程度。必要な魔力は相手がその魔法に込めようとしている魔力以上なので、普通に魔法を使うより魔力を消費するし、相手が魔法を現象させた後に放っても効果はない。
「……あんまり、使えないのでは?」
「使える場面は少ないの。じゃが、使えると使えぬ、知ると知らぬとでは大違いじゃ。もし詠唱省略のできる魔法士と対峙した際は注意する必要があるの。まあ、詠唱省略以上に、まともに使える者は少ないのじゃが」
「でも、それが使えたら凄いわよねっ。魔法を使わせないようにできるんだから」
そうは言っても、たぶん断唱波って最高レベルに高難易度な技だぞ。短い射程距離は未だしも、相手と同じ段階まで練った魔力をぶつけるってのが問題だ。
タイミングなんてそうそう合わせられな…………あ。
「今のうちから断唱波のことを意識しておれば、遅かれ早かれ、いずれ使えるようになろう。だからといって、決して容易なことではないがの。ただ、ローズは魔動感がある故、覚えやすいじゃろう。あたしも断唱波は得意じゃ」
「えー、ローズだけずるいー!」
「でも、ローズって魔力当てられただけで、倒れちゃうんでしょ? ある程度は慣れるって言っても……便利だけど、不便でもあるのよね」
リーゼは安直に羨ましがるが、サラは割と冷静だ。
だが、断唱波に限って言えば、魔動感はこの上なく役立ってくれそうだ。
俺は基本的に無詠唱で魔法を使うから、同じ魔動感持ちの相手でない限りは断唱波を使われる危険がない。だから魔力そのものを当てられる心配も普通はないわけだ。しかも魔動感のおかげで相手が詠唱していなくても、どんな魔法を使おうとしているのか分かる。一度その魔法の魔力波動のパターンを覚える必要はあるが、同じ魔法なら二回目から未然に防ぐことができるのだ。
……あれ、魔動感ってやっぱかなり使えるんじゃね?
「うむ、サラの言うとおり、魔動感は諸刃の剣じゃ。あたしたち家族以外には魔女であること同様、知られぬようにの。サラとリーゼも、良いな?」
「わかったー!」
「うん、言わないわよ。ローズの弱点だしね」
二人とも素直に頷いてくれるが、人から弱点って言われると改めてショック受けちゃう。
でも、そうだよ、弱点なんだよこの上なく。
急所と言っても生温いくらいだ。
こりゃ早く慣れないとな。ユーハの厳しい剣術修行に加えて、魔力の耐性訓練まで追加されるとか……毎日がハードスケジュールだ。
「おばーちゃんおばーちゃん!」
ふとリーゼが俺に肩を寄せたまま元気良く挙手した。
「あたしもまどーかんってゆーのほしー! どうやったらまどーかんになれるの!?」
「リーゼ、たぶん魔動感って生まれ付きの感覚だから、わたしたちには無理よ」
「いや、そうでもないんじゃよ。魔動感は魔人族ならば誰もが先天的に有しておる感覚じゃが、魔人以外の種族は後天的に目覚めるものという話じゃ。あたしも十代の頃に目覚めたからの」
「そうなんですか……?」
でも確かに、俺もこの世界で目覚めた当初は魔力波動なんて感じ取れなかった。
「じゃーあたしもめざめるーっ!」
「どうやったら魔動感を持てるようになるの?」
リーゼは意気揚々と、サラも何だかんだで期待に満ちた眼差しで婆さんを見つめる。が、当の老婆は珍しく言い淀むような渋面で逡巡するように目を伏せた。
「それは……ふむ……」
ちらりと俺に目を向けてきたかと思えば、婆さんは微苦笑を浮かべてかぶりを振った。
「すまぬが、おばあちゃんにも分からなくての」
「えぇー、あたしもローズとおばーちゃんといっしょがいーのにー」
「そうなんだ……おばあちゃんにも分からないんじゃ、きっと誰にも分からないわね……」
「……………………」
俺が魔動感に目覚めたのは、あの魔剣グラサン女に襲撃された後だった。
そして婆さんは二十歳で聖天騎士になるほどの優秀すぎる魔女で、十代に目覚めたということは騎士団にいたときのことだろう。当然、任務か何かで戦闘は経験していたはずで、死線をくぐったことも一度や二度ではないはずだ。
「ただ、魔動感に目覚める者は軒並み魔法力が高いという話で、天級魔法を扱える者よりも少数らしいのじゃ。実際、あたしもローズも魔法力は高いじゃろう? じゃから、魔女として才能あるサラとリーゼも、もしかしたらいつか目覚めるかもしれぬの」
その言葉を聞いて、リーゼもサラも笑みを浮かべ、無限の可能性を秘める未来へと期待感を募らせている。
が、俺は真意を探るべく婆さんの顔を凝視する。
「……………………」
婆さんは俺が感付いたことを悟ったのか、さも心配しているような憂慮さを湛えた顔で、無言のまま首を横に振ってきた。
俺は半ば以上確信してしまい、しっかりと頷きを返しておいた。
まず間違いなく、魔動感の覚醒方法を婆さんは知っているようだが、知らないと嘘を吐いた。では、なぜ婆さんは可愛い孫娘同然の二人に虚言など弄したのか?
