第十五話 『生存戦略、しましょうか!』
「……なるほど」
これまでの経緯を思い返し、俺は賢者の如く冷静沈着になった。
相変らず顔面には至福の感触が当たっている。猫耳美少女の身体で最も柔らかい部位は俺の理性を突き崩そうとしてくるが、そうはいかない。
「今しかない」
本能を抑え込み、俺は理性的に思考した結果、自分に言い聞かせるように呟いて、顔を膨らみに押しつけた。
おそらくフラヴィたちとは近いうち別れるので、今のうちにこの感触を堪能しておかなければならない。好機を逃すのは間抜けのすることだ。フラヴィほど可愛い猫耳ツインテ美少女と今後も出会える保証はないので、きっちりとチャンスをものにしておく。
「はぁ……レオナ……」
ついでに、我が名付け親を助けることができなかった後悔の苦味と自己嫌悪の念を誤魔化させてもらおう。
我ながらクズだとは思うが、今くらいは落ち込んだっていいよな……自分の無力さが恨めしくて、でもどうしようもなくて、さすがに色々きついんだよ。
♀ ♀ ♀
どれほどの時間、至福を堪能していたのか。
まずエリアーヌが起き、彼女がフラヴィを揺すって起床となる。
俺も合わせてベッドから下りた。
「おはよう、ローズちゃん」
「おはようございます、エリアーヌさん。フラヴィさんも、おはようございます」
「ん……はょ……」
どうやらフラヴィは朝に弱いらしい。起きて床に立ってはいるが、目は半分寝ている。パンツ一枚で突っ立つ猫耳の美少女とか萌えるな。フラヴィは髪を下ろしてても可愛いし。
俺は昨日買った服に着替えた。どうやら寝ている間に服を脱がされ、例のぶかぶかシャツとパンツだけになっていたのだ。
エリアーヌも下着姿になって着替えている。彼女のスタイルの良さは抜群で、前世のモデルが裸足で逃げ出すレベルだ。寝るときはブラジャーを付けていなかったのか、御山の眺めが良好すぎた。それはもうプルンプルンとした造山活動が観察できるほどに良好すぎた。
エリアーヌもフラヴィと同じくネックレスをしていたが、こちらはエメラルドのように鮮やかな緑色をしている。そしてフラヴィとは違って、首飾りが山間に挟まっている。実にけしからんな。俺と代わって欲しい。
とは思うものの、俺はもういちいち興奮したりしない。
朝っぱらからパラダイスをこれでもかと堪能し、少しだけ大人になったのだ。今度はフラヴィのパンツの向こう側をじっくりたっぷり探検できれば、もっと大人になれる。俺はもう身体的には女だから自分の身体でもいいんだけど、まだロリロリしくて……さすがにね。
エリアーヌの御山は標高こそ中レベルだが、形が綺麗だ。
そこには美があった。それは紛う事なき美乳だった。壮美な霊峰はやがて活動を停止し、下着の中に収まってシャツの向こう側に御姿を隠した。
「それじゃあ行きましょうか」
エリアーヌ曰く、一階に行けば朝食を食べられるらしい。時間は特に決められていないが、六時頃には準備完了となっていつでも食べられるのだとか。
この世界に時計はなかったが、時間は教会の鐘で分かる。昨日も町を見学している最中に鐘が鳴っていた。三時間おきに鳴るようなので、大体の時間は把握できる。
そんなこんなで三人一緒に階下へ向かい、ブレックファーストタイムだ。
その前にトイレに寄って膀胱を空にしたが。もうこのロリボディでの排泄行為には慣れたものの、パンツの着脱というプロセスを経ると一気に変態的になるな。
ま、それもいずれ慣れるだろう。人間の適応力ってやつは半端ないからな。
ちなみにトイレは一階の隅にあって、なんと水洗式である。いくつか水の桶が置いてあり、水を穴へ流し込むといずこかへ消えていく。エリアーヌに訊いたところ、帝国の大きな町には地下に下水道があって、管を通って流れていくらしい。
「よっ、三人ともおはようさん」
食堂に入ると、隅の方の丸テーブルにロックが座っていて、片手を挙げながら挨拶してくる。オーバンのオッサンもいて、声に愛想はないが「おはよう」と口にする。
