間話 『それでも運命は廻っている』
今後たまに挟まれるOther Viewはサイドストーリーです。
丸々一話がOther Viewのときだけ間話と題します。
■ Other View ■
キシュは幼い身体で海沿いの丘を駆け上がり、探し人を見つけた。
しかし相手に声を掛けられず、その場に立ち尽くしてしまった。
断崖絶壁の草地に腰掛けて、一人の女性が壮美な風景に臨んでいた。
西日が空を朱色に染め上げ、海原は鮮麗に煌めいている。斜陽で紅に染まった長髪を潮風になびかせながら、キシュの知らない言葉で歌をうたっている。
凛々しい横顔に影を落とし、儚げな雰囲気を漂わせて、綺麗な歌声をゆったりと風に乗せて響かせていた。
「――――」
その姿に見とれてしまい、キシュは息を呑んで呆然としてしまう。
なにせキシュの一族にとって、その女性は神と敬うべき偉大な存在なのだ。ただ声を掛けるだけでも躊躇われる崇拝すべき人が、その成熟した美貌を絶景で彩り、物憂げな顔で一人黄昏れている。
無粋な真似などできなかった。
そうこうしているうちに、女性は歌をうたい終えたのか、静かに一息吐いている。そして未だ動けずにいるキシュへと、夕焼けの大海から視線を転じて声を掛けた。
「何か用?」
「ぁ……は、はひっ!?」
キシュは突然のことに身体を強張らせ、上ずった声を漏らす。無礼な己が対応で頭の中が真っ白になり、先にも増して身動きが取れなくなってしまった。
女神そのものな女性は苦笑を浮かべ、おもむろに手招きをした。
「こっちに来てくれる?」
キシュは言われるがまま、極度の緊張状態に陥りながら側に寄った。
だが女神から「もっとこっち、隣に座って」と言われてたため、まともに考えることもできないまま、彼女の真横に正座した。すると、優しい手つきで頭を撫でられ、キシュは思わず女神の蒼穹めいた瞳を見上げてしまった。
「そんなに畏まることもないわよ。私もあなたも、種族は違えど同じ人でしょ?」
そうは言われても、キシュとその一族全てにとって、彼女は尊崇の対象だった。
「そもそも、私はそんな大層な人物でも何でもないのよ。神でもなければ、偉人でもない、大切な人すら守れない……ただの弱い人間」
「い、いえっ、そんなことありません! 貴女様が力を尽くしてくれなければ、わたしたちのご先祖様は滅んでいたと聞いていますっ! 島の誰もが貴女様のおかげでこの世に生を受けられ、生きていられているんです!」
「私はほとんど何もしていないわよ。実際はエルのおかげなんだけど……どうして分かってくれないかなぁ」
困ったように力なく笑いながら、女神は視線を海原へ戻し、沈み行く西日に双眸を細めた。
遙かな昔、この世界には神々が存在した。
ある神は魔法を再編し、ある神は生命を創造し、ある神は人々に呪いをかけた挙句に圧倒的な力で世界を蹂躙した。呪いはキシュの一族にとって致命的な効力を発揮し、大きな戦争も相まって一族は滅亡しかけていた。
しかし、そこに二人の女性が現れた。彼女らは救いをもたらし、神秘としか評せない隔絶した力により、キシュの住まう島を呪われた世界から隔離した。
その後、女神の一人は永遠の眠りに就き、もう一人も眠っていたが……長い時を経て目覚めた。それが今まさにキシュの隣に座る女性だ。
キシュは反射的に反論してしまったことを後悔していた。
相手は島の誰もが敬ってやまない女神なのに、畏れ多くも幼い自分は礼を失して声を荒げてしまったのだ。
不安になって、女神の横顔をちらりと窺ってみる。が、彼女は何ら気にした様子を見せず、ただ遠い眼差しで夕暮れを見つめていた。
