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幼女転生  作者: デブリ
四章・日常編
63/203

第四十六話 『やさしき舌は薔薇の美なり』


 神の使徒アインさんと出会った翌朝、俺はサラとリゼットと共に起床した。

 かまくらで目覚めたこと以外はいつも通りで、アレは夢だったんじゃないかと思いかける。

 しかし、アインと話したことはたぶん現実だ。

 仮に夢だったとしても、何ら問題ない。


 時期的に、そろそろ気持ちを入れ替えるべきときだったのだ。

 もうリゼットの心療はほぼ終わった。

 最近の俺は、ただただ平穏な日常を謳歌していただけだ。もし昨夜のことが夢だろうと、俺の無意識が自らに発破を掛けようとしていた……と考えれば納得できなくもない出来事だった。


 さて、俺がすべきことは三つだ。

 1.ユーハから剣を習う。

 2.魔法に習熟する。

 3.決して諦めない。

 これらを再来年の翠風期まで続けていくことになる。


 問題があるとすれば、みんなとの関係だ。

 あと二年ほどで、俺は館を出て行かねばならない。しかし、クレアたち大人はともかく、リゼットとサラが素直に俺を行かせてくれるとは思えない。

 俺たちが出会って、まだ一年半……されど一年半だ。再来年の翠風期になれば三年半になる。子供にとって、三年半という時間は大きい。

 俺は彼女らを悲しませることになる。


 無論、俺だって辛い。

 共に生活して一年半の現時点でさえ、想像しただけで胸が締め付けられるのだ。あと二年も共に過せば、今の俺が抱いている覚悟を容易に打ち砕くだけの想いにまで昇華する可能性は非常に高い。

 だが、それでも俺は今度こそ、リゼットと別れるだろう。


 俺はレオナと再会しなければ、前に進めないような気がするのだ。

 良くも悪くも、どうしても俺はレオナを忘れられない。

 だからもう一度会って、彼女の"本当の笑顔"を見たいと思う。


 


 ♀   ♀   ♀




 決意を固めるため、俺はまず一家の主たる婆さんの部屋を訪れた。

 ノックして入室すると、総白髪の老婆は相も変わらず机で読書に勤しんでいた。

 本当に本好きの婆さんだな。


「お婆様、少しお話ししたいことがあります」

「む? どうしたのじゃ、改まって」


 婆さんは俺のただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、おもむろに本を閉じた。


「実はですね……」


 俺はレオナ捜索のため、再来年の翠風期に館を発つことを伝える。

 無論、アインさんとその女神のことは黙っておく。

 嘘か誠か、口外したら神罰が下るらしいし。

 それと、どうせ反対されるだろうから、一人で発つということも今は言わない。たぶん何も言わなければ、ユーハと一緒に出て行くと思ってくれるはずだ。一人で行くことに関しては出発する三節ほど前に言えばいいだろう。少しズルいが、今はとにかくこの館を出て行くという点をハッキリと伝えておきたかった。

 俺の口から誰かに言っておくことで、不退転の覚悟が得られる。


「……ふむ、話は分かったがの。しかし、急にどうしたのじゃ?」

「そもそも私がこの館に身を置こうと思ったのはリゼットのためです。ですが、もうリゼットは元気になりました。次は私自身のためにも、レオナを探したいんです」


 俺は机を挟んで相対する婆さんを真っ直ぐに見つめ、淀みなく答える。

 婆さんは机に両肘を付いて手を組み、目を伏せた。

 思えば、こうして一対一でレオナのことを話すのは一年半ぶりだ。


 婆さんは顔も手も皺が多い。

 しかし、なんだか出会った頃より更に老けた感じがする。背筋は全然曲がっていないし、耄碌とはほど遠い言動も変わらないし、双眸にも力がある。もう八十歳だから、たった一、二年では大きく変化なんてしないだろうが……肌は一層かさかさになり、目元や口元の皺も更に増えたように見えるのは気のせいだろうか。


「そのレオナという子じゃが、まだ本部の方からは何の連絡もない。ローズなら言うまでもないことじゃと思うが、探し出すのは相当に困難じゃぞ。一生、見つけられぬかもしれぬ。いや、むしろその可能性の方が高いじゃろう」