それはおそらく、危険極まるからだ。
「さて、ローズよ、もう体調は良いかの? 良ければ、先ほどの続きを教えるとするが、どうする?」
「大丈夫です、教えてください」
気を取り直して、俺は決然と頷き、教えを請うた。
学習するチャンスを逃すつもりはない。
リーゼの一撃はそんなに強くなかったので、もう身体もちゃんと動く。
四人で一緒に幼女部屋を出ると、玄関へ向けて廊下を歩いて行く。
その途中、婆さんが思い出したように口を開いた。
「先の魔動感のことじゃが」
「なんですか?」
「断唱波にも関係あることじゃから、リーゼとサラも聞いておくれ」
先行していたリーゼと俺の隣を歩くサラも、婆さんに目を向けて耳を傾ける。
「ローズは既に本を読んで知り得たかもしれぬが、魔力を完全に遮ることができるのは魔力そのものか無属性魔法の盾、あるいは結界魔法の障壁だけじゃ。つまり、ローズが練習しておるように魔法の同時行使ができれば、同じ要領で詠唱中でもただ魔力を放てば断唱波は防ぐことができる」
「あ、そういえばそうですよね。しかもただ魔力を放つだけですから、魔法を使うよりも断然簡単ですし」
魔力そのものを相手へ放つことなど、魔石に魔力を込めるのと大して変わりない。ただ圧力を大きくして、勢いをつければいいだけだ。それにもしかするとだが、俺は中身が男なのだから、魔力放出の射程も男並かもしれない。
「うむ。ただまあ、断唱波には通常、それなりの魔力がのっておるからの。防ぐにも相応量の魔力が必要になる。最も確実なのは無属性魔法の盾を張ることじゃな。こちらの方が少ない魔力で多くの魔力を防ぐことができる」
そうこう話しているうちに一階ホールに出て、玄関を抜ける。
俺たちは再び館東側の草地までやって来ると、婆さんが俺に指示した。
「ローズ、盾を張ってみよ」
「無属性のですよね?」
俺は詠唱を省略して、無属性中級魔法〈魔盾〉を展開した。〈魔弾〉と同様、磨りガラスめいた仄白い色合いの盾で、婆さんから全身を遮る。魔力はそんなに込めておかなかった。
盾越しに婆さんが俺に右手を向け、その老体内で沸々と魔力が高まるのが感じられる。そしてややもせず、弓を引き絞るように高まっていた圧が一気に解放された。
しかし、俺はそれ以上、特になにも感じない。
「まあ、こんな感じじゃ。ローズの場合、魔動感で相手が魔力を放ってくると思ったら、盾を張っておけば防げよう」
「そうですね、そうします」
俺は自分に言い聞かせるように、しっかりと頷いた。
魔動感のせいで色々と面倒ではあるが、それでも魔動感の恩恵は大きい。一応は対応策もあることだし、やはりこの第六感は得難いメリットだろう。
長所が短所であり、短所が長所でもある。
この感覚を活かすも殺すも全ては俺次第だ。
「では、少し断唱波の練習をしてみようかの。とても難しいことじゃから、できなくとも落ち込むことはないからの。むしろできなくて当然じゃ」
そう前置きされて、その日の俺たちは婆さんに手取り足取り指導してもらった。
まあ、魔動感があっても、結局全然できなかったけどさ……。
でも射程はやはり野郎並にあった。
♀ ♀ ♀
紅火期第四期に入って、四日目。
サラの誕生日になった。
この世界の誕生日は貴族でもない限り、毎年のようにいちいちお祝いしたりはしないらしい。ただ、七歳と十五歳のときは一般家庭でも派手に祝福するのだそうだ。
どうにもこの世界では七歳から半人前、十五歳から一人前という慣習があるようなのだ。だから我が家でも七歳から猟兵協会に行かせることになっている。
サラは今年で九歳だ。なので七歳の頃のようにプレゼントは特にない。
ただ、いつもより少しだけ豪華な夕食が振る舞われるだけだ。
「サラはもう九歳ですのね。来年には十歳になりますし、子供の成長というのは早いものですわねぇ」
「なんでまたアンタはちゃっかりいんのよ」
ウルリーカのしみじみとした言葉に、セイディが胡乱な目付きで呟きを返した。
