第三十一話 『RMCにようこそ!』★
死とは無である。どこまでも虚で何も無い。
虚無だ。
真っ暗闇の中で、思考することすら許されない。
それが無であり死だ。
しかし、俺は思考できている。気が付いたら闇の中だったが、こうして考えることができている。
俺は……死んだはずだ。
呆気なく、輝く白刃に貫かれて。
どう考えても、アレは致命傷だったはずだ。治癒魔法を使えばなんとかなったかもしれないが、俺は上級までしか使えない。背骨さえも貫いていたであろう傷を上級の治癒魔法で治せるとは思えないし、そもそも俺は魔法を使った覚えがない。
そんな余裕など絶無だった。目の前が真っ暗になって、気が付いたら闇だ。
ここは……どこだ? 天国が純白の世界だったから、まさか地獄か?
なら閻魔様なり何なりはいないんスかね?
とか思っていると、不意に大きな揺れを感じた。
「――ぁてっ」
あ、声が出た。しかも何かに頭をぶつけたのか、ちょっと痛みも感じる。
感覚が生きているということは……俺はまだ死んでいないということだ。
「聖光を前に戦傷は癒える――〈微治療〉」
とりあえず頭に手を当て、敢えて詠唱して初級の治癒魔法を掛けてみる。当然のようにロリボイスが出たし、痛みも引いた。
よし、大丈夫。よく分からんが、俺は死んでない。
手を動かして分かったことだが、どうやら俺は狭い空間にいるらしい。
たぶん箱の中だ。身体を少し丸めて横になっていたので、手足を大きく伸ばして大きさを測ってみたら、一辺一リーギスもないだろうことが判明する。
この闇に俺一人だけということが確認できたので、ひとまず初級光魔法で明かりを灯してみた。すると、やはり俺がいるのは箱の中だった。俺の身長ならあぐらをかけそうだったので、身体を起こした。
さっきは大きな揺れを感じたが、上半身を起こしてみると、常に微かな揺れを感じる。馬車や馬上とは違い、ゆらゆらとたゆたう感じの揺れだ。
「…………ない」
何はともあれ、まずは腹部を確認してみたところ、傷がなかった。
傷痕もなく、服すら破れてない。
瑞々しいロリスキンは何事もなかったかのように健在だ。
ど、どういうことだってばよ……まさか、アレは全て幻だったのか? 夢?
そういえば、俺は剣をブッ刺されたときに痛みを感じなかった気がする。
いや、あまりのことで痛覚が働いていなかっただけか?
……………………考えても、分からん。
とりあえず、ここから出よう。まずは状況を把握しよう。
ラヴィたちがいれば話し合い、いなければ探す。
それでもいなければ……そのとき考えよう。ネガティブシンキングに陥って動けなくなる愚は避けたいからな。
しかし、慎重派な俺はひとまず所持品のチェックをした。両腰のポーチとショーパンのポケットを探ってみる。
ポケットには……特に何もない。糸くずだけだ。
左のポーチには愛用の魔石(満タン状態)、黒と白の髪紐がそれぞれ二本ずつ、そしてオールディア上銀貨が一枚(1000リシア)。
右のポーチには一杯の乾果。
こんなこともあろうかと、ラヴィにお願いして緊急時の金は常に身に着け、ルイク謹製のドライフルーツは非常用の保存食として確保していた。
まずはドライフルーツを一個摘んで落ち着くと、次は箱の外の状況を確認してみる。箱は木製だったので、詠唱省略で風の刃を作り出し、形状変化で輪状にした。
リリオと道中での魔法練習のおかげで、下級以下の魔法なら二つ同時に行使できるようになっている。練習していけば、中級、上級でも可能になるだろう。
加えて、魔法のコントロールにも結構習熟した。 岩弾や氷槍に回転力を加えたり、土壁で階段を作ったりと、攻撃力アップだけでなく、便利度もアップしている。まあ、そのぶん魔力の消費量は増えるんだけど。
幸い、俺の魔力保有量は相当なものなのか、未だに魔力が枯渇したことはない。上級魔法を連発して魔力量を確認したいと思ったことはあるが、上級ともなれば周囲への影響も大きくなるので、なかなか試せなかった。
いい加減、いつか実験する必要があるな。年齢と共に増えていくらしいし、一年でどれくらい魔力量がアップしたかも確認してみたい。
まあともかく、俺は輪状の〈風刃〉を行使し、木箱に小さな穴を開けた。光源である初級光魔法〈光輝〉に注いでいた魔力を絞り、光量を落として穴から外を窺ってみる。
が、箱周辺も暗いのか、何も見えない。
「……………………」
しばらくジッとして音を確かめてみるが、やはり何も聞こえない。
どうしようか逡巡した末、思い切って木箱から出ることにした。用心に用心を重ねて光魔法を消すと、例によって〈風刃〉を使い、しかしなるべく音は立てないように慎重かつ大胆に穴を開ける。