「それでも、です。私にとって、レオナは特別な人なんです」

 

 俺は以前、婆さんに《黎明の調べ》の力でレオナの捜索を頼んでいた。

 しかし、未だに何の連絡もない。《黎明の調べ》を疑うわけではないが、そもそも本当に探しているのかすら怪しいものだ。やはり自分で動かないことには始まらない。


「そうか……ローズがそこまで言うのなら、無理に引き留めたりはしないがの。じゃが、まだ二年はここにおるつもりなのじゃろう? それなら、その間に考え直して欲しい」

「……お婆様は、やっぱり反対なんですか?」

「正直に言えば、そうじゃな」


 婆さんは静かに微笑した。

 縦横無尽に皺の刻まれた面立ちのせいで見分けづらいが、たぶんそれは苦々しい笑みだ。そうと見分けられるくらいの時間は共に過してきた。

 

「ローズ、お前さんはもう家族の一員じゃ。皆にとって、掛け替えのない存在になっておる」

「…………」


 それは……なんだか信じられないが、否定もできない。

 俺にとって、婆さんの言葉はとても嬉しいものだ。が、別れを覚悟した今では心苦しいものでもある。人ってやつは、しがらみが増えればそれだけ身動きが取りづらくなるものなのだ。


「無論、たとえローズがここを出て行ったとしても、一生会えなくなるわけではないじゃろう。じゃが当然、皆は寂しく思う」


 俺は黙ってその言葉を受け取った。

 みんなに対して、罪悪感は感じている。ここを出て行くということは、理由はどうあれ、俺はみんなよりレオナを選ぶということなのだ。


「私は――」 


 思わず口を開いた。この何とも言えない居心地の悪さにせっつかれて、婆さんに言い訳したいのかもしれない。

 だが、俺は自制して口を閉じた。

 

 俺がここを出て行くことは、突き詰めてしまえばエゴだといえる。

 レオナを助けたいという思いはあるが、同時に彼女を探し出す行為は俺自身のためでもあるのだ。アインさんや神罰などは切っ掛けに過ぎない。

 俺はレオナという子を忘れることを恐れている。前世のように人心を軽んじる薄情な人間となり、厚顔無恥に日常を謳歌する愚行を平気な顔でしてしまうことを、恐れている。いや、もう半ばしかけていて、そんな自分が俺は恐ろしいのだ。

 

「何はともあれ、ゆっくり考え直しておくれ。まだ時間はたっぷりある。大方、このことはまだあたし以外に言うつもりはないのじゃろう?」

「……はい」


 婆さんは椅子の背もたれに身体を預けると、何でも無いことのようにそう言った。これ以上、暗く重い話にしたくはないのだろう。

 あるいは婆さんは、俺がこれからの二年で考え直し、そのうち今日の発言を撤回すると思っているのかもしれない。なにせ俺はまだ幼女だし、俺が婆さんの立場だったなら、俺もそう考える自信がある。

 人の情ってやつは強力だからな。

 実際、俺が今この館で生活しているのは幼狐の情にほだされた結果だ。

 それは婆さんも分かっているはず。


 まあ……とりあえず切り替えていこう。

 シリアスにしていても、何がどうなるって訳でもない。

 まだ二年あるのだ。様子がおかしいとみんなに気取られても面倒だし、物事は何でも楽しくやっていった方がいい。


 俺は大きく息を吐きながら、肩の力を抜いた。


「ところで、お婆様。話は変わるのですが」

「うん? 次はなんじゃ?」


 俺は気まずさから思わず俯きがちになり、身じろぎした。

 別れ話の後におねだりとか、話す順番間違えたな……。


「実は、魔剣が欲しいんですけど……」

「む、またいきなりどうしたのじゃ?」

「えーっと、六歳になったら、軽く武器の扱い方を教えるって話でしたよね?」


 俺たち《黎明の調べ》が行う魔物狩りでは、基本的に武器は使用しない。魔法があるのだから、わざわざ接敵して攻撃する危険を冒すなど、愚行でしかない。

 しかし、女猟兵として猟兵協会に行く際は武器を携帯していないと、魔女だと怪しまれる。そもそも魔法があるとはいえ、武術の心得くらいは身に着けておいた方がいい……という理由から、俺とリゼットは六歳になってから剣術か槍術を習うことになっていた。ちなみに剣と槍どちらを習うかは好みの方を自分で選べる。