俺たちは互いに挨拶し合って、女給さんが持ってきた朝飯を食べ始めた。もちろん、ちゃんと「いただきます」をしてからだ。ロックは何も言わず食い始めていたが。
「ローズちゃんは食いっぷりいいな」
ロックの指摘通り、俺は黙々とどんどん頬張り、最低三十回は咀嚼してから呑み込んでいく。
テーブル上には簡単な料理が並んでおり、メニューはこんな感じ。
・メロンパンくらいの丸パン(一人二個)
・固形のチーズ(ちょっと臭い)
・厚くスライスされたハム(ちょっと塩辛い)
・サラダ(なんとドレッシングもあったが味は微妙)
・コーンポタージュっぽい野菜スープ(パンと一緒に食うと旨い)
・ゆで卵(一人一個)
ちなみに子供も大人も同じメニューで同じ量だ。
あとは飲み物として水。
「美味しいのでいっぱい食べられます」
パンを呑み込んで子供らしくコメントすると(まあ本音だけども)、ロックがハムを一枚くれた。昨日も思ったけど、こいつDQN顔のくせに中身は結構いい奴だ。
やっぱり人を見た目で判断しちゃいかんね。
「チーズいる?」
「いりますっ」
間髪入れずに即答すると、フラヴィはチーズをくれた。
「半分食べちゃったけど、卵いる?」
「いりますっ」
エリアーヌからはゆで卵(半分)を貰った。
食事にはナイフやフォーク、スプーンを使っているので、半分になった卵はナイフで綺麗に切られている。といっても、ナイフはエリアーヌ以外まともに使っていなかった。美女の唇が触れた食べかけじゃないのは残念だが、貰えるだけ有り難い。
「…………」
「む?」
俺が無言でオーバンを見つめると、黒翼のオッサンは小難しい顔(元からそんな顔だが)で呻いた。
「パンでいいか?」
「何でもいいですっ」
オッサンからはパン(半分)を貰った。オーバンはちょっと怖い感じの中年親父だが、ロックと同じでやはり悪い奴ではなさそうだ。
四人から恵んでもらっておいてなんだが、正直、この世界のメシは前世に比べると幾分も味が落ちる。だが、俺は約一月も味気なさすぎるメシを食い続けてきたのだ。あの硬いパンと草と木の実に比べれば、目の前の品々は十分にご馳走だ。
「皆さん、ありがとうございます」
俺は礼を言ってから一呼吸の間も置かず、細腕で次々と栄養を摂取していく。
なんだか四人の俺を見る目がもの凄く優しげだった。
べつに俺は食欲を満たすためにガッついているのではない。たくさん食べて栄養を付けないと、このロリボディがちゃんと成長しなさそうで心配だからだ。
現に今の俺は痩せている。腹はへこみ、少し肋骨が浮き出ているほどだ。
前世でも、江戸時代と二十一世紀の成人男性の平均身長は十レンテ以上の差があるという話だった。何かの本で、必ずしも栄養が身長の大小に強く影響するわけではないと目にした記憶はあるが、それでも十分に栄養を摂っておくことに越したことはない。
まあ、食べ過ぎてどっかのクズニートみたいに体重が0.1トンを超過したら目も当てられないが……今の俺はまだまだ子供で成長真っ盛りだし、その辺は良く運動していれば大丈夫だろう。この世界には車もゲームもネットもないから、怠けたくても怠けられないだろうしな。
とまあ、そんな感じで朝食を終え、テーブルに並ぶ皿が全て空になる。
それぞれがコップを傾けて一息吐いたのを見計らってか、おもむろにオーバンが口を開いた。オッサンのちょっと怖い目は俺に向いている。
「今日は少し話がある。君にとって大事なことだ。聞いてくれるか?」
「は、はい……」
「うむ。では部屋へ戻るぞ」
ここではしないのか……いや、できないのか。
十中八九、俺を教会へドナドナする話だろうし、食堂には他の宿泊客もいる。
金目の話はこっそりした方がいいだろうしな。
そうして、俺たち五人は再び三階へ戻っていった。
♀ ♀ ♀
ぞろぞろと五人で、ロックとオーバンの泊まっている部屋に入る。
