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幼女転生  作者: デブリ
四章・日常編
65/203

第四十八話 『治にいて竜を忘れず』


「さて、では今日も練習を始めるとしようかの」

「おぉーっ!」


 のんびりとした婆さんの言葉に対し、幼狐はやる気満々に両手を天へと突き上げた。


「ここで見ているから、周りに注意して練習するのじゃぞ。分からないことがあれば訊いても良いが、その前にまずは自分で考え、四人で知恵を出し合うのじゃ。それでも分からなければ、訊きに来ると良い」


 もう何度も聞いた定番の前置きを口にして、婆さんは持参した木の椅子に腰を下ろした。中庭ならベンチがあるが、館の外にはない。魔法の練習はだいたい館東側の少し開けた場所で行う。


「ローズは今日どうするの?」


 さて魔法も頑張るか……と一人気合いを入れていると、サラが話しかけてくる。

 春の穏やかな日差しの下ではサラの美幼女っぷりが一段と映える。思えば、サラはあと二年で十歳になる。ちょうどこれから美少女に成長していくという時期に、俺は館を出て行かねばならないのだ。

 決意が鈍りそうだから、深くは考えまい。


「なに、どうかした?」


 サラがやや前屈みになって顔を覗き込んできた。

 仕草がいちいち可愛く見えてしまう。

 お、落ち着け俺……俺は断じてロリコンではないし、サラは姉で家族だ。


「あ、えっと、そうですね……今日は中級魔法で同時行使の練習でもしてみようかな、と。サラはどうするんですか?」

「わたしは今日も上級魔法で詠唱省略ができるように頑張ってみるつもりよ。早くローズに追いついて、追い越しちゃうんだから」


 幼狐と同じく、サラもやる気は十分だ。


 サラも俺たちと同じく、一年ほど前から詠唱省略ができるようになっている。

 ただ、彼女の場合はできるようになるまで六節も掛かった。初めは適性属性の初級闇魔法で試していたが、それは魔物狩りで使いまくっていたらしく、俺が三節以上付きっきりで練習しても短縮すらできなかった。そこで土属性の初級魔法で試した結果、三節ほどで省略までできるようになったのだ。現在では闇属性魔法なら、初級から中級までの習得済み魔法は詠唱省略化できている。


「なんかいいえばわかるんだウェインっ、ひまほーはこーやって、ぼっとやって、ばってして、どーんってやるんだ!」

「だから、それじゃいみわんねーんだよ、そっちがなんかいいえばわかるんだ。もっとわかりやすくせつめいしろっていってるだろ」


 俺とサラが話している一方、リーゼとウェインは一緒に火魔法の練習をしている。というか、奴がリゼットに教えを請うているのだ。


 かまくらの件があった頃から、ウェインはたまに俺たちの魔法練習に参加するようになった。どうやら奴の育ての親(本人は同居人と言い張っている)の指示らしい。初級の火魔法と水魔法くらいは習得しておいた方が何かと便利だし、同居人のトレイシーは女だから、男のウェインには習わせたいのだろう。

 ちなみにウェインの本分は肉体的な鍛錬にあるらしく、トレイシーから神那流を教わっているようだ。


「なんだとぉーっ、そんなことゆーならローズかサラねえにおしえてもらえばいーだろー!」

「いや、あいつらは……ダメだっていってるだろ。とにかく、もっとていねいにおしえろ」

「おしえてくださいだろー! やりなおーしっ!」

「お、おしえて……ください」


 ウェインは渋々といった感じに小さく頭を下げている。

 素直に俺かサラに師事していれば、もう初級魔法くらいなら使えるようになっていたかもしれないのに、どうやら奴のプライドがそれを許さないらしい。

 俺を先生と呼ばせて、今のうちにしっかりと教育しておきたかったのに……

 逃げたなあいつ。


「そういえば、ローズって最近、覇級魔法の練習してないわよね? もう諦めちゃったの?」

「諦めたというか、その……覇級以上はまだいいかなと思いまして。まずは特級魔法までを極めた方が魔物相手にも使い易いですし」


 本当はほとんど諦めているのだが、サラには諦めたと言いたくはなかった。

 向上心のない幼女だとは思われたくないからな。

 

「ふーん、そうなんだ。でも、それはそれでいいかもね。ローズは無属性だし才能あるから、色んな魔法が使えた方が便利だろうし」

「……まあ、そうですね、そんな感じです」


 才能、ね。

 アインさん曰く、俺には覇級以上の魔法を習得できる可能性がほぼないらしいし、今更自分に才能があるとは思えない。

 

 俺たちが話しているうちに、リーゼはウェインへの指導を一旦打ち切り、自分の練習を始めていく。まずは既に習得済みの魔法の復習からで、婆さんに作ってもらった幾つもの氷壁へ火魔法を打ち込んでいる。


 リーゼは現在、適性属性の火属性は中級魔法まで詠唱省略で使えるが、上級魔法はまだ詠唱しても使えない。あと一年ほどで七歳だが、クラード語も覚え切れていない。今の調子でいけば、七歳になる前に猟兵となる条件――クラード語の習熟と上級魔法の詠唱省略化は達成できそうにないだろう。

 少し可哀想だが、これも現実ってやつを学ぶいい機会だ。


「わたしたちも始めましょ」

「そうですね」 


 俺とサラもまずは習った魔法の復習から始める。

 的はやはり婆さんの作った氷壁だ。

 まずは既に習得済みの各属性魔法を初級から特級まで順番に使っていく。


「ローズ、たまにはそっちの使わせてくれない? わたしのと交換」


 復習を始めて間もなく、サラが俺の身の丈ほどもある杖を差し出しながら言ってきた。

 

「いいですよ、どうぞ」


 俺は自分が手にしていた杖を手渡し、サラが使っていたものを代わりに受け取る。

 館に来てからというもの、俺は増魔石を使える機会に恵まれていた。

 増魔石とは魔法の威力を増幅することができるという、非常に便利で高価な魔石だ。ただ、増魔石の扱いにはある程度の慣れが必要で、普通に魔法を使うよりも少し難しい。増魔石は魔力を通しやすい――通魔性の高い素材と組み合わせて杖にすることが一般的で、魔石がアタッチされた杖は魔杖まじょうと呼ばれる。