「私は剣を習いたいんですけど、どうせなら普通の剣より魔剣を使いたいんです。あと、魔剣といっても魔法具の方の魔剣です」

「魔剣か……ふむ。しかし、なぜ魔法具の方なんじゃ? クレアに言えば、《聖魔遺物》の方を貸してくれるはずじゃぞ?」

「まあ、その……私は魔力がたくさんありますし、《聖魔遺物》の魔剣は色が気に入らないので」


 嘘は言っていない。

 この一年半ほどで、俺は何度か魔力総量を計る負荷実験を行ってきたが、未だに一度も枯渇したことがない。どれだけ魔法を使おうと、魔力が減ったという実感はあっても、魔力切れになることはなかった。

 リゼットやサラも普段の魔法練習程度では魔力切れを起こさないが、俺と同じ負荷実験では枯渇した。

 魔力量は年齢と共に多くなっていくらしいことを思えば、精神年齢が三十二歳である俺が幼女より多くても別段おかしくはない。

 だが、魔女の方が並の男より魔力量は多いという。今の俺は男なのか女なのか曖昧だから、やはり転生ボーナス的な何かがあるのかもしれん。


 婆さんはしばし目を伏せて逡巡する素振りを見せるも、何度か小さく頷いた。


「うむ、そうじゃな……ローズなら魔剣でも問題はないじゃろう。それに安全面を考えれば、《聖魔遺物》より魔法具の方が良いしの」

「ありがとうございますっ。あ、それと剣はユーハさんから習うので」


 よしよし、これで許可は取れた。

 にしても……魔剣か。

 俺は魔剣にトラウマ的な思い出があるから、あまり使いたくはないんだよな。

 ブッ刺されたときのことは未だに思い返しただけでも肝が冷えるし、金髪イケメン野郎がセイディを斬ったときのことだってそうだ。


 今更の話、俺は魔剣について詳しくは知らない。

 本当は危機管理の一環として脅威の調査はすべきなのだろうが、なんだかんだで避けてきた。あの謎女に殺されかけた瞬間は今思い返しても肝が冷えるのだ。だから魔剣といえば、魔法具と《聖魔遺物》の二種類があって、魔力で刀身を維持するってことくらいしか知らない。

 うん、やっぱり事前に勉強はしておいた方がいいだろう。


「お婆様、そういうわけですから、魔剣について書かれた本ってありませんか?」


 本のことは婆さんに訊いておけば無問題だ。

 この館には大量に本があるから、いちいち探し出すのも面倒だし。たぶん館にある本を全部売れば、一生遊んで暮らしても、まだお釣りがくるくらいの金になるだろう。


「魔剣についての本か、そうじゃな……たしか魔剣使いの物語があったはずじゃ。それに併せて、魔剣術の教本もあったと思うんじゃが……」


 婆さんはどっこいしょと立ち上がり、部屋の壁と一体化した本棚の前を行き来し始める。

 

「いや……書庫の方だったかの」


 というわけで、俺と婆さんは隣の部屋へ移動する。

 書庫にはびっしりと中身の詰まった本棚が幾つも並んでいるだけでなく、収まりきらない本が所々床に積まれてもいる。


「お婆様はここにある本、もう全部読んだんですか?」

「さすがにまだ全部は読み切れていないの。じゃが、死ぬまでには全部読んでしまいたいものじゃ」


 婆さんは笑いながら言って、ランタン型の魔石灯を片手に本棚の間に入っていく。居並ぶ背表紙たちを視線と指先でなぞり始め、俺はそんな婆さんの後を付いていく。


「お婆様って、本当に読書が好きなんですね」

「まあ、そうじゃな。昔は忙しくて、読みたくてもなかなか読む暇がなかったからの……余生の楽しみというやつじゃな」

「……そう、ですか」

 

 俺はそれ以上深くは訊かず、相槌を打つに留める。

 すると、婆さんはおもむろに動きを止めた。

 例の本が見つかったのかと思いかけるが、違う。婆さんが俺へと向けてきた眼差しから、即座にそう悟った。


「思えば、ローズはあたしらのことを深くは訊かぬな」

「そ、それは……」

「お前さんはリゼットやサラより落ち着いておるが、知的好奇心は二人以上じゃろう。当然、あたしやアリアたちの過去は気になっておるはずじゃ。にもかかわらず……何も訊かぬな」