そうして這い出てみるが、地面がなくて落ちた。
「~~~~っ!?」
声にならない悲鳴を上げる。
すぐ衝撃に見舞われたので、せいぜい一、二リーギスほどの高さから落下したと思うが、空中で一回転して背中から落ちたのでかなり痛かった。下手したら死んでたな、いやマジで。
すぐに治癒魔法をかけつつ周囲を見回してみるが、やはり暗くて何も見えない。
俺は小さく深呼吸をしてから、光魔法で明かりを灯してみた。
周囲に人気はなく、代わりに大小様々な木箱が並び、積み上げられている。広さは……学校の教室二つ分ほどだろうか。おそらくは倉庫だろう。だが、壁や天井、足下すらも全て木板で構成され、相変わらず僅かな揺れも感じる。
「船、か……?」
前世で船に乗ったときの感覚を思い出し、薄明かりの中で一人小首を傾げた。
もしそうなら、ここは船倉だ。
しかし、俺に驚きはない。何せ前回は美女と一緒の馬上で、前々回は全裸幼女だらけな馬車――しかも異世界で目覚めたのだ。
今更、船倉程度で俺のハートは揺るがない。
まあ、なにはともあれ、外に出てみようか。
この暗くてちょっとジメジメした感じは俺好みで、つい引きこもりたくなってしまうが、そう思う一方で太陽が恋しくもあった。
……成長したな、俺。
積荷の向こうに扉を発見し、小さな身体でするすると障害物を抜けて近づいていく。苦も無く木箱の山から脱出し、さあ暗闇からおさらばだ。
と、少しだけ気を抜いた瞬間、その声は聞こえた。
「■■■■■■……■■■■■■■■■■■■■■」
「――ぅわ!?」
突然の声にビビって後ずさり、でも足が絡まって尻餅をついてしまった。
全身を強張らせながら声のした方に目を向けてみると、一人のオッサンがいた。扉のすぐ横の壁にもたれ掛かって座り、底なしの穴のような眼をこちらに向けてきている。今の今まで、全く気が付かなかった。
「■■■■■■■■■■■■。■、■■■■■■■■■■■■■――■、■■■」
意味不明な言葉を話していたオッサンだったが、ふと一人納得したように頷いた。
「そこな幼子よ……某の言葉が分かるか?」
「え、ぁ……は、はい」
今度はエノーメ語で話しかけられたので、俺は緊張に身を硬くしながらも声を返す。
「そうか。して、幼子よ……斯様なところで何をしておる」
「…………」
「怖がることはない。某……そなたのような年端もゆかぬ女子を無用に傷つける趣味はない。もっとも、某のような醜男の申すことなど、おいそれと信じてはもらえぬであろうが……」
オッサンは鬱々とした声で言い、力なく自嘲的な笑みを浮かべた。俺の光魔法によってオッサンの顔には濃い陰影ができていて、不気味という他ない。
オッサンは和服っぽい格好をしていた。
野袴……というのだろうか? ズボン状の袴みたいな、ゆったりとした服を身に纏っており、しかし全体的にどこかオリエンタルな意匠も見られる。かなりの古着だと一目で分かるほど、袖や裾はよれよれだ。
脛の半ばまで使い古されたブーツを履き、ラヴィほどのロンゲは荒く乱れている。片膝を立てて座り、鞘越しでも綺麗な反りだと分かる刀を一本、腕に抱えていた。
獣耳も翼もないので、たぶん人間だろう。年頃は判然とせず、三十代半ばくらいだとは思うが、薄暗さに加えて陰鬱とした表情のせいか、かなり老けて見える。右目は眼帯らしき黒い布で粗雑に覆われ、髪の間から覗く左目は虚だった。黒瞳に俺を映すその姿は、落武者を連想させる。
俺がただの幼女なら今頃は泣きながら全力ダッシュで逃げ出しているところだ。
実際、俺も逃げ出しそうだ。
「……………………」
こちらが反応に窮して黙っていると、オッサンは微かに眉を動かした。
「……その光……そなた巫女か。某がここに参ったときには、誰の気配も感じなかったものだが……いや、どうでも良いか。そもそも誰が何を為していようが、某には関係ないか……」
ぼそぼそと一人勝手に呟いて納得し、オッサンは左目を閉じて顔を俯けた。
俺は、負のオーラをまき散らすオッサンの様子を窺いつつ、少し迷っていた。
オッサンに話を聞いて情報収集に励みたいところだが、どうにもこのオッサンは不味い気がする。
なんというか……もう完全に鬱なのだ。投身自殺一歩手前の、人生に疲れたオッサンオーラがひしひしと感じられる。表情にも声にも生気はなく、絶望色に染まりきっていた。
しかし、俺もかつては鬱になりかけたので、このまま何事もなかったかのようにスルーはできなかった。もし異世界に転生せず、前世であのまま数年も過ごしていれば、俺もこうなっていたかもしれない。
そう思うと、不思議と親近感が沸いた。
