第百三十四話 『お前もママになれちゃうんだよ!』★
翌日、空は台風一過のようによく晴れていた。
バカンス五日目にもなると落ち着きが出てきて、起床後すぐ水着に着替えることもなくなる。俺とリーゼとルティは寝間着のまま、ルーシーはラフな格好ながらもちゃんと着替えて、四人一緒に食堂に顔を出した。
水上コテージの中で最も大きな東屋のような建物には、大きなテーブルがある。だから朝食時と夕食時はここを食堂として利用しており、みんなで一緒に食事を頂くのがここ数日の日課だ。
俺たちはすっかり定位置となった席に腰掛け、みんなの集合を待つ。既に使用人たちによる配膳は始まっており、着席した人から順に朝食が並べられていく。
「サラ姉遅いねー。ローズ、起こしに行くー?」
「いえ、その必要はないのです」
俺の左隣で幼狐が足をぷらぷらさせながら言うと、右隣に座る黒柴系ポニテ幼女が何か訳知り顔な様子で待ったを掛けてきた。
「サラ、どうかしたんですか?」
「どうかしたと言いますか、その……あたしの口からは言えないのですが、とりあえず大丈夫なのです。むしろおめでたいのです。今晩はお祝いでご馳走なのです」
「なんだとー!? 昨日の晩ご飯よりも豪華になったら……なんかもー凄すぎて大変だ! やったぁぁぁ!」
リーゼは暢気に喜んでいるが、俺は一瞬思考が停止した。
ニーナのこの反応からして、まさか……。
「お待たせー、ちょっと遅れたけど勘弁ね」
「もうみんな揃っているみたいね。それじゃあ頂きましょうか」
サラはセイディとクレアと一緒に来て、無言で着席した。席はリーゼの左隣が定位置だ。
「サラ姉知ってる!? 今日の晩ご飯は豪華らしーよ!」
「え……あぁ、そう……うん、そうなんだ」
金髪褐色の美少女は今日も今日とてデビル可愛い。
しかし、どうにも顔色が優れない気がするのは目の錯覚だろうか。加えて、表情も少しぎこちない感じがする。挙動不審というほどではないにしろ、どことなく非日常的で違和感があった。
「いっただっきまーす!」
リーゼはサラの様子に違和感は覚えないのか、いつも通り元気に食べ始めた。まあ、この子は人の細かな変化とかはあまり気に掛けないタイプだしな。むしろリーゼはそれでいい。俺の想像通りなら、今日のサラにとって、いつもと変わらぬリーゼの様子には安心感を覚えるだろう。
朝食も夕食も、全員が食べ終わるまでは席から立たず、雑談に興じることにしている。だから最後に全員でごちそうさまをした後は、みんな一斉に席を立つ。
「ローズ、リーゼ、ちょっと待って」
解散しようと各人が歩き出す中、大和撫子系の美女に呼び止められた。
「ルティとニーナもちょい待ち、ルーシーちゃんもこっちおいで」
天使系の美女も他の幼女たちに声を掛けて呼び集める。
そうしてオープンスペースな食堂には七人が残るのみとなり、俺たち幼女五人はクレアとセイディに先導されて、彼女らが泊まる水上コテージに案内された。
二人の愛の巣はきちんと片付いており、どっしりと鎮座するダブルベッドには薄手の掛け布団が掛けられたままで、シーツの状態は確認できない。いや、掛け布団が畳まれていないということは、シーツには怪しい皺や染みがあると言っているも同然なのではあるまいか。
ふっふっふっ。
昨晩はお楽しみだったみたいですねぇ、お二人さぁん。
「さて、こうしてあんたらを集めたのは他でもないわ」
割と真面目な面持ちで口火を切ったセイディに対し、リーゼは不満げな顔を見せた。
「あたしたち何も悪いことしてないよ」
「違う違う、叱るとかじゃないから」
「五人とも、九歳か八歳でしょう? いい機会だから、そろそろ簡単に説明しておいた方がいいと思ってね。今から大事な話をするから、真面目に聞いてね」
クレアは普段の三割増しくらい穏やかで優しい母性溢れる微笑みを浮かべ、俺たちをベッドの縁に一列に腰掛けさせた。リーゼとルティは何事かと少し身構えているようだが、ニーナは落ち着いている。ルーシーは少し思案げだが戸惑いなどは見られない。
俺はというと、緊張している。
さて……予想通りの話なら、そろそろ俺も来たるべき未来に対して、きちんと心構えを養っておく段階に入ったことになるが……果たして。
「みんなは赤ちゃんがどうやってできるか知ってる?」
おぉ、神よ……遂にこのときが来てしまったのか。
まさかバカンス中に来るなんて、不意打ちにもほどがあるよ。
「赤ちゃんはねー、夫婦が仲良しだと、聖神アーレが仲良しのご褒美に、女のお腹をこっそり大きくしてってくれて、それで女が命懸けで産むって、おばあちゃん言ってたよ」
「まあ、それはお子様向けの方便ってやつね」
「…………おばあちゃん嘘吐いてたの?」
如何にもショックを受けた顔で呆然と呟くリーゼに、クレアもセイディも微苦笑を零している。俺も思わず同じように口元が緩んでしまって、和んだ。
ところでニーナちゃん、君、今鼻で笑わなかった? え? 何その『やれやれこれだからお子様は困るぜ』みたいな顔。お前……まさかもう、そういう知識あるの? マ?