 まるで俺の心情を見透かしたように、婆さんは言う。

 いや、もう見透かしているのだろう。

 でなければ、このタイミングでこんな話はすまい。


「ローズはまだまだ小さいから、半信半疑だったのじゃが……さっき、この館を出て行くという話を聞いて、確信してしまったわ」

「……えっと、すみません」


 沈黙するのもどうかと思い、でもなんと言えばいいのか分からなくて、謝ってしまった。


 婆さんの言うとおり、この一年半の間、俺はみんなの過去のことは訊いてこなかった。なにせ、この館に残ると決めた当初から、いつかはここを出て行くのだとも決めていたのだ。みんなのことを深く知ってしまえば、別れが惜しくなって、行動を起こしづらくなる。だからこそ、俺は未だにリゼットのことを『リゼット』と呼び続けている。


 婆さんが、アルセリアが、クレアが、セイディが、どうして《黎明の調べ》に所属することになったのか、それ以前は何をしていたのか。

 もちろん気にはなったが、訊こうとはしなかった。ただ、俺から訊くことはなくても、たまに話題になることはあったので、少しは知っている。


 婆さんとアルセリアは昔、イクラプス教国の聖天騎士団にいたらしい。

 クレアはサンナの神那島出身だという。

 セイディは浮遊双島の一島、トリム島の出身だそうだ。

 リゼットとサラに関しては、昨日聞いた通りだ。あのときは家族が一番大事だと口にしたサラへの申し訳なさから、思わず俺の方から訊ねてしまった。

 

「謝ることはない……とは言えぬな。さっきも言ったことじゃが、あたしも皆も、ローズのことは家族だと思っておる。ローズは違うのかの?」

「いえ、そんなことはありません。でも私は、ここを出て行くので……」 

「確かに、別れは辛くなるじゃろう。しかしの、いつか別れるからといって仲良くするのを躊躇っていては、誰とも仲良くなれぬぞ?」


 ランタンの明かりに照らされた婆さんの顔は穏やかだ。孫にでも言い聞かせるように、続けて優しく口を動かしていく。


「良いか、ローズ。人と触れ合い、関わり合っていく中で、大切なことは一つだけじゃ」

「……ひとつ、だけですか?」

「うむ。それはの、臆病にならぬことじゃ」


 婆さんの声は慈愛に満ちていたが、微量の苦味も滲んでいた。


「勇気を持てとまでは言わぬ。ただ、自らが傷つくことを恐れて、相手を理解し、理解されようとする努力を怠ってはならぬ」

「――――」

「いや、説教する気はないのじゃ。じゃが、いま言ったことは覚えておいて欲しい」


 そう言って、婆さんは本探しを再開した。

 だが俺は何とも言えない心情に見舞われて、その場で棒立ちになってしまう。


 婆さんの言葉は俺の頭に抵抗なく沁み込んだ。

 俺がただの幼女なら、意味をよく理解できていなかっただろう。

 しかし、三十年以上生きている俺には、嫌と言うほど理解できてしまった。

 俺は……どうすべきなんだろうか? みんなのことをもっと知るべきなのか?

 いや、そもそも、相手のことを知るということは、相手と向き合うということだ。


 俺は転生したとき、もう二度と人を軽んじないと決めたはずだ。自分の意見はきちんと伝えて、相手からも伝えてもらうのだと、エリアーヌたちと出会った頃にも思った。

 もし俺がただの幼女だったら、こんなことは考えず、好奇心の赴くままにみんなのことを色々と聞いて回っていただろうが、今の俺は身体的に幼女とはいえ、意識は三十過ぎの大人だ。

 人は往々にして、子供から大人になっていくにつれて他人との距離の取り方が慎重になっていく。自分が傷つくかもしれない、相手から嫌われるかもしれない、何よりそのせいでコミュニティの中で孤立してしまうかもしれない。そういった様々なリスクを恐れて、本心のままに易々と行動できなくなってしまう。思春期なんかが最も顕著な時期だろう。