気のせいか、少し男臭い。鎧戸は開放されているので、陽光と共に新鮮な風が入ってきて換気してくれるので問題はないが。
「ローズちゃんはここね」
部屋に入ると、俺は小さな丸テーブルの椅子に座らされた。椅子は二つしかなく、対面にはエリアーヌが腰掛ける。俺の右隣にはフラヴィが立ち、ロックはベッドに腰を下ろした。オーバンは少し離れた壁際で腕を組んでいる。
そして例によって例の如く、オッサンのアイコンタクトを受けたエリアーヌにより、話が始まる。
「ローズちゃん。ローズちゃんが魔女だって話は、昨日したわよね?」
「は、はい」
「昨日も少し言ったと思うけど、魔女は保護されるのが一般的なの。簡単に言うと、もう奴隷になることはないし、優しい大人の人が守ってくれるの」
それは昨日も聞いた話だ。
魔女は、エイモル教会とやらが報奨金を出して保護するほど貴重らしいし。
「だから、ローズちゃんは私たちが守ろうと思うんだけど、いいかな?」
「――え?」
ついロリロリしくも間抜けな声を上げてしまった。
「ローズちゃんは嫌?」
エリアーヌが少し困ったような顔に笑みを浮かべた。
べつに嫌ではないが、それより今は気になることがある。
「あ、あの、私のことは教会に引き渡すんじゃ……?」
「えーっと、その……ローズちゃんはエイモル教会の方がいいのかしら?」
いやいや、そもそもエイモル教会とやらがどんな組織か知らないし。
というか、これはいったいどういうことだ? なぜエリアーヌたちは、こんな提案というか確認をしてくるんだ?
魔女が貴重なのは分かった。教会に引き渡せば金になるから、エリアーヌたちは俺に親切にしていた。そう思っていたが、今の話で前提が崩れた。
「…………」
俺はエリアーヌからの問いかけに口を噤み、少し考えてみる。
まず第一に、なぜエリアーヌたちが俺を保護しようとするのか。
それは俺が魔女であり、魔女が貴重だからだ。
では、なぜ魔女が貴重なのかといえば、女には普通ない(あるいは極少)とされている魔力があるからだ。魔力とは魔法や魔弓杖の使用に必要なものらしく、それは詰まるところ力だ。エリアーヌたちは俺=魔女=力が目当てだと考えて良い。
第二に、なぜエリアーヌたちはあの工場を襲撃したのか。
リタ様によると、ここオールディア帝国はグレイバ王国という隣国と戦争状態にあると言っていた。リタ様も元は王国の貴族だったというし、まず間違いない。
と考えるとエリアーヌたちがセミリア工場を襲撃したのは、魔弓杖という武器の供給を止める=兵站を潰すためだ。つまり彼女らは帝国内に潜り込んでいるグレイバ王国の工作員という可能性が高くなる。
以上のことから、エリアーヌたちは本国のために、俺という魔女を保護しようとしている……のではないか? 昨日、俺のことを元貴族云々と言っていたし、セミリア工場には王国出身の幼女ばかりだった。魔女に加えて祖国の貴族令嬢かもしれない幼女を保護しようとしても疑問はない。むしろ納得できる。
「ローズちゃん? どうかした?」
気遣わしげに問うてくるフラヴィ。
俺がただの子供なら、その優しさを鵜呑みにして彼女らを信頼していただろう。
もちろん俺もそうしたい。何も考えず、ただ流されるままに生きていければ、どれだけ楽なことか。
だが、俺には考えられる頭がある。もういい加減に生きるつもりなど毛頭無いし、今の俺はこの世界で独りだ。この非力な身体が危険な目に遭わないように、よく考える必要がある。
前世ではクズなニートだった。
将来のことなど考えず、ただ今さえ良ければそれでいいという現実逃避を続ける弱虫だった。状況を改善するためにできることはあったはずなのに、何もしなかった。思考を停止していた。
それではいけない。
できることがあるのなら、すべきだ。
聞けることがあるのなら、聞くべきだ。
生存戦略ってやつを十二分に立てて、自分のために、レオナのために、より良い未来を選択していかなければならない。
