間話 『子想う故の復讐心』
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彼の半生を語るのに、特別な言葉は必要ない。
彼は北ポンデーロ大陸南東部を治めるサイルベア自由国――その更に東部の田舎町に生を受けた。優しい両親と活発な姉、お転婆な妹とやんちゃな弟の六人家族の中で、すくすくと成長した。
特に秀でたところのない彼だったが、両親の優しさと姉の活発さを引き継ぎ、十歳になる頃には近所でも評判の少年となった。
彼自身の努力と、何よりも両親と姉が必死に働いたおかげで、彼は学校へ入ることができた。読み書き計算だけでなく、他大陸の言葉も学んだ。学校には魔法適性のある子供へ向けた簡単な魔法学の授業もあり、適性があった彼は得意属性の下級魔法まではなんとか習得できた。
十三歳の頃、三年に及ぶ学校生活を終えて、彼は就職した。本当は更に上の学校へ進学し、言語学を修めたかったが、進学費用が足りなかった。特待生として学費免除で進学可能な枠もあったが、彼は秀才であっても人並みの範疇に収まる程度だ。やむなく断念し、近くの港町でエノーメ大陸からの商船に対する通訳兼雑用として雇われることになった。
彼は進学できなかったことを悔やんではいたが、自身の境遇を恨んではいなかった。通常、学校へ通えるのは貴族か特に裕福な家庭の子供だけだ。
彼の場合は姉が早々に働きに出て、そこに両親が一層の努力をし、更には食費を削ってまで節約したおかげで、かろうじて入学できたのだ。だから、両親と姉が学費を稼いでくれたように、彼も妹と弟の学費のためにお金を貯めようと思った。
家族の愛情に包まれて育った彼は、真っ当な善人として生きていた。
それから二年。彼は勤勉に働いた。人並みに欲望のある彼は途中で何度も散財しそうになったが、家族のために我慢した。
二年の間に姉は一つ年上の相手と結婚した。家族全員が我がことのように喜び、姉は家を出て夫と二人暮らしを始めた。家族の収入源が一人減ったものの、彼の努力の甲斐があって、妹を彼の母校に入学させることが叶った。
その年、彼は一人の女性と出会い、翌年になって彼女と夫婦になった。
彼が十六歳のことだった。
それから更に二年。
彼が十八歳の頃、妹は無事に学校を卒業し、彼女もまた就職した。その頃には弟も既に学生となっており、弟が入学する際、彼は当然のように入学資金を出した。
彼が二十歳の頃、弟も無事に学校を卒業し、弟は更に上の学校に進学した。彼と妹と両親の援助があってこその進学で、やはり家族全員が我がことのように喜んだ。
そうしている間にも、彼は彼自身の人生を着々と歩んでいた。
十七歳の頃には娘が生まれ、妻と共に満遍なく愛情を注いだ。日々成長していく娘を見ているだけで、彼は己の人生に意味を見出し、この子のために頑張ろうと力強く生きていく。彼にとって家族とは自分自身であり、何物にも代えがたい宝物だ。二人目の子供には恵まれなかったが、既に妻と娘がいて、更に両親や姉、妹に弟が健康に生きているという事実もあり、大して気にならなかった。
しかし彼が二十四歳の頃、勤めていた港町の商館が潰れてしまった。
職を無くし、路頭に迷い、妻と娘に大変な苦労させてしまう。彼は絶望の淵に立ったが、彼がそれまで歩んできた人生は彼を裏切らなかった。
エノーメ大陸からの商船には北ポンデーロ大陸へと届く物資が山ほど積まれていた。その中には手紙もあり、彼は仕事柄十年以上もの間、郵便業者と懇意にしていた。彼の勤勉さと善良さを知っていた郵便業者は彼の失業を知り、彼を郵便業に誘った。
そうして失業の危機を免れ、彼は郵便屋になった。
国内外問わずやって来る手紙を、彼は家々に配達した。休日は全休が節に二回、半休が一回となかなか良い職場で、彼は妻と娘と共に穏やかな日々を送った。
郵便屋になって、三年。
彼は二十七歳の頃、仕事の奥深さを日々実感していた。
人は手紙一つで一喜一憂する。
例えば一通の手紙を女性に届けた際、その内容が猟兵の息子の死を報せるものだった。その女性は手紙を受け取ったときには満面の笑みを浮かべ、その場で開封したのだが……中身が訃報だった。彼女はその場で泣き崩れ、善良な彼は女性に同情して心を痛めた。
例えば一通の手紙を女の子に届けた際、その内容が海外出張していた父親の帰国を報せるものだった。女の子はやはり手紙を受け取ったときに満面の笑みを浮かべ、その場で開封してはしゃぎ回った。もの凄い喜びようで、女の子は手紙を届けた彼に「ありがとう」と何度も何度もお礼を口にした。
港町で働いていた頃から人と関わることの多かった彼は、人の生の多様さを更に深く実感した。日々喜び、悲しみ、怒り、悩み、ときに何もかも投げ出したくなる。そんな経験は誰しもがすることで、誰もが少なからぬ苦労をして生きている。
彼はそんな事実を毎日のように実感しつつ、彼もまた己の人生を歩んでいく。
彼が三十二歳の頃。
ある日、十五歳になる娘の様子がおかしいことに気が付いた。娘は彼の母校を卒業し、弟が進学した学校へ通っている女学生だ。幸いにも娘は特待生になれたので、彼の稼ぎでは到底無理だった進学もなんとかなり、毎日が幸せだった。
彼は娘に訊ねた。何かあったのか、と。
すると、純真な娘は答えた。
わたし好きな人ができたの、と。
彼は筆舌に難い複雑な心境に陥った。惜しみない愛情を注いできた娘がとうとう恋する乙女になってしまった。いや、あるいは遅すぎたくらいだが、それも偏に彼と妻が娘を大切にしてきたからだ。娘は父親っ子で、勉強好きなこともあり、それまであまり異性に興味を持っていなかった。
彼は悲しみつつも、それ以上の喜びをもって娘の告白を受け入れた。
