第百三十三話 『ドキッ! 水着だらけのビーチバカンス』★
翌日。
幸いにも良く晴れた朝で、青空には暗雲どころか雲すらほとんどない。宿の窓から見える街並みは朝日にさんさんと照らされて白く輝き、今日も良い一日になりそうだと思える美しい景観だった。
俺たちは高級宿の食堂でのんびりと朝食を摂った後、宿を引き払ってドラゼン号に向かった。船では既にミネアルト伯爵が手配した案内人が待っていて、その翼人の青年とソールズベリー家の船と共に出港する。二隻はティムアイ島の沿岸部を航行していき、島の全周のうち三分の一ほどの距離をぐるりと回り込むように進んだところで、目的地の入り江に到着した。
入り江は少し歪なCの字型で、切れ目部分は百リーギスほどあり、そこから内側に船を進めていく。切れ目部分から浜までは三、四百リーギスほどだろう。横幅の最大距離も同じくらいで、かなり広々としている。この大きさだと入り江というより湾に近いかもしれない。
入り江の内側に入って少し進んだところで船を停めた。あまり水深がないので、進みすぎると船底を擦ってしまう。既に浜の方からは四隻の小舟がやって来ており、二隻の船のすぐ横にぴたりと張り付くように止まった。
「クアドヌーン王国メイシャル侯爵ローラン・ソルズベリー様御一行、並びにクレア御一行様、ようこそいらっしゃいました。我が主、ボーダーン群島国ミネアルト伯爵ギャスパー・カイゼルド様より、皆様を歓待するよう仰せ付かっております。我々使用人一同、心より歓迎させて頂きます」
五十路前後くらいの礼服を着たオッサンが小舟の上で声を張っている。浜辺の方を見れば、十人くらいの男女がずらりと並んでいて、一斉に礼をしていた。初っ端からのVIP待遇にみんな驚きつつも、期待に胸を膨らませているようだった。
荷物は甲板に出しておけば後で翼人さんたちが運んでくれるようなので、俺たちはほとんど手ぶらで小舟の方に降りていく。俺は梯子を使わず船縁から飛び降りて、〈反重之理〉を駆使してふわりと小舟に降り立った。驚かれると思ったけど、礼服のオッサンは特にそうした反応は見せず、俺と目が合うと柔らかく微笑んで低頭しただけだった。伯爵家の使用人にとって、魔幼女など珍しくないのだろう。
「ほんとに海の上に家が建ってる!」
「今日からあそこに泊まるのね。凄いわ」
小舟で浜辺の桟橋まで移動中、リーゼもサラも水上コテージを物珍しげに眺めていた。十軒ほどの小振りな平屋が水上で半円を描くように連なっていて、それらは桟橋で繋がっている。いずれの平屋も木造で、三角の屋根は藁葺きのようなふさふさとした草丸出しの外観をしているが、そこに見窄らしさは全くない。むしろ小洒落た佇まいで、この入り江のビーチの景観の一部として溶け込んでおり、とても趣がある。
「やっぱり海めちゃくちゃ綺麗だな」
「近くで見ると透明なのに、少し離れるとセイディの髪みたいな色で、きらきらしてる」
ウェインとルティは海の美しさに改めて感動しているようだ。入り江は全体的に浅めのようだが、それでも浜から二百リーギスも離れると水深は五リーギス以上になり、切れ目の出入り口辺りでは二十リーギス以上はあったと思う。目測できるほど透き通っていて、海底までよく見通せるのだ。しかしルティの言うとおり、入り江を広く見渡せば全体的には薄らと緑がかった水色で、静かに波打つ海面は非常に美しい。
「さすがサンメラ海の伯爵ですわね。良い浜をお持ちですわ」
侯爵令孫も素直に認めるくらいには素晴らしいビーチだ。俺としても不満は全くなく、人目を気にしないでいい点が特に最高だった。ここには身内か使用人しかいないので、自由に魔法を使って遊べるのだ。
ということで、早速行くぜ!
まだ水着じゃないけど知ったことか!
「あーっ、ローズずるいー!」
サンダルを脱ぎ捨てて〈浮水之理〉で海面に降り立ち、走り出す。この美しい海の上を裸足で駆ける開放的で爽快な心地、たまらんな! リーゼには悪いが、これは努力して習得できた者だけが味わえる至福の時間なのだ!
「ぼくもやる」
「わたしもやろうかな」
「ぐぅ、わたくしも習得できていればローズ様と一緒に手を繋いで海上を……ぐぎぎぎ……」
ルティに加えてメルまで海面に出てきたので、三人仲良く手を繋いで、笑いながら砂浜まで走っていった。我ながらいい歳こいてはしゃいでるとは思うが、仕方ないじゃん。こんなビーチを貸し切って美女や美少女や美幼女たちと遊び放題とか、興奮するなって方が無理だよ。
こいつはやべえぞ。
いきなりテンション爆上がりで早くも制御不能だぜ。
「よーしっ、みんな早く着替えて海で遊ぶぞー!」
小舟から降りたリーゼが白く美しい砂浜を駆け回りながら叫んでいる。
さあ、優雅なヴァカンスの始まりだ。
♀ ♀ ♀
なんか初っ端から興奮しちゃったけど、まずは使用人の皆さんにきちんと挨拶するようにクレアに言われて、少し冷静になれた。ローランやルーシーはともかく、俺たち庶民は「お世話になります」と頭を下げて、ひとまず水上コテージに案内してもらった。
コテージは全部で十三軒あり、うち二軒はシングルベッドが四つある四人用で、十軒は二人用だった。この十軒のうち、半分がシングルベッドが二つで、もう半分がダブルベッドが一つという構成だ。残りの一軒は大きな東屋のような造りで、そこには長大かつ重厚なテーブルが置かれ、椅子がずらりと並んでいた。たぶん食事はここで摂るんだろうな。
みんなで話し合った結果、俺とリーゼとルティとルーシーの四人、そしてサラとメルとニーナとラスティの四人で、二軒ある四人用コテージを使うことになった。二人用コテージの方は、クレアとセイディ、ユーハとベル、トレイシーとウェイン、ミリアとイヴ、ライムとソーニャの五ペアに分かれ、ツィーリエとゼフィラとローランとノーラはそれぞれ一人で泊まることになった。エステルはみんなで適当に面倒を見る。アシュリンとユーリとメーギーは砂浜にある馬小屋だ。勘当されたデラックス野郎はローランの船で軟禁中らしい。
ノーラはお嬢様を命懸けで守ろうと奮闘したことをローランに認められ、その慰労として今回のバカンスでは俺たちに次ぐ客人扱いとなり、好きに過しても良いことになったようだ。
「これはなかなかお洒落ですね」
「ええ、内装もこの入り江の雰囲気に合った意匠で、調度品も申し分ないですわ」
コテージ内は高級宿以上に洗練され、魔石灯も完備している。大きな窓からは美しい海を臨めるし、バルコニーに出ることもできる。入り江の切れ目から覗く大海を遠く眺望することもできるので、入り江という立地故の閉塞感みたいなものはまるで感じない。
「ローズもルーシーも早く着替えるんだ!」
リーゼは素っ裸になったかと思えば、あっという間に水着姿に変身した。その後に続くように着替え始めているルティの水着と同様に、リーゼの水着もフリルの付いた可愛らしいセパレートタイプで、全体的に黄色い。毛色と調和していてよく似合っていた。
俺たちも早々に着替えて水着姿になり、コテージを出た。
「ぼくたちが一番」
「みんな遅い! もー待てないぞーっ!」
「あっ、リーゼ、いきなり海に入ったら危ないですよ!」
リーゼがコテージを繋ぐ桟橋から海に飛び込もうとしたので慌てて引き止め、柔軟体操をさせて落ち着かせる。海は穏やかで危険はなさそうに見えるけど、自然を舐めちゃいけない。
「ん、お前ら早いな」
俺たちに少し遅れてウェインがコテージから出てきた。
奴は普通の海パン姿だ。特筆すべきところは何もないが、こうして見ると結構逞しい身体をしているのが分かる。ウェインはもう十歳なので、男ならこんなもんかもしれないが……うぅむ、いかんな。普段は風呂とか着替えで女子の裸ばかり見てるから、改めて男子の身体を見ると違和感というか妙な新鮮味を感じてしまう。
「何だよローズ、何じろじろ見てんだ」
「そういうあなたこそローズ様を舐めるような目でじろじろと見ているのではなくって?」
「べ、べつにそんな、全然見てねーし……」
何だと貴様?
いやいや、少しはルーシーみたいにガン見しろよ。せっかくの水着ローズちゃんなんだぞ。期間限定だぞ。
「何ですって!? こんなに美しい御姿なのに見る価値もないとっ!?」
「い、いや、そうは言ってないだろ」
まさかとは思うが、こいつ……俺のことあんまり可愛くないとか思ってるのか? べつに男から見られたいわけではないけど、可愛いと思われていないのも、それはそれでなんかもやもやする。これが複雑な乙女心というやつなのだろうか?
「だったらローズ様の水着姿に対して賞賛の言葉を送るのが殿方の礼儀というものではありませんの!?」
「……なんかまた面倒そうなのが増えたなクソ」
ウェインは溜息混じりに悪態を吐くと、そそくさと柔軟体操を始めた。
まったく、相変わらず贅沢な奴だ。こんなに可愛い女の子たちと一緒に海水浴できるってんだから、世辞の一つや二つ言ってもいいだろうに。
いや、まずは手本を見せてやらないといかんのか?
