第三十六話 『せめて哀しみとともに』
部屋は本だらけだった。
両側の壁一面には大量の本が石壁に埋まるようにずらりと並んでいる。天井近くまでぎっしり詰まっているので脚立まで置かれ、おそらく千冊近くはあるだろう。
部屋の奥にはベッドの他に、執務机っぽい重厚感のある机と椅子が鎮座し、婆さんはそこに腰掛けた。
クレアは机越しにマリリン婆さんと向かい合い、俺とユーハは美女の一歩後ろに所在なさげに立つ。
「チェルシーの、ことですが……」
そうして、クレアは感情を押し込めているような、酷く事務的な口調で話し始めた。その内容のほとんどはクロクスで俺も聞いた話なので、目新しさはあまりない。クレアは話の途中で俺とユーハを簡単に紹介しつつ、この場に至るまでの経緯を説明していった。
「……ふむ」
話を聞いた婆さんは机上に肘を乗せて手を組みながら、溜息混じりの声を漏らした。随分と覇気のない様子だ。先ほど感じた年齢不詳さは鳴りを潜め、ただの婆さんっぽく見える。
「そうか……チェルシーがの」
「申し訳ありません、私が付いていながら……」
「……いや、クレアもリゼットも無事だったのじゃ。セイディの翼はあたしが治せば良い」
「……はい」
クレアは顔を伏せ、悄然とした背中を見せている。
なんだかどんよりとした空気が漂い始めた。
が、口を開きづらくなる雰囲気に陥る前に、婆さんが俺に目を向けてきた。
「さて、ローズと言ったかの」
「は、はい」
「あたしはマリリン、リゼットたちとは……まあ、家族じゃな。あの子を助けてくれて、ありがとうの。その年頃で大したものじゃ」
「い、いえ、私はほとんど何もしてないので……」
前世では真正面から感謝されることなど十年以上なかったから、なんか落ち着かなくなる。
「それで、クレアの話によると、ローズは気が付いたら船の中にいたそうじゃな?」
「あ、はい……そうです」
「一時期はオールディア帝国の奴隷だったと?」
「はい。でも、助けてもらえました。その人たちと一緒にプローン皇国へ向かっている途中、変な女の人に襲われて、気が付いたら船倉にいたんです。だから、その人たちと再会するためにも皇国へ行きたいんです」
俺は強く訴えた。
マリリンたちは俺とユーハに少なからず恩義を感じているはず。そこを突けば渡航費を援助してもらえるはずだ。
え? 厚かましい? こっちも切羽詰まってんだよ。
とか思っていると、婆さんはおもむろに立ち上がった。
「ローズ、奴隷だったということは、刻印――身体のどこかに何か印を入れられたじゃろう?」
「え、まあ、そうですね。二の腕に〈刻霊印〉で印を付けられましたけど、それが何か……?」
「ふむ……ローズ、ちとその印を見せてみるのじゃ」
机の向こうから回り込んできた婆さんに言われ、俺は素直に上着を脱ぎ、シャツの袖をまくって包帯を取った。すると思った通り、クレアも婆さんも俺に同情の眼差しを向けてくる。
うん、よしよし。
さあ婆さん、この可哀想な幼女のためにも、さっさと金を出してくれや。
「これは……魔女にあるまじき印じゃの」
「実際に見てみると、痛々しいですね……マリリン様」
「うむ、分かっておる」
婆さんは美女と通じ合ったような会話をしてから、おもむろに俺の頭を撫でてきた。と同時に、例の波動めいた何かを当てられているような感覚に見舞われる。
「奴隷なぞにされ、さぞ辛かったじゃろう」
「えぇっと、まあ……そうですね」
「そうじゃろう、そうじゃろう。その言葉遣いも、怖い大人たちから強制されたのじゃろう? もうそんな風に話さなくても良いのじゃぞ」
なんか思った以上に同情された。
婆さんは孫を慈しむように俺の頭を優しく撫でながら、もう片方の手で二の腕の奴隷刻印に触れてきた。
「こんなものは嫌なことを思い出させるだけじゃろう」
と婆さんから言われると同時、またもや例の不快感を覚える。
するとややもせず、触れられている右の二の腕が温かな光に包まれた。
「うむ、これで良い」
満足げに頷きながら手を放す婆さんから視線を転じ、俺は右の二の腕を見てみた。そこにはただ真っ新なロリスキンがあるだけだ。
見慣れた奴隷刻印は僅かな痕跡さえ残さず、消え失せていた。
「ぇ、あ……?」
「もう辛かったことなど忘れ、これからは周りに気を遣わず、自由にして良いのじゃぞ」
奴隷刻印が、ない。
俺の決意の象徴が、ない。
レオナとの繋がりが、ない。
消えた、消された。
「あ……ぁ、そん、な……」
「ん? 何をそんなに驚いて――あぁ、今の魔法かの? 印を刻む魔法もあれば、消す魔法もあるのじゃ」
そ……そんなこと聞いてねえよ!
