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幼女転生  作者: デブリ
三章・邂逅編
55/203

 間話 『この大空に、翼をひろげて 後』


 ■ Other View ■



 ローズが館に来て、一期以上が経った。


 その日もサラは飛行練習のため、ヘルミーネの家に行こうとしていた。

 セイディは少しマリリンと話があるそうなので、先に転移部屋で待っていることにした。館にいるとローズが話しかけてくるから、地下で待っていたかったのだ。


「サラ、私とリゼット、新しい魔法を覚えたんです。よかったら見てくれませんか?」


 そう思って玄関前の広間から地下階段へ向かおうとしたところ、ちょうどローズと出くわしてしまった。

 いつも通り、笑顔で話しかけてくる。アレだけ辛辣な言葉を掛けているのに、ローズはいつも笑顔でやって来る。


「み、見ないわよっ。それにわたしだって新しい魔法の一つや二つ覚えてるんだからね!」


 反射的に断り、対抗してしまった。


「じゃあ、サラのを見せてください」

「嫌よ、どうしてあんたに見せなきゃいけないのよっ」

「……………………」


 ローズは肩を落とし、笑顔を陰らせた。

 少しだけ胸が痛くなるが、今更気遣うことなんてできない。


「な、なによ、文句があるなら言いなさいよ」

「…………サラは私のこと、嫌いですか?」


 まるで今にも消え入りそうな蝋燭の灯火を思わせる声だった。


「き……嫌い、よ。だからなんだって、言うのよっ」

「そうですか……嫌いですか。そうですよね、所詮私なんてこんなもんですよね……私に人間的な魅力なんてないですよね、当然でしたね」


 ふとアルセリアから言われたことを思い出した。

 『いつかローズに謝る』

 だが口は勝手に動いていた。


「ちょっと、なにブツブツ言ってるのよ! 聞こえる声で喋りなさいよバカッ」

「……えぇ、そうです、私なんてバカなんですよ。なんで努力すればどうにかなるとか思ってたんですかね。笑う門に幼女ふくは来ませんよ……それはカリスマある人じゃないと無理なんですよって……私なんてリタ様の足下にも及ばないクズですからね、はい……」


 暗く沈んだ声で呟くローズは異様だった。

 蒼く綺麗な瞳は淀み、笑顔から一転して酷く憔悴した面持ちになっている。

 

 自分のせいで、三つも年下の子にこんな顔をさせてしまった。

 そう思うと、サラは罪悪感から「うっ」と声を漏らして思わず一歩後ずさった。

 だが、それがいけなかったのか、ローズは瞳を潤ませ、目元を歪ませた。そして、そんな顔を隠すように頭を下げてきた。


「……ごめんなさい、調子に乗ってました。ちょろインなんて思って、本当にすみません。攻略とか、お前何様だよって話ですよね……」

「ちょ、ちょっと――」

「もう鬱陶しく付きまとったりしないので、許してください。これからは話しかけたりしないので、これ以上嫌わないでください……すみません……ごめんなさい」


 本気で謝っているのが分かった。

 胸が締め付けられて、息ができなかった。

 ローズは何も悪くないのに、自分はまだ謝れていないのに。

 なのに、これはなんなのだ。

 

