第百三十五話 『やはり風呂……!! 風呂は全てを解決する……!!』★
食堂の席に着き、まずは軽く自己紹介をした。ギャスパーは細長い食卓の短辺――上座の席にいるため、ずらりと座るみんなの顔はよく見えたことだろう。
ソフィーヤ婆さんは同席しないようで、この場に伯爵サイドの人員はギャスパーとその護衛の他に、もう一人だけしかいない。
「これは今年で八歳になる私の孫だ。息子は例の件に当たらせているから、代わりに連れて来た。ほら、皆さんに挨拶なさい」
「は、はじめまして……ゲラルド・カイゼルドです。よろしくお願いいたします」
男らしい名前に反して随分と可愛らしいお坊ちゃんだった。目に優しいクリーム色の髪は短めで、全体的に線が細い。顔立ちも繊細な方で、優しげな目元と黄緑色の澄んだ瞳が愛くるしく、男にしては軟弱そうな印象を受けた。緊張している様子は微笑ましく、保護欲をそそられる。ラスティは幼女らしい可愛さのある男の娘だが、ゲラルド君は純粋に男の子として可愛い感じのショタで、俺は特に惹かれないけど、ショタコンのお姉さんは一発KO間違いなしだろう。
「一通り挨拶も済んだところで、早速本題に入ろうか」
ギャスパーは直々に例の工作員の残党たちについて説明してくれた。
どうやらティムアイ島内における現在把握している限りの隠れ家や拠点の類いは全て制圧済みらしい。敵の多くは制圧時に始末したようだが、何人かは生け捕りにして尋問し、他の島や他領での活動について吐かせようとしているようだが、進捗は芳しくないようだ。
そりゃ工作員として国外で秘密作戦とかに従事している人は口が堅いだろうね。今思うと、エリアーヌやラヴィもその手の人たちだったんだよな。ちゃんと生きてて元気にしてるかな……?
ともかく、喫緊の脅威は既になく、もう出発しても問題ないようだった。
「無論、こうなった以上、シーハンネル海峡に入るまでは配下の軍船で護衛させて頂く。万が一にも賊共が再び皆さんを襲うようなことがあれば、我が国の沽券に関わるのでね」
「ありがとうございます、ギャスパー様」
クレアが着席したまま頭を下げると、伯爵は「うむ」と頷いた。
ちなみに先ほどおにぎり伯にはローラン同様に名前で呼んでほしいと言われたので、今後はそうすることになっている。
貴族ってこんなもんなのか? というか、いくら南国的リゾート地だからって、伯爵も侯爵もアロハシャツってどうなのそれ。非公式の場ならこんなもんなのかね?
「出発はいつ頃にされるかな? こちらとしてはもう一節くらいゆっくりしていってもらっても一向に構わないが」
「そうですね……でしたら、今日より三日後、六節八日の朝方に出発したく思うのですが、よろしいでしょうか?」
「私は構わないが、本当にいいのかね? 遠慮されることはないぞ。何なら明日からはガルメール山の麓にある別荘でもてなそう。あちらはいい温泉があってな、美容にも良いと評判で、きっと気に入られるだろう。どうかな?」
温泉ってのは非常に魅力的だけど……どうしてこうも滞在を長引かせようとするんだ?
いや、社交辞令か。さっさと帰れとは言えんだろうしな。ここは更に歓待する姿勢を見せて伯爵の器の大きさを見せ付けようってことだろう。
「ご厚意感謝いたします。ですが、私たちは未だ旅の途上にあり、まずはシティールに辿り着いて居を構え、一度心を落ち着けたいのです。こちらの島でも随分と寛がせて頂いていますが、後顧の憂いがある状況下では、あまり長くお世話になり続けるのも落ち着かず……」
「ふむ、なるほど……そう言われては引き止めるのも悪いな。では三日後に、皆さんの船に随行させる護衛船をこちらに向かわせるとしよう」
ギャスパーは心から残念そうな顔で、渋々といった感じに頷いている。伯爵ともなれば腹芸もお手の物だろう。
「ところで、シティールに定住される予定なら、ローズさんは来年シティール魔法学園に入学されるのかな?」
「いえ、その辺りのことは《黎明の調べ》の方々と話し合わないことには、まだ何とも……」
「実はゲラルドを二年後に彼の学園に入学させられないか、現在調整中でね」
自慢の孫を語る爺ちゃんそのものの態で、まだ五十手前だろう伯爵はゲラルド君を見つめている。ショタは伯爵に一番近い端の席で、先ほどから姿勢良く座っている。肩肘張って俯きがちなところを見るに、やはり相当緊張しているようだ。水着の女だらけだし、お子様には刺激が強いってのもありそうだな。
それより入学の話だ。ボーダーン群島国は環ベイレーン同盟の一員ではないのに、入学できるのだろうか。何かしらの迂回ルートとかあるのかもしれないが……。
「ローズ様」
ふと左隣に座るルーシーが口元に手を添えて小声で呼び掛けてきた。ちなみに右隣にはリーゼが座っていて、先ほどから俺の右手をにぎにぎしてきている。俺もにぎにぎし返してるけど。
ついでに言えば、後ろにはニーナとラスティ、そしてイヴが立っている。食事のときみたいに座ればいいのに、今は三人の立場的に遠慮しているのだろう。ノーラも立ってるしね。
「シティールの入学枠だけは、環ベイレーン同盟以外の友好国からの入学受け入れにも使われますの。ボーダーン群島国はその最たる国で、魔女も含めて毎年何人かは入学するそうですわ」
「なるほど」
ベイレーン内海から外洋に出ようと思えば、シーハンネル海峡を通るしかなく、海峡の先にはサンメラ群島――ボーダーン群島国がある。環ベイレーン同盟が内海の外と海上交易をしようと思えば、必ずボーダーン群島国の領海を通らざるを得ない。
ボーダーン群島国は環ベイレーン同盟の加盟国のような、国土が海に面した国のお偉いさんや海商を上客としている。だからボーダーン群島国は環ベイレーン同盟以外の国々とも親交が深く、にもかかわらず環ベイレーン同盟に加盟させてしまうと、同盟外の国々からの反発は免れないだろう。ここはある種の緩衝地帯、もしくは中立地帯のような場所なのだ。
おそらく環ベイレーン同盟にとって、ボーダーン群島国は準加盟国みたいなもので、非常に親密な関係なのは間違いない。何しろ同盟の象徴ともいえる学園に、同盟外の国の子を入学させるほどだ。獅子身中の虫になりかねないのは承知の上で、親交を深めたいのだろう。地政学的に見ると、ボーダーン群島国は敵に回れば最悪の存在になるのは間違いないので、両者の関係性は非常に複雑そうだ。
「もしローズさんが来年入学されるのであれば、ゲラルドは後輩になるかもしれないからね。これも何かの縁だし、ローズさんとリュシエンヌ嬢さえ良ければ、今から少し遊んでやってくれないかい?」
「もちろん構いませんわ。わたくし弟がおりますから、年下の男の子のお相手はお任せくださいな」
「えっと、私も大丈夫ですけど……三人で、ですか?」
俺がリーゼやルティたちをちら見しながら尋ねると、ギャスパーは微苦笑を見せた。
「すまないね、とりあえず二人にだけお願いするよ。見ての通り、人見知りする子でね。あまり大勢の子と一度に仲良くするのはまだ難しそうなんだ」
やや呆れた様子ながらも、伯爵の孫を見る目は温かい。そりゃあんなショタが孫だと、爺ちゃんは可愛くて仕方ないだろうな。
しかし、このおにぎり野郎はその身の内に危険な具を隠していそうだ。といっても、超すっぱい梅干し程度だろうから実害はないだろうし、向こうも害意はないと思うけど……。