ほっと胸をなで下ろしたとき、再び隣から蒼い瞳を向けられる。
「ねえ、あなた……えっと、名前はなんて言ったかしら? たしか、魔法がすごく得意な子だったわよね」
「キ、キシュです」
「あぁ、そうそう、キシュ、呼びやすくて良い名前ね。それじゃあキシュ、私のお願い聞いてくれる?」
「は、はい!」
キシュは多大な緊張感を抱きながらも、張り切って返事をした。
「私は敬われるのが苦手でね。実を言うと、目覚めてからこっち、みんなから有り難がられて少し居心地が悪いと思ってるの」
「え……?」
そんな、どうしよう、どうすれば……
と、キシュの頭は極度の混乱状態に陥った。
「だから、もう少し普通に接してほしいなと思って。あまり畏まらずに、せめて両親や長老さんたちに接するような感じにしてくれない?」
「で、ですが、そのようなことは――」
「お願い」
気安い素振りで頭を撫でられながら告げられて、キシュは硬い仕草で頷いた。
神から願われて断る方が余程に無礼だと思い、頷かざるを得なかった。
「さて、それじゃあ少し親睦でも深めましょうか。私が大したことない奴だって知ってもらうためにもね。何か質問したいことがあれば、しても良いわよ」
「ぁ……え、えっと……」
美しい顔で微笑まれながら言われるも、突然のことにキシュはまともに頭が働いていなかった。
「何もない? もしかして、私のことなんて大して興味ない?」
「そ、そそそんなことありません! えーっと、えっと……あっ、さっきの歌、先ほどうたっておられた歌について、お教えくださいっ!」
空回る思考で何とか問いを口にする。
だが、女神は少し意外そうに二度ほどまばたきした後、先ほどのように微かな影を面差しに落とした。既に陽の大半が水平線に隠れ、残り僅かとなった赤光がか弱く美貌を照らしている。
キシュは幾度目ともしれない焦燥感に苛まれた。
そうして謝罪を口にしようとした矢先、しかし女神が答えた。
「あの歌はね、私の大切な人が教えてくれたものなの」
「……大切な人……それは、エルシス様のことですか?」
優しく哀しげな微笑みに引き込まれ、キシュは思わず問いを重ねてしまった。
すると女神は軽く苦笑して、そっと肩を竦めた。
「まあ、あいつも大切といえば大切だけど、別の人よ。とても優しくて、可愛くて、明るくて、誰よりも大好きな人ね」
暮れなずむ景色の向こう、もはや過ぎ去った日々を見つめるように、女神は望洋とした眼差しをしていた。
キシュはもう何も言えず、その美しい横顔を不躾にも間近から凝視してしまう。
「さて」
やがて無言のまま時間が流れ、西日が完全に沈みきると、女神はゆっくりと立ち上がった。
「もっと話していたいけど、本格的に暗くなる前に戻らないとね。あぁ、そういえばキシュは私に何か用があったんじゃない?」
「――ぁ」
キシュは慌てて立ち上がり、深く頭を下げながら答えた。
「も、申し訳ありませんっ、ご夕食の準備ができたとお伝えに来たのですが……」
「そっか、じゃあ早く戻らないとね」
残照の中、女神は長い髪を翻し、海原に背を向けると草地を歩き始めた。
キシュはその斜め後ろからついて行くが、女神は何を思ったのか、歩調を緩めて隣に並んだ。
「あ、あの……?」
「今夜あたりにでもみんなに伝えるつもりだけど、そろそろ動き出すわ」
「――っ!?」
思いがけず告げられた言葉に、キシュは身体を硬くした。
女神はかつて、遙かな昔にキシュの祖先たちを救った。
しかし、世界は未だに呪われたままだ。キシュたちの一族は外界から隔離されたこの島だけで世代を重ね、長い長い時を生きてきた。