「あらセイディ、愚問ですわね。女の子の誕生日というものは特別なんですのよ? 今日この日、サラは淑女へとまた一つ成長したのですから、一人でも多くの者がそれを祝福してあげなくては」
「だったら毎回毎回、夕食時に合わせて来るなっての。アンタ定期連絡のときはいつも昼頃来るくせに」
肉をフォークでぶっ刺しながらセイディが言うと、ウルリーカは目を伏せて小さく首を横に振った。緩くウェーブした長髪は相変わらずもっさりとしていて、頭の動きにつられてふわふわと揺れ動く。
ちなみに胸部はクレアとセイディの中間ほどの大きさなので、そちらは首を振ったくらいでは揺れない。クレアが同じ動きをすればプルンプルンするが。
「これでもわたくしは気を遣ってるんですのよ? 誕生日とはまず何よりも家族で祝うもの。ですから夕方までは家族での時間ということで、わたくしは遠慮してるんですのに……」
「ウルもかぞくなのに、なんでえんりょしてるの?」
「まあリーゼッ、なんて嬉しいこと言ってくれるんですの!? ほら、わたくしのお肉をお食べなさい!」
「おぉっ、ありがとーウル!」
ウルリーカは口元を手で押さえて大げさなまでに驚喜し、肉をもらったリーゼも手にしたフォークを嬉しそうに突き上げた。今日の食卓――誕生日の食卓は、毎度のことながらいつもより賑やかだ。
今更の話、ウルリーカは三節に一回の頻度で我らがリュースの館を訪れている。
彼女は《黎明の調べ》が魔大陸に置く二つの支部――西支部と東支部の連絡要員なのだ。東支部からの連絡はウルリーカが、ここ西支部からの連絡はアルセリアが行う決まりになっている。だが、西支部の方は何か余程のことがない限り、東支部へ行くことはない。
俺は元よりセイディもクレアも、西支部への行き方は知らないし、行ったこともない。これは情報漏洩を防ぐための処置らしく、基本的に支部員は他の支部についての情報を持たないものだそうだ。
過去、《黄昏の調べ》に《黎明の調べ》の一員が掴まったことがあり、そのせいで幾つもの支部の場所が割れ、襲撃を受けたことがあるらしい。なので、各支部で他の支部への行き方を知っているのは連絡要員と支部長の二人だけなのだ。
ただ、この館の地下には魔大陸東部にあるラヴルという町の近郊に繋がる転移盤があり、ウルリーカはいつもそこからやって来る。
本来、各支部間の移動は必要最低限にしなければいけない決まりとなっているが、ウルリーカは定期連絡とは別に、俺たち幼女の誕生日には決まって訪れる。
「セイディ、貴女ウルリーカが来るといつもそういう態度とるわよね」
「それは……だって、なんかこいつとは反りが合わないんですよ、色々」
ウルリーカに対する不貞不貞しい態度から一転し、素直で従順な様子が感じられる様子でクレアに答えるセイディ。
黒髪美女はそんな天使の言葉を笑顔で受け取り、告げた。
「でもセイディ、今日はウルリーカが来る前から一人分多く作っていたじゃない。いえ、今日だけではなくて、ここ何年かはそうしているわよね?」
「セイディ……貴女なんだかんだ言いつつ、わたくしのことが好きなんじゃありませんの。これからはクレアと同じように、わたくしのこともお姉様と呼んでいいんですのよ?」
「誰が呼ぶかっ、アタシのお姉様はお姉様だけよ! それに、一人分多く作ってるのは後で作り足すのが面倒なだけよ」
セイディはそう言って、「んべっ」と顰め面で舌を出した。
それを見てウルリーカは「まあ、はしたないですわね」と溢した後、口元に手を添えて俺たち幼女に「アレは真似しちゃいけませんわよ」と小さく注意してくる。言われるまでもなく、真似する気はないが。
というか、セイディももう二十二なんだから、大人げない振る舞いはどうかと思う。ちなみにウルリーカは二十五歳だ。
そんな感じに賑やかな夕食を堪能した後、いつものようにお風呂タイムとなる。
だが、今日はウルリーカがいるので、彼女とも一緒に入る。既に何度かご一緒したことはあるが、やはりたまにしか見られない美女の裸は特別な感じがする。
「アンタ相変わらず毛深いわね」