 増魔石は直接手に触れて使うこともできるが、一定以上の大きさになると持ちきれなくなるし、戦闘中に魔石を握りしめながらだと戦いにくい。加えて、杖には増魔石だけでなく蓄魔石も同時に付けると更に便利なので、増魔石をそのままの状態で使用することは少ないらしい。


 増魔石にも色があり、この色彩パターンと適性属性の関係は、蓄魔石に魔力充填した際と同じだ。つまり赤い増魔石は火属性魔法を、黒い増魔石は闇属性魔法の威力を特に増幅してくれる。そして案の定、白い増魔石は属性に関係なく魔法の威力を満遍なく増幅してくれる一方、その効果は他色の増魔石に劣るし、無属性魔法の増幅効果も他ほどではない。

 ちなみに増魔石の質は色合いと大きさによって変わってくる。純色に近くて大きいほど高質であり、高質な魔石ほど価値は幾何級数的に増大するらしい。


 俺が常用している魔杖は全長が百五十レンテほどの大きなもので、先端付近に直径二十レンテほどの丸い増魔石が付いている。その下には同程度の蓄魔石も付いており、こちらは魔力を充填していないので無色透明状態だが、増魔石の方は純白だ。杖自体のデザインも洗練された流麗さを誇り、幼女でも持てるほど軽いくせに堅牢かつしなやかだ。

 他の魔杖をあまり見たことがない俺でも、これが超が付くほどの一級品であることは一目見たときに分かった。それも当然のことで、なにせこの魔杖は婆さんのものなのだ。聖天騎士団に十三人にしかいない聖天騎士――世界最高の魔法士の一人として、四十年近くも活動していた御方の魔杖。

 婆さん曰く、この魔杖一つで城が建つらしい。

 うん、家じゃなくて城ね。


「やっぱりおばあちゃんの杖は凄いわね。効果が全然違う」


 サラは闇属性中級魔法を無詠唱で使いながら、満足げに頷く。

 先ほどまでサラが使っていた魔杖も相当な高級品で、十レンテほどの増魔石は漆黒と評して問題ない色合いのものだし、杖自体も通魔性が高く、軽くて丈夫だ。それはリゼットの魔杖も同様で、二人とも適性属性が分かってすぐに、婆さんが購入したものらしい。婆さんは意外と親馬鹿――婆馬鹿だ。


 サラは二、三回使った程度で自分の魔杖に持ち替え、俺も婆さんの魔杖で再び復習していく。淡々と作業的に火、水、風、土、無、光、闇の順に属性魔法の復習を一通り終え、治癒魔法の復習はそこらの木を魔法で適当に傷つけて治していく。解毒魔法に関しては明確な結果の見える復習法がないので、とりあえず自分の身体に使うだけ使っておく。


「ふぅ……」


 俺の復習が終わる頃にはリーゼもサラもとっくに次の練習に入っている。

 ウェインは一人でぶつぶつと詠唱し、初級火魔法の習得に励んでいる。

 俺も早く更なる高みへの努力を始めなければ。

 

 最近、俺は新魔法の習得より魔法の同時行使に重点を置いている。

 一度に一つしか魔法が使えないというのは、よく考えなくても不便だ。日常では風魔法と火魔法を組み合わせればドライヤーになるし、戦闘方面でも単純に新魔法を習得するより、既存の魔法を掛け合わせた方が戦術の幅が大きく広がる。ちなみにこの練習に魔杖は使用しない。


 既に初級、下級魔法を同時に二つ行使することはできる。

 最近は中級魔法だ。

 なんだか中級魔法から一気に同時行使が難しくなった気がする。等級が上がるにつれて魔法を現象させるための魔力の流れは複雑化してくるので、当然といえば当然なのだが。


 魔法の同時行使は謂わば両手で同時に字を書くようなものだ。左右の手で別々の漢字を同時に書くことなど、前世の俺には到底無理な芸当だった。

 中級魔法の同時行使はなかなか苦戦している。一方の魔法だけ現象することもあれば、どちらも現象しないことだってある。どちらも現象する場合でもアホみたいに時間が掛かったりして実用性に欠ける。

 おそらく、これはもう完全に慣れの問題なので、ひたすら反復練習をしていくしかないのだろう。地味で集中力を使う練習だ。


 それだけならまだいいが、俺には魔動感という第六感がある。

 今現在、サラとリーゼが近くで魔法を使っているため、ほとんど常に二人の魔力波動が伝わってきて集中が乱れるのだ。だからといって二人から十分に距離をとって練習しても、練習にならない。

 もしエネアスのときのように魔法士と戦うことになった際、敵味方問わず他人の魔法行使で集中を乱され、魔法が使えないなどという失態は命にかかわる。魔動感は他人の魔法行使の前兆を察知できる便利感覚だが、何事も過ぎたるは及ばざるが如しというわけだ。


「ねえねえ、ローズ、おてほんみせて!」


 一人黙々と中級魔法の同時行使を練習していると、今度はリーゼが話しかけてきた。春の陽気のせいか、蜂蜜色の毛並みに覆われたフサフサの尻尾を見ていると、なんだか無性に昼寝がしたくなってくる。獣耳はツンと立ち、たまにピクピク微動するところが最高にキュートだ。


「ローズ? どーかしたの?」

「――え、あぁいえ、何でもありません。今日は日差しが温かいので、少しボーッとしてました」

「ダメだよローズ、ボーッとしちゃ。まほーのれんしゅーちゅーは、しゅーちゅーしなきゃあぶないんだよ……って、おばーちゃんもいつもいってるし!」


 おぉう……リーゼから注意された。

 明日は嵐になるかもしれん。

 

「そうですね、すみません。ところで、お手本ですよね」

「うんっ、おねがいねローズ!」


 お願いされなくても、お手本くらいなら何度でも見せてあげますよ。


 基本的に俺たちの魔法練習で、婆さんは手本を見せてくれない。

 婆さんは俺たち三人(たまに四人)が協力して練習するように言うので、俺が使える魔法は俺が手本を見せることになっている。俺たちの中で一番多く魔法を習得しているのは俺だからね。俺が使えない魔法だったり、俺が新しく魔法を習うときには婆さんが手本を見せてくれるが。

 