 ローズは顔を上げることなく、足下に視線を落としたまま踵を返した。


「ぇ、あっ、ちょっと!」


 謝らなければと思った。

 だが、ふらふらとした態で振り返ってきたローズの顔を見て、口が止まってしまった。


 才能があって、何でも一人でできて、自分が勝っているのは年齢と身長くらい。

 ローズに謝るのだと思うと、無性に悔しかった。

 今まで散々なことを言ってきて、妹のリゼットと同い年の子に謝る。

 そう思うと、嫌な感じの想いがむくむくと膨れあがった。


「あ……ぅ、べ、べつになんでもないわよ! はやくどっか行けって言おうとしただけなんだからっ!」


 ローズをまともに見ていられなくて、年上らしく威張りたくて、腰に手を当てて顔を背け、目を瞑った。

 幼くも虚な響きで「ドッカ、イッチャエ、バインダー……」とローズが呟いていたのが聞こえ、息苦しくなる。

 じっと同じ姿勢で、ローズがいなくなるまで耐えた。

 それからゆっくりと目を開けて、あの真っ赤な髪が視界にないことを確認すると、一気に身体から力が抜けてしまう。


「…………もう……いや」


 その場にしゃがみ込んでしまった。

 もう何も考えたくなかった。

 何も思いたくなかった。

 自分が嫌だった。

 ローズも嫌だった。

 苦しくて辛くて、誰かに助けて欲しかった。

 アルセリアは相談しろと言ったが、自分でもよく分からないことを相談なんてできない。それに、なんだか自分がやけに惨めに思えて、恥ずかしかった。

 チェルシーになら、まだ今の自分をさらけ出して、頼りにすることができたかもしれないが、もう彼女はいない。


 その後、アルセリアから慰められたが、全く気持ちは晴れなかった。

 むしろ先ほどの一幕を見られていたという羞恥心が一層サラの心を苛み、気落ちさせた。




 ■ Other View ■



 クレアは真面目だ。

 といっても、頭でっかちというわけではない。

 状況に応じて融通を利かせる柔軟性があり、冗談だって口にするし、時に常識や規則を無視できる思い切りの良さもある。何より、彼女がいつもそうするのは誰かのためなのだ。それはクレアの紛う事なき長所である。

 セイディもその点は素晴らしいと思うし、見習うべきだとも思っている。


 しかし、ここ一期間はクレアのその真面目さがセイディに牙を剥いていた。


 真面目なクレアは家族の近況を鑑み、自粛している。

 セイディがいくら誘っても、乗ってこない。

 最近、夜はクレアがローズとリゼットと、セイディがサラと一緒に寝ている。そうした状況的に、事に至れないことは理解できる。だが、子供たちが寝入った後でこっそりベッドを抜け出し、別室のベッドに入ることだってできるのだ。


 無論、セイディとて重々承知している。

 チェルシーが死んだ。

 その事実を前にみんなが暗く落ち込んでいるときに、するようなことではない。そもそもセイディも最初の二節ほどはやる気など皆無だった。だが、次第に自分もみんなも明るさを取り戻してきた頃には、クレアとの習慣的行為が恋しくなってきた。

 

 だから、誘った。

 でも、断られた。


 一節経とうと、三節経とうと、六節経とうと、サラはローズと仲良くしようとしない。家族関係が良くないというのに、自分たちだけ仲良くやることにクレアは躊躇いを覚えているのだ。

 しかし、とセイディは思う。

 自分だってチェルシーのことでは傷心して、サラとローズのことに気を遣って、疲れているのだ。潤いが欲しかった。人肌が恋しかった。ローズとサラのことを思って自重するのも結構だが、自分のことも想って優しくしてくれても良いのではないか。


 と思う一方、こうも思っていた。

 クレアが自分にだけ優しくせず、我慢を強いるのは自分を特別扱いしているからだ。少しくらい厳しくしても愛が揺らがないと思っているからだ。

 つまり、クレアの態度は信頼の証なのだ。

 そう思うと、なんとか耐えられた。クレアの信頼を裏切らないために、自室やトイレにいても単独行動だって控えた。


 そうして、一期以上が経った。

 

 ローズとサラは未だに不仲だ。

 相変わらず、サラが一方的にローズを拒んでいる。

 クレアは二人が仲良くするまで自重し続けるつもりらしく、もはや百日以上に渡って夜を共にしていない。これも愛故の忍耐だと思い、セイディは自らの限界を引き延ばし続けた。