こいつはレオナを取り戻してから消す予定だったのに!
返せよ俺の決意っ!
なに一人勝手にいい事したみたいな顔で満足げに頷いてんだよ婆さんっ!
奴隷刻印だけが俺とレオナを繋ぐ証だったんだぞ!
「――――」
「驚いて声も出ないようじゃの。じゃがなローズ、こういうとき、なんと言うか知っておるか? ありがとう、じゃ」
「ふ、ふざ――っ」
ふざけんじゃねえぞこのクソババア!
と叫び掛けたが、俺はキレることのできない呪いに掛かっている。クソ兄貴によって長年にわたり調教されてきた我が無意識は、婆さんへの罵詈雑言を寸での所でせき止めた。
「あ、ありがとう……ございます」
「うむ、良い子じゃ。じゃが、そんなに畏まる必要はないのじゃぞ」
「は、はい……」
お、落ち着け俺。
ここは……そう、深呼吸だ。
冷静になるには賢者化するのが一番だが、俺は身体的にもう賢者にはなれない。
ひとまず妊婦さん顔負けの冷静な呼吸で精神を落ち着けるのだ。
「さて……お主はユーハと言ったかの」
「……うむ、某の名はユーハ。御老体はマリリン殿でよろしいか」
「うむ」
婆さんが再び机の向こうに座ってユーハに話しかける傍ら、俺は「ヒッヒッフー」と呼吸していく。なんか黒髪美女が心配そうに見つめてくるが、今は気にしている余裕がない。
……ふぅ、だいぶ落ち着けてきた。
うん、よし……そうだ、婆さんだって悪気はなかった。
むしろ善意から俺の奴隷刻印を消したのだ。
善意からの行動を責めるなんて、大人げない。
でもな、婆さん。
善意からの行動が、必ずしも相手のためになるとは限らないんだぜ?