「ウェイン、その水着似合ってますよ。格好いいですね!」
「な、何だよ、うっせーな……お前もさっさと柔軟しろよ口より身体動かせよ!」
あら、この子ったら照れちゃって。
ま、こいつは素直に可愛いとか口にする玉じゃないか。今回は勘弁してやろう。
「エルマ、早くしなさい!」
「はいお嬢様」
ルーシーは外で待っていた侍女にツインドリルをツイン団子にしてもらっている。今回お嬢様は俺たちと泊まるので、身の回りのことはなるべく自分でやるようだが、髪を結うのは難しくてできないのだろう。
「いっくぞー!」
早々に準備体操を終えたリーゼが桟橋から海に飛び込んでいった。
魔大陸で生活していた頃はよく川遊びをしていたので、リーゼも準備体操は身体が覚えているらしく、興奮して焦った様子ながらもしっかり最後までやりきっていた。その頃にはサラやメルが出てきていたが、リーゼの頭にはもう海で泳ぐことしかないのか、見向きもしていなかった。
この辺りは俺の背丈でぎりぎり足が着くか着かないかくらいの深さしかないようだったが、今の俺は右腕の肘から先がないので、ちゃんと泳げるか少し不安だ。
「お姉ちゃん、行こ」
「あぁ、お待ちくださいローズ様っ、わたくしも一緒に!」
俺たちも柔軟体操を済ませると、三人同時に桟橋からジャンプして入水した。
今日もサンメラ海はカラッとした程良い暑さということもあり、海水の冷たさが実に気持ち良かった。久々の水中でも特に問題はなさそうで、ちゃんと立ち泳ぎで浮き続けることもできる。まあ、溺れそうになったら〈反重之理〉で緊急脱出できるんだけどね。
「あれ、そういえば……」
ルティって泳げるんだっけ?
問題の幼女はまだ海面下にいて、海中をすいすいと泳いで行き、十リーギスほど離れたところで浮上した。
「ルティ、泳げたんですか?」
「……? 去年、お姉ちゃんも一緒に温泉で泳いだ」
いやいやいや、海と温泉は全くの別物だよ。
いくら温泉で軽く泳いだ経験があるからって、初めての海水浴でいきなり桟橋から飛び込むとか、無茶しやがって……。しかも足の着かない深さでも躊躇した様子は全くなかった。ルティは基本的に物怖じしない子だから、ちゃんと見守ってないとそのうちガチの危険に平然と飛び込んでいきそうで心配だ。
「ローズ様は片手が不自由ですし、もしお疲れになったりしたら、遠慮なくわたくしに掴まってくださいまし」
「ありがとうございます。そのときはお願いしますね」
隣で上手に立ち泳ぎしているルーシーに微笑みを返しておいた。
まあ、疲れたら〈浮水之理〉で海面に上がるけど、お嬢様の優しさは無碍にしたくないしな。
「ふふふふ、ローズ様と海中で抱き合って……あぁ、幼いレイレクスが溺れたところをシェルーカが助けて親友になる場面のように、わたくしたちも……」
お嬢様の脳内は乙女の妄想で溢れ返っているな。
君のそういう欲望丸出しの優しさ、嫌いじゃないぜ?
「サラ、私たちもここから行こっか」
「そうね、これくらいの高さなら」
メルとサラの二人も桟橋から飛び込んで海に入ってきた。メルも魔大陸の川で泳いでたし、サラは自分が泳げることは分かっているのか、躊躇した様子はなかった。
二人とも水着はビキニで、メルはフリルなどの一切ないシンプルなものだ。胸元がちゃんとツーピースになっているので、相応に露出している。色が黄緑だからあまり派手さはないとはいえ、メルにしては大胆なチョイスだ。南国的なバカンスで開放的な気分になっているのだろう。
サラは胸元がフリル状の布で覆われているようなホルターネックのビキニだ。綺麗系というより可愛い系だが、子供っぽさはなく、上下共に純白の生地は清楚感がありつつも大人びた印象を受ける。淡い褐色の肌に白い水着は目に眩しいな。もう来期で十二歳になるので、美少女らしさの感じられる水着姿で大変結構。
「あたしたちはまず足の着くところで練習するのです」
「ボクたちちゃんと泳げるようになるかな……?」
ニーナとラスティは飛び込んだ俺たちを羨ましげに見ていた。
二人ともセパレートタイプの橙色の水着で、形状としてはサラの水着に近い感じだが、二の腕までふりふりな生地がぐるりと伸びている。双子でお揃いだけどラスティだけ腰にパレオを巻いていた。
うん、確かにそれは必要だな。もっこりしてるのが見えたら脳がバグる。
「あぁー、これは気持ちいーですねぇー」
とりあえず俺はのんびりとたゆたうように泳いで、砂浜を目指す。といっても五十メートルも離れていないし、だんだん浅くなっていくので、途中から背泳ぎで海の心地よさを堪能した。
リーゼは海に入ってからずっと静かだが、あの子は息継ぎのとき以外ずっと海中にいる。そこらに小魚がちらほら見られるので、潜水して追っかけているようだ。
砂浜に上がると、波打ち際に腰を下ろして、改めて入り江を見回した。
ここでの滞在期間は最短で五日、最長で二節までと決めている。ミネアルト伯爵がバシーケイ多種族国の工作員やその拠点を洗って対処するので、俺たちはひとまずの安全が確保できるまでの間、ここで過ごすことになっている。
「よーしっ、まずはみんなでこの辺を探検だ! あっちの川と滝も、海の中も、向こうの洞窟っぽいとこも、全部探検するんだーっ!」
歩いてやって来た双子に続き、最後にリーゼが砂浜に上がってくると、みんなを見て宣言した。
「リーゼ、ニーナとラスティは泳げないみたいですから、まずは泳げるように教えましょう」
「あの、ローズ様、ボクたちのことは気にせず皆様で――」
「何言ってるんだラスティ! 探検はみんなで行くんだ! だから早く練習だー!」
「ローズ様、水泳を教えられる人はたくさんいらっしゃるようですし、ここはその間わたくしに〈浮水之理〉のコツなどを教えて頂けないでしょうか?」
この調子だと、暇を持て余すようなことにはならなさそうだ。俺としても、精神的にはともかく肉体的には幼女らしく元気が有り余っているので、望むところではある。
年甲斐もなく気分が高揚していることだし、ここは子供の特権として、全力で遊んでおこう。
♀ ♀ ♀
昼食は浜辺でバーベキューだった。
鉄板焼きと網焼きがあり、肉や野菜を使用人の方たちが焼いてくれて、俺たちは立食形式でそれを楽しんだ。こういう開放感のある海ならではの食事をみんなでワイワイ楽しむのっていいもんだな。前世で陽キャたちがやたらとバーベキューしてた気持ちが少し分かったよ。
午前中は水泳と魔法の練習をしていたが、昼食後は腹ごなしも兼ねて各自好きなように遊ぶことになった。俺はドラゼン号の護衛をしている魚人のオッサンたちがどうしているのか気になり、様子を見に行くことにした。
「おう嬢ちゃん、ここはいい入り江だな」
魚人のオッサンたちも昼食を終えたばかりだからか、波打ち際に寝転がっていた。ビーチの隅の方に大きな岩が鎮座しており、その日陰で六人のむさ苦しい人魚たちが疲れた中年オーラ全開で寝ながら酒を飲んでいる。
「いやぁ、魔大陸からはるばる北ポンデーロ大陸まで来たかと思えば……こんな綺麗な海で賓客待遇の休暇を満喫できるなんざ、最高だぜまったく!」
「ああ、お嬢ちゃんたちの船の護衛はほんと働きやすくて助かるよ」
これまでの旅路では、割と出港予定とか繰り上げたりすることがあって、オッサンたちを振り回してきちゃったけど、あまり不満は溜まってなさそうだ。
「そういや嬢ちゃんには言ってなかったが、シティールに到着しても、おれたちはドラゼン号の護衛を続けることになってな。ベルの姐さんがベイレーン内海で商売するってんで、引き続き護衛を頼みたいって言ってくれてな」
そう教えてくれたのは、六人からなる魚人護衛団のボス、キロスだ。スキンヘッドのオッサンで、こうして全身がよく見える状態だと、思ったより大柄な身体をしていることが分かる。
「あ、そうなんですか。私たちはシティールで船を降りますけど、また乗せてもらう機会もあるでしょうし、そのときはよろしくお願いしますね」
「おう、そのときはまた治癒魔法頼むな」
「もちろんです。まあ、怪我をしないことが一番ですけどね」
和やかに笑みを交わしあって、しばし歓談してから、その場をあとにした。こういう機会でもないと魚人護衛のオッサンたちとは交流できないからな。シティールまであと少しとはいえ、ちゃんと良好な関係を維持しておかないと。
みんながいるビーチの中心部付近に戻ってくると、各人がどうしているのか軽く見回してみる。
どうやらユーハが一人暇そうにしているようなので、声を掛けてやろうかな。
「……………………」
眼帯のオッサンは波がぎりぎり届かないあたりに腰を下ろし、愛刀を抱え込むようないつもの姿勢で、黙々と海を眺めていた。普段と違うのは海パン一丁であることに加え、瀟洒なグラスを手にしていることだ。どうやらユーハなりにバカンスを満喫しているらしい。
しかし、こうして横から見ると、なかなかのイケオジに見えるな。眼帯がいい感じに渋みを出している。もう三十八歳の中年なのに無駄な贅肉はなく、全身ががっしりと引き締まっているので、如何にも男らしい頼もしさが感じられる。
「ユ――」
「ユーハさぁん、おつまみどうぞぉ」
口を開いた直後、ユーハの後ろから美女が歩み寄り、声を掛けた。俺は出鼻を挫かれ、思わず立ち止まる。
「う、うむ……これはかたじけない、トレイシー殿」
ユーハは少し戸惑った様子ながらも、差し出された小皿を受け取っていた。トレイシーが見違えちゃってるから、オッサンはまだ慣れないんだろうな。
トレイシーは普段だぼっとした服を着ているから体型が分かりにくいけど、今は露出多めなビキニ姿だから、身体の凹凸がよく分かる。ビキニでも変わり種のつなぎビキニ、もしくはモノニキと呼ばれるタイプの水着で、前から見るとワンピースタイプだけど、後ろからはビキニのように見える。腹部の両サイドは丸見えで、つなぎの部分はちょうど腹筋が隠れる程度しかないので、普通のビキニより布面積が多いくせにエロさがあり、スタイルが良くないと着こなせない水着だ。
俺は一緒に風呂に入ったりしてたから知ってたけど、トレイシーって意外とスタイルいいんだよな。胸もクレアほどではないにしろ大きい方で、腰元もなかなか色っぽい。いつもは結い上げている髪を下ろしているから、ユーハからすれば普段の姿から受ける印象と相当なギャップを感じているはずだ。しかも水着が赤色ということもあって、やけに色っぽい感じもする。正直、顔はクレアたちほど美形ってわけではないが、こうして全体で見ると十二分に美女と評せる。
「隣座ってもいいですかぁ?」
「……うむ」
ユーハがやや硬い仕草で頷くと、トレイシーはほぼ密着するような距離に腰を下ろした。
「こんなときでも刀は手放さないんですねぇ」
「無粋で済まぬ。しかし、ミネアルト伯とやらの配下が厳重に警護しておろうと、万が一ということはあろう。そう考えると、どうにも落ち着かぬのでな……情けないことであるが」
「いいえ。頼もしくて素敵ですよ、ユーハさん」
あれ、なんか急にトレイシーの口調からいつもの緩さがなくなった。
しかも、素敵って……んん?