「そちらこそ、相変わらずまな板のようですわね。それより口を動かす暇があるのなら手を動かしなさいな」
今日はクレアの言葉により、俺たち幼女三人とウルリーカ、セイディの五人で入浴となった。クレアはアルセリアと一緒に夕飯の後片付けだ。
ちなみにセイディの言うとおり、ウルリーカは結構毛深い。彼女はリーゼと違って、獣人らしく背中一面に短い毛が生えているから、余計にそう感じる。長い髪も量が多くてもっさりしてるしね。
「んっ……ローズ、ちょっとくすぐったい。もう少し雑にしていいから。ちょっと丁寧すぎ」
「でも、今日はサラの誕生日ですから。しっかりと丁寧に洗わせてもらいます」
「ちょ、きゃっ……ちょっとローズ、そこは……あははっ、付け根は、んぅ……やめ、てぇ……っ」
俺はサラの背中を洗いながら、翼の生え際をくすぐってやった。
マイハンドによって裸の美幼女が可愛らしい声を上げながら身悶えている。
現状を改めて認識すると、なんか興奮してくるな……って、いやいや違う違う、俺は九歳児に興奮するようなロリコンではない、断じて。
俺たち五人は現在、一列になって背中を洗っている。先頭はサラで、その後ろに俺、リーゼ、ウルリーカ、セイディと続いている。いつもならリーゼが先頭だが、今日は誕生日ということでサラが先頭だ。
「ローズもくすぐってやるー!」
「ぃひっ、ちょっとリーゼ……きゃは、あはははっ!」
サラにドキドキしていると、いきなり後ろから脇腹をくすぐられる。
不意打ちのせいか、自分で言うのも何だが、サラに負けず劣らずの可愛らしい声が出てしまった。なんか無性に恥ずかしい。
俺がくすぐられていると、リーゼはウルリーカに、ウルリーカはセイディにくすぐられ始めた。セイディ以外の声が風呂場に大きく響く。だが、俺も含めてみんな笑いながらも手を止めようとはしない。
しばらくの間、姦しく背中を洗い合った後、みんなでセイディの背中と翼を洗うことになった。彼女の翼はサラのそれと違って大量の羽毛が生えているため、きちんと洗おうと思ったら結構な労力が必要となる。なので、四人で洗えばすぐに終わるのだが……。
「セイディ、さっきはよくもやってくれましたわね」
ウルリーカがセイディをくすぐり始めたことで、かなり時間が掛かった。まあ、俺たち幼女も参加して、四人掛かりで攻めはしたけどね。
セイディの笑い声は快活な響きが大半を占めてはいたが、エロティックなトーンも少しだけ感じられた。くすぐったさと快感は実質同じものだからな。くすぐられる美天使の様子はなかなかに官能的で、もし俺の股間に息子がいたら反応していただろう。
最終的に、セイディは俯せになって息を荒くしていた。なんだかんだ言いつつ、やはりセイディとウルリーカは仲良しだと思う。喧嘩するほどって言うしね。
「あー、疲れた……」
全員で湯船に浸かると、まずセイディが深い吐息と共に呟きを溢した。
「いいじゃないですの、楽しくて。やっぱり子供がいる生活っていいですわね」
「ふふん、羨ましいでしょ」
「ええ、まったくもって。というわけでローズ、明日から東支部で暮らしませんこと? 毎日一緒にお風呂入ってあげますわよ?」
ウルリーカに後ろから抱きつかれ、そのまま彼女の足の上に座らせられた。
背中も尻も女体クッションによってフカフカで、実に気持ちいい。
「ダメよ、ウル。ローズは渡せないわ」
「それでは、サラとリーゼも一緒に来ませんこと?」
「ウルのことは好きだけど、わたしクレアもセイディもみんな好きだから、行けないわ」
「さすがサラね、よく言ったわっ」
今度はサラがセイディに抱きつかれた。
しかし、サラはどことなく鬱陶しそうに身をよじっている。
その横ではリーゼが仰向けになってプカプカとお湯に浮きながら、眠たそうに両目をしばたたいている。さっきのくすぐりとウルリーカの来訪にはしゃいだせいか、今日は早くも体力が底を尽きかけているらしい。
「そういえばセイディ、先ほどの夕食の席でも思ったのですけど」
「ん、なによ?」