いや、怖いことには怖いんだけどね。
「あ、あの」
「…………」
「えっと、私はローズといいます。すみませんけど、ここは船の中の倉庫で間違いありませんか?」
恐る恐る訊ねてみると、オッサンはぬらりと鬱顔を上げた。
こりゃ落武者じゃなくて鬱武者だな。
「……無論である」
「で、では、この船はいったいどこへ向かってるんでしょうか?」
「さて、どこだったか……」
低い声で呟き、オッサンは考え込むように目を伏せた。
いや、そんな深淵な問いに対する哲学者みたいな反応いらんから。鬱になると頭の回転が鈍るものだが、どうにもオッサンは相当に重症っぽい。
「む……思い出した。某、ザオク大陸へ参ろうと思い、乗船したのであった。そうだ、そして、某は……剣の道に生きた者として、せめて世のため人のために、化生共と戦い散ろうと……」
ザオク大陸、だと……?
それは通称魔大陸と呼ばれる、あのザオク大陸か?
おいおいおい、ちょっと待ってくれよオッサン。
「あの、この船はあとどれくらいで……その、魔大陸に着きますか? というか、出航した港ってどこでしたか?」
「さて、どうだったか……あいや、そういえば昨日、船員が申しておったような覚えが……明後日にはクロクスに着くだろうとか、なんとか……」
「クロクスというのは、魔大陸の港町ですか? それで、出港地はどこでしたか?」
「なんという港だったか……うむ……デルシェミナの港町であったことは、覚えておるのだが……」
オッサンは怠そうな吐息混じりに答え、視線を床に落とした。
デルシェミナとはエノーメ大陸にある小国の一つだ。大陸東部の砂漠地帯を主な領土とする王国だった……と記憶している。俺の記憶が正しければ、デルシェミナ領はリリオからだとバレーナまで以上に距離があったはずだ。
そして今は海上であり、明日には魔大陸のクロクスという港町に着くという。
「ところで、今日の日付って分かります?」
「さて……もう日を数えることなど、久しくしておらんのでな……」
おいおい、ここ大事なところだからさ、しっかりしてくれよオッサン。
とは思っても、相手は明らかに鬱ってる人間だ。下手なことを言って切腹でもされたら困る。
しかし……マジで今はいつなんだ?
たしか、あの丘陵地帯で襲われたのは光天歴八九二年の紅火期第三節四日だった。リリオの本屋で見た世界地図によれば、リリオから魔大陸までは、皇都フレイズまでの二倍くらいの距離があったと思う。その距離を移動するにはどれだけ急いでも半年はかかるはずだ。いや、翼人や飛空船に空輸されればその限りではないのだろうが……。
俺の身体は特に成長していないから、アレから数節も経っていないのは間違いない。魔石の色も特に変化はなかったし、数日すら経っていないはずだ。
なぜ俺が魔大陸近海にいるのかは不明だが、十中八九、あの謎女との一件が原因であることは確かだろう。
「あの、ところで……お名前を窺ってもよろしいですか?」
オッサンは日付を思い出せそうになかったが、まだ訊きたいことはあったので、とりあえずコミュニケーションを図ってみる。
すると、オッサンは陰影の濃い鬱顔を少し上げて、再び力なく口を開く。というか、光量が足りないからオッサンの顔が不気味に見えるのかもしれん。もっと明るくするか。
「某は、オラシ……否、斯様な幼子には良いか……」
「あの?」
「……某は、ユーハと申す。う、うむぅ……すまぬが、明かりを落としてくれぬか。斯様に眩しくては、この場所に参った意味がなくなってしまう……」
「え? あ、はい、すみません」
せっかくオッサンの顔から影が薄れたのに、元に戻ってしまった。
にしても、ユーハか。味覚糖みたいな名前だな。
「あの、ユーハさんはどうしてこんな場所に?」
「うむ、一人になりたくてな……船室は人が多く、甲板では日差しもあって、どうにも落ち着かぬのだ……」
やはりユーハというオッサンの鬱度は結構なものらしい。太陽光を厭い、一人になりたいとか、完全に引きこもりの予兆である。
いや、オッサンはもう引きこもりか。こんなジメジメした真っ暗な船倉に自ら進んでいるんだし。
「…………」
「…………」
俺が口を閉じると、ユーハはまたもや目蓋を下ろして顔を伏せた。
話しかければ答えてくれるが、自分から話す気はないようだ。さっきの言葉通り、どうでも良いと半ば自暴自棄になっているのだろう。
やはり俺はこのオッサンを看過することはできなかった。
「ユーハさん、少し訊きたいことがあるんですが、いいですか?」
「……ん、うむ。某に答えられることならばな」
貴方の人生を薔薇色に。
ローズメンタルクリニックにようこそ!
