第百二十八話 『この頃はやりの♂の娘』★
異世界だろうと、現実は厳しく容赦がない。
妄想の中では自分に都合の良い優しい世界を如何様にも夢見ることができるが、この現実ってやつは童貞たち最後の理想郷たる妄想の世界すら脅かす爆弾を時に突き付けてくる。
「世知辛いですねぇ……」
俺は船縁の手摺にもたれ掛かりながら、徐々に離れ行く街並みを眺めて呟いた。
翠風期第三節八日。
エステルが誕生して五日後、あるいはニーナとラスティがこの船に来て二日後となる本日、我らがドラゼン号は出港した。港町ローレルは未だ建国記念祭の最中で、良く晴れた空模様もあり、本日も街全体が連日と変わらぬ祭りの喧噪に包まれている。その賑々しい雰囲気から遠ざかっていくのを感じていると、何だか物寂しさが湧き上がってきて、アンニュイな気分になってしまう。
「ホントそうね。この世は色々と残酷よ」
俺の隣でそうしみじみと口にしたのはミリアだ。藍白色のそこそこ長い髪を潮風になびかせながら、ローレルを見遣るその表情に深刻さはあまりない。ただ、どこか呆れたように微苦笑して、類い希な美貌を人間臭く歪めている。
「今この世の中に蔓延る独善の劣悪さっていうのは嫌と言うほど分かってたつもりだけど、改めて思い知らされるわね。生まれたばかりの赤ちゃんまで振り回すなんて……歪み切ってるわ」
「……………………」
お、おう……そうだね……。
いや、あんたがそんなこと言うと反応に困っちゃうよ。お姫様だったのに何かの陰謀で死んだことにされて実際は《黄昏の調べ》に洗脳されて利用されてきたとか、そんな壮絶な人生歩んでる二十一歳の姉ちゃんに同意されると、もう今の俺には何も言えなくなっちゃう。
さっきどうして俺が世知辛いと呟いたのか、もしその理由を知られたら、きっとあの紫水晶のように綺麗な瞳からゴミを見るような眼差しを向けられることだろう。
「ところで、使用人にお仕えされるご気分はどうなのかしら、ローズ様?」
ミリアはふっと肩の力を抜くと、からかい交じりの笑みを向けてきた。
「……どうもこうも、違和感しかないですよ。なんか凄く献身的に気遣ってくるし、身の回りのこと何でもしようとしてくるし……偉大な先人から助言の一つでも頂きたいところですね」
「ま、アタシは物心付いた頃には当たり前だったから、違和感とか言われても共感は難しいけど、それはもう慣れるしかないんでしょうね。そのうちお仕えされるのが当たり前になるわよ」
「当たり前……になっちゃっていいんですかねぇ」
ニコル改めニーナ、ニコラ改めラスティ。
二人を使用人として引き取ることにした当初、俺はご主人様生活を色々と想像したが、それとは結構なズレがあることを早くも感じている。
ご主人様生活といっても形式上だけのことで、実際の生活はさほど変わらず、みんなで家事をしていくのだろうと思っていた。今の俺は片腕だけど、何もできないわけじゃないしね。ニーナとラスティとの関係だって、普通に友達としてか妹分としてか、お互いフレンドリーに付き合っていけるものと思っていた。
いやまあ、色々と妄想しちゃったりもしたけど、それはあくまでもお遊びというか、妄想だからこそ楽しめるものだった。だから少なからず実現されると困惑するし、一番大事な部分が妄想と違っていると困惑どころか激しく困窮する。
「ローズほどの魔女なら使用人の一人や二人いても何もおかしくないし、むしろいて当然なんだから、素直に受け入れちゃいなさい。その方があの子たちのためにもなるわよ」
「それは一応分かってるんですけど、どうにも……」
ミリアは軽々しく言うけど、人に仕えられるって結構なプレッシャーだ。それでも、使用人の存在それ自体はまだ何とか受け入れられなくもない。
しかし、アレまで素直に受け入れられるほど、俺のレベルは高くない。
「ローズ様ーっ!」
「お、噂をすれば、本人のご登場ね」