「エリアーヌさん、単刀直入に訊きます」
俺は姿勢を正すと、対面の美女の翠眼を真っ直ぐに見据えた。
「貴女は――皆さんは、グレイバ王国の人なんですか?」
「え……?」
「今、オールディア帝国とグレイバ王国は戦争をしているんですよね? そしてエリアーヌさんたちは王国の兵士か何かで、あの工場を襲撃して魔弓杖という武器の製造元を破壊した。違いますか?」
確認するように問う。
四人とも少なからず驚いた顔をしているが、今更だ。
エリアーヌは「えーっと……」と呟きを溢し、答えた。
「まず、オールディア帝国とグレイバ王国の戦争だけど……それはもう終わっているわ。だからというわけでもないけれど、私たちはグレイバ王国とは無関係よ」
「…………それでは、どうしてあの工場を……?」
「それは……」
エリアーヌはオーバンに翠眼を向けた。
オーバンはしばしの沈黙の後、小さく首を横に振る。
「ローズちゃんは賢いから、私たちのことが怪しく思えて、信じられない?」
「いえ、べつにそういうわけでは……」
エリアーヌたちはたぶんいい人だ。
だが、それは彼女らの一面に過ぎない。人は様々な顔を持っていて、ある人からすれば善人でも、別の人からすれば悪人ということはざらにある。
会社では厳しい鬼上司でも、家庭では優しい夫であり父である男など、前世には有り触れていただろう。そして俺は彼女らの鬼上司な面を知らない。
「だったら、私たちと一緒に来てくれないかな? 絶対に酷いことはしないって約束するから」
エリアーヌが俺の手を優しく包み込むように握ってきた。
思わず流されそうになるが……
必死に克己して流れに逆らう。
今、対面に座る美女は誤魔化そうとしている。
さっきのアイコンタクトは俺に話してはいけないという合図だったのだろう。その話の内容は彼女らが何者なのかということにも繋がる話のはずだ。
もし今ここで、俺がエリアーヌたちの誘いを蹴れば、きっと彼女らは俺を教会へ連れて行く。だからこそ、彼女らは身元に繋がるような情報は明かさないのだ。エリアーヌやフラヴィという名が偽名でない保証などない。
ここオールディア帝国の軍需工場的な場所を襲撃したのだから、正体を明かして、それが漏洩すれば大事になる。まあ、それ以前に俺が幼女だから話しても理解できないだろうし、話すだけ無駄とも思っているのかもしれないが。
それに、無理矢理にでも俺を引き入れようと思ったら、方法はいくらでもあるのだ。にもかかわらず、彼女らはこうして話す場を設けてくれたのだから、きっと酷いことはしないはずだ。
「エリアーヌさん」
「なに?」
「きっと、エリアーヌさんたちはいい人なのでしょう。昨日も私に、とても親切にしてくれました。私が魔女だからなのかもしれませんが、それは間違いのない事実です」
エリアーヌたち四人は何も言わない。ただ俺という幼女を黙って見つめている。
「だから、エイモル教会という知らないところより、エリアーヌさんたちと一緒にいた方がいいと、私は考えています。ですが、だからこそ私は、エリアーヌさんたちがどんな人なのか知っておきたいんです。それに……」
そう、それにだ。
俺は昨日一日、ずっと目を背けてきたことがある。それを聞けば、俺は彼女らのことを嫌いになるかもしれない。エリアーヌたちしか頼る当てのない俺は、俺が快くやっていくために、不快な気持ちになるのを避けていた。
現実から目を背けていた。
果たして、ノエリアやフィリスたち他の奴隷幼女がどうなったのかという、現実から。
あのとき、工場一階は燃えていた。
魔弓杖の供給を阻害するには工場を物理的に潰す必要がある。それに、きっと監督役の野郎共は生き残っていないだろう。奴らはエリアーヌたちに皆殺しにされた可能性が高い。
ならば、奴隷幼女たちはどうなったのか。
火の海に飲まれたのか? エリアーヌたちが手ずから殺したのか?
