間話 『この大空に、翼をひろげて 前』
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『どう? おいしい?』
春の日差しのように、温かく穏やかな声だった。
耳に心地良く馴染むようで、聞いているだけで安心できる。
それも当然のことで、それは彼女が物心つく前から聞き続けていた声だった。
『うんっ、おいしー!』
『チェルシーのお菓子が美味しくないはずないわ』
リゼットに続き、答える。
テーブルに並んでいるのは簡素な焼き菓子だ。
もう何度も食べてきた。
すっかり舌が味を覚えてしまっているが、全然飽きていなかった。
『そっか、よかった』
チェルシーはそう言って、柔らかく微笑む。
もう何度も見てきた笑顔に、いつものやり取り。
それなのに全然飽きない。
『あっ、リーゼ食べ過ぎよ。わたしの分がなくなっちゃうじゃない』
『ふぁっへほひひーんはほんっ』
『ぅわっ、なんか飛んできた!? 口の中にもの入れながら喋らないでよ!』
焼き菓子の一部(唾液付き)を咄嗟に回避する。
リゼットは口いっぱいに咀嚼していて、食べカスがぼろぼろ零れて汚い。
『リーゼはもう少しお行儀良く食べようね』
チェルシーは小さく笑いながら、リゼットの口元を拭ったり、テーブルや服に付いた食べカスを片付ける。
そうして食べているうちに、残りが一つになった。
伸ばした手がリゼットの手にぶつかり、互いの顔に目を向け合う。
『リーゼはいっぱい食べたでしょ』
『サラねえだって、いっぱいたべてた!』
それは事実だ。
リゼットがどんどん食べるものだから、急いで食べていた。
でも、リゼットの方が多く食べていた。
『これはわたしのよっ』
『やっ!』
両手でリゼットと菓子を奪い合う。
でも、相手は年下だ。
弱い。
僅かな争いの後、菓子はこちらの手中に収まった。
『やーぁっ、サラねえずるいぃ!』
『ずるくないわ』
『ずるいずるいずるいーっ、さいごのいっこほしいぃー!』
『あんなにたくさん食べてたじゃない。これはわたしのよ』
『サラ』
リゼットと言い合っていると、チェルシーに名を呼ばれる。
顔を向けてみると、やはり優しげに微笑んでいた。
『それはリーゼにあげよ? ね?』
『なんでっ、リーゼあんなに食べてたのに!』
『お姉ちゃんは妹に優しくしてあげなきゃ。また作ってあげるから、ね?』
『……むぅ』
チェルシーは困ったように笑っている。
その顔は反則だった。
仕方がないので、リゼットに譲ってあげる。
リゼットは一も二もなく受け取り、美味しそうに食べ始めた。
『リーゼ、サラ姉にお礼は?』
『ふぁひふぁほー!』
『だから食べながら喋らないでよ!』
なんだか少しむかむかした。
いくら年下とはいえ、毎回なにかとリゼットばかり優遇されている。
不公平である。
『サラ、こっちおいで』
そう思ったとき、チェルシーは心を読んだかのように、いつも決まって手招きする。でも逆らわず、彼女の膝の上に座った。
『妹に優しくできたご褒美に、お姉ちゃんもサラに優しくしてあげるね』
いつものように頭を撫でてくる。
心地良くて、全身から力が抜けそうになる。
しかしリゼットの前なので、なんだか気恥ずかしかくて身じろぎした。
『ふんっ、チェルシーはいつもそうやって誤魔化すんだから』
『うん、ごめんね。でもお菓子なら、また作ってあげるから』
だったらいいか、と思えてしまうのがチェルシーの不思議なところだ。
でも、今回は少し頑張ってみる。
いつも同じ方法で納得すると思われるのは癪だった。
『サラ?』
『……ふんっ』
チェルシーは撫でていた手を止め、後ろから顔を覗き込んできたので、反射的に背けた。
『それじゃあ、今度はサラも一緒に作ろっか。自分で作って食べると、すごくおいしいよ』
『あたしもつくるー!』
『それじゃあ三人で作ろうね。ね、サラもいいよね?』
また頭を撫でてきながら、チェルシーが訊ねてくる。