「クレアの話によると、お主はプローン皇国へ行きたいそうじゃな?」
「……その通りではあるが、彼の国へ向かうことを望んでおるのはローズである」
予想外のことにちょっと冷静さを失してしまったが、もう大丈夫だ。
それによく考えれば、俺とレオナを繋ぐものは奴隷刻印以外にもある。目に見えるものは刻印だけだが、レオナとは共に奴隷として過ごした思い出と、俺の名前と、例の歌がある。思い出はあまり良いものではないが……。
まあ、そもそも、俺の奴隷刻印は帝国の所有物であることを示しているものだ。たぶんレオナはどこかへ売られるだろうし、刻印は消されるか、新しいものに書き換えられるはずだ。だから……婆さんを責めてはいけないな、やっぱり。
「ローズ、お前さんがプローン皇国へ行きたいのは、助けてくれた者が皇国へ向かっておったからだったの?」
婆さんに訊ねられたので、俺は仏の心で恨み辛みを水に流しつつ、真剣な顔で頷いた。ここは大事なところだから、切り替えていかねばならない。
「はい、そうです」
「ふむ……しかしの、それはやめておいた方が良いぞ」
「……え?」
『では感謝の気持ちとして渡航費を援助しようかの』
とかいう展開を予想していたのに、真逆の反応をされた。
「ど、どうしてですか?」
「危険だからじゃ」
「どうして、危険なんですか?」
「そうじゃの……ローズのような幼子には話してもまだ理解できんじゃろうが、大人の世界は色々と複雑なのじゃ」
おいおい、ここで幼女扱いはやめてくれよ。
理由を話してくれなきゃ、アンタを説得して旅費を巻き上げられないだろうが。
とか思っていると、不意にユーハが陰鬱な声を発した。
「……マリリン殿、ならば某に危険である所以を教えてくれぬか」
「ふむ……そうじゃの。理由も話さず、危険だから行くなと言っても説得力はないの」
婆さんは頷きながら答えると、婆さんらしからぬ滑らかな口調で話し始めた。
よし、ナイスフォローだぜオッサン。
婆さん曰く、理由はこういうことらしい。
なんでも、《黄昏の調べ》という組織はプローン皇国は元より、世界中の国々と通じているらしい。各国のお偉いさんの中にも構成員がいて、国所属の魔女の情報なんかは筒抜けになっているそうだ。無論、魔女は力なので無闇矢鱈と魔女狩りをすれば、各国のパワーバランスが崩れかねない。魔女の情報はネイテ大陸にあるらしい《黄昏の調べ》本部に集約され、どの魔女を狩るか決定が下された後、執行されるという。
「《黄昏の調べ》が掲げる思想は様々じゃが、主に完全な男権社会の実現を目的としておるようじゃ。連中にとって、魔女が邪魔な存在なのは言うまでもなかろう。魔女を各国から平等に消してゆくことで均衡を保ちつつ、女の権力を徐々に削いでいく。そしていずれは完全な男権社会を作り上げようというのが《黄昏の調べ》という連中じゃ」
なにそれ怖い。思った以上にヤバげな話じゃないですか。
これって、一般人は知らない類いの裏社会事情だよな?
それにやはりというべきか、《黄昏の調べ》は世界規模の秘密結社的な闇組織らしい。
「話を聞く限り、ローズは相当に才ある魔女じゃ。リゼットと同い年ほどで……ローズ、お前さんいくつじゃ?」
「たぶん……四歳です」
「やはりリゼットと同年じゃったか。たった四歳で上級魔法を使えるどころか、詠唱省略までできる魔女が国に所属すればどうなる? 天才魔女として名声を得ると同時、連中の目に止まり、そう遠くない将来……狩られるじゃろう」
いや婆さん、天才って……なに言ってんだアンタは。
「あの、べつに私は天才なんかじゃないですよ。せいぜい平均よりやや上くらいの魔女だって、先生からも言われてましたし。だから殊更に狙われるようなことはないと思います」
「なんじゃ、その教師は。平均よりやや上などと、そんなわけないじゃろう。四歳で詠唱も無く上級魔法が使える魔法士など、世界中を探しても数えるほどもおらんじゃろうて。お前さんはその名に恥じぬ天才魔女じゃよ」
「――――」
あっれぇ? そんな馬鹿な、俺が天才だと……?