それとも全員助けたのか?
正直、これを訊ねるのは怖い。
だが、俺はちゃんと質問して、事実を聞き出さねばならない。自分にも関係のあることなのだから、隠されたままなのは御免だ。事実を隠され、何かの拍子に後で知らされるという展開など御免被るのだ。
前世において、俺は自らをクズニートだと卑下していた。
ただのニートではない。
クズのニートだ。
だが、俺だって何も初めから、殊更に自嘲していたわけではなかった。
決定的な転機が、俺にそうさせるようになった。
かつて、あのクソ兄貴は俺をクズだと喚き散らしていた。
俺の存在が、奴にとって目障りだったからだ。
ガキの頃の俺は誰からも責められないようにすることに腐心していたため、なかなかに優秀な子供だったが、兄は勉強も運動も並以下の奴だった。四つも年下の俺の方が周囲から褒められてばかりいることに、鬱憤が溜まっていたのだろう。
俺が優秀であろうとしていたのは、あのクソ兄貴のDV――癇癪性が原因なのだが、奴はもとより、ガキな俺はそんなこと自覚できていなかった。
奴は日々、怒りという感情を好き勝手に爆発させ、俺はそれに怯えて良い子であろうと努力し、それで更に奴が怒り出す。そんな悪循環の果て、俺はクソ兄貴の異常性にあてられて人間を人間と思わなくなり、約束を軽視した末に破滅した。
高校中退後、俺は人間不信に陥って鬱になった。誰も信用しなくなって、誰にも心を許さなくなって、一人孤独に現実と戦った。
そうして、なんとか大学に入学した。学校という環境は高校を想起させて辛かったが、あの頃の俺にはまだ希望があった。
短期の海外留学だ。僅かな期間とはいえ、異国という新天地へ赴けば、否が応でも自分を変えられると思っていたのだ。
大学入学前、俺は親に留学しても良いかと訊ね、彼らは良いと頷いた。一年生でも留学可能だと分かっていたからこそ、俺はFラン大学でも入学したのだ。もう一年、死ぬ気で勉強して中あるいは上ランクの大学を目指すという案もあったが、俺は一刻も早く自分を変革したかった。当時の俺は自分が死ぬほど大嫌いだと思える程度には、まだ正気が残っていたのだ。
入学して一ヶ月後、夏休みに短期留学があるとのことで、俺は五月病に心を折られかけながらも耐えた。希望があったから耐えられた。そして、親に留学の話を持ちかけたのだが……そんな金銭的余裕はないと突っぱねられた。
以前と言っていることがまるで違ったが、いい歳して駄々をこねることなどできなかった。兄のような無様な醜態など、どうしても見せられなかった。だからバイトをしようと思ったが、試算した結果、夏休みまで働いても目標金額には届かないことが判明した。
俺の抱いていた希望は絶望に代わり、人間不信やら何やらの浸食もあって、疲労困憊だった心はあっさりとへし折れた。
大学を中退して二年後。
当時の俺は少し回復してきていた。二次元世界の嫁たちが心を癒やしてくれたのか、再び立ち上がる力が芽生えていた。
そんなある日、いい歳して毎日のように怒声を張り上げる兄への我慢が限界を迎え、俺は勇気を出して反抗した。それは俺にとって、一大決心の末に起こした革新的な行動だった。といっても、目すら合わせられず「うるさい」と弱々しく注意しただけだが。
すると、兄は「お前のせいだ」と俺を責めてきた。
曰く、俺の大学入学資金の一部は兄の金で賄われ、そのせいで兄は大学院へ進学できなかったという。しかもその金は、奴が大学在学中にバイトして貯めたものでもあったという。俺が入学して半年も経たずに辞めたことに奴は我慢ならず、喚き散らしていたという。
初耳だった。突然のことに意味不明な心境に陥った。
そして、そんな今さっきまで無知だった俺に、奴は続けてこう言ったのだ。
――知らぬが仏だな。
俺はショックを受けると同時に、巫山戯るなと思った。奴の自分勝手な振る舞いのせいで、俺は我知らず最低な人間となった挙句、精神を病んだ。