「さあ、ゲラルド、お姉さんたちに遊んでもらってきなさい」
「は、はい、お祖父様」
ショタが席を立つと、ルーシーも腰を上げた。
今すぐかよ。
まあ聞くべき話は聞けたし、後は大人同士で色々と話したいのかもしれない。この分だとリーゼたちも俺たちの後に退席させられるだろう。
「ではローズ様、ゲラルド君、参りましょうか」
俺たちは一足先に食堂をあとにすると、ひとまず砂浜に向かうべく桟橋を歩いていく。その途中、今日もパツキンはツイン団子なお嬢様が身を寄せて囁いてきた。
「ローズ様、早速ギャスパー様に目を付けられましたわね」
「……やっぱりそういうことなんですか?」
俺も何となく察していたことではあるが、ルーシーから言われては確定的だろう。
「ローズ様の魔女としての優秀さは、あの生け捕りにした賊を尋問したことで十分に伝わっているはずですもの。加えて実際にローズ様の美貌を目の当たりにした以上、どんな貴族だって放ってはおきませんわ」
「でも私、身元は不明ですけど」
「《黎明の調べ》が保証するのであれば問題ありませんわ。それは学園に入学すれば証明されることですから、ギャスパー様は今のうちに少しでもゲラルド君とローズ様の間に親交を結ばせておきたいのでしょう」
要するに、あのおにぎりは俺に唾を付けようとしているのだろう。可愛い孫の嫁候補の一人として、俺とゲラルド君を仲良くさせたいのだ。実際、孫と歳の近い魔女は他にもいるのに、ギャスパーは俺にばかり目を向けていた。
ここに滞在中、みんな遠慮なく魔法を使っているから、使用人や警備員たち経由で誰が魔女で、何級までの魔法が使えるのかといった情報は伯爵に伝わっていたはずだ。サラはほとんど魔法は使っていなかったので除外するとしても、俺もリーゼもルティも特級まで使えるため、貴族からすれば三人とも見逃せない人材なのは間違いない。
しかし、人間至上主義がある。ギャスパーが主義者かどうかは分からないが、貴族社会で獣人は歓迎されないらしい風潮を考慮すれば、リーゼの優先順位は低くなるだろう。ルティは人間だが、伯爵サイドから見た場合の評価は俺の方が高いはずだ。
何しろ俺は戦闘証明済みの魔女なのだ。どんなに優秀とされる武器だって、実戦で使ってみなければその性能は信頼し切れない。仮にルティの方が魔法も容姿も優れていると報告を受けていたとしても、俺は先日あの賊共を始末した事実がある。実戦で敵を殺すことのできる魔女の方が価値は高いはずだ。
加えて、俺の方が与しやすいと思われたのも大きいだろう。例の件での謝礼あるいは謝罪として右腕を治してもらったとはいえ、気持ちの上では少なからぬ恩義を感じざるを得ない。心理的に伯爵の言葉を無碍にはし辛くなっている。
「とすると、さっきクレアがもう一節お世話になると言っていたら……」
「その間はずっとゲラルド君とも一緒に過ごすことになっていたでしょう」
危ないところだった。
クレアもそれを察して三日後に出発と決めたのかは分からないが、これ以上の長居は面倒なことになるとは思っただろう。現在の俺たちの立場的に、一国の貴族を頼りすぎるのは良くない。下手すれば取り込まれて政争の具にされかねん。
「先ほど出会い頭にローズ様の腕を治して見せたことも、皆様の第一印象を良くしようという思惑あってのものでしょう。ローズ様たちに合わせる顔がなかったのも嘘ではないでしょうけれど、ソフィーヤ様が来るまで待っていたことも大きそうです」
「な、なるほど……そしてその流れから名前で呼んでくれと繋げることで、距離感がぐっと縮まるというわけですね」
「そういうことですわ」
「うーん、なかなか狡猾……」
「ギャスパー様をわたくしのお祖父様のような人だと思わない方がいいですわよ。あまり油断なさらないようにお願いしますわ」
ルーシーちゃん、ぐう有能。
貴族令嬢ってのは九歳で既にこれくらい頭が回るもんなのかね? だとしたら例の魔法学園は常日頃から裏で高度な心理戦が繰り広げられてそうだ。そんな只中に豆腐メンタル野郎が迷い込めば、SAN値ががりがり削れて鬱まっしぐらだろう。
やっぱり入学したいとは思えんな。
「とはいえ、ゲラルド君は素直な子ですから、普通に接してあげるのが良いと思いますわ」
「まあ、そうですね。あの子に裏はなさそうですね」
ルーシーと一緒にちらりと振り返ると、少し後ろをついてきていたショタと目が合った。ゲラルド君はあわあわと焦った様子で視線を泳がせ、やがて恥ずかしそうに目を伏せる。
純粋に子供として可愛いな。擦れている感じがまるでないから、見ていて微笑ましい。母親似なのか、おにぎりに似ていないのもいい。具は何も入っていないと思えて安心して食べられる。
……ショタを食べるとか言うのはよそう。俺はホモじゃない。
「さて、遊ぶと言っても何をしましょうか」
とりあえずサマーベッドのある辺りまで来たところで足を止めた。
ゲラルド君はこの島の子どころか、祖父がこのビーチの持ち主だから、海水浴なんてし飽きているだろう。
「ゲラルド君は普段何をして遊んでるんですか?」
「えっと……いつもは絵を描いています。この島の風景とか、動物とか、植物とか……」
もじもじしながら答える姿は嗜虐心をそそられるな。
どうやら見た目通り、元気に遊び回る子ではないらしいので、泳いだり走ったりするのはやめた方がいいだろう。ゲラルドきゅんは半袖半ズボンとサンダルな格好だから、砂遊びでもするか。芸術タイプのショタなら楽しめるだろう。俺も久々に両手を使って何かしたい。
「ローズ様、せっかくですからユーリさんと触れ合わせてあげては? 貴重な体験になると思いますわ」
「あぁ、なるほど」
ルーシーも幼竜を初めて見たときは興味津々な様子だった。トビアとトスカもメリーを可愛がってたし、子供にはウケがいいのだろう。動物の絵も描くってことだし興味を持つはずだ。
「ではユーリのところへ行きましょうか」
「あの、それは……竜の赤ちゃんのことですか?」
「そうですよ」
「……ほ、本当にいるんだ」
ショタの目が期待に輝きだした。
ユーリは今ならアシュリンと一緒にいるだろうから、周囲を見回して奴の姿を探す。アシュリンはリーゼと一緒にいないときは大抵ユーリの側にいて、ここ最近のバカンス中、ユーリは川岸で半身浴していることが多い。
川の方を見遣ると灰色の巨体が見えたので、そちらに移動した。
「ピュェピュェェェェッ、ピュェェピュェピュェェェ!」
「――ひぅ!?」
野郎はショタを見るや威嚇し始めた。
ゲラルドきゅんは見るからに怯え、俺たちの背に隠れている。
この魔物畜生、子供相手には無駄にマウント取ろうとするんだよな。見るからに自分より弱そうな相手にはイキりたいのだろう。ルーシーにはリーゼが仲良くし始めると威嚇しなくなったけど。
「まあまあ、落ち着いてくださいアシュリン。ほら、遂に私の右腕が復活したんですよ。久々に両手で撫でてあげますから」
「……ピュェ? ピュェピュェェェェン!」
せっかく両手でわしゃわしゃしてやったのに、一瞬大人しくなっただけで、すぐに再び騒ぎ出した。にもかかわらず、すぐ隣にいる幼竜は目も開けない。下半身だけ川面に沈めて眠りこけている。山羊のメーギーもすぐ近くにいるが、あちらも既に慣れたもので、身体を横たえたまま何事かと顔をこちらに向けているだけだ。
「アシュリン、向こうでリーゼが呼んでいましたよ。ユーリは私に任せて行ってあげてください」