さて、本日の患者さんは……これはまた随分と鬱々としていらっしゃるわ。
「まずは年齢を教えてください」
「歳か……おそらく、今年で三十二か、あるいは三か……うむ、どうだったか……」
あら、私とそう変わらないのね。
「出身地は?」
「北凛島だが……それがどうしたのだ……」
「いえいえ、ちょっと興味がありまして。あまり見かけない格好をしていますし」
北凛島といえば東部三列島――通称サンナを構成する島の一つね。武術の北凛流発祥の地らしいし、ユーハさんは刀を持っているから、きっと剣士さんなのね。
あまり強そうには見えないけど、剣が使えるというのはいいわね。ダンディさが滲み出てくる年頃も魅力的で、これはますます看過できないわ。
「ところでユーハさん、ドライフルーツ食べますか?」
「どらい、ふるーつ……? あぁ、果実の乾物か」
「はい。美味しいですよ、どうぞ」
「う、うむ……かたじけない」
私の差し出した処方薬を少しぎこちなく受け取るユーハさん。そんなときでも左手は刀の鞘を抱えたままだったわ。
あらやだ逞しい。まるで侍ね。
「……………………」
ユーハさんは掌のお薬を深い穴のような片目でじっと見つめるだけで、食べようとしないわ。きっと食欲がないのね。
でも受け取ってくれたところを見ると、人の好意は無碍にしない人のようだわ。そもそも鬱になるような人には真面目な性格の人が多いから、初めから予想していたことだけれど。
「あの、少し不躾なことを訊いてもいいでしょうか?」
「……不躾、か。まだ五つかそこらの幼子であろうに、しっかりしている。某とは比べものにならぬほど賢そうだ……」
い、いけないっ、患者が深い鬱状態に陥りそうだわ!
早く処方した薬を!
「そ、そんなことないですよっ。ほら、とりあえず食べてください。気が紛れますから、ね?」
「うむ……あまり食欲はないのだが……」
なんて言いつつ、食べてくれる優しさは魅力的よ。
やっぱり私の目に狂いはなさそうね。
「どうですか?」
「旨い、と申してやりたいが……正直……どうにもここ二年ほどは、何を食べても旨いと思えぬのだ。無論、不味いということはないが……ううむ、すまぬな……」
「いえいえ、仕方ないですよ」
食欲不振に加えて、味覚まで鈍っているのね……これは思った以上に重症だわ。
でもその分、成功時の効果も大きいでしょうし、私は諦めないわよ。
「ところでユーハさん。先ほどの話の続きですけど、よろしければどうしてそんなに落ち込んでいるのか、話してもらえませんか?」
「う、うむ……しかし、幼子に聞かせるような話では、ないのでな……」
「頑張って理解します。私はユーハさんのことを知りたいんです」
ユーハさんは私の熱視線を受けて何を思ったのか、口元に自嘲的な笑みを浮かべたわ。
「なぜ、某のことなど……巫女というのは変わり者が多いのであろうか……? まあ……良い、下らぬ話だが……聞きたいと申すのであれば、語ってみせよう……」
あら、意外にあっさり。
もしかしたら、彼も誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないわね。相手が幼女なら羞恥心やプライドが邪魔することも、変に警戒することもせずに済みそうだし。
そうして、私はユーハさんの長いお話を聞いていったわ。話す声は暗く淀んではいたけれど、口が止まることはなかったわね。きっと溜まっていたものを吐き出したんだわ。
彼のお話を要約すると、こんな感じになるかしら。
ユーハさんは北凛島のライギという小国に仕えていたそうなの。
北凛島と南凛島は幾つもの小国が治める戦国時代的なところがあるって、前に歴史書で読んだわ。そのくせ、いざサンナ以外の地から攻め入られると一致団結して追い払うという特異な価値観があって、まさに前世の日本的列島民族と言えるわね。
ユーハさんはそこそこ名の知れた剣士として、ライギの領主に忠を捧げていたのだけど……二年ほど前に、ある事件が起きたんですって。事件の詳細は端折られちゃったけど、その一件でユーハさんは全てを失ってしまったらしいの。