 そういうわけで、お手本役の俺はまず念のため、目の前に氷壁を張った。

 それから十リーギスほど先に立つ目標の氷壁へと氷越しに狙いを定める。


「今日は詠唱はした方がいいですか?」

「うーん……いちおーしてっ!」

「分かりました」


 俺は特に気負うことなく頷き、最近リーゼが何度も口にしている詠唱を唱えた。


「名工が用いるは不滅の一、異色の種火は爆炎と化す。

 暁日の彩りは剣閃の煌めきが如く、その光輝は冥牢を糺す。

 我が眼前に立ちはだかる狼藉者を滅却せよっ――〈爆炎バ・ラトス〉」


 分厚く屹立する氷の前に小さな火が灯ったと思いきや、瞬く間に膨張して赤々とした爆炎が生じた。氷は根元から容易く吹き飛び、どころか地面をクレーター状に抉り取って、粉々になった氷の破片が半円状に爆散する。こちらにも幾つかの欠片がパラパラと飛んできたが、氷壁のおかげで問題にはならない。

 爆炎の熱波と衝撃波は全方位に広がって下生えの雑草をなぎ倒すも、これもやはり氷壁のおかげで俺たちに影響はない。本当はもっと魔力を込めて威力を上げることもできたが、自重しておいた。


「おおおぉぉぉぉぉっ、やっぱりかっこいぃぃぃーっ!」


 リーゼは無茶苦茶に足踏みしながら両手と尻尾を振って興奮を露わにする。

 毎度毎度リーゼはリアクションがいいから手本の見せ甲斐がある。

 とはいえ、リーゼは今の魔法を練習し始めてもうだいぶ経つ。そろそろ習得してしまわないと、詠唱短縮と省略がし辛くなってしまうだろう。

 

「なんかいまならできるきがしてきた! ローズみててっ、やってみるから!」


 リーゼはテンションマックス状態のまま、氷越しに別の氷壁に目を向けた。

 瞳は爛々と輝き、表情はやる気に満ち満ちている。魔法は気分で使えるようになるほど簡単なもんじゃないんだが……まあ、リーゼは何事も感覚派な子だから、もしかしたらイケるかもしれない。


 幼狐は両足を僅かに開き、右手を前に突き出して、小さな身体から大きな声を出して詠い唱える。


「メーコーがモチいるはフメツのイチ、イショクのタネビはバクエンとカすっ。

 ギョウジツのイロドりはケンセンのキラめきがゴトく、そのコーキはメーローをタダす!

 ワがガンゼンにタちはだかるローゼキモノをメッキャクせよっ――〈爆炎バ・ラトス〉!」


 俺は魔動感によって感じる魔力波動から、直感的に成功したことを悟る。

 リーゼの狙い定めた氷壁が派手に爆散した。目を灼くような赤光が瞬き、爆燃によって氷壁は根こそぎ吹き飛んで四散する。氷越しにもその威力の程は伝わってきて、昂揚したテンション以上に魔力を込めたのか、発生した爆炎からしてさっきの俺のより威力がある。

 中空でうねる焔が僅かな余韻を残して消えると、しばし沈黙が漂う。行使者のリーゼも、椅子に座って見物していた婆さんも、離れたところに立つサラも、みんな驚いた顔をしていた。俺もビックリだ。


「ふぉぉぉおおおぉおぉぉおおおぉぉっ!」


 ゴールを決めたサッカー選手の如く、リーゼは力強く両手を突き上げながら駆け回り始めた。飛び跳ねたり、前転したり、腕と尻尾を振り回したりと、忙しなく全身で喜びを表している。


「良くできたの、リゼット。凄いぞ」

「リーゼも上級魔法使えるようになったのかぁ……なんか複雑だけど、まあよかったじゃない」

「ほんとむちゃくちゃだな、こいつら……」


 婆さんは嬉しそうに口元の皺を深くした。

 サラは色々と思うところがあるのか、やや苦味の混じった笑みを浮かべながらも、その声は明るい。

 ウェインに至っては平然と魔法を連発する俺たちに感心を通り越して呆れ果てているっぽい。

 たぶん奴の反応が一般的だ。


「やったぁっ! これでりょーへーだ! あたしもみんなといっしょにまものをかりにいくんだーっ!」

「でもリーゼ、まだ詠唱省略がありますよ。クラード語もまだですし」

「すぐできるようになるもん!」


 俺の諫言も何のその、幼狐の興奮は収まる気配がない。


 今からおよそ一年半前、当時は幼女にはたぶん無理だろうと思った条件だったが……これは俺も七歳になる前に魔物狩りへ行くことを覚悟しておいた方がいいかもしれない。

 とはいえ、魔法実技はともかく、リーゼは座学が苦手というか嫌いだからな。

 結局どうなるかはまだどうとも言えんか。


「はやくえーしょーしょーりゃくするぞーっ!」


 リーゼは館に戻ってクレアたちにも報告したりして、一通りはしゃぎ終わった後、すぐに詠唱省略の練習に移った。しかし、詠唱省略は気合いだけでどうにかできるものではない。サラも上級魔法の詠唱省略で詰まっているのだ。いくら感覚派とはいっても、そこまで現実は甘くない。

 そして、それは俺にも言えることだ。


 結局、俺はその日も中級魔法の同時行使は上手くいかず、進歩のないまま一日が終わった。いや、実感しづらいだけで、着々と前には進めているはずだ。

 そうに違いない。そう信じよう。そう信じたい……。



 ♀   ♀   ♀



 さて、今のところはたぶん順調だ。

 アインさんから言われた俺がすべき三つのことのうち、二つは目処が立った。

 問題は残りの一つだ。

 

 レオナのことを決して諦めずにいること。


 ある意味これが一番難しいと言える。

 なにせ俺はリーゼと出会った翌日、彼女に泣きつかれたことでレオナを後回しにしてしまった。あのときの俺はレオナよりリーゼを優先したのだ。

 その選択を後悔してはいないが、意志力が弱かったことは確かな事実だ。


 俺はレオナを探し出し、再会する。

 その決意を維持するためには何をすべきなのか。

 考えた結果、二つの案が浮かび上がった。


 まずは一つ目。


「アルセリアさん、私に竜人語を教えてください!」


 俺はアルセリアの部屋を訪ね、椅子に座ってくつろぐ彼女に頭を下げた。

 

「なんだ、急にどうした?」


 当然というべきか、アルセリアは少し困惑している。といっても、せいぜい声色に表れているくらいで、彼女の泰然とした雰囲気は健在だ。

 