どんな人かと訊ねると、娘は恥じらいながらも嬉しそうに話してくれる。相手は四つ年上の青年で、とても物知りで、格好良くて、優しい人だという。そのくせ職業は荒くれ者の多い猟兵であるという。そんな意外性もあってか、娘は種族の違いなど端から気にした風もなく、紛う事なき恋する乙女となっていた。
彼は妻と共に、当然のように娘の恋を応援することにした。今度家に連れてきなさいと言うと、娘ははにかみながら頷いた。
彼はそれを見て思った。
もし娘に相応しくなさそうだったら張り倒してやる。いやでも相手は猟兵か、それに娘にも嫌われたくない……どうするか。
そんなまさに父親らしいことで思い悩みつつ、彼は家族と共に日々を過ごしていく。
しかし、転機は突然やってきた。
娘の告白から僅か三日後、娘が心を閉ざしてしまった。なんとか原因を聞き出すと、件の思い人――テッドが原因らしい。テッドから無理矢理に犯されて、そのまま相手は行方を眩ましたという。
彼はそれまでの人生で最も激怒し、相手のクズ野郎を探し出そうとした。
だが、何をしても見つからなかった。
本当にそんな男はいたのかと疑問に思うほど、手がかりが全くなかった。猟兵協会の者に訊いても、首を傾げるばかりで要領を得ない。テッドという名前も偽名だったようで意味を為さず、結局娘を傷つけた輩は見つからなかった。
娘は彼と妻の懸命な心療も虚しく、それから間もなく自殺してしまった。
彼と妻は絶望した。彼は必死に心を保とうとしたが、絶大な喪失感は否応なく心を苛んだ。やがて妻の心が崩壊し、次第に夫婦仲が悪くなっていった。
妻は余所に男を作って出て行ってしまい、彼は一人になった。
とはいえ、彼には両親や兄弟がいた。妻と娘を失い、彼は鬱状態の余り仕事が手につかず、退職して実家で療養することにした。両親は昔日と変わらず優しく、彼は徐々に、本当に少しずつだが立ち直っていく。
しかし、得てして不幸というものは立て続けに起こるものだ。
両親が畑仕事の最中、魔物に襲われて亡くなってしまった。
彼の故郷は市壁のない田舎町だったが、自警団と猟兵協会から派遣された猟兵によって守られていた。にもかかわらず、両親は魔物に殺された。それは全くの不意打ちで、自警団も猟兵も気を抜いていたわけではなかった。
魔物という理不尽が起こした、どうしようもなく不幸な出来事だった。
彼は長男として、実家という両親の遺産を相続する。
そのはずだったが、姉が激しく反対した。自分は学校にも行かず、お前のために一生懸命働いて学校に入れてやっただろう。だから遺産は自分のものだ。
活発で優しかったはずの姉がそう主張してきて、彼は何も言い返せなかった。彼の妹も弟も同様だった。学校に入れなかったのは兄弟で姉一人だけだ。姉は彼の身に起こった不幸と無職という状況を当然知っていたが、それでも尚、遺産は渡さないと言われ、彼は再び絶望に呑まれた。
彼は故郷を出た。
既に妹と弟もそれぞれの家庭を持ち、それぞれの人生を生きている。彼は弟妹に迷惑は掛けたくなく、加えて姉の一件もあって兄弟を信じ切れず、なけなしの金で船に乗った。とにかくどこか、遠くへ行きたかった。
彼はエノーメ語を話せる割りに、エノーメ大陸には一度も渡ったことがなかった。ちょうど良いと思い、彼は着の身着のまま、オールディア帝国を訪れた。
彼が三十三歳の頃だ。
それから彼は絶望したまま考えた末、猟兵になることを決意する。猟兵になれば娘を犯した輩を見付けられるかもしれないし、両親は魔物に殺された。
絶望する彼が生きて行くには、憎しみを糧にするしかなかった。
それから彼の猟兵生活が始まった。
十代の頃に習った魔法は卒業してからもたまに使うようにしていたので、腕は錆び付いていなかった。得意属性の初級魔法と下級魔法しか使えなかったが、慣れない剣と組み合わせることで十分に戦えた。
二年もすると熟れてきて、部隊を組んで仕事するようにもなった。
だが、猟兵とは粗雑な連中が多いものだ。どの娼館のどの娼婦の抱き心地が良かっただの、あの酒場の女給が美人で一度ヤッてみたいだの、彼とはあまりそりが合わなかった。むしろ周囲の猟兵たちの粗野な言動は、三十年以上も善良で真っ当な人として生きてきた彼に嫌悪感しか抱かせない。
加えて、猟兵は娘を犯した輩がしていた仕事でもある。いくら仇のためといっても、嫌悪感や苛立ちを抑えられない。心が乱れて、苦しくて、もう生きているだけ無駄だと毎日のように思いながらも、飢え死ぬ恐怖は彼を苛む。
彼は己を不幸だと思っていたが、同時に有り触れた人生だとも思っていた。
この世に不幸な話など腐るほど転がっている。
実際、ちょうどその頃、帝国は隣国のグレイバ王国と戦争をしていた。彼の活動拠点はグレイバ王国とは逆――帝国西部だったが、風の噂で戦災に苦しむ者が大勢いることを耳にしている。
だが、それだって有り触れた、不幸な人生に過ぎない。
郵便屋の経験もあり、彼は彼自身の不幸な半生が取るに足らない有象無象のうちの一つなのだと、そう自覚できるだけの視点を持ってしまっていた。
そんな状況に彼は耐えきれず、とうとう全てに絶望し、諦めた。
もはやこの世に希望はない。何かを希望するから絶望するのだ。喜びがあるから悲しみがあるのだ。楽を無くせば苦も無くなる。
そう諦めきって、感情を消した。彼の顔からは次第に表情も消えていった。
もう娘の仇を探すのも止め、魔物に対しても憎悪は抱かず、ただ淡々と日々を生きていく。
ちょうどそんなとき、猟兵協会ではカルミネという性犯罪者の情報が流れていた。教国に指名手配されるほどの悪人らしかったが、もはや彼は世情などどうでも良かった。もしかしたら娘を死に追いやった者と同一人物なのではないか、という考えは否応なく浮かび上がってきた。