忠誠を誓っていた主には見捨てられ、親友に妻をNTRされ、一人息子にまで見限られて右眼を失い、挙句に誰からも誤解されて悪者扱いされて……でも優しいユーハさんは誰も恨めず、自分自身と人の世に絶望して、一人流離っているのだとか。
「……つまらぬ話であろう」
「いいえ、そんなことはありません」
ユーハさんは絶望っぷりが三割増しした顔で深く溜息を吐いたわ。
でも、私はそこに好機を見出したの。
彼は今、生きることが辛く、苦しいことだと思ってる。
希望がなくて、裏切られるのが怖くて、でも孤独だから救われない。人との間で負った傷は、人との間でしか治せないものだって、私は身をもって知ってるわ。
だからそう、彼は私が救わなきゃいけないの。私が彼に希望を与えて、前を向かせて、生きる喜びを与えなくちゃいけないのよ!
だって、これが私の生存戦略だからっ!
「ではユーハさん、今度は私の話を聞いてくれますか……?」
「そなたも、斯様なところにいるのだ……何か、訳ありなのであろうな……しかし……某は鈍感で、不器用で、人心を解せぬ薄情者故……上手い言葉を返せぬと思うが……」
幼女相手になに弱気なこと言ってるのよっ!
貴方もう三十過ぎでしょ!?
しっかりしなさいよ!
なんてことはもちろん口にも表情にも出さないで、私は一方的に話し始めたわ。
「実は私、気が付いたらそこに積まれている木箱の一つに閉じ込められていたんです」
「ふむ……?」
「昨日……かどうかは分かりませんが、突然知らない女の人に襲われて、大事な人たちと離れ離れになってしまったんです」
「なんとも面妖な話だが……そなたのような年端もゆかぬ幼子が、然様な嘘を吐くとも思えぬ……」
あぁ、良かった。一応それくらいの判断力はまだ残っていたのね。
「この船は今、ザオク大陸に向かっているんですよね? 私はフォリエ大陸に……プローン皇国に行きたいんです。でも、私はまだ子供で、どうすればいいのかも分からなくて……お願いですユーハさんっ、私をプローン皇国まで連れて行ってください!」
「む、むぅ……?」
ユーハさんは困った顔になったわ。
「しかし……某はもう、ザオクの地で凶悪な化生共と戦い……華々しく散るのだと、心に決めている。すまぬが、別の者をあたって――」
「私にはユーハさんが必要なんです!」
「そ、某が……必要……?」
呆然とした声で呟きながら、ユーハさんは俯きがちだった顔をゆっくりと上げたわ。片目が僅かながらに見開かれ、驚いているのが分かるわね。
「そうですっ、ユーハさんじゃなきゃダメなんです! ユーハさんが優しい人だというのは分かりますっ、私にはユーハさんしかいないんですっ!」
「某しか、いない……?」
私はここでようやく、出し惜しんでいた秘奥義を発動したの。
潤んだ瞳で彼を見上げ、愛らしくも哀切なロリボイスで訴えかけるわ。
「お願いですユーハさんっ、私を助けてください!」
「――――」
ユーハさんは揺らいでいます。
今、彼の心は生まれたての子鹿のようにプルプルと足を震わせながら、懸命に立ち上がろうとしているのが手に取るように分かるわ。絶望の淵で身投げしようとしていた一人の男が、愛らしい幼女に請われたことで死出の旅路を引き返そうとしているのよ。
私は手を伸ばしました。それはもう懸命な様子を装ったわ。
泣き出しそうな顔で、指先を震わせながら、怖々とした挙措で手を伸ばしたの。
「――ぁ」
その手は掴まれました。
大きく硬い手に、力強く掴まれたのよ。
「…………相分かった。斯様に幼き女子が伸ばしてきた手を取らぬほど……腐ってはおらぬつもりだ。某が必要だと申すのならば、今しばらくは生きながらえてみせよう……」
「あ、ありがとうございますっ、ユーハさん!」
私は満面の笑みを彼に見せつつも、口元が嫌らしくにやけないよう、自制するのに必死だったわ。
「うむ……礼は皇国に着いてからで良い」
「はいっ」
計 画 通 り !
