第四十一話 『薔薇ノ日常・髪切リ』★
目蓋の向こうから柔らかな光を感じた。
薄く目を開けると、この一年ほどですっかり見慣れた天井が視界に広がる。寝起き時特有の心地良い微睡みに包まれながら、ゆっくりと意識を覚醒させていく。
「……ん、ぅま……」
右隣を見ると、リゼットが俺の身体に手足を絡ませ、もごもご口を動かしながら熟睡している。服ははだけ、掛け布団は足下に蹴りやられ、蜂蜜色の髪はボサボサだ。たまに耳と尻尾を微動させ、あどけない顔で深く寝息を立てている。
「…………」
左隣を見ると、こちらに身体を向けて眠るサラの姿がある。リゼットとは対照的に、就寝前とほとんど姿が変わっていない。金糸のようなセミロングヘアは褐色の肌を滑らかに流れ、起きているときにはあまり見せない気の抜けた顔で眠っている。
いつも通りの朝だった。
バルコニーへ続くガラス窓から朝日が差し込み、広々とした子供部屋を薄く照らしている。俺は一度目を閉じて、大きく深呼吸をした。そうして、いつも通りリゼットの手足を引き剥がしていく。
「んぁ……ろーず……?」
やはりいつも通りリゼットが目を覚まし、寝ぼけ眼を向けてきた。
「おはようございます、リゼット」
リゼットは二、三度ほど愛らしい両目をしばたたかせる。すると、あっという間に琥珀色の瞳から微睡みが抜け落ち、俺より先にバッと身体を起こした。
「おはよーっ、ローズ!」
そう言うや否や、寝起きとは思えない動きで、元気良くベッドから飛び降りる。
相変わらず朝からテンションはマックスらしい。
「あさだっ、あさごはんだ!」
「その前に、サラを起こして着替えましょう」
俺は上体を起こして、未だ一人隣で眠る金髪褐色の美幼女に目を向けた。
「サラ、朝ですよ」
「……ん」
掛け布団を取っ払って肩を揺すると、サラは小さく身じろぎした。
だが起きる気配はまるでない。
「サラ、起きてください」
「ん……まだ……」
胎児のように身体を丸め、サラは微睡んだ声を漏らす。
「サラねえーっ、おきておきておきてー!」
「んもう……リーゼ、うるさい……」
リゼットはベッドに飛び乗って、サラの身体を思いっきり揺すりながら大声で呼び掛ける。遠慮も気遣いもクソもないが、こうでもしないとサラは起きない。
「サラねえサラねえっ、はやくおきて! あしたはクレアがくるまえにおきるって、きのういってたじゃんっ!」
「……おぼえてない」
幼狐は小悪魔に馬乗りになって肩を揺するが、サラは煩わしそうに眉をひそめるだけで、目は開けない。
それからしばらく、リゼットと俺が声を掛けまくって、揺すりまくっていると、ようやくサラは重たそうに目蓋を押し上げた。のっそりと身体を起こし、小さく伸びをして、寝ぼけた両目で俺たちを見てくる。
「ん、おはよ……」
「おはようございます」
「おはよーっ、サラねえ!」
そんな感じに俺たちはベッドから出て、まずはトイレへ直行する。
出すもの出して戻ってくると、三人一緒に着替えを始める。
サラは低血圧なのか、寝起きがあまり良ろしくない。放っておけば一人延々と寝続けるため、いつも俺とリゼットが起こしている。トイレへ行くときはフラフラしているが、部屋まで戻ってくるうちに目が覚めてくるのか、パジャマから普段着になる頃にはシャキッとする。
「リーゼ、こっち来て。髪がボサボサよ」
着替え終わると、サラが櫛を片手にリゼットを手招きする。
櫛は半円形の平たいもので、かなり目が細かく、歯数が多い。素材が鼈甲のような高級品っぽくて、子供にはやや不釣り合いな代物だが、サラ専用の櫛だ。だいたいいつも持ち歩いている。
「べつにいーよ、ボサボサでも」
「よくないの。ほら早く」
リゼットはしぶしぶサラの前にある椅子に座り、髪を櫛で梳かれる。どうせすぐにまた乱れてしまうのだが……まあ、リゼットも女の子だし、こういうことは習慣付けておいた方がいいのだろう。
「次はローズよ」
呼ばれたので、俺は素直に椅子に座った。
リゼットは窓の方へ駆け出すと、バルコニーに出て朝日を浴び始める。そしてなぜかその場で駆け足になり、「うぅぅぅうぅ~」とか声を上げながらぐるぐる回っている。何がしたいのか全く分からないが、元気が有り余っているらしいことは確かだ。
そんな幼狐を横目に見ながら、俺はサラに髪を梳かれていく。
俺もリゼット同様、べつにボサボサでもいいと思っているが、サラがやりたがっているし、これもコミュニケーションの一環だ。
「ローズは髪が綺麗ね」
「私はサラの方が綺麗だと思いますけど」
「それはありがと」
サラはあまり本気にしていないようだが、俺の真っ赤な髪よりサラの金髪の方が色合い的にも綺麗だ。真紅ってのはどことなく威圧的だしな。
対してサラの金髪はやや色素が薄いのでケバケバしくないし、髪質も良く、さらさらしていて綺麗だ。サラだけに。
……うん、ごめんサラ姉。
「でも、やっぱり長い髪の方が見栄えするし、いいわね。わたしも飛ぶとき邪魔にさえならなければ、もっと伸ばすんだけど」
「サラは今の長さがちょうど似合ってますよ。それに長いと鬱陶しいですし。もうこの際だから、今日あたりバッサリと切っちゃいましょうかね」
「それはダメよっ、もったいないわ!」
いつになく強い語調で言われた。
サラは女の子だなぁ……とか思って一人ほのぼのしていると、ブラッシングが終わった。
「はい、いいわ。これでスカートだったら完璧なのに」
「ス、スカートは、ちょっと……それにサラだってズボンじゃないですか」
椅子から立ち上がり、振り向きながら答える。
これまでの生活でスカートやワンピース系の服を着ないかと言われはしたが、俺は拒否し続けている。リゼットとサラはたまに着ているが。
「わたしは翼人だからいいのよ」
サラは背中の翼をバサっと一度だけ羽ばたかせた。
スカートで空を飛ぶと、必然的にパンツは丸見えになる。クレアはよくロングミニ問わずスカートを着用している一方、セイディはほとんどズボンだし、それは分かるが……俺としてはサラにはいつもスカートを穿いていて欲しい。