もう少し頑張れたけど、チェルシーが可哀想だからやめておく。
うん、そう、リゼットのように姉を困らせてはいけない。
『…………うん』
頷き、チェルシーの身体に背中を預けた。
日向のように温かくて、柔らかくて、心地良い。
眠気を誘われる安心感がある。
『んぅー、サラねえだけずるいーっ』
食べ終えたリゼットが膝の上に乗ってきた。
『ちょっとリーゼ、重いじゃないっ』
『サラねえはチェルシーみたいにやらわかくない……』
『リーゼ、やらわかくないじゃなくて、やわらかくないだよ』
『サラねえ、やわらかくない』
『だったらおりなさいよ!』
とは言うものの、リゼットの重みは嫌ではなかった。
きっとチェルシーも重たいとは思っていても、嫌だとは思っていないはずだ。
それから他愛ないお喋りをする。
リゼットはたまに意味も無く身体を揺らし、尻尾を動かす。
ばさばさ動き、少し鬱陶しい。
やっぱり尻尾はチェルシーのように小さい方がいい。
しばらくすると、リゼットが眠ってしまった。
膝の上からずり落ちないように、リゼットの身体に手を回して支える。
チェルシーもリゼットに両手を回して、長女の上に座る次女ごとギュッと抱きしめる。
『チェルシー、ベッドに行きましょ。わたしも少しだけ眠いわ』
『うん、でも、もう少しこうしていたいかな』
『……じゃあ、少しだけね』
ベッドに横になりたい思いはあったが、上下から挟まれている現状も捨てがたかった。
仕方ない風に言って、リゼットを抱きしめながら目を閉じる。
『ねえ、サラ』
『なに……?』
『リーゼには――妹には、優しくしてあげてね。リーゼだけずるいって思うこともあるかもしれないけど、サラはお姉ちゃんなんだから』
『…………』
『その代わり、サラには私が優しくしてあげるから。私はサラのお姉ちゃんだからね』
耳元で子守歌のように囁かれる。
『ぅん……』
あまりに心地良くて、まともに返事ができなかった。
それどころか微睡みが強くなってきて、目蓋が重すぎて目を開けていられない。
このまま寝てしまうと、チェルシーが困ってしまうだろう。
でも、それでいいかと思った。
チェルシーは姉で、姉は妹に優しくするものだから。
自分がリゼットにしたように、チェルシーも自分に優しくしてくれる。
そう思うと、なんだかとても心が満たされた。
■ ■ ■
そいつは突然やってきた。
その日、サラはお留守番だった。
クレアたちは港町クロクスへ買い物へ行くというのに、連れて行ってもらえなかったのだ。大人数で行くと目立つし、その日のリゼットはクロクスが初めてだった。チェルシーにもアルセリアと共に待っているよう言われ、仕方なく留守番に甘んじた。
そして、ようやく帰ってきたと思ったら、見知らぬ人間二人が一緒だった。
それだけなら未だしも、チェルシーがいない。
なんだか自分でもよく分からない不安感が込み上げてきた。
「サラ、あのね、チェルシーは……っ、遠くに行っちゃったの……」
いつも明るいセイディらしくなく、今にも泣き出しそうな顔でそう告げられた。
「そ、それで、チェルシーはいつ帰ってくるのっ? なんで急に行っちゃったのよ? わたし何も聞いてないわよっ」
「チェルシーは…………もう、帰ってこないわ」
意味が分からなかった。
セイディがありもしない嘘を吐いているとしか思えなかった。
でも、違う。
こんな悲しげな顔をして、こんな酷いことをセイディは言わない。
「ねえ、セイディ……それって、遠くへ行っちゃったって……本当に、ただ遠くへ行っただけよね?」
「……っ」
「ねえ、セイディ!」
無言で強く抱きしめられる。
それが答えだった。
もちろん、初めは信じなかった。信じたくなんてなかった。
でも、涙は出てきた。
クレアもセイディも本当のことを言っているのだと、頭のどこかで理解していた。セイディの痛々しく割かれた白い翼が現実を如実に物語っていた。
だから、その翌日。
食堂でチェルシーの席に座る赤毛の子が気に食わなかった。