ルイクやテレーズ、エリアーヌだって俺に才能があることは認めていたが、天才とまでは言っていなかった。
あっ、でも、たしか……エリアーヌやラヴィから初級魔法を教わった当初は天才だとか天賦の才とか言われてたな。
い、いやいや、ダメだ、そんなはずがない。
元クズニートが天才なわけがない。
うん、そうだ、甘言に呑まれるな。
そう、これは俺を陥れようとする巧妙な罠……いや、試練だ。
婆さんが俺の奴隷刻印を消してレオナへの想いを砕こうとしたのも、試練だ。
今まさに俺の意志力が試されている。
そもそも、婆さんの言っていることに信憑性はない。
もし《黄昏の調べ》と国家がグルになって魔女を狩っているのなら、もっと大きな噂になっているはずだ。エリアーヌもラヴィもそのことに感付いていてもおかしくない。でも彼女らは皇国という国家所属の魔女として働いている。国が黄昏の連中とグルになっていることを知っていれば、もっと危機感を持っていたはずだ。俺は賢さを隠していなかったから、道中で警告の一つでもしてくれたはずなのだ。
あるいは国上層部に魔女を厭う輩がいるように、魔女を慕う――その力の有用性を理解して保護しようとしている勢力も存在するのかもしれない。現に《黎明の調べ》って組織もあるわけで、敵がいるとしても、味方だっているはずだ。全世界で圧倒的な信者数を誇るエイモル教会だって魔女が祝福された存在だと主張しているわけだし。
そう考えれば、多少の危険は承知した上でも行動できる。そもそも皇国に行っても、力はある程度隠しておけば狙われる心配もないはずだ。
「まあ、とにかく、そういうことじゃ。才のありすぎる魔女は国家の下につくべきではない。納得できたかの」
婆さんはオッサンに向けてそう言い、椅子の背もたれに身体を預けた。
「……マリリン殿の話は理解できた。しかし、《黄昏の調べ》なる組織が権力者と繋がり、巫女を害しておるというその話、俄には信じられぬ。某は以前、名のある君主に仕えていたが……そのような話、ついぞ耳にしたことがない」
「サンナは色々と変わっておるからの。神那島はともかく、北凛と南凛の地は外からの干渉を嫌う風潮が強い故、連中も上手く浸透しきれておらぬのだ」
「うむ……そうであるか……」
ユーハは腕を組み、左目を伏せて何やら考え込む。
相変わらずの鬱顔だから、思案げにしていると一層鬱っているように見える。
「ところでローズ、どうじゃろうか。しばらくはここであたしたちと共に暮らさぬか? この館に住んでおるのは魔女だけじゃし、ここにおる限りは安心じゃぞ」
「それは……私も《黎明の調べ》の一員になれってことですか?」
「うむ、まあそうじゃな。これも何かの縁じゃろうて」
婆さんは親しげな眼差しと温かみのある面持ちで頷いた。
我が魔眼をもってしても、好意しか読み取れないほどに人の良さが溢れている。
「いえ、折角ですが、遠慮しておきます」
だが俺は即座に婆さんの勧誘を蹴った。
「……やはり、皇国への道中を共にした者と一緒にいたいのかの? しかし、その者たちは猟兵とのことじゃったが、まず間違いなく皇国の手の者じゃぞ。その者らはローズが魔女だからこそ、お前さんに優しくしておったのじゃ。養母になってくれるという話も――」
「ラヴィのことを悪く言わないでください」
ちょっと剣呑になってしまったロリボイスで口を挟むと、婆さんは「む……」と呻いて口を噤んだ。
確かに、端から聞けば婆さんの勘違いは無理なきことだろう。実際、ラヴィたちも当初は俺が魔女だから保護し、共に皇国へ行くことになった。
だが切っ掛けはどうあれ、彼女らは俺を一人の幼女としても見てくれていた。魔女だからとか、そんなこと関係なしに俺に優しくしてくれた。でなければ、ラヴィが家族計画を持ちかけてくることもなかったはずだ。
「私は皇国へ行きます」
俺の最終目的はレオナだ。
そのためにはまず、足場を固める必要がある。