金髪褐色美幼女のミニスカ+白ニーソによる絶対領域とか……うん、いいね。
これで年齢が今の倍あったら最高だが。
本人を前にそんなことを考えていると、なんだか無性に笑えてきた。
「な、なに笑ってるのよ? あっ、もしかしてわたし寝癖ついてるの!? だったら言ってよもうっ」
サラは可愛らしくムッと眉根を寄せた。
慌ただしく自分で金髪に櫛を通していく姿を見ていると、俺の心は言い難い幸福感に満たされ、否応なくにやついてしまう。
館で生活し始めて、早くも一年以上が経った。
現在は光天歴八九三年の蒼水期半ばだ。
ちょうど昨年の今頃、サラと仲良くなった。
ふとそのことを思い出したせいか、思わず笑みが溢れてしまったのだ。
「なんだか、こうしてサラと話しているのが嬉しくて、つい笑ってしまうんです。あと、寝癖はここです」
「――あっ」
俺はサラの手から櫛をかすめ取ると、彼女の側頭部を梳いてやる。
ちなみに俺はサラより二十レンテくらい背が低い。俺もサラも、五歳児と八歳児にしては平均的な身長だと思う。ただ、リゼットは俺より少し小さい。
腕を伸ばしてサラの柔らかな金髪に櫛を通していると、寝癖はすぐに直った。が、サラのムッとした顔は相変わらずで、俺から目を逸らしている。
「い、いい加減、そういうこと言うのはやめて。昔は昔、今は今よっ」
「はい、分かりました。もう言いません。これからは思い出すだけにします」
「ローズ!」
サラは顔を赤くして、怒鳴った。
いや、声音には怒気より圧倒的に羞恥の念の方が多いが。
「あら、今日は早いのね」
ふと聞き慣れた声が耳朶を打った。鈴を振ったように軽やかでありながら、頭の芯にまで染み渡るような深みのある美声は耳に心地良い。
クレアは長く引き締まった美脚で俺たちの前までやって来る。艶めいた長い黒髪は本日も変わりなく、切れ長の双眸に穏やかな光を湛えている。
「おはよう、二人とも」
「おはよ、クレア」
「おはようございます」
家族と朝の挨拶を交わす。
前世では考えられない、でも当たり前の習慣を、俺は当たり前のようにした。
「おはよークレアーっ!」
バルコニーからリゼットが走ってくる。が、今さっきまでぐるぐる回っていたせいか、転んでしまった。と思ったら、そのまま綺麗に前転し、何事も無かったかのように立ち上がって走り続ける。
「はい、おはよう。リゼットは今日も元気ね」
タックルをかます勢いで、クレアの腰に抱きつくリゼット。
美女は小さな頭を撫でながらベッドに目を向けた。
「今日はおねしょしなかったみたいね。それに、サラも今日はちゃんと起きられてるし」
「わたしはもう八歳よ、リーゼと同じみたいに言わないで」
サラは腰に手を当てて、不服だと言わんばかりにしかめ面を見せる。
俺は敢えてノーコメントを貫いた。
言わぬが薔薇というものだ。
「ふふ、ごめんね。さ、下でご飯にしましょう」
クレアは俺の顔をチラ見してから微笑みを浮かべた。
さすが空気の読める大和撫子的美女だ。
セイディなら突っ込んでるところだろうに。
「ごっはんーっ、あっさごっはんー!」
リゼットは尻尾を振り回しながら、一人でさっさと部屋を駆け出て行った。
「わたしたちも早く行くわよ」
そう言って、サラは俺とクレアの手を握ってくる。
俺は小さな手を握り返し、三人で幼女部屋を後にした。
♀ ♀ ♀
「さて、今日はどうしましょうか」
片腰に手を当て、俺とリゼットと向き合いながら、サラは独り言のように呟きを溢した。朝食後の日課である家事の手伝いは既に終わり、俺たち三人は一階ホールの階段前に集まっている。
「たしか今日って、クレアとアルセリアさんが猟兵協会に行くんでしたよね?」
「ええ、だから勉強を教えてもらうのはなしね」
館には婆さんと天使が残ることになるが、セイディ先生は教え方が下手だ。いやまあ、下手というか、多分に感覚的な指導法をとっておられるため、リゼットしかまともに理解できないのだ。よって、俺とサラはクレアとアルセリアからでなければ、教えてもらう意味が半減する。
ちなみに、最近のサラが魔物狩りへ行くのは五日に一回ほどだ。
「じゃーまほーのれんしゅーしよーっ!」
リゼットが小さな身体でやる気満々に両手を突き上げ提案する。
が、サラは首を横に振った。
「それは午後からね。お昼までは、おばあちゃんは畑の手入れするって言ってたし、セイディはお酒飲みながらダラダラしたいって言ってたわ」
「じゃーダラダラするセイディをつれてくればいーんだっ!」
「まあまあ、リゼット。セイディだって休みたいんですよ。そっとしておいてあげましょう」
俺たち幼女は家事の手伝いこそすれ、自由時間はたっぷりとある。
だが、クレアとセイディとアルセリアは猟兵協会に行ったり、日々の家事をこなしたり、俺たちの世話をしたりと結構忙しい。婆さんは読書や畑いじりばかりで家事はあまりしない。歳だしね。ただ、風呂を入れるのはだいたい婆さんだが。
「じゃー、さんにんであそぼー!」
「ローズはどうしたい?」
俺は本が読みたい。
三人でのんびりベッドに寝転がって、一緒に読み進めていくのだ。
あぁ……考えただけで癒される……が、ここ最近は勉強ばかりだった。リゼットは未だ七歳になる前に猟兵となることを諦めていないとはいえ、息抜きも必要だ。元々が活発な幼狐はジッとしている座学より実技の方が圧倒的に好きなようだし。
「私も遊びで」
「珍しいわね、てっきり勉強しようって言うかと思ったけど」
「まあ、私にも遊びたいときだってありますよ。それで、サラはなにがしたいんですか?」
「うーん……わたしは勉強したいわね。早く北ポンデーロ語は覚えちゃいたいし」
サラはそう言いながらも、リゼットの頭を撫でた。
「でもまあ、今日は遊びましょうか。勉強は夕方でも夜でもいいし」
「やったーっ!」