そんな幼女がいることに気付いているのかいないのか、クレアは正しい情報を簡単に説明した。幸いにもまだ詳細に教える気はなかったようで、単に男女が同じベッドで寝ると妊娠することがある……といった程度だった。今回の話の肝はそこではないだろうから、クレアも簡単に流していた。
「妊娠するには、まずは身体が妊娠できるようにならないといけないの」
「どーやったらできる身体になるの?」
「たくさん食べて、たくさん勉強して、たくさん遊んで、たくさん寝て、元気に成長していけば、だいたい十歳から十五歳くらいの間に、できる身体になるわ」
「じゃーあたしはだいじょーぶだ!」
どうしよう……こういう女の子特有のイベントって新鮮ではあるんだけど、なんか気まずいぞ。全身がむずむずする。小学校高学年の頃、どうして今日は男女別に保健の授業を受けるんだとか思っていた無知な少年時代が懐かしいな……。
「それでね、サラが今朝、無事に妊娠できる身体になったの」
「おぉー、そっかー! そのお祝いで今日の晩ご飯は豪華になるのかー!」
「え? あー……ええ、そうね。晩ご飯を豪華にしてお祝いしなきゃね」
今晩はお赤飯炊かなくちゃってやつだな。定番だね。
どうやらニーナは優秀らしく、既にこの手の知識があったようだ。耳年増だからかもしれんが、とにかくこのメイドはサラと一緒の部屋だから、いち早く状況を察したに違いない。そしてサラのことは年下の自分より、メルやクレアやセイディなどの大人に任せた方が良いと判断し、先に食堂に来ていたのだろう。
うーむ、この子……できる。
「それで、妊娠できる身体になると、これから三節ごとくらいに、ちょっと体調を崩しちゃったり、心が不安定になったりする日が来ちゃうの」
「クレアたちも三節ごとにそーゆー日が来ちゃってるの?」
「ええ、そうよ」
「そーだったのか……全然気付かなかった……」
俺もこれまでクレアたちからは、その手の気配は全然感じたことがない。
単に俺が女性の体調不良に気付けない鈍感野郎という線もなくはないが、たぶん二人とも重い方ではないってだけだろう。そう考えると、笑顔美人のノシュカは可哀想な部類なのだろう。
「個人差があるから絶対ではないけれど、リーゼたちも妊娠できる身体になったら、三節ごとくらいに身体と心の調子が崩れちゃう日が来るわ」
い、いかん、不安になってくる……。
俺も将来ノシュカくらい重い方だったらどうしよう……ノシュカみたいに苦しむ日が何十年も三節毎に来るとか、考えただけで憂鬱になる。
今朝のサラは特に辛そうな感じはしなかったが、それは最初だからかもしれないし、今後はどうなのかまだ分からない。これから定期的にサラの辛そうな様子なんて見たくないから、軽い方であってほしいよ。
「でも、それは女性なら当たり前のことだから、大丈夫よ。不安に思わなくていいことなの。今後はたまにサラの調子が優れない日が来ると思うけど、あまり心配せず、とりあえずはそっとしておいてあげて」
「そーゆーとき、どーやったらサラ姉元気になる?」
「ま、それは実際にサラと接しながら追々確かめていくしかないわね。優しく気遣ってほしい人もいれば、ほっといてほしい人もいるし」
「なんかすっごい大変そーだ……」
本当にな。
身近な人にアレが来たことで、こうして大人たちがこの手の話をしてくる事態になって、改めて思い知らされたよ。今の俺は女の身で、俺もそのうちアレが――いや、奴が来るんだ。奴が来たら、俺も定期的に凄く苦しむことになるかもしれないのだ。
一応、覚悟だけは固めておこう。もし奴が凄まじい強敵だったとしても、ちゃんと数十年間戦い続けていけるように、その心構えだけはしっかりと養っておくんだ。奴の襲来は突然だろうからな、そのときになって無様に取り乱すことは避けたい。
「大変っていうか面倒だけど、女はみんな同じだから、こればっかりは仕方ないわね」
「分からないことがあったり、不安なことがあったりしたら、いつでも訊いてきていいからね」
「だからローズはそんな深刻そうな顔しないの。不安になっても来るときは来るんだから、割り切ってどんと構えてればいーのよ」
セイディはさばさばとした口振りで言いながら、俺の頭を優しく撫でてきた。どうやら顔に出てしまっていたらしい。俺だけ相当シリアスな雰囲気だったのか、いつの間にかみんな俺のことを心配そうに見ていた。
「すみません、大丈夫です。ちょっと考え事してただけなので」
「お姉ちゃんは心配性」
「ローズ様、この問題ばかりは憂えても仕方ありませんわ。女としての避けられぬ宿命なのです。それならば粛々とありのままを受け入れようではありませんか」
「その通りなのです。案ずるより産むが易しなのです」
なんでこの子らはこんな腹が据わってんだ。まだ実際によく知らないからかもしれないが、これが本物の女だけが持ち得る胆力だとしたら、やはり俺はエセ幼女なのだろう。
まあ、でも確かに心配しても仕方ない。
どうせ最低でも一年、おそらく二、三年は先のことだろうしな。
サラは来期で十二歳だから、前世でいえば今は小学六年生にあたる。奴の襲撃が始まる年齢としてはおそらく平均的だ。俺も十二歳頃だと考えると、まだ猶予は十分にある。
大丈夫だ、問題ない。
「さて、それじゃあ、そのときになったら使う物が色々あるから、今のうちに軽く説明しておくわね。これからサラも使うから見掛けることもあるでしょうし」
それからクレアは女性特有の用品類を鞄から取り出し、簡単に紹介していく。
俺は明鏡止水の心でそれを聞いていった。
しかし、この世界にもタンポンがあると知ったときは、心の水面にさざ波が生じてしまった。
だ、大丈夫だ……問題ない。
♀ ♀ ♀
バカンスが始まってから、夜はすぐに入眠で朝までぐっすりという快眠生活が続いていた。日没後でも少し暑いものの、室内には〈氷盾〉を置ける台があるので室温の調整は容易だ。微かな波の音が子守歌のように優しく響いていることもあり、安眠環境は整っている。
しかし、今夜はどうにも眠れなかった。
今日のサラは奴が来たことで、念のため海に入らず浜辺でのんびり過ごすことになり、だから俺たちも砂遊びばかりしていた。砂遊びもなかなかにハードではあったが、水泳ほど体力は使わないため、今日はまだ少し体力が余っている。
それだけなら未だしも、サラの成長とクレアたちの説明会で受けた衝撃もある。衝撃というより、戸惑いや困惑に近いが、とにかく不意打ちだったこともあり、俺の中で尾を引いている。ベッドに入って眠りに就こうという段階でも、まだ妙に落ち着かない心地だ。
「……………………」
寝息からして、他の三人は早くも夢の世界に旅立っていた。片腕の俺と違い、リーゼもルティもルーシーも両腕で存分に砂遊びを堪能していたので、今日もお疲れで、ばたんきゅーらしい。
「……星でも見るか」