俺は生まれた瞬間から奴に人生を狂わされ続けていたというのに、今度は向こうが俺のせいで人生が狂ったと喚いている。自分が弟にどんな悪影響を及ぼしていたかも知らないで、俺がどれほど苦しんだかも知らないで、知らぬが仏だなどとほざいている。
もはや発狂しそうなほどの激情が込み上げてきたが、怒り狂うクソ兄貴を幼少期から見てきた俺はキレることができない呪いに掛かっていた。
『お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな……』
と、そう胸の内で嘲ることが俺にできた精一杯だった。
なぜ奴は俺が大学に入学する際、それほどまでに大事なことを俺に言わなかったのか? なぜ両親も俺に真実を告げず、あまつさえ留学しても良いと嘘まで吐いたのか? 奴はただ両親に懇願されただけで、両親は俺をただ気遣っていただけで、嘘は単なる言葉の弾みだったのかもしれない。そもそも留学しても良いというのは、自分で貯めた金でなら良いという意味だったのかもしれない。
真実は不明だ。
聞き出す気力すら、俺には残っていなかった。
そうして俺は――何も知らず知らされなかった俺は、遂に完膚無きまでに折れた。クソ兄貴は日々、俺をクズだと罵った。やる気がないならやるなと、俺を責め立てた。あまつさえ消えろと声高に叫び、俺の人格どころか存在そのものを完全に否定した。
当然のように、俺は現実に絶望した。
両親もクソ兄貴も、そして何より俺自身も、全てが煩わしかった。
本当に消えて欲しかった。
夢も希望も失ったことで、現実という外圧が日々、俺を押し潰そうとしてきた。だから二次元世界に逃避して、なんとか心の隙間を埋めることで内圧を保つしかなかった。もはや俺の居場所など、現実世界にはどこにもなかった。
クソ兄貴に人生を狂わされた俺が奴の金で大学に入学するも、無知で甘ったれな俺は両親の嘘に絶望してあっさりとドロップアウトし、結果としてクソ兄貴の金は無駄となって奴の人生は狂った。
もはや悲劇を通り越して喜劇だろう。
しかし、この喜劇から得られる教訓が、少なくとも一つはある。
伝えることは、大切だということだ。
もし両親が、あるいはクソ兄貴が、俺に大学入学資金の真実を明かしていれば、結末は違ったかもしれない。あるいは俺が親に留学の話を持ちかけた際、話が違うと訴え出ていれば、真実を知らされていたかもしれない。そもそも俺が恐怖心に屈さず、クソ兄貴に幼少期から反抗し続け、奴の非を奴自身や周囲に訴え続けていれば、もっと違った人生を送れていたかもしれない。
あの兄は紛う事なく真実クソなDV野郎だったが、アレでも一人の人間であり、世界でただ一人だけ血を分けた兄だった。仮にも家族である男の将来を糧にするのなら、そう簡単に俺の心は折れなかったかもしれない。
……まあ、豆腐メンタルな俺では結局無理だったのかもしれないが、少なくとも事前に知らされていれば俺は留年しただろう。もう一年勉強して、兄の大学院進学と俺の大学入学の時期をずらしていれば、あんな結末にはならなかったはずだし、そもそも奨学金という手もあった。
俺はもう二度と、そんな喜劇めいた悲劇を起こしたくはない。
だから、きちんと話をする。自分の意見と本音を相手に伝えて、相手からも伝えてもらう。状況にもよるだろうが、少なくとも今は変な駆け引きなど必要ない。真摯な態度で臨めば、きっと分かってくれるはずだ。
分かってくれなければ……残念だが、それまでだ。
俺は教会に引き取られるとしよう。
「私に、本当のことを話してください」
エリアーヌから握られた手を、俺は両手で握り返した。
彼女の翠緑色の瞳を見つめながら、俺にできる精一杯の真摯さを込めて伝える。
「どうしてあの工場を襲撃したのか。エリアーヌさんたちは何者なのか。あの工場にいた他の奴隷たちはどうなったのか。私を保護する本当の理由は何なのか」
かつて、俺は異国という新天地へ赴けば、否応なく自分を変えられると思っていた。そして、今まさに俺がいるのは異世界という完全な新天地だ。