この閉ざされた世界でなければ、彼女らは満足に生きていけないからだ。
一族の誰もが隣を歩く女性を尊崇しているが、その理由は過去の偉業だけに起因しているのではない。近い未来、彼女自身が作ったこの閉じた世界を解き放ってくれると、信じているからだ。忌まわしき呪いから身を潜める歴史に終止符を打ってくれると、期待しているのだ。
「たぶんキシュにも協力してもらうことになると思うから、よろしくね」
「は、はいっ!」
キシュは緊張を上回る興奮を覚え、意気揚々と頷いた。
一族の中でも女神の行動に同行し、協力できる人数は限られていると聞いていた。キシュは年齢に見合わぬ力を持っているため、もしかしたら同行できるかも……と期待していたのだ。
外の世界へ飛び出し、一族の代表の一人として女神と共に行動できると思うと、キシュは誇らしい気持ちになった。
「……………………」
「……あ、あの、どうかされましたか?」
不意に、隣を歩いていた女神が足を止めた。彼女は険しい顔で、満天の星を見上げている。先ほど見せた微笑みの名残りすら消えた美貌は怖いくらいに引き締まり、双眸には明確な敵意が宿っていた。
「……お前が奪ったものを、私は必ず取り戻す」
夜天で最も眩しく輝く光を睨みながら、女神のような彼女は宣戦布告するように呟いたのだった。
■ Other View ■
フォリエ大陸の東部を統治する大国――プローン皇国。
その皇都フレイズの某所にて、三人の男女が集まっていた。
「ヴァジムさんが襲われた……?」
とある一室のテーブル前で呆然と立ち尽くし、半信半疑に呟いたのは一人の女だった。女にしてはやや上背があり、引き締まった手足はすらりと長く、肩口で切り揃えられた金髪は楚々とした煌めきを湛えている。
清冽とした面差しにはまだ微かに少女の名残が見られ、年頃は十代後半ほどだろう。翠玉めいた瞳には意志の強さが宿っているが、その双眸を飾る柳眉が今は疑念に歪んでいた。
「ああ」
翠眼の女にとって衝撃の話をもたらした中年の男は、テーブルの対面で重く頷きを返す。
「その際に呪いをかけられたらしく、今は両脚が麻痺して辛うじて歩けるような状態だ」
男は女よりも若干背が低い。
それは翠眼の女が特別長身というわけではなく、男が世の平均身長より低めであるからだが、背が低くとも鍛えられた総身に纏う雰囲気は並ではなく、背中の黒翼には威圧感が滲み出ている。
ただ相対しているだけで翠眼の女は緊張を強いられていた。男とは短くない付き合いだが、未だに彼の前では勝手に背筋が伸びてしまうほどだ。
「そんな、呪いって……まさか、禁忌とされている呪霊魔法ですか?」
「そのようだ。だからこそ、解呪法が分からず手間取っている。治癒院の院長にも見せたところ、彼にも分からないものだったそうだ」
「オーバンにしては遠回しな話し方ね。つまり?」
不意に、小柄な女が起伏のない声で口を挟んだ。気怠げに椅子に座り、テーブルに広げられた地図の上に肘を突いて、手のひらに顎を乗せている。
少女らしき矮躯と童顔、頭部には青灰色の短毛に覆われた獣さながらの三角耳が生え、腰まで届く長髪を両の側頭部でそれぞれ結い、耳と同色の尻尾が毛先を弄ぶように動いている。
眠たげな双眸は凪いだ湖面を連想させる落ち着きが見られ、年齢のほどは判然としない。十代か二十代か……いずれにせよ、翠眼の女とは対照的な容姿と雰囲気を有している。
「つまり、ヴァジムは作戦から外れる」
「そんな……」
「まあ、仕方ないわね」
中年の男――オーバンの一言に、翠眼の女は肩を落とし、長髪の女は素っ気なく頷いた。
「で、彼を襲撃した犯人は何者? なぜ襲撃されたの?」