「以前話したレオナという子のことは、覚えてますか?」

「あの歌を教えてもらった、竜人と人間の混血の子のことだろう」


 アルセリアは淀みなく答える。

 人間で九十二歳といえば普通はボケていても何らおかしくはないが、竜人は長命種だ。今の時期がようやく人生の折り返し地点なのだろう。

 

「あの、実はですね……」


 俺は婆さんにしたのと同様の話をアルセリアにもした。本当はどうしようか迷ったが、アルセリアなら全部ひっくるめて大丈夫だと思えた。


「ふむ……そうか」


 俺の話を聞き終えると、アルセリアは落ち着きある所作で短く頷いた。

 その反応に俺は漠然とした不安感を覚えて、少しもじもじしながらも訊ねてみる。


「お婆様には反対されたんですけど……アルセリアさんも、反対……ですか?」

「……いや、どうだろうな」


 アルセリアは凪いだ湖面のような、いつもと変わらぬ穏やかな瞳で俺を見つめてきた。


「もちろん、ローズがここを出て行くとなれば、寂しく思う。だが、もう止めて聞くような目はしていない」

「そう、ですね。みんなには申し訳ないですけど、私の心はもう決まっています」


 微妙に勇ましく返しつつも、内心ではほっとしていた。

 どうやら俺の決意はアルセリアの目から見ても本物っぽいのだ。


「しかし、それでなぜ竜人語を教えて欲しいということになる? 竜人はカーウィ諸島と、このザオク大陸西部以外にはほとんどいない。レオナを探すのには特に役立たないと思うぞ」

「いえ、それはもちろん分かっています。でも、念のためということもありますし、それに言葉を習っていれば、私は彼女のことを想い続けていられます。ですから、アルセリアさんには竜人語だけでなく、竜人という種族のことも色々と教えて欲しいんです」


 少なくとも竜人語を習っている間は、レオナのことを意識し続けることができる。言葉というのは習得するのに相応の苦労と手間暇が伴うものだ。それらを常日頃から感じつつ、竜人という種族のことを詳しく知っていくことで、竜人ハーフたるレオナの存在感が俺の中で更に大きくなる。


「ローズは真面目だな。いや……一途というべきか? レオナという子はローズにとって、よほど大切な存在なんだな」


 アルセリアは口元に静かな笑みを浮かべた。

 それがどことなく苦々しげに見えるのは、きっと俺がみんなに対して罪悪感を抱いているからだ。


「竜人のことが知りたいというのなら、教えよう。ただし、二つだけ約束してくれ」

「なんですか……?」


 約束という言葉に少しビクつきつつも、俺は先を促した。


「一つ目は、ここを出て行くとき、皆にきちんと理由を説明して、理解してもらってから発って欲しい。リゼットとサラの二人には、特に。あの子らは一緒に行くと言うかもしれないが……ローズは同行させるつもりはないのだろう?」


 鋭い。一人で行くとは言ってないのに。

 俺はぎこちなく頷き、視線を床に落とした。

 すると、ふとアルセリアが手を伸ばし、頭を撫でてくる。優しくも逞しく、安心できる手つきだ。 


「ローズは……何か隠していることがあるな」

「――っ」

「話したくないようだから、それが何か無理には聞かない。だがな、おれたちは何があろうとも、ローズの味方だ。たとえここを出て行こうと、共に過した時間は本物で、家族であることに変わりはない。だから、もし話したくなったら、いつでも話してくれ」


 アルセリアが特別鋭いのか、単に俺が隠し事の下手な幼女だからか。

 確かに、先ほどのアルセリアの言葉通り、リーゼとサラなら俺と一緒に行くと言ってくる可能性は高い。もしアインさんから一人で発てと言われていなければ、俺はそれを拒めなかったかもしれない。

 だが、どういう訳か俺は一人で発たなければいけないのだ。それを説明するにはアインさんのことを話す必要があるから……やはり、言えないな。今更の話、みんなに言えないことがあるっていうのは、思った以上に心苦しいな。


「二つ目は、またここに帰ってくることだ」

「……と言いますと?」

「レオナを探して、再会して、その子と一緒にまたこの館に帰ってきてくれ。べつに、また一緒に住むことを強要するわけではない。だが、ローズがここまで気に掛ける子だ。おれはもちろん、皆も気になるだろう」


 アルセリアの口調に嫌味は皆無だ。

 しかし、やはり俺はどうしても申し訳なさを感じてしまい、身体を縮こめる。

 するとアルセリアは椅子から腰を上げ、床に膝を突いた。俯きがちな俺の顔に片手を伸ばして、頬を撫でるように顔を上げさせる。そしてクールな彼女にしては珍しく、口元にはっきりと笑みを刻んだ。


「ただ、なるべく早く頼むぞ。おれはともかく、マリーはもういい歳だ。今はまだ元気だが、十年や二十年も掛かってしまうと、あいつの寿命が尽きかねない」

 

 冗談めかして言うにしては内容がリアルすぎる。

 だが、アルセリアが俺を応援しつつも気遣ってくれていることは伝わってきた。


「この二つを約束してくれるか?」

「はい」


 本当はあまり約束したくはないが、仕方がない。

 

「まあ、ローズならいちいちおれが言わずとも、皆にきちんと理解してもらって、また会いに来てくれそうだけどな」


 アルセリアは穏やかに笑みを溢すと、俺の両脇に手を入れて、軽々と持ち上げてくる。そうして再び椅子に腰を下ろして、膝の上に俺を降ろした。ちょうど太ももに座り、アルセリアに右体側を向けるような格好だ。恋人同時がイチャつくときなんかにしてそうな体勢だな。


「あの、これは……?」

「たまにはこういう風に話をするのもいいだろう? それとも、ローズは嫌だったか?」

「いえ、そんなことないです」

「そうか。もっと楽にしていいぞ、背中は支えてやる」


 言われたとおりに力を抜くと、アルセリアが左腕で力強くも優しげに背中と肩を支えてくれる。

 これ、普通は男が女に対してするもんじゃないのか? いやまあ、アルセリアはオバサンとは全く思えないほど格好良いクールビューティだし、俺は幼女だから、べつにいいんだけどさ。


「さて、竜人語と竜人族についての話だったな。言葉の方は……まあ、じっくりやっていこう。今日のところは簡単に竜人という種族について教えておこうか」

「お願いします」


 抱かれたままペコリと頭を下げる。

 アルセリアは微かに顎を引いた後、逡巡するような語調で話し始めた。


「竜人がどのような種族かといえば、そうだな……外見的特徴ならば、既にローズも知っての通りだ。だが、外見以外のところでいえば、竜人は仲間意識が非常に強い種族といえる」

