第二十八話 『そして旅立ちへ』
快晴の空には雲一つなく、まだ朝方にもかかわらず、燦々と陽光が照りつけてくる。春とはいえ、リリオ一帯は熱帯的な気候のせいで早くも少々蒸し暑さを感じてしまう。
「あー、なんつーか、元気でなローズ」
そんな日に毛むくじゃらな獣人オヤジに近寄られて、頭を撫でられても暑苦しいだけだ……とは思わないし、思えない。がっしりした体格の割りに人好きのしそうな笑みを見せるガストンを見上げ、俺は頭を下げた。
「長い間、お世話になりました。ガストンさんから教えてもらった北ポンデーロ語は忘れません。この恩はいつか返させてもらいます」
「おう、期待して待ってるぜ。おれのことも、できれば忘れないでくれよな」
「もちろんです」
ガストンと一緒に読み進めた『俺様世界周遊記』。
思い返せば、なかなかに楽しい時間だった。
慰霊祭から約六節。
テレーズを少しだけ理解しても日常に大きな変化はなく、着々と時間は流れていった。俺の日常は勉強勉強また勉強という、実にストイックな日々だった。
リリオに滞在して、二期間六節と少し。
季節は春。何かが始まり、終わる季節。
翠風期第三節のある日、とうとうリリオでの生活に終止符を打つときが来た。
まさに光陰矢の如しという速さだ。
「なんだか寂しくなるね……僕のことも忘れないでね、ローズちゃん」
ガストンに続いて、翼人の若造ルイクは俺の目の前にしゃがみ込むと、悲しげな苦笑を見せた。
「はい。ルイク先生のおかげで、だいぶ魔法が上達しました。もうクラード語も完璧です。ありがとうございました、本当に」
「いやいや、僕なんて、ただ少し教えて、練習場所に連れて行ってただけだよ。ローズちゃんは凄く真面目に努力してたからね」
腰を直角に折った俺の最敬礼に対し、ルイクは困ったように笑いながら応えた。
野郎は謙遜しているが、俺は結構こいつに感謝している。ほとんど毎日、俺のために時間を割いて、嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。この俺の魔眼をもってしても、面倒臭がる様子すら見せなかった。
ルイクという翼人の青年は単純にいい奴だった。
たぶん変態紳士じゃないはずだし。たぶんね。
「はいこれ、乾果。ローズちゃん好きだったよね。たくさん作っておいたから、みんなで食べてね」
「喜んでいただきます」
ルイクから受け取った小包は一抱えほどもあった。大量のドライフルーツは少し重かったので、フラヴィに渡して馬の荷に追加してもらう。
それにしても、俺は毎日厨房に顔を出していたが、こんなものを作っていたなんて知らなかった。サプライズか。
「ったく、あんたはそうやって最後まで甘やかして」
「テレーズ先生……」
熟女の様子は普段と変わりない。神経質そうな細い眼、上背のある身体は背筋が伸び、ハスキーなボイスにはやはり微量の苛立ちめいた感情がこもっている。
俺と目が合うと、テレーズは腰を屈めることなく口を開いた。
「いいかい、ローズ。あんたは頭がいいし、魔女としての才能も……まあ少しはある。でもね、決して調子に乗っちゃいけないよ」
「はい」
「あたしが教えたフォリエ語以外も毎日しっかり復習して、努力を怠らず新しいことも学んでいきな。それと、服もちゃんと着て、男みたいに粗雑な仕草もしないで、食事もしっかりとるんだよ」
「はい、大丈夫です。皇国に着いたら、手紙を出します」
テレーズは心配性だから、ちゃんと安心させてやらないとな。
「当然さね。不義理を許すようには教えてないよ。一期に一回は手紙出しな」