「ヴァジム曰く、相手は女だったらしい」
女と聞いて、女性二人はどちらも僅かに双眸を細めた。
「年頃は二十歳前後。特徴は腰まで伸びた白髪、女にしてはやや高めの背丈。ちょうどエリアーヌほどの身長で、フラヴィほどの長髪だったという。魔剣と魔法を駆使する戦法をとり、適性属性は無だそうだ」
「いくら魔女でも、そんな年若い人があのヴァジムさんを制するなんて……その女、まさか魔人だったんですか?」
翠眼の女――エリアーヌは訝しげな顔で疑問を口にする。彼女の言葉は本来ならば一笑に付すような、通常ではあり得べからざる推測だったが、それに応じる声はまじな響きを有していた。
「類は友を呼ぶっていうし、敵を呼んでもおかしくないわね。竜人もそうだけど、魔人なんてまず見掛けることすらないだろうし。それに禁忌魔法を扱えたことと、あのヴァジムに呪いかけて逃げおおせる実力からして、あり得ない話じゃないでしょうね。まあ、魔人なんて竜人以上に珍しいとは思うけど」
長髪の女ことフラヴィは顎先を腕で支えたまま、ついと首を傾げてみせた。小さな頭の両側で結われた長髪の毛先が、彼女の動きに合わせて小気味よく揺れ動く。
「いや、違う」
「ん、違うって何が?」
「女は逃げたのではなく、ヴァジムは完全に伸されたそうだ。だが、襲撃した女はなぜか殺さず、どころかまともな手傷すら負わせずにヴァジムを気絶させた。そして気がついたときには、両脚に呪いがかかっていたという。しかも外見は普通の人間と大差ないようだったらしく、魔人ではなく人間の魔女だったそうだ」
「……あの人を相手にしておいて、手加減して無力化したっていうの? しかも二十歳くらいの人間の魔女が? ヴァジムは歴戦の戦士でしょう……?」
フラヴィの眠たげな眼が驚愕と疑念に見開かれた。当然のようにその横ではエリアーヌも同様の反応を示している。
オーバンは難しい表情を見せて、溜息を吐いた。
「そうだな。だが事実だ。襲撃者の目的は不明、ヴァジムにも心当たりはないという」
「私たちの行動予定が漏洩して、帝国か連合の刺客が襲撃したというのは……あり得ませんか。わざわざヴァジムさんを襲撃しておいて殺さない道理はないですし、そもそも非効率的ですよね」
「そうね。でも、可能性としては零じゃないわ。まあ何にしても、犯人がそれほどの手練れなら、今更アタシたちがあれこれ話したって仕方ないわよね。とりあえず今は例の予定よ。どうする気、オーバン?」
ゆったりとした口調でフラヴィが気怠げに問うと、オーバンは変わらず落ち着き払った様子で首肯した。
「予定に変更はない。ヴァジムの代替要員ならば、既に手はずはつけた。今日もこの場に呼んである。そろそろ来るはずだ」
「相変わらず手際良いのね。それで、その代替要員って誰? あの人並に強くて頼りになる人って、そうそういないでしょう?」
「ロックだ」
オーバンの簡潔な回答に、まず反応を示したのはエリアーヌだった。微かに眉をひそめて、口元を苦々しげに歪める。
一方、フラヴィは仄かな笑みを浮かべたが、瞬きの間に消えてしまったので他の二人は気付かなかった。
「不満か、エリアーヌ」
「い、いえっ、そんなことは……しかし、彼では力不足なのでは? とてもではありませんが、ヴァジムさんの抜けた穴を補えるとは――」
「おいおい、そいつは厳しい評価だなぁ、エリアーヌちゃん」
不意に部屋の扉が開き、一人の男が遠慮など皆無な態で入室してきた。
エリアーヌよりも上背があり、オーバンよりは少々細身で、小ざっぱりとした短髪がよく似合っている。優男然とした面差しは二十代前半ほどを思わせるが、軽薄そうな笑みが浮かぶその様は、さながら悪童がそのまま大人になったかのような印象を受ける。