一緒に暮らすことになると、マリリンは言った。
突然チェルシーがいなくなって、ローズという見知らぬ女の子が現れた。
頭の中がぐちゃぐちゃになった。
その日はよく分からないまま、ローズと一緒に入浴し、眠りに就いた。
クレアやセイディが添い寝してくれることはあまりない。いつもはチェルシーが一緒だった。三人で一緒に寝て、三人で一緒に起きていた。
だから、翌朝。
起きたときにチェルシーがいなくて、でも見知らぬ子がいて、無性に悲しくなった。その日は朝から一人静かに泣いた。
それからの日々でも、チェルシーはもういないという事実を散々突きつけられた。
食事の時間、朗らかに話していた人がいない。
勉強の時間、優しく教えてくれていた人がいない。
昼寝の時間、心地良く添い寝してくれていた人がいない。
入浴の時間、楽しく背中を洗い合っていた人がいない。
ふとしたとき、いつもそこにあった笑顔がない。
もう十分わかったから、やめて欲しかった。
でも、新しい日常は容赦がなかった。館に残っていたチェルシーの痕跡を、新しく一緒に暮らすことになった子がどんどん塗り潰していく。
胸が苦しくて、止めどなく涙が溢れ出た。
チェルシーはリゼットやセイディほど騒がしくはなかった。
むしろクレアやアルセリアのように落ち着いた、物静かで穏和な人だった。
それでも、以前に比べて確かに館内は静かになっていた。みんなが落ち込んでいるのもあったが、それでも館の空気は水底のように暗く、静かで、淀んでいた。
チェルシーがいなくなって、九日後。
サラは七歳になった。
でも、全然嬉しくなかった。
クレアたちは以前までのように、明るく振る舞っていた。だがサラから見れば、それが本心からの言動でないことは明白だった。夕食はいつもより何倍も豪華で、お祝いとして綺麗な櫛も貰ったが、やはり嬉しくはなかった。
チェルシーがいなくなって、二十日ほど経った頃。
サラはようやく落ち着いてきた。
涙は出し尽くしてしまったのか、出てこなかった。
それでも依然として悲しみは収まらず、気怠い無気力感も残っていた。
そんな頃を見計らっていたかのように、クレアが猟兵協会に行こうと言い出した。七歳になったら魔物を狩りに行くと、前々から言われていた。
本当はあまり行きたくなかったが、クレアもセイディもアルセリアもマリリンも、大人たちはみんな強く勧めてきた。流されるように、半ば強引に連れて行かれた。
猟兵協会の猥雑とした雰囲気に始まり、魔物との戦いは鮮烈で衝撃的だった。
余裕なんてなかった。
怖かった。
まともに考えることなんて、できなかった。
それから幾度か魔物狩りに連れて行かれ、様々なことを見聞きして、頭が一杯一杯になった。チェルシーのことを偲ぶ時間も余裕も減っていった。
ある日、リゼットが初級火魔法の詠唱省略に成功したと聞いた。
あの赤毛の子――ローズが教えたというのだ。
信じられなかった。
ローズはおかしかった。
サラは意識上ではともかく、無意識下では恐怖すら感じていた。
まだサラはクラード語を覚えきっていない。ある程度は分かるし、クラード語の本も時間を掛ければ一応は読める。
だが、ローズはもうほとんど完璧に理解しているというのだ。基本魔法は上級まで使えて、更に詠唱省略までできて、一部属性は特級まで使える。
リゼットのように騒がないし、とても落ち着いている。
なんだか無性に情けなくて、同時に腹が立った。
ローズはセイディとリゼットを助けたと聞いている。
あの陰鬱とした剣士の力もあったというが、それでもクレアもセイディも、特にリゼットも、ローズのおかげだと言っている。
認めたくはなかったが、サラ自身より何倍も才能があって、頭もいいし、魔法だって上手で、容姿も整っている。
しかし、ローズはチェルシーを助けてくれなかった。
にもかかわらず、チェルシーの席に座っている。
サラはローズが気に食わなかった。
彼女の存在が煩わしかった。
■ ■ ■
チェルシーがいなくなって、三節以上が経った。