 しかし婆さんの言うとおり、いつか別れるからといって仲良くするのを躊躇っていては、誰とも仲良くなれない。

 出会いがあれば、別れもある。

 それが人生だ。

 俺は今度こそ真剣かつ全力で生きると決めた。

 それなら、躊躇う必要なんてないはずだ。俺はこの館のみんなが好きなのだ。


 大切なのは、臆病にならないこと。

 うん……婆さんはいいこと言うね。

 さすがは傘寿さんじゅだよ。


「おぉ、あった、これじゃ」


 婆さんは隣り合う二冊の本を同時に棚から引き抜いた。

 そして俺に手渡してくる。


「『魔剣物語』と『魔剣技教本』、ですか」

「うむ、物語の方は……たしか復興期に活躍した魔剣使いの話だったの。そして、その魔剣使いが編纂というのが、こちらの教本じゃ。真剣と魔剣は所々で扱いが異なるからの、教本の方は一応読んでおくと良いじゃろう」

「はい、ありがとうございます」


 俺は二冊の本を抱えながら、しっかりと頭を下げた。

 この礼は本のことはもちろん、さっきの有り難い訓示に対するものも含まれている。まあ、わざわざ口に出してまでは言わないが。

 ここは行動で感謝を示すのがいいだろう。


「あの、お婆様」


 本の匂いに満ち満ちた部屋から出たところで、俺は婆さんに声を掛けた。


「ん、なんじゃ?」

「その……お婆様が昔なにをしていて、どうしてこの館で暮らすことになったのか。そういう話を聞かせてもらっても、いいですか……?」


 返答は半ば分かりきっていたが、思わず上目遣いになってしまった。

 最近では幼女らしい振る舞いをすることに慣れてしまって、意識せずとも自然とできてしまえる。この穢れなき肉体が俺の精神を浄化しすぎているせいか、最近は意識しないと野郎っぽくできなくなっているくらいだ。

 俺も成長したな……?


 案の定というべきか、婆さんは目を細めて口元の皺を深くした。

 そして俺の頭を撫でてきながら、ゆっくりと頷く。


「それならば、まずは紅茶の準備じゃな」




 ♀   ♀   ♀




 婆さんことマリリンはかつて、イクライプス教国の聖天騎士団に籍を置いていた。それは既に知っていることだ。

 しかし、婆さんが聖天騎士団でも十三人しかいない聖天騎士だったと聞かされたときはマジで驚いた。


 世界中に数多の信徒を持ち、世界各国にも少なくない影響力を持つらしいエイモル教の総本山――イクライプス教国。聖天騎士団とは教会すなわち教国の軍隊みたいなものだそうだ。そのトップに君臨するのが十三人の聖天騎士だ。


「あたしが言うのもなんじゃが、名実共に世界最高の魔法士だと認められなければ、聖天騎士は名乗れぬ。無論、魔法だけでなく武術や学問にも秀でてなければならぬがの。じゃが、最も重要なのは魔法じゃな。どれだけ優秀でも、天級魔法が使えなければ聖天の名を冠する騎士にはなれぬ」


 聖天騎士の称号を持つ誰もが、必ず天級以上の魔法を習得しているらしい。

 ではそもそも、天級魔法とはどれほど凄いものなのか。


 初級から特級の魔法はおおよそ対人級といっていい。人ひとり、あるいは数えられる程度の集団に影響を及ぼせるほどの威力もしくは効果範囲を持つ魔法だ。

 この例えで言えば、覇級あるいは戦級魔法は戦術級だ。軍集団が行う一つの戦闘、あるいは町一つに影響を及ぼせるほどの威力もしくは効果範囲を持つ魔法だ。

 そして天級魔法は戦略級だ。軍集団が行う一つの戦争、あるいは一地方に影響を及ぼせるほどの威力もしくは効果範囲を持つ魔法だ。一個人の放つ魔法が幾千幾万の人――もとい国同士で行われる戦争の戦局をすら左右できる。

 それが天級魔法だ。


 尚、天級の上には星級と神級がある。

 俺がリリオで読んだ魔法教本によると、神級という等級名称の由来はあの《大神槍スラ・ド・トーレ》から来ているらしい。一つの島を丸ごと消滅させられるほどの破壊を成した、神という超存在による光の槍。具体的なことは書かれていなかったが、つまりそういうことなのだろう。神の所業に匹敵する奇跡を起こす――それが神級魔法だ。