「ノックくらいしなさいよ、ハゲ」
「おー、悪い悪い――ってオレはハゲてねえよ! ったく、ラヴィは相変わらずやる気なさそうな顔して、言うことだけはきっついな」
軽妙な口ぶりで一人騒がしくするロック。
そんな彼をエリアーヌは冷めた眼差しで睥睨していた。
「って、きついのはエリアーヌちゃんもか。男嫌いなのは知ってるけどさ、オレほど紳士的な男もいないし、紳士度にかけては隊長以上よ?」
「そうですか」
「そーですとも。全然信用してないみたいだけど」
「で、オーバン。このアホ面がヴァジムの代わりって、大丈夫なわけ? 少数精鋭なんでしょう? それに長旅になるんなら、エリーとの相性は悪いだろうし」
フラヴィがエリアーヌとロックを交互に見遣りながら訊ねた。
ロックが「アホ面じゃねえよっ」と抗議する傍らで、オーバンは泰然とした様子で口を開く。
「大丈夫だ。エリアーヌからすれば思うところはあるだろうが、これも良い機会だろう。こいつほど軽薄そうな男でも、意外と信頼できるだろうことを学べ」
「そうそう。えーと……ほら、なんだっけ? 『男はみんな野獣で不潔で穢らわしいです』、だっけか? まあ確かにそれは一理あるけども、オレは野獣じゃないのよ? 隊長のことは信頼してるんだから、オレのことも信じてよ」
「オーバンさんは妻子がいますし、普段からとても真面目な方なので」
「あれ? 妻子ならオレもいますけど?」
「アンタは真面目とは対極な奴でしょ」
「ラヴィに言われたくはねえよ」
先ほどまで室内を満たしていた深刻そうな空気は完全に霧散していた。
しかし、オーバンが「さて」と重たい声を発したことで、三人は気持ちを切り替えた。
「というわけで、この四人で帝国入りすることになる。ヴァジムの件は今回の予定とは無関係だろうと考えてはいるが、無論、出立まで調査は続けていく。とはいえ……百年以上も生きている男のことだ。ヴァジム本人は心当たりがないと言っていたが、何かしらのしがらみやら因縁があったのだろう。一応、お前たちも用心しておけ」
三人の男女がそれぞれ了解の意を返すと、オーバンは頷いて続けた。
「今日はヴァジムとロックについての報告だけだ。出立が十日後なのは変わりないため、それまでに上と話は詰めておく。エリアーヌとフラヴィはロックの性格や癖なんかを把握しつつ、作戦行動時にも良く連携できるよう努めろ」
「ま、アタシは今更って感じだからいいけど、問題はエリーね」
「私は……大丈夫です。軍務に私情は持ち込みません」
エリアーヌは苦い顔で呻くように応じるが、彼女の言を素直に受け取る者はその場にいなかった。
しかし、他の三人はエリアーヌを責めるようなことはしない。彼女は彼女で自身の欠点をよく理解して改善しようと努めているのだ。それに生真面目なエリアーヌは他人から言われるほど男嫌いを表に出してもいない。
ただ、通常の軍務ならば未だしも、今回は少数精鋭による隠密行動が肝になる。互いに命を預け合えるほどの信頼を築くのに、彼女の厄介な性質が全く問題にならないわけではない。
「隊長もヴァジムの旦那も大丈夫なのに、なんでオレはダメなわけ?」
ロックがさりげない風を装って訊ねると、返答は本人ではなくフラヴィがした。
「アンタは如何にもエロそうだからでしょ。オーバンとヴァジムは落ち着いてるというか、渋いというか、枯れてるというか……まあとにかく、アンタはそのいい加減そうな気持ち悪い笑顔を直しなさい。あとエリーも、こいつは見た目に反して割と無害だから問題ないわ。というか、ロックよりエリーの方が強いから何かあっても大丈夫よ」
