第三十八話 『幼狐×俺SS』
拝啓、レオナ様。
夏も真っ盛りな紅火期も半ば、強い日差しにお身体を壊したりはしていませんか。
ご無沙汰して申し訳ありません、ローズです。
私は現在、魔大陸と呼ばれるザオク大陸にいるのですが、こちらはそう暑くありません。いえ、暑いことには暑いのですが、あの森で労働に励んでいた頃に比べれば、幾分もましです。
さて、光陰矢の如しとはよく言ったもので、貴女を助けると宣言して早くも一年になろうとしています。未だに貴女を見つけられず、救い出せていない我が身の非力さを、貴女は恨んでおいででしょうか?
実はこの度、私は貴女に対して、非常に心苦しいお話をせねばなりません。
本来の私ならば、幾千幾万の言葉を用いて言い訳がましく述べるところですが……率直に申します。
私はしばらく、貴女の捜索活動を行うことができなくなりました。
本当に、申し訳ありません。
しかし、嘘偽りなく申しますと、私は港町バレーナまでの道中で既に半ば諦めていたのです。
貴女を見つけることなど、もはや不可能なのではないか。砂漠で一粒の砂金を見つけるが如く、至難の所業なのではないか。奇跡的に発見できたとしても、そのときには貴女が持つ黄金より価値ある美しい心は穢されているのではないか。
そう思うと、貴女を求める私の心は否応なく消沈してゆくのです。と同時に、変態貴族に穢される貴女を思うと、無限のヘイトパワーも湧き上がってくるのです。
すなわち、イタチゴッコです。
実に情けない話ではありますが、私は少々疲れてしまいました。
貴女を想っていると種々様々な感情が去来し、心が際限なく疲弊していくのです。
……いえ、決して貴女を責めているわけではありません。
ですが、私も一人の人間。貴女と別れてから、一日たりとて貴女を想わなかった日はありません。焦燥感に苛まれながらも、惰弱な自分自身と向き合いながらも、貴女から教えて頂いた歌を歌いながら、この一年ほどは頑張ってきたつもりです。
しかしそれも、そろそろ限界なのです。
捜索活動を一時打ち切る理由は、とある一人の幼女のメンタルケアのためです。
同時に、私自身の休息のためでもあります。貴女から頂いた我が名は生涯の誇りですが、薔薇とていつまでも高貴な姿で咲き続けることはできないのです。
どうか、自分勝手をお許しください。
貴女が今どこで何をしているのか、私には分かりません。
ですが、この同じ空の下で生きてはいることを、信じています。
最後になりましたが、どうか貴女が幸多き日々を過ごしていらっしゃることを、心よりお祈りしております。
♀ ♀ ♀
数日後、紅火期第四節四日。
その日はサラの誕生日ということだった。
「あ、ローズ、塩とって」
「はい」
セイディは塩の入った容器を受け取ると、鍋の中にパッパッと振りかけた。
涼風亭の何倍もある広々とした厨房には食欲を刺激する良い匂いが漂っている。
「えーっと、次は……アルセリアさん、あと何作るんでしたっけ?」
「トゥニのチーズ焼き、ベロウブルの厚焼き、アンデ草のサラダ。フェルの実のジュースは最後にした方が良いだろう」
「まだまだあったわねー。んじゃま、さっさと作っちゃいましょうか」
美天使は気合いを入れるように鋭く息を吐き、俺に目を向けてきた。
「ローズ、疲れてない? もう十分手伝ってもらったし、あとはもう休んでていいのよ?」
「いえ、大丈夫です。やらせてください」
「そう? ならお願いしようかな。正直、かなり助かるのよねー」
自分で言うのもなんだが、セイディの言葉通り俺は結構役に立っている(はずだ)。なにせ涼風亭ではほぼ毎日厨房で手伝いをしていたのだ。この世界の料理のこともだいたい分かってきたし、食材や調味料の名前や形もそこそこ覚えている。
「では、もう少し頑張ろうか」
アルセリアは俺とセイディを見て薄く笑みを浮かべる。エプロンをしていても、彼女の女離れした格好良さは損なわれていない。料理中でも姿勢は良く、包丁を握ったり鍋を振る姿はいちいち様になっている。
それから俺たち三人は厨房を動き回り、廊下を走って食料庫に足りないものを取りに行ったりで、調理に励んだ。一時間弱もしたところで全て完成し、次は食堂の長大なテーブルに料理を並べていく。
セイディとアルセリアはトレーに乗せて一気に運んでいくが、俺は非力なので一皿ずつだ。幸い、厨房の各所には俺とセイディが耐暑用の氷塊を設置していたので、あまり汗は掻いていない。
