間話 『航海日誌』
・翠風期 第三節 七日
港町には猫が多い。
それは船乗りなら常識なのだろう。
でも、生憎とわたしは今年に入るまで、港町はボアとチュアリーしか知らなかった。どちらの町にも猫は多く生息していたし、世界中に数多ある他の港町もそうなのだと、知識としては理解していた。
どんな家にも鼠が棲み着くのと同様に、彼らはしばしば船内に侵入して積荷を囓る。積荷は乗員たちの食料だったり大事な商品だったりするため、害獣は駆除しないといけない。そこで猫を同乗させて、鼠を狩ってもらう。鼠は積荷に紛れたりして幾度となく船内に入り込むから、猫は船に定住させる。大きな船では何匹も飼う。
だから、港町には野良猫が多い。何らかの事情で捨てられたりした猫たちが町の中で繁殖し、漁師たちが売り物にならない魚を与えて可愛がる。船乗りたちは同乗させる猫を増やしたり、元気な個体と入れ替えたりするため、野良猫を粗雑には扱わない。港町に住まう人々はそれを知っているから、彼らも町の猫たちを無碍にはしない。港町の野良猫は町の住民として人々に受け入れられているおかげで、内地の都市部よりも数多く生息できている。
今年に入ってから、姐御たちと共に幾つもの港町を訪れてきたことで、その常識はわたしの中で実感を伴った経験知となった。猫の件だけに限らず、これまで訪れたことのない町々を巡ることで、様々なことを知り、理解を深めることができた。それは歓迎すべき喜ばしい体験で、自分が人として、船乗りとして成長できていると実感できた。
しかし、人生は喜びばかりを感じさせてはくれない。
「ったくよぉ、女に水夫の真似事されると迷惑なんだよ。そこんとこ分かってんのか嬢ちゃん?」
昼食を買いに行った帰路、ドラゼン号まであと少しといったところで、突然絡まれた。相手は見たところ同業者で、しかも酔漢だった。
ここエミール王国ローレルで催されている建国記念祭も本日で七日目。あと三日で祭りも終わりとはいえ、まだまだ盛況なのには違いなく、人々は昼夜を問わず陽気に騒いでいる。
しかし、数多くの船舶が港に停泊している以上、船の留守を預かる者たち――町に繰り出せず祭りに参加できない下っ端は一定数いる。彼らは陸の喧噪を遠巻きに見遣りながら、各々の船の甲板や桟橋で細々と酒盛りをするしかない。
当然、ご馳走を前にお預けを食らっている彼らは不満を溜め込んでいる。そこに酒が入れば、海の男らしい荒々しい気性もあって、絡みやすい相手に因縁を付けて憂さ晴らしでもしようという気になるのだろう。
「なんだとっ、やんのかオッサン!?」
女の船乗りである点を槍玉に挙げられて、姉さんはすぐに火が点いた。
酔漢は二つ隣に停泊する中型船の一員だった。ここで揉め事を起こすと後々面倒な事態になりそうだったし、クレアさんから目立つ行動は避けるようにと言われている。
わたしとしても腹は立ったが、相手は所詮酔っ払い。まともに相手をするだけ無駄だった。
「あっらぁ、あなたも人のことは言えないわよぉ。そんな粗暴な態度でいきなり人に突っかかるなんて、世間に船乗りは怖いと思われちゃうじゃない」
わたしでは喧嘩腰の姉さんを止めきれないけど、姐御が割って入ってくれたおかげで事なきを得た。姐御は並の水夫より体格がいいし、そこはかとない怒気を孕んだ微笑みを向けられて、相手は怯んだ様子だった。意気地なしめ。
「二人とも、あんなの気にしちゃダメよぉ」
姐御はそう言ってくれて、わたしもその場では頷いた。
でも本音のところでは、気にしないわけにはいかなかった。
女の船乗りとして生きていく以上、今日のような出来事は今後も起きるだろう。だから、一度きちんと自分の中で整理を付けて、心構えをしておく必要がある。誰に何を言われても、大丈夫なように。
両親が生きていた頃は――ボアとチュアリーを行き来していた頃は、同業者からアレコレ言われたことはほとんどなかった。みんな父さんの知り合いだったからだ。客から絡まれたこともあまりなかった。船長の子供が親の仕事を手伝っているだけと思われたからだろう。
しかし、もう父さんたちはいない。