「仲間意識、ですか」

「ああ、同族意識と言ってもいい。竜人は仲間を――同族を決して見捨てない。それが彼らの誇りであり、信念であり、生き方だからだ」


 彼ら、と言ったときのアルセリアは、どこか遠い目をしていた。

 まるでその言葉に自分を含めていないかのようだった。


「その強固な仲間への想いは、たぶんローズの想像している以上のものだ。彼らの仲間意識は強すぎるあまり、結果よりも過程を優先してしまうほどだ」

「それは、どういう意味ですか?」

「そうだな……ちょうど良い例がある」


 僅かに思案した後、アルセリアは微苦笑を覗かせた。

 彼女の見た目は婆さんよりずっと若いが、やけに齢を感じさせる笑みをしていて、いつになく不思議な雰囲気を感じる。


「昔、カーウィ諸島の八大島の一島に、一人の竜人が住んでいた。竜降女りゅうこうじょとして生まれた彼女は皆から慕われ、何不自由なく、郷で穏やかに暮らしていた」

「……竜降女?」

「ん、あぁ、竜降女というのは竜人の魔女のことだな。竜人はカーウィ諸島に住んでいるが、同様に数多くの竜も生息している。竜人族で魔女というのは、竜神の加護を受けて生まれた者とされているからな」

「あの、竜人って竜と共存してるんですよね? 大丈夫なんですか?」


 いや、あるいは竜人というくらいだから、仲間と見なされているのか?

 竜種がいることは奴隷時代にリタ様から聞いていたので驚きはないが、やはり竜という生物の実態は気になる。


「大丈夫だ。竜は縄張り意識の強い生き物だが、竜人に限って言えば話は別だからな。おれたち竜人は竜たちの相識感そうしきかんに敵だと認識されない。不用意に近づいたりしなければ、危険はない」

「相識感……?」

「竜種の持つ特殊感覚のことだな。竜は自らを中心とした一定範囲内に限り、五感に頼ることなく生物の存在を感知することができる。敵味方問わず今どこにいるのかが分かり、同じ竜種ならば今どういう状態にあるのかといったことが、大まかにだが感覚的に分かるわけだ。竜人にも備わっている感覚だが、おれたちは同じ竜人の存在しか感知できない」


 そういえば、奴隷の頃にレオナから聞いたな。

 しかし改めて詳しく聞いてみると、なんか凄いな相識感。

 要はテレパシーみたいなもんだろ?


「ローズなら気付いていると思うが、だからこそ竜人族は仲間意識が強い。本人の意思に関係なく、周辺にいる同族の存在を常に感じ取れているわけだからな、ある意味当然だ……少し話が逸れてしまったな」


 アルセリアは小さく息を吐き、目を伏せた。

 そうして、早々に中断していた話を再開する。


「……同族だけが住まうその竜降女の郷は、平和そのものだった。小さな喧嘩などはしても、決して刃傷沙汰になることはない。彼女は竜降女として生まれたため、大人たちの教育は他の子供たちより幾分か厳しくはあった。だが、そこには確かに愛があったし、幸福な日々だった」


 そう話すアルセリアの口調は本を読み聞かせるように淡々としたものだ。

 微妙に口を挟みづらい雰囲気なので、俺は無言で先を促した。


「竜人族は三十歳で成人となる。ただし、成人として認められるには男女問わず、一つの儀式をこなさなければならない。二十八歳になると、カーウィ諸島の中心地にあたる都へ向かい、他の郷の若者たちと交流を深めるんだ。そして三十歳を迎える年になると、その年に成人する者たちだけで、狩りに行く。男なら三人組、女なら五人組に分かれて、その者たちだけである魔物を探し出して戦い、その亡骸の一部を郷に持ち帰ることになる」

「…………」

「竜降女も例外ではない。ただ、他の女たちと違って魔法が使えるため、お付きの女二人と合わせての三人組での狩りとなった」


 話を聞く限り、竜人族は前世における少数部族みたいな感じだな。

 成人の儀式とか、その内容が狩りとか、なんか古くさい。

 エノーメ大陸を北上していた頃、そういった話は聞かなかったから、この世界でもマイナーな慣習なはずだ。大半の竜人はカーウィ諸島に引きこもっているという話だし、閉鎖的だから伝統色が強く残っているのだろう。

 と一人納得しているうちにも、アルセリアの話は続いていく。


「三人の女たちはアズマ樹海という深い森の中を二日ほど探し回って、ようやく目的の魔物を見つけ出した。そうして、竜降女を中心に連携をとりつつ、魔物との戦いを始めた。苦戦はしたが、魔法の力と鍛えられた武術、そして仲間との連携もあって、なんとか瀕死にまで追い込んだ。だが、そろそろ終わると思って気を抜いたのか、あるいは魔物が最後の悪あがきをしたのか……お付きの一人が手傷を負わせられてな。それを機に形勢を逆転され、三人は窮地に追い込まれた」


 アルセリアの語調はやはり単調で、声音にも感情が表れていない。

 彼女は普段からクールではあるが、ここまで素っ気なくはない。

 

「窮地に陥っただけなら、まだ良かったんだが……戦いが長引いたせいか、魔物の仲間がやって来た。一旦逃げて体勢を整えようにも、一人は怪我で動けず、逃げ切れなかった。しかし、仲間は決して見捨てないものだと、三人は教えられてきた。なんとか三人で状況を覆そうと、がむしゃらに足掻いた」


 とはいえ、現実はそれほど甘いものではない。

 あと少し頑張ればなんとかなるというときに、それは起きたそうだ。

 負傷していない方のお付きが使っていた武器が、折れてしまった。そして同時に、負傷した方のお付きが、先に戦っていた手負いの魔物に追い詰められた。

 どちらも絶体絶命だ。

 人里からは遠く離れているので、彼らの相識感も当然及ばず、救援は期待できない。そんな甘い儀式でもない。

 

「二人を同時に助けることはできない。竜降女は咄嗟にそう考えた。だが、女といえど竜人は素手でも十分に戦えるだけの力はあるし、そのための訓練も受けていた。竜降女はまず負傷した仲間を助け、それからもう一人の加勢をしようと判断した」