「……と、ところでトレイシー殿、近頃のウェインの上達ぶりをどう思われる? やはりラスティという同輩を得た影響が大きいのであろうか?」
ユーハは焦ったような口振りで急に話題を変えている。
「そうですね、そう思います。ウェインも男の子ですから、ラスティではなく自分の方が頼りになるのだと、気になってる子にそう主張したいのでしょう。恋の力ですね」
「う、うむ……なるほど、うむ……」
ウェインの恋の力ってのも気になるが、今はそれよりあの二人の空気だ。ユーハは妙に歯切れが悪いというか、最近では珍しくたじろいでいる様子だし、トレイシーからはいつものダウナー系お姉さんらしさが感じられない。話し方といい、見た目といい、しっとりと落ち着いた大人な女性の雰囲気だ。
これは、まさか……そのまさかなのか?
「恋と言えば、ユーハさんは以前は結婚されていたようですけど、また家庭を持とうとは思わないんですか?」
「……某は……某に、そのような資格などない」
踏み込んだ質問に対し、ユーハはシリアス顔になって重々しい空気を纏った。しかしトレイシーに怯んだ様子はなく、むしろ優しい微笑みを向けている。
「その有無は相手の方が判断することでは?」
「しかし、それは……」
「それなら結婚とまではいかずとも、誰かとお付き合いしようとかは思わないんですか?」
「そ、某はもう、四十路を前にしておる中年故……」
「もし十歳くらい年下の相手から、四十路を前にしている中年でもいいからと求められたら、どうしますか?」
「……………………」
トレイシーの猛攻を前に、ユーハは見るからにたじたじで、まるで時間を稼ぐとでも言うようにグラスに口を付け、やけに長い時間を掛けてゆっくりと中身を飲んでいく。やがてグラスが空になって口を離すと、きょろきょろと落ち着かない素振りで辺りを見回し始めた。
オッサンの目が俺を捉えると、まるで遭難者が救助隊を見付けたときのような顔になった。
「ロ、ローズ! ちょうど良いところに――ぬ!? どこへ行くのだローズッ、なぜ急に背を向ける!?」
ここは後でまたあらためて出なおすとすっか!
ローズはクールに去るぜ。
「ローズッ、待たれよローズ! ローズぅ!」
ユーハさん、ここは男ならしっかりと向き合って答えてあげる場面ですよ。今のあなたならそれくらいできるはずです。RMCに逃げ込むなんて許しませんことよ。
俺は気を取り直して再び辺りを見回してみる。
先ほどからベルが棒立ちになっているのが気になり、サマーベッドやパラソルなどが並ぶ一帯に足を向けた。
「ベルさん、立ち尽くしてどうかしたんですか?」
ベルは俺が近寄っても顔すら向けてくれない。大柄マッチョな肉体はほとんど肌が露出しておらず、上はラッシュガード、下は足首まであるレギンスに短パンといった出で立ちで、服装だけなら中性的だ。今日もばっちりメイクが決まり、角刈っぽい髪も綺麗に整っている。相変わらず男らしいのか女らしいのかよく分からん姐さんである。
俺はベルの腕をちょんちょんと突きながら声を掛けた。
「ベルさん、おーい、ベルさーん、まさか熱中症にで――え? し、死んでる……?」
ベルは菩薩のように穏やかな顔のまま、死後硬直でもしているかのように微動だにしない。明らかに意識が飛んでいた。
「ツィーリエさんっ、いったい何があったんですか!?」
すぐ近くにいた美熟女に尋ねた。
ツィーリエはパラソルの下でサマーベッドに身体を預けており、サイドテーブルにはトロピカルジュース的な何かと、エステルの収まる編み籠が置かれている。どうやら今は彼女が赤ん坊のお守りをしてくれているようだ。
「私にもよく分かりません。先ほどヒルベルタさんはエステルのおしめを替えて寝かし付けると、そこで大きく伸びをして海を眺めていたのですが……それからずっと立ち尽くして動かないものでして」
そう答えるツィーリエも今は水着姿で、あまり露出のないビキニを着こなしている。上は首元まで隠れるハイネックタイプで胸元は完全に覆われており、下はパレオでほとんど見えない。腹回りは丸見えだが、たるみはまるでなく、自称四十二歳には見えない肉体だ。
思わず見とれていると、海の方から大きな笑い声が響き、反射的にそちらを見遣る。リーゼやルティ、ルーシー、ウェインにラスティなどの子供たちが波打ち際ではしゃぎ回っている。追いかけっこでもしているのだろうか。無邪気だねぇ。
あ、そうか……なるほど、そういうことか。
「ベルさん、満喫するのもほどほどにしてくださいね」
俺は大きな背中を労るようにぽんと叩いて、静かに立ち去った。
なぜすぐに気付けなかったんだ……奴がただ尊死しているだけだということに。あの幸せそうな、もう未練なんてないとでも言わんばかりの顔を見れば一目瞭然だったじゃないか。俺も前世では何度か尊死したことあるからな、気持ちは分かるぜ。
どうせそのうち復活するので、そっとしておいてやろう。
「おっと、これはなかなか容赦のない……」
「ふふ、そういうローラン様こそ、先ほどからこんな小娘相手に随分と苛烈な攻めを繰り出しているように思えますわ」
別のパラソルの下では好々爺と美女がテーブルを挟んで盤兵戦をしていた。ローランはアロハシャツみたいな格好で、ミリアは水色ビキニの上からカーディガンを羽織っている。羽織り物はレースらしき薄手の素材で、均整の取れた美しい肉体が透けて見えるが、そこには色気よりも上品さが感じられた。
「いやいや、小娘などと……ギャスパー殿との席ではどこのご令嬢かと思えるほど堂に入った話しぶりで、思わず感心したものだよ」
「所詮は侯の威を借りただけの虚勢ですわ。内心では浮き足立っておりました」
「そう謙遜されることはない。何か事情がおありのようだが、貴女が高貴な生まれであることは、見る者が見れば分かるものだよ……ふむ、これはもう手詰まりかな……?」
俺はローランと少し話したいことがあったが、今は遠慮した方が良さそうだ……と思ったところで、侯爵様が苦笑いを零しながら軽く両手を挙げた。
「降参だ。いや、久々に良い勝負をさせてもらった。楽しかったよ、ありがとう」
「ふふ、恐縮ですわ」
「ローズさん、私たちに何か用かな?」
黄門様に声を掛けられたので、俺は踵を返しかけていた足を向け直し、歩み寄った。すぐ近くには助さん角さんと使用人のオッサンが控えていて、何だか少し緊張するな。
「勝負のお邪魔をしてしまったようでしたら、申し訳ありません」
「いや、大丈夫だよ。本当にちょうど負かされてしまったところだったからね」
そう言って笑うローランの顔に悔しさや不快感はなく、むしろ楽しげだった。ミリアなら侯爵様を接待すべく、ぎりぎりで負けてやるくらいはしそうだったが、普通に勝っちゃったらしい。ローランは笑ってるけど、本当に勝っちゃって良かったのかね?