「ふぅ~、終わったぁ……」
背中を反らし、伸びをするセイディ。エプロンを着けたままとはいえ、胸部の膨らみが全く感じられない。
……うん、見ないでおいてあげるのが優しさだ。
「それじゃあ、みんなを呼びに行きましょう」
「おれはマリーを呼んでくる。二人は二階にいる三人を呼んできてくれ」
ということで、俺はセイディと一緒に食堂からホールに出た。
すると、ちょうど階段裏から人影が出てくる。
「あら」
「げっ」
見知らぬ女とセイディは互いの存在に同時に気が付き、それぞれ声を上げた。
女のやや垂れぎみな獣耳と長い尻尾を見るに、獣人だ。年頃はクレアと同じくらいだろうか。そこそこ美人である。
身長はセイディと大差ないが、胸はデカい……いや、それほどでもないな、普通サイズか。セイディと比べると、妙にデカく見えてしまって困る。
獣人女はなんだか神妙な顔で続けて口を開き掛けるが、急にわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「まったく、人の顔を見て失礼な反応ですこと。相変わらず貴女には品性というものが欠けていますわね。あぁ、ごめんあそばせ。品性だけでなく、お胸の方も欠けていましたわね」
「この……っ、久しぶりに会ったかと思えば、そっちこそ相変わらずむかつく喋り方してるじゃない」
セイディは怒気を抑えているのか、顔を引きつらせ、声を震わせて獣人女に言葉を返す。だが獣人女は意に介した風もなく、やはり呆れたように首を振った。緩くウェーブした長髪が左右に揺れるが、毛量が多くもっさりとしているので、見るからに重そうだ。
「あら、いやですわね、これだから女性らしさの足りない方は困りますわ。わたくしの言動はまさに淑女足る優雅さに溢れた素晴らしい振る舞いだというのに」
「なーにが女性らしさよ。アソコの毛がボーボーの淑女さんに言われたくないわね」
セイディは『淑女さん』の部分だけやけに強調して言い、鼻で笑った。
すると獣人女は顔を赤くし、垂れぎみの耳をピンと突き立てる。
「なっ、なんて下品で失礼なこと言うんですの!?」
「でも事実でしょ。あーあー、可哀想にねー、剃っても剃ってもいっぱい生えてきてー」
「う、うるさいですわよ! それはわたくしが獣人だからですわ! それ以前に人の身体的特徴を嘲笑うなんて、恥を知りなさいっ!」
「アンタこそ恥を知りなさいよねっ、そっちから先に嘲笑ってきたんでしょうが! っていうかこの胸だってアタシが翼人だからよっ!」
いや、セイディさんや、貧乳と翼人は無関係でしょう。
確かにね、普通に考えれば巨乳は空気抵抗が大きいから空飛ぶ翼人には邪魔で、だから種族特性的な事情で胸が小さいって理屈は分かりますよ? でもね、ラヴィたちとの道中で女の翼人は何度も見掛けましたけど、普通に胸の大きな翼人もいましたよ。
「あの、セイディさん、そちらの方は……?」
俺が声を掛けると、睨み合いを始めた二人が同時に俺に視線を転じた。
「あぁ、ローズは初めてだったわね。こいつはウルリーカ、アタシたちと同じ《黎明の調べ》の一員よ」
「こいつとは失礼ですわね」
獣人もっさり女ことウルリーカはセイディを一睨みすると、腰を屈めて俺と目線を合わせてきた。近くで見ると分かるが、睫毛が超長い。やや太めの眉までもろに届いている。
気の強そうな顔立ちは並以上に整っているが、クレアには一歩及ばない。
まあ、それでもそこそこ美人だがな。
「ローズちゃん、ですわね? わたくしの名はウルリーカといいますの。アルセリアさんに聞いていたとおり、可愛らしいですのね。以後、よろしくお願いしますわ」
「あ、はい。ローズです、こちらこそよろしくお願いします……?」
ですわ口調でやや高慢そうだと思ったが、意外と柔和な雰囲気を持っている。
優しい笑みを向けられたので反射的に頭を下げると、いきなり抱きしめられて我が頭部が柔らかいものに激突した。
もにゅんとしている。
うん、けっこーふかふかですね。
「んー、可愛いですわね。礼儀正しいし、特に長い髪が素晴らしいですわ。やはり女性なら髪は長くないと」
「あ、ありがとうございます。あの、ところで、ウルリーカさんも《黎明の調べ》だそうですけど……」