婆さんの話を考慮して、全力は出さずにそこそこ優秀な魔女として皇国に認められる。そして魔女という立場を活かして情報を収集させるのだ。スタグノー連合と戦争一歩手前状態とはいえ、帝国内に工作員を送り込んでいるのだから、他の国々にも諜報員めいた者は配置しているはずだ。レオナ捜索には国家力を利用する。
うん、そうだ、これが最も現実的かつ有力な捜索方法だ。
そのために、プローン皇国へ行く。
ラヴィとも家族になると約束したし、ここで流されるわけにはいかない。
「…………ふむ」
婆さんはクレアに目を向けた。
すると美女は微かに顎を引いて頷き、腰を屈めて俺と目線を合わせてきた。
「ローズちゃん、あなたもエネアスという男は見たでしょう? ああいう男たちが、セイディを傷つけたみたいに、ローズちゃんのことも傷つけようとしてくるわ。けど、みんなとこの館にいれば安全だから……ね? ここで私たちと一緒に暮らさない?」
ぅ、ぐっ……ここで美女を使うとは、婆さんめ……なんて卑怯な……。
こうして間近から見ると、クレアはほんと巨乳だな畜生。しかも、もの凄い美人でスタイル抜群な上、童貞エロゲーマー垂涎の清楚でありながら妖艶な美貌を併せ持つ黒髪ロングお姉さんときている。
そんな人から、一緒に暮らそうとお願いされているのだ。前世の俺ならまず抗えなかっただろう誘惑だが……今の俺は違う。煩悩なぞに流されるほど、レオナへの想いは安くない。成長した俺の意志力を甘く見るなよ。
「すみません、クレアさんの言葉はもの凄く嬉しいですけど、やはり私は皇国へ行きます」
俺は内心を面に出すことなく、毅然とした態度を貫いた。
クレアたちと一緒に生活することになれば、目の前の美女は元より、天使や小悪魔、幼狐たちとのイチャラブデイズが送れること必至だろう。
だが、俺にはレオナという幼女とラヴィという女性がいる。
二人を裏切ることはできん。俺はもう約束は破らない。
それからというもの、マリリンとクレアは尚も俺を説得してきた。
しかし、俺は身の内に潜む即物的な性欲には屈さず、鋼鉄の意志力を発揮し続けた。その間、ユーハはただ黙って俺を見守っていた。婆さんから「ローズを説得してくれ」的なことを遠回しに言われても、ユーハは俺に対して説得の口を開こうとはしなかった。
正直、婆さんとクレアの善意は本当に有り難いことだ。
だが、俺にも譲れないものはある。
♀ ♀ ♀
その日は館に泊まらせてもらうことになった。
尚、オッサンは哀れにも館を追い出された。本来は男子禁制の館らしいので、ユーハは転移して例の女巨人のいるビッグハウスで夜を明かすことになったのだ。
「ふぅ……」
俺はベッドに仰向けで横たわりながら溜息を吐いた。
十畳以上はある広々とした一室には壁際に例のランプがあって、柔らかな光で満ちている。誰もいない室内は痛いくらい静かで、俺は長い一日を思い返し、もう一度、今度は深く息を吐き出した。
アレから結局、婆さんとクレアは俺の説得を諦めた。そして俺の予想通り、礼代わりに渡航費を援助してもらえることになった。
加えて、もう一つ。婆さんはこの館と転移盤の存在及びその場所について、決して他言しないことを強く要求してきた。俺は元より、ユーハにはほとんど脅すような形でだったが、事情は理解できないでもない。
まあ、俺はもちろんユーハとて、元から他言する気などなかっただろうが。
これからのことを思うと、不安はかなり大きい。
だが、俺には護衛剣士ユーハがいる。人ってやつは窮地に陥ったときにこそ本性を露わにするという。今日、オッサンは俺たちを守ってくれた。
鬱ってる剣士とはいえ、きっと大丈夫だ。
リゼットを救った代償として《黄昏の調べ》に目を付けられてしまったが、代わりに連中のことを知ることができた。もしここでリゼットを助けなければ、何も知らないままだった俺は皇国で目を付けられることになり、狩られることになっていたかもしれない。
それになにより、俺は幼女の命を救ったのだ。俺はほとんど何もしなかったとはいえ、その事実を思うとなんだか自信が沸いてくる。