 未だかつて、ここまで焦らされたことはなかった。いつもは数時間、せいぜい数日だったのに、もう一期以上である。セイディは子供達の手前、表向きは普段通りを装いながらも、裏では身の内でくすぶる欲求に発狂寸前だった。

 

 そんなある日。

 子供達を寝かしつけた後、セイディはこっそりベッドを抜け出し、マリリンの部屋にいた。セイディだけでなく、クレアもアルセリアもいる。

 

「さて、どうするかの……」


 マリリンが机の向こうで肘を組み、思案げに呟く。

 

 これまでマリリンはローズとサラの仲を直接取り持つような行為を禁じてきた。

 あくまで二人が自分たちの力で、自然と仲良くすることを期待していたからだ。

 しかし、予想以上にサラが頑なだった。

 セイディは直接知らないが、今日もサラがローズを拒絶したらしい。それだけなら未だしも、とうとうローズが諦めかけているそうなので、こうして大人だけで集まり、相談することになった。


「問題はサラにある。あの子は自分がローズに劣っていることを気にしている。そこをどうにかしなければ、状況は変わらないだろうな」


 アルセリアがいつも通りの口調で冷静に意見を口にした。

 

「そうですね、サラは少し自尊心が高いですから。チェルシーのことはもう大丈夫そう……ですよね?」

「あぁ、さすがにサラも分かっているだろう。チェルシーの死はローズのせいではない。初めの頃は違ったのだろうが、今は理解しているはずだ」

「だとすると、やっぱりローズに対する劣等感が原因なのでしょうね。サラも十分に才能はありますけど、比較対象が悪すぎます」


 クレアは歯がゆそうに鼻梁をしかめている。

 ローズは悪くないし、サラの感情だって仕方のないものだ。


「ふむ……そういえばセイディ、サラはまだ飛べそうにないのかの?」

「あ、はい、そうですね。練習してはいますけど、なかなか……」

「サラは飛べないことも気にしておるはずじゃ。飛べるようになれば、少しは自信が付くと思うのじゃが……」

「やっぱり、なかなか飛べないのは翼のせいだって教えてあげますか? あの翼、アタシたちみたいな庶民のより飛びづらいんですよね?」


 思い切ってセイディが訊ねてみるも、マリリンは悩ましげにかぶりを振る。


「いや、まだあの子には自分が普通であると思わせておくべきじゃ。ただでさえ見た目が普通の翼人と違っておるのに、能力面で劣っておると自覚させるのは不味い」

「でもその分、魔法力には優れてますよね」

「良くも悪くも特別であることより、あの子にとっては人並みであることの方が大事じゃろう。教えるにしても、もっと大きくなってからじゃ」


 とはいえ、サラはもう半年は練習しているのに飛べない。このままでは完全に自信を喪失し、飛ぼうとする意欲さえ失ってしまいかねない。

 そもそもサラは高所恐怖症という、翼人にとって最悪の問題を抱えている。セイディは何度もサラを抱えて飛び、慣らそうとしたが、サラは一向に高いところが苦手だ。


「サラに何か一つ、絶対的な自信が持てるものを身に付けさせるのが良いのだろうな。自信が付けば、ローズへの感情も緩和するはずだ」

「おそらく、サラもそれは無意識のうちに分かっているはずです。ローズが来てから勉強も魔法も凄く頑張っていますし」

「じゃが、ローズも日々勉強しておる。あの子を追い越そうと思えば、年単位の時間が掛かるじゃろう。サラはもう猟兵じゃし、強力な魔物でも狩らせてみるかの? あるいは猟兵の階級を上げさせてやるのも良いかもしれぬ」


 三人の意見にはセイディも賛成できる。

 だが、やはり翼人たるサラには飛べるようになるのが一番だと思える。それは翼を持つ者にしか分からない感覚だろうから、セイディは翼人としての意見を発言してみた。

 するとマリリンは逡巡した素振りを見せた後、


「うむ、ではサラにはより強力な魔物との実戦をこれまでより多く経験させ、引き続き飛行の練習をさせようかの。ローズの方も、サラのことを嫌いにならぬよう、気遣う必要がある。もはやここまできたら、時間を掛けて少しずつ二人の仲を良くしてゆこう」