ここで動けなかったら――以前の自分と何一つ変われないままだったら、俺はこの世界でも正真正銘のクズなままだろう。
「誤魔化そうとしないでください。甘い言葉で、私を惑わそうとしないでください。子供だからと、私に真実を隠さないでください。どんな話でも、私はちゃんと受け止めます。ですから……どうか、私にエリアーヌさんたちを理解する努力をさせてください」
「……ローズ、ちゃん」
エリアーヌは呆然と俺の名を呟く。隣に立つフラヴィも、ベッドに腰掛けているロックも、壁際のオーバンも唖然としている。
きっと俺を変な幼女だと思っただろう。
でも、仕方がない。これで気味悪がられて拒絶されるのなら、それまでだ。
俺は自分の言動を後悔していない。
むしろよく言えたと、自分で自分を褒めてやりたい。
「……………………」
しばらく四人は俺を見つめてきていたが、次第に互いの顔を見合わせ始める。
「エリアーヌ、話してやれ」
まずオーバンが口を開き、渋い響きのバリトンボイスでそう言った。
エリアーヌは「了解です」と口にしながら、しっかりと頷く。
「それじゃあ、ローズちゃん。難しい言葉とか出てくるかもしれないけど……」
「大丈夫です。あと、無理して私に話し方を合わせる必要はありません。フラヴィさんやロックさんにしているように話してください」
「…………分かりました」
気持ちを入れ替えたのか、エリアーヌは凛とした声で了承してくれた。
そうして、俺はエリアーヌの話に耳を傾けていった。
なかなかの長話だったが、彼女の説明は分かりやすかった。容姿からもどことなく知的な印象は受けるし、頭はいいのだろう。
話を聞き終えた俺はしばらく無言になって虚空を見つめた。軽く深呼吸をしながら頭を整理すると、「つまり」と口火を切って対面の美女を改めて見つめる。
「エリアーヌさんたちはプローン皇国の人たちで、帝国には破壊工作的なことをしにやって来たと。だからあの工場を襲撃したし、希少な魔女であるところの私を皇国に連れ帰るために、保護しようとした」
「そうです」
まだエリアーヌは幼女な俺の知性に驚いてはいるようだが、もうだいぶ落ち着いていた。
リタ様の講義では、プローン皇国とはフォリエ大陸の東部にある大国という話だった。フォリエ大陸はここエノーメ大陸から北に位置する大陸だとも聞いた。
エリアーヌ曰く、プローン皇国はフォリエ大陸の西半分を支配するスタグノー連合と戦争中らしい。そしてスタグノー連合はオールディア帝国から魔弓杖の供給を受けて、かなりの戦力増強が為されているという。
まあ、納得できる話だ。
魔弓杖は魔力さえあれば誰にでも使えるらしいし、男なら農民だろうと奴隷だろうと、魔弓杖一つで即席の兵士に早変わりだ。要は前世における銃だ。形状からしてそうだしな。そんな代物の供給を絶とうとするのは妥当な行動だし、戦争において兵站の破壊は基本だ。
エリアーヌたちはプローン皇国の軍人のようなものだ。魔女という存在は力なので、それを他国や教会にみすみす渡すよりも自国側に引き入れようとすることもまた、至極当然のことだろう。
べつにそれは良い。
俺に何らかの社会的な価値があるというのは、エリアーヌたちの保護という申し出が善意100%の行動ではないという意味になるのだから、それはある意味で安心できるし、信用できる話だ。
しかし……
「……戦争中、ですか」
オールディア帝国もつい最近までグレイバ王国と戦争していたというし、この世界は戦乱状態にでもあるのかね。もし俺がエリアーヌたちとプローン皇国へ行けば、戦火に巻き込まれたりしそうで怖い。
という俺の懸念を読み取ったのか、エリアーヌはゆっくりとかぶりを振った。
「戦争中とはいっても、本格的な全面戦争状態というわけではありません。今は互いに国交を断絶して、睨み合っている緊張状態にあります」
つまり冷戦状態みたいなもんなのか?