「貴女、いつまでクレアのことを『お姉様』と呼んでるんですの? 十代の頃は未だしも、もう貴女もいい歳なんですから、そろそろ改めてはいかが?」
ウルリーカが思い出したように問いかける。
すると、セイディはさも当然のことのように堂々とまな板胸を張った。
うぅ、哀愁を誘われすぎて直視できないよ……。
「変えるわけないでしょ、歳なんて関係ないわよ。アタシにとってお姉様は一生お姉様なのよ」
まるで恋する乙女のような眼差しになり、腕の中のサラをきつく抱きしめるセイディ。サラは「もう放してセイディ」と抗議するも、本人は聞こえていないのか、ニヤニヤした笑みを浮かべるばかりだ。
たまにセイディは人の話聞かなくなるんだよな……。
「あの、今更なんですけど、どうしてセイディはクレアのこと、お姉様って呼んでるんですか?」
「よくぞ聞いてくれたわね!」
いい機会だと思って何気なく訊ねてみると、凄い勢いで食いつかれた。唐突な大声に、うとうとしていたリーゼがビクッと両耳を立てて飛び起きる。
「ちょっとセイディ、落ち着きなさい」
「そう、アレはアタシが十四のとき……トリム島を飛び出して、この魔大陸にやって来てしばらく経った頃のことよ」
ウルリーカの声など届いていないのか、セイディは一人勝手に語り始める。
こんな感じにエキサイトし出した美天使はなかなか鎮まらないので、そのままにしておくのが一番だ。抱きしめられたまま動けないサラは気の毒だが、彼女も分かっているのだろう。もう諦めた顔で脱力し、されるがままになっている。
そうして、セイディは長々と思い出話を披露し始めた。
どうせすぐ終わるだろうと思っていたが、話にクレアが登場し出してからは彼女についていちいち必要以上に詳細が語られる。途中で事情を知るウルリーカが口を挟もうとしても、セイディは意に介さず口を動かし続け、結局話が終わる頃には俺たち幼女はのぼせかかっていた。
「というわけで、この愚かだったアタシを心優しいお姉様がお救い下さったのよ。だからアタシは敬愛の念を込めてお姉様と呼ぶことにしたわけ」
「……そうですか」
正直、アホみたいに冗長な話だったので、三行で纏めるとこうなる。
当時やんちゃだったセイディが自業自得の事態に陥る。
それをクレアが華麗に助け出す。
セイディは感謝してクレアをお姉様と呼ぶようになる。
「さあ、それでは上がりますわよ。ほらセイディ、そろそろサラを放してあげなさいな」
「あっ、ごめんごめん、大丈夫サラ?」
「……ん」
サラは幾分か元気がなかった。セイディの長話を耳元で聞かされ続けたせいで疲れたのだろう。
だが、俺の方はそこまで疲れていない。俺とウルリーカとリーゼは話を聞きながらも、三人でイチャイチャしていたのだ。ウルリーカの御山は大きさこそ並だが、やはり感触は最高だったよ。
早く俺の胸も大きくなって欲しいものだ。そうすればいつでもどこでも満足するまで至福の感触を楽しめる。
「まったく、セイディは相変わらずですわね。そんなことでは一生、殿方といい仲にはなれませんわよ」
溜息と共に立ち上がり、洗い場で尻尾を振って水をきりながらウルリーカが嘆息した。セイディも翼を羽ばたかせて水気を飛ばしつつ、反論する。
「男とそんな仲になる気なんて毛頭ないからいいわよ。アタシは一生お姉様と一緒に生きていくんだから。というか、そういうアンタだって男なんていないでしょーが」
「わたくしと釣り合う殿方がいませんもの」
「アンタは理想が高すぎなのよ。もう二十五なんだから現実見なさいよ現実」
話を聞く限り、やはり二人とも男はいないようだ。
なんだか安心する反面、心配にもなる。
この世界では十代半ばで結婚することがざらにあるようなので、二十代で未婚の二人はこの世界基準の婚期でいえば早くもやや行き遅れぎみだ。二人が野郎とラブラブになると思うと心中複雑になるが、それでも二人には幸福な人生を送って欲しい。
とはいえ、セイディは一生クレアと生きていくと言う。
クレアは彼氏いるのに……もしかしてセイディは知らないのだろうか?