「わ、わかりました」
素っ気なく鼻を鳴らしながら言うテレーズに、俺は思わず苦笑しながら首肯した。さすがテレーズ、感謝するどころか要求してきたよ……。
だが、図々しいとか鬱陶しいとか思ったりはしない。テレーズはデレのないツンデレなだけなのだ。俺のことを憎からず思っているからこそ、心配してくれている。
「ま、せいぜい気をつけて皇国まで行きな。フラヴィ、ちゃんとこの子に飯食わせるんだよ」
「はい、テレーズさん」
フラヴィは真面目な顔でしっかりと頷いた。
この二期以上を経て、フラヴィは少し変わったように思う。
俺がリリオに滞在中は六節に一回ほどの頻度で計四回、フラヴィには会っていた。だからか気付くのが遅れたが、以前と比べると全体的に無気力な感じが薄まったように感じるのだ。表情は相変わらず気怠そうではあるが、以前よりも少し覇気が感じられる。
「さあ、もうとっとと出発しな。あんまりぐだぐた引き延ばしても時間の無駄さね」
「だな。オーバン、ロック、エリアーヌ、フラヴィ、ご苦労だった。とりあえず、お疲れさん」
ガストンが一人一人に目を向けて告げると、少し逞しいDQN顔になったロックが間抜けた面を見せた。
「あれ、どーしたんすかガストンさん、急に名前で呼んで。いつもの若造って呼び方は…………ハッ!?」
ふと野郎はわざとらしく息を呑むと、大げさに天を仰いで目頭を押さえた。
「さてはガストンさん、最後くらいは名前で呼んでやろうっていう気遣いを……そんな、いいのに……むしろ最後だからこそ、いつもみたいに若造って呼んで欲しいのに……っ!」
「アホか、なに勘違いしてんだ。しっかりとやることをやってみせたお前を、もう若造なんて呼べねえからな。お前はもう立派な男だぜ、ロック」
「…………ガストンさん」
獣人オヤジの衒いの無い言葉に、ロックは真顔になって「ありがとうございます」と頭を下げた。少し声が湿っていたが、ロックの名誉のために、そんな風には聞こえなかったことにした。
まったくガストンめ、最後の最後でいい演出しやがって……そんなこと言っちゃ、もう冗談でもロックをDQNだなんて思えないだろうが。
「それでは、そろそろ行きましょうか」
エリアーヌの一言を皮切りに、男女四人はそれぞれの馬に跨がる。
俺も騎乗するため、ルイクに抱えてもらおうとしたが、ふと思い立って踵を返した。テレーズとすぐ近くで真正面から相対すると、彼女は訝しげに眉を寄せる。
「ん? なんだい、さっさと馬に乗りな」
「テレーズ先生、最後に私の頭を撫でてもいいですよ?」
「…………あ?」
思えば、俺はテレーズに撫で撫でされたことが一度もなかった。
ガストンもルイクも、宿にいる他のオッサンオバサンたちも最低一回は俺の頭を撫でてきた。しかし、テレーズからはただの一度もされたことがない。
だからどうしたって話だが、なんとなく心残りだった。それに、テレーズだって実は俺を撫で撫でしたかったとか思って……るわけないか、さすがに。
「…………」
テレーズは珍しく数瞬ほど呆然とした顔を覗かせていたが、すぐに表情を引き締めて、フンッと鼻を鳴らした。
「しょうがないね。撫でて欲しいならそう言いな。素直じゃないね、まったく……」
とか憮然とした声で呟きながら、テレーズは俺の小さな頭をぎこちなく撫で回す。
彼女の撫で方は明らかに手慣れてなかった。どこか恐る恐る、壊れ物でも触れるように、ゆっくりと撫でてくる。
「……………………」
ひたすらに撫でてくる。
無言で俺を見下ろしながら、微妙に口元を緩めて撫で回してくる。
ん……? え、まさか笑ってんのか?