「ピュェッ、ピュェピュェェェンッ!」
アシュリンは急に嬉しそうな声で鳴くと、うきうきした足取りで砂浜の方に駆けていった。言葉が通じたのかは微妙なところだが、適当な方向を指差してリーゼと言えば大抵ああなる。所詮マザコンなんてあんなもんよ。
「さあ、ゲラルド君、この子がユーリです。触ってもいいですよ」
「うわぁ……凄い、銀色だ」
ショタは幼竜の側に屈み込むと、その銀ピカな鱗を恐る恐るといった手付きで撫で始める。しばらく目をキラッキラさせて感触を堪能している様子だったが、ふと顔を上げて笑顔を見せた。
「竜なんて初めて見ました! しかも触れちゃいました! 小さいのに、なんか格好いいですねっ!」
「やはり幼体でもどことなく威厳の感じられる姿をしてますわね」
ルーシーもユーリの背を撫でている。
ユーリは薄目を開けたが、またすぐに目を閉じて、されるがままの状態を受け入れていた。いや、そもそも気にしていないのか。
「もし良かったら、三人でこの子の絵を描きませんかっ?」
ゲラルドきゅんは可愛らしい笑みを浮かべたまま興奮気味に提案してきた。先ほどまでは人見知り相応の奥手そうな様子だったのに、すっかり子供らしい覇気を感じさせる表情になっている。
「いいですわね。わたくしも絵画は多少嗜んでいましてよ」
「描くのはいいですけど、画材はあるんですか?」
「ここにはたまに来るので、予備も含めて置いてあるんです。使用人に言って持ってこさせますね。ちょっと待っててください!」
そう言うや否や、ゲラルド君は腰を上げ、走り出した。なかなかにテンションが上がっているようだ。しかし、どうも走り方を見るに運痴っぽいので、こけないか心配になるな。
「わたくしの弟もあれくらい素直ないい子だと良いのですけれど……」
「ルーシーの弟さんはどんな感じなんですか?」
「とにかく落ち着きがないですわね。座学よりも運動が好きで、じっとしているのが我慢できない子ですの。ちょうどゲラルド君と正反対ですわね」
お嬢様は既に遠く離れたショタの背を見つめて溜息を吐いている。
妹派の俺としても、ああいう可愛い弟かラスティみたいな男の娘なら、家族にいてもいいと思えるな。
「いえっ、そんなことよりも!」
突然、ルーシーがなぜか息巻いた様子でぐっと顔を寄せてきた。
近い近い。相変わらず圧が強いよ君……。
ていうか、家族の話をそんなこと扱いでいいのか?
「三日後にはお別れしなければならないだなんて! せっかく親友になれましたのに!」
いつの間にか俺たちは親友になっていたようだ。
まあ特に異論はないけども。
「もっと一緒に遊びたかったですわ……」
ルーシーは俺の手を左右それぞれに握って、悲しげな顔で見つめてくる。
ほんと女の子って、こういうスキンシップ好きだよな。俺も女相手なら嫌いじゃないし好きだから、握り返しちゃうけど。
「えっと、ルーシーはまだこの島に?」
「本来の予定では、六節一日から国内を巡り始めて、諸侯の晩餐会などに出席することになっていましたの。お祖父様が爵位をお父様にお譲りしますから、その挨拶ですわ。わたくしの顔見せも兼ねていますから、わたくしも同行しなければなりませんの」
「そうだったんですか」
たぶんローランはその諸侯とやらに会う前に、孫のアレな性格を矯正したかったのだろうな。
「シティールで再会できるとしても、来年のことですし……ローズ様、次はきっとシティール魔法学園の同じ教室でお会いしましょうね! 約束ですわよっ!」
「い、いえ、入学するかは分かりませんから約束はできないですが、入学しなくても学園を訪ねて会いには行きますよ」
「絶対ですわよ! そのときを心待ちにしていますわっ!」
ルーシーは俺の手を握りながら、期待に満ちた目で熱い眼差しを送ってくる。
ここまで懐かれて悪い気はしないけど、その期待には十全に応えられそうにないことを思うと、少し心苦しくなっちゃうな……。
「ローズさんっ、リュシエンヌさんっ」
聞こえてきた声の方に目を向ければ、ショタが手ぶらで駆け寄ってきていた。その後ろには荷物を抱えた二人のメイドの姿があり、慌てた様子で坊ちゃんを追い掛けている。
「お待たせしま――ぅわっ!?」
あと十リーギスほどといったところで、ゲラルド君がこけた。
予想はしていたので驚きはなく、俺はルーシーと一緒に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
と声を掛けながら、今まさに立ち上がろうと身体を起こしたショタに手を差し出す。ゲラルド君は反射的といった動きで俺の手を取ったので、ついでに特級の治癒魔法を行使しておいた。
「は、はい、このくらいなんと……も? あれ?」
「余計お世話かもしれませんが、念のため」
「あ、治癒魔法……凄い……本当に詠唱もせずに、一瞬で……こんな完璧に……」
見たところ手足を少し擦り剥いた程度だったが、すっかり無傷になった。
やはり治癒魔法って凄いな。腕を生やすことまではできなくても、一瞬で生傷が消えてなくなるのは驚異的だ。魔法士は何よりもまず治癒魔法を習得すべきかもしれない。
「えっと、ありがとうございます。ローズさんのおかげで、すぐ治りましたから、痛みも全然で……助かりました」
伯爵に溺愛されてる孫だから甘ったれたクソガキになっててもおかしくないのに、素直にお礼を言えていい子だ。驕り高ぶった様子も、捻くれた素振りもないから、相手は伯爵令孫だと身構えずに接することができるのは有り難い。
「そうですか。何事もなくて良かったです」
特別にローズスマイル(Mサイズ)をくれてやろう。
今日の俺は腕を治してもらって機嫌がいいのだ。
いい子にはサービスしちゃうぞぅ。
「え、ぁ……は、はい……大丈夫、です、はい……」
「あら、これは落ちましたわね」
ゲラルドきゅんは一丁前に照れてるのか顔を赤くしており、こくこくと頷いている。そんなショタを前にお嬢様は俺の隣でぼそりと呟いていた。
しかし落ちたって……この坊ちゃんは坊ちゃんらしく荷物はメイドに持たせて手ぶらだったから、べつに何も落としてないぞ。
「無事に済んだことですし、早速描き始めましょうか」
俺たちはメイドさんの持って来た画材道具一式でそれぞれ準備を始めた。俺としては紙に簡単に描くくらいで良かったのに、きちんとしたキャンバスに木炭で下書きするところから始めるようだ。ちょっとした遊びの写生でも本格的なところはノーブルクオリティだな。
いや、遊びの一環と思っているのは俺だけで、坊ちゃんは真剣なのか? 幼竜を写生できる機会なんてそうそうないだろうし……。
「あれ? もっと近くで見なくていいんですか?」
俺とルーシーは熟睡する幼竜から一リーギスほどの距離にイーゼルを置いて陣取ったのに、ゲラルド君は二、三リーギスほども離れたところにキャンバスを構えている。
「いえ、ぼくは……ここからの絵が、描きたいので……」
「あら……そういうことでしたら、わたくしもそちらから」
なぜかショタがもじもじとした様子でぼそぼそと答えると、ルーシーは何かを察したように頷き、ゲラルド君の近くに移動した。そしてお嬢様がにやりと笑いかけると、お坊ちゃんはぎくりとした顔を見せつつも、それを誤魔化すように照れ笑いを見せている。
なんか二人が急に仲良さげだった。
貴族のボンボン同士、通じ合える何かがあるのだろうか?