「皇国と連合は大陸中央部に連なるアルジール山脈という天然の要害が国境となっていますから、双方共に攻め入るのは容易ではないのです。もし戦いになるとしても、海上か沿岸部か、せいぜい皇国西部が主になるでしょうし、中央部から東部にかけては平和そのものです」
「そう、ですか……」
まあ、嘘を言っているようには見えない。
少なくとも俺が前世から引き継いだ魔眼(観察眼)はそう判じている。
エリアーヌたちは任務――仕事で、俺がいたセミリア工場を破壊した。彼女らは襲撃中に二階の奴隷部屋の様子を伺いに行ったらしいのだが、しかしそこには誰もいなかったという。部屋の中央に奇妙な焼死体――おそらくマウロが一人転がっていただけで、あとは完全にもぬけの空だったとか。
エリアーヌから何か知らないか訊ねられたが、当然俺にも何が何だか分からない。ただ、四人の顔を見る限り、嘘で誤魔化しているようには思えなかった。
奴隷幼女たちがどうなったのか、真相は不明だ。
ノエリアやフィリスたちは未知の方法で無事に脱出し、まだ生きているかもしれないし、あるいは死んでいるかもしれない。だが、工場内やその周辺で子供の遺体は発見できなかったという話だから、きっと何らかの方法で逃げ延びたのだろう。
俺にはそう信じるより他になかった。
エリアーヌたちは一応、奴隷幼女たちの様子を確認しには行ったのだ。
もし、ノエリアたちが部屋に残っていた場合、どうしていたのかと訊いてみたところ、状況次第では助けるとエリアーヌは答えた。彼女の真っ直ぐな眼差しに疑念は抱けなかったが……
本当のところはどうか分からない。だが、エリアーヌたちからすれば、潜在的な敵国で魔弓杖製造に携わっていた奴隷を助けてやる道理など、そもそもないのだ。
つまり、エリアーヌたちの物騒な職業はともかく、その人間性についてはある程度信用できる……かもしれない。昨日一日過ごしていて、それは何となく肌で感じ取れたし、だからこそ俺は彼女らを理解したいと思って勇気を出した。
それにだ。
ここまで話させておいて、「やっぱり教会が良いです」とは言えまい。ノーと言える勇気云々という問題ではなく、俺は彼女らを理解するために、知りすぎた。おそらく、これまでの話は真実かそれに近いレベルのことなので、事実上、俺に退路はない。まあ、初めから退く気はほとんどなかったからいいんだけどね。
一応、俺にも打算はある。
彼女らが魔女という力を欲しているのなら、俺に魔法を教えてくれるはずだ。
それは俺にとっても悪い話ではなく、むしろ歓迎すべきことだ。
「話してくださり、ありがとうございました」
俺は対面のエリアーヌに礼を述べると、椅子から飛び降りて床に降り立った。
そうして、エリアーヌ、フラヴィ、ロック、オーバンを順繰りに見遣り、最後にエリアーヌと向き合うと、頭を下げた。
奴隷幼女に転生した我がニューライフの難易度はナイトメアモードだ。
しかし、魔女という存在だったことが判明した今、ハードモード程度には下がっている。それでも寄る辺のないこのロリボディが、異世界という非常識の中で生きていくことが大変な困難であることに変わりはない。
無条件で信用できそうな親という存在がいないからこそ、生存戦略ってやつは必要不可欠だ。俺は自分で考えられる頭を持っているのだから、不幸な事態にならないように――もう前世のように後悔しないために、努力する必要がある。
「保護してくださるというのなら、私の方からもお願いします。どうか無知で無力な私を助けてください」
こうして、俺はエリアーヌたちと行動を共にすることが決まった。
ちなみに訊いてみたところ、エリアーヌもフラヴィも偽名ではないらしかった。
ということは……つまり、なんだ?
俺のことは初めから手放すつもりなどなかったということか?
まあ、結果オーライならとりあえず何でもいいさ。