そんな考えが顔に出てしまっていたのか、爺さんは空いた椅子を手で指し示しながら、笑みを渋いものに変えた。
「私のような立場だと、しがらみも多くてね。遠慮なく負かしてくれる相手というのは、なかなかいないんだ。これでも私は強いから、尚更ね」
俺は椅子に座りながら「なるほど」と頷いて相槌を打った。
そりゃ侯爵様だもんな。
やっぱりご機嫌を取ろうとする輩は多いのだろう。
へへっ、あっしもゴマすりなら多少自信がありやすが、この場ではやめておきまひょか。
「だからミリアさんには本気で相手をしてくれるように頼んでいたんだよ。やる気を出してもらえるように、私に勝ったら何でも望みを叶えてあげると言ってね」
「それはまた、気前の良いことを」
「はっはっはっ。まあ何でもと言っても、私に叶えてあげられる範囲でだけどね」
上機嫌に笑うローランに対し、ミリアは薄く微笑んでいる。この美女が勝ち取った権利だから強要はできないけど、できればみんなのためになるお願いをしてほしいものだ。
「それで、ローズさん、もし私に何か用なら遠慮することはないよ」
今なら黄門様の機嫌も良いし、尋ねれば快く答えてくれそうだな。
「それでは、えっと……先日お話ししていたベオ様という方がどんな人なのか、教えて頂けないかと思いまして」
「ほう、あの御方のことを。ゼフィラ様と行動を共にしていれば、気になるのも当然か。しかし、それならゼフィラ様にお聞きした方が良いのでは?」
「あの人はそういうこと教えてくれないですからね」
そう答えたところで、使用人のオッサンが俺の前にグラスを置いてくれた。鮮やかな黄色と爽やかな匂いからして、数種類の果汁を混ぜ合わせたジュースだろう。一切れの果肉が飲み口に飾られ、葦の茎みたいな植物製のストローが刺さっているので、口を付けてみる。
べらぼうに旨くてむせそうになった。
「なるほど。ベオ様も他の鬼人族については語りたがらないところがあったように思う。お二方とも何か事情がおありなのだろう」
や、やべえっ、なんじゃこりゃあ!
後でリーゼたちにも飲ませてやんないと!
「しかし……ふむ、あの御方をどのように言い表すのが適切なのか」
おっと、いかんいかん。
今は侯爵様の前だし、俺から尋ねたことだ。ちゃんと話に集中しないと。
「自由、深遠、そして親愛。そういう印象が大きいね。何人にも縛られず、誰に対してもその懐は広く深く開かれ、全てを見透かしながらも驕ることなく、諧謔に富み、人を慈しむ心が感じられた。ゼフィラ様もそうだろうと思うけど、人という存在が好きなのだろうね」
え? いや、ゼフィラはむしろ人が嫌いなんじゃないかな? 他人なんて煩わしいだけだとか思ってそうな言動をしていることが多いし、とても人好きとは思えん。もし好きだとしたら相当なツンデレだ。
「侯爵閣下にそう評されると、私も一度お会いしてみたくなりますわ」
「ゼフィラ様と縁を結べたならば、ミリアさんもいつか出会えるかもしれないね。私のように四十年後になるかもしれないが」
「あら、それはまた気が遠くなるようなお話ですわね」
ミリアとローランは楽しげに笑みを交わしている。
それにしても、先日もそうだったけど、黄門様はかなり俺様を尊敬しているのが伝わってくるな。本当に俺様世界周遊記のような野郎を敬うほどに、そして人間至上主義者ではなくなるほどの感銘を受けたなら、あまり貴族らしくないのも頷ける。
あ、そうだ……あの本があったじゃないか。
「実はベオ様が書いたと思しき自叙伝があるんですけど、もしよろしければそちらに目を通して頂けませんか?」
「ほう、そんなものが」
「それで、本当にベオ様が書いたものかどうか、本当に書かれているような人物なのかどうか、ご意見を頂けませんか?」
ただ話を聞くよりもその方が俺も理解し易いしね。
ツヴァイたちが嘘を吐いているとまでは言わないけど、やっぱり実際に会ったことのある人に、あの本の感想を直接聞く方が情報の信頼性は高い。べつに覇王様を積極的に探してやるつもりはないけど、個人的な興味はある。ローランは尊敬している人が本を出していることを知らないようだし、貸してやれば感謝してくれるかもしれない。一石二鳥だな。
「もちろんいいとも。私としても興味がある。その自叙伝とやらは今持っているのかな?」
「はい。船にあるので、ちょっと取ってきますね」
俺はしっかりとジュースを飲み干してから席を立った。
ここは手っ取り早く〈瞬転〉で取りに行きたいところだけど、このビーチにはミネアルト伯爵の使用人たちがいるし、一応まだ侯爵側にも知られていないようなので、普通に走っていく。まだ無詠唱化もできていないし、気軽に使うのは今後のためにも良くない。
それでも〈疾風之理〉を駆使すれば、二、三百リーギスなどあっという間だ。俺は船内で目的の本を回収し、蜻蛉返りした。
「お待たせしました」
「いや、見事なものだね。鮮やかな身のこなしで、見ていて感心してしまったよ。〈疾風之理〉と〈浮水之理〉を同時行使して水上を駆ける様は熟練の魔法士そのものだ。一国の工作員共を壊滅させられるだけのことはある。そう思わないか、スヴェン、カーズ」
「はっ、まさに」
「そのお歳で素晴らしい練度です」
な、何だこいつら……唐突にベタ褒めしてきて。
そういう不意打ち、嫌いじゃないけど好きじゃないよ。
尻が痒くなってくるからやめてくれ。
「あ、ありがとうございます。こちらが例の本です」
「ああ、お借りしよう」
ローランは受け取ると、興味深そうにまじまじと表紙を見つめてから、本を開いた。早速読み始めるつもりなのか、真剣な眼差しをしている。そこまでマジになって読むもんでもないと思うが……。
「それでは私はそろそろ失礼させて頂きますわ」
「――おっと、すまないね」
「いいえ、強敵と一戦して頭が疲れてしまいましたから、一泳ぎしたくなりまして。閣下がよろしければ、またお相手させて頂いても?」
「ああ、もちろん。次は勝たせてもらうよ」
ミリアは淑女然とした挙措で、しかし恭しすぎない程度に一礼すると、海の方に向かって歩き出す。俺もこの流れに乗って黄門様の御前を退いた。
さて……そろそろリーゼたちに合流しようかな。
いや、その前にさっきのジュースをもう一回飲みたいし、リーゼたちの分と一緒に注文しよう。
このビーチには海の家があり、ドリンク類はそこから運ばれてくる。さっき飲んだジュースの名前は知らないが、見た目や味を言えば察して用意してくれるだろう。
「うっ、うぅ……私なんてぇ、どうせ役立たずなんですぅ……」
海の家に足を踏み入れると、泣き濡れた声が耳に届いた。声の主はバーカウンターのスツールに腰掛けて項垂れており、その右隣には銀髪の少女、左隣には茶色い翼を背負った女性が座っている。ゼフィラはいつものローブ姿で、ノーラはビキニを着ているようだ。
「ローズさんを守るのが、私の役目なのにぃ……ぐすっ……何もできず、役にも立てず……うぅぅ……ジーク様を、ジーク様を守れなかった私なんてぇ……うぐぅぅぅ……」
「うむ、辛いときは飲むが良い」
こうして見ると、ゼフィラはただ優しく慰めているだけに思える。
しかし、アレは違う。ただ面白がって酒を勧めているだけだ。もっとイヴを酔わせて醜態を晒させ、それを酒の肴にしようとでも思っているに違いない。奴はそういうロリババアだ。
イヴは勧められるがままグラスを煽ると、「ひっく」と可愛らしくしゃっくりを漏らして、左隣に座る翼人の姉ちゃんを見た。
「ノーラさんは、凄いれすよねぇ。騎士の鑑れすよ」
「あの、イヴさん、少し飲み過ぎでは?」
「あんな血塗れになってまれ、リュシエンニュさんを守ろうとされて……凄いれす! そんけーしまふっ!」
イヴは興奮した様子でバーカウンターにグラスの底をどんどんと叩きつけた後、一転してぐったりと肩を落とした。
「それに比へて、わらしなんてもぉ……魔女の護衛騎士とか、言っておいてぇ……ふふっ、うふふふふっ……ゴミれす……ローレルれも、賊ろもにも……なーんにもしてなーい! あははははっ!」
「ほれ、もっと飲むかの?」
「あ、ありがとーごらいまふ……んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁっ……ひっく……うっ、うぅぅうぅぅぅ、ごめんなさいぃ……役立たずれごめんなさいぃぃぃぃ……守れなくってぇ……守れなかったぁぁああぁぁぁぁ!」