俺はベッドから降り立つと、大きな窓を開けてバルコニーに出た。入り江の切れ目の方に面しているため、夜の海を一望できる。
見上げれば黄月と紅月が眩く輝き、雲一つない夜空は無数の星々で埋め尽くされている。この水上コテージは正面の玄関付近や桟橋のあちこちに魔石灯が設置され、夜は常夜灯ほどの微光が灯る。しかし、コテージの裏手に当たるこちらに人工光はないため、存分に夜空の美しさを堪能できる。
しばらくの間、ぼーっと突っ立って星の海を見上げていると、不意に物音がした。ちらりと右手の方に目を遣ると、隣のコテージのバルコニーに人影が出てきたところだった。天体の光だけでも薄らと視界は利くため、誰であるかくらいはすぐに見分けが付いた。
「サラ」
小声で呼び掛けると、華奢な人影は一瞬びくりと身体を強張らせた後、こちらを向いた。生憎と表情までははっきり見えないが、とりあえず手を振ってみる。
「……ローズ?」
という声と共に、そっと手を振り返された。
俺は逡巡したものの、〈浮水之理〉と〈反重之理〉を駆使して右隣のバルコニーにお邪魔した。数リーギス程度の隔たりなど、魔法があればないも同然だが、こういうとき〈瞬転〉ならより一層容易に移動できるだろうなとは思う。早く無詠唱化しなくっちゃ……。
「サラも眠れないんですか?」
「まあ、そんな感じ」
金髪褐色の美少女は穏やかに微笑んだ。その表情が普段より大人びたものに見えるのは、俺の思い込みではないだろう。サラの身体はもう妊娠可能なくらいには成長したのだ。
見たところ顔色は悪くなさそうで、ひとまず安心した。
こうして改めて見ると、大きくなったものだと思う。もう身長は優に百五十リーギスを超えて、百六十リーギス近い。薄手の半袖シャツとホットパンツというラフな格好なので、すらりと伸びた手足からは艶めかしさの片鱗くらいは感じられる。胸元は……服越しでは膨らみがほとんど分からないが、入浴時に見掛ける際は主に先端部とかが確かな成長を遂げていた。というか、普段はもうブラジャーしてるからね。
「どうしたの、そんなじろじろ見て。わたし、何か変だったりする?」
「あ、いえ……サラは綺麗だなと思いまして」
「この景色の前で言われても、お世辞にしか聞こえないわね」
苦笑するサラに、俺も思わず同意してしまった。
目の前の海と空は絶景と評せる美しさだ。入り江の海面には空の輝きが僅かに映り込んでいるため、海が薄らと光っているように見える。穏やかに波打つ様は儚くも幻想的な揺らめきで、その姿はとても不安定だが、だからこそ美しい。満点の星空とはまた違った風情があり、甲乙は付けがたい。互いの存在が魅力を引き出し合っており、両者が揃ってこその美景と言える。
「……ローズには、先に謝っておくわね」
「え? 何ですか急に?」
サラはバルコニーの欄干に両腕を載せるようにしてもたれ掛かると、遠く入り江の向こうに広がる海を見遣り、言った。
「たぶん、もう、サラは出てこないわ」
何を言っているのか、咄嗟には理解しかねた。
「ローズもみんなも、いつかサラが記憶を取り戻して……というより、みんなの知ってるサラに戻ってくれるって期待してるかもしれないけど、どうやらそれは無理そうよ」
「――――」
「べつに、意地悪して言ってるわけじゃないのよ? でも、あの子……もう出てくる気ないみたいだから」
嘆息するように呟いて、サラは波打つ海面に目を落としている。
俺は思考が乱れて何をどう言えばいいのか分からず、彼女の物憂げな横顔を呆然と見つめることしかできない。
「わたしもね、最初の頃は自分のこと何も分からなくて戸惑っちゃってたけど、今はもうよく分かってるつもりよ。わたしはあの子が作ったわたしで、わたしはあの子の代わりに嫌なことを――去年おばあちゃんたちが亡くなったこととか、チェルシーが敵になってたこととか、そういう辛い現実を受け止めるためにいる」
サラは『あの子』と言っている。
別の人格が存在することを確と認識し、自らの役割すら冷静に受け入れていた。今こうして話しているサラの人格は以前よりも遥かに安定していて、精神的な危うさはほとんど感じられない。だからこそ、俺たちはこのバカンスを心から楽しめていたとも言える。
「昨日、夢を見たのよ」
「……ど、どんな?」
「わたしはあの子の部屋の前にいて、ここを開けなさいって扉を叩くんだけど、うんともすんとも言わないの。実は前からこういう夢は何度も見てて、前回までは部屋の中に入れて、あの子の日記を読めてたのよ」
冗談かと思うような話だが、しかしサラは以前確かに言っていた。
『わたしは……みんなが望むサラじゃない。みんなと一緒に暮らしてた頃のこと、ぼんやりと覚えてるような気がするときもあるけど、でもそれは夢みたいで……他人事みたいで、よく分からないの』
今ここにいるサラは夢の中で思い出を参照できていた。それが自らの意思で任意に可能なことだったのかは分からないが、とにかく今のサラの主観では、思い出を参照することは夢の中の夢みたいなもので、だからこそ他人事みたいに感じられるのだろう。
だが、それよりも気になるのは、サラの部屋に入るという夢の形式だった。いや、なんかややこしいから、今のサラをB、以前までのサラをAとしよう。
サラBがサラAの部屋に入って、サラAの日記を読んでいたとすれば、その部屋と日記の主であるサラAもそこに存在していたのだろうか?
「……その部屋に、もう一人のサラもいたんですか?」
「ええ。でも、あの子はずっと布団にくるまって寝てたわね」
夢の中で別人格の姿を認識している。
それが何を意味するのかは……よく分からんけど、なんか微妙にデジャブを感じるな。しかもサラが引きニートみたいなことしてるって、ちょっと親近感湧いちゃうぞ。
「その、話し掛けたりはしなかったんですか?」
「したわよ。みんな心配してるから外に出なさいって言ったけど、『あなたがいるから大丈夫』って言われたわ」
「…………」
多重人格者ってのは結局のところ、自分で自分を巧妙に騙しているに過ぎない……と俺は思っている。所詮は妄想の行き着く果てというか最終進化形みたいなもんで、要するに超高度な思い込みだ。サラは心に強烈な負荷が掛かったことで、そのときの自分では現実を受け止められなかったから、無意識的な防衛反応として精神的に引きこもった。人格が分裂したのか、新たに作られたのかは分からないが、とにかくサラが引きこもり続けられるように、何も覚えていないサラが生まれた。
そうだ。サラBは最初、何も覚えていなかった。しかし、今ではサラAの記憶はほとんど全て――去年のあの悲劇的な惨事も含めて、サラBはサラAの記憶として――他人事としてとはいえ、認識できている。それはつまり、サラは別人格という緩衝材を通してこそいるが、既に現実を受け止めたことを意味するのではないか?