しかし、希望は持たないと決めていた彼は気に留めなかった。
それから一年。彼が三十六歳の頃。
ある種の勤勉さを発揮して、着々と無表情に仕事をこなしていく。
喜びも悲しみもなく、ただただその日を生きていた。
そんなある日、彼のもとに帝国軍から手紙が届いた。
それは勧誘だった。黙々として眉一つ動かさない彼は非社交的で周囲から不気味がられ、いつも一人で魔物を狩るだけの男だったが、ひたすらに勤勉だった。
そこに目を付けられたのだろう。
彼はあまり深く考えず――考えたくもなく、帝国軍に入った。
仕事内容はごく簡単なことだった。帝国の新兵器である魔弓杖を製造する工場で、働く奴隷を監視しつつ工場を守るという単純な仕事だ。
奴隷は幼い女児ばかりだったが、彼の心は動かなかった。女の子の奴隷など珍しくとも何ともない。彼の故郷にも奴隷など当たり前のようにいた。奴隷という存在はそれ以上でも以下でもなく、奴隷なのだ。
以前の彼ならば善良な男らしく、少なからず思うところもあっただろうが、今の彼は心を殺している。
しかし、工場に勤め始めて一期後。
一人の奴隷が同僚の男に突然殺されたのを前に、彼の心は激しく揺れ動いた。
彼は心を殺しきれていなかった。彼の性根はどこまでいっても善良だった。
顔も知らぬ男に娘を犯された挙句に愛する我が子は自ら命を絶ち、妻は余所に男を作って彼を捨て、愛する両親も理不尽に失って、実の姉の暗い一面を思い知らされて絶望した。猟兵となったことで暴力と欲望の日々を生きる連中がいることを実感した。人という生き物がどれだけ薄汚く、欲望に塗れているのか、彼は身をもって知っている。
この世の理不尽さというものに、絶望している。
だが同時に、人の生がどれだけ素晴らしいものかも、身をもって知っていた。
それを不当に奪い去る行いは、彼が最も嫌悪する男――娘を犯して自殺に追い込んだ男と同等以上に最低最悪の行いだ。
彼の表情は既に死んでいる。
しかし、彼の善良な心は、まだ死んでいなかった。
■ ■ ■
身体が勝手に動いていた。
ぼそぼそと詠唱を口にして、倒れ伏す幼子に火をくべる。
「――おいこらイーノスッ、テメェなに勝手に焼いてんだコラ!」
マウロが何か言っているが、知ったことではなかった。
女児の無残な姿は見るに堪えず、また他の子供達にも見せるべきではなかった。
「イーノスおいッ、聞いてんのか!?」
イーノスは炎への魔力供給を絶やさぬように集中しながら、渋々声を返す。
「……死体は、早く燃やした方が良い。病が巣くう」
「早すぎだボケッ、もっとこいつらに見せつける必要があったんだよ!」
ふざけるな、とイーノスは思った。
しかし、この男には何を言っても無駄だろうことは理解している。マウロは悪辣な猟兵のような男で、イーノスの嫌悪する類いの人間だが、この工場では最も偉い。加えて、他の同僚たちにも一定の支持があるため、迂闊には逆らえなかった。
いや、今のイーノスならばマウロに反逆することも可能だったが、彼は機を待つことにした。もし今、これ以上勝手な行いをすれば、マウロは容赦しないはずだ。
「もし次無断で勝手な真似してみろッ、お前にもこいつをブチ込むぞ!」
実際、マウロは苛立ち混じりに足下へ小型魔弓杖の一撃を放ってきた。
が、今は無残に命を奪われた幼子を火葬してやることを優先する。
魔法で焼き続けた結果、マヌエリタという女の子の遺体は白骨だけとなった。
イーノスの魔法力では白骨を灰に変えるほどの火は生み出せない。端から遺骨まで灰にするつもりはなかったとはいえ、奴隷の幼子たちに白骨体を見せてしまったことには心が痛んだ。
マウロというある種の敵性存在により、イーノスの心には小さな火が灯っていた。
「イーノス、その骨はテメェが片付けとけ、いいな!?」
「……わかった」
マウロに言われるまでもなく、イーノスは初めからそのつもりだった。
監視役の連中と子供たちが工場内へ戻っていく中、一つ一つ白骨を拾っていく。上衣を脱いで、それに全ての白骨をくるむと、イーノスはそれを抱えて飛び立った。
工場付近を流れる川の上流方向へと飛んでいき、ちょうど一際大きな木の側に降り立つ。イーノスは丁寧に遺骨を地面に下ろすと、火魔法で太い枝を折り、それを使って地面を掘り始めた。本当は土魔法で穴を作れれば良いのだが、生憎とイーノスの魔法力は並以下だ。適性属性である火の下級魔法までしか使えないため、こうした作業は自らの手で行わなければならない。
汗だくになって大木の根元に穴を掘ると、その中に遺骨を埋め、土を被せていく。イーノスは付近を探し歩いて大きな四角い石と野花を入手すると、それらを墓標と献花にした。
「……おれは、馬鹿だ」
墓を前に片膝を突き、心の底からそう呟いた。
もし仮に、イーノスが全てに絶望し、諦めていなければ、マヌエリタを救えたかもしれない。流されるまま、言われるがまま無感情を装って淡々と行動していなければ、幼き命が失われるような事態にはならなかったかもしれない。
全ては今更の話だ。
しかし、もうこれ以上、子供が死ぬところなど見たくはなかった。
■ ■ ■
その日の夜、イーノスは狩りに出かけた。
夕方頃まで他の子供達の様子はやはり優れず、誰もが怖々と、鬱々と、あるいは無気力な態を見せていた。イーノスは旨いものでも食べれば気が紛れると思い、夜通し獣を探して、明け方近くにようやく狩れた。工場周辺は定期的に魔物や獣を狩っているため、なかなか獲物が見つからなかったのだ。
肉は明くる朝の食事で出してやりたかったが、焼く時間がとれず、やむなく夕食用となってしまった。
「おいおいおいイーノスてめぇ……なんだこれは」
「肉だ」
「んなことたぁ分かってんだよボケ!」
案の定というべきか、マウロが絡んでくる。