そんなある日の朝食後、それは起きた。
「サラねえっ」
「サラ姉っ」
リゼットとローズがいきなり両腕に抱きついてきた。
もうリゼットは以前のような明るさを取り戻している。
「サラねえ、いっしょにあそぼー!」
「サラ姉、一緒に遊びましょう!」
リゼットはともかく、ローズの様子を見て少し戸惑った。
ローズはもっと落ち着いた子のはずなのに、リゼットのように振る舞っている。
ある意味、年相応の態度だ。
「さいきんサラねえ、ぜんぜんあそんでくれないんだもん! サラねえとあーそーびーたーいーのーっ」
「サラ姉、全然私と話してくれないんですもん! サラ姉とあーそーびーたーいーんーでーすー」
クレアにも言われたことだが、最近サラは全然遊んでいない。
勉強して、魔法の練習をして、魔物を狩りに行って……飛ぶ練習をする。
遊んでいる暇なんてなかった。
「――っ、は、離して! 離しなさいバカっ!」
「あっ」
思わず、二人を振り払ってしまった。
「わ、わたしは忙しいの! 遊んでる暇なんてないんだからっ!」
「でもサラ姉、そんな勉強ばっかりじゃなくて――」
「うるさいっ、あんたにサラ姉なんて呼ばれたくないのよ!」
そう、ローズに姉などと呼ばれたくはなかった。
「わたしはあんたのお姉ちゃんなんかじゃないんだからっ! だいたいなんでずっとチェルシーの席に座ってるのよ! チェルシーだけ助けてくれなかったくせに!」
違う、そうではない。
チェルシーがいなくなったのはローズのせいではない。
もう頭ではそう理解していたが、心は違った。
「あんたなんか大っ嫌いよ! わたしだって好きで勉強してるわけじゃないんだからね! あんたのせいなんだからっ、わたしだって、わたしだって……もうあんたなんかどっかいっちゃえばいいんだっ!」
自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。
頭の中で様々な思考が入り乱れ、もう訳が分からなかった。
「……ぁ」
だが、ローズの顔を見て、サラは悟った。
自分は酷いことを言ってしまったのだと気が付いた。
そう思うと情けなくて、居たたまれなくて、それ以上ローズを見ていたくなくて、見られたくなくて、逃げ出した。食堂を飛び出し、階段を駆け上がって、廊下を走り、チェルシーの部屋に入った。
息が荒い。
胸が苦しい。
ローズも、自分も、何もかもが嫌だった。
「サラ、入るぞ?」
ベッドに潜り込んで一人丸まっていると、ドアの向こうからアルセリアの声が聞こえてきた。
でも、返事はしない。一人にして欲しいと思う反面、誰かに側にいて欲しいとも思っていて、声が出なかった。
アルセリアはやや間を置いた後、勝手に入ってきた。
サラは反射的に俯せになって顔を隠してしまう。
「大丈夫か?」
アルセリアがベッドの縁に腰掛けたのが分かった。
彼女の声はいつも通り穏やかだった。怒ってもいなければ、慰めようともしていない。普段の他愛ない会話をするときのままだ。
「サラはローズのことが嫌いだと言ったな」
「…………」
「べつに、それはいい。人には好き嫌いがあるからな」
言葉に反して、先ほどのことなど知らないかのように話しかけてくる。
それでもサラは顔を上げることができなかった。
「ただ、今すぐには無理でも、ゆっくりとでいい。おれはサラに、ローズのことを好きになって欲しい」
「…………」
「おれたちは家族だ。家族とは互いを認め合い、受け入れ合うものだ。サラがローズを嫌っているより、好きでいてくれた方が、おれはもちろんクレアたちも嬉しい。きっとチェルシーもそうだろう」
思わず、少しだけ顔を動かして、アルセリアを見上げた。
やはり彼女はいつもと変わらず、静かにそこにいた。
「サラは今、ローズのことで思い悩んで、苦しいのだろう? おれはそれが嬉しいよ」
「……え?」
「本当に誰かを嫌いになると、その人のことで悩んだり、苦しんだりはしなくなるものだ。サラはローズのことを好きになろうとして、でも好きになれないから、苦しいんだ」