ウルリーカに現実見ろと言っているくらいだし、知っていたらそんなことは言わないはずだ。
「あの、セイディ……」
「どうしたの、ローズ、なんか浮かない顔してるわね。あ、もしかしてのぼせちゃった?」
「いえ、その……セイディはクレアに彼氏がいるってこと、知ってますか……?」
「……………………ぇ?」
セイディはその場で硬直した。
彼女の傍らではウルリーカが口を半開きにし、サラは目を見開いて驚きを露わにしている。リーゼだけは「かれし?」と小首を傾げているが。
「ちょ、ちょっとローズ、それほんとなの!? クレアが男と付き合ってるってっ!?」
「え、ええ、おそらくは。前にクレアが言ってましたし」
「まさかクレアに交際している殿方がいるだなんて……しかしそうなると、協力関係にある町の方ですわよね? とすると、ランドンさん? セイディ、貴女なにか心当たりは――って、セイディ?」
「――――」
美天使の顔には表情がなかった。瞳は虚ろで焦点が合っておらず、力なく立ち尽くしている。全裸であることも相まって、まるでこの世の終わりを連想させる悲壮かつ虚無的な姿だ。
その無機質ながらも綺麗な顔の前でウルリーカが手を振ると、セイディはピクリと身体を微動させた。かと思いきや……
「ぅわああアアァァァアアあぁ、お姉様あぁああアァアァアアァ!」
かつてないほど切羽詰まった奇声を上げながら、風呂場を飛び出していくセイディ。足音からしてそのまま脱衣所をスルーしたらしく、その足音もあっという間に遠ざかっていく。ただ、セイディの奇声めいた悲鳴は尚も響いてくるが。
俺もサラもウルリーカも全裸で呆然とする。
そんな中、リーゼだけはやや困惑した様子を見せながらも俺の手を小さく引っ張っぱり、あどけない声で訊ねてきた。
「ねえローズ、かれしってなに?」
♀ ♀ ♀
風呂から上がると、談話室で全裸のセイディがクレアに泣き付いていた。
見る限り、マジ泣きだった。
何事かと様子を見に来た婆さんやアルセリア、そして俺たち幼女とウルリーカの六人は、その非日常的すぎる光景を前に言葉を失った。
「とりあえず、二人で話してみますから」
クレアも同じく驚き戸惑っていたが、そう言ってセイディと一緒に二階の自室へ引っ込んでいった。残された俺たちは婆さんとアルセリアから事情を訊かれたので、ウルリーカが風呂場でのことを簡単に説明する。
すると、二人とも納得したように、それでいて呆れたように頷いて、
「放っておけば良い」
「クレアに任せておけ」
とだけ言い残し、年長者コンビは一緒に風呂場へと向かっていった。
俺たち四人は訳も分からぬまま、ひとまず談話室で雑談しつつ、クレアが戻ってくるのを待つことにした。
そして、そろそろ寝る時間になった頃、黒髪美女が一人で談話室に顔を出した。彼女は真っ先に質問攻めするサラを抑えると、気まずそうに口を開く。
「えーっと、まずセイディはもう大丈夫だから、安心して。あと、私が男性と付き合っているって話は、その……誤解だから」
「でもクレア、前にローズに言ったんでしょ?」
「あれは、その……冗談というか、物の弾みで言ったことなのよ。だから本当のことじゃないし、私は誰とも付き合ってなんていないわ」
そうして、この一件は幾つかの引っかかりを残しながらも幕を閉じた。
その日、俺たち幼女はウルリーカを加えた四人で一緒にベッドインし、いつもより騒がしかった一日を終えた。
しかしこの日、俺は気付くべきだったのだ。
気付けていれば、あの大事件を回避できたのに……。