既にボアとチュアリーからは遠く離れ、周りに見知った人たちもいない。ドラゼン号は女ばかりだし、わたしも姉さんももう子供ではない。世間は親の仕事を手伝っている子供とは思わないし、思われたくもない。
わたしも姉さんも、女の船乗りとして見られる。
でも世間にとって、男の船乗りにとって、女の船乗りは危険要素と見做されるのが現実だ。複数の男女がいれば色恋沙汰になるのが自然の摂理というやつで、しかも色恋は往々にして不和の種となる。船上という閉鎖的な環境下での仲間割れは命の危機に直結するため、船員たちは一致団結して海と向き合わねばならない。船乗りたちは海の恐ろしさを侮ってはおらず、魔物の脅威を見くびってもいない。海では協力し合わなければ生き残れないことを嫌と言うほど知っている。
だから、男の船乗りたちは船上から女を遠ざけようとする。客船では商売だと割り切れても、貨物船ではそうもいかない。女は船内秩序を乱す厄介者とされ、乗員は男のみで構成されるのが常識だ。
海上生活は何かと不満が溜まり、気が立って喧嘩が起きやすいため、船員たちの不満を発散させる目的で女の性奴隷を乗せる船もある。だが、それとて一定の危険が伴う。もしその奴隷が男たちを手玉に取り、自分を巡って争わせるようになれば、内部分裂が起こるだろう。ただの喧嘩が刃傷沙汰に発展することは少ないが、女を巡る男同士の争いでは殺し合いになりかねない……らしい。
もちろん、女の船員のみで構成された船であれば色恋沙汰に端を発する仲間割れという致命的な問題は起きない。でも、現実的に考えて、それを実現させるのは非常に困難と言わざるを得ない。魔法士なしに航海をするのは自殺行為も同然である以上、魔女が必要となってくる。しかし、大抵の魔女は国家に属する。数少ない野良の魔女とて、大きな商会が囲い込んでいたり、高等級の猟兵として活動する。
数少ない猟兵の魔女を捜し出し、護衛として乗船してもらうにしても、そもそも女はあまり船に乗りたがらない。わざわざ窮屈な海上生活を受け入れてくれる魔女は滅多にいないし、いたとしても高等級の猟兵に対する指名依頼は高額だ。その金額で男の魔法士を複数人雇った方が遥かに理に適っている。
総合的に考えて、船乗りは男に適性があり、女には向かない。
わたしもそれは事実として受け入れている。
今日の酔漢の言い分だって、全くの感情論ではなく、一定の合理性から出た言葉であることも理解している。世の中に女の船乗りという危険要素が増えるのを阻止すべく、自分たち船乗りの安全のために言ったわけで、きっとあの男は酔いが覚めても間違ったことを言ったとは思わないだろう。
女の船乗りは世間からの風当たりが強い。
きっと生き辛い生き方だ。
それでも、この生き方を変えるつもりはない。
だから……うーん……どうしよう? 問題を整理するために長々と書き連ねてはみたものの、どういう心構えで世間と向き合い、今後絡まれたときどういう対処をすればいいのか、分からない。
わたしも姉さんみたいに、感性で直感的に生きられれば良かったのだけど、生憎とわたしはそういう性格ではない。今後も船乗りを続けるつもりである以上、せめてシティールに到着するまでには何かしらの答えを出さなければいけないだろう。
そういえば、シティールに到着してからのことも、まだ決めていなかった。クレアさんたちが下船した後、わたしたちはどうするのか、そろそろ本格的に話し合わないといけない。心構え云々より、まずはそちらが先決だ。
今日は長くなってしまったので、この辺にしておこう。
・翠風期 第三節 八日
天候に恵まれた本日は出港日和で、昼前にローレルを発った。
先日にも書いたとおり、ローレルでは新たにニーナとラスティ、そしてエステルの三人と山羊のメーギーがドラゼン号の乗員に加わった。ニーナもラスティも良い子だし、新生児のエステルも元気一杯で、残る航程もより賑やかな日々になりそうだ。
ただ、やはりラスティはローズに対して並々ならぬ好意(敬意?)を抱いているようなので、そこだけは一応注視していきたい。昨日も書いたように、船上という閉鎖的な環境下での色恋沙汰は往々にして不和の種となる。まだ子供同士とはいえ楽観はできない。