フハハハッ、元クズニートとは思えない自分の手腕が恐ろしいな!
半ば賭けぎみでもあったが、上手くいって本当に良かったぜっ!
いやね、俺も初めはどうかと思いましたよ。
でも、ユーハはなかなかの逸材だ。
強さの程は不明だが、北凛島出身で刀を持っている以上、弱いとは思えない。それに、三十過ぎという年齢は若造だと舐められない程度には円熟している。身体的に脆弱な俺を守る庇護者としては絶好の好物件だった。鬱気味なのが玉に瑕だが、それはそれでこうして役に立ってくれた。
なんか誘導というかマインドコントロールしたみたいで罪悪感がないでもないが、甘いことは言っていられない。これもか弱き我が身を守るためなのだ。
それに俺はユーハの自殺願望を抑え込んだのだから、結果的にいいことをしたはずだ。うん、そうだ、俺はいいことをした。その見返りというか報酬として、俺は彼に皇国まで連れて行ってもらうのだ。
「巫女の守護剣士、か……これはこれで、なかなか良いものなのかもしれぬな……」
現にユーハは先ほどよりも少し生気の感じられる顔で、微かに口元を緩めて呟いている。
うんうん、やっぱり俺は間違ってない。目的があれば、人は強くなれるのだ。
俺は幸せ、オッサンも幸せ、誰も不幸になっていない。
めでたしめでたし。
そんな感じで、俺は護衛剣士を手に入れた。
ちなみに巫女というのは魔女のサンナ版らしい。
♀ ♀ ♀
どうやら俺が目覚めたのは夜中だったようだ。
オッサンとアレコレ話した後、一度船倉から出てみた。
両開きの扉を開けて階段を上り、こそこそと甲板上に出てみると、そこには星々の海が広がっていた。闇色の海には満天の星空が鏡映しとなり、幻想的とさえいえる光景が広がっている。これで船上に灯る篝火がなければ、最高の天体観測ができただろう。
と思ったところで、俺はふと気が付いた。
月の存在である。
小さな黄月に満ち欠けはないが、大きな紅月にはある。たしか、あの女に襲撃される前日の晩、紅月はちょうど半月だった。一節ほど前は満月だったので、下弦の月と呼ばれる形だ。この世界の月もだいたい三節周期で満ち欠けすることは既に分かっている。
そして今、星空に浮かんでいる紅月は、俺主観の昨日の形と大差はない。
これは偶然だろうか? 先ほど食べたドライフルーツも、昨日食べたものと比べ、特に味の変化はなかったように思う。いくらドライフルーツが保存食といっても、三節以上の期間が空けば、さすがに味は落ちる。実際、昨日食べたものより、リリオを発った直後に食べたものの方が格段に旨かった記憶がある。
蓄魔石の件然り、身長どころか髪や爪も全然伸びてないことからも、あの襲撃は昨日のことだと見て間違いない。しかしそうなると、一日で港町バレーナ近郊から魔大陸近海にいる事実と矛盾するのだが……ここは魔法の存在する異世界だ。
俺が知らないだけで、転移とかできる魔法があるのかもしれない。実際、リリオで読んだ『姫魔女の遺跡探索』には転移装置の《聖魔遺物》――転移盤のこととか書かれてあったし。
ひとまず俺は疑問を脇に追いやり、潮気を孕んだ夜気で深呼吸してから、すぐに船倉に引き返した。
なにせ今の俺は密航者ということになるはずだ。明日には魔大陸に到着するということは、この船は既に何十日もの航海をしていることだろう。
生憎と、例によってユーハは航海日数を覚えていなかったが……それでも考えるまでもなく、船員や乗客たちは互いの顔を把握し合っているはずなのだ。そこへ急に見知らぬ幼女が現れれば、不審に思われるだろう。
厄介事はなるべく避けるに越したことはない。
というわけで、俺とユーハは船倉で一晩を過ごしていく。幸い、ユーハは鬱状態なので食欲だけでなく性欲も減退しているだろうし、たぶんロリコンでもないっぽいので、身の危険はない。
あったら困る。
「そういえば、ユーハさんはちゃんと許可をもらってここに入りました……よね?」
ふと不安になって一応訊いてみる。
先ほどと変わらず刀を抱えた体勢で座るユーハは、未だ鬱色の濃い顔で首肯した。
「……無論である。どれほど前だったか……船室にいた際、他の乗客から苦言を呈されてな。ちょうど某も一人になりたかった故、特別にここを使っても良いと……船長殿から申されておる……」
「苦言というと?」
「うむ、その者曰く……『お前の顔は辛気くさすぎてこっちまで気分が萎えてくる』ということらしい」
「あー……」
うん、まあ……ね?