リゼットは尻尾をブンブン振って喜びを露わにする。
やはりというべきか、サラは俺とリゼットの意見を尊重してくれた。嬉しい反面、申し訳ない気持ちもあるが、今になって無粋なことは言うまいて。
「あたしね、かくれがりがしたいっ!」
隠れ狩りとは前世でいうところの隠れ鬼のことだ。かくれんぼと鬼ごっこのハイブリッド版であるアレね。この世界で鬼ごっこは狩りごっこと言われている。
「嫌よ、リーゼは耳と鼻があるじゃない」
やる気に満ちた顔で言ったリゼットに対し、サラは顔をしかめた。
「なら、魔法ありにしますか?」
「それだとローズが有利になるわ」
「では翼もありにしてみましょうか。全員が全力でやってみる隠れ狩りはまだやったことありませんよね?」
サラはやや逡巡した様子を見せるも、「いいわ」と頷いて見せた。
「でも、危険な魔法はもちろん使っちゃダメよ。怪我したり家が壊れたりしたら大変だし、怒られるから。特にリーゼ、ちゃんと気をつけるのよ?」
「わかったーっ!」
返事だけは一人前だが、正直リゼットは何をしでかすか分かったものではない。
やっぱり魔法なしにした方がいいか? でもそうすると、ただの人間である俺に勝ち目がなくなる。まあ、死ぬことはないだろうし、リゼットのことは俺が気に掛けていればいいか。
「それじゃあ、猟兵役を決めるわよ」
サラに促され、俺たちはじゃんけんした。
一回目は相子になったが、二回目で決着が着いた。
俺とサラがパー、リゼットがグーだ。
「リーゼ、ちゃんと三十秒数えるのよ。あと耳は塞いでて」
「うんっ」
幼狐は両手で獣耳を折りたたむように塞ぐと、目を瞑って数え始めた。
俺と小悪魔的美幼女は一瞬だけ目を合わせると、すぐに動き出す。
サラは背中の両翼を羽ばたかせ、階段を使わずに二階へ直行する。俺は無詠唱で〈風速之理〉を行使すると、超幼女級のスピードで駆け出し、まずは一階ホールから廊下へ出る。
さて、隠れ狩りのルールは単純にして明快だ。鬼役の猟兵が子役の獲物を見つけ、狩猟する。狩られた獲物は次の猟兵となり、獲物を狩る。これを延々と繰り返していくという、まさに鬼ごっこな遊びだ。
これまで何度もサラとリゼット、ときにはクレアやセイディ、アルセリアも交えて隠れ狩りはしてきた。美女たちが参加した際は色々ハンデを設けてくれていたが、今回の戦いには如何なるハンデも存在しない。
俺は主に魔法を、サラは翼を、リゼットは鋭敏な聴覚や嗅覚を駆使して競うことになる。
これまでの経験から予想するに、今回の全力勝負で一番不利なのはリゼットだ。
幼狐は五感こそ人間離れした獣人のそれでも、ハーフだからか身体能力は人間と大差ない。〈風速之理〉は習得済みだが無詠唱化はまだできていないし、お得意の火魔法は遊びでの使用には適さないものばかりだ。
正直、手加減しようか迷う。
迷うが……なるべく全力でいった方がいいだろう。年齢不詳の俺はリゼットと同い年ということになっているし、リゼットもそう認識している。三つ年上のサラならともかく、同い年の幼女に手加減されたくはないだろう。リゼットは俺の実力を知っているため、手を抜けばすぐにバレる。
というわけで、大人げないが本気でいく。
俺は全力疾走して食料庫へ向かうと、整然と並べられた食材の中に紛れ込む。
ここならば鋭い嗅覚を誤魔化してくれる。
すまんね、リゼット。
「…………」
息を殺してジッと待つ。
数分ほど経った頃、二階の方からサラとリゼットの魔力波動が伝わってきた。一度リゼットに捕捉されたら、もう隠れられないだろう。しかしリゼットがサラに追いつくのも至難の技だ。
なんて考えていると、凄い勢いで食料庫の扉が開いた。
「ごめんローズ!」
やや興奮ぎみなサラの声が聞こえた瞬間、俺は悟った。一も二もなく立ち上がると、薄暗い室内に差し込む光のもとへ駆け寄り、廊下へ出る。
すると、五リーギスほど先にリゼットがいた。
「ローズみつけたっ!」
リゼットの小さな手が間近に迫る。
俺は反射的に身を屈めながら真横に飛び、そのまま地を蹴った。もちろん〈風速之理〉を行使するも、今はリゼットも使っている。
幼狐の身体能力は人間並だが、それでも運動神経は抜群だ。よって、このままではものの数秒で追いつかれる。
俺は走りながら風魔法を使い、後方のリゼットに強風をけしかけた。
後ろから「わぱぁっ!?」と可愛らしい声が届く。
時間を稼いだ隙に中庭へ出ると、今度は入口を氷壁で塞いだ。一階廊下から中庭に繋がる出入り口は四つあるため、俺は対角線上へ向かって駆ける。
そこでふと視界に過ぎった姿につられ、二階廊下に目を向けると、俺を犠牲にした小悪魔がちょうど中庭上空から二階廊下の窓へ入っていくのが見えた。
「――っ!?」
魔力波動を感じて振り向いてみると、氷壁の一部が溶け、リゼットが爛々と瞳を輝かせて中庭へ入ってきた。思ったより時間が稼げていない。
逡巡した末、俺は二階廊下の窓を見上げた。サラは走る俺たちを悠然と見下ろしている。高さはおよそ四リーギスほど。
俺は本番に弱いと自覚している。正確にいえば、緊張に押し負けてしまう惰弱なところが俺にはある。だから程良い緊張感のある今は絶好の機会だ。
練習通りにやれば、たぶん行ける。
「正道行くは愚民の常、万民縛るは天地の法、故に賢民とても正道行かん。
其の道堅牢にして盤石なり、然れど猥雑にして紛擾溢れ、相互に歩みを妨げ阻む。
ならば凶念抱きて邪道拓かん、我が跫音こそ法理崩壊の序曲、今こそ重き縛鎖を打ち砕かんっ――〈邪道之理〉!」
まだ無詠唱化できていない上級闇魔法を、走りながら早口言葉のように詠唱する。目指していた対角線上の出入り口はもう目と鼻の先だが、俺は進路を壁面に変え、そのままの勢いで疾駆する。壁の一リーギスほど手前で跳び上がり、右足で壁を蹴る。相変わらず重力は感じるが、俺の右足は確かに接地した。
行けるっ――と確信して今度は左足を前に出し、俺は壁面を駆け上がる。
「ぐぇっ!?」