そういう意味では最近のトレイシーさんの方が幾分も危険だけど、今のところ彼女以外から色恋の気配は感じないし、ユーハの様子を見る限り片思いなのは間違いない。トレイシーさんのことは姐御たちのようにわたしも温かく見守っていきたいところだけど、やはり船上での色恋沙汰は不安を煽られて、素直に応援し辛い。
クレアさんとセイディの仲は相変わらず良好そうで、二人の関係に横やりが入る気配もない。この調子で船員たちの間に不和が生じることなく、安定した船内秩序が保たれることを祈る。
さて、出港日の常として、今後の予定について軽く纏めておく。
次の寄港地はサンメラ群島のティムアイ島を予定している。順調に航行できれば、二節も掛からず到着するはずだ。尚、サンメラ群島はボーダーン群島国という国が治めていて、公用語は北ポンデーロ語、治安は非常に良いらしい。ローズが「諸島と群島の違いって何ですかね?」と呟いていたけど、わたしもよく分からない。
ともかく、そのボーダーン群島国のティムアイ島に寄港後、また二節ほどの航海を経れば、最終目的地のシティールに到着する。つまり、何か問題が起きない限り、翠風期のうちにこの船旅は終わるわけだ。
願わくば何事もなく、全員無事にシティールの地を踏みたい。
・翠風期 第三節 十日
曇りときどき晴れ。
魔物の襲撃はあまりなく、全て魚人たちで対処してもらえた程度で、平和なものだった。魔大陸の近海はやはり危険だったのだと最近しみじみ思う。
本日は「シティールに到着後みんなはどうするのか」という件を尋ねて回ってみた。改めて尋ねるまでもなく、クレアさんたち魔女はシティールに根を下ろして生活することになるようだ。その関係でユーハ、トレイシー、イヴ、そしてウェインとニーナとラスティも、魔女たちと同じ道を行くらしい。
意外だったのはツィーリエさんとミリアさんで、二人からはまだ分からないと言われた。てっきりツィーリエさんは、わたしというか姉さんの護衛として今後も随行するか、チュアリーに連れ戻す腹積もりなのかと思っていたけど、どうやらそういうわけでもないらしい。シティールに到着して人と会うまでは判断しかねるようだ。そこはミリアさんも同様らしい。
わたしはといえば、姉さんと姐御の三人で、このドラゼン号を使って貿易商を始める計画を立て始めた。こう書くとわたしが発起人みたいだけど、正確には姐御主導だ。姐御は元は商人という話だし、この船の所有者にして船長なので、話を聞いたときはすんなりと賛成できた。わたしとしてはドラゼン号に住みつつ、船を使って生計を立てていければ、客船でも商船でも何でも良かった。
姐御曰く、シティールのあるベイレーン内海を臨む国々は、環ベイレーン同盟とやらに漏れなく加盟しているとかで、同盟国間での交流は盛んらしい。姐御の友人に、この同盟に加盟する国の侯爵家三男がいるとかで、その伝手を頼れば商売を軌道に乗せるのも難しくないだろうとのことだった。姐御の経験に加えて、貴族の後ろ盾を得られれば、競争の激しい商圏に飛び込んでも何とかやっていけそうだ。
この船旅が終われば、クレアさんたち魔女とはあまり会えなくなるだろう……というわけでもなく、環ベイレーン同盟の盟主はシティールで、姐御はシティールを拠点とする方向で動いてみるようなので、たぶん今後もちょくちょく会えるはずだ。
わたしとしても、せっかく親しくなった人たちなので、末永く仲良くしていきたい。
・翠風期 第四節 三日
本日は嵐に見舞われた。
今更明記するまでもなく、如何に多くの魔女たちが乗るドラゼン号といえど、天候まで変えられるほどの大魔法を使える人はいない。だからこれまでと同様に、船が転覆しないことを祈りながら大人しく嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
幸い、そこまで酷い大嵐というわけでもなかったので、みんな雑談をする余裕くらいはあるようだった。わたしにとっては慣れたものだったので、クラード語の勉強を進めていた。シティールに到着するまでにはものにできる……というのは希望的観測で、おそらく無理だろう。
しかし、焦りは感じていない。