ユーハは負のオーラを纏ってるしな。周りの人が、鬱々とした長髪眼帯の小汚いオッサンを遠ざけたいと思う気持ちは分からないでもない。
「ローズは、平気であろうか……?」
「大丈夫です、問題ありません」
気遣わしげに問うてきたユーハに、俺は笑顔でそう答えた。
本当はもう少し明るい顔をしていて欲しいが、鬱の人間を否定するようなことは言えない。オッサンには俺を護送してもらうのだから、せめて俺は彼を立ち直らせてやるのが筋ってもんだろう。
「でも、今後もきっと、また同じようなことを言われるかもしれません。ちょうどいい機会ですから、ちょっと笑顔の練習をしてみましょう」
「む……笑顔、とな……?」
「はい、笑顔です。私の愛しい人も言っていました。辛くて、悲しくて、苦しい時は、笑えばいいと。そうすればユーハさんも元気になりますし、苦情を言われることもなくなって、一石二鳥です」
「笑顔、か……そういえば某、久しく笑っていなかったように思う……うむ、よし、では少しやってみるとしようか……」
ユーハは少し身じろぎして姿勢を整えると、長髪の間から覗く片目を閉じ、深呼吸をした。そしてゆっくりと目を開くと、ぎこちなく表情筋を動かした。
「ユ、ユーハさん……」
これは酷いなんてもんじゃなかった。
落武者が無念さを滲ませた絶望顔のまま頬を上げ、口を三日月型にして、目を細めると今のユーハになるだろう。
もし俺がただの幼女なら恐怖のあまり失禁して失神するレベルだ。
「ローズよ、どうだろうか……?」
自信なさげに評価を訊ねてくるオッサンに、俺は仏の心で接してやる。
「一応笑顔にはなっていましたが、まだまだ精進あるのみです。これから毎日練習していきましょう」
「う、うむ、そうであるか……」
「ユーハさん、笑顔も剣と同じです。日々の鍛錬を怠らなければ大丈夫ですよ」
「剣と同じ……か。そう思うと、なんとかなる気がしてきた……」
一層深く沈みかけたユーハの鬱顔が若干晴れやかになった。
にしても、なんだかんだで気を遣うな……もう一気に鬱の闇から脱してくれないかな。どっかのクズニートみたいに開き直ってさ、人生はもっとハイテンションに楽しくいこうや。
「ところで、ローズはエノーメ語を話しているが……何故、プローン皇国へと向かうのだ?」
「私の養母になってくれる人が、皇国の人なので」
「ふむ……なにやら事情がありそうだな。先ほどから祝詞もなく祈術を使っておるし……ローズは何者なのだ? これからは、皇国への旅路を共にする仲でもある。よければ教えてはもらえぬか……?」
俺はユーハの求めに応じ、簡単にこれまでの経緯を説明した。
帝国の奴隷だったことは話そうか迷ったが、正直に話しておいた。多少のリスクは負うが、秘密は早く打ち明けた方が仲良くなれる。
ただ、エリアーヌやラヴィたちのことはぼかした。皇国の工作員という立場上、彼女らのことは秘しておいた方がいい。なぜか工場を襲撃していた四人組の猟兵……ということにしておいた。
そうして、俺とオッサンの夜は更けていく……。
ちなみに祈術というのは魔法のサンナ版で、祝詞は詠唱のことらしい。
♀ ♀ ♀
どういう訳か、急に気持ち悪くなった。
昨夜はいつの間にか寝オチしてしまい、起きたときには昼前だった。ユーハが船室から出て行き、自分の分の飯をもらってきて俺に分けてくれたので、一緒に味気ない食事をとっていく。
そんなときだ。
外が少し騒がしいなと思っていると、急に嘔吐感めいた気持ち悪さに襲われた。
「ローズ、大丈夫か……? 顔色が優れぬようだが」
「いえ、なんか、急にクラッときまして……それよりユーハさん、外で何かあったのでしょうか?」
なんて話していると、不意に船が大きく揺らいだ。
更に気分が悪くなるが、どうにも少し変だった。しかし何がおかしいのか、自分でもよく分からない。酩酊感にも似た、だが愉快さ皆無な感覚は不快で、未知の感覚に頭が揺さぶられるようで食欲が失せていく。
一方、相変わらず鬱ってるオッサンは俺の疑問に「……うむ」と頷き、何でもないことのように答えた。
「おそらくは、化生共が襲ってきたのであろう……それを護衛の者たちが迎撃しておるのだ」