い、いや、でも、そんなまさか……
「あの、テレーズさん、そろそろいいんじゃないですか……? オーバンさんたちも待ってますし」
「――っ、わ、分かってるよ! あたしはただローズがして欲しそうだったから、仕方なくやってただけさねっ」
テレーズはバッと手を放し、ルイクを眼光鋭く睨み付けた。おかげでルイクがちょっとビビって引いちゃってるよ。
俺は改めて若造に引き上げてもらうと、美女の前に座った。この馬上の位置と眺め、背中の体温……久々だ。
「んじゃな、お前ら。旅の無事を祈ってるぜ」
「皆さん、お元気で」
「怪我と病気だけは気をつけな」
三人それぞれの言葉を受け止めて、俺たちは涼風亭を出発した。
朝方の賑わい始めている通りを進む最中、ちらりと振り返ってみると、三人は宿の前に立って俺たちを見送ってくれていた。
♀ ♀ ♀
そうして、フラヴィとのイチャラブタイムが始まる。
「こうしてフラヴィ先生と一緒に馬に乗ってると、なぜだか安心します」
「ん、ありがと。あたしも、前にローズが座ってると、なんか安心するわ」
フラヴィは俺の側頭部に顔を寄せ、身体を密着させてくる。
まるで恋人同士のように甘々な状況である。
まさか美女とこんなやり取りができる日が来るなんて……
現在、俺たちはリリオの町を出て、街道を北上している。舗装された道は広く、盤石だ。カッポカッポという懐かしき馬の足音をBGMに、美女とのイチャラブタイムは続く。
「フラヴィ先生、そういえば私って、皇国のフレイズという町に住むことになるんですよね?」
「ええ、そうよ。プローン皇国の首都、皇都フレイズね。あたしの家もそこにあるから」
「オレの家もあるぜっ」
図々しくも、前を行くロックが俺たちのラブラブトークに乱入してきた。
「あんたには訊いてないでしょ」
「なんだよ、堅いこと言うなよな。オレもローズちゃんと話したいんだよぉ。あぁ、ジルとニノンは元気かなぁ……」
俺と話したいとか言いながら、結局は息子と娘を想い始める二児の父ロック。
ちなみにロックの息子ジルは今年で五歳、娘ニノンは四歳らしい。やはり俺を通して我が子を思い出しているのだろう。
うん、どうでもいい。
「あの、それでフラヴィ先生、フレイズまではどのくらい掛かるんですか?」
「リリオからだと、そうね……二期くらいかしら。ね、エリー?」
隣で馬首を並べる翠眼の美女は、やや逡巡するように間を置いた後、小さく頷いた。
「そうですね。急げばもっと早く着けますが、帰りはそれほど焦る必要はありませんから。ローズはまだ小さいですし、身体に負担がかからない程度に、ゆっくり行けばいいでしょう」
「すみません、私のために」
「子供はそんなことで謝ったり遠慮しなくてもいいのよ。ローズはもっと甘えることを覚えた方がいいわね」
やめてフラヴィッ、私を誘惑しないで!
俺が甘え出したらどうなるのか、フラヴィは分かっていない。あんなことやこんなことはもちろん、そんなことまで要求されては、さすがのフラヴィも俺を鬱陶しく(気持ち悪く)感じるだろう。
フラヴィから嫌われたくはない。
今後は俺の鋼鉄の自制心が試されるな。
それより、あと半年ほどで俺は美女騎士に出会えるのだ。
しかも専属である。俺だけの、俺のためだけの、美しく凛々しい女騎士。
俺はまだ幼女とはいえご主人様なのだから、ナイトなお姉さんにアレコレと命令できるはずだ。
それなんてエロゲですか。
ふぅ……逸るな、落ち着け俺のリビドー。
「具体的な旅の道筋としては、どうなってるんでしょう?」
気を取り直して訊ねてみると、美女二人が優しく解説してくれた。
やはりフラヴィとエリアーヌと一緒にいると、なんか安心するな。
さて、まずリリオを発った俺たちは北上していき、エノーメ大陸北部にあるバレーナという港町を目指すそうな。そしてバレーナから船で海上を進み、一旦クライン島に入る。食料などの物資補充のための寄港ではなく、船を乗り換える必要があるのだ。一応、その理由を訊いてみたところ、
「基本的に、帝国と皇国はクライン島を間に挟んで貿易するからね。クライン島は位置的にちょうど両国の間にあるし」
クライン島はバーソルト自治領とも呼ばれる。
歴史書によれば、彼の島はフォリエ大陸とエノーメ大陸に挟まれているため、古くから両大陸の国々で奪い合っていたらしい。光天歴に入り、プローン皇国が興ってからは皇国の土地となっていたそうだが、その立地上の問題から国際的な政治問題が多発し、まずは皇国の属領となって、やがて自治領となったそうな。
現在はプローン皇国、スタグノー連合(を構成する三国)、オールディア帝国という三大勢力の緩衝地帯であり、交易地点にもなっているとか。
ちなみにクライン島の標準言語は地域によって異なる。基本的に北部はフォリエ語で、南部はエノーメ語だが、商人が多いためサンナ語やアーテル語などの言葉も使われることが多いらしい。
帝国から皇国への直行便は存在しないため、まずはクライン島で下船し、皇国行きの船に乗り換えるというわけだ。クライン島からはフォリエ大陸南東部――プローン皇国のオライヴという港町へ行き、そこから皇都フレイズを目指す、という旅路になるらしい。
尚、港町オライヴは皇国領なので、目立つことを気にせず翼人タクシーで一気に皇都フレイズまで向かえるそうだ。やはり翼人は移動手段として非常に便利そうだし、俺の専属騎士は翼人にしよう。そしてナイトなお姉さんの柔らかさを堪能しながら、空中散歩を楽しむんだ!