三日前に「シティールに到着後みんなはどうするのか」という件を尋ねて回ってみたことは既に記した通りだけど、本日ツィーリエさんとミリアさんから「護衛としてこの船に乗せてもらうかもしれない」と言われた。
どうやらわたしたちがベイレーン内海で貿易商として活動するのが、二人にとって何かしら都合が良さそうな感じだった。あの二人は同じ船に乗る仲間としては信頼できるものの、他の船員たちと比べると、腹の底では何を考えているのかいまいち分からないところがある。そういう意味ではゼフィラさんも同様だけど、あの少女なのか何なのかよく分からない人は、そもそも鬼人という存在自体からしてよく分からないので例外だ。彼女については悪い人ではないということ以外、未だに全然分からない……。
まあ、ツィーリエさんとミリアさんの思惑がどうであれ、船の護衛として魔女が二人いてくれれば非常に心強い。特にツィーリエさんは詠唱省略ができるので尚更だ。シティールに到着するまで確かなことは言えないようだったけど、期待したいところだ。
計画では、護衛の魔法士を新たに雇い入れるもりでいた。でも二人が引き続きドラゼン号に乗ってくれるのであれば、その必要はなくなる。つまり、船員を女性だけにすることも不可能ではないのだ。この辺りのことは姉さんと姐御としっかり相談して決めていきたい。
ともあれ、クラード語の勉強はそう焦らなくてもいいだろう。二人が乗船してくれなくても、クレアさんたちとはシティールでいつでも会えそうなので、今後も分からないところは聞けるのだ。
魔法語はどの大陸でも通じるので便利だし、学べる機会なんてそうそうないので、せっかくだし身に付けておきたい。
・翠風期 第四節 五日
晴れのち小雨。
最近では珍しく数十体の魔物の群れに遭遇したけど、難なく撃退。やはり魔法士が多くいると、魔法による飽和攻撃で簡単に魔物を撃退できる。この戦力があの頃にもあれば、父さん母さんたちも死なずに済んだだろう……なんて、未だにそう考えてしまうことがあって、その度に悶々とした気持ちになる。
でもだからこそ、これからもこのドラゼン号には常に十分以上の安全を確保できるだけの戦力を乗せておきたい。その点を考慮すれば、船員を女性だけにする案は諦めて、男も乗せるのが無難だろう。
しかし、それでは何も変わらない気がする。
何だか強くそう思って、魔物の襲撃が落ち着いた後、姐御に船員の件を切り出した。本当はもっと考えを纏めてから相談するつもりだったんだけど、妙に気持ちが落ち着かなくて先走ってしまった。
「そうねぇ、ツィーリエちゃんとミリアちゃんが乗ってくれるなら、船員を女の子だけにすることも不可能ではないでしょうけれど……」
姐御はわたしの話を最後まで聞いた後、思案げにそう呟いた。
長距離を航行する船であれば、魔法士は最低でも二人は乗せるのが常識だ。昼夜で分担できるし、どちらか一方が死んでしまっても一人いれば必要最低限は何とかなる。より安全を考慮するなら三人は欲しいところだけど、優秀な魔女であれば二人でも十分に安全なはずだ。
しかし、姐御が案じているのは別の面だろうと思って、わたしは言った。
「確かに、女だけの船なんて世間に舐められて、相手にされないかもしれないッス。でも、このまま女の船乗りがダメだなんて風潮、続いてほしくないッス」
「……ええ、そうね。アタシもそんな風潮は続いてほしくないわ。誰かが慣習を破って、女だけでも海でやっていけるって世間に証明してあげないと、女の船乗りはずっと冷遇され続ける。色々と大変だろうけれど、やってみる価値はあると思うし、アタシ自身もやってみたいと思うわ」
さすがは姐御だと思った。
この人と出会えて良かったと心の底から思う。
わたしは姐御を尊敬している。きっと姉さんもだろう。でなければ、いくらドラゼン号を買ってわたしたちを救ってくれたとはいえ、船長だとは認めないはずだ。少なくとも、わたしは認めなかっただろう。船の所有者――船主としては尊重しただろうけど、実際に海上で船の運航を指揮する船長としてまでは認めず、父の名を冠するこの船は娘の自分たちが主導して動かしていき、いつかは姐御から船主の権利を買い取ろうと思ったに違いない。