 といった具合に落ち着き、その日は解散となった。

 部屋へ戻る途中、アルセリアと別れた後はクレアと二人きりになる。クレアは特に変わった様子がなく、優しく穏やかな雰囲気を漂わせ、肉感的な肢体は相変わらず妖艶かつ鮮麗だった。

 

「それじゃあセイディ、おやすみなさい」


 部屋の前で別れる直前。

 セイディはふと忍耐が緩んで、クレアにぐいっと迫り、手を伸ばした。が、クレアはやんわりと両肩を掴んでセイディの接近を押しとどめた。


「お、お姉様……」

「セイディ、歯止めが利かなくなっちゃうから、ね?」

「ぅ、うぅ…………はい」


 結局、その日も悶々としたまま、一日が終わってしまった。




 ■   ■   ■




 そして、翌日。

 セイディはクレアとサラと共に、ディーカのヘルミーネ宅から館に戻ってくる。

 三人で転移部屋から地下の廊下に出ると、サラが大きく伸びをした。


「今日は少し疲れたわ……」

「無理もないわね、今日は朝からずっと大変だったし」


 クレアの言うとおり、今日は朝早くから猟兵協会へ出向き、魔物狩りに勤しんだ。現在はもう昼を過ぎて久しい。あと二時間もすれば日が暮れるだろう。


「今日はこの後、セイディと飛ぶ練習よね? その前に、少し休んでおいた方がいいわ。ね、セイディ?」

「…………」

「セイディ? どうかしたの、大丈夫……?」


 もう、限界だった。

 確かに今日は、サラには少し荷が重い魔物を狩った。

 この後も飛ぶ練習をする。

 だが、魔物を狩ってサラが自信を付けるには節単位の時間が掛かる。


「ぬぅゥゥアああぁァァあアぁぁァアあぁぁぁあアアあぁぁあアアアア――ッ!」


 もはやセイディは我慢できなかった。

 手っ取り早くどうにかなって、クレアとどうにかなりたかった。


「セ、セイディ……?」

「な、なによセイディ、急に大声出さ――にゃぃ!?」


 サラを抱きかかえ、走り出す。

 後ろでクレアが何か叫んでいるが、もはやセイディの耳には届かない。

 全力で階段を上がって広間に出ると、そのまま正面玄関から外に駆け出た。


「ちょっとセイディ、何なのよっ!? なんで外に……とりあえず下ろしてっ!」

「舌噛みたくなかったら黙ってなさい!」


 セイディは走りながら背中の白翼を羽ばたかせ、飛び立った。

 風魔法も使って上昇力を加速させ、一気に天へと舞い上がっていく。


「ぃ、いやぁぁっ! ちょっ、せ、セイディっ、なにいきなり飛んでるのよ!?」


 三大欲求の一つに突き動かされているセイディはサラの悲鳴を完膚なきまでに無視し、ぐんぐん高度を上げていく。


 魔物狩りで自信を付けるには時間が掛かる。

 だが、飛べさえすれば、すぐにでも自信が付くはず。

 そもそも、初めからこうしていれば良かったのだ。サラが高所恐怖症だからと、普通の翼人ではないからと特別扱いし、まだ子供だからと甘やかしすぎた。

 ヘルミーネの家でちんたら練習するより、ぶっつけ本番の一発勝負をさせた方がずっといい。


 トラウマ?