が、不意に下から髪を引っ張られ、バランスを崩した。
痛覚と驚愕が俺の集中力を粉砕する。
結果、俺の身体にかかるマジカルパワーは万有引力に押し負けた。
「――あっ」
「ローズ!?」
リゼットの唖然とした呟きと、サラの悲鳴が耳朶を打つ。
視界がぐるりと回り、頭部に激痛が走って、俺の意識はフェードアウトしていった。
♀ ♀ ♀
目覚めると、見慣れた天井が視界に広がった。
「あっ、ローズ大丈夫?」
心配そうな面持ちのサラがすぐに素っ気ない天井に取って代わり、俺の視界を埋め尽くす。
あぁ……サラはどんな顔をしていても可愛いな。将来はきっと相当な美人になるだろう。
「何が起きたか覚えてる?」
「ええ、大丈夫です」
答えながら身体を起こす。
頭に触れてみるが、特に怪我らしい怪我はないし、痛みもない。
たぶん誰かが治癒魔法を掛けてくれたのだろう。
「ローズ、ごめんね……」
サラの隣に立つリゼットが、珍しくしんみりとした声で謝ってきた。快活な笑みは鳴りを潜め、耳と尻尾は力なく垂れ、俺を映す大きな瞳は揺らいでいる。
「いえ、アレは……まあ、仕方ないことでしょう。ただ、もう髪は引っ張って欲しくないですけど」
「……うん」
「そんなに気にしないでください。私は元気ですから、ほらこの通り」
俺はベッドから飛び降りて、これ見よがしに身体を動かして見せた。
それからリゼットの頭を優しく撫でてやる。
すると幼狐の表情は瞬く間に晴れ渡って、愛らしい獣耳は立ち上がり、尻尾は左右に揺れ始める。
「うんっ、ありがとーローズ! ローズはやさしーねっ」
まあ、俺は怒るのが嫌いだからな。
それにリゼットのしたことなら大抵は許してしまえる。無論、もし彼女が全く反省の色を見せていなかったら、教育のために怒ったふりくらいはするが。
リゼットとサラには優しく立派な大人になって欲しいのだ。
「もうっ、ローズは優しすぎよ。髪を引っ張られただけじゃなくて、そのせいで落ちて頭打ったんだから、少しくらいは怒ってもいいのに」
「これくらいのことでは怒りませんよ」
俺を怒らせることができたら大したもんですよ。
前世でも俺は一度もキレたことがなかったし。
「ところで、もしかしてお婆様が治癒魔法を掛けてくれたんですか?」
「そーだよっ、あとセイディが運んでくれたの!」
「ローズが気絶してたのは、だいたい一時間くらいね。おばあちゃんもセイディもそのうち目覚めるからって、部屋に戻っていったわ」
うーん、なんだか二人とも薄情だな。仮にも五歳児が意識を失ったってのに。
ここは家族総出でベッド脇に待機し、俺の目覚めを待っててくれてもいいはずだ。まあ、この世界は治癒魔法があるから、そこまで心配するようなことでもないのだろうが。
「では、ちゃんとお礼を言っておかないとですね。しかし、それにしても……」
「ん? なに、どうかした? もしかして頭痛い?」
「いえ、ただなんというか、やっぱり髪は邪魔だなぁと」
気遣ってくれるサラに、俺は長く伸びた後ろ髪を掴みながら答えた。
俺の真っ赤な髪は腰まで伸びている。椅子なんかに座ると、毛先がちょうど座面に付くか付かないかくらいだ。長いだけでなく、そこそこボリュームもあるので、ちょっと重い。初めは長い髪も新鮮で良かったが、最近はもう鬱陶しいだけだった。洗うのも乾かすのも面倒だし、何より邪魔だ。
例えばベッドに横たわっているとき、髪は背中で押さえ付けられることになる。だからその状態で首を動かそうとすると、髪のせいでカクッとつっかえてしまうのだ。これがなかなかに腹が立ち、かつ痛い。最近はもう慣れてしまったので、そうした失態を演じることは少ない。だが、いちいち気を付けているのも疲れる。
服を着たとき、襟元から髪を外に出す必要もある。これはこれで面倒だし、服を脱ぐときも髪が邪魔で脱ぎづらくなる。メリットらしいメリットはなく、強いて言えば色んな髪型にできることくらいだ。俺が心から女ならそこに価値を見出すのだろうが、生憎と俺の心は依然として男だ。
「やっぱり切っちゃいますか」
「ダメよ、もったいない。せっかく綺麗に伸びてるのに」
やはりというべきか、俺の髪のことなのにサラが反対する。本当は勝手に切ってしまいたいが、そうすると後になってサラが怒りそうなんだよな。
ううむ……面倒臭い。
「髪はまた伸びます。長いと今日みたいなことが起きるかもしれませんし。遅くともあと一年半で私も猟兵になりますし、長い髪は色々危険だと思うんです」
「でもクレアは長くてもちゃんとできてるわよ」
「クレアは……立派な大人ですから」
「ローズはしっかりしてるから大丈夫よ」
んな他人事だからって、適当なこと言っちゃって。
本当に長いと大変なのよ? サラはその辺のこと分かってんのかね。
なんて思っていると、サラはおもむろに櫛を取り出して俺の髪のブラッシングし始めた。
「なんでサラねえ、ローズのはきっちゃだめってゆーの? アタシはよくて、ローズはだめなの?」
「リーゼはよく動くから短い方がいいし、似合ってるから」
「じゃーローズのみじかいのはにあわないの?」
「そういうわけじゃないけど……なら想像してみて、リーゼ。リーゼは髪の長いローズと短いローズ、どっちがいい?」
サラが金銀な斧風に言うと、リゼットは「う~ん?」と目を閉じて首を傾げる。
が、二秒もしないうちに元気良く答えた。
「どっちもいーよ!」
「ダメ、どっちか一つだけ選んで」
正直なところ、自分のこととはいえ、髪の長短で似合っているだのなんだの、実にどうでもいい。俺にとっては過しやすいか否かが重要であって、見てくれは二の次だ。
「じゃーながいほーでいーや」
「ほらローズ、リーゼもこう言ってるわ!」
「いやいや、なんか凄く投げやりに言ってましたよね?」
「ローズは長い方が可愛いんだから、とにかくこのままでいいのっ」
女の子の考えってのはよく分からん。
サラは俺を着せ替え人形みたいにでも思っているのだろうか?