そうしようと思わなかったのは、姐御が自分の生き様を堂々と貫いている人だからだ。男らしい立派な体格と顔立ちをしているのに、そんなの関係ないとばかりに、心に従って女として生きている。きっとこれまでもこれからも世間からの風当たりは強く、明らかに生きづらいだろうに、自分を曲げようとしない。世間の常識に迎合しようとしない。それで誰かに迷惑を掛けたりもせず、自分勝手にもならず、それどころか周りの人を気遣える器量がある。
わたしが理想とする生き様だった。世間から何と言われようと、どう思われようと、自分たちさえ頑張れば、女の船乗りとして心のまま生きていける。そう希望を持たせてくれる人だった。この人と一緒なら、わたしも自分を貫いて生きていけそうだと思えるのだ。
だからわたしも姉さんも、この人なら船長と仰げる。きっと姉さんはそんな小難しいことを自覚はしていないだろうけど、直感的には理解しているはずだ。でなければ、あの姉さんが姐御だなんて呼んで、海上で誰かの指示に素直に従うはずがない。
「でもね、ソーニャちゃん。それならあなたも、これからは取り繕ったりしちゃダメよ」
まるで喜び出したわたしに釘を刺すように、しかし優しい眼差しで姐御は言った。
本当に、さすがだった。
「身も心も女として、素の自分で世間と向き合うのよ。そうでなきゃ意味がないし、いつか女の船乗りとして世間に認められても、ソーニャちゃんの生きづらさは本当の意味で解消されないわ」
わたしの安っぽい張りぼてなど、姐御にはすっかり見透かされていたのだろう。いや、そんな予感はあったし、何だか少し救われた気分になったから、むしろ気付いて指摘してくれて有り難かったくらいだ。
「ソーニャちゃんは、お洒落に興味ある?」
「え、まあ……一応自分も女ッスから、人並みには……」
「自分も女ッスから?」
「あ、いや……その……わたしも、女だし……多少は……」
久しぶりに普通に話すのは少し気恥ずかしかった。
でも同時に、胸の内が軽くなった気がした。
そう感じたのは、少なからず無理していたことの証なのだろう。すっかり慣れたと思っていたけど、やはりわたしは“自分”ではなく“わたし”なのだ。まあ、日誌ではずっとわたしだったし、当然か。
『んだと、ガキが命令してんじゃねえぞ』
アレはもう一年以上前、去年の橙土期のことだ。
『しかもなんだ、いくら親の手伝いだからって女じゃねえか。メスガキなんざ足手纏いにしかならねえだろうに、どうなってんだこの船は』
当時も書いたけど、その日誌は海の藻屑となってしまったから、念のためこの日誌にも改めて書いておく。
いつものようにチュアリーを出港して間もなくのことだ。乗客である猟兵の男が船縁で立ちションをしていた。だからわたしは『魚人の護衛たちの迷惑になるからやめてください』と注意したところ、ああ言われたのだ。
それに対して、わたしは少し怯みつつも『もう今後はしないでください』と頭を下げたのに、相手の男は甲板に唾を吐いて言った。
『魔大陸への危険な航海中に、メスガキの言うことを聞けってか? この船に命預けちゃいるが、テメェが俺を守ってくれるわけでもねえってのに、一丁前に抜かしてんじゃねえぞ』
『船員の指示に従えない奴は降りろやボケェッ!』
話が聞こえていたらしいケリー母さんが駆け付け様に跳び蹴りをお見舞いして、男は海に落ちていった。その後に父さんが半ば脅すように厳重注意したおかげで、男は態度を改めた。そしてわたしも態度を改めることにした。
船上で子供だと舐められ、女だと侮られるのは悔しかった。だから一人称を変えて、失礼にならない程度に、女らしさを感じさせない言葉遣いにし始めた。最初は母さんたちに止められたけど、『一人の客が言うことを聞かないだけでみんなが危なくなることだってある』と言うと納得してくれた。それは本心で、わたしのせいでみんなに迷惑を掛けたくないという理由も大きかった。
それから今日まで、なるべく女だと意識されず、尚且つ舐められず礼を失さないような態度を意識してきた。でも、姐御の言うとおり、女の船乗りとして世間と向き合い認められようと思うなら、女として素の自分を出していかないと意味はないだろう。