ど、どうしよう……声を掛けづらい。
どうやらイヴはその生真面目さ故に、感じる必要のない罪悪感に苦しんでいるようだ。彼女の場合、ジークという大事な人を守れなかったことがトラウマになっているのか、誰かを守るということに対して人一倍強い責任感を持っているのだろう。
イヴは午前中からずっと水着を着ていない。普段着のままだ。彼女だけ水着を買っていないとは聞いていないので、どうしてか尋ねたところ、今日は泳がないから着ないと言われていた。本人がそれでいいならと納得していたけど、この分だと俺の護衛として役に立てていないことを反省して自粛しているだけかもしれない。
いかんな……もっと気に掛けてやるべきだった。これでは美女の水着姿を拝めない以前に、可哀想だし申し訳ないしで、俺まで辛くなってくる。
「どーせ、わらしなんかれは……まもれないんれす……まもれなかった……また、まもれなくて……まもれなかったぁ……」
まったく、そんな何度もマモレナカッタなんて言うもんじゃないよ。RPGの主人公が戦闘不能になったときみたいで縁起悪いでしょーが。
「ふむ、護衛がこう言っておるが、主としてはどう思ってるのだ小童?」
ゼフィラはちらりと振り返り、にやにやとした笑みを浮かべている。
こいつめ……俺とイヴの機能不全な主従関係を面白がってやがるな。俺がどう対応してイヴがどう反応するのか、見世物として楽しむ気満々なのが透けて見えるぞ。
「イヴ」
「……ろーるさん」
俺の名前がロック○ンシリーズのヒロインになるくらい、もうかなり呂律が怪しい。顔は赤いし、目も据わっている。涙の痕とちょっと垂れた鼻水が痛々しくも可愛らしいのが救いだ。
やはり美女はいいもんだな。
これは是非とも水着姿を披露してもらわないと。
「そう気に病む必要はありませんよ。イヴがいてくれるだけで、私は安心できますし、今でも十分頼りになってます」
「れも……そんらの……わらしなんて、なんりも……してないれふ……」
「航行中に見張りをしてくれて、エステルの面倒も見てくれて、みんなのことを気遣ってくれる。今はそれだけで十分なんです。シティールに到着したら、きっと頼ることは多くなると思います」
今は旅の最中だから、旅の恥はかき捨て感覚で魔法を使って自衛したり無茶したりもできているけど、定住することになる街だとそうもいかなくなるはずだ。無用な注目を集めないように、人前で魔法を使うのは控えた方が良くなると思う。
魔法を使えない、あるいは使いたくない状況下において、護衛がいるのといないのとでは天地ほどの差がある。特に俺はまだ幼女だから侮られることが多いし、身体的には脆弱だ。大人が一緒にいてくれれば何かと助かるだろう。それならばユーハでもいいだろうと思えるが、それは俺がまだ幼女だからだ。あと数年もすれば、同性でなければ何かと不都合な状況が多くなってくるに違いない。
イヴが輝くときは必ず来る。
「……わらし、いらないおんなら、ないれふ?」
しっかりと説明しても酔った頭では理解してくれるとは思えないので、ここはとにかく優しく接して宥めるのがいいはずだ。解毒魔法で強制的に酔いを醒ましてやることはできるが、急に我に返れば、きっとイヴは衝動的に自殺したくなるほど情けない気持ちになるだろう。
俺は美女の手を握って、微笑みかけた。
「ええ、必要な人ですよ」
「……れも、また……まもれないかも」
「だったら強くなってください。努力してください。ノーラさんみたいに命懸けで助けてください。私はイヴならそうしてくれると信じてますよ」
「ろ、ろーるしゃん……っ!」
はいはい、もうロールでいいよ。ロールちゃん可愛いしね。
イヴは感激した様子で俺の手を握り返すと、スツールから腰を上げて床に跪いた。
「きっと、おやくにたって、みせまふ!」
「それじゃあ、早速この椅子に座らせてもらっていいですか? 座面が高くて私じゃ座るの難しいので」
「はい!」
イヴは俺の両脇に手を入れて持ち上げると、スツールに座らせてくれた。右隣のゼフィラは「……ふむ」などとつまらなさそうに嘆息を漏らしており、左隣のノーラは優しい笑みを浮かべている。
カウンターの向こうでバーテンをしている使用人服の爽やか系イケメンは、先ほどから我関せずの態で黙々とグラスを磨いていた。
「すみません、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょうローr――失礼しました、ローズ様」
バーテンは既に俺の名前をしっかりと把握していたようだ。その使用人としての優秀さに免じて、言い間違えそうになったことは聞かなかったことにしてやろう。
「先ほど、何かの果汁を混ぜ合わせたような、凄く美味しいお酒じゃない飲み物を頂いたんですけど、それを八杯頂けますか?」
「ティムアールですね。仰る通り、七種の果物と二種の野菜の搾り汁を混ぜ合わせた、ティムアイ島で人気の飲み物です。お作りしますので、少々お待ちください」
使用人は一礼すると、カウンターの向こうで屈み込み、金属製のボトルを次々と取り出していく。カウンターの下に冷蔵庫でもあるのだろう。
イケメンは各ボトルの中身をそれぞれ異なる分量ずつ、八つのグラスに注いでいく。
「あらかじめ混ぜておくと、時間と共に味と色が変わってしまいますので、飲む前に混ぜるのです」
「なるほど」
最後に一切れの果肉を飲み口に飾り、ストローを刺して、シルバートレイの上に載せた。
「八杯とのことですので、お子様方にお配りすればよろしいのでしょうか?」
「はい」
「では、お嬢様方には自分が持っていきましょう。あなたはそのままゼフィラ様のお相手を」
ノーラは席を立つと、恐縮して遠慮するイケメンから問答無用でトレイを奪い取った。べつに他の使用人を呼べばいいと思うが、ノーラにとってゼフィラはかなり気を遣う相手だろうから、この場を離れる口実が欲しかったのかもしれない。酔っ払いの相手も疲れるだろうしな。
しかし、今のイヴにそれを察することはできないようだ。
「あ……それはわらしがっ!」
「いえ、イヴさんはかなり酔っておられるようですし、ここは自分が――」
「そんら、のーらさん……わらしがやくにたつきかいを、うばうんれすか……?」
「え、いや、そういうわけでは――」
「わらしもろーるさんのおやくにたちますっ!」
イヴはノーラの手からトレイを強奪した。意外にもその動きはキレが良く、それだけ見れば酔っているとは思えない。
「ろーるさん、いきましょう!」
「え、ええ、そうですね」
少し心配だったが、足腰もしっかりしているようだし、任せても大丈夫だろう。今は何でもいいから役に立たせてやって、自信を付けてもらおうじゃないか。
「――あっ!?」
美女は海の家を出て三歩でこけた。
グラスが宙を舞い、中身を零しながら落下して、一瞬で砂浜に飲み干される。俺は任せようと思った矢先だったこともあり、全く反応できなかった。
「うっ……う、うぅぅうぅうぅぅぅぅ……」
イヴはその場に蹲って、呻くように泣いている。
どう声を掛けていいのか分からなかった。だって、べつに躓くようなものは何もないし、千鳥足でもなかったし……い、いや、やっぱり酒が足にきてたのかね? うん、そうだ、そうに決まってる。状況的に考えて、確定的に明らかだ。
だから、イヴはそんな……何もないところで躓くようなポンコツじゃない。これまでもちょっと怪しいところはあったけど、まだ確定はしていない。そもそも初めて会ったとき盛大にすっころんでた気がしないでもないが、もう何年も前のことだし気のせいだ。
「ク、クフフフフ、期待を裏切らぬ小娘だの」
背後からはゼフィラの笑い声が聞こえる。
今そういうの、やめてあげて。頼むから。
「ずびばぜん……ごべんだざいぃ、ろーりゅしゃん……」
「イヴ様、お怪我はありませんか?」
バーテンのイケメンが駆け寄ってきて、土下座するように蹲って震えるイヴに気遣わしげな声を掛けている。だが、今の彼女にとってそれは傷口に塩を塗るような行為だ。
今ここで必要なのは、もっと即物的でシンプルな一杯だろう。
「すみません、彼女に一番強い酒をお願いします」
ここで起きたことは忘れてもらおう。
それがイヴのためだ。
今日ここでは何もなかった。いいね?