「じゃあ、せっかくですし私もそっちの方から……」
「ローズさんはそこでお願いします!」
「そうですわっ、ローズ様はそこでじっと集中して描いててくださいまし!」
二人とも有無を言わさぬ力強い声だった。
「……まあ、いいですけどね」
何だよ、俺だけ仲間外れにしちゃってさ。
いいもんいいもん、俺はユーリを近くからじっくりねっとり観察して細部まで細かく描いてやるんだから。ユーリはあまり動かず寝てばかりだから、絵のモデルには打って付けだし、リハビリがてら頑張っちゃうぞ。
それから俺たちは適当に雑談を挟みながら、お絵描きに勤しんでいった。久々に使う右手は少し感覚が鈍っていて、勘を取り戻すのに多少時間が掛かったが、その甲斐あって右手を動かせるという状況に対する違和感はすっかり解消された。
「ローズさん、今日はありがとうございました」
結局、日暮れ近くになってゲラルド君が帰ることになり、解散となった。どうやら泊まっては行かないらしく、明日も明後日も来るつもりはないようだ。
「今更ぼくがお邪魔しても、皆さん落ち着かないでしょうから。三日後の出発に備えて、ゆっくりと英気を養ってください。出発の朝には見送りに来ますので、またそのときに」
庶民を気遣えるお坊ちゃま、いい子すぎひん?
こいつは将来身も心もイケメンになりやすぜ、おにぎりの旦那。
伯爵様は孫の意思を無視してまで泊まらせるつもりはなかったようで、意外にもあっさりとソフィーヤ婆さんと一緒に船で帰っていった。
ユーハの右目のことはすっかり忘れていたが、トレイシーが頼んで治癒魔法は試してもらっていたらしい。結局治らなかったようだが、ユーハは特に落ち込んでいたりはしなかった。もう隻眼でも慣れっこなのだろう。俺も何だかんだで片腕生活には慣れちゃってたしね。
「さて……遂にこのときが来たようだな」
入り江から見える大海が赤く染まる夕暮れ時。
伯爵の船を見送ったみんなが解散していく中、俺は感慨に耽るあまり一人立ち尽くし、呟いてしまった。
「ローズー何してるのー? 早くお風呂行こー!」
「あ、はーい今行きまーす!」
リーゼに呼ばれて我に返り、俺はスキップしそうになりながらも自制して砂浜を走る。
落ち着け……落ち着くんだ。
慌てる童貞は貰いが少ないという。
ここは冷静に、日本男児らしく、装甲する武者の心構えで事に臨むんだ。
「さーてローズ、アンタにはみんな今まで散々洗ってあげてたからねー。今日はしっかりアタシたちの身体洗ってもらうわよー」
薔薇には水を。美女には泡を。俺には魅惑の感触を。
今宵の右手は――柔肌に飢えている。
「任せてください! 全力でお相手しますっ!」
♀ ♀ ♀
久々に館のメンバーだけで入浴することになった。
なったというか、俺がそう希望した。
全員に対して一度に恩返しすることは時間的に難しいので、今日、明日、明後日の三回に分ける必要があったのだ。だから今日はクレア、セイディ、メル、リーゼ、サラの五人の身体を洗ってあげることにした。
このビーチにある浴場はなかなかに立派で、十人以上で入っても十分に余裕がある広さだ。こんな大浴場は魔大陸を出発して以来入っていなかったので、今日は館で生活していた頃のメンバーだけということもあり、何だか懐かしい気持ちになるな。
「一人ずつしっかり洗うので、クレアたちは先に髪を洗いながら待っててください」
年齢順にお相手することにしたので、まずはリーゼからだ。クレアとかいうラスボスは時間が掛かるからね。体表面積の少ない順に攻略していくのが正解だろう。
「さあリーゼ、いきますよー?」
「いつでもこーい!」
幼狐はバスチェアに座ったまま両手足を伸ばして叫んだ。洗われる気満々である。
とりあえず背中から取り掛かることにして、泡だらけのボディタオルでごしごしと洗っていく。この身体の腕力は九歳の女児相応なので、ぐっと力を込めて擦るくらいでちょうどいい。
「うーん……べつにフツーだねー」
「リーゼは普通じゃない洗い方をご所望ですか?」
「おぉーっ、フツーじゃないのをゴショモーするぞー!」
ご注文承りました、お客様。
それではローズ洗体師による幼女用スペシャルコースでお相手しましょう。
「ひゃふっ、ふにゃはははははっ、や、やへぁっ、やめろぉずぅぅうひひひひっ」
左手に持ったボディタオルで洗いながら、右手でくすぐってやった。半年に及ぶ左手生活のおかげか、俺の両手は以前よりも遥かに左右別々の動きができるようになっている。
全身を洗い終える頃には、リーゼは笑い疲れて床に倒れていた。
フッ、所詮は幼女。ちょろいぜ。
「さて、次はサラですね」
「……ローズ、くすぐりは禁止だからね」
金髪褐色の美少女は全身を強張らせて警戒していた。
「分かりました。くすぐりは、なしでいきます」
今回は先ほどと異なり、まずは手足から洗っていく。どうやらサラは俺を疑っているので、まずは緊張を解してやらないとな。
もちもちですべすべな淡い褐色肌を丁寧に、かつ素早く泡だらけにしていく。この年頃の少女の四肢は子供らしい華奢さがありながらも、女らしい肉付きの良さも随所に見られ、青い果実特有の美しさがある。
サラは身長の割に、まだ胸元や腰元の丸みには乏しい。それはそれでスレンダーな魅力があって良いものだが、洗い甲斐には欠けるな。一応、胸の膨らみは感じられたが、まだセイディ並だ。
「どうですかサラ、いい感じですか?」
「うん、そうねー、いい感じよー」
もはやデビル可愛い美少女はリラックスしてバスチェアに腰掛けており、その背を無警戒に晒している。俺はこれまでと変わらず、背中にも白い泡をまぶしていった。
それから濃紫色の翼も一通り洗ったところで、ボディタオルを床に置く。
「あ、終わった? 身体は自分で流すか――りゃ!? ちょっ、ローズ!?」
「フッフッフッ、油断しましたねサラ」
俺は両翼の根元を両手でそれぞれマッサージしていく。そう、これはマッサージ。くすぐりではないので、嘘を吐いたことにはならないのだ。
それにしても、こんな無防備に翼人の弱点をほいほい晒すとは……愚かなり。
俺はッ、JS6の手のひらでッ、転がされる男ではないのだッ!