「えぇ、そうですわよ。ザオク大陸東支部の一員ですわね」
「東支部……?」
抱きしめられたまま、俺は直近からウルリーカの顔を見上げ、眉をひそめた。
獣人姉さんは意外そうな顔を見せると、セイディに目を向けた。
「まだ説明してないんですの?」
「あ、あー、まあ色々忙しくて、その辺のことは話してないわね」
「まったく、まだ四歳とは聞いていますけど、この子もわたくしたちの立派な仲間なのですから、一応説明くらいは――」
ウルリーカはセイディへ説教めいた口調で告げる。
かと思いきや、不意に口上を止めて目を伏せた。
「まあ、いいですわ。それより、皆さんはどちらに?」
彼女がそう訊ねたとき、ホールに二人分の足音が響いてきた。
「おぉ、ウルリーカではないか。久しいの」
婆さんとアルセリアだ。二人は微笑みを浮かべながら近づいてくる。
ウルリーカは俺を解放すると、立ち上がって、優雅なお辞儀を披露した。
「お久しぶりですわ、マリリン様。突然の訪問、申し訳ありません」
「うむ、そんなことは良い。今日はサラのために来てくれたのかの?」
婆さんが気さくな声を返すと、ウルリーカは顔を上げ、眉を曇らせた。
「はい。今日はサラの誕生日でしたので、彼女に一言祝いの言葉を贈ろうと思いまして。それと……アルセリアさんから、チェルシーのことは聞きました。皆、マリリン様たちのことを心配しておりましたので、代表してわたくしがこの機会に様子を見に参りましたの。定期連絡でも緊急連絡でもなく、この時機に支部間の移動は控えようとは思ったのですけれど……」
「いや、皆まで言うでない。心配せずとも、こちらは大丈夫じゃ。そちらの方はどうじゃ?」
「はい、東支部の方は特に問題は起こっていません。ただ、念のため警戒して、最近はあまり町へ出ないようにしています」
何やら真面目というか深刻そうに二人は話している。そのせいか、俺は疑問を持てあましながらも、口を挟めない。
だが、婆さんはそんな俺の表情をちらりと見てくると、何を思ったのか、小さく吐息を溢して笑みを覗かせた。
「何もないのなら、良い。まあ積もる話はまた後にしようかの。今日は泊まって行くのじゃろう?」
「はい、申し訳ありませんけれど、よろしくお願いいたします」
「うむ。して、もうローズとは挨拶は済ませたようじゃの?」
ウルリーカは婆さんに続いて微笑みを見せると、深く頷いた。
「はい、今し方。とても可愛らしい子ですわね。連れて帰りたくなってしまいますわ」
「ふふ、ローズはうちの子じゃ。やらぬぞ?」
「それは残念ですわ。わたくしたちの方には子供がいませんから、一人くらい欲しいのですけれど」
二人とも一転して、どことなく冗談めかした口調になっている。
もしかしたら、俺に気を遣って重く真面目な雰囲気を払拭しようとしているのかもしれない。
「ちょうど今から夕食じゃ、皆で共に食べよう。セイディ、ウルリーカの分の食器も用意してあるじゃろう? ローズはそのままクレアたちを呼んで来るのじゃ」
「どーせ夕食時を狙ってきたんでしょーが……」
俺はセイディと一緒に頷くが、美天使の方はボソリと呟きを溢した。いや、呟きというには大きすぎる、如何にもな独り言だ。
「あらセイディ、何か言いまして?」
「いや、なんにも」
セイディは素っ気なく言いながらも、口元には微かな笑みが見えている。
彼女はウルリーカに白い翼を向け、婆さんたちと一緒に食堂へ行ってしまう。
「わたくしも一緒に行きますわ。クレアたちを呼びに行きましょう」
「あ、はい」
ウルリーカに言われ、俺は彼女と一緒に階段を上っていく。
色々と訊きたいことは多いが……さて、どうするか。
「ローズちゃん」
横目にウルリーカを見上げながら、まずは何から訊いてみようか考えていると、先に話しかけられた。
「ローズちゃんはチェルシーのこと、知らないんですわよね?」
「……ええ、そうですね」
「あまり興味がないんですの?」
「いえ、興味はありますけど……皆さん悲しそうですし、訊くに訊けないと言いますか」
チェルシーなる人がどんな女性なのか、俺はほとんど知らない。ただ、十代半ばほどの獣人の少女で、性格は優しく穏やか。そうした漠然としたことは、みんなの話を端から聞いて予想できたが、それ以上の具体的なことは知らない。
ウルリーカは階段を上り切ったところで足を止めた。
俺も自然と立ち止まると、彼女は膝を曲げて目線を合わせてくる。