♀ ♀ ♀
翌日。
双子がある程度泳げるようになった。ラスティはかなり運動神経がいいし、ニーナも悪くはない。子供ということもあって飲み込みが早く、犬かき程度はすっかりお手の物で、ラスティは深く潜水することもできていた。
「よーしっ、まずはあの滝に行くぞー!」
「ピュェン!」
アシュリンに乗ったリーゼに続いて、子供たち全員で砂浜から移動する。
このプライベートビーチには砂浜の向こうに草地が広がり、そこを半円に取り囲むように崖がそびえ立っている。その崖までがミネアルト伯爵のプライベートビーチとされ、この範囲内であれば安全は保証するとのことだった。実際、今も崖の上には一定間隔ごとに人影が立っているのが見える。歩哨だろう。
崖の上からは結構な量の水が流れて来て、滝壺に落ちて川となり、入り江に向かって流れている。水源に恵まれた豊かな土地だろうから、普通に漁村にでもすれば栄えそうなものだが、だからこそ伯爵様のプライベートビーチに相応しいのだろう。こんな贅沢な土地活用をしてみせることで、ミネアルト領とその領主の豊かさを表したいのだ。
「みんなあの上から飛び込むんだ!」
「下は意外と深いし、大丈夫そうだな」
リーゼは元よりウェインも崖から滝壺に飛び込む気満々のようだ。
しかし、相変わらずアシュリンは格下を背に乗せることを嫌がり、結局ウェインは自力で崖を登攀することになった。奴も男だし既に十歳同然とはいえ、十五リーギスくらいありそうな崖をクライミングしていく子供の姿はちょっと異様だ。
「命綱もないのに、よくあんなにほいほい登れるもんですね。普段から鍛えてると言っても、こんなの初めてでしょうに」
これは素直に凄いと思えた。
今の俺は片腕だから到底できないけど、万全の状態でもできないだろうし、やりたくもない。落ちたとき咄嗟に魔法を使えなければ死ぬ可能性大だと思うと、無謀な挑戦はしないに限る。俺はこの幼女体を大切に育てていくんだ。
「ローズ様、ボクも鍛えてるので行ってきます!」
「え、ちょっ、ラスティ!?」
猿みたいにひょいひょいとよじ登っていくウェインに感心していたら、何を思ったのかラスティまで崖登りを始めた。
「あたしもやーるーっ!」
一度崖から滝壺に飛び込んだリーゼまで、危険なクライミングに挑戦していく。俺は心配になったので、しっかりと見守ることにした。もし誰かが手を滑らせて落ちかけたときは〈霊斥〉で崖に張り付けてやれば、最低でも落下は防げるだろう。
「ローズ様に心配掛けて、あのバカは……いくら休暇だからってはしゃぎすぎなのです!」
「まったくですわ。そのくせローズ様にいいところをお見せしようという魂胆が透けて見えます! やはりウェインさんは危険ですわね……」
ニーナとルーシーって反りが合わないと思ってたけど、案外そうでもないのかもしれん。二人は立場の違いから仲良くし辛いのかもしれないが、子供なんだからそういうのを気にせず友情を育んでほしいもんだ。大人になると、立場の違う人と友人になるのは今より格段に難しくなるからな。
ウェインたちが無事に崖を登り切ったところで、俺もアシュリンで崖上に向かい、滝壺へのダイブを楽しんだ。マンションだと五階くらいの高さがあるだろうけど、普段から〈反重之理〉を使ってるし、白竜島で散々飛行とかしてたからか、この程度の高さなら特に何とも思わなくなった。
「あ、あたしはやめておくのです……べつに怖いわけではないのですが、ちょっと気分的に調子が良くないのです。嘘じゃないのですっ」
「わたくしも、飛び込むのはちょっと……せっかく結った髪が解けるのも嫌ですし、もし水着がずれたりしてウェインさんに見られでもしたら事ですし……ええ、特に怖いわけではないのですけれど、淑女的事情で断念せざるを得ないのですわ」
君たち、仲良く膝で笑い合ってるし、本当に気が合いそうだね。
「わたしも見てるだけでいいわ」
やはりというべきか、サラも跳び込みはしないらしい。去年からずっと飛べないままだから、高いところからの自由落下は怖いのだろう。早くまた飛べるようになってくれるといいんだけどな……。
「おー、面白そうなことやってるなー」
途中でライムがやって来て、当たり前のように崖登りを始めた。彼女もビキニ姿だが、そこに色気はほとんど感じられず、健康的な肉体美による健全な美しさしか感じない。どうにもライムは言動に女っぽさが全然ないから、俺もなかなかそういう目で見にくい。
「私たちはあっちの方で川遊びしてましょうか。あ、ルティももういいんですか?」
「うん」
ルティは何度かダイブして満足したようだ。俺も三回飛び込んだだけで、もうお腹いっぱいだよ。ああいうスリリングな遊びも楽しいけど、単調ですぐ飽きるね。
しかし、リーゼとウェインとラスティとライムは全く飽きないようで、馬鹿みたいに崖を登っては飛び込んでを繰り返している。その一連の動きは次第に熟れていき、危うさがなくなってきたので、俺たちは四人を滝に残して川の中流あたりでのんびりと過ごすことにした。一応、崖上に歩哨の人たちがいるから、リーゼたちに何かあってもすぐに対応してくれるはずだ。最悪、リーゼが手を滑らせてもアシュリンが助けるだろうし。
「やっぱり川は川でいいもんですね」
俺は川縁に座って両足だけ水に浸すと、大きく深呼吸をした。青い空、白い雲、カラッとした暑気に不快感はなく、水遊びを堪能するのに程良い天気だ。川のせせらぎと微かな波音が耳に届き、穏やかな空気の中でそれを聞いていると、思わず欠伸が漏れてしまう。
「さあ、メルさん、〈浮水之理〉のコツを教えてくださいな」
お嬢様が海の方からメルを連れて戻ってきた。昨日に引き続き俺が教えても良かったが、〈浮水之理〉ならメルも教えられるし、彼女の方がルーシーに対しては良い教育になるはずなので、今日からはメル先生に丸投げする。
「うん。一緒に頑張ろうか。あ、その前に、ローズ。イヴさんさっき浜に出てきたよ」
「そうですか、良かったです」
結局、昨日はイヴの記憶消去に失敗したので、あの美女は俺に合わせる顔がないとか言ってコテージに引きこもっていた。だが、誰かが上手いこと慰めてくれたのだろう。とりあえずは一安心だ。
「捕まえた」
いつの間にかルティが両手で川魚を掴んでいた。結構な大きさだ。どうやら素手で獲ったらしいが、掴み取りなんて普通はできないだろうに、どうやったんだ。
「あたしも魚獲るぞー!」
低空飛行してきたアシュリンから幼狐が飛び降りて、盛大な水飛沫を上げて着水した。今のでこの辺りの魚はことごとくが逃げ出しただろう。
「アシュリン、これあげる」
「ピュェッ!」
「海もいーけど川もやっぱり最高だー!」
魚獲りはどこいったのか、リーゼは一人ではしゃぎ回っている。魔大陸では水遊びといえば川だったから、あの子にとっては海より川の方が馴染み深い。海は川の上位互換みたいなところがあるけど、川は川で違った楽しさがあるものだ。
婆さんやアルセリアたちと一緒に川遊びしたことを思い出して、俺は少しおセンチな気持ちになりつつも、今この時間に確かな楽しさと和やかさを感じていた。
去年は悲惨なことが起きたし、館を出発してからも色々あったけど、何だかんだでみんな笑えている。今を楽しく過ごせている。まだまだ心配事はあるけど、それでも何とか前に進めていると思うと、安心できた。
♀ ♀ ♀
翌日もバカンス日和で遊び回ったが、バカンス四日目は生憎と雨天だった。話によると少し大きな嵐が来ているらしく、実際に朝から雨風の勢いが強い。海も荒れているようだが、ここは入り江なので影響は少なく、水上コテージの中にいても揺れなどは感じられない。
「ま、たまにはこういう日もいいですね」
今日は屋内でゆっくりすることになったので、俺はベッドに寝転がり、だらだらと時間を浪費していく。この三日間は少しはしゃぎすぎたので、ちょうど良かった。
コテージを打ち付ける雨音やうなる風音、荒れた波音が不規則に響いて、それが妙に心地良い。船旅でもたまに嵐のときはあったけど、船体が揺れるから落ち着かないんだよな。しかし、こうして揺るぎないベッドで、自然が奏でる環境音をBGMにだらけていると、リラックス効果が半端ない。眠たくなってくる。
「泳いでたらどうせ濡れるのにぃ! せっかくの嵐がもったいないっ!」
リーゼは朝から不満たらたらである。
台風のとき、子供ってやけにハイテンションになるけど、あの子も例外ではなく最初は遊ぶ気満々だった。しかしクレアが絶対にダメだときつく釘を刺したため、渋々ながら従っている。この辺はクレアたちの教育の賜物だな。
「リーゼさん、嵐を侮ってはいけませんわ。それは船旅をしてきたあなたなら十分に理解されているはずです。今この嵐で命を落としている方がいるかもしれないのですから、こういうときは聖神アーレ様にお祈りして待つのです」
さすがお嬢様、こういうときはお行儀がいい。
「むぅ……お祈りするなら魔法の練習するもん。でも今はそーゆー気分じゃないもん」
「リーゼさんはお姉さんなのに恥ずかしくないのですか? ルティさんはきちんと嵐の際の過ごし方を弁えているというのに」
「ぼく、べつに嵐のときじゃなくても、弾いてる」
ルティは断続的にリュートを爪弾き、たまに紙にペンを走らせている。先ほど聞いたところによると、この自然の音を参考にして作曲しているらしい。いつの間にそこまでのレベルに達していたんだと驚いちゃったよ。確かに最近は上手く弾くもんだなと思ってたけど……。
子供は本当に成長が早いもんだ。
「リーゼ、何とか気持ちを切り替えて、魔法の練習をしたらどうです? 〈魔球壁〉なら屋内でも安全に練習できますし」
