第三十話 『終わりはいつも……』★
リリオを発って、一期と少し。
俺たちは港町バレーナまであと数日というところまで来ていた。
幾つもの丘を越え、町に寄り、川を渡り、魔物を屠り、山間を抜けている間に、季節は夏になっていた。といっても、結構北上したのでリリオほど暑くはないはずだ。いや、それでも暑いことは暑いけどね。たぶん前世の七月頃と同じくらいだとは思う。十年ほど冷暖房全開な部屋に引きこもってたから、実際はよく分からんけど。
案の定と言うべきか、レオナは見つかっていない。
道中、物資補充のために多くの町に立ち寄り、聞き込み調査はしてきたが、収穫は皆無だった。半ば予想していたこととはいえ、実際に空振りの連続を味わってみると、嫌でもテンションは下がる。最近はレオナ捜索もルーチンワーク化してきて、半ば惰性で行っているのが現状だ。
しかし、俺は暗くならない。
後ろ向きな感情など、笑顔が吹き飛ばしてくれるのさ。
「ラヴィ、私をくすぐってくださいっ!」
「ん、また? それじゃいくわよ」
猫耳な美女に後ろから脇腹や脇の下をくすぐられ、俺は声を上げて笑った。まだ幼女だからか身体の各部が敏感で、くすぐられると笑わずにはいられないのだ。
我ながら騒がしくも愛らしい笑い声が、入道雲の浮かぶ青空に吸い込まれていく。あたりは丘状の草原地帯で、ロリロリしい声が彼方まで響いていく。
自分の意思に関係なく手足がバタついてしまうが、馬のヨシロー(俺命名)は特に暴れたりせず、淡々と足を動かしている。初めこそ迷惑そうに身体を揺すっていたが、ヨシローはすぐに慣れてくれた。
「はぁ、はぁ……あ、ありがとう、ございます」
「ローズは元気ですね」
エリアーヌから慈しみの眼差しをいただいた。
俺だって、なにも好きでくすぐられているわけじゃないんだが……
え、いや、ほんとだよ? 決して、ラヴィとイチャイチャできるからとか、実はくすぐられるのが次第に気持ちよくなってきたとか、そんなこと全然思ってないよ、うん。これは負の感情を吹き飛ばすためのおまじないなのだ。
それに俺だってこの一期間、美女と遊んでばかりだったわけではない。
きちんと自己強化にも励んでいた。人目のないときや日が沈んでからは新たな魔法の習得や練習に精を出していた。ちなみに、魔法大全はリリオ出発前に例の書店で売り払ってある。魔法大全だけでなく、『俺様世界周遊記』以外は全て。旅に本はかさばるし、涼風亭に置いておいても誰も読まないらしいので。
魔法大全という教科書はもうないが、馬鹿みたいに読み耽っていたので、内容はほとんど覚えている。それに今は美女二人(とついでに野郎二人)という教師もいるので、問題はない。
まだ習得していない魔法の詠唱と概要を思い出し、ときに指導されながら、魔法の習得と無詠唱化をしている。
「あ~、暇だよなぁ。なんつーか、こういう日は昼寝したくなってくるな。ちょうどそこに良さげな原っぱあるし、休憩していかね?」
「休憩はともかく、昼寝はしたくなるわね。木陰なんかでうたた寝したいわ。ん……ローズ、帰ったら一緒にしましょうか」
「はい」
ま、俺は毎日ラヴィの身体に背中を預けて、馬上昼寝としゃれ込んでるんだが。
ごめんね、ラヴィ。俺だって美女を腕の中で寝かせてやりたいが、如何せん、まだ非力だからできないのよ。
「そのときはエリアーヌ先生も一緒にですよね? 二人とも私が膝枕してあげます」
「ふふ、それは楽しみですね」
翠眼の美女は優しい微笑みを浮かべ、俺の昼寝計画に同意してくれる。
あぁ、美女二人と木陰の下でお昼寝とか……それなんて3Pですか。
「なぁ、もちろんオレも一緒にだよな?」
「――え゛」
「ちょっ、ローズちゃん、『え゛』ってそれは酷いなぁ。ほら、格好良いお兄さんに膝枕されたいだろう?」
「いえ結構です」