「んぅっ……ちょっ、ローズッ、あっはははは……やめっ、んあっ……ひぁあぁぁ……っ」
サラがバスチェアから床に転げ落ちたところでマッサージを終えた。
フッ、所詮は少女。俺が本気を出せばこんなもんよ。
「さて、次はメルですね」
「えっと……ローズ、わたしには本当にくすぐりとかはなしでね」
ちょうど髪を洗い終えたメルは若干引き気味に俺を見ていた。可愛らしく垂れた獣耳がひくひくと動いており、俺の挙動に耳目を集中させて怯えているのが分かる。
「大丈夫です、分かってますよ」
メルは二節後に十八歳になる。十八歳ともなれば、もう少女とは言い難いだろう。つまり今のメルは大人になる直前の、少女として成熟した状態にあると言える。十七歳が如何に素晴らしいお年頃かは、永遠の十七歳という言葉から容易に理解できよう。
だから、俺はおふざけなしに、ただただ丁寧に十七歳の肉体を洗ってあげる。デリケートな部分は素手で優しく洗ってあげる。何なら背中から抱き付いて、幼女のもち肌で洗ってあげる。
「……ローズが洗うときって、いつもおっぱいだけ念入りだよね」
「え? そうですか?」
極々自然にすっとぼけておいた。
「ふぅ……ありがとう」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました」
洗い終えると、メルは安堵の吐息を漏らしつつ、笑みを向けてくれた。
うーん、メルとの触れ合いは和むね。
色々堪能できたし、いい具合に右手が温まってきたぞ。
「さあローズ、しっかり洗ってもらうわよ。でもお姉様の番もあるから手早くね」
「了解です」
美天使は特に警戒した様子もなく堂々としていた。
俺もセイディについては無駄に素手洗いとかはせず、テキパキと洗っていく。スレンダーなボディは魅惑の感触こそ乏しいが、ちゃんと女らしいエロさはあるので、ただ普通に洗うだけでも楽しめる。女の肉体ってのはどうしてこうも魅力的なんだろうな。
「翼は大変だからみんなで洗うんだー!」
肌を隅々まで洗い終え、白翼に取り掛かったところで、リーゼが加勢してくれた。サラも、メルも、クレアも加わり、五人で大きな翼を洗っていく。サラと違ってセイディの翼を洗うのは大変なので、身体の方を素手洗いとかしている時間的余裕はないのだ。決して触り甲斐がないわけではない。そういうことにしておく。
「何だか懐かしいわね、こういうの」
ふと、俺の隣で手を動かすクレアがしみじみとした声で呟いた。彼女は既に洗った髪をタオルで纏め上げているため、表情がよく分かる。いつ見ても整った目鼻立ちの美貌が今にも泣き濡れそうな様子なのが見て取れた。いや、既に目は潤んでいる。
翼を洗い終えると、遂にクレアの番となった。
「ローズ、その前にちょっと抱きしめさせてくれる?」
全裸の美女に正面から抱きしめられた。
俺の顔面は二つの巨大な塊に埋もれてしまい、その至高の柔らかさに脳がとろけそうになる。そして本能のまま高揚感に身を任せてぱふぱふを全力で堪能しそうになるが……僅かに残っていた俺の理性は、そんな気分とは程遠かった。
「ローズも抱きしめてくれる?」
「はい」
両手をクレアの背に回して、しっかりと力を込めて抱きしめた。
すると頭の上から鼻をすする音が聞こえて、より一層俺の身体が美女の肉体に強く引き寄せられる。俺はそれに抗わず、むしろ進んで密着した。
「本当に……本当に、良かったわ。ちゃんと治ってくれて、ありがとうね」
心から嬉しそうに、涙声で言われた。
それくらいクレアは俺のことに心を砕いていたのだろう。
「シティールで治してもらうつもりではいたけれど、すぐに治してもらえるかは分からなかったし……あのときのことが心の傷になっていて、治らないかもしれなかったから……本当に良かったわ、良かった……」
右腕が欠けた幼女の姿を見る度に、クレアは痛ましい思いに駆られ、苦しんだはずだ。それは彼女のみならず、みんな程度の差こそあれ、重苦しい気持ちになったことだろう。五体満足でない俺の姿は、去年の悲惨な出来事の象徴みたいなもんで、あの惨状を思い出すトリガーになり得ていた。ある意味、サラのように目には見えない傷よりも質が悪い。
しかし、ようやく癒えた。現在の日常にまで引き摺っていた過去は、真に過去のものとなった。リーゼもサラも最近は落ち着いているため、みんなはこれからの日常の中で、あの惨劇を不意に思い出すようなことはなくなるだろう。その日常に婆さんとアルセリアとヘルミーネはいないが、表面上は元通りだ。目に見える傷はもうない。
半年掛かって、ようやく一段落付いた。
「クレア、心配掛けてすみませんでした。それと、いつも私のこと大切に想っていてくれて、ありがとうございます」
「ローズも、今まで不自由させてごめんね。あなたがいつもみんなのことを考えてくれて、みんなのために頑張ってくれているのは分かっているつもりよ。もう無茶はしてほしくないけれど、これからもその優しさは大事にしてね」
クレアは抱きしめてきながら、豊満な胸元に半ば埋まっている俺の頭を優しく撫でてきた。そこには確かな愛情があって、俺はすっかりその母性にやられてしまって、今はもうエロい気持ちにはなれそうになかった。
だが、それでいいと思える。
人はみんな、心で触れ合うために、身体で触れ合っているのだ。俺たちは常日頃からスキンシップしているけど、それは相手の心に近付くための手段であり過程に過ぎず、触れることそのものを目的にして行っているわけではない。より深く相手の心と繋がりたいだけなのだ。
まあ、俺は魅惑の感触を味わうためにだけに触れることもなくはないけど、見知らぬ美女相手にクレアたちほど触れ合いたいとは思わないし、思えない。ここまで身も心も安心できる抱擁は彼女ら以外ではできない。
「……急に抱きしめちゃってごめんね。私の身体も、久しぶりに洗ってくれる?」
「はい。任せてください」
抱擁を解いた俺とクレアは微笑みを交わし合ってから、身体を洗い洗われる穏やかな時間を楽しんでいく。美女の背中を洗いながら、ふと横を見れば、セイディがサラを抱きしめて頬ずりしていた。リーゼはメルに抱き付いて、メルは笑顔で抱っこしてやっていた。
俺たちに血縁関係はないけど、大事な家族だと思える。
自分がこんなにも誰かのことを深く想える――愛せることが誇らしいし、幸せだ。みんなのためなら俺はなんだってできるし、一緒にいるだけで人生楽しいし、元気百倍で頑張れる。
「ありがとう。ローズの身体は私が洗ってあげるわね」
クレアを洗い終えると、彼女は俺をバスチェアに座らせた。そして愛しい我が子を撫でるように、背中をボディタオルで優しく擦って泡だらけにし始める。
「ローズー、さっきはよくもやったなー!」
「さっきのお礼したいから、わたしも手伝うわ!」
「あっ、ちょ……きゃはははっ、ま、待って……ひゃっ、ら、らめほんと……あははははっ」
リーゼとサラの二人がかりで襲われては、この幼女体の非力な腕力では抗しきれるはずもなく、俺は涙が出るほどくすぐられて、笑い声を上げさせられた。
所詮は幼女と少女とはいえ、力を合わせて来られては敵わない。
全身から汚れが落ちて綺麗になる頃には、俺はもう息も絶え絶えで、湯船にはセイディに抱えていってもらう。あの子らは手加減してくれるほど情け深くはなかった。
「やっぱり広いお風呂はいいわね」
全員が湯船に浸かってのんびりしていると、クレアが満足げな吐息交じりに呟いた。それは全員の心のうちを代弁した台詞で、俺たちはシティールの新居でも風呂は大きい方がいいなどと話し合いながら、久しぶりの家族団欒を楽しんだ。
風呂を出る頃には右手の飢えはすっかり解消され、心は温かな思いで満ち足りていた。
♀ ♀ ♀
バカンス九日目は街に買い出しに行くことになった。
この島に来た当初、不足していた物資はベルとソーニャが粗方補充してくれていたが、食料は保存食を買っただけで、生鮮食品はまだだった。船内には魔法の氷で運用する冷蔵室があるので、そこに入れるものはなるべくなら出発直前に補充した方がいいからだ。