 俺の肩を抱くアルセリアの手に、少しだけ力が籠もった。

 間近にある顔を見上げると、彼女の瞳はここではないどこかを見ているようだった。

 

「負傷した仲間を抱え上げたところで……しかし、もう一人の仲間も負傷してしまった。そこで、竜降女は悟った。もう彼女は助けられない。助けに行けば、竜降女自身はもちろん、今まさに抱えている仲間も死ぬことになる。彼女は逡巡した末……全力で逃げた。背後から聞こえる仲間の声を振り切って、一心不乱に逃げた。魔物二匹は追ってくることなく、置いていった仲間に二匹で襲いかかっていた」

「…………」


 沈黙する俺をアルセリアはちらりと見下ろすと、そこで初めて僅かに感情を覗かせた。自嘲的な笑みを浮かべながら、俺を抱き支える体勢で器用に肩を竦めて見せたのだ。


「長くなってすまないが、本題はここからだ」


 そうして、アルセリアは微苦笑したまま、続きを語った。


 なんとか逃げ延びた竜降女とお付きの一人は無事、都に帰ることができたらしい。出発する前から一人欠け、一人は大きな怪我を負って戻ってきたのだから、当然騒ぎになった。

 二人はそれぞれ事情を説明した。

 すると、都の者たちは一様に竜降女を責め立てたという。


「当然といえば当然の話だな。臆病風に吹かれたかと言われても、彼女の立場では反論などできなかったし、彼女自身も自らに疑心を抱いていた。しかし、竜降女はそうは思っていながらも、やはり納得がいかなかった。あの状況では、どうしようもなかったのだ。彼女だけなら死など恐れず仲間を助けていたが、負傷した仲間を抱えていた。仲間を見捨てることは、できなかった。仲間二人を死なせる危険を犯すより、一人だけでも助けられる可能性に賭けた方が良いと思った」


 だが、都の者たちは口を揃えて言ったそうだ。


「たとえ誰一人生き残らずに終わるとしても、危地にいる仲間は助けるべきだ。生きるか死ぬかは問題ではなく、仲間を助けようとしたか否かが重要なのだと、皆は言った。一人の仲間を助けるためなら、百人の仲間を犠牲にしたって構わない。仲間のために戦い、それで死ぬのならむしろ本望……竜人とは、そういう種族なんだ」


 しみじみと呟くように言ったアルセリアを直視していられなくて、俺は自分の胸元に目を落とした。

 今の話に出てきた竜降女が誰なのか、もはや考えるまでもない。


 アルセリアは溜息を吐くように吐息を溢しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 俺のことは両腕で抱えている。お姫様抱っこだ。

 

「…………」


 無言のまま窓際まで歩いて行く。両手の塞がったアルセリアに代わり、俺が窓を開けた。

 バルコニーに出ると、夜風が頬を撫で、俺の無駄に長い髪をそっと揺らした。館周辺に広がる森は不気味なほど真っ暗だが、頭上に広がる満天の星空と双月は眩く煌めいている。


「ローズは、どう思う?」


 夜空を見上げながら、アルセリアが何気ない口調で訊ねてきた。

 俺は逡巡するも、返答に窮して口を開けない。この鮮麗かつ壮大な夜天についての感想ならば、あらん限りの語彙を費やして、美辞麗句でも何でも並べ立てて答えてやれる自信がある。

 だが、アルセリアのした問いへの返答はその万倍難しい。


「――ローズっ、そろそろねるじかんだよ!」


 答えあぐねていると、部屋の方から勢い良く開扉する音と元気な声が響いてきた。


「こらリーゼ、ちゃんとノックしなさいっていつも言ってるでしょ」


 バルコニーから部屋の中へ目を向けると、ドアの近くにリーゼがいた。そしてその後ろからサラが現れ、幼狐の頭を軽く叩く。

 いきなり乱入してきた二人の姿を見て、俺は思わず想像してしまった。


 負傷したサラを抱える俺。

 負傷しつつも魔物と対峙しているリーゼ。

 さて、俺はどうする。

 リーゼに加勢しても彼女を助けられる見込みは絶望的で、サラと俺の命も危うくなる。だがリーゼを見捨てて逃げれば、サラだけは助けられる可能性が生まれ、ついでに俺も助かる。

 助けようとして全滅するか、見捨てて生き残るか。

 どちらも確実にそうなるというわけではなく、あくまでも可能性としての選択肢だが……きっと、俺はどちらも選べない。俺一人が犠牲になって、二人が助かるという選択肢があれば、俺は迷わずそれを選んでしまうだろう。既に俺にとって二人はそれほど大事な存在だという理由もあるが、それと同等かそれ以上に、俺にはそんな辛い選択などできそうにないのだ。

 リーゼとサラを見殺しにするくらいなら、死んだ方がマシだ。


 しかし、現実はどこまでいっても現実だ。

 俺がそれから目を背けて分不相応な理想を求め、サラを抱えたままリーゼを助けようとすれば、サラ一人だけでも救える可能性は潰えるだろう。

 非情な選択から――現実から目を背けることはできない。

 そう考えると、少しだけアルセリアの気持ちを理解できた気がした。

 

「ローズとアリア、ふたりでなにやってるの?」

「アリアと二人で話がしたいってローズ言ってたけど、結局なんの話なのよ? わたしたちにも言えないことなの? まあ、今はそれより早く部屋に戻るわよ、詳しくはベッドで聞くわ」


 二人はそれぞれ言いながら走り寄って来た。

 アルセリアはそれを見ると、ゆっくりと俺を降ろしてくれる。

 

 俺はリーゼとサラに両の手を引かれてバルコニーから部屋に戻りながらも、一歩後ろを歩くアルセリアを振り返った。彼女は先ほどした質問など忘れているかのように、普段見せるクールな微笑を口元に湛え、俺たち幼女三人を穏やかな眼差しで見つめている。


「アルセリアさん」


 そう呼び掛ける最中も、俺はなんて答えようか迷っていた。

 だが、もう深くは考えず、思ったことをそのまま口にすることにした。


「私はその竜降女のこと、勇気があると思います。仮に、我が身可愛さからの行動だったとしても、ちゃんと一人は助けられたんです。それに……」 


 俺はアルセリアの双眸を真っ直ぐに見上げて、先ほど彼女が話していたときに見せた仕草を真似ながら、言った。


「竜人族は頭が硬いと思います。一人を助けるために百人を犠牲にすることを良しとするなんて、本末転倒です。私なら、仲間が大勢死んで助けられても、きっと罪悪感に耐えきれません」