「ハハ、そうだろうそうだ――って結構なのかよ!? しかも即答!?」
ロックのアホなノリツッコミにフラヴィは失笑を溢し、エリアーヌはくすりと笑った。前を行くオーバンは黒翼の生えた背中しか見えないので分からないが、たぶん頬を緩めるくらいはしているはずだ。それくらいの反応を予想できる程度には四人のことは理解していると思っている。
「いいもんいいもん……オレは家族と一緒にお昼寝するんだからっ。優しい妻と子供たちがオレの味方なんだからっ! ラヴィとエリアーヌちゃんは独り身同士仲良くしてればいいだろぉ!」
わざとらしく拗ねてみせる二十四歳男ってのは結構キモい。それでもロックが相手だと、なぜかあまりキモいとは思えないから不思議だ。
これも一種のカリスマ――なわけないか。単なる慣れだ。
「アタシはもう独り身じゃないわよ。ローズがいるしね」
嬉しいことを言ってくれるラヴィさん。
以前に聞いたとおり、ラヴィは高貴な実家と縁を切っているため、一人暮らしで当然未婚だ。
「私は結婚したいとは思っていませんから。フラヴィさんやローズ、友人たちがいればそれで十分です」
ちなみに、エリアーヌにはラヴィほど深い事情はなさそうだった。
地方出身で、皇都フレイズで一人暮らしをしているそうだが、基本男嫌いなため彼氏はいない。
うむ、実に結構。
「でもな、エリアーヌちゃん。夫婦とか子供ってのはいいもんなんだぜ。こう、頑張ろうって気になってくるんだよ。ね、隊長?」
「そうだな。孫がいると、なお良いものだ。だがな……ロック」
オーバンは鷹揚と頷きつつも、不意にいつものバリトンボイスを更に低くして、言った。
「娘が嫁に行く覚悟だけはしておけ。どれだけ可愛がっても、いつかは余所の男のもとへ行ってしまうのだ……」
「…………」
呟くように放たれた言葉には計り知れない哀愁が滲んでいた。
俺たちは四人は返す言葉が見つからず、ただ黙っているしかなかった。
オッサンは皇国を発つ三節前に、ちょうど娘の結婚を経験しているらしい。その話をしてくれたときのオーバンは普段通りだったが、このゆったりとした空気のせいか、オッサンも思わず心情を表に出してしまったのだろう。黒翼がいつになく垂れている背中からは負のオーラが感じられる。
そんな感じに港町バレーナを目指して街道を北上していく。日差しは強いが、そのぶん風が気持ちいい。広々とした草原地帯に抜けるような青い空、わたあめのような白い雲。異世界を旅しているという雄大で爽快な気分が心地よい。
しばらく魔物にも遭遇せず、他の通行人ともすれ違わず、俺たちは皇国へ一歩一歩近づいていく。
そうして、また一つ小高い丘を越えようと緩やかな傾斜を上っているときだった。丘の向こうから、一人の通行人が現れた。
彼我距離は百リーギスくらいか。俺のロリアイズは視力2.0かと思うくらい良好なので、相手が女(たぶん美女)だと一目で分かった。
同時に、ラヴィたちの雰囲気が少し硬くなっているのにも気が付く。
「隊長」
「……一旦止まるぞ。向こうが通り過ぎるのを待つ」
ロックはいつもの軽い調子が抜けた真面目な様子で一言呼び掛けると、オーバンもまた普段より三割増しに厳つい調子で答えた。
俺たちは街道脇で馬を止め、美女の接近を見つめる。
オーバンたちが何を警戒しているのかは知らないが、確かに美女は少し怪しかった。なにせ遠目でも分かるほど、美女の長い髪は真っ白いのだ。加えて、顔には黒いサングラスが掛かっている。べつにグラサンを装着した奴は珍しくないが、高価なものらしいので、決して多くもない。
そんなグラサン白髪美女がたった一人で歩いている。
街道を単身徒歩で行く者は多くはないが、たまに見かける。
しかし、女は滅多にない。涼風亭に来たイヴを思い出すが、彼女は相当に珍しいタイプだった。
「……………………」
美女は着々と近づいてくる。