 星級に関しては天級以上神級未満だ。

 戦争の戦局を左右するのではなく、戦争そのものを一撃で制することのできる大魔法――それが星級魔法という認識でいいだろう。ただし、以前に金髪イケメンのクソ野郎が見せた光属性戦級魔法〈光速之理メト・ニィシャ〉のように、覇級以上でも範囲こそ小規模だがデタラメな効果を発揮する魔法もある。


 婆さんは俺と同じ無属性適性者だ。覇級までならほぼ全ての魔法を詠唱省略でき、それ以上は無属性に限り天級魔法まで詠唱短縮できる。だけでなく、詠唱ありなら無属性に限らず、他属性の魔法でも天級まで扱える。星級以上の魔法は一つも使えないらしいが、その万能っぷりに比べれば些事だろう。聖天騎士団でも星級以上の魔法を使える者は、歴代でも片手の指に収まるだけの数しかいないらしいし。


 ……とまあ、魔法はともかく、今は婆さんの非凡な人生についてだ。


「あたしが聖天騎士になったのは二十歳の頃じゃな。それから二年後にアリアと出会い、以来あやつと共に五十九まで騎士団におった」

「それから、《黎明の調べ》に入ったんですか?」

「まあ、そうなるの」


 頷く婆さんの顔はどことなく影が差していた。婆さんは皺が多いし、もう傘寿だからか表情もそれほど大きく動きはしないが、俺の魔眼は誤魔化せない。

 まあ、一年半も一緒に過していれば、誰でも分かるのだろうが。


「どうして聖天騎士団を辞めて、《黎明の調べ》に入ったんですか?」

「ふむ、そうじゃの……」


 俺の問いに、婆さんはティーカップの薄赤い水面を遠い眼差しで見つめた。双眸に宿る光は複雑すぎて、上手く感情を読み取れない。

 だが、雰囲気からなんとなく分かる。どうやらこれは地雷っぽい。


「あっ、いえ、話したくないのなら聞きません」

「いや、そういうわけではないのじゃ。ただ、その辺のことはあまり子供に聞かせるような話ではないからの。じゃがまあ……うむ、ローズなら良いじゃろう」


 俺ならとは、どういう意味だろうか。

 俺が幼女らしくない幼女だから、いいってことか?

 だとしたら、サラとリゼットはまだ知らない話ってこと……なのか?


 婆さんは紅茶を一口含んで舌を湿らすと、老婆にしては滑舌の良い、聞き取りやすい声で話し始めた。


「先ほども説明した通り、聖天騎士という存在は絶大じゃ。人並み外れた力とそれ故の影響力は、個人だけでなく国家という巨大な組織にまで及ぶ。無論、よからぬことを考える輩にも目を付けられる」

「あ……」


 なんとなく、婆さんの話がどういうものか、予想できてしまった。

 

「あたしが五十八のとき、《黄昏の調べ》の連中に息子夫婦と孫娘を人質に取られての。連中はあたしを傀儡にして、聖天騎士という力をいいように利用しようとしたのじゃ。あたしは表向き従順にしながらも、部下たちに捜索させ、居所を掴んだ。じゃが……」


 その結果、婆さんは息子夫婦を失ったらしい。

 孫娘は両足をやられはしたが、なんとか治癒魔法で治せたそうだ。

 

「あたしは連中がどうしても許せなくての。騎士団を辞めて、《黎明の調べ》に身を置くことにした。アリアも付いてきてくれたよ」

「…………」

「それから十年ほど、《黄昏の調べ》に与する者たちを……殺していった。何度も何度も争って、互いに憎しみ合いながら戦った。じゃがの、ふと気が付いたのじゃ。憎しみ合ってどうなるのかとの」


 復讐は何も生み出さない。

 そんな定番で単純な真理を悟り、婆さんは戦いを止めた。


「《黎明の調べ》と《黄昏の調べ》は一千年以上も昔――あるいはそれよりもずっと前から争い合っておる。《黄昏の調べ》は魔女という存在を許容できないが故、狩る。その結果、《黎明の調べ》は連中へ報復し、それで更に《黄昏の調べ》が魔女への憎しみを抱く。それをずっと繰り返してきておるのじゃ」