「ローズちゃんは優しいんですのね。でも、それは正しい判断なのかもしれませんわ」
「……そう、だといいですけど」
「しばらくはまだ、セイディたちに少し元気がないかもしれませんわ。それでも、貴女まで暗い気持ちになることはなくってよ」
アルセリアと似たようなことを言ってくる。
先ほどセイディにしていたような態度は鳴りを潜め、ウルリーカの表情は穏やかで、でも少し寂しげでもある。くっきりとした太めの眉からも、やや釣り上がった双眸からも、垂れぎみな獣耳からも、俺の魔眼は勝手に彼女の内心を推し量る。
たった一人の、俺の知らない少女の死が与える影響は、予想以上に大きい。リタ様のときに奴隷部屋で少し経験したことではあるが、改めて再認してしまった。
「チェルシーがどんな子だったか、教えましょうか? ローズちゃんも、みんなが自分の知らない人のことばかり思っていて、もやもやするでしょう?」
意外に鋭い。
見た目だけで判断すれば、他人の気持ちなど大して気にせず、我が道を行くような人っぽいのに。
俺が無言で頷きを返すと、ウルリーカは立ち上がり、手を握ってきた。
そして、かなりゆっくりと歩きながら、話してくれた。
チェルシーは読書とお菓子作りが好きで、獣人だったので身体能力は高かったが、運動神経はあまり良くなかったそうだ。とても穏やかで優しくて、その性格通り適性属性は治癒解毒。魔女としての魔法力は並で、でも頭は良かったので勉強ができた。翠風期半ばに十五歳になったばかりで、背丈は高くもなく低くもなく、少し細身で耳と髪は長く、でも尻尾は短くて可愛かった。
幼女部屋までの短い時間で、ざっと教えてもらった程度だ。しかし、俺はチェルシーという少女がどんな人だったのか、なんとなく想像できた。
「とりあえず、こんなところかしら」
ドアの前に立ち、ウルリーカは軽く一息吐きながら微笑んだ。セイディにしてみせた見下すような嘲笑も、アレはアレで魅力的だったが、慈愛に溢れた笑みも素敵だった。俺の出会う魔女はいい人ばかりだ。
「ありがとうございます、ウルリーカさん」
「感謝してくれるのなら、わたくしのことはさんを付けないで呼んでくれると嬉しいですわ」
「分かりました、ウルリーカ」
「ありがとう、ローズ」
ウルリーカは俺の頭を撫でる。テレーズと違い、なかなか熟れた手つきだ。リゼットやサラにもしてあげているのだろう。
それから俺とウルリーカはドアをノックし、クレアたちを呼んで夕食を囲った。
リゼットはウルリーカの来訪に喜んでいたが、まだ精神的には不安定だからか、食事中に突然泣き出していた。サラは相変わらず俺を避け、彼女のために用意した豪勢な食事にもあまり喜んではいないようだった。クレアが渡したプレゼントを受け取っても、ほんのりと淡い笑みを覗かせただけだ。
まだ俺以外のみんなはチェルシーという少女のいなくなった現実に少なからず囚われている。だが、そのうちきっと笑顔ばかりを見せてくれるようになるだろう。今はまだ心にぽっかりと空いた穴を埋め切れていないだけだ。
俺はただ、みんなを見守り――特にリゼットに気を払いながら、なるべく笑顔を見せていけばいい。
♀ ♀ ♀
リゼットは三節もすれば落ち着いた。
落ち着いたといっても、あの子供らしい天真爛漫さが鳴りを潜めたわけではない。ただ、急に泣き出したり、落ち込んだりしなくなった。
俺には経験がないのでよく分からないが、家族の死ってやつは日常生活で強く再認するものらしい。
まあ、考えてみれば当然の話だ。
毎日一緒に食事をしていた人が、いないのだ。
一緒にお風呂に入って、一緒に遊んで、一緒に寝ていた人が、いない。
死を強く実感する瞬間は、何でもない些細な日常の一風景の中にこそある。
そのせいか、リゼットは突然泣き出したりすることが間々あった。食事中はもとより、風呂に入っていても、遊んでいても、就寝前にも声を上げて泣いていた。
そんな幼女が落ち着くのに、三十日という期間が短いのか長いのか、前世で親しい人の死を経験していない俺には分からない。だが、ようやくリゼットはチェルシーという人の死を受け入れたのか、それとも俺という存在が心の穴を埋めたのか、ことある事に涙を流すことがなくなった。
俺も三節の間で館での生活に慣れた。
「ねえローズっ、ちゃんとみててね!」
「はい、見てますよ。頑張ってください」