エリアーヌほどの背丈なのが分かり、たぶんまだ二十歳かそこらくらい……と思われる。少なくとも二十代であることは確実そうだ。
「白い長髪、やや上背のある女。しかも武器の一つも持たずにこんな場所を一人で歩いてる……これって偶然?」
「ではない可能性が高い。念のため、全員構えておけ。フラヴィはローズを守れ」
声を落としてラヴィが問いかけると、オッサンは渋い声で指示を出しつつ、馬を下りた。ロックとエリアーヌの二人も続けて下馬する。
「あの、一体どうしたんですか? あの人がなにか? たしかにちょっと変わった見た目だとは思いますけど……」
「とりあえず、ローズは大人しくしてて。何もなければ、それで済む話だから」
四人の間にはいつになく緊張感が漂っていて、俺は疑問を呑み込んで口を噤んだ。
美女との距離が五十リーギスを切る。静かに歩く姿は広大な草原風景にマッチしてはいるが、なぜか妙な迫力を感じる……ような気がする。
四十リーギス、三十リーギスと距離が縮まり、二十リーギスほどになったところで、美女は泰然とした挙措で足を止めた。
立ち止まった美女と俺たちとの間に、やや張り詰めた空気が流れる。
美女の格好は天気にそぐわないものだった。この暑さにもかかわらず、コートめいた裾長の上着を羽織り、膝下まであるブーツを履き、タイトなズボンを着用している。すらりと伸びた脚線が美しく、胸部の膨らみや腰の細さはエリアーヌと同じくらいだと思うが、上着のせいで判然としない。
「……何か用か」
妙に張り詰めた沈黙をオーバンが破り、美女に言葉を投げかける。
だが、声は返ってこない。表情にも変化はない……と思うが、グラサンのせいでよく分からない。
美女は返答の代わりとでも言うように、おもむろにコートの内側に右手を入れた。
「……っ!」
オーバンもロックもエリアーヌもフラヴィも、僅かに肩を強張らせて瞬時に構える。が、美女がコートから取り出したのは、棒だった。
いや……たぶん、アレは柄だ。流線的で洗練された造形の、でもどこか西洋風な意匠も感じられる、剣の柄。鍔があって、握りがあって、柄頭がある。
美女が右手に持った柄をこれ見よがしに突き出すと、唐突に仄明るく輝く白い刀身が現れた。
なんだありゃ、手品か。
「魔剣……」
背後から聞こえたラヴィの呟きには、確かな敵意が表われていた。
俺は場の空気に戸惑いながらも、魔剣という単語が気に掛かった。この世界には魔力を使って様々な現象を起こす道具――魔法具があるという話はルイクから聞いていた。魔剣というのは十中八九、魔法の剣なのだろう。
ということは、あの白っぽい刀身は魔力で形作られてるのか……?
「ヴァジムをやったのはお前か。何者だ、何が目的だ」
オッサンも美女への敵意を隠すことなく、バリトンボイスを低く響かせた。
だが、やはり美女は口を開かない。右手の白刃をサッと一振りし、今度はこちらに左手を向けてきた。
ん、あ?
こちらというか……あの手、俺に向けられてないか?
「え……?」
白い美女の左手の先に、見慣れた白い光弾が形成された。すぐに放たれたそれは一直線にこちらに向かってくる。
しかし、俺にもラヴィたちにも当らない。女が左手を突き出した時点で、俺たちは一斉に動いていた。オーバンは黒翼を羽ばたかせて飛び上がり、エリアーヌとロックはそれぞれ美女へ向かって駆け出す。ラヴィは俺を乗せたまま馬を駆り、元来た道を逆走しようと馬首を翻す。
誰も何も口にしなかった。
四人は迷いのない初動で動き出した。
「ラヴィ……?」
「大丈夫よ、ローズ」
ラヴィは今まで一度も見たことのない真剣な面差しで、俺に目を向けることなく答えた。同時にラヴィはヨシローの鞍に括り付けられていた荷物の紐をグッと引っ張り、鞍から荷をパージした。彼女の視線は先ほどから忙しなく周囲へ向けられ、猫耳はピクピクと動いている。