アルセリアの言っていることはよく分からなかった。
でも、彼女が嘘を吐くことなんてない。
「サラ、辛いのなら、誰かに相談して欲しい。おれでもいいし、クレアやセイディでもいい。もちろん、一人でどうにかできるのなら、それでもいい。でも、決してその苦しみから逃げたりしないでくれ」
「…………」
「それと、いつになってもいい。いつかきっと、ローズにさっきのことを謝って欲しい」
返事はできなかった。謝るべきだと思う自分と、謝る必要なんてないと思う自分がいて、答えられなかった。
「おれからはそれだけだ。サラが嫌でなければ、もう少しここにいてもいいか?」
「…………うん」
アルセリアはいつも通りだ。
だからこそ、サラは素直に頷くことができた。
以前、リゼットと少し喧嘩になってしまったときもそうだった。アルセリアはしつこく怒ったり、説教したり、同情したりしない。クレアやセイディのように、殊更に優しくしたりもしない。
そのいつも通りがサラには有り難くて、心地良かった。
■ ■ ■
ローズのことをどう思っているのか、サラは自分でもよく分からなかった。
好きではない、嫌いだ。
それは確かだが、どうして嫌いなのかが分からない。
チェルシーを助けてくれなかったから?
リゼットのように子供らしくないから?
自分よりも頭がいいから?
よく分からない。
サラはまだ七歳であり、自らの思考を全て、論理的に言語化することができない。だからサラ自身、自分の感情を持てあまし、なぜという疑問を解消できなかった。
ローズの前でどういう顔をすればいいのかも、サラは分からなかった。
だから、ローズがこの前のことなどなかったかのように笑顔で話しかけてきたとき、なんだか無性に腹が立った。
自分はこんなにも思い悩んでいるのに、相手はあっけらかんとしている。
「サラ、一緒に勉強しませんか?」
「うるさいバカッ。あっちいきなさいよ!」
反射的にそう言って、逃げ出してしまう。
身体が勝手に動いていた。
「あ、サラお姉様、ご機嫌は如何ですか? よろしければ、これから一緒にお茶でも――」
「しないわよっ、わたしは勉強するんだから! 分かったら邪魔しないでよね!」
なぜだかローズの顔を直視することができなかった。
苛々して、情けなくて、恥ずかしくて、不可解な焦燥感に苛まれる。
「ねえねえ、お姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ?」
「な、なんでわたしがあんたと一緒に入らなきゃいけないのよっ。何でもできるんだからお風呂くらい一人で入りなさいよね!」
ローズはほとんど何でも一人でできる。
リゼットや自分のように我が侭も言わない。
サラは息苦しさを覚えて、やはり逃げ出した。
ローズの前から逃げ出してばかりの自分を思うと、より一層苦しくなった。
「おう、サラじゃねえか、景気はどうだ? ……なんだよ変な顔しやがって、俺に見とれてたのか?」
「そんなわけないでしょ! なに年上に偉そうな口利いてんのよっ、気持ち悪いわよ!」
本気で気持ち悪かった。
妙に熟れている話し方なのが不気味だった。
「サラさん、お願いします、私と一緒に遊んでください。リゼットも三人で遊びたがっています、どうか慈悲をください」
「ぅわっ、なに土下座なんてしてんのよ!? そんなことされたら余計に遊びたくなくなるわよっ!」
「じゃあ、普通にお願いします。私と一緒に遊んで――」
「わたしは勉強で忙しいの!」
頭を下げてくるローズから目を逸らし、反射的にそう言って、背中を向ける。
勉強で忙しいのは本当だった。少しでも多くのことを学んで、魔法にも習熟したかった。せめてローズよりは勉強も魔法もできていないと、自分で自分が嫌になるのだ。
だからその日も、チェルシーの部屋で一人本を読んでいた。