「恐怖ばかりでは廃人になる。効果的に運用しようと思うのなら――」
「うっせぞイーノス!」
それっぽいことを言って説得しようとするも、さすがに昨日勝手に火葬した件で既に立腹なのか、マウロは怒り心頭な様子だった。
しかし、そこで思わぬ助け船が入った。
「まあまあ、マウロさん。確かに彼の言うことにも一理ありますよ。それに、これだけの肉だ。僕たちはもちろん、彼女にも食べさせられる。見栄え良くするためには肉をたくさん食べさせた方がいいですよ」
「んなことは分かってんだよ! 俺はな、こいつがまた勝手なことしてんのが気に喰わねえんだ」
ノビオという新入りの青年は人好きのしそうな柔和な顔と声でマウロを落ち着かせた。
「お前は今日、外で寝ろ。メシも自分でなんとかしろ」
「…………」
一発殴られたが、これで子供たちに肉を配ることができると思えば、安いものだった。ただ、マウロたち男共の方が子供たちより取り分が多かったことには複雑な気持ちになった。
しかし、そんなことより、イーノスには心配事があった。
レオナという女の子のことだ。なぜか彼女は今朝方、一人だけ地下の牢に監禁されてしまったのだ。どうにもマウロとノビオが絡んでいるらしいことは今し方の会話で確信できたが、なぜそんなことをしているのかが分からなかった。
その日の深夜、イーノスはマウロの命令通り外で休んでいた。
本当は中に入って地下に行き、レオナと話をしてみたかったが、工場周辺は警備役の連中が見張っている。
マウロの命により、イーノスは中へ入れなかった。
■ ■ ■
だが、その二日後。
普段通り工場内で眠っていたイーノスは音もなく起き出し、地下へ向かった。誰にも見咎められることなく、完成した魔弓杖やその部品の向こう――鉄格子の内側に目的の女の子を発見した。彼女はもちろん全裸で、ワラの上で一人身体を丸めて眠っている。
「すまない、起きてくれ」
「…………」
「レオナ、起きてくれ」
「…………ぅ、ん……ローズ……?」
イーノスの淡々とした呼び掛けに、レオナは寝ぼけた声を上げながら、薄く目蓋を開けた。そうして格子越しにイーノスの姿を瞳に映すレオナ。
彼女は大きく目を見開いて、顔を強張らせた。
「なにもする気はない。ただ、君と話がしたいだけなんだ」
「…………」
格子の前で腰を屈め、両手を挙げて敵意がないことを示すが……如何せん、イーノスの声には友好的な響きが皆無だった。長い間、無感情に振る舞っていたせいで表情にも声音にも上手く感情を乗せて表現することができなくなっていた。
「本当だ、信じて欲しい……なんて今更言えないことは、分かっている。だが、おれは君を救いたい。自分勝手なのは重々承知しているが、おれにはそうする以外、もうできることがないんだ」
「…………おじさんは、かなしいの?」
レオナが恐る恐るといった様子で訊ねてきた。
牢の奥まで後ずさり、身を守るようにワラを抱えている。
「かなしい……そうなのかもしれないな。だが、おれには悲しむ権利なんてない」
「……よくわからないけど、かなしいときは、ないていいんだよ?」
「――――」
「ローズがいってた。わらっていることはだいじだけど、それはないたあとだって」
不思議な女の子だった。
今のイーノスには表情がなく、声だって無機質な響きしか出ない。そもそもイーノスはマヌエリタを殺したマウロの仲間だと認識されているはずなのに、彼女は気遣ってくる。怖がっていることは確かだろうが、同時に微かな優しさが見られた。
子供はときとして本質を突いてくることがある。
それは亡き娘に幾度も経験させられたことではあるが、イーノスは驚きが隠せなかった。レオナという女の子はイーノスの心を見透かし、挙句に同情しているのだ。心優しい幼子であった。
「少し訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「……う、うん」
「どうして君がここに閉じ込められているのか、君は知っているかい?」
レオナは小さく首を左右に振った。
「それじゃあ、何か心当たりでもないかな? 何か大きな失敗をしたとか、他の子たちと違うところがあるとか」
「う……ううん」
もう一度、レオナは強張った面持ちで否定してみせる。
「そうか……ありがとう」
イーノスはゆっくりと腰を上げた。
結局、分かったことといえば、レオナという女の子がとても優しい子だということだけだ。
しかし、イーノスは一つの推測を出せた。
もしかしたら、マウロとノビオはレオナを余所へ売り飛ばそうとしているのではないか、と。それならば肉を前にしたノビオの発言にも納得がいく。レオナは他の女の子たちの中でも非常に整った容姿をしているのだ。
「……………………」
立ち上がったイーノスをレオナは不安げに見つめている。
そんな女の子に対し、イーノスは自らの決意を確固たるものにするため、宣言した。
「君も、他の子たちも、きっと助けてみせる。おれの心が弱かったから、何もかもどうでも良いと諦めていたから、何の罪もない子供を見殺しにしてしまった。もう、あんな酷いことは繰り返させない」
「…………おじさんは、いいひとなの……?」
半信半疑な眼差しを向けてくる幼子に、イーノスは静かにかぶりを振った。
「おじさんは悪くて、弱い人だよ」
■ ■ ■
レオナと話をした翌日。
マヌエリタが亡くなって、四日後の深夜。
イーノスはここ数日の日課となっている墓参へと出かけた。途中、森で木の実や野草、野花を摘んでいき、例の大木の根元にある墓標前に捧げた。
「おれは、どうすればいいんだ……考えても、何も策が思いつかない。マウロの言ったとおり、おれの頭は空っぽなのかもしれない。実際、数日前まで空っぽだった。現実から目を背け続けて、流されるように生きていた……」