しかし、サラAは引きこもっているという。
「もう日記は全部読んじゃってたから、昨日は部屋に入れてくれなかったんでしょうね。そもそも、もうわたしに反応する必要がないから、扉越しに声を掛けても返事すらしないのかもね」
「……サラは完全に引きこもるつもりってことですか?」
「だと思うわ」
薄闇の中、目の前の美少女は申し訳なさそうな顔で俺のことを見つめている。俺たちが求めていると思っているサラAが引きニート化し、自分がサラとして存在することに罪悪感を覚えているのだろう。
だが、サラBだってサラであることに変わりはない。サラの妄想したサラ、サラから生まれたサラなら、それはサラ本人も同然だ。
「そうですか、分かりました」
「分かったって……ローズはそれでいいの? もう、ずっとこのサラでもいいの?」
サラの若葉色の瞳は不安そうに揺れている。
今目の前にいるサラは、俺たちのことを好きでいてくれている。だからこそ、自分でいいのかと不安がっているのだろう。だが、そんなのは愚問だ。
「どんなサラでもいいですよ」
俺はサラの身体を横から抱きしめた。
こういうとき、片腕だと本当に嫌になるな。きちんと両腕で抱きしめてやれないから、正しく気持ちが伝わらないのではと不安になる。
「……ありがとう、ローズ」
サラは両手で俺の身体を抱き返してくれた。こうして抱擁していると、やはり心が落ち着くね。スキンシップの重要性がよく分かる。
「でもね、わたしはやっぱり……違うのよね」
しばらく抱き合ったままでいると、サラはどこか吹っ切れたような、軽やかさすらある声で溜息交じりに呟いた。
「みんなもローズみたいに言ってくれると思うけど……そう思えるくらいにはわたしもみんなのこと好きだけど、だからこそわたしは……わたしではいけないと思う」
「いえ、でもそれは――」
「ねえローズ、知ってる?」
俺の言葉を遮るように言って、サラはぎゅっと強く抱きしめてきた。
「サラが九歳のとき、どうして自分だけの部屋が欲しいって言ったのか」
互いの身体が密着しているので表情は見えないが、声に深刻さはなく、どこか悪戯気のある明るい調子だ。
唐突に脈絡のない話を振られて戸惑いつつも、俺は記憶を探ってみる。
「それは、えっと……アシュリンが生まれて間もない頃でしたから、そろそろ部屋が手狭だからとか何とか……」
「それは表向きの理由よ。本当はね、一人でなければできないことが、したかったの」
その言葉の意味を理解しかねて、思わずサラの表情を窺おうと身をよじる。だが、美少女の顔が視界に入る前に、しっとりとした吐息交じりの声が耳をくすぐった。
「サラはね、一人でエッチなことして、気持ち良くなってたのよ」
「――――」
想像の斜め上をいく台詞に、思考も全身も凍り付いた。
サラは呼吸すら忘れて呆然と突っ立つ俺を抱きしめたまま、再び耳元で囁く。
「驚いた?」
そこに羞恥心はあまり感じられず、まさに他人の秘め事を面白可笑しく暴露するような、からかい半分の笑い声だ。
あっけらかんとした軽い調子だったため、俺は色々混乱しつつも何とか口を開くことができた。
「ど、どうして、そんなこと急に……?」
「こうやって恥ずかしい秘密を明かしちゃえば、引きこもってるあの子が出てくるかと思って」
いや、そんな暴露話しちゃ、恥ずかしがって逆に引きこもりが加速する気がするぞ。
「どうやら出てくる気はないみたいだし……もっと具体的なこと話しちゃおうかな?」
「ぐぐぐぐ具体的な、こと!?」
「この身体のどこをどう触れば、どんな風に気持ちいいのかとか、色々知ってるからね」
ど、どういうことだ……どうしてこんな状況になってるんだってばよ。ついさっきまで割とシリアスな雰囲気で話が進んでいたのに、どうして……。
「あの子が一人でするようになったの、クレアとセイディのアレを見てからだし……サラ、あの二人みたいに、将来大きくなったローズとするところを想像してたのよ?」
耳元を撫でる熱い吐息、密着する身体から伝わる少女特有の柔らかさ、そして当時見た百合百合しい二人が俺とサラに置き換わるような情景が脳裏を過ぎり、何だか頭がくらくらとしてきた。
「ローズももう九歳だし、一人でシてみたこと、ある?」
な、ないです……ソロプレイはまだ我慢してるんです……。
女の快感に興味はあるし知的好奇心もそそられるけど、この幼い身体に負荷を掛けると健全な成長に支障が生じるのではないかと心配で、せめて奴が襲来するくらい成長するまでは控えておこうと決めてるんです。というか、精神的にはともかく肉体的にはほとんど性欲を感じてないから、我慢している意識もあまりない。
「分からないなら、教えてあげようか?」
サラは抱擁を解くと、その両手を俺の頬に添えて顔を上げさせ、見つめてきた。悪戯っぽくも妖しげに双眸を細めて笑う姿はまさに小悪魔的魅力に満ち、エメラルドのような綺麗な瞳は見ていると吸い込まれそうになる。
「あの子が出てこないなら、わたしがローズとシちゃっても、いいってことよね?」
魅惑的に艶めく唇をぺろりと舐めて、美少女の顔が近付いて来た。俺は目を閉じることもできず、ただただ頭が真っ白になって何もできない。
「……なんてね、冗談よ」
互いの鼻先がぶつかり合ったところで、サラは俺の顔から両手を離して苦笑した。
「わたしはあの子と違って常識的だから、妹分にそんなことするつもりはないわ」
「――――」
「まあでも、一人でするやり方くらいだったら、教えてあげてもいいわよ?」
頭をぽんぽんと撫でてきながら冗談交じりに笑う姿は、やけに大人びて見えた。俺はそんな美少女の楽しげな顔を呆然と見上げていることしかできなかった。
「ふふっ、夜更かしは良くないし、そろそろ部屋に戻りましょうか。ローズ、話聞いてくれて、ありがとね」
サラはそう言って、この入り江の海に似つかわしい微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、おやすみ」
俺は挨拶を返すどころか、まだまともに声も出なくて、サラがバルコニーを去って窓とカーテンが閉め切られた後も、しばらく一人立ち尽くした。しかし、不意に足腰の力が抜けかけたことで反射的に欄干を掴み、それでようやく我に返る。
「……………………ね、寝よう」
大きく深呼吸をして、自分に言い聞かせるように呟いた。
なんかもう頭がぐるぐるとして落ち着かない。
こういうときはさっさと部屋に戻って寝てしまおう。
ひとまずは早々にこの場を離れるべく、〈反重之理〉を駆使して楽々と欄干を乗り越え、〈浮水之理〉で海面に着――