「それなら、今後はお洒落をしましょう。船乗りは粗野で不潔そうって印象が世間にあるけど、アタシたち女の船乗りは女らしく優美で清潔にいきましょう!」
「今でもみんなは結構お洒落で清潔ッスけ――清潔だと思うけどね」
「肝心のソーニャちゃんとライムちゃんは全然お洒落してないじゃない! だからシティールに到着したら船乗りになりたい女性たちを探して、水婦たちみんなでお揃いのお洒落な服を着るわよっ!」
姉さんは素で男勝りな性格だからか、お洒落には興味ないみたいだけど、わたしは違う。性格的には普通の女だと自覚しているし、少しはお洒落だってしてみたいと思う。それに、いつかは父さんみたいに格好良い人と結婚したいし、子供だってほしいし、家族みんなで船を家として生活していきたい。
「うん……そうだね、いいねそれ。どうせならお洒落しないと損だしね」
「ええ、そうよ、そうなのよ! あぁ、我ながら良案だわぁ……今からどんな意匠の服にするか考えなくっちゃ! いえ、一緒に考えましょうソーニャちゃんっ!」
姐御は本当に嬉しそうに、楽しそうに、そう言ってくれた。
きっと姐御のことだから、今日までずっと、わたしが女の船乗りであることに――水婦であることに、劣等感じみた複雑な思いを抱えていたことには気付いていたはずだ。心配を掛けてしまったはずだ。だから、わたしが一歩を踏み出そうとしたことを、あんなに喜んでくれたのだろう。どんな服にするのか考えるのが楽しいのも本当だろうけど、それだけならあんなに優しい笑顔にはならないはずだ。
「そういえば、猫も乗せないとね」
「あ、そうだったわね。今はまだ鼠がいる形跡はないけれど、アシュリンちゃんやユーリちゃんがいなくなっちゃうと、この船にも鼠が棲み着きそうだものね」
ボアを出港した日から今日まで、ドラゼン号で鼠を見掛けたことは一度もない。その理由は判然としないが、アシュリンとユーリがいるおかげだと、わたしたちは考えている。大きな魔物がいるため鼠が船に近寄らず、紛れ込んだとしても、気ままに船内をふらつく小さな竜が食べてしまっているのだろう。
「あと、やっぱり客船もいいかもしれないね。貨物船として商売するのもいいと思うけど、せっかく船員を女だけにするなら、女性専用の客船とかにすれば女性客も安心して過ごせるだろうし、結構需要ありそうだよね」
「そうね、それもいいわね。服のことと一緒に、ライムちゃんとも相談しましょう」
今日はそんなことがあって、わたしにとってはとても意味のある一日になった。
今後どうするのか、どうなっていくのか、不安はある。
だが、少し肩の力を抜いていこうと思う。
姉さんと姐御と一緒なら、これから水婦として生きていく中で辛く苦しいことがあっても、何だかんだ楽しくやっていけそうだ。力を合わせれば、一緒に乗り越えていけるはずだと信じられる。
・翠風期 第四節 六日
一度通り雨があったけど、快晴。
平穏な一日だった。
本日は翼人のみんなで入浴することになった。全員が翼人だと、風呂場は浴槽と洗い場含めて四人が限界の広さなので、わたしとセイディとイヴとサラの四人で、ちょうどぎりぎりだ。最初は浴槽に湯を張らず、全員で互いの翼を洗い合うことになった。
その途中、なぜ急に翼人全員で入浴することになったのか、言い出した本人に尋ねてみると、
「今まで翼人同士で風呂入ったことなかったし、やっぱ裸の付き合いは大事かなと思ってさ」
いつもの陽気な笑みと共にそう言われたので、わたしは「というのは建前で、本当のところは?」と切り返した。
「いやほら、なんかアンタ急に雰囲気とか口調とか変わったし、どうしたのかと思って。何か悩み事あるなら相談乗るわよ? 同じ翼人の方が話しやすいでしょうし、年下も年上も魔女も魔女じゃないのもいるから色んな意見出せるわよ」
セイディは普段から酒を飲むし、少しだらしがないような振る舞いも見せるが、存外にしっかりした人なのは既に知っていた。家事はそつなくこなすし、子供たちやユーリの世話もするし、意外と人のことをよく見ている人だ。