クレアもただ単にリーゼを抑え付けたわけではない。
『〈浮水之理〉と〈魔球壁〉と〈反重之理〉を詠唱省略で使えたら、嵐の中でもある程度は安全に動けるでしょうから、それらができるなら私も厳しいことは言わないわ』
リーゼはいずれもまだ習得すらしていないので、無理難題にもほどがある。しかし、目標が何もないよりかは遥かにマシだろう。やれることが一つでもあるなら、屋内待機中でも暇を持て余すことがなくなる。それに何より、リーゼが今このとき不満に感じれば感じるほど、今後より一層魔法の練習を頑張れるようになるはずだ。
子供を上手く教え導くってのは奥が深いね。
「……気持ちを切り替えれない」
「そういうときは何か楽しいお話をして気分転換するのが一番ですわ」
「楽しいお話って?」
リーゼはルーシーが足を崩して座るベッドに上がり込み、向かい合った。
もう二人はすっかり仲良しで、ぎこちなさなど全くない。ここ数日は濃密な時間を過しているし、リーゼは素直でルーシーも根はいい子だからか、互いの存在を認め合っているのが端から見ていても伝わってくる。
子供ってのは尊いね。ベルの気持ちが少しは分かるよ。
「そうですわね……この先、何か楽しみにしていることはありませんの?」
「…………シティールの美味しいご飯食べる」
リーゼは目を閉じて首を捻るほど熟考した末、絞り出すようにそう答えた。その反応は無理からぬことで、俺たちはシティールに到着してから先のことはまだ何も知らない。とりあえず《黎明の調べ》の本部があって安心だからって理由だけで目指しているのだ。
「では、どんな美味と巡り会えるのかを想像するのです」
「む、うぅぅ……」
幼狐の眉間に可愛らしく皺が寄り、小難しそうに唸り始めた。
しかし、誰にだって得手不得手がある。妄想して楽しめるのも一種の才能だ。お嬢様ほど妄想逞しくはないリーゼにとって、未知の美味しい食べ物を想像するのは難しそうだった。
「シティール巻きのナントカ油揚げ……?」
うーん、ダメそう。
リーゼは引き続き妄想に耽ろうと小難しい顔で再び口を閉ざしたので、俺はお嬢様に適当に話題を振ってみる。
「ところで、そういうルーシーは、この先何か楽しみにしてることってあるんですか?」
「――あっ、そうでしたわ! すっかり忘れていました!」
今日は特にツインでもドリルでもお団子でもないパツキンお嬢様は、はっと息を呑んで両の手を打ち合わせ、俺たちを見回した。
「ローズ様たちはシティールに行き、そこで暮らすことになりそうというお話でしたが、それならばシティール魔法学園には通いませんの!?」
ルーシーは俺のベッドに上がり込んでくると、寝転ぶ俺の顔を真上から覗き込んできた。
あ、圧が強い圧が……。
「えっと、その魔法学園というのは?」
「ご存じありません?」
「ええ、寡聞にして……」
お嬢様は俺の左手を掴んで、上体を引っ張り起こしてきた。そして屋外から響いてくる雨風や波の音に負けない元気な声で、うきうきとした心持ちを隠そうともせずに語り出す。
「シティールのあるベイレーン内海に面した国々は、環ベイレーン同盟に加盟しているわけですが、この同盟の象徴とも言えるのがシティール魔法学園です。同盟の各国から見込みのある子供たちを集め、魔法に各種学問はもちろん、武術や芸術をも共に学ばせ、切磋琢磨させるのです」
「……なるほど、各国から子供たちが」
国際交流を兼ねた学校というわけか。
その手の学校は同盟関係の維持強化が目的で設置されるだろうから、各国は将来有望な――いずれ重要な地位に就くであろう者たちを学園に送り込み、同じ立場の同年代と多くの知己を得させるはずだ。つまりルーシーのような貴族の子女ばかりが集まることになり、だからこそ魔法を冠する学園なのだろう。貴族にとって優れた魔法力が如何に重要であるかは、もはや論ずるまでもない。魔法学園という名の社交場みたいなもんだろうな。
「芸術……音楽も学ぶ?」
「ええ、音楽も美術も文芸も学べますわ。芸術は紳士淑女の嗜みですもの」
ルティは興味ありげみたいだが、その学校はやめておいた方がいい気がする。そもそも平民が入学できる学校なのか? 高額な授業料とかなら未だしも、親族が爵位持ちとかの条件があるなら、どう足掻いても庶民には入学できない。
「あの、それって貴族の子供ばかりなんでしょうか? 獣人や翼人もいるんですか?」
「貴族と平民の数は半々とされていますわ。種族の制限もありません。お祖父様によると、創立当初からの決まりだそうです。貴族ばかりだと社交場としての側面が強くなり過ぎるので、身分や種族に関係なく才能ある者を入学させることで、学びの場として正しく機能させるのだそうです」
ほう、意外と教育機関としての真っ当な理念はありそうだ。
貴族の生徒ばかりだと、勉学に励むよりも将来に役立つコネ作りに腐心しそうだけど、平民がいれば勉学も疎かにはできなくなる。お坊ちゃまお嬢様のプライド的に、下々の者より成績不良なんて事態は到底許容できないだろうからな。平民だって貴族に負けたくないという反骨心みたいなものはあるだろうし、どちらも競争意識が上手く働いて高め合えるって寸法か。
教育機関の本分を果たしつつ、国際交流の場として機能させるのに、貴族平民の生徒数を半々にするってのはいい考えだな。そのせいで生徒間の対立とかはありそうだけど……。
「わたくしもシティール魔法学園に入学する予定ですの」
「それはいつのことですか?」
「来年ですわ。入学は十歳になる年からですので」
十歳で入学か……また絶妙な年頃だな。
貴族たちは我が子を他国に留学させる以上、まずは国元で礼儀作法その他の基礎的な教育を施し、愛国心を植え付けねばならない。だから、十歳より幼く未熟な子供たちを留学させても、意味のある国際交流にはなりにくい。
かといって大人に近い成熟しかけた子供たちを留学させると、子供特有の柔軟性にはあまり期待できなくなる。ちょうどリーゼとルーシーのように、子供同士だからこそ友誼を結べたり、心から気を許し合える関係を築けるのだ。同盟関係の維持強化を図るなら、上辺だけの付き合いではなく、本物の友情を――信頼関係を育ませないといけない。
そう考えると、十歳という入学年齢からは同盟の本気度が窺える……ような気がする。
「つまり年齢的には私たちも来年入学できるってことですか……」
と呟いてはみたものの、正直あまり興味はない。
前世で色々あったから、学校という場所に対して複雑な思いを抱えていることもあるけど、出会った当初のルーシーみたいな連中がいっぱいいるのだと考えると、そんな学校に入学したいとは思えない。
無論、女学生としての青春を謳歌してみたい思いがないわけではないが、前世の学校以上に人間関係に気を揉む学生生活になりそうだから、そういうお貴族様が多く通われる学校は御免被りたいな。
「ローズ様も是非ご入学を! 《黎明の調べ》の関係者であればそちらの伝手で入学可能なはずですわ! 難しいようでしたら当家の力で強引にでもねじ込んでみせますので是非にも!」
「い、いやぁ、そう言われましても、私の一存では何とも……」
「あぁ、ローズ様と共に学びの園で青春の日々を送ることができれば、どれほど……想像しただけでも素晴らしすぎて言葉になりませんわっ!」
ルーシーの妄想力がリーゼの遥か上をいくことは間違いなさそうだ。
ふと見れば、幼狐はいつの間にかベッドに横になって寝息を立てており、その口からは涎が垂れている。妄想しようと目を閉じていれば、あの子なら寝入ってしまうのも無理はない。妄想は苦手なようだが夢を見る才能はありそうだった。
ルティは先ほどから弦を爪弾く動きを止めて、ルーシーの話に耳を傾けている様子だ。子供にとって学校は興味深いところなのだろう。実際、お嬢様も楽しみにしていたからこそ、今この話題になっているわけだしな。
しかし……うーん、やっぱり俺はあんまり惹かれないなぁ。まあ、それでも一応確認だけはしておくか。今は他に話したいこともないし、雑談の一環として暇潰しにはなりそうだ。
「ちなみに、魔法学園ってことですから、魔女じゃないと入学できないんですよね?」
「もちろんですわ」
「それだと、男女比ってどんなものなんでしょう? 魔女って毎年何人くらい入学するんですか?」
少なくとも男女比が一対一ってことはないはずだ。
どの国でも魔女は希少なので、いくら同盟関係にあるからって、十歳になる全ての魔女を毎年シティールに送るとは思えない。そんなことをしたら学園を襲撃するだけで、全ての同盟国に大打撃を与えることが可能となってしまう。魔法士の数と質が軍事力に直結する以上、留学だろうと魔女を国外あるいは領外に出すことを渋る場合は十分に考えられる。
「男女比はおおよそ五対一だそうですわ。一国あたりの入学者数の上限が決まっていて、男性は貴族と平民でそれぞれ十名ずつまで、魔女は貴族と平民でそれぞれ二名ずつまでに限られていますの」
つまり一国で最大二十四人の留学生を毎年送り出せるのか。
ちょっと多くない?
上限ってことだから多めに設定されているだけかな?
そもそも、一国に毎年十歳になる貴族男子が十人もいるとは思えな――くもないか。貴族は跡継ぎを確保するために次男三男を予備として産んでおくっていうし、妾の子だって貴族扱いになるだろう。よほどの小国でない限り、十人どころか二十人三十人は余裕でいそうだな。最悪、見込みのある平民の子供を養子にして、貴族枠としてねじ込むこともできそうだ。
「環ベイレーン同盟って、シティール含めて十ヶ国でしたよね?」
「ええ」
となると、毎年最大で二百四十人の入学者が集まるのか。
十ヶ国による国際的な学校と考えると、妥当な数なのかね?