「えっ……ぶぼぼばびべぁっ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
しかし、全身に纏わり付くような水の重さと口内を満たす塩辛さで、すぐに〈浮水之理〉の行使に失敗したことを悟る。
「あばばぶっ……ぶぁっ、ぶぼぼびべ……っ!?」
海水が目に入って視界がぼやけ、周囲が薄暗いこともあり、ほとんど何も見えない。突然の状況に身体が上手く動かず、冷静に魔力を練る余裕も今ばかりはなく、俺は息苦しさに喘ぎながら馬鹿みたいにもがくことしかできなかった。
しかし、不意に何かが下から俺の身体を突き上げた。いや、突き上げるように抱え上げられ、一瞬にして海中から空中に飛び上がった。
「まったく、何をしておるのだ」
ぼやけた視界の中、月光を受けて輝く銀髪が見えた。
ゼフィラはバルコニーに着地すると、お姫様抱っこ状態だった俺をすぐにぽいっと放り捨てる。床面に尻を強かに打ち付けるが、今は痛みに呻く余裕もなく、ぜぇぜぇと呼吸を整えることしかできない。
「夜の海で溺死など笑い話にもならぬぞ」
「ぜぇ……はぁ……す、すみません……助かりました、ゼフィラさ……ん?」
尻餅を付いた格好ですぐ側に立つ少女を見上げると、そこには一糸纏わぬ裸体があった。彼女は濡れた髪を掻き上げながらこちらを呆れた様子で見下ろしている。星空の下、生白い肌が薄闇の中に浮き上がっているようで、水の滴るその姿は神秘的な美しさがあった。
「え……な、なんで……裸なんですか……?」
「泳いでおったからに決まっておろう」
「な、なるほど……泳いで……」
どうやらここは夜間限定でヌーディストビーチになるらしい。
夜の海を全裸で泳ぐとか、さすがというべきなのか、なかなかの上級者だ。彼女は日光が苦手なようなので、夜に泳ぐしかないのだろう。これまでは泳いでいる姿は見掛けなかったから、単に海水浴なんて興味ないのかと思ってたけど、みんなが寝る時間になってからバカンスを満喫していたようだ。
いや、しかし……まさか全裸とは……確かに全裸で海水浴は気持ち良さそうだけど。
「警備の者共には妾が泳ぐことを伝えておるからの、その間は夜の海で不審な物音がしても誰も様子を見には来ぬぞ。気を付けよ」
「でも、ゼフィラさんが来てくれたじゃないですか。ありがとうございます、本当に」
「どうせお主のことだからの。間抜けにも魔法の行使に失敗して落水し、取り乱して溺れておるだろうことは聞こえてきた音で察しが付いた」
その察しの良さには感謝しかない。
実に情けないことだが、ガチで溺れ死ぬかと思ったわ。
夜の海って危険だな。暗くて冷たくて、突然落ちると混乱する上に、本能的な恐怖を喚起させられて冷静さを奪われる。あれは大人でもパニクるよ、痛感したわ。クレアからは、日没後は大人の許可なしに海に入ってはいけないと注意されていたが、俺はそこまで深刻に受け止めていなかった。魔法使えるし俺なら大丈夫だろとか高をくくっていた。油断するとすぐ思い上がるのはクズニート精神の名残だな。きちんと自分を律しないと……。
とはいえ、それでもサラとあんなことがなければ、冷静さを失わずに対処できたとは思う。そもそも冷静じゃなかったから魔法の行使に失敗したんだ。
「ふむ……お主の哀れなまでの未熟さにはさすがに同情の余地がある故、一つ忠告してやろう」
「わざわざ忠告してくれなくても、もう夜の海には入りませんよ」
「いや、あの小娘のことだ」
「サラのことですか?」
予想外だったこともあり、俺は立ち上がるより先に、腕組みする全裸少女に視線で先を促した。あの状態のサラについて、知恵袋から助言を頂けるなら頂きたい。正座で拝聴しようじゃないか。
「あまり振り回されるでないぞ」
「え……?」
「先ほど聞こえた会話からは、女の手のひらで転がされる童貞小僧さながらの滑稽さがこれでもかと伝ってきたからの」
「べべべべつに振り回されても転がされてもないですけどぅお!?」
こっちは元クズニートとはいえ三十過ぎの大人だぞ。積み重ねてきた人生の重みがある。この重みをJS6同然の少女が振り回せるわけないだろいい加減にしろ!
「相変わらず分かりやすい奴だの……自覚しておる分だけまだ救いようはあるが」
そんな呆れた目で人を見下すなよ地獄耳ババア……と言い返したいところだけど、そのおかげで助かったから何も言えねえ。そもそも童貞だから反論したくてもできねえや。完敗だぜ。
「あの手の女は無駄に思い詰めて愚行に走り、周囲を振り回す。傾国の女の血筋となれば尚更の」
「……傾国の女?」
「まあ、端から見ている分には面白い故、せいぜい無様過ぎぬ程度に面白可笑しく踊るが良い」
ゼフィラは出来の悪い子供を見るような目をして苦笑すると、もう話は終わりだとばかりに背を向けた。そして欄干を身軽く飛び越える寸前で、ちらりと振り返る。
「今回のことは貸しにしておいてやるが、次はないぞ」
そう言い残して、少女は夜の海に飛び込んでいった。不思議と着水音は聞こえなかったが、立ち上がって海面を見てみると、月光を受けて輝くような銀の髪と白い肌が穏やかな波間を漂うように遊泳していた。
「……着替えなきゃ」
軽く溜息を吐いてから、俺も星空の下で全裸になった。どうやらここは幼女組の泊まっているコテージのようだったので、水魔法を使って海水のべたつきを落とし、風魔法で水気を飛ばしてから部屋に戻った。
もう今夜は眠れる気がしないけど、夜更かしは成長の大敵だし、ベッドに入るだけ入っておこう。
♀ ♀ ♀
「うわああああぁぁぁぁぁああぁぁっ!?」
リーゼが歓声を上げて海面を滑っていた。
俺は砂浜に設置されたサマーベッドに身体を預けて、幼女の楽しげな姿をのんびりと眺める。
バカンスも八日目になると、魚人護衛のオッサンズも暇を持て余してきたようで、水上スキーをやるかと提案してくれた。どうやら休みすぎて身体が鈍るのもまずいとのことなので、子供たちを引っ張って泳ぐのはいい運動になるらしい。陸上だとタイヤ引いて走るようなもんだろうから、確かにトレーニングには打って付けかもしれない。
生憎と俺は片腕なので上手くバランスを取れず、練習しても難しいことは早々に悟れたので、こうしてのんびりとリーゼたちが楽しむ様子を眺めている。
あ、ニーナがバランス崩して落ちた。
「ふぅ……勝てるとは思わなかったけど、想像以上に惨敗しちゃった」
「ソーニャは頭脳派だからな! もっと鍛えた方がいいぞー!」