イーノスは思わず呟きを溢していた。
亡き幼子にこんな独り善がりな戯言を聞かせるべきではないことは分かっている。どころか、イーノスに墓参をする権利などないことも、重々承知している。
だが、彼は苦しかった。無力な自分が情けなかった。
世の理不尽さを前にしていると、逃げ出したい気持ちで一杯だった。
このまま一人であの工場から逃げ出せば、辛い現実と向き合わずに済む。
しかし、それでは目の前で眠る女の子は何のために亡くなったのだ。彼女の死によりイーノスという男が立ち上がり、他の幼子たちを救い出した。
そんな事実を作り出さねば、彼女の理不尽な死は全くの無意味であり、マヌエリタという女の子が浮かばれない。
「……………………」
しばらくイーノスは墓前で聖神アーレに祈りを捧げ、奴隷の子たちのことを思い、苦悩した。
どれほどの時間が経ったのか。
イーノスはひざまずいていた体勢からゆっくりと立ち上がった。背中の翼をはためかせて飛び上がり、墓前を後にする。
しかし、夜の闇を川の下流方向へと一人飛行しようとしたところで、ふとそれに気が付いた。ちょうど工場のあるだろう場所が赤々とした光を放っていたのだ。
イーノスは嫌な予感がして、全力で工場まで飛び戻った。
上空で滞空しつつ、燃える工場を見下ろす。二階部分にはまだ火の手が上がっていないようだが、一階の窓や出入り口からは火の手がちろちろと覗き見えていた。
「いったい、何が…………ぐっ!?」
ふと右方から何かが飛来し、イーノスは右の翼を貫かれた。
咄嗟に視線を向けると、そこには黒ずくめの翼人がいた。背丈こそ低めに見えるが体格は良く、漆黒の翼が夜の闇に溶け込んでいる。
そこでようやく、イーノスは襲撃という事態に思い至った。
彼は思うように右の翼が動かせず、落下するように高度を落としていくが、敵は容赦がなかった。更にもう一発、おそらくは魔法を撃ち込んできながら、剛速で滑空し、追尾してくる。敵の右手には剣が握られており、イーノスは本能に従って逃げた。
しかし、イーノスの心が本能を拒んだ。
その結果、彼は敵に背中を向けながらも、燃え盛る工場へと突っ込んでいった。落下の勢いと、ぎこちない翼の羽ばたきで流星のように空を堕ちながら、彼は工場二階の奴隷部屋の窓を見ていた。
背後から再び何らかの魔法を撃ち込まれ、今度は左肩をやられた。だが気にせず、更に加速して堕ちていく。
「ヌオオォォォオオオオォァァ――ッ!?」
墜落飛行の勢いを全て乗せ、イーノスは奴隷部屋の窓に嵌められていた鉄格子に体当たりをかました。障害物は呆気なくひしゃげて吹っ飛び、屋内へと転がり込む。痛みに意識が遠のきそうになりながらも、彼は奴隷の女の子たちのことを考えていた。
今の突入で確実に何人かの幼子が怪我をしたはずだ。もしかしたら、殺してしまったかもしれない。そう思うと、おちおち気絶などしていられなかった。
「……ぅぐ、う……が……」
全身が痛んだが、なんとか身体を起こして部屋中を見回してみた。
しかし、そこには六十人近くいた幼子たちが五人しかいなかった。彼女らは部屋の隅に固まっており、満身創痍のイーノスを虚な、あるいは怯えた瞳で見つめてくる。
「な、ぜ……どういう、ことだ……」
他の子たちは逃げ出した。
そう考えるのが自然だが……とてもそうは思えなかった。一階は火の海のはずで、二階から飛び降りようにも鉄格子があった。逃げ場はなかったはずだ。同僚たちが逃がしたという可能性を彼は端から切り捨てている。
ふと、イーノスは部屋の中央あたりに転がる何かに気が付いた。
薄闇の中、目をこらしてよく見てみると、それは人だった。全身が焼けただれてはいるが、苦悶に歪んだ表情が確認できる程度には原型を保っている。体格や顔形を見る限り、おそらくはマウロだろう。既に事切れているようで、ピクリとも動かない。
「一応、忠告くらいはしてあげる」
イーノスが状況の不透明さに困惑しているとき、その声は聞こえてきた。
反射的に振り返ると、そこには女がいた。薄闇の中に浮かぶ長い白髪にすらりと伸びた四肢、整った相貌に映える瞳は蒼穹を思わせ、強い意志の光に満ちている。年頃は判然としないが、おそらく二十歳から二十代半ばほどだろう。
つい今し方まで影も形もなかったのに、いつの間にか見知らぬ女は部屋に残った幼子たちの側に立っていた。
「さっさとここから逃げ出すことね。さもないと、あんたなんてあっさり殺されるわよ」
投げかけられた言葉に反して、女の声音には相手の身を案じている様子が微塵もなかった。
「お前は……何者だ……?」
「あんたの立場でいえば、今の私は敵でもなければ味方でもない。この子たちの味方ではあるけど」
女は素っ気なく答えると、イーノスから視線を外し、腰を屈めて側にいる女の子たちと向き合った。
「それじゃあ、さっきの子たちみたいに掴まって。ほら、おいで」
手慣れた様子で幼子たちに声を掛けて招き寄せると、女は彼女ら全員を抱き留めるように両腕を広げた。
「おい、お前は――っ!?」
イーノスは更に問いかけようとしたが、その相手が瞬きの間に消えてしまった。
白髪の女だけでなく、幼子たちまでいなくなっている。今の今まで彼女らがいた場所には白銀の燐光が名残のように漂っていた。
意味が分からなかった。
しかし、奴隷の子供たちはあの女が連れ去った……のだろう。それが良い事なのか悪いことなのかは不明だが、ここで火の海に飲まれたり、襲撃者に殺されることがないのは確かだ。あの女がわざわざ連れ去った以上、そう簡単に殺すことはないはずだ。
今の光景が夢幻の類いでなければだが。
イーノスは今頃になって、なぜ先ほど襲ってきた翼人が追撃に来ないのか気に掛かった。