だから意外感なんてなく、むしろ最初の言い分が建前なのもすぐに分かった。
みんな昨日はわたしの変化に触れて良いのかどうか図りかねている様子だった。そんなこと気にしない無遠慮な人たちは――主に姉さんやリゼットなんかはそもそも気付いたのか怪しく、あるいは細かいことは気にしない性質だからか、特に何も言われなかった。
「相談というか悩みみたいなのは、もう姐御と話してすっきりしたから、大丈夫」
特に隠すようなことでもなかったので、説明した。
わたしが姐御のことをどう思っているのかとか、これまで張りぼてで隠してきた気持ちとか、色々。尋ねられた以上、それが彼女らへの誠意だと思った。これまで一緒に旅して、生活を共にしてきて、既にわたしにとって彼女らは姉に次ぐ親しい人たちなのだ。
昨日自分から言い出さなかったのは、わたしみたいな小娘の些細な心情の変化なんて、みんな興味ないだろうなと少なからず思っていたからだ。
「ふーん、なるほどねぇ。まあアンタは姉と違って色々考えてそうだったし、納得っちゃ納得だわ。その話、ローズにもしてみたら? あの子も無駄に小難しいこと気にする性質だから、結構アンタと気が合うと思うわよ」
わたしの話を聞いて、セイディは相変わらずの明るい笑みを返してきた。イヴは優しい眼差しと穏やかな微笑みを向けてくれて、それが何だか母さんを思い出させて、少し懐かしくも気恥ずかしかった。サラは「そっか」と小さく頷いていたけど、どことなく影のある複雑な面持ちをしていて、少し印象に残った。
ここだけの話、わたしはサラのことが一番よく分からない。ある意味、苦手と言ってもいいかもしれない。決して嫌いではないし、むしろ仲間として好きだけど……みんなの中では一番接しづらい。
よく分からない人の例外であるゼフィラさんも、腹に一物ありそうな感じのミリアさんやツィーリエさんも、どっしりしている。人としての安定感みたいなものがある。
しかし、サラからはそういう重さというか中身があまり感じられず、実の伴わないような空虚さを思わせる。いや……というより、アレは張りぼて? 昨日までのわたしと同じような、でも違うような、そんな違和感がある。
サラは記憶喪失ということだったし、出会って間もない頃は精神的に不安定な感じだったので、様子に違和感を覚えるのも無理のないことなのだろうとは思う。ただ、チュアリーに着く頃には言動は落ち着いていたし、普通にクレアさんたち家族に溶け込めているようでもあった。
しかし端から見ていると、どうにも分からない。話してみても、いまいち分からない。昨日まではこんなにモヤモヤした感じはしなかったのに、今日改めてサラのことを考えてみると、凄く……何か、こう……もぞもぞする。
自分でも判然としないことに紙面を割いても仕方ないので、入浴時の話に戻そう。
「ま、とりあえず、また何かあったら誰かに相談すんのよ。今回はベルが気を利かせたっぽいから良かったけど、アンタ一人で抱え込みそうな感じだし」
全員一通り洗い終えて、後は泡を流すだけといったところで、セイディが肩を叩いてきた。その気安くも温かな雰囲気が少しケリー母さんみたいで、思わず頬が緩んだ。
ちょうどその直後だった。
「――ひゃ!?」
という短い悲鳴が聞こえ、次の瞬間には鈍い音が風呂場に響いた。イヴが石鹸を踏んづけて、滑って転んだのだ。翼人が四人いる風呂場は手狭で、受け身を取る空間的余裕がなかったせいか、かなり変な姿勢で転んだみたいだった。その格好がおかしくて、身体をぶつけて痛い思いをしたイヴには悪かったけど、思わず笑ってしまった。
イヴは母さんみたいに優しくて、穏やかで、でも時には凛々しくて、しっかりした人だ。しかし母さんと違って、たまに間の抜けたことをする。前にも書いたけど、クレアの料理を手伝った際には砂糖と塩を間違えて入れたし、洗濯物を取り込んでいる際に風に飛ばされた下着を回収しようとして他の衣類を海に落としたし、セイディの酒に付き合わされていたときなんか今回みたいに床に落ちた酒瓶を踏んで転んで卓をひっくり返していた。
あの人はいつも忘れた頃に何かしでかす。
本人曰く、運が悪いだけらしい。