青い翼の少女が俺の隣のサマーベッドに腰掛けると、その姉が妹にグラスを差し出している。こうして水着姿の二人を一緒に見ると、ソーニャは年相応に華奢で、ライムは少女にしては逞しい体格をしているのが分かる。異母姉妹だからあんまり似てないんだよな。
ソーニャの着ているビキニは白いので、翼の色と相まって、青空に浮かぶ雲のようだ。その印象通り、つい今し方まで空を飛んでいたため、今はかなり呼吸が荒い。
俺は見学も飽きたので会話に混ぜてもらうことにした。
「まあ、ソーニャは四人の中では一番年下ですからね。仕方ないですよ」
「ううん。わたしだって船乗りだから、年齢以上には飛べるはずなんだよ。あの三人が特に速いんだよね」
「いやー、まー、それほどでもあるけどねぇ」
自慢げな顔した美天使が歩み寄ってきた。十歳年下の子供に勝って褒められたからって、こうも素直に喜べる大人はそういないだろう。セイディみたいな性格だと人生楽しいんだろうな。
「あ、ローズこれもらっていい?」
「どうぞ」
サイドテーブルに置いていた俺の飲みかけのジュースを、セイディはストローを使わず、グラスに口を付けてごくごくと飲んでいく。
セイディの水着もビキニだが、胸元は布を巻き付けたような形状で、貧乳が誤魔化されている。一枚の厚手の布を首に掛け、それを交差させて両胸を隠し、両端を背面で留めている感じだ。膨らみがなくても女らしさがあり、違和感を覚えない巧妙な水着だった。
「おっ、あの二人はかなり接戦ねー」
セイディの視線の先を見遣ると、緑色の翼と茶色の翼が凄い速さで青空を飛行していた。イヴとノーラだ。
今日は飛行対決をすることになったようで、翼人の四人は誰が一番速いかを決するべく、トーナメント方式で競っている。まずはセイディ対ソーニャ、イヴ対ノーラだ。ちなみにサラはまだ飛べないから欠場だ。先日の様子だと実は既に飛べてもおかしくなさそうだが、本人が飛べないと言っている以上、それを疑うことはできない。
ドラゼン号から同時に飛び立ち、このティムアイ島にそびえ立つ大きな山――ガルメール山を回り込むようにしてUターンし、入り江の切れ目まで戻ってくるというコースだ。綺麗な三角形型をしたガルメール山は砂浜からでもよく見えるが、距離は相当ある。ノーラ曰く、直線距離で片道十メトくらいはあるとのことだった。しかし翼人にとっては大した距離ではなく、ソーニャも疲労感こそ見せているが、まだ余力は残ってそうに見える。
「イヴの方がちょっと先行してます?」
「そうねー。まーあの子めっちゃ張り切ってたからなぁ」
二人はこちらに向かって飛んでおり、その姿は見る見るうちに大きくなっていく。やがて俺たちのちょうど真上辺りを凄まじい速さで通過していった。でっかいツバメかってくらいの速度だ。つい先ほどセイディとソーニャも通っていったけど、接戦ではなかったせいか、二人とものんびりとしたものだった。
イヴとノーラは低空飛行で入り江の切れ目を抜けると、ぐるりと大回りでUターンして、こちらに戻ってくる。
「ローズさんっ、見ていてくれましたか!? 勝ちましたよ!」
砂浜に着地したイヴは慣性そのままに駆け寄ってきて、サマーベッドのすぐ横にすたっと跪いた。額に汗の浮かぶ顔にはやり遂げた感のある笑みが浮かんでおり、表情に暗さはない。しかも今日は水着姿だ。薄紅色の可愛らしいビキニだが、髪や翼の緑色と合わさると、椿を思わせる華やかな雰囲気の美人に見える。
「侯爵家の魔女の護衛に勝つなんてイヴは凄いですね! さすがです! 素晴らしいっ!」
「ありがとうございます!」
少し大仰なくらい褒めてみたら、素直に喜んでくれた。
これならイケると思って抱き付いてみると、抱き返してくれた上にそのまま立ち上がってくるりとその場で一回転した。テンション上がってんな。俺もアゲアゲだよ。このしっとりと汗ばみ熱を持った素肌、そんな膨らみの柔らかさ、そして程良く香る汗と女の匂い……堪らんね。運動後の美女って最高だよ。
「あぁ……これで最低限の面目は立ちました……」
無意識の呟きなのか、イヴは俺を抱きしめたままそっと安堵の吐息を零していた。
おそらく今回の飛行対決はイヴのために誰かが気を利かせた結果なのだろう。飛行前のイヴは鬼気迫る様子で、名誉挽回汚名返上のチャンスだと意気込んでいるのは一目瞭然だった。今日になって初めて水着を着たのも、背水の陣で自らを追い込むためだったのかもしれない。
「さすがローズ様の護衛ですわね。ノーラを負かすとは、魔女ではなくとも優秀な女性のようです。ノーラも次は負けないように励みなさい」
「はい。不甲斐ないところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした、お嬢様。精進します」
ノーラは悔しげな様子もなく、ルーシーに頭を下げている。
今回の勝負、あの人が全く手を抜いていなかったと断言することはできないだろう。先日の泥酔したイヴを間近から見ていたし、絡まれてもいた。哀れに思ってイヴに勝利を譲った可能性は否めない。
まあ、だとしてもイヴが復活してくれた以上、俺に文句はないさ。
「フッフッフッ……次の勝負、悪いけどアンタに勝ち目はないわよイヴ。アタシはこれでも全翼会未成年の部に十一歳で準優勝した伝説の女よ」
なんかセイディがドヤ顔で、凄いのか凄くないのかよく分からん経歴を披露して挑発している。
「それってそんなに凄いのか?」
「姉さんの想像の十倍くらい凄いと思うよ。未成年の部は七歳から十四歳までの子供による大会だから、女が十一歳で準優勝は相当だよ」
「そもそも全翼会ってなんだ?」
ライムが妹の翼をマッサージしながら続けて問うと、「あらライムさん、そんなことも知りませんの?」などと、お嬢様がここぞとばかりに衒学的優越感を漂わせて胸を張った。
こういうアレな部分はまだ少しあるんだよなぁ……。
「浮遊双島の片割れ、トリム島で三年ごとに行われる飛行大会のことですわ。全天競翼飛翔大会、略して全翼会。世界中の翼人たちが集まり、その翼の優劣を競うのです。男女別と男女混合、そして未成年の四部門あり、参加者数の合計は例年十万人を越えますのよ。これしき一般常識の範疇ですわ。おーほっほっほ――」
「へー、そうなんですね。知りませんでした」
「――っほっほっまあライムさんはザオク大陸出身ですから知らないのも無理ありませんわ誰にでも知らないことはありますもの今後も恥ずかしがらず何でも訊いてくださいな」
凄い、一息で言い切った。
ところでルーシー、手首は大丈夫? ねじ切れてないかい?