「うんっ、それじゃいくよ!」
リゼットは溌剌とした様子で頷くと、両手を前方に突き出す。
俺は幼女の真剣な顔を眺めながら、こちらも少し集中する。
今まさにリゼットから感じる波動めいた見えざる何か。
これが魔力の活性、あるいは流れ、はたまた別の何かなのかは不明だが、ユーハと出会った頃から感じていたこの謎感覚は他人の魔力に反応している。あの日から十日ほど経った頃にそう確信したが、不快感を不快感と思わなくなくなるくらい慣れてきたのは最近だ。
「むぅぅぅ……やぁ!」
リゼットから感じる魔力が急激に高まるのを感じた。
その瞬間、彼女の両手の前に火属性初級魔法〈火矢〉が出現し、射出される。火矢は氷壁に激突して蒸気を上げた。
「やったっ、やったよローズ! あたしにもできたよっ!」
満面の笑みを浮かべ、尻尾をブンブン振り回しながら、リゼットが抱きついてくる。俺はいつものように抱き留めて、幼狐の頭(と獣耳)を撫でてやった。
「やりましたね、リゼット」
「うんっ、ローズのおかげだね! ありがとーローズっ!」
中庭から見える空は快晴で、降り注ぐ日差しはやや強く、カラッとした暑さがある。リゼットは天気に負けず劣らず元気一杯だ。
無邪気にはしゃぐ子供ってのは、見ていて幸せな気持ちになってくるな。まさかこの俺が父性に目覚める日が来ようとは……。
「ふぉぉあぁおぁああぁぁぁぁわあぁぁあぁぁぁああっ!」
それからリゼットは何度も初級火魔法を詠唱無しに連発した。もう何を言っているのかよく分からない歓声を上げてはしゃぎ回る彼女を見ながら、俺は何度か氷壁を張り直していく。
そんなことをしていると、中庭にセイディが顔を出した。
「二人とも、お昼ご飯できたわよー……って、ん?」
天使はリゼットが火矢を連発する様子をしばし見つめた後、我に返ったように息を呑んだ。
「リーゼッ、詠唱しなくてもできるようになったの!?」
「そーだよっ、さっきできるようになったのっ!」
「す、凄いじゃない!」
セイディはリゼットを抱きしめ撫で回した後、俺に目を向けてきた。
「ローズも凄いわね、まさかホントにできるようにするなんて!」
「まあ、リゼットは才能ありましたからね。それに物覚えもいいですし」
実際、リゼットは大したものだった。
詠唱省略はかなり感覚的な技術なので、必然的に俺の説明も曖昧で要領を得ないものになっていたのだが、リゼットはそんな俺的指導で見事に〈火矢〉の無詠唱化を成し遂げた。
教えていた俺もビックリである。
はじめは単に、何かリゼットに新しいことをさせて気を紛らわせられれば良いと思ってのことだった。短縮に一節ほど、省略するのに一節半も掛かってしまったが、それはリゼットが俺と出会う前から火矢を何度も詠唱して使っていたからだろう。
しかし今日、遂に成功した。
「こりゃリーゼもローズも天才ねー。アタシも短縮はできるんだけど、省略はできないのよねぇ」
「でも、セイディはほとんどの属性で短縮できますよね」
クレアは適性属性の土属性だけ詠唱省略ができるが、それ以外の属性は短縮すらできないらしい。
アルセリアは適性属性の風属性でも詠唱の省略も短縮もできないらしい。
セイディは適性属性の水属性はもちろん、基本魔法なら火属性以外は詠唱短縮で使えるらしい。
ちなみにマリリン婆さんは……さすが年の功というべきか。覇級までならほぼ全ての魔法を詠唱省略でき、それ以上は無属性に限り天級魔法まで詠唱短縮できるらしい。あの婆さん、間違いなく只者ではない。
「ま、とにかくご飯できたから、冷めないうちに食べましょ。リーゼはマリリン様呼んできて、ローズはご飯をテーブルに並べるの手伝ってね」
「はい」
「わかったー! おばーちゃんにえーしょーしょーりゃくできたっておしえてくーるーっ!」
「あっ、ちょっとリーゼ!? ちゃんとご飯できたってことも教えてくるのよ!」
走り出す幼狐の背中に天使が慌てた声を掛ける。
だが当のリゼットは「おばーちゃぁぁぁぁぁぁんっ!」と叫びながら、館内に入っていってしまった。
「ったく、大丈夫かしら……」
腰に手を当てて微苦笑を見せるセイディ。
「とりあえず、アタシたちも行きましょうか」
「はい」
俺は美人な天使と手を繋ぎつつ、食堂へと向かった。
♀ ♀ ♀
リゼットは余程嬉しかったのか、食事中は詠唱省略のことを話し続けていた。