「そういえば、海は楽しみですね。船も早く見てみたいですし」
「……そ、そうね」
「どうかしたんですか?」
硬い声で相槌を打ったフラヴィが気になって、肩越しに様子を窺ってみた。
猫耳の美少女は珍しく耳を垂らして苦い顔を見せている。
「ははっ、ラヴィは船が苦手なんだ。すぐ酔うから、こいつ」
「うっさいわね。誰にだって苦手なものの一つや二つあるでしょ」
なるほど、フラヴィは船酔いしちゃうのか。
うーむ、俺が酔ったら膝枕して介抱してもらおうと思ったのに……。
いや、ここは逆転の発想だ。
「フラヴィ先生が酔ったら、私が膝枕してあげますね」
「ん~、ローズは可愛いわねぇ。そのときはお願いね」
ちゃらららーん。
ローズは美女を膝枕する権利を得た!
「もし私が酔ったら、エリアーヌ先生は膝枕してくれますか?」
「ええ、もちろんです」
ちゃらららーん。
ローズは美女に膝枕される権利を得た!
ふははっ、チャンスは自分の手で掴み取る。
もはや全てを諦め流され生きるクズニートな俺ではないのだよ。
「ところでローズ、リリオでの生活はどうだった?」
「はい、充実した毎日でした。たくさんのことを学ばせてもらえて、感謝しています」
「ジジイたちから聞いたわよ。クラード語もエノーメ語もフォリエ語も北ポンデーロ語も、どれもちゃんと読み書きまでできるようになったのよね。基本魔法は上級まで一つずつ以上覚えて、あたしが教えた水の特級魔法まで使えるようになったのよね? しかも上級まで詠唱省略もできるっていうし、ほんともう凄すぎて笑えてくるわね」
フラヴィは言葉通り少し笑いながら、でも相変わらず気力の薄い声でそう言った。だが直後、やや寂しげに声を落として続ける。
「この分だと、もうアタシがローズに教えられることなんて、ほとんどないわね」
「そ、そんなことありませんっ。言葉や魔法だけじゃなくて、もっと色々なことをフラヴィ先生からは教えてもらいたいです!」
「ん、ありがとローズ」
優しい声で言いながら、後ろから頭を撫でてくるフラヴィ。
「でも、そろそろ先生はやめた方がいいかもね」
「え……?」
そ、そんな、フラヴィは俺の先生だよっ、猫耳美人教師だよ!