まあ、俺も大会のこと自体は何かの本で読んだ覚えはあるんだけど、未成年の部とか参加者数とか詳しいことまでは知らなかった。いや、それを言うならセイディのこともだ。
「でも、セイディがそんな凄いこと今まで私たちに自慢してこなかったなんて、意外です。その準優勝、本当の話なんですか?」
「アンタねぇ、アタシを何だと思ってんのよ」
うーん、そうだなぁ……意外としっかり者だけど、大人げなかったり金に目が眩んだり百合M属性だったりする陽キャの姉ちゃんってところか。
「子供たちに今まで黙ってたのは、あんまり言い触らされたくなかったからよ。リーゼとかどこで口滑らせるか分かんないし」
「凄いことなのに、知られたくないんですか?」
「だってアンタ、十一歳の魔女が年上の男共を押し退けて二位よ? 黄昏のクソ共が目付けるでしょそんなの。ていうか、それで身の危険感じたから島を出たのよ」
「なるほど。見かけによらず色々と苦労されてきたようですわね」
一言余計だとは思ったけど、俺も同感だ。
以前セイディの思い出話を聞いたときは、トリム島を出て魔大陸に来た理由までは聞かなかったし、俺も質問しなかった。何となく、その辺のことはデリケートな話の気がしたからな。
「セイディさんにそんな凄い経歴があったなんて……せっかくローズさんにいいところを見せる好機なのに、これでは勝ち目が……」
思ってること声に出てるぞ、ドジっ子ちゃんめ。
今のイヴにとっては、セイディが《黄昏の調べ》のせいで故郷を出たことより、強敵であることの方が気掛かりらしい。俺はべつにイヴが勝とうが負けようがポンコツだろうが、真面目な美女ってだけでオールオッケーだから気にすることないのに。
「みんなー、ちょっと聞いてー」
ふと聞こえたクレアの声に、俺たちは何事かと声の方に目を遣った。長い黒髪をポニテにした美女は黒いビキニ姿で海を背景にして砂浜に立っており、その光景は絵になるほど最高に美しい。水着店で最初に試着していた普通の黒ビキニなので、クレアの素晴らしい肉体美が活きた艶姿だ。
「これからミネアルト領の領主ギャスパー・カイゼルド伯爵がいらっしゃるそうだから、一旦集合して」
このビーチや島どころか領地を治める御仁がいらっしゃるなら、暢気に遊んでる場合じゃないな。俺たちは賓客として招かれているとはいえ、相手は伯爵様だ。揃って出迎えてご挨拶差し上げるのが礼儀ってもんだろう。
俺やイヴたちと同様に、思い思いの時間を過していた各人がクレアのもとにぞろぞろ集まっていく。滝やコテージの方にいた人は先んじて使用人が知らせに行っていたのか、すぐにみんな集合した。
「クレア、着替えた方がいいよねぇ?」
トレイシーの言うとおり、身だしなみは整えた方がいいだろう。特にウェインとラスティの二人は先ほどまで砂浜で組み手をしていた。二人とも軽く海水で洗い流してから来たので、一見して汚れてはいないが、髪を触れば砂がぱらぱら落ちてきそうだ。
「いえ、そのままの格好で構わないそうよ」
「お姉様、それって社交辞令的な罠じゃないです? そう仰ってるけど実は着替えるのが当然の作法みたいな?」
「そんなことはないさ。この国は外国貴族や富豪にとっての保養地だからね。非公式の場であれば、そう堅苦しい作法は求められないよ」
アロハシャツの黄門様がのんびりと笑っている。
この人は貴族として寛大すぎるはずなので、ローランを見て貴族って意外と気さくなんだなと勘違いしない方がいいはずだ。むしろあのデラックス野郎くらいが標準だと思っておくくらいでちょうどいい。
ローランはみんなの不安げな様子に気付いたのか、苦笑しつつ補足してくれた。
「先日の私とミリアさんのように、こちらから伯の居城に出向くのならともかく、直前の連絡であちらから保養地に来るわけだからね。招いた客人が水着で寛いでいたところをわざわざ着替えさせて出迎えさせたとあって、ボーダーン貴族の名折れだよ。この状況で殊更に身だしなみを整えるのは逆に無礼になる」
なるほど、そういう考え方もあるか。恐縮しすぎると、こちらが相手のことを狭量な人物だと思っていることになりかねないわけだな。
「ところで、その伯爵様のご用件は何なんでしょう? もう例の件が片付いたから、その報告と挨拶に来てくれるんでしょうか?」
ローランやルーシー、そしてミリアとイヴを除けば、俺たちはミネアルト伯爵とまだ会ったことがない。伯爵の方からも俺たちのもとに挨拶に来るようなことはなかった。それは俺たちを軽んじているというわけではなく、領主として合わせる顔がないからだとローランから聞いた。
俺たちは伯爵の治める領内で、不埒者に襲われた。ボーダーン群島国の貴族にとって、この手の事態はただでさえ不名誉なことなのに、俺たちは賊共を自力で始末し、一人は生け捕って連行し、伯爵に引き渡した。それは本来、領主配下の官憲共がすべき行いだ。それだけなら未だしも、俺たちは上客である環ベイレーン同盟に加盟している国の侯爵令孫を助けた。その過程で伯爵側が貢献し得たことが何もない以上、もはや伯爵の面子は丸つぶれだ。俺たちに合わせる顔がないというのは本当だろう。
だから伯爵本人が来るというのであれば、例の捕虜から引き出した情報をもとに、バシーケイ多種族国の残党を粗方始末できたということになる。それを以て領主としての名誉を回復しなければ、堂々と胸を張って俺たちとは会えないのだろう。もし俺たちに悪意があれば、幾らでも脅迫紛いのことができちゃうわけだからね。慎重になって当然だ。
その辺りのプライドや計算はしっかりと貴族らしい人物というわけだ。
「先触れに来た人は、詳しいことは言っていなかったわね」
「じきにいらっしゃるでしょうから、どのような御用向きかはお目にかかれば嫌でも分かることよ。浮き足立っていても恥ずかしいし、大人しく待ちましょう」
みんな少なからずそわそわしている中で、ミリアは緊張感の欠片もなく落ち着いていた。この人は大国の姫様だった人だから、貴族相手に緊張なんてしないんだろう。
俺たちは小舟用の桟橋に向かい、伯爵様のご到着を待つことにした。
十分ほどしたところで、入り江に一隻の立派な船が入って来た。そして俺たちのときと同様に、小舟に何人かが降りて、こちらに向かってくる。
「これはローラン殿、お出迎え頂き恐縮です」
桟橋に到着した小舟から降りた者たちの中で、まず最初に声を上げたのは小太りの中年だった。ローランと似たようなアロハシャツ姿だが、どことなく立ち居振る舞いに品がある……ように見える気がする。
「ギャスパー殿、先日振りですね。色々とご配慮頂いたおかげで、随分のんびりとさせてもらってますよ。改めて礼を言わせてください」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。ただでさえご迷惑をお掛けした上、客人を満足にもてなせないようではボーダーンの貴族として本当に立つ瀬がありませんからな。寛いで頂けているのであれば、私としても最低限の面目は保てるというものです」
どうやら伯爵と侯爵は名前で呼び合うくらいには親しいらしい。他国とはいえ侯爵の方が爵位は上なんだから、上下関係らしきものがあっても良さそうなのに、そこはローランの人柄故ということだろうか。
「ギャスパー殿、こちらが孫娘を救って頂いた方々です。皆さん、こちらがミネアルト伯爵のギャスパー・カイゼルド殿です」