この調子でレオナも救ってみせよう。
「ん、うぅ……はぁ……」
ベッドの上で大きく伸びをして、俺は全身から力を抜いた。
部屋には俺一人だけだ。
本当はクレアが一緒の部屋で寝ようと俺を誘惑してきたが、耐え抜いた。
それに、リゼットを見ていられなかったのだ。
先ほど夕食を出してくれたので、俺は食堂らしき場所で有り難く頂いた。
ただし、一人でだ。
どうにも漏れ聞こえてきた声や館内の雰囲気から察するに、クレアはリゼットの、セイディはあの小悪魔系幼女のメンタルケアをしているようだった。四人は一緒に寝るようだったので、部外者である俺は遠慮したのだ。
それに、これ以上リゼットやセイディ、クレアと親しくしても、誘惑されて決心が鈍り、辛くなるだけだ。俺はただレオナとラヴィ、それにエリアーヌと未だ見ぬ専属美女騎士を想っていればいい。
館内では彼女ら以外に竜人のオバサンを見掛けた。
そう、竜人である。頭には二十レンテ弱ほどの双角、やや太めの尻尾はトカゲのようで、鱗に覆われて硬そうだった。
オバサンは俺に頭を下げて丁寧に礼を述べると、それ以上は何も言わず去って行った。見た目は三十代半ばくらいだったが、クールで颯爽とした印象を受けた。
オバサン以外に、もう館に人はいなさそうな感じだった。
このだだっ広い館に六人――いや、昨日までは七人か。《黎明の調べ》が具体的にどういった構成の組織なのかは知らないが、随分と少ない。転移盤という《聖魔遺物》を有しているとはいえ、もしかしたらそれほど規模は大きくないのかもしれない。
あるいはここは単なる支部で、他にも似たような場所や本部があるのか……それは不明だが、聞き出そうとは思わないし、もうクレアたちも答えてはくれなさそうだ。
「…………寝よう」
俺は立ち上がり、壁の台座に手を伸ばした。
この部屋には前世の照明器具のように、天井に明かりがある。ペンダントライトのように光魔石が金属傘と一緒に吊されているのだ。
こうした照明は魔石灯と呼ばれるようで、蓄魔石に溜まった魔力をもとにして光を生み出しているらしかった。
この魔石灯の構造は至極単純で、ペンダントライトの光魔石が電球、壁の台座にセットされた蓄魔石が電源だ。蓄魔石を台座にセットすれば、電源コードめいた通魔材を伝って天井の光魔石に魔力が流れ、発光する。光魔石は直接触れて魔力を込めても当然光る。
魔女ばかりの家なら蓄魔石への魔力充填に困ることはないだろうし、蝋燭より明るいしで、実に経済的だ。これまで見掛けてこなかったので、やはり相当な高級品なのだろうが。
クレアに教えてもらった通りに台座のつまみを捻って明かりを消す。たぶんつまみによって、蓄魔石と光魔石を繋ぐ魔力のラインが断たれたりするのだろう。
そんなことを考えながらベッドに入り、脱力する。
幸いといっていいのか、今日はもうクタクタだった。
俺は明日から始まる皇国への旅路を思いつつ、あっさりと眠りに就いた……。
♀ ♀ ♀
翌朝。
やはり俺は一人で食事をとり、準備を済ませた。といっても、トイレで出すものを出し、ツインテにして気を引き締めただけだが。
「ではローズ、準備は良いかの?」
「はい」
階段のある広々とした玄関ホールで待ち合わせていた婆さんに頷きを返す。
婆さんとは女巨人の家まで一緒に転移する。ユーハに金を渡し、最後に何か色々言うことでもあるのだろう。
「ローズ、最後にもう一度訊くがの、ここに残る気はないのかの?」
「いえ、ありません」
「……そうか。じゃがの、もう二、三日はゆっくりしていっても良いのじゃぞ?」
「ありがとうございます。でも、急ぎますので」
婆さんの気持ちは本当に有り難いよ。
でも、俺の決意は変わらないし、長居は無用だ。
「本当に、リゼットと同い年とはとても思えぬの。ローズのようなしっかりした子には、尚更いて欲しいのじゃが……」
「すみません」
「いや、もう何も言うまい。では行こうかの」