俺を呼ぶ声の方をちらりと振り向くと、船室の扉からメイド服姿の幼い獣人が駆け出てきていた。くるりとカールした尻尾が左右に激しく振られて両脇からチラチラと覗き見えている。リーゼより少し小振りな三角の獣耳と真っ黒い毛並みも相まって、黒柴のような子だ。
走るラスティの後ろにはニーナがいて、そちらは甲板に一歩出たところで大きく伸びをしている。二人にはあの夜から今まで、高級ホテルの室内かドラゼン号の船内にて、ずっと人目を避けてもらっていたので、太陽の下に出るのは五日ぶりだ。既に街並みが豆粒程度にしか見えないほどローレルからは離れているので、もう大丈夫だろう。
「ローズ様、何かご用命はありますかっ?」
すぐ側まで来たラスティは無邪気な笑みを向けてくる。俺を映すその瞳に穢れは一切なく、純真そのものだ。そう、まさにエステルも顔負けの無垢さがそこにはあった。
穢れた心によってこの子の存在を受け入れきれていない俺には眩しすぎて、あまりにもピュアッピュアで、直視できない。
「い、いやぁ、今は特に何も……ラスティは久々の外なんですし、私のことはいいですから、しばらく日向ぼっこでもしたらどうですか?」
「お気遣いありがとうございます! でもボクは大丈夫ですっ!」
「そ、そう……」
出会った頃は気弱そうで大人しい子に見えたし、それは今も変わらないが、なぜか俺に対してだけはぐいぐい迫ってくる。身長は俺の方が少し高いので、やや上目遣いにこちらを見上げる格好になっているのだが、それがまた凄まじく可愛い。更に両目がキラキラと輝いて見えるほど、その眼差しには気圧されるほどの熱が込められているものだから、最初は俺に惚れてんのかと思った。
しかし、違う。これはそんな邪な雰囲気じゃない。もっと純真で無垢な、一切のエゴがない潔癖な感情だ。
「あっ、そうだ! こんなに天気いいですし、海風も気持ちいいですし、お茶でもご用意しましょうか? クレア様から聞きました。たまに甲板でお茶会をすると!」
「えっと……そろそろお昼ご飯ですし、今はちょっと……」
「では何かボクにできることはありますか? 何でもします!」
胸元で両手を可愛らしく握り、尻尾をふりふりしながら力説してくる。
この献身的な態度……この子たぶん、俺を凄い奴だと思い込んで尊敬しているのだろう。あの夜の悲劇的な状況下で、一緒にエステルを取り上げたことが原因なのは何となく察しが付く。ローズという本名も一因かもしれない。
「こらっ、ニコラ! じゃなかったラスティ! なんかローズ様が困ってるのです! 今は特に用がなさそうですし、そういうときは大人しくすっこんでるのです!」
ラスティとは髪型だけ異なる姿のニーナが駆け寄ってきた。
姉の方は俺に対して特におかしな様子はなく、出会った頃とさほど変わらない。いや、態度は軟化したし、たぶん敬ってくれているとは思うが、それも常識の範囲内だ。
「で、でもお姉ちゃん、ボクは積極的に――」
「でもじゃねーのです! ただ積極的にすればいいってもんでもねーのです! 過ぎたるは猶及ばざるがごとし! 節度を弁えやがれなのですっ!」
「それは、そうかもだけど……そういうお姉ちゃんは敬語全然できてないよね」
「うっせーのです! タマを蹴り上げられたくなかったら他の方々が何か困ってないか見回って来やがれなのですっ!」
ニーナがラスティの尻にヤクザキックをお見舞いしていると、少女たちが笑いながら近寄ってきた。
「いやー、また賑やかになったッスねー」
「賑やかなのはいいことだ! 元気がないと海ではやっていけないからなっ!」
「そうねぇ、その通りよ二人ともぉ……あぁ、アタシの船がどんどん楽園になっていく……ありがとうアーレ様ありがとうローズちゃん」