毎度の状況的にそうかもしれないけど、いずれにせよ、個人的にはへましてくれた方がいい。イヴは年上で、翼人で、落ち着いた大人な女性なので、母さんみたいな人だと思わず甘えたくなる。たまに醜態を晒してくれるくらいで、ちょうどいい。
「ありゃ、頭打っちゃって気絶してる? 念のため治癒は特級の方がいいだろうし、この子の主様呼んだ方が良さそうね」
セイディがイヴを抱えて脱衣所に出たので、私とサラも泡塗れのまま後に続いた。
大声で呼ばれて駆け付けたローズは「あらら」と仕方なさげに苦笑しながら、いつも通り詠唱もなく治癒魔法をイヴに使っていた。しかしイヴはすぐに目を覚まさなかったので、みんなで彼女の泡を流して身体を拭き、服を着せて、最後はトレイシーが寝室まで抱えていった。
「すみません、三人とも。今回は翼人だけで入浴ということでしたが、ここはご主人様としてイヴさんの抜けた穴は私が責任を持って埋めさせてもらいます」
などと言う前から服は脱ぎ捨てられていたので、わたしたちに拒む余地はなかった。いや、拒むつもりもなかったけど……うーん、なんだかなぁ。ローズはたまに強引だ。
その後はイヴの代わりにローズと共に入浴していった。
ローズはかなり変わった子だとは思うけど、わたしは苦手ではない。天才的な魔女だと思えば納得できる変人っぷりだし、そういう変わり者の割に周りの人のことをよく気に掛けている。大人びているかと思えば、妙に子供っぽいというか甘えん坊なところもある。
総じて、変な子だけど親しみやすい子だ。
だからといって、こんな尋常の範疇にない天才児と気が合うとまでは思えないけど。
「ちょっとローズ、アンタなに露骨にソーニャのおっぱいガン見してんのよ」
「あ、いえ……未知への好奇心というか、何というか……」
ローズがチラチラと顔を盗み見てきたたかと思えば、密着してきた。というより、胸に顔を埋めてきた。
わたしは突然のことに驚きはしたけど、押し退けたりはしなかった。ローズはよくクレアさんやイヴやメルに対して同じようなことをしているし、わたしも十歳くらいまではよく両親や姉さんに抱き付いたりして甘えていた。それに何より、ローズと本当の意味で仲良くなれたのだと思えて、嬉しかった。
これまでローズはわたしに対して心身共に一定の距離感を保っていた。クレアさんやリーゼたちに対するより、どこか一歩引いたところから接してきていた。それはきっとわたしが張りぼてで壁を作っていたからで、あの聡い魔女っ子はそれを察していたからこそ、無理に距離を詰めようとしてこなかったのだろう。
しかし、わたしの変化に気付いて、今日は心身共に近付いて来てくれたのだと思う。
「ローズ、ありがとう……これからもよろしくね」
「え……あ、はい……こちらこそ……?」
抱き返しながら言うと、ローズは少し困惑したような反応を見せた。あんなあからさまにとぼけなくても良かったのに、恥ずかしかったのだろう。それが何だか可愛くて、今日は一緒に寝ようかと誘ってみると、頷いてくれた。誰かと寝るのは久しぶりなので、少し緊張はするけど、楽しみだ。姉さんの寝相が悪くなければ、姉さんと毎日一緒に寝たいと思う程度には、わたしは一人より誰かと一緒の寝台が好きだ。
もう自分を取り繕う必要もないのだし、これを機に今後はリーゼやルティやメルあたりに声を掛けて、一緒に寝てもらうのも良さそうだ。来期で十五歳とはいえ、一応まだわたしは成人前の子供なのだから、恥ずかしいことなんてないのだ。
これから先、子供で女な船乗りだと馬鹿にされようと、もう気にしない。それどころか開き直ってやるつもりだ。
姐御たちがいて、仲間たちに認めてもらえていれば、とりあえずそれでいいと思える。いつか世間に認められるくらい凄い船乗りになって、これまで馬鹿にしてきた人たちを見返してやろう。
・翠風期 第五節 三日
晴れときどき曇り。
本日はサンメラ群島の海域――サンメラ海に入った。
サンメラ海はあちこちに小島が散見される多島海なので、海図で現在位置を照合しやすく、航海しやすい海だ。ひとまずの寄港地と定めているティムアイ島には迷うことなく着けるだろう。
そう思っていた矢先、海賊に遭遇した。