婆さんは未練を断ち切るように軽くかぶりを振り、歩き出した。俺はその衰えの見られない背中についていき、階段から地下に下りる。
結局、この館がどこにあるのかは不明だった。一階や二階のガラス窓からの風景を見るに、森の中にあることは確かだろうが。
「…………」
「…………」
俺と婆さんは無言で地下の薄明るい廊下を歩き、転移盤のある部屋を目指す。
すぐに到着し、婆さんが凝った造形の扉を開けたとき、ふと声が聞こえてきた。
「ローズっ!」
リゼットだ。
今し方、俺たちが歩いてきた廊下を小走りに駆けてくる。その後ろにはクレアの姿も見られ、美貌に添えられている柳眉を曇らせつつも、落ち着いた足取りで歩いて来ていた。
「ローズ……いっちゃうの……?」
リゼットは俺の前で足を止めると、不安げな面差しで見つめてきた。心細さが滲み出たロリボイスで、愛らしい獣耳と尻尾を力なく垂らしながら幼狐は言う。
「クレアがいってた、もうローズとはさよーならするんだって。ローズも、いっちゃうの……? チェルシーみたいに、どこかとーくにいっちゃうの……?」
「あの、リゼット、私は――」
「やっ、いっちゃやだ!」
体当たりさながらの勢いで、リゼットが抱きついてきた。
俺はなんとか踏み留まりながらも、意外なほど力強い抱擁に困惑を隠しきれない。
「やだやだやだぁっ、いかないでよローズぅ……ずっとここにいて、チェルシーみたいにとーくにいかないでっ、ローズはずっとここにいてよぉ!」
「……リゼット」
今にも泣き出しそうな声で、必死さの窺える語調で、哀しく訴えてくる幼女。
否応なく、胸の内側がざわつく。
「…………すみません、リゼット。でも、私は行かないといけないんです」
「やだよぉ、やだやだぁ、あたしローズとずっといっしょにいるんだもんっ」
ぅぐ、まずい……そんな声で、こんなに強く抱きしめながら言わないでくれ。
「リーゼ、ローズちゃんが困ってるわよ。ほら、こっちにおいで」
「やだもん、ローズはどこにもいかないもん。ずっと……ずっとここに、いる……いるんだ……もんっ」
やんわりと引き剥がそうとするクレアに対し、リゼットはいやいやと首を横に振りながら、更に強く抱きしめてくる。
こんな小さな身体のどこにそんな力があるか。
次第に幼い声は完全に泣き濡れてしまい、幼女が俺の顔のすぐ横で、声を上げて泣き始めた。
「…………」
俺はリゼットを突き飛ばすことも、抱き返すこともできず、硬直してしまう。
彼女がここまで悲しんでいる原因は間違いなく金髪イケメンのクソ野郎共《黄昏の調べ》のせいだ。
しかし、少なからず俺にも責任はある。
幼女を助けようとしたのは俺だ。そして、ユーハ対エネアス戦を前にして、俺は危険を顧みずセイディの傷を癒した。
リゼットの目の前で、彼女の家族を助けた。
吊り橋効果が発動してラッキーチャンスという打算を承知で――むしろ何割かはそれ目当てで、俺は二人にいいところを見せた。その直後、リゼットはチェルシーという家族がもう帰ってこないと告げられた。
たぶん、まだ幼いリゼットはチェルシーなる家族はいつかきっと帰ってくるのだと、そう思っているはずだ。だが同時に、クレアから告げられた言葉を信じ、帰ってこないとも思っている。そんな精神的に不安定な状況で、危機的状況を共にくぐり抜けた同い年の魔幼女たる俺が、今まさに去ろうとしている。
昨日の今日だ、まだ吊り橋効果も継続中だろう。リゼットの幼い心は、いなくなったチェルシーという存在の代償として、俺を求めている。俺を新たな家族として迎え入れることで、心にできた空白を埋めて哀しみを誤魔化そうとしている。
そう冷静に分析しつつも、俺は動けなかった。
ここは優しく「また会いましょう」とでも言って、少しでも幼女にトラウマを植え付けないように配慮しつつ、別れるのがベストだ。
だが、頭ではそう分かっているのに、身体が動いてくれない。
俺の心が拒否反応を起こしている。
「……ぅ、リ……ぐぅ」
幼女の泣き顔に満面の笑みを。
ローズメンタルクリニ――ックはどっか行ってろ!