しかし、なんてことはない。すぐに理解が追いついた。
あの翼人は工場から逃げだそうとする者を上空から監視していたのだろう。つまり、もうどのみち逃げ場はなく、死ぬしかないのだ。
もう、自分にできることは何もない。
そう考えると、イーノスは身体から力が抜けた。この部屋にいれば遅かれ速かれ敵か火勢に呑まれて死ぬだろうが、もう彼には生きる理由がなかった。
無論、死への恐怖はある。しかし、今のイーノスにはそれに抗うだけの気力など残っていなかった。子供たちが無事ならば、もうこれ以上――
「まだ……あの子がいたか」
イーノスは地下の牢にいるであろうレオナを思い出した。
大半の子供たちは既にいなくなっているが、彼女はどうなっているのか分からない。そう思って立ち上がろうとするも、イーノスの右足は先ほどの突入で骨折していた。
なので、彼は這って行くことにした。
もはや死への覚悟は定まったが、未練は残したくなかった。心残りのない穏やかな終わりにしたかった。
とはいえ、地下に辿り着けはしないだろう。それまでに襲撃者に殺されるか、火の海に呑まれるか……いずれにせよ、これはもはや自己満足に過ぎなかった。
イーノスはそう自分を俯瞰しつつ、身体を動かしていく。
そうして、遅々とした匍匐で奴隷部屋から出ようとしたとき。
再び女の声が聞こえてきた。
「まあ……いいか」
自分に言い聞かせるような口調の呟きに、イーノスは背後を振り返ろうとした。
が、その前に右の翼に痛みが走った。相当無造作に掴まれたのか、先ほど負った傷に響いて、イーノスは思わず顔をしかめた。
「――は?」
一瞬、痛みに目を閉じていた間に、周囲の景色が一変していた。
今の今まで屋内にいたはずだ。しかし、木製の床はやや湿り気のある地面となり、辺りには木々や草花が繁茂し、穏やかな川のせせらぎが耳朶を打つ。
更に、見覚えのある大木が目に付いた。その根元には確かにイーノスの置いた墓石や木の実、野花が見て取れる。
「せっかく助けてあげたんだから、意地でも生き延びなさいよ」
声のした方を見上げると、そこにはやはり先ほど見た女がいた。腕を組み、憮然とした表情で見下ろしてきている。
「それと、私に恩を感じる必要は全くないから、変な勘違いはしないように」
「ここは……お前は、なぜおれを……?」
「……その墓、作ったのあんたでしょ」
独り言のように言いながら、女は大木の根元に視線を転じて柳眉を曇らせた。それは死者を悼む顔ではあったが、同時に自責に耐える者の顔でもあった。
「怪我は治してあげるけど、今晩はここでじっとしてなさい。いいわね?」
「お前は……何者だ? なぜ、こんなことを……」
「いいわね?」
「……わかった」
苛立ちのこもった眼差しで凄まれ、イーノスは勢いに呑まれて頷いた。
「これでもちんたらしてる余裕はないんだから、手間かけさせないで」
女はぶつくさ愚痴りながらも屈み込んだ。またしても翼を握ってきて、イーノスは痛みに呻く。が、すぐに翼どころか全身の痛みが薄れていき、消えた。
イーノスが呆然としつつ上体を起こすと、立ち上がった女と目が合った。深く蒼い瞳には形容しがたい複雑な感情が渦巻いていた。
「私はあんたがどんな人生を送ってきて、どんな経緯であそこにいたのか、どうして途中から奴隷たちに優しくし始めたのか、ほとんど何も知らない。でも、これだけは言っておくわ。あんたがしていたことは、人を苦しめる最低の行いだった」
「…………あぁ」
我知らず頭を垂れ、感情の籠もらない声で首肯するイーノス。
そんな彼の頭上から返ってきたのは、舌打ち混じりの溜息だった。
「ま、せいぜい今後は人に優しく生きなさい」
「……分かった」
女はイーノスの反応に一人小さく頷くと、もう一度大木の根元に目を遣ってから背中を向けた。
「あ……おい」
思わず呼び止めると、女は首から上だけでちらりと振り返った。
「地下にいた子も、連れ出してくれたのか……?」
「ええ」
女は短く答えると、輝く燐光を残して消え去った。まるで今まで話していた相手が全て幻だったのではないかと思うほど、音もなく一瞬でいなくなってしまった。淡い残光も、ややもしないうちに森の闇へ溶け込むように薄れていき、後にはイーノス一人だけが残った。
「……いったい、なんだったんだ」
そう呟く彼の心境は困惑で埋め尽くされていたが、やはり表情は依然として死んだままだった。
■ ■ ■
曙光が夜気が払い、空の闇が瑠璃色に変わる頃。
イーノスは腰掛けていた大木の枝から飛び立った。
あれから彼は女の言葉通り、大木でじっと夜明けを待っていた。本来なら正体不明の女の言いつけを素直に守る必要などない。
しかし彼女には恩があった。恩を感じるなとは言われたが、命を救われたことは確固たる事実だ。イーノスはせめてもの礼として、あの女の言うとおりにしていた。
待っている間、イーノスはこれからのことを考えていた。あの奴隷の子たちを助けるという目的がなくなった以上、彼に生きる理由はない。
とはいえ、そんなことは今更だ。
これまでも、ただ漫然と生きてきた。
これからも、ただ漫然と生きていけば良い……と考えかけたが、イーノスは女から言われたことを思い出した。
『ま、せいぜい今後は人に優しく生きなさい』
人に優しく。
それは難しいことだ。
牢の中にいたレオナのように、まだ世間を知らぬ子供なら、無邪気に人に優しくできる。だが、世の中は単純ではないのだ。人は善意だけを持って生きているわけではない。善意と同じくらい――あるいはそれ以上に悪意も持っている。
自分が傷つけられないために、人に優しくできないことばかりだ。
「……人に優しく、か」
生きる理由のないイーノスは、ひとまずそれを目的とした。
随分と漠然としていたが、何もないよりはマシだった。