「――――」


 ぎこちなく肩を竦めて見せる俺を、アルセリアはしばし口を半開にして見つめ返してくる。が、ややもしないうちに、口元に深く笑みを刻んだ。


「ふふ、頭が硬いか、そうか……」

「ねえねえ、なんのはなしー?」

「二人でなに話してるのよ、気になるじゃない」


 幼女二人の声に、アルセリアは微笑みを返すだけだ。

 俺も彼女に倣い、大人な雰囲気を漂わせてフッとクールに笑っておいた。

 

「なに変な風に笑ってるのよローズ、ほんと意味分かんないわよっ」


 サラに頬をつねられた。

 大人な微笑みを浮かべるには、まだ心身共にアダルティな魅力が足りなかったようだ。


 そんなこんなで、俺はアルセリアの部屋を後にした。




 ♀   ♀   ♀




 ユーハとの剣術修行とアルセリアとの竜人語講座を始めて、十数日後。

 翠風期に突入して、館での生活も残り二年を切ったある日。

 新しい習い事による日常の変化に慣れてきた俺は、レオナへのモチベーション維持策その二を実行することにした。

 

「ローズ、そんなに真剣な顔をしてどうしたの? 今日もまた勉強?」


 夕刻、中庭のベンチに腰掛けて一心不乱にペン先を動かしていると、不意に声を掛けられる。顔を上げてみると、クレアが側に立っていた。


「いえ、今日は絵を描いてるんです」

「……珍しいわね、ローズが絵を描くなんて」


 クレアは虚を突かれたように二、三度ほど綺麗な黒目をしばたたく。

 相手がリーゼなら未だしも、俺相手ならその反応も無理なきことだろう。リーゼはよくこの魔筆板でお絵かきをして、無数の前衛芸術作品を生み出しては消し去ってきた。


「私も子供ですから、絵くらい描きますよ」

「その発言からして子供らしくないのだれけど……よかったら、ローズの描いた絵、見せてくれない?」

「もちろんいいですよ」


 黒髪巨乳の美女から請われて、断る俺ではない。クレアはちょうど前屈みになって俺と視線を合わせてきているので、無防備にも襟元から谷間が丸見えだ。

 俺は心中で乳トンの法則に喝采を上げつつ、手元の金属板を裏返してクレアに見せてやった。


「これは……」


 やや驚いたように声を漏らすクレア。

 まあ、やっぱりそういう反応するわな。


 俺が描いていたのはレオナの肖像画だ。

 記憶を辿ってレオナの顔を思い出しつつ、脳内補完して七歳のレオナを想像して描いてみた。ただ、それだけならクレアも別段驚きはしないだろう。おそらく彼女はデフォルメされた人物画に戸惑っているのだ。

 この世界の絵画を目にした経験はあまりないが、俺が見てきた限りでは写実的な画風が一般的っぽい。さながら写真のようにリアルに描く感じの絵だな。

 しかし、俺が描いたのは所謂アニメ絵や漫画絵といった、人を幾分もポップにデフォルメしたものだ。


 俺はレオナの絵を描くことで、彼女を忘れないようにしていくつもりだ。いずれはきちんとキャンバスなどに画材を使って描いていくつもりだが……俺の画力は並以下だからな。前世で散々目にしたアニメやゲームや漫画の記憶を参考にして、しばらくは練習する必要がある。


「なんていうか、その……個性的な絵ね」


 クレアは綺麗な眉を少しだけ歪めながらも、感想を述べてくれる。

 かなり言葉を選んで言ってくれたみたいだが。


「変ですか?」

「う、うーん……変ではないのだけれど……えーと、これは女の子の絵よね?」

「そうです」

「どうして、その、目が少し大きいのかしら?」

「大きい方が可愛いじゃないですか。あ、でもあまり大きすぎるのも可愛くないと思いますけど。このくらいがちょうどいい大きさですね」

「そ、そうなの。ええ、うん、上手に描けてるわね」


 クレアはリーゼの前衛的な絵を見たときと同じ顔をしていた。やはりこの世界の人からすれば、前世では一般的だった萌え絵は受けが悪いようだ。それでもクレアは俺を気遣って、褒めながら頭を撫でてくれる。


「それで、これは誰なのかしら?」


 反射的に「レオナです」と答えそうになるも、喉元まで出かかっていた言葉を呑み込んだ。婆さんとアルセリアには話したが、今レオナのことをクレアたちに話すのは如何なものだろうか。

 ここは少しぼかしておくとしよう。


「それは……えっと、好みの子です」

「好みの子?」


 クレアは微かに首を傾けて、不明を露わにする。

 咄嗟に言ったことだから、自分でも説明不足だと自覚している。


「そんな感じの子が好きって意味です」

「……そ、そう」


 なぜか難しい顔をして、硬い仕草で頷くクレア。

 やっぱり奴隷幼女時代に知り合った子とでも言っておけば良かったか……と思っていると、クレアは俺の隣に腰掛けて、何気ない様子で訊ねてきた。


「ところで、ローズは男の子に興味はないの?」

「ないですね」


 クレアは俺の即答に微苦笑を見せる。


「でも、ウェインとは仲良しよね? リーゼやサラには全然しないのに、あの子のことはよくからかったりしているし」

「……クレア、もしかして私がウェインのこと好きだと思ってるんですか?」

「いえ、そういうことではないけれど……でももしかして、好きなの?」


 クレアは母のような慈愛に満ち満ちた微笑みを向けてくる。

 なんか勘違いされてるっぽいから、ここはきっぱり否定しておこう。


「いえ、そういう感情は全くないですね。きっと今後も、私がウェインを好きになることは億が一にもないでしょう」


 俺の冷めた口調は本気っぷりを伝えすぎたのか、クレアは一転して訝しげに柳眉を曇らせた。


「えっと……それは、ローズも男の子が嫌いなのかしら?」

「え? べつに嫌いってわけじゃないですけど……まあでも、男性よりは女性の方が好きですね」

「そう……」


 クレアは思案げな顔でそっと頷いた。

 もしかしたら、彼女は心配しているのかもしれない。サラは男が嫌いと言って憚らないし、その影響でリーゼも少々野郎に対して食わず嫌いめいた偏見を持っている。ウェインという存在で多少はマシになったとはいえ、サラにとってあいつは年下の子供だ。《黎明の調べ》には男の協力者もいるという話だし、色々と将来が心配なのだろう。