だ、ダメだ、流されるな。
俺の目的はレオナだ、あの心優しき幼女を救い出すことこそが最重要だ。
出会って二日の幼女に同情することじゃない。
しかしですね、目の前で泣きわめく幼女を見捨てるのですか?
今ここでリゼットちゃんの前から去れば、彼女の心は大きく傷ついてしまうのですよ。
そんなの……仕方ないだろ。
リゼットを傷つけないようにすれば、レオナが傷つくんだぞ。
あぁ、そうだ、迷う余地なんてない。
ですが、どこにいるのかも分からない幼女と、目の前で嘆き悲しみトラウマを負いそうになっている幼女。前者はそもそも一生見つからないかもしれない一方、後者はほぼ確実に助けることができます。
幼女を助けるのに理由はいらない。
そう言ったのは誰ですか?
だ、黙れっ、俺はレオナを助ける!
そう約束したんだっ!
ラヴィとも家族になるって約束した!
もう俺は約束を破らないっ!
中途半端に助けて、安っぽい自己満足感に浸って、あとは知らぬ存ぜぬですか?
誰のせいでリゼットちゃんがここまで悲しんでいると思っているのですか?
一度手を差し伸べたのなら、最後まで責任を持つべきでしょう。
そんなこともできない人が、約束は破らないなどと……
所詮はエゴイスティックな偽善者ですね。
違うっ、俺はレオナを助けるんだっ、それが俺の決意なんだ!
ですがもう、その決意の象徴は跡形もなく消えてしまいましたよね?
それに、目の前で助けを求めている幼女を見捨てたことをレオナが知ったら、心優しい彼女はなんて言うのでしょうね?
ラヴィはどういう顔を見せるのでしょう?
ユーハさんはどうなのでしょうか?
や、やめろ、もうやめてくれ!
俺は……俺はレオナを……っ、ラヴィと家族で専属美女騎士が……でもリゼットは……っ。
「びょぉびゅぅ、びがばいでぼぉおおおおぉぉぉぉおお!」
耳元で嗚咽に塗れたリゼットの哀訴が響く。
しかも、なんか……急に足が生温かく……?
「ばだぼぉぉぉぉびょぉびゅぅぅぅううわあああああぁぁぁあぁあぁんっ!!」
泣き叫ぶリゼット。
か細い腕を俺の身体に回し、顎は肩に預け、足は絡まるように密着している。
その足が生温かい。
ついでに何かが腿から膝を伝って脛を流れていくのが分かる。
「リ、リゼット……?」
もしかしなくても、幼狐は漏らしていた。泣き叫びながら抱きつきながら漏らしながら、「いかないで」と小さな身体で精一杯に哀願する幼女。
かつて、
この俺が、
これほどまで、
誰かに求められたことが、
一度としてあっただろうか?
「リゼット」
俺の手は勝手に動き、小さな身体を抱き返していた。
もう、頭の中は真っ白だった。
「私は…………いなくなったり、しません。だから、泣かないでください」
口も勝手に動いていた。
「……ぅぐん、ぅう……ぼんどぉ?」
「本当です」
「びばぐ、だばだい?」
「いなくなりません」
俺が答えると、リゼットの泣き声はやや鳴りを潜めるも、泣き止んだりはしなかった。しかし、今度は先ほどまでと違って、安堵した響きが確かに感じられる。
俺は幼狐の泣き声を聞きながら、抱き合いながら、一人静かに胸の奥底から吐息を溢した。思うところがありすぎて混乱してはいるが、しかしこれだけはハッキリと言える。
こんな幼女に泣き付かれて、突き放せる奴がいたとしたら……
どんな事情があろうと、俺は紳士の名のもとに全力でそいつをブン殴るだろう。