ソーニャとライムは未だしも、ベルは俺たちの中で最も立派な巨体でくねくねと身悶えている。至福の表情で一人手を組んでおり、今にも昇天しそうな勢いだ。あいつは男女問わず子供が好きだから、船員が増えることを一番喜んでいた。
「こうして見ると、やっぱタマが付いてるようには見えねえよな……」
俺たちが集まっていたからか、今度は少年少女が引き寄せられるようにやって来た。
「何よウェイン、まだ言ってるの? いいじゃない可愛ければ。ラスティは女の子よ。あとタマとか言わないで」
「いや、でも……本当は男なんだろ? なのにあの見た目って……性格も全然男っぽくないし……」
言うな、ウェイン……その残酷な真実を口にしないでくれ……。
俺はまだどういうスタンスでラスティと接するべきなのか決め切れていないから、苦しいんだ。あの可愛らしい幼女にしか見えない子と接する度に、頭が混乱して現実逃避したくなる。すなわち、ラスティは本物の幼女なのだと思い込みたくなる。
その度に、数日前の会話が脳裏を過ぎり、俺はこの非情な現実と向き合わざるを得なくなるのだ。
『念のため、きちんと言葉にしてお伝えしておこうと思っていたのです。ローズ様やリナリア様のように聡明な方々であれば、既に見抜かれていることとは思いますが――』
あのとき、爺さんは何でもないことのように、さらりと言いやがった。
『ニコラは男です』
最初、俺は何を言われたのか分からなかった。
たぶんポカーンと間抜け面を晒したと思う。
だから当然の疑問はクレアが代わりに投げつけてくれた。
『なぜあのような格好を、ですか? 切っ掛けは二年ほど前、あの子が姉と同じ服を着たいと言い出しましてな。ニコルが自らの服を貸したところ、ニコラがいたく気に入ってしまいまして』
デュークなりの冗談で、どっきりなのだと思いたかった。
しかし野郎は俺の内心などお構いなしに話し続けていった。
『ニコラは素直ないい子ですが、一度これと決めたことはなかなか曲げない頑固なところがありまして、それはそれで長所でもあるのですが……ともかく、二人はご覧の通り双生児で見目は瓜二つなものですから、ニコラの女装姿に見苦しさは全くありませんでした。それどころか、二人同じ格好で並んだ姿はなかなかどうして絵になるほど見栄えがいい』
確かにね、分かるよ。
本当に、ガチのマジで可愛いんだ。ニーナもラスティも黒柴っぽくて、あのくるりとカールした尻尾をモフモフして、獣耳ごと頭を撫で撫でしてあげたくなるほど、キュートなんだ。セミロングの髪をツーサイドアップテールに結ってるのも、ちょっと太めの短い眉も、チャーミングなんだ。
俺が、俺の願望故に、男だと認めたくないんだ。
でもあの子が男という事実は厳然と存在するんだ。
だから、こんなに苦しんだ。
『そこでわたくしは一計を案じまして、ニコラに短剣術を仕込むことで使用人兼護衛として教育することにしたのです。もし主を狙う不届きな輩が現れた際、侍女の姿であれば相手の油断を誘えますからな』
道理でスカートの中に短剣を忍ばせてあったわけだよ。
というか、あの夜はみんな私服だったけど、ラスティ普通にスカート履いてたよ……。
『それを抜きにしましても、お嬢様やエルヴィン様、それに旦那様方も、ニコラの侍女服姿は可愛いと気に入られておりまして。せっかく双子なのだからお揃いの方が良かろうと仰いましたので、あの姿に落ち着いた次第です』
可愛いは正義だし、護衛という合理的理由もあるし、納得はできる。
しかし、それならそうと最初から教えてほしかった。それまでの俺は当然の如く双子の幼女メイドなんだと思って、二人が俺のメイドになるとか言われて、既にアレコレ妄想しちゃっていたのだ。完全に女の子として認識して、ワクテカしていたところに、不意打ちのように実は男の娘ですテヘペロとか言われても、そう簡単に認識を改められないよ。
だって俺、男の娘は守備範囲外だし……。