まあでも、サラがそこまで言うのなら、折れてやろう。
「……分かりました。まだしばらくはこのままでいってみます」
「ずっとでいいわよっ」
見惚れるほどキュートな笑顔で言われると、ついつい頷きそうになってしまう。
でもずっとは嫌だから、いつか切ろう。
そう思っていると、ふと俺の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
「そういえば、ユーハさんも髪長いですよね? サラとしては、あの人の長髪はどうなんですか?」
「気持ち悪い」
即答だった。
哀れなりユーハ……。
「そう、ですか。でも本人に気持ち悪いとは言わないでくださいね。ああ見えてユーハさんは繊細な心の持ち主ですから」
「そーだっ、ユーハにあいにいこー!」
なんか急にリゼットが言い出した。
本人はもう行く気満々なのか、身体をうずうずさせている。
「突然どうしたのよ、リーゼ」
「あのね、ユーハのかみをきってあげるの! そーすればサラねえもユーハのことすきになれるよねっ!」
「わたしはユーハじゃなくて男が嫌いなの」
サラは腕を組んで、ツンと顔を背けた。
「サラはどうして男が嫌いなんですか?」
「汚いし乱暴だし気持ち悪いから。ローズも猟兵協会に行けば分かるわ」
というような応酬は、これまで何度かしてきた。
サラは男が嫌いだ。それはユーハであっても例外ではない。もう幾度となく魔物狩りで一緒に行動しているはずだが、未だに打ち解けてはいないようなのだ。
サラは人見知りでもあるからね。
しかし考えてみると、リゼットの言うことはもっともかもしれない。
ユーハはやや小汚い。服装はそうでもないが、長い髪と粗野な眼帯のせいで、そう見えてしまうのだ。ここはもう一気に散髪して、さっぱりしてもらった方が幼女受けもいいだろう。
今更といえば今更の話だ。
「よし、ではユーハさんに会いに行きましょう」
「おぉーっ!」
俺の言葉に幼狐は両手を突き上げて賛同する。
が、小悪魔的美幼女は顔をしかめた。
「わたしは行かないからね」
「それじゃあサラは待っててください。ちょっとユーハさんの髪を切ってくるので、終わったら一度見てもらっていいですか?」
「嫌よ、なんでわたしが」
「まあまあ、そう言わずに」
などと拒否するサラを説得し始めるも、頑固なお姉様は首を縦に振ろうとしない。というわけで、俺とリゼットの二人がかりでサラをくすぐり、無理矢理頷かせた。
「ぅ、く……はぁ……ローズって、はぁ……たまに、強引よね……」
服を乱して息を荒くし、瞳を潤ませてそんなことを言ってくる。
まだ幼女なのになんだか妙に色っぽくて、ちょっとドキっとしてしまった。
しかし、断じて俺はロリコンではない。
♀ ♀ ♀
この一年以上に渡り、ユーハの格好はほとんど変化していない。乱れた長髪も粗野な眼帯もそのままなので、鬱顔と相まって不気味だ。
だが、オッサンのその姿は《黎明の調べ》にとって有用だった。得体の知れない近寄りがたさは他の猟兵連中への牽制になっていたのだ(たぶん)。なので、オッサンのイメチェンには婆さんやクレアたちの許可がいると思い、婆さんの部屋へやって来た……のだが、
「サラにユーハさんを好きになってもらいたいので、あの人の髪切ってもいいですか?」
「む? べつに構わんのではないかの?」
実にあっさりとお許しが出た。
「いいんですか? 切っちゃったら、たぶんユーハさんの怖さが半減すると思いますけど」
婆さんは俺の言葉に一度瞬きをして目を伏せると、「ふむ……」と呟きながら頷いた。
「なるほどの。ローズ、あたしはべつにあの者の容姿を利用していたつもりはない。じゃから本人が良いと言えば、良いのではないかの?」
あらら……なんだよ、てっきりあの鬱武者然とした不気味さを有効活用していると思ってたんだが。
「そうだったんですか。あの、ところでお婆様って、裁縫できますか?」
「そりゃできるがの。ちょっとしたドレスだって作れるぞ?」
婆さんがちょっと得意げに言うと、リゼットが「おぉっ、ドレス!」と反応した。しかし、なんだろう……婆さんのドヤ顔って微妙にイラっとするな。
「ドレスはいいですけど、眼帯って作れますか?」
「それくらい朝飯前じゃな」
「え? いまはひるめしまえだよ?」
幼狐はともかく、作れるらしいので、俺は婆さんに眼帯作成を依頼した。
すると当然のようにあっさり引き受けてくれる婆さん。ちなみに奥義も何も発動していない。まあ、婆さんの日常は読書か畑いじりか俺たち幼女とのハートフルなコミュニケーションくらいなので、暇なのだろう。