どうやって練習したとか、どれくらい頑張ったのだとか、ついでに俺が凄いだのなんだの、実に微笑ましかった。婆さんもセイディも目を細めてリゼットの話を聞き、相槌を打っていた。
そして食後になると、リゼットは興奮さめやらぬ様子で宣った。
「あたしもまものかる!」
昼食後は俺と揃ってうとうとし始めるのが常だが、今日は一層テンションが高いようで、眠気が感じられない。
「もっと大きくなってからじゃな」
「やっ、あたしもサラねえといっしょにまものかる!」
「リゼットも七歳になったらの。それまではローズと一緒に勉強したり、魔法の練習をするのじゃ」
「やだやだやだぁっ、べんきょーつまんないもん! あたしもみんなといっしょにまものかるんだもんっ!」
婆さんの言葉も何のその、リゼットは駄々をこね始めた。
今日、クレアとアルセリアとサラはディーカの町の猟兵協会へ行っている。
俺が館に来て八日後にサラは七歳になった。どうやら婆さんの教育方針で、七歳になったら魔物を狩らせるらしいのだ。我が館の収入源の一つが猟兵協会での稼ぎらしいし、そのためもあるのだろう。
ここ最近はクレア、セイディ、アルセリアのうち二人がローテーションして、サラを含めた三人で魔物狩りへ行っている。念のため、護衛としてオッサンもついて行ってるのだとか。
「リーゼはまだ小さいから、もう少し大きくなってからね。それにリーゼの魔法じゃ、まだまだ魔物は倒せないわよ」
「ローズもいるからだいじょーぶ!」
リゼットがそう言うと、少し困った顔でセイディが俺を見てきた。
……なんだい姐さん? 俺のせいだとでも言いたいのかい?
しょうがないなぁ、まったく。
「リゼット、お婆様とセイディの言うとおりです。七歳になるまで我慢しましょう」
俺が優しく諭してみると、リゼットは『ローズ、お前もか……』とでも言い出しそうなショック顔を見せた。
「なんでそんなことゆーの!? ローズはサラねえよりべんきょーもまほーもできるし、えーしょーしょーりゃくだってできるのに!」
「私はまだまだ未熟です。緊張すると詠唱省略もできなくなりますし、知らないこともたくさんあります」
「そんなことないもん! ローズすごいもんっ、あたしといっしょにまものかりにいくんだもんっ!」
そんなこと言ったって、無理なもんは無理なんですよ。
俺だって魔物を狩った経験はあるけども、アレ結構怖いのよ。魔大陸の魔物は他大陸と比べて精強だっていうし、いくら特級まで魔法が使えても四歳児にはキツイだろう。
それにリゼットを助けた日もそうだったけど、どうにも俺は緊張したり焦ったりすると色々ミスるんだよ。もっとスムーズに無詠唱発動できるように練習する必要がある。
「リーゼ、我が侭言わないの。ローズだってこう言ってるし――」
「やぁぁぁだぁぁぁっ、あたしもまものかりたいぃぃぃぃぃ!」
あーらら、リゼットが本格的な駄々っ子になってきた。
セイディと婆さんが説得しようとするが、我が侭な幼狐は聞く耳を持たない。
「リーゼッ、いい加減にしなさい。ダメなものはダメなの」
「うぅぅんーっ!」
変なうなり声を上げて抗議するリゼット。
しかしね姐さん、そんな上から抑えつけるような叱り方はいけませんぜ。
子供のやる気ってのは潰しちゃいかんのですよ。
もっと上手く教え育んでやらないと。
「リゼット、それじゃあこういうのはどうですか? リゼットがきちんとクラード語を覚えて、そうですね……上級の魔法まで詠唱省略で使えるようになるんです。それならお婆様もセイディも文句はないでしょうし、あと三年待たなくても良くなります。そうですよね、セイディ?」
セイディは虚を突かれたような顔でまばたきしたあと、婆さんに目を向けた。
婆さんは俺を見て小さく笑いながら、二度頷いた。それを見て天使もぎこちなく首肯する。
「そ、そうね、それならいいわ」
「ほんとに!?」
リゼットは琥珀色の目を輝かせた。
うーむ……こいつぁマジでヤりかねない奴の目ですぜ、姐さん。
にしても、そんなにモンスターハンティングしたいのかね、この子は。
まあ、どう転んでもリゼットのためにはなるから、いいんだけどさ。
「リゼット、私も協力しますから、一緒に勉強しましょう」
「うんっ、する! すぐにクラードごおぼえて、じょーきゅーまほーもつかえるよーになーるーっ!」
実に子供らしく、単純に納得してくれた。