飛び立ったイーノスはまず、工場へ向かってみることにした。ただ、一応警戒して低空を飛行し、ある程度近づいたら地面に下りて、徒歩で移動する。
すぐに工場には到着したものの、そこは既に廃屋同然だった。建物自体は半焼といったところか。一階部分は崩壊して圧し潰れ、二階部分は半壊し、もはや人が立ち入れるような場所ではなかった。
イーノスは念のため、生存者がいないか軽く見て回ってみることにした。
無論、周囲を警戒することも忘れない。
ほとんど瓦礫と変わらない建物跡の周りをゆっくりと一周し、生存者の有無を確認していく。が、死体すら見つからない。建物に埋もれてしまっているのだろう。
「……行くか」
と一人呟いたものの、当然のように行く当てなどない。
これからどうしようか、とりあえず早朝の清澄な空気の中を飛びながら考えるか……と、そう思って翼を羽ばたかせたとき、左翼に激痛が奔った。
「ぐっ!?」
反射的に背後を振り返る。
すると、そこには女がいた。
「アンタが飛び立つのが先か、アタシがコレを放つのが先か……試したくなかったら、アタシの質問に答えな」
燃え盛る紅蓮をうねらせながら、獣人の女はまさしく烈火の如き声を浴びせてきた。昨夜に会った白髪の女からは力強い眼差しを感じたが、今まさに相対している女のそれは似ているようで大きく異なっている。
前者からは整調された静かな意気が感じられた。だが、目の前の女は対照的で、身の内で荒れ狂っているであろう気炎を隠そうともしていない。
「まずは確認。アンタはここで奴隷の子供たちを纏め、魔弓杖を作らせていた。そうね?」
「…………あ、あぁ」
イーノスは身の危険を感じ、痛みに耐えながら首肯した。ちらりと左翼を見てみると、一本の短剣が突き刺さっていた。
このまま逃げようと思えば飛び立てるが、傷のせいで迅速には無理だろう。獣人の女は前面以外の周囲に豪炎を待機させている。おそらくは火属性上級魔法だ。翼を動かせばアレが襲いかかってくることは、先の女の発言で分かりきっている。
「そう、やっぱり。じゃあ次の質問。昨夜か、あるいはそれよりも前か……とにかく、ここでいつ何があった?」
「……昨夜、何者かに襲撃を受けた」
「襲撃?」
女は疑念を滲ませた声を漏らし、流麗な眉を大きくひそめた。
大仰な口調や態度の割りに、女の体格はお世辞にも良いとは言えない。あの白髪の女と比べれば優に頭一つ分以上は小さく、どころか並の女性より幾分も小柄だろう。十代半ば程度に見えるが、纏う雰囲気はやけに大人びていて、イーノスは直感的に二十歳以上だと悟った。それでも、年齢はイーノスより軽く十は若いだろう。
火炎による気流のせいか、彼女の短い髪が肩口の辺りで小さく揺らめいている。毛に覆われた三角耳は何者にも屈さぬと言わんばかりに屹立している反面、膝下まで伸びた尻尾は麦束のようで如何にも柔らかそうだ。
「ちょっとアンタ、その襲撃ってのはどういうこと。詳しく話しな」
「詳しくは知らない。おれは襲撃を受けたとき、外にいたからな……ただ、最低でも襲撃者は二人以上いたはずだ」
「それで? ここにいた連中は全員死んだってこと?」
「……いや、奴隷の子たちはある女が助け出した」
イーノスは正直に、かつ淡々答える。
一方、小柄な女は胡散臭そうな目を向けてきながら、首を横に振った。
「奴隷のことなんて聞いてないっての。アタシが聞きたいのはアンタの同僚――野郎共は全員死んだのかってこと」
「……さて、どうだろうか」
上空で翼人が見張っていた以上、そう易々と逃げられたとは思えない。イーノスのように謎の魔法で移動するか、よほどの運と実力がない限り、あの状況を抜け出すのは無理だっただろう。
獣人の女はイーノスの曖昧な答えを責めはしなかった。双眸を鋭く細めて睨み付けてくるが、どこか焦点があっておらず、ここではない何処か、あるいは誰かを見ているようだった。
「不明ってことは、まだ生きてるか。あのクソ野郎が工作員の襲撃如きでくたばるはずがない」
女は口元を歪めて憎々しげに、それでいて喜々とした笑みを溢した。呟く声には狂気に似た何かが込められており、イーノスはやや不審に思った。
「なるほど、だいたい分かった。それじゃあ、これが最後の質問。アンタは同僚の若い男――ノビオって名前の奴と、仲が良かった?」
そのとき、女の周りでうねっていた火炎が一層強く燃え上がった。
イーノスは質問の意図を計りかねながらも、やはり感情のこもってくれない声で淡々と答える。
「いや……おれは誰とも仲良くなどなかった。だから昨夜はおれ一人、森へ行っていたとも言える」
墓参こそ第一目的ではあったが、イーノスは同僚たちと一緒の部屋にいたくはなかったのだ。
「そ、ならいい。まあアンタは如何にも辛気くさいし、人嫌いっぽいからホントだって信じてあげる」
「……今度はこちらから一つ、訊いてもいいだろうか」
「は? なんでアタシがアンタの質問に答――」
「なぜおれにこんな脅しをかけて、話を訊こうとする。お前は何者だ?」
「人の話聞けってのよ……チッ、これだから男は嫌だ」
女は苛立たしげに呟きつつ、現出させていた炎を消した。先ほどは赤々と燃え盛る火勢によって判然としなかったが、女の毛色は黄金に輝く小麦畑のような、素朴ながらも温かみのある鮮やかさを内包した色合いで、実に美しかった。
「答えてはくれないか」
「……アタシはただ、ここにいたノビオって奴を探してるだけ。分かったらさっさと消えて」
「なぜ、あいつを殺そうとする?」
どことなく女が美貌に暗い影を落としたように見えて、イーノスは更に問いかけてみた。女の纏う雰囲気に、何か看過できないものを感じたからだ。
しかし、女から返ってきた反応は怒気を孕んだ侮蔑の視線だった。