「色はどうするのじゃ?」
「うーん、本当は本人の希望を聞いてきた方がいいのでしょうけど……ここは白でお願いします」
今のユーハの眼帯(という名の布切れ)は黒だ。奴は髪が黒いので、眼帯まで黒いと鬱顔との相乗効果でかなりダークな感じになってしまう。
というか、現在なっている。
「あたしはねー、ピンクがいい!」
なんかリゼットが言ってるが、聞き流す。
「白とピンク、どっちにするのじゃ?」
「白です」
「ローズっ、ピンクピンクピンクー!」
リゼットが俺の腕を引っ張りながら猛烈なピンク推しをしてくる。
まったく……常識的に考えて、オッサンにピンクはさすがに可哀想だろうに。
「リゼット、白にしましょう」
「やだやだー、ピンクがいーいー!」
幼狐は普段のハイテンションのまま駄々をこね始める。
だが、ここで彼女の愛らしさに惑わされ、流されてはいけない。こうした我が侭を受け入れ続ければ、将来ろくな大人にならないからな。
しっかりと教育する必要がある。
「それじゃあリゼット、ピンク以外では何がいいですか?」
「ピンク!」
「以外で、です。ユーハさんは大人の男性ですし、ピンクは可哀想ですよ」
「むー……じゃーね、きーろとあか!」
また厄介な色を……黒髪に赤だと禍々しい見た目になってしまうから、赤は選べない。魔弓杖のカラーリングも黒赤だったし。
となると必然、黄色になる。
黄色か……うーむ、ピンクよりはマシか。
「私は赤は嫌なので、黄色にしましょう。それでいいですか?」
「うーん……いいよっ!」
やや逡巡する素振りを見せるも、なんとか承諾してくれた。
俺とリゼットは婆さんに眼帯制作を頼むと、早速ユーハのもとへと向かうことにする。ただ、子供だけで転移してはいけない決まりなので、セイディに同行してもらう。
地下の転移部屋からヘルミーネ宅へと転移する。
ユーハは広々とした部屋の片隅で、相変わらず片膝を立てて座っていた。尚、ヘルミーネのビッグな姿は見られない。彼女は今日、クレアとアルセリアと共に狩りに行っている。基本的にオッサンは幼女が参加するときしか同行しないのだ。
「こんにちは、ユーハさん」
「……ローズ、久しいな。四日ぶりくらいか」
オッサンは伏せ気味だった顔を上げ、陰鬱な顔を向けてきた。
一年前に比べれば血色はマシになったし、表情にもやや張りは出ているが、依然として鬱々とした負のオーラは健在だ。それでも俺と何日ぶりに会ったかは覚えているので、思考は鈍っていないらしい。
「して、今日はどうしたのだ……?」
「かみをきるんだよっ!」
「……神を斬る、だと……っ!?」
「いえ、髪です、髪の毛です」
ユーハの思考は鈍っていない……はずだ。
俺はオッサンに散髪&眼帯交換の件を手早く説明する。
オッサンは話を聞き終えると、「ふむ……」と声を漏らした。
「そうか、某の髪を……確かにだいぶ長くはある……切って貰えるのであれば、頼んでも良いか?」
「よいぞ!」
リゼットがオッサンの真似をして、無駄に偉そうな返事をする。
その横で、セイディは欠伸を漏らしながら俺に目を向けてきた。
「ローズ、本当に大丈夫? 髪なんて切ったことないでしょ?」
「大丈夫です、なんていうか、こう……私にはできる気がするんですっ」
俺は幼狐に倣って自信ありげに答え、真っ直ぐに天使を見上げた。
実際、俺は結構散髪には自信がある。なにせ前世では十年以上も自分で髪を切っていたのだ。コミュ障をこじらせていたせいか、床屋や美容院になんて行きたくなかったからな。
引きこもりだったとはいえ、俺はクオリティに妥協しない性格なので、毎回毎回丁寧に散髪していた。俺の散髪スキルは常人以上という自負がある。
「まあ、アタシはべつにいいんだけど、ユーハはほんとにいいの?」
「うむ……ローズならば大丈夫であろう。それに、斯様な幼子が某なぞの髪を切ってくれるというのだ……どうしてこれを断ることができよう」
「え、えぇ、そうね、それならいいんだけど……」
セイディは微妙に苦笑いを浮かべて頷くと、ヘルミーネの寝床へ行って寝転がった。彼女とて、もうかれこれ一年以上はユーハと付き合ってきているが、未だにオッサンの鬱っぷりには慣れないらしい。
「では、始めましょうか。ユーハさん、とりあえず眼帯を取って、外套を羽織ってもらえますか」
オッサンの右目に装備された眼帯の下には生々しい傷痕が残っている。
これは治癒魔法でも治せない傷らしい。
基本的に、治癒魔法は外傷内傷問わず秒単位で治してしまう、まさに奇跡的な魔法である。例え足が千切れようが、腹に風穴が空こうが、治癒魔法ならば傷痕すら残さす完治可能だ。