しかし、妙に焦ってしまって、なかなか集中できない。次第に苛々してきて、でもすぐに気落ちして、思わず溜息を吐いてしまう。
そんなとき、ノックもなしに部屋のドアが開いた。
「サラ、まーた勉強してんの?」
「……セイディ」
優美な白い翼、健康的な肢体、でも胸の膨らみは全然ない。
リゼットのように悩み事などなさそうな快活とした様子……がセイディの常なのだが、今日の彼女はどことなく変だ。
だが、どこがどうおかしいのかまでは分からない。
今のサラは自分のことで手一杯だった。
「最近、勉強したり魔法の練習ばっかりね。たまには思いっきり遊ばない? そんな辛気くさい顔してちゃ、毎日楽しくないでしょ?」
「遊ばない」
「……どうして?」
セイディは小首を傾げる。
彼女はとても綺麗だが、言動や仕草からはあまり大人らしさが感じられない。
ある意味、チェルシーの方がまだ大人という感じがしていた。
「どうしてもよ」
そう素っ気なく答えると、セイディは微苦笑を覗かせた。
「あのね、サラ。べつにそんなに気を張らなくてもいいのよ?」
「気を張ってなんていないわ」
「でも、アタシにはそう見えるなぁ。だからさ、ひとまず勉強は一旦置いておいて、飛ぶ練習しましょう。ほら、気分転換も兼ねてさ、ね?」
「…………ん」
サラは小さく頷いた。
勉強と同じくらい、あるいはそれ以上に、飛行練習は大事だ。一人の翼人として飛べなければ、どれだけ姉らしくできたとしても意味はない。
……姉らしく?
「よーしっ、じゃあ行きましょうか。ほらほら、ぼさっとしていないで早くする!」
「べつにぼさっとなんてしてないわよっ」
セイディの声に急かされ、サラはふと抱いた疑問を押し込め、立ち上がった。
「せっかくだし、今日は外で練習しない? 木の上から飛び立ってみるのよ」
「嫌、そんなの、む、無理よ……」
サラは高いところが苦手だ。
セイディに抱えられて飛んでもらったとき、そのあまりの感覚に圧倒され、恐怖した。何もない大きな空を、自分だけの力で飛ぶのだ。
失敗すれば、落ちて死ぬ。
そう考えると、身体が動かなかった。
だから、ヘルミーネの家で練習するのだ。
彼女の家はとても広く大きいので特に問題はない。セイディが風魔法で軽く風を起こしてくれるので十分練習になるし、落ちてもヘルミーネが優しく受け止めてくれる。
「でも、やっぱり自然の中で練習した方が上達し易いわよ? アタシが子供のときなんて、サラみたいな練習できなかったんだから。島の端からいきなりドーンっと突き落とされて、後は自分でどうにかしろってね」
「その話は何度も聞いたわ。練習できるなら練習した方がいいに決まってるじゃない」
「まあ、それも一理あるんだけどね……もう半年近く練習してるじゃない? でもなかなか上手くできてないし、そろそろ方法を変えて――」
「いいからっ、早く行くわよ!」
サラはセイディの言葉を遮り、手を引っ張って廊下を先導する。
セイディに言われなくても、そんなことは自分が一番良く分かっていた。
でも、仕方ないのだ。
どれだけ頑張っても、怖いものは怖いし、できないものはできない。
セイディは飛ぶ才能があるから、普通の翼を持っているから、そんなことが言えるのだ。
サラは自分の翼が普通でないことを自覚しているし、そのせいかは不明だが、飛ぶ才能もない。特に頭がいいというわけでもなく、魔法の才に秀でているわけでもない。いや、六節ほど前まで、自分には魔法の才能があるのだと思っていた。
でも違った。
ローズを見ていると如何に自分が卑小なのか、サラは意識的にも無意識的にも嫌というほど理解させられた。クレアやマリリンはローズが特別凄いだけで、自分にも十分才能があると言っていたが、そんなことは気休めにしかならない。
「……でも、わたしは……わたしの方が、お姉ちゃんなんだから……」
我知らず小さく呟きながら、サラは力強くも危うげな足取りで、廊下を歩いて行った。
結局、その日の練習も上手くいかず、飛ぶことなんてできそうにないと強く思わせられた。