ヨシローは雄々しい馬脚をかつてないほど力強く躍動させ、緩やかな坂を駆け下っていく。ラヴィの身体越しに首を突き出し、背後を振り返ってみた。
すると、俺の視力2.0な瞳が捉えたのは、空を墜ちる黒翼のオッサンの姿だった。
■ Other View ■
詠唱省略によって繰り出された初級魔法は自身を狙ったものではなかった。
右斜め前方に駆け出しつつ、エリアーヌは冷静にそう見極めていた。
白髪の女の目的は不明だが、初撃で馬上のローズを狙ったことは確かだ。そして、およそ一年半ほど前に皇国でヴァジムを襲撃したのも、おそらくは今まさに視界に捉えている魔女だろう。
この襲撃が偶然である可能性など、エリアーヌの思考には存在していない。
「白刃より疾く奔れ――〈風刃〉」
エリアーヌは腰の細剣を抜剣しながら、下級の風魔法を女へ向けて放つ。
加減はせず、全力でだ。歴戦の戦士であるヴァジムを制した実力は驚異だ。無力化して尋問したいのは山々だが、殺さず生け捕るには相応の危険が伴う。
「灯火は陽炎の如く、闇夜の月下に業炎は息吹く――〈炎流〉」
「鋼鉄さえも撃砕せん、我が一石は一矢を凌ぐ――〈岩弾〉」
同じく地を駆るロックも、宙を駆るオーバンも、エリアーヌと同時に詠唱する。二人ともやはり腰の得物は抜剣済みで、ロックは敵の正面から、オーバンは空中を左手へ旋回しつつ向かっていく。
エリアーヌの放った不可視の刃はまさしく風の速さで宙を奔り、ロックの放った一条の火炎は赤々とうねながら大気を焼いて、オーバンの放った岩弾は音を切り裂き、白髪の魔女へと襲いかかる。
魔法士を相手取った戦闘において、最も重要かつ基本的な戦術はただ一つ。
単に、魔法を使わせる暇を与えないことだ。
魔法の力は驚異的だが、それが揮われなければ問題にはならない。素早く行使できる――詠唱の短い初級魔法、あるいは下級魔法を先制して連続で撃ち込み、敵の詠唱と魔法行使に伴う集中を妨害すれば、敵は容易に魔法を使えない。
たとえ敵が詠唱を省略していようと、魔法を繰る集中力は変わらず必要とされるのだ。攻撃性の魔法が迫り来る事実は少なくない恐怖心を喚起させ、敵の魔法行使を妨害する。故に、魔法士は声をひそめて詠唱することもあれば、威圧のために敢えて声高に詠い上げることもある。
無論、詠唱から攻撃が予測されてしまうため、全てはそのときの戦況と戦術次第だが。
右前方から風刃、正面から火炎、左前方から岩弾。
全て下級の魔法だが、人間一人を殺して余りある殺傷力は有している。並の魔法士ならば、否応なく湧き上がる恐怖心で少なからず意識を乱されるだろう。
しかし、相手はヴァジムを伸した魔女だ。
白髪の女はエリアーヌにもロックにも目をくれず、黒翼で空を切るオーバンを見上げた。女の長い足が力強く一歩前へと踏み出ると、突如としてその足下が隆起する。瞬く間に人の身の丈以上の土塊が迫り上がり、女はそれを足場にして、宙を舞うオーバン目掛けて跳んだ。
無論、それがただの跳躍なら、既に二十リーギス以上の高さにいるオーバンには届かなかっただろう。だが、女は土柱の迫り上がる力に加え、風の加護によって更なる勢いを得ていることを、エリアーヌは見抜いていた。加えて、敵は跳ぶ瞬間に右手を一振りし、いち早く飛来した岩弾を斬り裂いていた。
風刃と火炎は一瞬遅れて到来し、土塊に当たって呆気なく崩壊させる。そのときには女は長い白髪をなびかせながら、高速でオーバンへ迫っていた。
しかし、空中戦は翼人の独壇場だ。女は跳躍したため、足場のない虚空においては行動が著しく制限される。風魔法や闇魔法を使えばその限りではないが、キレのある動きなど当然不可能だ。
既にオーバンは女の軌道上からは離れており、むしろ敵の側面に回って左手を向けていた。
「鎧装砕くは砂塵の結――〈砂弾〉」