しかし、例外も存在する。対象の傷に関連する何らかの心的外傷――トラウマがある場合は、いくら治癒魔法を掛けても治すことができないそうなのだ。ユーハは婆さんに天級の治癒魔法を掛けてもらったらしいが、右目は復活しなかったという。つまり、ユーハはトラウマを負っているのだ。
目の傷は船倉で聞いた北凛島の一件で負ったそうなので、そのことに心の整理がつかなければ一生治らないだろう。
一応、俺はこれまで何度もユーハの心療をしてきた。
だいたい三、四日に一度くらいの頻度でヘルミーネ宅にお邪魔し、野郎同士で色々と話をしたのだ。しかし、オッサンの鬱は悪化こそしないものの、快復したと呼べるほど良くなってもいない。
「これで、良いだろうか……?」
「ええ、大丈夫です」
オッサンは眼帯という名の布切れを外すと、去年クレアに買ってもらったマントで首から下を覆ってもらった。
俺はオッサンの乱れた長髪に櫛を通し、髪を解していく。
ユーハの髪は結構長く、背中の半ばほどまで伸びている。癖毛ではないようだが、当然手入れなんかはしていないようで、変な寝癖みたいなものは付いている。水魔法で櫛を濡らしながら一通り髪を梳くと、俺はハサミを手に取った。
ふぅ……髪を切るのも久々だから、なんかやけに緊張するな。
今回は他人の髪だし、ちょっと集中していくか。
「さて、ユーハさんは何か希望とかありますか?」
薔薇のような美しさを貴方に。
ヘアサロンRoseにようこそ。
「うむ……あまり短くしすぎないよう頼む。特に前髪は長めが良いな……」
「なるほど、分かりました」
前髪を長めに、ですか。
それだと視界が遮られて鬱陶しそうですけど……いえ、彼は鬱っているんでしたね。もしかしたら、前髪があると安心するのかもしれません。実際、僕も昔は前髪が長いと顔が隠れるようで心が安らぎました。
僕はユーハの顔をよく見て、脳内で完成図を思い浮かべてみた。
うん……結構いい感じになると思う。彼の顔は元々整っている方だし、これは意外とダンディなイケメンに変身できるかもしれない。
イメージも固まったところで、早速ハサミを入れていく。
小気味よい音がリズムよく響き、なんだか僕もその気になってくる。
いや、もうさっきからなってるか。
「ローズっ、あたしもする!」
でも、ハサミを入れて三分もしないうちに、助手がやる気満々に進言してきた。
「そうですね……では、後ろのところを少し切ってみてください。切り過ぎちゃダメですよ。あとユーハさんの頭を切っちゃわないよう気をつけてください」
「わかったー!」
相変わらず返事だけは一人前な助手だ。
本当なら僕の作品に他人の手は入れたくないけど、彼女の願いは無碍にできない。
何事も経験ということで、ハサミを貸してやる。
幸い、ユーハは髪が長いので、少しくらいなら適当に切っても問題ない。
「チョキちょきチョキちょきチョッキちょき~」
助手は散髪が楽しいのか、変な歌を口ずさみながらハサミを動かしていく。
うん、もうね、可愛すぎてペロペロしたくなってくる。それに凄くいい笑顔だから、ユーハにも見習わせたいよ。
当のオッサンは正座姿勢で目を瞑り、さながら石像の如く微動だにしないが。
「リゼット、そろそろ終わりです」
「やっ、もっときりたい!」
幼狐は左手にハサミ、右手に黒い髪束を掴んで、どちらも離そうとしない。
しかし、これ以上適当に切られると取り返しが付かなくなる。
「まあまあ、リゼット。最後の方でまた切らせてあげますから」
「ローズだけずるいっ、あたしもしたいもん!」
「リゼット、これは責任あるお仕事なんです。もしユーハさんの髪が変な風になったら、どうするんですか。遊びじゃないんです、返してください」
「やっ、あたしちゃんとできるもんっ!」
などと言い合っていると、ユーハがゆっくりと目蓋を押し上げた。
「……では、ローズとリゼット、二人で切ってくれぬか。初めはリゼット、後はローズで頼む」
「わかったー!」
「ユーハさんが、そう言うなら……」
ユーハは優しいですね、本当に。まあ、彼からすれば、僕の腕前も助手の腕前と同レベルだと思っているんだろうけど……幸い、僕は後攻なので、少しくらいリゼットが変な風に切っても修正できる。
それにしても、助手のことはあまり甘やかさないで欲しいな。
しばらくの間、僕は助手の作業をハラハラしながら見守っていく。
正直、切りすぎないかということも心配だが、ミスってユーハの頭をザックリしてしまわないかも気が気ではない。なんかリゼットはやらかしそうで怖いんだよな。
セイディはリゼットが切ることに何も言わないのか?