並の魔幼女では到底無理だろう条件なのに。
こうして子供は純真さを失っていくのだろうか……。
「うむ、リゼットよ、頑張るのじゃぞ」
婆さんは穏やかな眼差しでそう言いつつ、老婆らしからぬ優雅さで食後の紅茶を味わっている。
そんな感じで、本格的にスタディデイズが始まった。
♀ ♀ ♀
といっても、俺の目的は変わらない。
食堂を後にして、二階の幼女部屋で幼狐とお昼寝タイムになった。俺たちはベッドに横たわり、いつも通りお昼寝……はしない。リゼットはすぐに眠ってしまったが、俺は眠気を堪えて意識を手放さなかった。
そうして静かにベッドを抜け出し、階段を下りて婆さんの部屋へ向かった。
「どうしたのじゃ、ローズ。今の時間はリゼットと共に昼寝のはずじゃろう」
「実は、お願いしたいことがありまして」
俺は机の向こうに座る婆さんと向かい合う。生憎とこの部屋には椅子が婆さんの分しかない。まあ座ると眠くなるから、別にいいんだけど。
「ほう、なんじゃ?」
「その前に少し訊きたいんですけど……《黎明の調べ》って、《黄昏の調べ》と同じように、色々な国と繋がりがあるんですよね?」
「ふむ……そうじゃな。それがどうかしたのかの?」
婆さんは三節前と違って、まだ俺が子供だから云々という理由で話をしてくれない……ということがなくなった。俺は婆さんはもとより、クレアたちにも知能は隠していない。所詮、俺の見た目はどこからどう見ても幼女だが、幼女らしからぬ理性を有していることは伝わっているはずだ。
《黎明の調べ》が結構大きな組織であることは、この三節でなんとなく分かった。婆さんやクレアたちの会話を端から聞くことでそれとなく探れたし、転移盤の存在だっていい証拠だ。
「《黎明の調べ》の力で、ある女の子を探して欲しいんです」
「……どういうことじゃ?」
俺は婆さんにレオナのことを話した。
初めて会ったときも、これまでも、レオナの話はしてこなかった。単に話す必要はないと思っていたし、俺がレオナ捜索を犠牲にしてここにいることを、リゼットには知られたくなかったからだ。今は良くても、後々になってリゼットが罪悪感を抱かないとも限らないからな。
しかし、婆さんにだけは話しておくべきだろう。国家の力を利用してレオナを探すという策は採れなくなったが、《黎明の調べ》という組織の力は借りられるはずだ。
本当はもっと早く頼むべきだったのだが……これは俺のミスだ。
俺は俺自身が『レオナやラヴィよりもリゼットを優先した』という事実に我知らず結構ショックを受けていたようで、レオナのことは後回しにするという段階で思考が止まっていたのだ。最近になってリゼットが落ち着いてきて、ようやく俺も冷静になったのか、思考を進められた。
まったく、なんて情けない……いくら魔法が使えて勉強ができても、精神的な部分はまだクズニートらしさが抜けきっていない証拠だ。緊張すると詠唱省略どころか短縮もできなくなるし。
「なるほど、そうじゃったか」
俺の話を一通り聞いた後、婆さんは静かに頷いた。
「じゃからあのとき、頑なに皇国へ行くと言っておったのじゃな」
「はい、レオナは私にとって大切な人です。名前をくれて、笑顔の意味を教えてくれて、辛いときでも頑張れる勇気をくれました」
「うむ、ローズの言いたいことは分かった。じゃが、お前さんの頼みについて答える前に……念のため一つ訊いておきたい。今この話をあたしにしたということは、ここを出て行こうとは思っておらんということじゃな?」
「はい、今はまだ。リゼットのこともありますから……」
「そうか、それを聞いて安心した。ローズも分かっておる通り、リゼットにはお前さんが必要じゃ。あの子はサラ同様に、ローズのことも本当の姉妹のように思っておる」
リゼットが俺に懐いている。
それは俺自身もそう思っていることだ。彼女は俺を対等の存在として見ると同時に、頼りにもしている。
無論、いつかはここを出て行くつもりだが、今はまだダメだ。チェルシーに引き続き、俺までいなくなれば、リゼットが妙なトラウマを負いかねない。物事の分別がつくだろう年頃――最低でも七歳までは一緒にいてやるつもりだ。
一緒に魔物を狩るって話もしたしな。
「うむ、いいじゃろう。そのレオナという竜人との混血児のことは本部の方に伝えておこう」
「その本部って、どこにあるんですか?」