 知るかボケ。

 死んだらトラウマもクソもない。




 ■ Other View ■



 怖かった。

 

 セイディに抱えられているとはいえ、空を飛んでいる。

 足下に目を向ければ、そこは盤石な地面ではなく、茫漠とした自然が広がっている。あちこちに屹立する峻厳かつ雄大な山々、その合間を埋めるように、深緑を通り越して闇色に広がる深い森林。

 同じ目線の高さには既に何もない。強いていえば雲はあるが、地上から見上げる真っ白い雲は今や霧状で、全身を濡らしてくる。

 

「セ、セイディっ、も、もももう降りてっ! どこまで上がるのよ! 高すぎよ早く!」


 ごうごうとした風の音に負けじと叫ぶも、セイディは止まらない。

 よほど高空まで来ているのか、今日は少し暖かい日のはずなのに、寒かった。

 下には白い塊――おそらく雲が見える。

 雲を見下す程の高さなど、これまで経験したことがない。


「セイディっ、い、嫌よもう嫌よ早く降りてよっ、ねえってば!?」


 どれほど昇ったのか。

 辺りには何もない。ただ青い空がどこまでも広がっている。

 下はもう見ることができなかった。そんな勇気など持ち合わせていなかった。


「サラッ」


 セイディは上昇飛行を止め、その場で大きく翼を羽ばたかせて滞空する。

 吹き付ける風は強く、今にもセイディの腕からこぼれ落ちてしまいそうだ。


「アンタならできるわ! だからやってみせなさいっ!」

「な、なに訳分かんないこと言ってるのよバカっ、は、ははは早く降りてよ! もう嫌よごめん謝るから何でもいいから早く降ろしてよぉっ!」


 サラは自分でも気付かぬ間に泣いていた。


「いってきなさいサラ! これがトリム島伝統の飛行習得術よっ!」

「だからもうお願――ぃ、あ、ぇ?」


 ブンッと放り投げられた。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 分かりたくもなかった。


「…………うそ」


 水中にいるかのように、全身がふわりと浮かび、漂った。

 と思ったら、背筋が凍り付くような、圧倒的な落下感に襲われた。

 あり得ない事態に思考が凍り付く。


「嘘うそ嘘ウソうくぁwせdrftgyふじこlp――――っ!」


 どれだけ悲鳴を上げても、無限の広がりを見せる蒼穹に吸い込まれてしまう。

 もはや現実とは思えなかった。

 風に煽られ、上下左右の区別が付かず、青と白と緑がぐるぐると視界を回っていた。ごうごうと唸るような風切り音が絶えず鼓膜を震わせ、全身が絶え間なく強烈な風圧にさらされる。

 

 何も考えられない。

 意識が飽和した。

 訳が分からなかった。

 それでも、ただ一つだけ頭に思い浮かんだことはあった。


 このままだと、死ぬ。


 それは直感だった。

 もはやサラの思考は思考として機能していない。

 ただ、身の内に潜む生存本能が懸命に叫んでいた。


 早く翼を広げろ。


 サラは本能に従った。

 そこに否応はなく、身体が勝手に動いていた。

 硬く両目を瞑り、思い切り背中の両翼に力を入れ、大きく広げる。すると、急に身体が真上へ引っ張られた。何かにグイッと引き上げられるような感覚に翼も背中も悲鳴を上げる。だが、尚も力は緩めない。

 

 しばらく身を硬くして、同じ姿勢を維持した。

 相変わらず、全身を煽る風もその不快な音も健在で、足下はふらふらと虚空を掻いて頼りない。だというのに、恐怖心を掻き立てる不安定さが薄まっている。

 先ほどまで感じていた前後不覚な感覚がない。 

 サラはゆっくりと、恐る恐る目を開けてみた。

 