女へ向けて、速度重視の初級魔法を放つオーバン。
他方、ロックとエリアーヌは互いの存在に目を向けることすらせず、ここ一年以上で磨かれた連携を最大限に発揮する。
多対一での戦闘において、エリアーヌたちは基本的に初級あるいは下級の魔法しか使用しない。手数で一気に圧すためもあるが、単に一人を倒すのに中級魔法以上の威力は必要ないのだ。
もし中級以上の魔法を使う場合は、他の仲間が初級あるいは下級の魔法で時間を稼いでいるときに詠唱する。エリアーヌたちの間ではそう決められていた。
エリアーヌはロックが初級魔法を使うことを疑いなく信じると同時に、オーバンもロックもエリアーヌが上級風魔法を行使すると信じていることを信じた。
「赤熱せし鏃が煌めきよ――〈火矢〉」
「風化した穢れを塵埃――っ!?」
思わず詠唱を中断してしまった。
だけでなく、意味不明な事態を前に意識が飽和してしまう。
つい今し方までエリアーヌの視界中央にいた白髪の女が、白銀の燐光を残して忽然とその姿を消した。と思ったらオーバンの背後にいて、その背中に女の左掌が叩き込まれた。
「――ッ、グ!?」
微かな白光が弾けてオーバンは低く呻き、彼の身体は錐揉みしながら勢い良く地に墜ちていく。対して、自然落下を始めた女はすぐさまロックに顔を向けると、今度は右手の魔剣を振りかぶり、投擲した。
つい先ほど放たれたロックの火矢は見当違いの虚空へ消え、代わりに回転する魔力の刃が彼に襲いかかる。だがロックは一瞬身体を強張らせながらも、低く身を屈めてそれを躱してみせた。
そして、エリアーヌは確かに見た。
長い白髪を乱して落ちていた女が、やはり淡い光を残して姿を消したと同時、ロックの背後に燐光と共に現れた。彼女は高速で回転する魔剣の柄を難なく右手で掴み取り、やはり左の掌を立ち上がろうとしていたロックの背中に叩き込んだ。
オーバンのときと同様に白光が弾け、ロックも小さく苦鳴を漏らしつつ吹き飛んぶ。彼は何度か草地で小さく撥ねながら転がった末、俯せに倒れてしまった。
「――――」
何をどうしたのか、全く分からなかった。
オーバンとロックに行った攻撃が何かは予測できても、それを為した女の移動法が何かは皆目見当が付かなかった。風魔法や幻惑魔法を使ったようには思えない。戦級の光魔法には視認不可能な速度で移動する魔法もあるというが、敵は足場のない空中から移動してみせた。
まさに一瞬だった。消失と出現が同時に起こっていた。
まだ女の初撃から十数秒しか経っていないにもかかわらず、オーバンとロックが既に地に伏している。
「――ッ」
エリアーヌは腹の底に力を入れ、歯を食いしばりながら眦を釣り上げた。
まだ戦いは終わっていないのだ。呆けている暇など本来絶無であり、何が起きようと常に戦意は保っていなければならなかった。
「凶兆たる風狼よ――〈風速之理〉」
エリアーヌが風の加護を得ている間、女はなぜか微動だにせず、ただエリアーヌをじっと見つめていた。黒眼鏡のせいで表情は読み取れないし、本当に目を向けてきているのかも不明だ。
しかし、白髪の女は確かにエリアーヌの様子を静かに眺めていた。
それが慢心によるものか、何らかの策なのかは分からない。分からないが、エリアーヌにとっては幸運だった。
彼女はとにかく動くことにした。
女の移動法は不明だが、常に動き続けていれば、いきなり背後を取られても回避できる可能性はある。敵が消えた瞬間、背後を主とした全周を警戒すれば、一撃でやられることはない。
「な――っ!?」
それが甘い考えであると、すぐに痛感した。
女の姿が白銀の燐光を振りまいて消失したのを目にした瞬間、疾駆しながら背後を振り返った。が、敵の姿は背後どころか頭上にすら見られない。そう確認して前を向いたところで、ようやく背後に気配を感じるも、全てが手遅れだった。