「ただ、男性ばかり入学されると男女比が偏りすぎてしまいますので、魔女一名につき男性五名の入学を認める形にしているそうですわ」
「つまり、魔女を一人も出さないと――出せないと、その国は誰も入学させてもらえないんですか?」
「ええ。お祖父様が仰るには、魔女は人質の側面もあるのだそうです。希少な魔女を同盟の盟主たるシティールに皆で送り合うことで、環ベイレーン同盟の一員として叛意がないことを示すのだと」
なるほど。そういうことか。
学園が同盟の象徴とはよく言ったもんだ。
「ですから、加盟国は毎年必ず一人は魔女を入学させなければならないことになっているそうですわ。そもそも、よほどの人材不足でもない限り、毎年どこの国も上限人数一杯まで入学させるようですけれど」
「まあ、自国だけ入学者数が少ないと、国力の低下を疑われて侮られそうですしね」
「……同盟を結んでる仲間なのに、侮られる?」
「仲間だからこそですわ、ルティさん」
ルティは小首を傾げているが、ルーシーは苦笑している。
今日は時間が有り余っているし、暇を持て余しているところなので、ルーシーに確認する意味でも説明してあげることにした。
「国力とは、詰まるところ国民ですからね――」
国土の豊かさも大事だが、結局はそこに住まう人次第だ。国民の質、そして数がものを言うことになる。人口が減少すれば、それだけ魔法士や魔女も少なくなるし、何より税収が減って王侯貴族が困窮するのみならず、軍事費だって少なくなる。留学費用とて馬鹿にならないだろうし、そもそも国が貧しいと教育にも力を注げなくなり、更に貧しく弱くなる。一度この負のスパイラルに陥ると、抜け出すのは至難の業だろう。
シティールに留学させる子供たちは十歳だ。十歳にもなれば、それまでに受けてきた教育の質次第で既に相当な差がついているはずだ。だから、優秀な子供たちを数多く入学させることで、同盟国に対して『我が国は安泰である』と主張しなければならない。
同盟ってのは仲良しこよしの集団ではない。安全保障上の問題や利害関係によって締結される合理的かつ打算的な条約に基づく組織だ。環ベイレーン同盟はベイレーン内海の安寧のために、内海に面した国々の間で助け合い支え合うために締結されている。言い換えれば、内海を利用した貿易にはそれだけの価値があり、内陸の国々からすれば内海に面した土地は垂涎の的なのだ。前世で例えるなら、不凍港を得たいロシアの南下政策がもたらす脅威みたいなもんで、内陸の国々は内海への進出を虎視眈々と狙っているわけだ。
シティール以外の九ヶ国はそういう国々と陸続きで相対している。ルーシーのクアドヌーン王国も例外ではなく、内陸部の国境をバシーケイ多種族国と接しており、両国は決して良好な関係ではないらしい。
そうした状況下で、ベイレーン内海を囲む環に穴を開けられたら――加盟国が一国でも攻め落とされたり、内乱で荒れたりしたら、内陸の国々はここぞとばかりに連携して陸から攻勢を掛けつつ、開けた穴から内海に出て他の国々の後背を突こうとするだろう。
そうなったとき――ベイレーンの環が欠けたとき、敵軍の相手をする同盟軍の拠点となるのがシティールだ。内海に浮かぶオルダー島のみを領土とする都市国家シティールには、九ヶ国から派遣された部隊により構成された同盟軍が常駐している。平時は内海の哨戒や訓練をしているが、有事の際はこの同盟軍が速やかに動いて、敵の内海進出を食い止める。
……というような話を披露すると、ルティはこくりと頷いた。
「仲間には強い国でいてくれないと、自分たちも困るから、国力の低下した同盟国を侮る……侮って、悔しがって、頑張ってもらわないと、みんな危ないから?」
「まあ、そんな感じですね。弱すぎる味方は逆に足手纏いになりますし、下手な敵よりも厄介な存在になりかねないですからね」
おそらく加盟国が看過できないほど弱体化した場合、同盟がその国を滅ぼすだろう。あるいは政変にでも協力して、より良い統治ができる新政権を樹立させるのだ……ということまでは、まだ幼女のルティには説明しなくてもいいだろう。大人の世界は追々学んでいけばいいさ。
「そうですわね。それにしても、さすがローズ様ですわ! まるでお祖父様がわたくしに教えてくださったときのように、理路整然とした分かりやすい説明でしたわ!」
「は、はははは……いや、それほどでもないですよ」
そう褒めてくれるなよルーシー。照れないけど心苦しいだろ。実は半分くらいローランの受け売りだなんて、もう言える空気じゃねえよこれ。
昨日、ローランが本の感想を伝えに来てくれた際、ついでに環ベイレーン同盟やシティール、バシーケイ多種族国などについて尋ねてみた。すると、今言ったようなことを色々教えてくれたわけだ。学園についてはさっきが初耳だったけど。
ちなみに、ローランの知るベオ様は本当に俺様世界周遊記の主人公ベオみたいらしかった。あとローランが写本させてほしいと頼んできたので、本はまだ貸したままにしている。ガチの写本作業はかなり時間が掛かるらしいけど、速さ重視でとりあえず書き写させるだけだから数日と掛からず済むそうだ。
「ええっと……それで、何の話でしたっけ?」
「シティール魔法学園には、毎年どこの国も上限人数一杯まで入学させるという話ですわね」
「あ、そうそう。国力をアピールする以外にも、同盟国と友好を深められる機会は貴重ですから、それは確かにどの国も上限一杯まで入学させますよね」
自明のことではあったが、ルティのためにも念のため言葉にしておいた。ルーシーも同じ気持ちなのか、俺とルティ交互に目を向けながら頷いている。
「何より、他国の貴族と婚姻関係を結べる好機でもあります。同盟に関係なく、諸国と友好的な繋がりを持つことはとても重要ですわ」
うーん、さすがお嬢様。
クアドヌーン王国はさほど国土が大きくないため小国とされているが、来年十歳になる魔女がルーシーだけとは思えない。環ベイレーン同盟の国々は毎年二人は貴族の魔女を送り出す必要があるのだから、世界の国々よりも特に貴族の出産を奨励して、魔女の育成に尽力しているはずなのだ。
ルーシーは既に婚約済みらしいので、シティールに留学しても他国の貴族と結婚という最大の成果を挙げられない。にもかかわらず留学生に選ばれたということは、それだけ彼女は同年代の魔女の中で優秀と評されているのだろう。
「ですから、ローズ様もご入学されれば、きっと多くの貴公子から求婚されますわよ。ローズ様ほどの美貌と器量と魔法力を兼ね備えた魔女であれば、貴賤の別なく引く手数多の選び放題なのは確実ですわ」
「え、いや、そういうのはちょっと、まだ色々早いというか……」
俺はホモじゃないので、男と結婚する気はさらさらない。
しかし、野郎共からちやほやされる女学生生活というのは……うん、意外と悪くないんじゃない? いや、むしろいいっ、最高だ! 美少女として甘やかされる人生イージーモードな日常を一度くらいは体験してみたいぞ!
「まあ、そうなれば魔女の方々による嫉妬の嵐に見舞われると思いますので、ローズ様には事前にわたくしのお兄様か弟と婚約されておくことをお勧めしますわ」
女の敵は女というフレーズが脳裏を過ぎった。
なんか一気に冷めてきたな……。
「そ、そして、ゆくゆくはわたくしとローズ様は晴れて姉妹に……っ! あぁっ、どちらがお姉様になるのかなんて悩ましすぎてわたくしには選べませんわぁ!」
「…………いえ、誰とも婚約はしないですし入学する予定もないですけどね」
ルーシーが一人勝手に興奮して俺の左腕に抱き付くように身を寄せてくると、ルティは話が一段落付いたと思ったのか、再び楽器を弄り始める。
その後はルーシーから一緒に学園生活を送りましょうとしつこく誘われたが、俺は首を縦に振らなかった。俺の一存で入学できるものでもないし、例の学園は色々と面倒そうなので、やはり入学したいとは思えない。
ま、なかなか興味深い話ではあったけどね。環ベイレーン同盟やシティールについての理解が深まったし、俺たちがシティールで生活することになれば、この島でルーシーと別れても再会は容易だろう。せっかくできた友達だから、今後も継続的に交流できるならしていきたい。
「――んぁ!?」
ふとリーゼが飛び起きたかと思えば、寝惚け眼できょろきょろと周囲を見回し始める。
「リーゼ、何か夢でも見たんですか?」
「夢…………分かんない、けど、なんか……知らない人がいた、気がして……美味しかった……?」
そう言って可愛らしく首を傾げる幼女は、閉ざした口をもごもごと動かしていた。変な仕草だ。しかし、どことなく見覚えがあるというか、最近誰かが同じようなことをしているような気がしないでもない動きに見えた。
「ま、いーや! 魔法の練習しよーっと!」
リーゼの場合、気持ちを切り替えたいときは寝るのが一番みたいだな。