「――――ぁ」


 まず目に入ったのは大地だった。力強く激しい起伏を成す山々が壮大に広がり、その向こうには微かに草原らしき平地が見える。

 ふと視線を上げると、一転してただ蒼い空が際限なくそこにあった。天空と大地の間には遙か彼方に境界線が引かれ、緑と青を区切っている。


 何かよく分からないものが胸に込み上げてきた。

 恐怖ではない。感動に似ているが、違う。

 ただただ圧倒される光景が視界を埋め尽くし、言葉が出なかった。


「……っ!?」


 そのとき、強い横風がサラを襲った。

 身体がぐらつくが、反射的に羽ばたいて風を掴み、安定を図っていた。

 意識しての行動ではなかった。

 そこでようやく、サラは自分がゆったりと滑空していることに気が付いた。

 少しだけ我を取り戻し、呆然としながらも身体を傾けてみた。すると、いとも簡単に旋回できて、両翼を上下に動かせば風を受けて上昇すらできた。


「サラッ、どう!?」


 頭上から降ってきた声に顔を上げると、セイディが緩やかな弧を描きながら、蒼穹を駆け降りてきていた。


「飛べるでしょっ、気持ちいいでしょっ!?」

 

 未だに思考が追いついてこない。

 だが、確かに感じていた。

 自分の翼が風を切り、掴み、この大空にいることを。


 相変わらず、眼下を見れば肝が冷えるような思いはする。頭上にも、無限に広がる蒼から押しつぶされそうな、あるいは吸い込まれそうな恐怖もある。

 だが、そんな気持ちを吹き飛ばすほどの爽快感があった。


「考えるなっ、感じるのよサラ! アンタ今この景色見て、この空飛んでてどう思う!?」

「どう、って……?」

「アンタはねっ、アンタが思ってるよりずっと小っさいのよ! この世界からすれば取るに足らない存在で、そんなアンタの抱えてる悩みなんて無いも同然なのよ!」


 するりとセイディの言葉が頭に入ってきた。

 そう、彼女の言うとおり、小さいのだ。実際、この空からすれば、この世界からすれば、サラという存在はあまりに矮小だった。自分という存在が無限に広がる青に溶け込み、今にも溶けて消えてしまいそうだ。

 信じられないほど、冗談みたいに、ちっぽけだ。


「アンタはアンタの思ってるとおりっ、ローズよりバカよ! あの子に比べれば才能ないし我が侭だし素直じゃないし勝ってることなんて身長くらいよ! でもねっ!」


 セイディはサラと同じ高さまで降りてくると、大きく両手と両翼を広げた。


「アンタにはこの世界とっ、その翼があるでしょっ!」

「――――」


 息ができなかった。

 目を見開き、口を半開きにして、もう一度この世界を見回してみる。

 ただただ広く、雄々しく、美しい。

 だからこそ、サラは高いところが苦手で、空という場所に恐れと畏れを抱いていた。しかし、そんな世界を己が力だけで羽ばたき、飛んでいる。誰かに抱えられてではなく、自分の翼で、自分一人の力で、恐怖と畏怖の象徴だった世界に臨んでいる。


 なぜだか涙が溢れてきた。

 訳もなく叫び出したくなった。


「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――っ!」


 何もかもを忘れて、ずっと胸の内につかえていた何かを吐き出すように、大口を開けて思い切り叫ぶ。

 様々なことが脳裏を過ぎっていった。

 自分のこと。

 チェルシーのこと。

 ローズのこと。

 家族みんなのこと。


 声はあっという間に蒼穹に吸い込まれていき、消えた。

 後に残ったのは、これまで感じたことのない清々しさと、堪えることのできない奇妙な可笑しさだった。


「あはっ、あはははは!」 


 何が可笑しいのか自分でも分からない。

 だが、どうしてだが笑えてきた。

 衝動に逆らうことなく、サラは笑顔で涙の滴を落としながら、蒼い空に笑い声を響かせていった。




 ■   ■   ■




 勢いそのままに、館まで戻った。

 着地に少し失敗して地面を転がってしまったが、そんなことは些事だった。

 この感覚が消えないうちに、今すぐローズに会いたかった。


 両開きの大きな扉を押し開けて、館に入る。すると、広間にはクレアやアルセリア、マリリンだけでなく、ローズもリゼットもいた。

 二人は階段の上から驚いた顔でこちらを見てくる。


「ローズ!」


 勢いに任せた大声で彼女の名前を呼んだ。


「……っ、ぅ……」


 だが、いざ彼女を前にすると、臆病な心が鎌首をもたげてきた。


「ああぁぁああぁあぁぁあぁあぁぁぁもうっ!」


 だから叫んで、そんなものは吹き飛ばした。

 