エリアーヌは吹っ飛んだ。
背中に凄まじい衝撃を与えられ、それが全身にまで響いて、中空で体勢を立て直すこともできない。自ら高速で動いていたせいか、エリアーヌは滞空時間がやけに長く感じられた。
草地を幾度となく転がった末、ようやく止まって仰向けに倒れる。視界は揺らぎ、全身に酩酊感にも似た脱力感を覚えて、満足に動けない。エリアーヌは気絶するとき特有の、自らの意識が深く沈んでいく錯覚に陥った。
「ぅ、く……」
靄がかった視界に敵の姿が映るも、エリアーヌには微かな呻き声を上げることしかできない。
白髪の女はやはり鮮麗な燐光と共に忽然と現れ、側に立って見下ろしてくる。
そこでようやく、敵が初めて口を開いた。
「…………ごめん、エリー」
本来は凛としているだろう声音の苦々しい呟きが、沈みかけの意識に届いた。しかし、もはや深く考えられず、エリアーヌはその言葉に疑問すら抱けない。
ただ、それでも一つだけ、確かに感じたことはあった。微かに耳朶を打ったその声には、惜しみない親愛と懐旧の情が込められていたのだ。
こうして、エリアーヌの意識は途切れた。
♀ ♀ ♀
「ローズッ、危ないから前向いてて!」
いつになく強い語調でラヴィに言われ、俺はオーバン墜落の光景から目を離した。顔を前に戻すと、ヨシローの疾走に伴う風圧をより一層強く感じる。
「……………………」
オッサンが墜ちていた。少し怖い黒翼に、野郎にしては低身長な、でも逞しさの感じられる肉体と厳つい面差し。オーバンの強さは知らないが、ラヴィとエリアーヌとロックを取り纏めていた男が弱いはずがない。
「な、なんで、何がどうなって……」
「疑問は後よ。今はみんなに任せ――っ」
俺が思わず吐露すると、ラヴィはいつもの気怠さの感じられない声を掛けてくれるが、すぐに息を呑んだ。
ラヴィはやはり猫耳を微動させながら、ちらりと背後を振り返る。
「ロック……オーバン……」
呻くように声を漏らし、ラヴィは再び前を向いてヨシローを駆っていく。
その間、俺は唐突な変事を前に思考が乱れていた。これまで結構な期間、帝国内の街道を歩いてきたが、こんなことは一度もなかった。魔物には襲われても、賊徒の類いに襲われたことはなかった。
心臓が激しく鼓動し、全身を脈打つ音が喧しい。前面から吹き付けてくる風と大きく響く蹄の音はどこか遠く聞こえる。時間感覚が狂っていき、一秒が十秒にも、十秒が一秒にも感じられる。
だが、俺はまだ自分が緊張していると自覚できるくらいには冷静だ。そう、冷静さを欠いてはいけない。もはや一年近く前、レオナを助けようと地下の階段で様子を窺っていた俺は冷静じゃなかった。だからアウロラの存在に気が付かなかったし、呆気なく落とされた。
クールになるのだ。
よし、まずは深呼吸から始めてみ――
「ぶはっ、ごはっ!?」
大きく息を吸おうとした矢先にむせてしまった。
しかし、それも無理なき失態だった。
「くっ、エリー……しっかり掴まってなさいローズ!」
ラヴィが叫んだ。
俺は鞍に付いている取っ手めいた握りを両手で握る。
ヨシローの進路上――街道の先には例の白髪女がいた。
いたというか、今さっき不意に現れた。まさに瞬きの間ってやつだ。
もう意味不明すぎて、一周回って落ち着いて受け止められちゃってるよ。
「撃ち出し貫け、玲瓏な氷水は礫とならん――〈氷弾〉」
ラヴィはソフトボール大の氷塊を進路上の美女目掛けて放った。
微妙に冷静になったような気がする俺も、詠唱を省略して魔法を発動する。
「〈氷槍〉」
本当はもっと多く出すつもりだったが、集中しきれていなかったせいか、三本しか出せなかった。それでも俺は三本の氷槍をラヴィに一拍遅れて射出した。
美女との彼我距離は五十リーギスほどだが、現在進行形でぐんぐんと縮まっている。高速で飛んでいった氷塊と氷槍は美女へと真っ直ぐに向かう。