「いいから消えろって言ってんのよ。殺されたいわけ?」
「殺されたくはない。だが、なぜかも聞いてみたい」
「……なんなのアンタ、女だからって馬鹿にしてるわけ? アンタもさっき見たとおり、アタシ魔女なんだけど?」
「分かっている」
無表情に淡々と、一切の感情を見せずに応答するイーノスを見て、何を思ったのか。女はさも鬱陶しそうに溜息を吐いた後、これまで常に合わせてきていた視線を逸らし、素っ気なく答えた。
「ノビオって奴が指名手配犯だからよ。捕まえて教国に突き出せば報奨が貰えるでしょ。それだけの話よ」
「あの男が、指名手配犯……そんな話は聞いたことがないが」
「そりゃそうでしょ、ノビオってのは偽名なんだから。他にもオスニエル、カリスト、テッド、イェルク、ヴィート……色々あるけど、あいつの本名はカルミネって言うの」
「…………テッド…………カル、ミネ」
頭が真っ白になった。まともに思考することができず、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。イーノスの意思にかかわらず、これまでの記憶が一瞬のうちに脳裏で瞬いた。
幸せだった数年前、それが一気に崩壊し、絶望の淵に追い込まれた己が人生。
その元凶たる男――テッド。
そしてカルミネという指名手配犯の話。かつて猟兵として活動していた際、何度か耳にした性犯罪者の名。
「――ッ!?」
不意に、なぜか獣人の女は全身を強張らせ、腰を落として戦闘の構えをとった。
しかし、イーノスはそんなこと気にならなかった。
「テッドが、カルミネ。ノビオが、カルミネ。あの男が、カルミネ。それは、確かなことなのか……?」
「そうだけど……それがなんだって言うの」
「…………そうか、奴がテッド……カルミネだったのか」
イーノスはゆっくりと呟き、天を振り仰いで目を閉じた。
荒れ狂う胸中の激情は筆舌に難く、娘を失ったときと同等か、あるいはそれ以上の感情の波に呑み込まれた。
しかし、冷静さを失することはなかった。この数年でイーノスの心は変わってしまった。死んではいないし、義憤に駆られることだってある。それでも、身の内の激情を爆発させる方法は忘れてしまった。
何度か大きく深呼吸をすると、イーノスは女に背を向けた。
「ちょっと、何なのアンタ」
「…………」
もはや女のことなどどうでも良かった。
今のイーノスにはカルミネのことしか頭にない。彼は見るも無惨な工場の瓦礫に近づくと、焼け焦げている木の柱を両手で掴んだ。力んだせいで短剣が刺さったままの翼が痛むが、気にしない。
「なにやってるわけ? まさかそこに生き埋めになってるかもしれない同僚を助けようっての?」
「クズ野郎の死体を探す。それだけだ」
「…………それは、どうして?」
女の声音がやや低くなり、推し量るような響きを持って問いかけてきた。
イーノスは瓦礫を一つ一つどかしていきながら、無機質な声で答える。
「奴の生死を確かめるためだ。死体があれば奴の脳天に刃を突き刺してやる。なければ世界中を探してでも突き刺してやる。もう顔は覚えた。声も覚えた。必ず探し出して報いを与えてやる」
イーノスの心はかつてない憎悪で満たされていた。
人に優しく?
あのクソ野郎にだけはできるはずがない。
そのどす黒い感情の何割かは自らに向けられたものでもある。
娘の仇と何日も一緒にいて、全く気が付かなかった。そのことが腹立たしくて仕方がなかった。自分で自分を殺してしまいたかった。
だが死なない、死ねない。かつてない怒気と屈辱がイーノスに一つの至上目的を抱かせ、その心を奮い立たせた。
しかし、彼の表情はやはり死んだままだ。それは声も同様で、どれだけの言葉を紡ごうと、無機質な声しか生まれない。そんなイーノスの声で、殺意が剥き出しとなった言葉を紡ぐと、それを聞いた者はどう感じるのか。
今の彼にそんなことを考慮する余裕などなかった。
「アンタ、カルミネと前に何かあったわね。話しなさい」
相変わらず、女はどことなく偉そうな声と命令口調で話しかけてくる。
だが、そんな些事はやはり気にならない。
「奴の、カルミネのせいで……エリンは……おれの一人娘は絶望の末に、死んだ。それを機に、おれは何もかもを失った。必ず、奴に報いを与えてやる」
この胸の内の激情を少しでも吐き出してしまわねば、気が狂ってしまいそうだった。しかし、どれだけ言葉にしても胸の淀みは全く晴れそうにない。
それを晴らす方法は一つしかない。
「…………」
女は無反応だったが、イーノスは瓦礫をどかし続ける。かなりの重労働で早くも汗が滲み出てくる。が、彼は身体を動かせば動かすほど、より軽快に動いていくように感じていた。
かつてない目的意識が肉体を奮い立たせていた。
「さっきも言ったけど、奴は死んでない」
傲然と断然する声があまりに不自然で、イーノスは僅かに振り返った。
獣人の女はイーノスを見つめ返しながら、憎々しさを隠しもせず――むしろ表に出しているのか、吐き捨てるように続けた。
「奴はあの聖天十三騎士の一人、《氷鐐の魔女》に襲われても逃げ延びたって噂すらある。そんな奴がこんなところで呆気なくくたばるはずがない」
「……それが、どうかしたのか」
「たしかにそこを掘り返して、奴の死体の有無を確認するって行為は全くの無駄じゃない。でも、そんなのよりもっと有益なことがある」
イーノスは変わらず無表情に女を見つめ、無言で先を促す。
すると、女は一瞬だけ複雑な顔を覗かせ、逡巡するように目を伏せた後、おもむろに片手を腰に当てた。そして人並み以下の矮躯に見合わぬ人並み以上の胸を張り、睨み付けるような不遜な眼差しで言い放つ。
「アンタ、アタシの下僕になれ」
「……………………は?」
そうして、彼は彼女と出会った。