これでツインテだったら……あぁいや、それはもう気にしちゃダメだ。
フラヴィ先生とのお約束だ。
「いえ、そういう意味じゃなくて、もう家族になるからね。なのに先生っていうのも、おかしいでしょ」
「――あ」
「これからは……そうね、ラヴィでいいわ。お母さんとかママでもいいけど、さすがにちょっと実感わかないからね。ローズが呼びたければ、そっちでもいいけど」
フラヴィは僅かに頬を赤らめ、気恥ずかしそうに微苦笑する。
その姿を見て、俺は遅まきながらに実感した。
あぁ、俺は彼女と一緒に生活していくことになるんだな……と。
「い、いえ、それじゃあ……ラヴィって呼ばせてもらって、いいですか……?」
「ん。改めてよろしくね、ローズ」
フラヴィ改めラヴィは、俺の肩に顎を乗せて、至近距離から微笑みかけてきた。
ラヴィは喜怒哀楽こそ普通にするが、表情にはそれほど表れない人だ。その微笑もいつも通り薄くて、ぱっと見では笑みだと分からないだろう。しかし、俺は彼女の微笑みをしっかり見分けられた。
笑顔。
俺の中で笑顔といえば、レオナだ。
三期以上経った今でも、俺は彼女の悲痛な笑みを鮮明に覚えている。
奴隷時代、俺はレオナの笑顔がどういったものか、見分けられなかった。俺の目が曇っていたのもあるが、彼女の"本当の笑顔"を見たことがなかったからだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします、ラヴィ」
俺は心情を表に出さず、微笑んでみせた。
たぶん上手く笑えたはずだ。
「いやー、にしてもラヴィに家族か……なんかこう、感慨深いな」
ふと前を行くロックが振り返り、いつになく優しげな眼差しでラヴィを見て、しみじみと呟いた。
「感慨深いって、どうしてですか?」
「だってなぁ、こいつ実家と縁切ってるし」
「――え」
ロックの面からラヴィの美貌に視線を戻してみると、彼女は普段通りのやや気怠げな表情を若干しかめていた。
「まったく、なに勝手に言ってくれちゃってんのよ……」
「なんだよ、こういうことは早めに打ち明けといた方がいいだろ?」
「物事には順序ってもんがあんのよ。アタシが家族と上手くやれない奴だって勘違いされちゃうでしょ」
ラヴィはロックを一睨みしてから、俺に微苦笑を向けてきた。
「あー、その……ん、そうね。いい機会だから話しておくけど、確かにそいつの言うとおり、アタシは実家と上手くいってないわ」
「でもなローズちゃん、勘違いしないでやってくれよ。こいつが悪いわけじゃねえんだ」
べつにラヴィが悪いとは思っていないが。
事情だって知らないし、なにより俺も前世では家族仲が最悪だった。
「あの、どういうことですか?」
「……まあ、詳しくはもっと大きくなったら教えるわ」
少し逡巡したように間を置いてから、ラヴィはそう言って俺の頭を撫でてきた。
なんだろう、子供には聞かせられない類いの話なんだろうか? 経験則から考えれば、家族と不仲になる事情なんて色々複雑でドロドロしてそうだし。それにラヴィの顔を見る限り、あまり話したくはなさそうだ。
「分かりました、いつか聞かせてください」
「ええ、いつかちゃんと話すわ。ごめんね、なんか隠し事してるみたいで」
「大丈夫です」
なにせ俺だって転生者だってこと隠してるしね。
まあ、仮に話したとしても信じてもらえないだろうが。
「ん、でも、そうね……」
少し気まずくなった空気を振り払うように、ラヴィは珍しくおどけたような微笑みを覗かせた。
「そのアタシの実家が皇国貴族だって言ったら、意外?」
「…………意外、です」
今明かされる衝撃の真実。
まさかラヴィが貴族令嬢だったなんて……。
あ、でも実家とは縁切ってるらしいから、もう貴族じゃないのか?
「ま、いま話せるのはこれくらいね。あぁ、そういえば皇国での貴族と魔女の関係って、まだ話してなかったわよね? いい機会だから、少し説明しておきましょうか」
そうして、ラヴィはもうなんでもない事のように話を続けてくれた。
正直、色々と気になりはするが、今はまだ知らなくてもいいだろう。ラヴィの言うとおり、物事には順序ってもんがある。互いのことはこれからゆっくり分かり合っていけば良いさ。
異世界における、春。始まりと終わりの季節。
俺たちはアレコレと話をしつつ、青々とした草原を走る街道上をのんびりと歩いて行く。
♀ ♀ ♀
俺がリリオに滞在している間、ラヴィたちは各地を回って仕事をしていた。
ラヴィは俺の要望通り、町々でレオナのことを訊いて探してくれたそうだが……
結果は、案の定というべきか。情報の欠片すらなかったという。
俺はスタディデイズの間、レオナのことをあまり考えないようにしていた。いや、寝る前にレオナの歌は欠かさず歌ってはいたが、一日の間で彼女のことを想っていたのはそのときくらいだ。レオナのことを想い、その現状を想像すれば、無限のヘイトパワーは湧き上がってきたが、それ以上に罪悪感もあったからだ。
あのとき、俺は力及ばず、助けられなかった。
そのせいでレオナは酷い目に遭うかもしれない。
いや、確実に遭う。
そうした考えが俺を苛み、鬱の闇に引き込もうとしてくるのだ。
とはいえ、時間と距離というものには、良くも悪くも容赦がない。遠距離恋愛というやつも、こんな感じなのかもしれない。
俺は次第にレオナを助ける、助けるのだと、自分に言い聞かせるようになっていた。正直、熱心に魔法やら言語を学んでいたのは、大部分が知的好奇心によるものだった。
無論、今でもレオナのことは助けたい。そういう想いは確かにあるが、奴隷時代末期や初級魔法を教えてもらった頃ほど、想いは強くない。
たった二十四節、されど二百四十日という時間と、リリオでの平和な日常が、俺の意気を着々と削いでいた。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったものだ。
俺はこれからプローン皇国という、おそらくは安住の地へと向かう。そこで過ごす時間で、あるいは皇国への道中だけでも、残る俺の想いは更に磨り減り、いつか消え去るだろう。
――ま、いいか。
――もう俺にはどうしようもできん。
――あのときだって、俺はまだ三、四歳の幼女だったんだ。
――助け出すなんて不可能だった。
――きっと事情を話せば、みんな俺に言ってくれるだろう。
――ローズは悪くない、ローズは何も悪くない。
――というか、そもそもレオナは俺が生きていることを知っているのか?