「…………」
グラサン美女は指先どころか口元さえ動かそうとしない。
にもかかわらず、彼女と氷塊&氷槍との間に爆炎が生まれた。紅蓮の焔が膨張するように弾け、俺の視界が赤々とした輝きで満たされようとする。熱波や衝撃が全身を打付けたこともあって、反射的に目をつぶってしまった。
すると、身体が激しく揺さぶられた後、ヨシローの「ヒヒヒィーン」という悲鳴が耳朶を打ち、身体が傾いだ。
すぐに目を開けると、まず映ったのはヨシローの茶色い首と青い空、白い雲。ヨシローは街道から逸れた草地で前足を振り上げていた。
「ローズ、手を放しなさい!」
もう訳が分からず、俺はラヴィの声にすぐさま従った。その直後、背後から俺の細い胴部が両手で抱きしめられ、そのまま俺は宙を舞った。
ラヴィは華麗に着地すると、抱き枕のように抱きしめていた俺を草地に下ろしてくれる。ヨシローは前足を振り下ろすや否や、おっかなびっくりな挙動で明後日の方へ駆け去ってしまった。
街道で発生した爆炎は既に消えていた。中空で発生したため、何にも燃え移らなかったのだろう。美女は長い白髪を微風になびかせ、泰然とした姿で俺たちにグラサンを向けてくる。
俺たちと美女――敵との距離は三十リーギスはあるだろうか。
「…………」
すぐ側のラヴィを見上げると、息こそ乱していないが、額に珠のような汗が幾つも浮かんでいた。普段は眠たげな双眸が険しく細められ、右手は腰の鞘から引き抜いた短刀を握っている。
「なぜ我々を襲う!? 貴様は何者だっ、答えろ!」
ラヴィは臆した様子を見せず、良く響く清冽な声で如何と誰何を投げかけた。
しかし、敵はやはり紅唇を動かすことはなく、返答代わりに左手を向けてきた。瞬きのうちに淡い白光球が形成され、俺たちに襲いかかる。
「伏せてっ」
ラヴィに押し倒された。青い空と白い雲、そして高速で過ぎ去っていった光弾の輝きが視界に映った。
「――――――――」
俺は動けなかった。
ただただ怖かった。
攻撃されるということが――理性なき魔物ではなく、自分と同じ人間から害意敵意あるいは殺意を向けられることが、たまらなく怖かった。高校時代にいじめを経験したことで、奴隷時代に幼女帝から嬲られたことで、人から攻撃されることの恐怖は知ったつもりでいた。
だが、これは違う。
今まさに俺は、俺と同じ人間から生命そのものを直接的に脅かされている。
敵の攻撃を魔法で迎撃したり、防御するといった対処法は思いつけても、身体が動いてくれなかった。まるで錆びたロボットのように身体が軋み、そのせいで思考が飽和して、目に映るものがスローモーションになって硬直してしまった。
「ぁ、あ、ラヴィ……?」
微かな嗚咽すら混じった最高に情けない声で、俺は自らに覆い被さる美女を呼ぶ。すると、ラヴィはほんの一瞬だけ俺と目を合わせ、口元に力強い微笑を浮かべた。彼女はすぐに身体を起こして敵を見据え、笑みの消えた口を開く。
「凶兆たる風狼よ、我に颯爽と駆け――ッ、ァぐ!?」
ラヴィが消えた。いや、吹っ飛んだ。
今の今まで膝を突いて詠唱を口にしていたラヴィが、一瞬で背後に現れた敵に掌底を入れられ、凄い勢いで飛ばされた。
ラヴィは十リーギス以上滞空し、何度か草地をバウンドしながら転がった後、倒れ伏して動かない。
「ぇ、ぁ……?」
ゆっくりと、恐る恐る視線を動かすと、敵がすぐ側にいた。グラサン越しに俺を見下してきている。白髪女の右手には〈魔弾〉と似たような、でも決定的に違う白銀の輝きを放つビームソードが引っ提げられている。奴がそれを一閃すれば、俺の命はそこで終わるだろう。
…………終わる?
死ぬのか、俺?
こんなところで、訳も分からず殺されるのか?
せっかく転生したのに?
まだ一年も経ってないのに?
この世界で何一つ成し遂げてないのに?
レオナだって助け出してないのに?