 ここはクレアを安心させてやりたいところだが……二年後にはこの館を出て行く身で、いったい何が言えるというのか。

 ひとまず、ここは話題を逸らしていこう。


「あの、そういうクレアはどうなんですか? 男性に興味はないんですか?」

「私? 私は……まあ、人並みにはね」

「それじゃあ、結婚とか考えてるんですか? というより、いま付き合ってる人は……いないですよね?」


 自分で言ってて不安になってきた。

 クレアの豊麗な二つの果実が野郎に貪り尽くされるとか……ダメだ、想像しただけで心が痛い。

 俺が密かに苦しんでいると、クレアはそれを和らげるように優しく頭を撫でてきた。


「結婚は考えていないわね。子供ならもうローズたちがいるし」

「ク、クレア……」


 こりゃアカン、聖母かこの美女。蠱惑的な外見をしていながら、優しさと慈しみに溢れた心は俺に無限の癒やしを与えてくれる。

 俺はクレアが撫で撫でしてくれる感触を実に幸せな気分で堪能するが、そこでふと美女は珍しく茶目っ気のある微笑みを浮かべた。


「でも、付き合っている人はいるけれど」

「…………え」


 今年最大の驚愕が俺の思考を停止させた。

 は? 神の使徒?

 あんなんの比じゃねーよボケ。


「あ、いえ、やっぱり今のはなしね……子供相手に何言ってるのかしら私」


 クレアは何を思ったのか、すぐに前言を撤回し、小さくかぶりを振りながら一人呟いている。だが、常時発動型の我が魔眼はクレアの機微を見逃さなかった。ほんの微かに頬を桜色に染め、羞恥と自戒の念を滲ませて悩ましげに眉をひそめていたのだ。

 ……なんだこれ、夢かオイ。

 

「そういえば、ローズにお願いがあるんだったわ」

「…………」

「セイディたち、今日は日が暮れる頃に戻ってくるって言っていたから、そろそろ晩ご飯の準備をしようと思ってね。本当は今日のお手伝いはリゼットなのだけれど……あの子、最近クラード語の勉強を凄く頑張っているでしょう?」

「……………………」

「そのせいか、今日はもうお昼寝したのに、さっき見てみたらまた寝ていたのよね。起こすのも可哀想だから、もし良かったらローズが手伝ってくれないかなと思って……ローズ、どうかしたの?」


 クレアが俺の顔を心配そうに覗き込んでくる。頭の動きに合わせて彼女の清流めいた長髪がはらりと揺れた。艶々の黒髪は夕刻の光に照らされて、綺麗なエンジェルリングができている。

 なんだろうね、この虚しさは……。


「ローズ? 大丈夫?」

「お姉ー様っ!」

「――きゃ!?」


 黒髪美女の向こう側から突然、美天使が現れた。彼女はベンチの背もたれ越しにクレアの首元に抱きつき、クレアはどことなくエロティックな声を上げて驚きを露わにする。


「ローズッ!」


 そして俺の後ろからも、小悪魔的美幼女が唐突な呼びかけと共に抱きついてきた。が、今の俺にとっては驚くに値しない行為だ。無慈悲なハードパンチを喰らった直後に可愛らしいジャブを打ち込まれても、感覚が麻痺して反応できないのと同じだ。


「お姉様、ただいま帰りました」

「もう、セイディ……急に抱きついてこないで。凄く驚いたんだから」

「アハハ、なら大成功ですねっ。サラの方は失敗みたいですけど」


 セイディは朗らかに笑いながら、俺と俺の背後にいるサラに目を向ける。

 今更の話、セイディの笑顔は二十一歳とは思えないほど邪気がないな。ついでに色気もないが。

 さすが穢れを知らない美天使だ。姐さんはいつまでもそのままでいてくれ。


「なによローズ、つまらないわね。せっかく驚かせようと思ったのに」


 あぁ、そうだ、何も驚くことなんてなかった。

 クレアがエロティックな雰囲気を身に纏っていたのは大人な女性だったからなのだ。《黎明の調べ》の協力者には男もいるというし、彼女ほど魅力的な女性ならば引く手数多なことなど想像に易い。

 だが、これまで一緒に生活してきて、男の気配など感じなかった。まあ俺は元クズニートだから、恋愛方面の機微を感じ取れるような経験なんて積んでない。今まで気付かなくても当然といえば当然のことだろう。

 ちくしょう、なんてこった……。

 

「二人ともおかえりなさい。帰りは日暮れ頃と言っていたけれど、早かったわね」

「最近はサラも強くなってきましたし、やっぱり翼人が二人いると索敵も捗りますからねー」

「ところで、アルセリアさんは?」

「荷物を置きに行ってくれました。二人はクレアとローズを驚かせてやれって」


 クレアは後ろから抱きつくセイディと仲睦まじそうに話している。

 俺もサラと仲良くして、この傷ついた心を癒してもらおう。


「……サラ、おかえりなさい」

「ただいま、ローズ。それで、なんで驚かなかったの? 気付いてた?」 

「はい、私はサラが大好きですからね。どこにいるかくらい、すぐに気が付きます」

「なっ、ぅ……そ、そう……」


 サラは俺の首に回していた腕を解き、サッと身体を離した。ちらりと振り向いてみると、褐色の頬がやや赤みがかっている。

 サラはド直球な言葉に弱いのだ。自分で言うのは未だしも、人から言われるのは照れるっぽい。美幼女の照れ顔で、俺の心はたちまち癒される。


「クレア、さっきはすみません、少しボーッとしていて。晩ご飯の準備、手伝います」

「ありがとう、ローズ。それじゃあ、厨房に行きましょうか」

「お姉様、アタシも手伝いますっ」

「わ、わたしも手伝ってあげる。ローズ一人だけに手伝わせるわけにはいかないからね」


 立ち上がった俺たちに、セイディは元気良く、サラは照れ隠しなのか『仕方ないわね』といった様子で言ってくれる。


「サラ、無理しなくてもいいですよ。疲れてますよね?」

「大丈夫よっ。ほら、早く行くわよ!」

 

 俺はサラに手を引かれて、クレアはセイディと並んで歩きながら、一緒に厨房へ向かった。

 それから俺たち四人は仲良く、ついでに姦しく、晩ご飯を作っていった。


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