と思って振り返ってみると、天使はまだ昼前にもかかわらず暢気に寝息を立てていた。同行してもらう前は一人で酒飲んでたらしいし、仕方ないといえば仕方ない。
思わず軽く溜息を溢しながらも、ユーハに目を戻す。
すると、僕の目に衝撃的な光景が飛び込んできた。
「――――」
ほんの数秒ほどの間に、ユーハの前髪がなくなっていた。
額の半分が露出するほどまでに短くなっている。
咄嗟に言葉が出てこないほど、見事なパッツンだ。
「リ、リゼットッ!」
僕は助手の腕を掴み、強引にハサミを奪い取った。
「あっ、ローズなにするのっ!?」
「もうリゼットの番は終わりです。ほら、こんなに……こんなに切ったじゃないですか!」
「でもまだ――」
「お・わ・り・で・す。ほら、もう向こうでセイディと遊んでてください」
僕は有無を言わせず、助手を天使のもとへ向かわせた。
彼女はやや不満そうにしていたが、眠るセイディの上に飛び乗ると、もう散髪のことなど忘れたかのように遊び始める。
「ローズよ、どうかしたのか……?」
「い、いえ、なんでもありません。ユーハさんはそのまま目を瞑っていてください」
なんとか冷静にそう答えながらも、僕は頭を悩ませていた。
ユーハの前髪がパッツンになってしまった。もはや修復は不可能だ。彼の要望である前髪長めは実現できそうにない。
オォ、マイシスター……。
ど、どうしよう。
パッツンをどうにかしようとするとなると、今より更に短くなってしまう。それではユーハの要望から更に遠のいてしまうのだが、さすがにこれはマズいと思う。
どうにかする必要がある。
とはいえ、一度切ってしまった髪はもう元には戻らない。
ちくしょう……やってくれなたなリゼットォ……俺の作品を穢しやがって、ユーハイケメン計画が水泡に帰しまったじゃねえか。
本当にもう見事なまでのパッツンだ。世界広しといえど、これほど見事な一直線フロントヘアーの持ち主はそうはいまい。ここまでくると、もはや芸術的である。
……うん、そうだ、これは芸術だ。
アートということにしよう。当初のイメージ通りにはどうやっても修復できそうにないし、こうなったら爆発だ。
もうどうにでもな~れ。
インスピレーションは大事だよね、うん。
というわけで、切った。
前髪にはもう手を加えず、横と後ろだけザクザク切っていく。
結果、ものの三分も掛からずに終わった。
「ユーハさん、できました」
「うむ、そうであるか……ん? ローズ、何やら前髪がないようだが……?」
前髪を触るオッサンに、俺は黙って手鏡を渡した。
何ら躊躇うことなく丸い鏡面を覗き込むオッサン。
「……な、なん、で……りゃ……?」
どうやら奇声を漏らすほど感動しているらしい。
ユーハの髪型を一言で表現すれば、おかっぱだ。
前も横も後ろもパッツン。
シンプルイズベストを体現したかのような完成度を誇っている。
「ロ、ローズよ、これは、なんであるか……?」
「すみません。前髪長めを希望していましたけど、独断で変えさせてもらいました。ですがこれこそ、ユーハさんに最も似合う髪型です」
「こ、これが……某に、だ……と?」
ユーハは感激のあまり表情を引きつらせている。先ほどまでのユーハだったら、なかなかに恐ろしい絵面になっていただろうが、今は違う。
パッツンヘアーが鬱武者にユーモアを与えていた。
「……っく、ふ……はぁ、はぁ……」
い、いかん、笑うな俺。
リゼットのためにも、なんとか上手く言い訳しないと。
しかし、これに黄色い眼帯が加わるとか……ダメだ、想像しただけで吹く。
「あら、ローズ、もう終わったの? って…………え?」
「あははははっ、ユーハおもしろーいっ!」
セイディとリゼットがこちらに近づいて来るも、天使は目を見開いて唖然とし、幼狐は人の気も知らないで爆笑する。
当のオッサンは頬を引きつらせたまま、俺に目を向けてきた。
そ、そんなに見つめちゃ嫌よ……?
「ユーハさん、まずは落ち着いて私の話を聞いてください。実はその髪型には――」
「あはははははははっ、くっ、ぶはっ、ちょっとローズ、アンタなにやって……あははははっ!」
セイディまで腹を抱えて笑い始めた。
「……ローズは某に、何か恨みでもあるのだろうか……?」
ユーハが陰鬱とした声で、瞳にヤバい光を宿して問い質してくる。髪型はアレでも、いやだからこそ、今のユーハは不気味すぎて怖かった。
俺は背筋に冷や汗を垂らしながらも逡巡し、可能な限り堂々と答えた。
「ユーハさん、以前に私が言ったこと、覚えていますか?」
「以前に申したこと……? それより今は、この珍妙な髪を――」
「笑う門には幼女来たる」
「――っ!?」
オッサンは言いかけていた言葉を呑み込み、目を見開いた。
その隙を逃さず、俺は畳み掛けるようにロリボイスを繰り出す。
「分かりませんか、ユーハさん。貴方は今、セイディとリゼットを笑わせているんです。かつて貴方が、これほどまで人を笑顔にしたことがありましたか?」
「い、いや……それは……」
「他ならぬ貴方が、この二人を笑顔にしているのです」
「……某、が」
呆然と呟きながら、セイディとリゼットに視線を転じるオッサン。
もろに顔を向けられたせいか、二人は白い歯を見せ、更に声を上げて笑う。
二人とも実に良い笑顔だ。
「人の笑顔を見ていると、幸せな気持ちになりませんか? 自分が人を笑顔にしているのだと思うと、心が満たされませんか?」
「――――」
俺はここぞとばかりにオッサンの手を取った。
小さな両手で優しく包み込むように握ってやった。
「ユーハさんはまだ、サラと仲良くできてないですよね? でも、もう大丈夫です。サラも笑顔になって、ユーハさんに心を開いてくれます」
「……そう、か……そうであったか……ローズよ、すまぬ……某、そなたが遊び半分で斯様な珍妙極まる髪にしたのかと、疑ってしまった……そうであるよな……この一年ほども、ローズは某のために笑顔の練習に付き合ってくれた。少し考えれば、そなたの考えは分かったはずであろうに……すまぬローズ……暗愚な某を許して欲しい……」
「い、いえ、分かってくれればいいんです」
ユーハも両手で俺の手を取り、陰鬱ながらもしみじみした面持ちを見せた。
うん……ちょっと心が痛いよ……。
それから俺は婆さん速製のイエローアイパッチを受け取り、サラを呼んで来た。
ちなみに眼帯は革製で、その上から黄色い布を被せたものだったので、結構丈夫そうだ。
黄色の眼帯を付けたパッツン頭の鬱武者を見て、サラは思わずといったように吹き出し、笑みを溢した。リゼットもセイディも改めて爆笑し、様子を見に来た婆さんも静かな微笑みを見せていた。猟兵協会から帰ってきたクレアは我慢した様子ながらも笑みを覗かせ、アルセリアも今までで一番良く笑っていたし、ヘルミーネも同様だ。
みんなから笑われて、ユーハも笑っていた。
この一年ほど、一緒に笑顔の練習をしてきたが、オッサンの笑顔は未だに恐怖心を煽る不気味な表情にしかならない。
だがこれまでと違って、その日のユーハの笑顔は自然だった。
そんなオッサンを見て、俺も安堵の微笑みを浮かべた。
色々あったが、誰も悲しんでいない。みんな笑顔でハッピーだ。
めでたしめでたし……ということにしておこう。
しておきたい。
しかしその後、猟兵協会に赴いたユーハが周りからどんな反応をされたのか、俺はまだ知らない。