というよりも、おにぎり伯にはあのビーチ以外での安全は保障してもらっていなかったので、ビーチに来てからは街の方に迂闊に行けなかったのだ。使用人に注文しようにも、航海中は自分たちで料理をするのだから、できれば食材関係は自分たちで選んで購入したかったし、一段落したら街に行きたいとも思っていた。
朝食後、ほぼ全員でドラゼン号に乗り、最寄りの港街に出向いた。食料以外にも服を買ったりして、久々の街や買い物を楽しんだが、その日は結局それでほとんど潰れてしまった。
翌日、バカンス十日目。
出発を明日に控え、このビーチで過ごす最後の日ということもあり、大人たちは水着姿に着替えはしたものの泳ぐことはなく、のんびりと寛いでいた。リーゼやルティやウェインたちお子様は、明日からの航海に備えて身体を休めるという発想はないようで、これまでと変わらず海で遊んでいた。
俺は一昨日描いた幼竜の絵を完成させることにして、眠るユーリの隣に座ってゆったりと作業を進めていった。色を塗るとなると一日では到底終わらないので、木炭だけのモノクロ絵として仕上げた。これはこれで風情があって悪くない。
結局、この十日の間、危険な事態に陥ることは一度もなく、最終日も無事に終わった。
そうして、あっという間に出航の朝を迎えた。
幸いにも晴天で、雲はほとんどない。波も穏やかで、絶好の船出日和だ。
「ギャスパー様、ローラン様、この度は大変お世話になりました。誠にありがとうございました」
小舟の留まった桟橋前の砂浜で、俺たちはクレアに続くように、アロハシャツの二人に対して頭を下げた。
「いやいや、元はといえば工作員共の跳梁跋扈を許してしまった私の不手際が招いたことだ。それに事情はどうあれ、こうして《黎明の調べ》の魔女の方々を歓待できたこと、ボーダーンの貴族として光栄に思うよ。無事シティールに到着したら、《黎明の調べ》の方々によろしくお伝え願えるかな?」
「はい、もちろんです」
ギャスパーにとって、今回の一件はそう悪いものではなかったのではなかろうか。領内で暗躍する他国の不埒者共を始末できた上、俺たち魔女を手厚く保護したという実績を残せたのだ。
伯爵は再来年に孫をシティール魔法学園に入学させたいようなので、シティールに多大な影響力を持つだろう《黎明の調べ》に対して誠意を示せたことは大きい。領地の安全管理が甘かったのは事実だが、元凶がバシーケイ多種族国であることに変わりはないため、《黎明の調べ》に対してはマイナスよりもプラスの方が大きいだろう。
他国の侯爵であるローランに対しては借りができてしまっただろうが、そもそも貴族に限らず人間関係は貸し借りをし合う間に醸成されていくものだ。借りだろうと立派な繋がりで、それを今後の関係構築に活かせる器量があるなら、結果的にはプラスになる。
「ギャスパー殿はこう言っているが、此度のことは我が愚息の軽率な行動が引き金となったのは事実だ。私に礼を言われても困ってしまうよ。しかし、感謝の念を抱いてくれているというのなら、今後も孫とは仲良くしてあげてほしい」
「私たちはもう友達ですからね。誰に言われずとも仲良くしますよ」
これには俺が、敢えて子供らしく応じておいた。
何しろ俺は黄門様のお孫さんの親友らしいからね。
「ローズ様……ここでひとまずお別れですわね」
海を背にして貴族たちと向かい合う俺たちの方に、ルーシーが寂しそうな顔をして進み出てきた。今日はばっちり金髪ツインドリルなお嬢様は俺の両手を取り、潤んだ瞳で見つめてくる。
「ルーシー、またシティールで会いましょう」
「あたしも魔法学園に行くからまた一緒に遊ぼー!」
リーゼの行くというのは、入学するという意味だ。この子は学園のことを知って、通う気満々でいる。魔女として気兼ねなく振る舞える上に、魔女を含む同年代の子供が数百といる場所だから、たくさん友達ができるはずと期待してしまうのだろう。
学園の生徒の半分は平民だって言うし、リーゼみたいな子なら学校を楽しめるだろう。俺はスクールカーストとか学校の面倒な部分をついつい考えちゃうから気後れしちゃうけど……。
「次にお会いするときまでには上級魔法を習得しておきますわ! え、詠唱省略は難しいかもしれませんが……何とか頑張ってみます!」
「次に会うときを楽しみにしていますね」
ルーシーは笑顔でお別れしたいのか、今にも泣き出しそうな顔に頑張って笑みを浮かべているようだった。いじらしくて可愛らしかったので、俺も笑顔でしっかりと両手を握り返しておいた。
「ロ、ローズさんっ、こちらを受け取ってもらえませんか!?」
お嬢様が名残惜しそうに手を離すと、今度はお坊ちゃまが歩み寄ってきた。その腕には一抱えほどもある板状の何かが――おそらくはキャンバスが、布に包まれた状態で抱え込まれており、ゲラルド君はそれを俺に差し出してきた。
幼女でも一応持てる大きさだったので、受け取っておいた。伯爵の孫からの贈り物を受け取らないわけにはいかないしな。
「えっと、これは絵ですよね? 見てもいいですか?」
「……ど、どうぞ」
想像以上に重かったこともあり、俺はすぐ隣にいたニーナとラスティに二人がかりで包みを持ってもらってから、無駄に上等な布を取り払った。
「お姉ちゃんとユーリだ」
ルティの言うとおり、立派に額装されたキャンバスに描かれていたのは、赤い髪の幼女と銀色の幼竜だった。それはどう見ても三日前の川辺での姿で、実際に俺はイーゼルの前に座って真面目な横顔を見せている。三日前は結局、ルーシーもゲラルド君も描いた絵を見せてくれなかったもんだから、まさかあのとき俺の姿もセットで描いていたとは思わなかった。
平面上に描かれたローズちゃんは、鏡で見るよりも幾らか美化されている気がしないでもなかったが、可愛らしいことには違いない。ゲラルド君は蒼水期で八歳らしいので、現在は七歳と半年ほどだ。にもかかわらず、その年頃の絵とは思えない画力で、写実的な画風も相まって、素人目にもかなりの才能を感じさせる。将来有名画家になってこの絵がプレミア化しそうなレベルだ。たぶん普段からしっかりデッサンとかしたり、プロの画家による個人指導を受けたり、色々と努力もしているのだろう。
「ど、どうでしょうか……?」
ショタが不安げな上目遣いでこちらの反応を窺っている。
相変わらず可愛い坊ちゃんだ。
俺が単なる年上のお姉さんって立場だったら、プレゼント効果もあって胸がきゅんきゅんしていたかもしれん。しかし生憎と俺は男なので、可愛いショタに対する慈愛の念しか湧き上がらない。
「ゲラルド君、ありがとうございます。この短い間にこんなにも綺麗に描いてもらえて、嬉しいです。大事にしますね」
「あ……は、はい! どういたしまして! お気に召してくれたならぼくも嬉しいですっ!」
ゲラルドきゅんの表情は曇り模様から一転して、今日の青空にも負けない晴れやかな笑みに変わった。本人の言葉通り本当に嬉しそうで、その素直さに思わずほっこりしてしまう。
しかしそれ以上に、俺も本当に嬉しい気持ちがあった。
自分の姿が描かれた絵は昔リーゼとサラに遊びのお絵描きの産物として貰ったことがあるけど、今回のはキャンバスに描かれた割と本格的な絵画だ。そんなしっかりとした自分の絵を貰うことなんて前世でもなかった。
初めてで驚いたし、ちょっと気恥ずかしい思いもあるけど、こういうプレゼントって意外と悪くないどころか、いいな。純粋に嬉しいと思える。しかも、この絵の完成度を見る限り、ゲラルド君は昨日一昨日とぶっ続けで描き続けたことは想像に易い。見送るときに渡そうと一生懸命頑張ったのだろう。
もしこれが三十路のオッサンの描かれた絵だったら微妙な気持ちになっただろうが、今の俺は可愛い幼女だ。自分が可愛く描かれた絵を貰って、これが今の俺なんだという喜びを改めて感じられたこともあり、嬉しさ倍増で自然と顔がにやけちゃうよ。