「そうそう、オレは無害よ?」
「そういう軽い反応するから、アンタは言葉も存在価値も軽くなるのよ」
「お前ほんと酷いな!? それが十年来の友人に対する態度かよっ!?」
ロックは喧しく騒ぎ立てるが、実際はフラヴィの意図を正しく察していた。フラヴィはエリアーヌに、ロックという男が如何に馬鹿で無害で格下な男なのかを印象付けようとしているのだ。そしてロックも渋々とはいえ、それに乗っかっている。
エリアーヌはロックとの付き合いは浅いが、フラヴィとは深いので、その気遣いを敏感に察していた。
「私は本当に大丈夫です。ロックさんが意外と真摯な方だというのは承知しています。皆さんにご迷惑を掛けるつもりはありませんし、何より皇国の危機を前にすれば、私自身の感情など些事です。心配していただかなくとも、務めは果たしていきます」
「……でも、自分ではどうしようもないんでしょう? 身体が勝手に反応するって、前に言ってたし」
「それは……そうですが、なんとか慣れます」
硬い表情で決然と答えるエリアーヌ。
そんな彼女を見て、オーバンは静かに頷いた。
「本人が大丈夫だと言うんだ、信じよう。出立まであと十日あるし、エノーメ大陸に渡るまでには時間もかかる。エリアーヌは帝国入りするまでにロックと打ち解けておけ」
「はい、必ずや」
さながら死地に赴くような真剣味を伴ってエリアーヌは首肯する。
彼女にとってはそれほどの事なのだ。
「ま、そういうわけでよろしくね、エリアーヌちゃん」
ロックは手始めと言わんばかりにエリアーヌの肩を叩き、気軽に挨拶した。
が、エリアーヌは一瞬だけ全身を震わせて硬直した直後、目にも止まらぬ速さでロックの腹部に肘打ちを喰らわせる。
「ぅごっ!?」
「あっ、す、すみませんっ! 急に触られたものですから、つい……」
「いいのよ、エリー。こいつならね」
膝を突いて声もなく喘ぐロック。
エリアーヌはやや離れたところから彼を心配し、そんな彼女の背中をフラヴィが優しく撫でながら励ます。
オーバンは年若い三人を端から眺め、厳つい顔に微苦笑を浮かべた。
■ Other View ■
ソレはさながら檻から抜け出た理性なき獣だった。思考する能力がなく、ただ本能のままに動くことしかできない、原初的なカタチだった。
故に、ソレはただ一心に器を求めていた。
世界に存在するための依り代を必要としていた。
器となる個体は無数に存在したが、既に中身のあるものばかりで、ソレが入り込める余地はなかった。いや、正確には全体の半数ほどは余地のある個体だったが、ソレに対する耐性が強く、ソレは干渉できなかった。
もう半数は比較的耐性が低く、たまに中身が少なくなって余地ができる個体もいたが、ソレは本能のまま動くが故に、むさ苦しいのを嫌った。
しかし幸運にも、ソレは最適な器を発見した。他の器よりも遙かに中身が少なく、自身に対する耐性も圧倒的に低く、まだ十二分に新鮮な器だった。
ソレは一も二もなく、狙い定めた器へと自身を浸透させていった。
器に入りきるのには時間が掛かった。
器に元から入っていた僅かな中身と解け合いながら、ゆっくりと理性を再構成していく。その間、器の周囲では様々なことが起こっていた。だが、ソレにはまだ意識がなかったため、否応なく周囲の指示に従う従順な下僕と化している他なかった。
それから、幾ばくかの時が流れた。
ソレの再構成が進み、器に適応していき、ようやく理性が形成された。
微睡みが薄れ、新たな器を完全に自身のモノとしたソレは、満を持して己が意思を覚醒させたのであった……。