「……っ!」
ふざけるなと思った。
無限のヘイトパワーが、錆びた身体に油をさした。
俺は焦るあまり上体を起こした体勢で後ずさりながら、右手を例の形にして〈魔弾〉を放った。
会心の一撃だった。
土壇場で放ったものとは思えない速度と威力の乗った魔法だった。
白光弾は女の顔面へ吸い込まれるように命中した。それを目にした瞬間、ちらりとリタ様の御姿が脳裏を過ぎった。
が、そんなトラウマ的一撃が脳漿をぶちまけることはなかった。
「――――」
俺の魔弾は確かに命中した。
無残に砕けたグラサンが女の顔から剥がれ落ちたのだ。
しかし、敵の露わになった美貌には傷一つ付いていない。
「え、ぁ……え……?」
もう、訳が分からなかった。
一瞬で消えたり現れたり、俺の攻撃は効かなかったり、意味不明すぎる。
美女の整った面差しに浮かぶ表情はないが、二つの瞳が無力な俺を軽蔑するかのように見下していた。まるでハエか豚にでも向けるような眼差しだった。
しかし同時に、深く蒼い瞳には直視するのが躊躇われるほどの強い意志が宿っているように感じられた。何者にも屈さない、明確な意志を持った、眩いまでの輝きが見て取れた。
そんな凛然とした瞳から、俺は侮蔑の眼差しを受けている。
動けなかった。
その眼はずっと俺が恐れていたものだった。
前世において、高校も大学も中退した俺は社会の最底辺階級に属するクズだった。何事も中途半端にしかできず、自らの意志を貫く勇気も根性もなく、惰弱な自分を克己することもできないクズだった。
俺はそんな自分に向けられる視線が怖かった。嘲けられ、侮られ、他人から見下されることが一丁前に悔しくて、それ以上に怖かった。
だから俺は引きこもり続けていたとも言える。
だから俺は誰も過去の自分を知らないこの世界で頑張ろうと思えたとも言える。
まだ未熟で当たり前な幼女である俺は、誰からも馬鹿にされない。仮に嘲笑されたとしても、それは三十年も生きている俺の無芸無才っぷりにではないはずだ。誰も俺を転生者だと知らないのだから、そんなことはあり得ない。
そう思えたからこそ、俺は前世から否応なく引き継いだ呪いに屈さず、これまでそこそこ明るくやってこられたのだ。
しかし、俺はいま見下されている。紛れもない蔑視が向けられている。
それだけで、俺は錯覚してしまった。かつてあれほど忌避していた視線を向けられているのだと、そんなありもしない幻想を抱いてしまうほど、女の眼差しは強烈だった。
もはや指一本さえ動かせない。
俺の身体は完全に縛られていた。
他ならぬ、自分自身の心によって。
「…………」
女は心底軽蔑したように微かな溜息を吐き、目を伏せると、右手をゆらりと動かした。
そのとき、
「ロ……ローズ、にげ……て……」
「――ッ!」
微かに聞こえたラヴィの声が、俺の怯懦を一蹴した。自分でも驚くくらい簡単に、自分を縛っていた何かを引きちぎれた。
俺は先ほどから左手に触れていたものを拾いつつ、バネのように立ち上がった。
ここで動けなければ、自分だけでなく、ラヴィもレオナも救うことができない。エリアーヌとロックとオーバンの無事さえ確認できない。
そう思ったら、身体が勝手に動いた。
「うあアァァぁぁアアぁぁあァァ――ッ!」
ラヴィの落とした短刀を両手で構え、俺は女に突撃した。
魔法という超物理の力が効かなくても、鋼鉄という物理なら効くかもしれない。
俺は一縷の望みに賭けた。
もし俺が少年漫画の主人公だったら、敵は都合良く虚を突かれて刺されてくれただろうし、その一撃も有効だったことだろう。
しかし、これは紛れもないリアルだ。
理不尽で、容赦のない、ひたすら無慈悲で過酷な現実だ。
それは異世界だろうと変わることのない真実だ。
「…………え」
刃は敵の身体に届かなかった。
女が魔剣を一閃すると、短刀の刃が根元からぽとりと落ちた。
俺の気勢も根元から削がれ、両手で握る柄を呆然と見下ろす。
そして、逆に敵の刃が俺の身体をあっさりと貫いた。
俺の腹部が、淡く白銀に光る刀身の半分を、呑み込んでいる。
「――――」
今度こそ、頭が真っ白になった。
小さな身体のか細い腹部に埋まるビームソードには現実味がなかった。
前世の最後がフラッシュバックして呼吸が止まった。
なんだ……これ。
今日は俺の誕生日じゃないぞ。
いや、今の俺は誕生日すら知らない。
じゃあなんだこれは、なんなんだこれは。
終わるのか、こんな理不尽に。
突然現れた女に殺されて、呆気なく死ぬのか。
死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
前世の最後には感じなかった圧倒的かつ根源的な恐怖が意識を飽和させた。
もはや痛みも何も感じられない。
声も出ず、息もできない。
そうして、ぐらりと視界が傾ぎ、暗転した。
「弱いお前は、ここで死ね」
軽蔑、憎悪、憐憫。
三拍子が込められた力強くも静かな声を最後に、俺の意識は闇に堕ちた……。