「最後に素敵なものを頂いてしまいました。このお礼はいずれ必ず」
にやけ顔を誤魔化す意味でも、俺は感謝の気持ちを込めてローズスマイル(Lサイズ)をショタにプレゼントした。
「は、はぅぅ……」
どうやら俺のスマイルが素敵すぎたのか、ゲラルドきゅんが顔を赤くして俯いてしまった。この年頃の男の子なら、年上の可愛いお姉さんに微笑まれてはたじたじになっちゃうのも無理はないか。
「えっと、その……ローズさん」
ショタが俯きがちな赤い顔で、ちらちらと俺を見ながら、もじもじしている。大人な女性なら母性本能をくすぐられそうな仕草だ。
「何でしょう?」
「ローズさんは、シティール魔法学園にご入学されるかは分からないとのことですが、ぼくとしては、あの……ローズさんには是非、ご入学してほしいと思っています!」
まるで一世一代の告白でもするかのような勢いで言われた。
その様子が何だか微笑ましかったので、リップサービスくらいはしてやるか。
「そうですか。私の一存で決められることではありませんが、私自身は前向きに検討することにしますね」
「は、はい! もし入学されずとも是非学園の方に訪ねてきてください! 待っています!」
そ、そんな目をキラキラさせて期待されると罪悪感が……。
もしリーゼが入学することになったなら、俺も一緒に行ってもいいかもな。うちの子は世間知らずだから心配だし、ルーシーもいるなら何とか上手くやっていけるかもしれん。可愛い後輩もできそうなら、そう悪くない学校生活が送れるかもしれない。
「あぁ、ローズ様! わたくしも待ってますわっ!」
感極まった様子のルーシーが抱き付いてきたので、俺も抱き返して、背中を優しく撫でてやった。やはり両手があるのはいいな。
しばらくルーシーが駄々をこねるようにくっついて離れてくれなかったが、ローランからこれ以上引き止めるのは悪いからと言われると、渋々といった感じで解放してくれた。
「それでは皆さん……旅のご無事をお祈りしていますわ」
「ええ、ルーシーも元気で」
俺たちは桟橋で小舟に乗ると、見送りしてくれる貴族たち、そして浜辺にずらりと並んだ使用人たちに手を振りながら、海の上を進んでいく。
「じゃーねー、また会おうねー!」
「ええっ、必ず! 必ず再会しましょう!」
リーゼが大声で叫びながら両手を大きく振ると、ルーシーも同じように声を張って両手を振っている。あまり令嬢らしくない振る舞いだったが、九歳児らしくて微笑ましかった。やはり子供は元気なのが一番だ。
「ローズさんっ、次にお会いするときはまた絵を描かせてください!」
ゲラルド君も手を振っていた。
あの子の絵はこれからどんどん上達するだろうから、また描いてもらえるのであれば、楽しみにしておこう。この世界は写真がないから、成長の記録を残そうと思ったら絵に描くしかないからな。九歳の頃の姿を割とハイクオリティに保存できたのは思わぬ収穫だった。
「みんな、この十日間楽しかった?」
小舟からドラゼン号に移ったところで、クレアが子供たちに尋ねた。
「楽しかったー! また来たい!」
みんなリーゼと同じ気持ちであることは、明るい表情から一目瞭然だった。
一節半前、航海中に襲われて〈霊衝爆波〉とか使われたり、人を殺しまくっちゃったときには、これからどうなることかと心配したが、結果的には良い方向に転がってくれたな。
もうシティールまでは二節も掛からないだろうから、旅の終盤にいい息抜きができた。シティールでは心機一転、気持ち良く新しい日常を始められるだろう。それまでに〈瞬転〉の無詠唱化ができるようになっていれば、上々だ。
俺たちは楽しい思い出を胸に、前向きな気持ちでティムアイ島をあとにした。
以下、おまけ
短編 『ドキッ! 素直な少年のドリームバカンス』(イラストあり)
「うわあああああローズの腕が治ったあああああああ!」
歓声を上げるリゼットに続き、周りの皆もそのことを喜ぶ中で、ウェインはそっと深く息を吐いた。
ウェインはこの半年間、肘から先のないローズの右腕を見る度に、罪悪感が湧き上がっていた。シティールに行けば治療されるとのことだったので、ユーハに諭されてからは暗い顔にならないように気を付けてはいたが、ユーハの右目のような例もある。心的外傷とやらの影響で治らない可能性もあることを考えると、不安でなかなか寝付けない夜もあった。
だからウェインにとって、ローズの右腕が無事に治ったことは本当に喜ばしく、それと同等かそれ以上に安堵した。胸のつかえが取れたような心地で、随分と久々に心の底から笑みを浮かべることができた。
「今日は良い一日であったな。そうは思わぬか、ウェイン」
その日の夜、相部屋のユーハが就寝の準備をしながら満足げな様子でそう言った。
「まあ、そうだな」
「やはりローズは強い。某も見習わねばな」
「ユーハもいつか治るといいな」
「うむ……皆に心配を掛けていると思うと情けないし、申し訳ない。マリリン殿もソフィーヤ殿も、己の心持ち次第と申しておったが……我が事ながら如何ともし難いものだ」
ユーハは眼帯を外しながら苦笑している。
ウェインにとってのユーハは恩人で、尊敬できる男でもある。あまり弱気なところは見たくないが、見せられたとしても軽蔑することはない。人には誰だって後悔やら未練やら、何かしら抱えるものがあり、思い悩むものなのだ。そのことはここ半年ほどで身に沁みて理解した。どんな弱さがあろうと、それ以上の強さがあるなら、人として立派だと今では思えている。
「まだ昔のこと気にしてんのか?」
「いいや、気にしておらぬ……と申せば嘘になるが、今はもう過去よりも未来を見据えるべきと心得ておる。しかし、どうやらそれだけでは足りぬらしい。以前ウェインに偉そうなことを宣っておきながらこの様ではな……面目次第もない」
「そんなこと気にすんなよ。今でも十分ユーハはしっかりしてると思うぞ」
「……ふふふ、ウェインも申すようになったではないか。その意気だ」
ユーハの顔に浮かんでいた笑みから苦々しさが消えた。そこには暗さもなく、ただ男が男に対して向ける気安い笑みにしか見えなかった。
「ローズの腕が治った以上、もはや皆への遠慮など無用どころか無粋でしかない。それは分かっておるな?」
「ああ、分かってる。大丈夫だ」
「うむ、明日はウェインもローズの右手を握ってやると良い。きっとローズも喜ぶ」
今日のローズはリゼットやクレアたちなど特に親しい面々としきりに手を握り合っていた。ウェインはどうせ向こうから手を握ってくるだろうと思っていたが、結局触れてくることはなかったので、密かに残念に思って――いや、拍子抜けしていた。べつに残念になど思っていない。
ウェインは自分にそう言い聞かせていたが、ユーハは意味深な笑みを向けてきており、それがやけに気恥ずかしかった。
「ま、まあ……気が向いたらな」
「はっはっはっ、何も恥ずかしがることではない」
「……そういうユーハもトレイシーの手くらい握ってやったらどうだ?」
何やら訳知り顔で上機嫌に笑う姿が癪に障り、ウェインは思わず反撃した。これまで触れないようにしてきてやったが、人のことをとやかく言うなら、ウェインとしても言わざるを得ない。
その効果は抜群で、ユーハは一転して気まずそうな顔で視線を泳がせていた。
「い、いや、その……それとこれとは、話が別であろう」
「何がどう別なんだよ?」
「……………………」
奇妙な沈黙が十秒ほど続いた。
ユーハはわざとらしく咳払いをすると、いそいそと寝台に潜り込んだ。
「さ、さて、寝るとしようか。明かりを消しても良いか?」
「いいけど、それでユーハはトレイシーの手を握ってやるのか? やらないのか?」
「では、おやすみウェイン。今日はまこと良い一日であった故、お互い良い夢を見られるかもしれぬな」
ユーハは問いには答えず、真面目くさった声で一方的に告げると、枕元の魔石灯を消灯した。