「ローズ!」


 みんな呆然としている。

 だが構うことはなかった。


「ただいまっ!」

「……………………え?」


 ローズは間の抜けた声を漏らした。

 それはそうだろう。口にしたサラ自身、驚いていた。

 何も考えず、ただ勢いのままに言った台詞がそれだった。

 しかし気にせず、自分の心に従って口を動かす。


「外から帰ってきたらっ、ただいまって言うの! それで家族はおかえりって返すのよっ!」

「ぇ、あ……おかえり、なさい……?」

「ええっ、ただいまローズ!」

「お、おかえり……サラ」


 ローズが言葉を返してくれた。

 それが嬉しくて、安心して、少し気を抜いてしまう。

 だから、言わなければいけない言葉を口にしようとして、つい想像してしまった。

 

 もしローズが許してくれなかったら、どうしよう。

 

 怖かった。たまらなく怖かった。

 妹には優しくしてあげなさいと、チェルシーは言った。

 ローズには全然優しくしてこなかった。

 自分はお姉ちゃんなのに、今まで散々ローズに酷い態度をとってきた。


 胸が苦しい。

 だが、これまでローズは何度も自分に話しかけてきて、その度に今の自分より辛い思いをしていたはずだ。

 そう思うと、頑張らないわけにはいかなかった。


「あ……その……ひ、ひどいこと、言って……ご、ごめんなさい……」


 精一杯に声を出したつもりなのに、とても小さな声だった。

 

「…………サラ」


 それでもローズには届いていたらしく、名前を呼んできた。

 彼女の声に険はない。

 表情はまだ驚きが抜けきっておらず、笑っても怒ってもいない。

 

 不安だ。


 怖くて、恥ずかしくて、緊張して、身体がどうにかなってしまいそうだった。

 今すぐ逃げ出したかった。

 だから、口を動かした。何でもいいから何か言って、自分をこの場に繋ぎ止めたかった。もう逃げ出さないように、自分を奮い立たせないといけなかった。


「だ、だから、えっと……い、一緒に遊んだりっ、勉強したりっ、お茶したりっ、お風呂入ったり、寝たり起きたりしてもいいって言ってるの!」

「――――」

「ローズはわたしとしたいの!? したくないの!? どっちっ!?」

「し、したい……です」

「よく聞こえないわ!」

「ぃ、一緒にしたいですっ!」

「じゃあするわよっ!」


 無我夢中だった。

 だから、改めてローズの言葉を理解するのに、少し時間が掛かった。


「サラねえぇぇぇえええぇぇっ!」


 リゼットが階段を駆け下りてくる。

 そんな彼女に引っ張られて、ローズもこちらに走り寄ってくる。

 サラも足を踏み出した。

 初めは小さく、ゆっくりと、でもすぐに大きな駆け足になって、前に進んだ。

 足取りは軽く、心は晴れやかだ。


 正面から走ってくるリゼットとローズ。

 二人とも小さな顔に満面の笑みを咲かせている。

 両手を広げて妹二人を抱き留めながら、サラは思った。


 チェルシーはもういない。

 だからせめて、彼女のようになろう。

 妹二人に優しくして、二人がいつも笑顔を向けてくれるような姉になる。

 自分に優しくしてくれるチェルシーはいないけど、大丈夫。

 クレアが、セイディが、アルセリアが、マリリンが、家族みんながいる。


 それに、わたしはもう、一人で飛べるから。


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