「皆さん、はじめまして。立ち話も何だし、腰を落ち着けて話をしたいところだが、まずはその前にすべきことがある。ローズさんというのは……君かな?」
「え、あ……はい、そうです」
伯爵は並び立つ俺たちを見回して、どういう訳か俺をロックオンした。
こうして目が合うと、ギャスパーは何だか愛嬌のある見た目をしているのが分かる。頭髪がかなり短く刈り込まれているし、小太りだから顔が丸っこいので、いわゆるおにぎり頭なのだ。あのデラックス野郎ほどのデブでもなく、あくまでも中年太りな体型なのでデブ特有の不快感はほとんどない。むしろおにぎり頭のおかげで全体としてのバランスが取れており、そこに綺麗なカイゼル髭が加わることで上品さを醸し出していた。年頃は四十半ばから後半といったところだろうか。
「老師、お願いします」
「はいよ」
ギャスパーの後ろにいた老婆が俺の目の前に歩み出てくると、しわくちゃな手で右腕に触れてきた。
何だこの婆、同性とはいえ乙女の身体に無断で触れるとは無礼な。それが許されるのは美少女か美女だけだぞ? 昔は割と美人っぽい感じの婆さんでも、せめて一声掛けてくれよな。
「ふむ……ローズさんと言ったね。この腕をなくしたときのこと、怖い思い出になってないかい?」
「……まあ、そんなには」
「なら大丈夫そうだね。それじゃあ力を抜いて、魔法を受け入れるんだよ」
婆さんは如何にも幼女に向けるような優しい笑みを浮かべると、何かぶつぶつと呟き始める。それはクラード語で、天級治癒魔法の詠唱で、伝わる魔力波動からも本物だとすぐに分かった。
思わず周りを見回してみると、みんな突然の状況に驚いた様子ながらも期待の目を向けてきていた。いや、クレアやセイディは特に驚いてないな。ローランやミリアなどは当然の状況だと言わんばかりに平然としている。
「――〈天黎癒〉」
誰もが固唾を呑んで見守る中、老師らしい婆さんが唱えきって魔法名を口にした。
すると、しわくちゃな手が触れている右腕の断面付近が眩く光り始め、同時にその部分がぽかぽかとした温かさに包まれる。ヌクモリティ溢れる白い光は徐々に腕の形に伸びていき、十秒ほどで五指の形にまでなったところで、急速に光が弱まり始める。
「――――」
光が晴れると、右腕があった。
唖然としながらも反射的に手を動かしてみると、ちゃんと思い通りに動いた。感覚もある。グーチョキパーもお手の物だ。
「うわあああああローズの腕が治ったあああああああ!」
リーゼが歓声が上げると、みんな緊張が弛緩したようにほっと息を吐いて、笑みを見せ始める。中には笑顔よりも感嘆の面持ちで俺の腕と婆さんを見比べている人もいるが、俺も純粋な喜びより魔法の凄さを改めて思い知った衝撃の方が大きい。
マリリン婆さんがユーハやアルセリアに〈天黎癒〉を行使するところは何度も見てきたことがあるが、どちらも治癒されずに終わっていたため、実際にこうも劇的な効果を発揮する場面は見たことがなかった。いや、あのサヴェリオとかいうクズ野郎の翼が治るところは見たような気がするが、乱戦の最中だったのであまり覚えていない。
とにかく、自分の身で欠損部の復元という現象を体験してみると、その凄まじいさに驚嘆せざるを得ない。こんなことができれば、そりゃ老師とか言われるわ。世界中の王侯貴族が自分たちの血統に魔法力を求めるのも納得だし、男性魔法士の平均より押し並べて優秀とされる魔女が重要視されるのも当然だ。
この世界における魔法の重要性ってのを過去最高に認識できたわ。
「やったやったああああああっ、ローズ手握ってローズ!」
リーゼが飛び跳ねながら俺の手に指を絡めてきたので、にぎにぎと握り返してみた。あぁ……右手側で味わうこの人肌の感触、懐かしいな。
「どうもありがとうございます、お婆さん。あの、お名前を伺っても?」
「わたしはソフィーヤ、この国の魔女だよ。今回はそこの伯爵に頼まれてね。まあ、同じ魔女のそれも子供が腕をなくしていると聞けば、頼まれずとも駆け付けたけどね」
な、なんだこの婆さん……めちゃくちゃいい人そうだな。
無礼とか思ってすまんかった。
魔女の婆さんって存在は前世ではいいイメージなかったけど、この世界は善人ばかりだ。猫耳のニエベス婆さんも老獪ではあったけど親切にしてくれたしな。
「あの、ミネアルト伯爵様、どうもありがとうございます」
俺はおにぎり頭に身体ごと向き直り、深く腰を折った。
「当然の礼をしたまでさ。我々に代わって薄汚いネズミ共を駆除してもらったこと、ローラン殿のご令孫を助けてもらったこと、とても感謝しているよローズさん。我が領内で危険な目に遭い、不快な思いをしたこと、これで帳消しにしてもらえるだろうか?」
「もちろんです。ご配慮痛み入ります」
賊共との戦いでは危険を冒したし、精神的な負荷の大きい殺人も犯しちゃったけど、その価値はあったといえる。右腕が復活するのはシティールに到着してからだと思っていたから、嬉しい誤算だ。
しかし、よく考えてみれば、これは当然の展開かもな。覇級以上の治癒魔法が使える人材はよほどの弱小国でない限り一国に一人はいるだろうから、伯爵のコネを使えば使い手を手配することは可能だろう。今回は俺たちが伯爵側に貸しを作った形だし、それを返すのに俺の腕を治すというのは妥当な落としどころだ。
「私としても安堵した思いだよ。孫娘の恩人が片腕をなくしている姿は見るに忍びなかったからね。ギャスパー殿がソフィーヤ殿を無事お連れすることができて何よりだ」
「ローラン様はご存じだったんですね」
何だよ、事前に言ってくれても良かったのに。サプライズか?
という俺の心情を察したのか、おにぎり系のナイスガイが微苦笑を覗かせた。
「老師――ソフィーヤ殿は多忙な方で、普段は国内をあちこち移動されているから、皆さんが滞在しているうちにお連れできるか分からなくてね。期待させて待ちぼうけというのもどうかと思い、ローズさんには伝えないでもらえるよう頼んでいたんだ」
「そうだったんですか。お気遣い頂きありがとうございます」
確かに、せっかくのバカンス中に今か今かと待ち続けるのもな。それで結局連れて来られませんでしたってなったら伯爵に対する印象も悪化しただろう。
「ローズ、良かったわね。治ってくれて私たちも嬉しいわ」
「胸のつかえが取れた気分よ。まあ、結局これもローズが頑張った結果だから、アタシらは何もしてあげられなかったんだけど」
セイディは何だかんだ言いつつも、クレアと一緒に満足げな笑みを浮かべている。この二人はきっと知っていたんだろうな。
他のみんなも一安心といった様子で、先ほどまでの伯爵様を出迎えるという緊張感はすっかり消えてなくなり、ほのぼのとした空気が漂い始めた。
「さて、無事に治ったところで、そろそろ腰を落ち着けて話をしようか」
水上コテージの食堂に場所を移すことになって、俺たちはぞろぞろと歩き出した。道中、俺はみんなと右手でハイタッチしたり、手を握り合ったりして、半年ぶりに両手のある感覚を堪能した。
最近はもう左手だけの生活に慣れ切っていたので、いきなり右手が動くようになった状況そのものに少し違和感は覚えるが、嬉しい戸惑いってやつだ。五体満足でいられることを幸福だと思える気持ちを忘れないように、しっかりと噛み締めようじゃないか。
それはともかく、ソフィーヤ婆さんには後でユーハの右目にも天級治癒を掛けてもらえないか頼んでみよう。