「その化生って、魔物のことですよね……?」
「うむ。だが、案ずることはない……この船には屈強な魚人を始め、優秀な戦士や術士が何人もついておる……これまで幾度も化生共に襲われたが……悉くを撃退してのけておる……」
この世界には魔物がいる。
それは当然陸だけでなく、海にもいるらしいことは俺も知識として知っている。
「あ、あの、ユーハさん……」
「む、どうした……まことに大丈夫か? 見るからに気分が悪そうである」
その台詞は鏡を見て言ってくれや。
「そんなことより、訊きたいことがあります。この船を護衛している魚人たちの中に、若い女性はいましたか?」
「どうだろうか……たしか、いなかったと思うが……」
「……そうですか、ならいいです」
急を要しないと見て、ひとまず俺は自分に下級の治癒魔法を掛けてみた。
が、全く気分が良くならない。ならばと今度は上級治癒魔法を掛けてみるも、やはり効果なし。食中毒も疑って解毒魔法も試してみたが、無駄に終わった。
……どういうことだ? 俺はいったいどうしたというんだ?
船酔い……ではないはずだ。昨晩も船は多少なりとも揺れていたが酔うことはなかったし、この感覚は船酔いではない。
敢えて例えるなら、ギリギリ可聴域な高音波を断続的に聞かされる感じとでもいうべきか。強力なモスキート音をリズムもクソもない間隔で不意に聞かされ、耳鳴りめいた余韻が引いていくのを待っているときに、また聞かされる。
実際に嘔吐するほど辛くはないが、不快で鬱陶しくはある。
なんなんだこれは……。
だが、しばらくすると未知の感覚は消え去り、次第に気分が元に戻ってきた。
外でも魔物との戦いが終わったのか、船が大きく揺れることがなくなった。
「今回の戦闘は……少し長かったように感じる。おそらく、もうあと数刻で着くのだろう……」
飯を食い終わり、木製のコップでちびちびと水を飲みながらユーハが言った。ちなみにコップは一つしかなかったので、俺のコップは土魔法の応用で自作した。水そのものは水魔法で出せるので問題はない。
「そういえば、海に魔物がいるってことは、港にもいるんですよね? 大丈夫なんですか?」
「……どこの港町も、魚人族の戦士たちが近海を哨戒しておる……無論、船にも魚人族が随行することがほとんどである。ザオク大陸近海の化生は余所の海域と比べ、強力と聞き及んでいたが……どうやら大丈夫だったようである……」
魚人族か。まだ見たことはないんだよな。
リリオからバレーナまでの道中で大小様々な川は渡ってきたが、魚人族はいなかった。港町にはいるだろうから、早く見てみたいな。
「あっ、それとユーハさん。私、船から下りるときはどうしたらいいと思いますか?」
「む……? 普通に下船すれば良かろう」
ユーハは男らしい濃ゆい眉を寄せ、考えるまでもないと即答する。
しかし、自分で言うのもなんだが、俺は目立つ。紅い長髪は人目に付きやすいのだ。
「長い航海で誰も私を見かけなかったのに、急に現れたら他の乗客が不審に思いますよね? 厄介事は避けたいので、なんとか人目に付かず出たいんです」
「……では、適当な荷に紛れていると良い。水夫たちが荷を下ろす際、世話になった礼とでも告げ、某も手伝おう。ローズが入った箱は某が運び……人目に付かぬ場所まで運んだところで、出れば良かろう……」
「そうですね、それでいきましょう」
鬱ってる割りになかなか頼りになるな。幼女を護送するという明確な目的を得て、少し快復してきているのかもしれん。
とりあえず、俺は早々に木箱の中に紛れ込むことにした。俺が元から入っていた木箱へ行き、ユーハに抱えてもらって再び入った。丸い穴が空いてはいるが、穴の直径は五十レンテもない。穴のある面を下にしておけば大丈夫だろう。運ぶときに落ちそうだが、気をつけていれば問題ない。
そうして、俺は暗闇の中で思わず溜息を吐くと、体力温存のために眠っておくことにした。
なぜ魔大陸行きの船に乗ってしまっているのかは不明だが、どんな状況であろうとも、俺は諦念に呑まれず前進する。
それがローズとして新生した俺の生き様だ。