「…………」

「憎しみの連鎖に囚われても、ただ虚しいだけじゃ。幸い、あたしにはまだ孫娘が残っておったからの。じゃから一緒に身を潜めて、静かに暮らそうと、そう言ったのじゃが……」


 婆さんは自嘲するように、あるいは困ったように、呆れたように苦笑を溢した。


「孫には断られてしまっての。仇をとるのだと言って聞かず、お婆様は腑抜けたと責められ、嫌われてしまった」

「…………」

 

 リアクションに困った。

 だから俺は黙って婆さんの話を聞くしかない。

 

「そのとき既に、孫は《黎明の調べ》の中で地位も人望もあっての。組織内で異端となったあたしを、このザオク大陸に飛ばしたのじゃ。当時、この西支部には誰もいなかったからの。ちょうど良いと思ったのじゃろう」


 なぜ素直に孫の言う通りにしたのか……とはさすがに訊けない。

 苦心の果てに復讐の無意味さを悟ったというのに、実の孫娘から責められた挙句、嫌われたのだ。一緒にいたいと思っても、相手が許してくれない。それでも婆さんが孫を愛しているだろうことは、今まさに孫の話をした婆さんの表情と声音で分かる。たぶん婆さんは、それならせめて孫の望みを叶えてやろう……とでも思ったのだろう。いや、実際のところはどうか分からんけどさ。


「それからあたしはアリアとクレア、それにチェルシーと一緒にこの館に来た。あの頃は館の掃除が大変での。長らく使われておらなんだせいで、修繕も含めると一年は掛かったの」


 婆さんは一転して、おかしそうに思い出し笑いをしてみせる。

 無理している様子は……ないように見える。しかし俺の魔眼など、人生経験豊富な八十の婆さんがその気になれば、幾らでも誤魔化せるはずだ。


「まあ、だいたいこんなもんじゃの。館に来てからは……そうじゃな、セイディが加わって、サラとリゼットを育てることになった。その辺の詳しいことが気になるのなら、本人たちから聞くと良い」

「……はい」


 俺は頷きながらも、複雑な心境に陥っていた。

 婆さんの深い訓示に応じようと話を聞いてみたはいいものの、何とも言えない類いの内容で感想に困る。色々端折って簡単に話してもらっただけなのに、人生の苦味が滲んでいて、ただの幼女ではない俺には刺激が強すぎる。


「ローズ」


 ふと名を呼ばれ、伏せていた視線を上げて婆さんを見る。

 婆さんは話をする前と変わらず、穏やかそうな顔をしていた。しかし同時に、真剣な眼差しで、俺の目を見つめてくる。


「今の話、できれば忘れないでいておくれ。本当はこんなこと、あまり言いたくはないのじゃが……いつかローズも、誰かを恨むことがあると思う。許せないことをされて、相手を傷つけてしまいたい、あるいは殺したいと思ってしまうかもしれぬ。じゃがな、決して憎しみに身を委ねてはいかんぞ」

「…………はい、分かりました」

「まあ、よく分からぬかもしれぬが、今はまだそれで良い」

 

 婆さんは小さく笑って、俺の頭を軽く撫でた。

 しかし俺は笑えず、表情を硬くしてじっとしていることしかできない。

 思いの他、重い話だった。

 婆さんが俺に自分の話をした意味は分かる。だからこそ、俺は今どういう顔をすればいいのか分からなかった。


「ふむ、今日の昼食はなんじゃろうな」


 婆さんはいつも通りだ。

 だが俺は今このときから、昨日までと同じように婆さんのことを見られなくなった。マリリンという一人の人間をより深く知ったことで、否応なく種々様々な思いを抱き、俺の心の一角を占める『婆さん』という存在が大きく、鮮明になった。

 それは望んでいたことであり、恐れていたことでもある。

 

 俺は二年後にみんなと別れる。

 それはもう確固とした決定事項で、変更などあり得ない。

 なのに俺は婆さんから話を聞いた。

 別れが辛く――喪失感が大きくなると分かっていながら。

 

 前世の俺だったら、そんなことはしなかっただろう。

 だがきっと、これが真剣に人と向き合うこと――生きるということだ。


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