「北ポンデーロ大陸じゃな」
婆さん曰く、《黎明の調べ》は《黄昏の調べ》同様に各地に支部を持っているとのことだ。この館はザオク大陸西支部であり、魔大陸にはもう一つ東支部がある。
そのへんのことは、この前ウルリーカが帰った後、簡単に聞かされていた。あのときはウルリーカが帰った後、リゼットが一層不安定になったから、深く聞ける状況ではなかったが……。
「あの、率直に訊きますけど、大陸に二つしかない支部に七人って、かなり少なくないですか?」
「……仕方がないのじゃ。ここザオク大陸は謂わば猟兵王国じゃ。魔女の猟兵なぞ、そうそうおらんしの。この地ではそれほどでもないが、魔女の猟兵は大抵どこぞの国から派遣されて来ておる」
《黎明の調べ》の保護対象は基本的にフリーの魔女だ。無論、我らが組織は国家とも繋がりがあるので、余所の支部では国家所属の魔女も多くいるらしい。
が、ここリュースの館のみんなはフリーだ。
また、《黎明の調べ》は魔大陸における土地争奪戦には不参加らしい。下手に土地を手に入れれば各国との繋がりが揺らぎ、争いの種になりかねないからだ。昔は参加していたらしいが。
婆さんの言うとおり、魔大陸はその地政学的事情により、各国から派遣されてきた人が多い。猟兵協会の仕事をこなせばこなすほど、後々になって割り当てられる土地が増えるのだ。世界中の国々が自国の人間――あるいは魔女を猟兵として送り込み、多大な成果を上げさせようとしてもおかしくはない。
しかし、そうした魔女とは接触を図らないのが《黎明の調べ》の方針だ。基本的に各国との折衝は本部の仕事であり、本部命令が来ない限り、こちらから接触することはないそうだ。
「じゃから、いずれ猟兵協会に行くことがあっても、魔女だと思われる者に自分もそうだと打ち明けるでないぞ。まあ、まだまだ先の話じゃがな……っと、思わず説明してしまったが、理解できたかの?」
「はい、問題ありません」
「本当に賢いの、ローズは。どれ、頭を撫でてやろう、こっちへ来るのじゃ」
婆さんが上機嫌そうに手招きしてきたので、俺は机を回り込み、素直に撫で撫でされた。たまにこういう幼女らしさを見せておかないと、可愛げのない生意気なガキ扱いされかねないからな。これくらいならサービスしますよ、婆さん。
でもどうせならクレアかセイディにサービスしたい……。
「あの、それともう一つお願いがあるんですけど」
「ん、なんじゃ?」
俺はいい子いい子されながら告げた。
「前にも話したフラヴィという人たちにも手紙を出したいんです。自分はちゃんと生きているから、安心して欲しいって」
「ううむ……その気持ちは分からんでもないが、そのフラヴィとエリアーヌという娘は《黎明の調べ》の者ではないはずじゃ。とすると、国家所属の魔女らしく国に手紙のことを明かし、ローズのことを探そうとするやもしれん。もはやお前さんは死んでおると思われておった方が、危険もないのじゃが……」
「ダメですか?」
奥義発動。
この至近距離から俺の頭を撫で回す婆さんには効果絶大なはずだ。
初撃だし。
「むぅ……そうじゃの……無事であるという内容だけならば、良かろう。ただし、今どこで何をしているかといったことは書いてはならぬぞ」
「はい、それでも十分です」
よし、これでラヴィたちに俺の無事を報せられる。といっても、彼女らが絶対に生きているという保証はないんだが……あの謎女に殺されていないことを祈るしかないな。皇都にあるらしいラヴィ宅の住所は知らないが、そこは《黎明の調べ》皇国支部の情報力に期待するしかない。
とりあえずこれで、レオナとラヴィの件は遅まきながらも手は打った。
リゼットも落ち着いてきたし、そろそろ自己強化の続きをしても良い頃だ。俺はまだレオナ捜索を諦めたわけではないからな。
「ところでお婆様、私、本が読みたいんですけど……」
それから俺は婆さんに頼んで、クラード語で書かれた魔法教本を何冊かゲットした。リゼットへの教科書にもなるし、一石二鳥だ。
それにしても……さすが魔女の館というべきか、婆さんの部屋と隣の書庫には魔法関連の本がかなりあった。今度、この館にどんな本があるのか探索してみるのもいいかもしれない。魔法関係以外にも歴史書や物語、植物や鉱物の事典なんかもあったっぽいし。
SS = Secret Shrink
(Shrinkの意味は精神科医)