――俺が助け出すと彼女は期待しているのか?
――もうレオナは俺を過去の人としか思ってないんじゃないのか?
そう思って、言い訳して、俺はレオナを忘れるだろう。
きっと、いつまでも拘っているのが馬鹿馬鹿しくなる。
レオナのことが引っかかって、俺は日常を謳歌できない。
そのことに苛立ちを覚え、やがて俺は彼女のことを逆恨みするかもしれない。
自分のことは、よく分かっているつもりだ。
人間ってのはたいてい身勝手なもので、凡人たる俺もその例に漏れない。
俺にはどうしようもない。
レオナ捜索の旅をしようにも、俺はたった四歳くらいの幼女だ。魔女だから上手く世渡りすればどうにかなるかもしれないが、《黄昏の調べ》という危険もある。帝国という国家に保護してもらって協力を仰ごうにも、信用できないし、今更ラヴィたちは裏切れない。
そもそも、クイーソでラヴィたちに保護してもらった時点で、俺はほぼ詰んでいたのだ。レオナのことを本当に想っていたのなら、自身の安全もリタ様の無念も顧みず、帝国という国家に付くべきだった。
今の俺にできることは無事に皇国へ行き、そこで力と知識を身に着け、この身体が成長するのを待つ。その後、改めて世界へ飛び出し、レオナを探すことだ。
その間における俺一人の罪悪感や葛藤は状況に何の影響も与えない。
悩むだけ無駄なのだ。
昔、どこかの誰かが言っていた。
過去を断ち切れば、自由だと。
俺はもう、自由になってもいいんじゃないのか?
前世のことも、奴隷時代のことも、一切合切全てを断ち切り、俺はローズとして完全に新生する。それでいいんじゃなのか?
せっかくの新しい人生だ。何のしがらみもなく、ここらで一旦まっさらな自分になってみるべきなんじゃないのか?
……とは思っても、結局、俺は俺なのだ。
そういった考えを抱く俺は過去の経験によって作られた。過去をどんなに疎もうと、人はそれから逃れることはできない。
俺が漫画やアニメやRPGの主人公なら、思い悩みながらも、結局は素晴らしい機転と決断力と行動力と主人公補正によるご都合主義で問題を解決するだろう。
だが、俺は元クズニートなのだ。
それは事実で、俺という存在の揺るぎない過去だ。機転も決断力も行動力もあれば、前世でもっと上手くやれていたし、主人公補正など期待できない。
異世界に転生したからといって、急に物語の主人公のように、何もかも上手く物事は運べない。
世界は理不尽なのだ。俺は弱者なのだ。
ラヴィたちに保護されている現状からして、既に奇跡的なのだ。
レオナは助けられない。俺にはどうすることもできない。
少なくとも、あと十年はレオナと再会できないだろう。
いや、俺が完全に諦めてしまえば……一生か。
俺はきっと、良くも悪くも一生レオナを忘れられない。
純粋に彼女を助けたい、一緒にいたいという想いとは別に、罪悪感という後ろ暗い感情はどうしても拭いきれないのだ。
しかし今の俺には、せめて悶々と苦悩し続けて、彼女のことを少しでも忘れないように想い続けるくらいしか、できることはない。