ウェインはユーハのことを信じているし、数少ない男仲間として心を許している。それは向こうも同様だろう。しかし、互いに触れてほしくないこともあるのだと、暗黙のうちに理解し合えたような気がした。
■ ■ ■
良く晴れた空の下、今日も今日とて水着に着替えて海と向かい合う。
ここ最近は毎日泳いでいるため、海で泳ぐことにもすっかり慣れ、ウェインは少々飽きてしまったほどだ。しかしリゼットにそんな様子は皆無で、初日と変わらぬ元気さでローズやルティカたちと海での遊びを満喫している。いや、ローズの腕が治ったことで、これまでで一番はしゃいでいた。
「……たまにあいつが羨ましくなるな」
思わず溜息が零れ出た。
本日のウェインがなかなか海での時間を楽しめないのは飽きもあるが、ローズのことが大きかった。結局、昨日から一度もローズの右手に触れていない。いつもならローズの方から意味もなく触れてくるというのに、昨日からはそれが一切ない。
だからといって、ウェインの方から触れることはできなかった。トレイシーに怒られそうだからだ。軽々に男が女の身体に触れるものではないとトレイシーに教育されている以上、仕方がない。だから決して照れているわけでも、恥ずかしいわけでもないのだ。
「そうだ、べつに俺は何とも思ってない。ただ、トレイシーの言うことは無視できねえから……」
波打ち際で一人ぶつぶつと呟いたところで、ウェインはふと気付いた。先ほどまで視界内にいたローズの姿がなくなっている。リゼットやルティカは相変わらず海で遊んでいるのが確認できるが、いつの間にかローズだけいなくなっている。
「ウェイン、何をきょろきょろしてるんですか?」
周囲を見回してローズの姿を探していると、背後から声が掛かった。それが目的の人物の声だったこともあり、ウェインは反射的に振り返る。
「――え?」
予想外の光景を前に、思考も全身も硬直した。
しばらくぽかんと口を半開きにしてローズの姿を見つめていると、彼女はにやりと挑発的な笑みを浮かべて、全身を見せ付けるように両腕を上げて脚を組んだ。
「そんなに見とれるほど可愛いですか?」
「なっ……べ、べつに、見とれてなんてねえしっ」
思わず言い返しつつも、未だにウェインの頭は混乱していた。
つい先ほどどころか、昨日までとは全く異なる水着姿なのだ。クレアたちが着ている大人用の水着のように布面積が少なく、そこはかとなく扇情的な意匠だ。あまり女らしい服を着ようとしないローズらしからぬ格好ということもあり、見慣れぬ女らしい姿は不意打ちのようにウェインの心を射抜いた。
「あれあれ? 可愛いは否定しないんですか?」
「……そ、そんなことより、何だよそれ。そんな水着も買ってたのかよ」
「あー、誤魔化したー」
「ご、誤魔化してねえ!」
上手く言葉が出て来ないせいで、勢い任せに応じていると、ローズはおかしそうに笑ってきた。その笑顔がやけに可愛らしくて思わず見とれそうになり、今度はすぐに目を逸らす。
「ルーシーにどうしても着てほしいと頼まれまして」
ローズは自らの格好を恥ずかしがるような素振りなど欠片もなく、平然としている。しかし、ウェインはどうにも直視できず、不自然に視線を彷徨わせながら「そ、そうか」と頷くことしかできない。件の貴族令嬢の姿が見えないことなど気にもならないほど、余裕がなかった。
「それで、どうです? 似合ってますか?」
「……さあな、知らねえよ」
「んもー、ウェインは相変わらずですねぇ」
ローズはにやにやとからかい交じりの笑みを浮かべながら立ち上がり、ウェインの目の前にまで迫ってきた。
「可愛いよ似合ってるよって言ってくれたら、特別に私をお姫様抱っこさせてあげますよ?」
目と鼻の先から、上目遣いに見つめてくる。
目を逸らそうにも近すぎて無理だった。しかし、おかげで受けて立とうと思えた。ローズはいつものようにからかってきている。ここで逃げ出すような受け答えをすれば、相手を更に調子付かせるだけだ。ここは今後のためにも、毅然とした態度で敢えて可愛いと肯定してやる必要がある。
だから、決して水着姿のローズを抱き上げたいという思いは微塵もない。
ウェインは自分にそう言い訳し、意を決して口を開いた。
「ぐっ、うぅ……」
心拍と呼吸が乱れ、上手く声が出ない。
息苦しささえ覚えるほどの極度の緊張感からか、視界がぼやけ、全身の感覚すら曖昧に感じられた。
「はぁ、はぁ……か、か……かわ……っ!」
それでもウェインは必死に、力を振り絞って、何とか叫ぶ。
■ ■ ■
「――可愛いっ!」
ぼやけていた視界が急に鮮明になり、全身の感覚が元に戻った。
目の前にローズはおらず、見えるのはここ数日で見慣れた天井で、立っていたはずが仰向けになっていた。心拍と呼吸だけは変わらず乱れているが、ウェインはそれらを整えるよりも先に周囲を見回した。窓掛越しの柔らかな光に包まれた室内にローズはいない。いるのは隣の寝台にいるユーハだけだ。
「ウェイン、突然叫んで如何した? 悪い夢でも見てしまったか?」
「…………いや、何でもない」
半ば呆然とそう答えてから、ウェインは急に羞恥心が湧き上がってきて、薄手の掛け布団を頭まで被った。
思わず大声で叫び出したい衝動に駆られるも、すんでのところで堪える。ユーハの前でこれ以上の醜態を晒すわけにはいかない。ウェインは布団の中で一人身悶えるしかなかった。
冷静になれた頃には普段の起床時間になっていて、ウェインはユーハと共に朝食に向かう。幸い、ユーハは今朝のことを大して気にしていないのか、可愛いと叫んだことについての追及はなかった。
それでも、あんな夢を見たことを思うと心が乱れ、頭を抱えたくなる。
「なーに朝から溜息なんて吐いてるんですか!」
「――うわっ!?」
食堂としている建物に入る直前で、ふと背後から声が掛かり、同時に背中に衝撃を受けた。
驚きつつも足を止めて振り返ると、ローズやリゼットなどの女児たちがいた。
「あれ、なんかちょっと疲れたような顔してますね。昨日はよく眠れなかったんですか?」
「い、いや、べつに……」
あんな水着姿を夢に見たせいで、ウェインは気恥ずかしさと後ろめたさから、ローズと目を合わせられなかった。
ローズは左隣から少し訝しげな様子でじっと顔を見つめてきた後、唐突にウェインの背中を叩き始めた。
「ほら、背中が曲がってますよ、しゃきっとしてください!」
「ちょっ……わ、分かったから、そんなばしばし叩くな!」
痛いほど何度も叩いてくる手を掴んで止めた。
「私の復活した右手で元気を注入してあげたんです。元気になったでしょう?」
そう笑いかけられたことで、ローズの右手に触れてしまっていることに気付いた。手のひらからは確かな温もりを伴う人肌の感触が伝わってくる。ウェインは夢のことも忘れてしまうほど、思いがけず感じ入ってしまい、我知らず強張っていた心身からふっと力が抜けていった。
「……かもな」
「おや、珍しく素直でよろしい」
ローズは上機嫌な様子で言いながらウェインの頭をぽんぽんと撫でると、ウェインを置いて先に食堂に入っていった。
相も変わらずローズのウェインに対する態度は年上の男に対するものではなかったが、今ばかりはどうこう言う気になれなかった。それは今朝方あんな水着姿の彼女を夢に見てしまった後ろめたさのせいもあったが、実際に彼女の手に触れ、触れられたことで、本当にもう大丈夫だということを実感できて、改めて安心してしまったからだ。
「ふむ……ところでウェインよ、嫌なら答えずとも良いが」
ユーハは何やら思案げな顔でローズの背中からウェインに視線を転じ、気遣わしげな声で続けた。
「今朝方に見た夢は、悪い夢であったか?」
「いや、まあ……悪くは、なかったな」
今なら素直にそう答えることができた。
むしろ良い夢であったとさえ思える。
だが、さすがにそこまで口にするのは気恥ずかしかったので、本心は夢の内容と共に胸の内に秘めておくのだった。
〈終〉
水着ルティカ2
挿絵情報
企画:Shintek 様