『わたくし個人としましても、ニコラの女装姿には何か、こう……深く感じ入るものがありましてな。ただ女性として可憐なのではなく、男性として並の女性より可憐というのは素晴らしいことのように思うのです。真作を上回る贋作というのは、それはもう一つの傑作と申しますか、模倣もそこまでいけば芸術であり、贋作だからこそ味のある趣向を楽しめるような……そうした芸術論にも通ずる奥深さが得も言われぬ高揚感をもたらしまして、この老骨の枯れた心に火が灯ったかのように、胸の奥底が熱くなったのですな。ニコラ本人がその気なのを良いことに、我ながら女性らしい身のこなしまで完璧に叩き込もうと張り切ってしまいまして、今のあの子がああなのはわたくしの影響も大きいはずですので、どうか気色悪がらず接して頂ければ幸いです。むしろ先述したような芸術的観点からご覧頂けますと、この謎の高揚感に胸を踊らせることができますので是非おすすめします』
なんだこの気持ち悪いジジイは。たまげたなぁ。
あんた謎の高揚感とか言ってるけどさ、それ単に男の娘に萌えてるだけじゃねえか。芸術とか高尚なこと言って誤魔化そうとしてんじゃねえぞキモオタジジイ。
『失礼、つい長々と……。そういうわけでして、ニコラは身体的には男性ですが、どうにも最近は自分のことを男性だと認識していない節がありましてな。では女性と自認しているのかといえば、そういうわけでもなく。そのあたりは本人も曖昧なようですので、あまり深く問い質さないで頂けると幸いです』
今の時点で早くも性自認があやふやって、お前それ将来的にはほぼ間違いなく女になるってことじゃねえか。いいのかそれで? いや本人が納得してるならいいんだろうけどさ。
「ベルはベルなんだし、ラスティもラスティでいいじゃない」
サラの言葉で我に返り、俺は見慣れた彼女の表情を窺ってみた。
今まさにラスティを見遣るその顔に不快感や嫌悪感の類いはない。サラは人見知りで男が苦手なはずなのに、新参者の男に対する緊張感がないのだ。ニーナに対してはまだ少々のぎこちなさがあるようだが、それと全く同等の気後れした感じしかラスティには向けていない。
みんなにはニーナとラスティの自己紹介の後、すぐにラスティが男だと明かしたので、俺ほど認識が固まる前に、そういうものだと受け入れられたのだろう。これはベルによる影響が大きく、どう見ても容姿は男なのに中身は女というややこしい人と日常的に接しているおかげで、ジェンダーフリーな価値観が養われていたのだ。
ラスティは一人称こそボクだが中身は中性的で、見た目はベルより遥かに女性的だ。更に本物の幼女で瓜二つな姿の姉ニーナがいるものだから、サラですら早々に女として受け入れてしまえている。きっと他の女性陣も深く悩むことなく、ラスティは女だと認識することにしたはずだ。
「じゃあサラはあいつと一緒に風呂入れるってのか?」
ただ、心身ともに男であるウェインとユーハはまだ少し混乱しているようだ。
「いえ、それは…………無理だけど。でも女の子なのよ。だってそうとしか見えないし、本人の性格も女の子っぽいし」
「アタシは入れるわよ。何ならウェインとも一緒できるけど?」
ミリアが素なのか冗談なのか分かりづらい調子で言い、ウェインの頭をぽんぽんと撫でている。少年は顔を赤らめつつ美女の手から逃れ、押し黙った。
そこでふと元気な声が割り込んでくる。
「友達なら男とか女とかどっちでもいいぞー」
今度は幼狐がやって来た。その小さな手には紐が握られており、それは首輪に繋がっている。
「メーギーもそう思うよね?」
「…………ンメェ」
短い角の生えた頭をリーゼに撫でられ、真っ白い毛並みの山羊は小さく鳴いている。リーゼによってメーギーと名付けられたこの山羊はメスで、エステルの乳母代わりとしてローレルで購入した。少しでも良質な乳を出してもらうべく、適度に運動させると決めているので、今まさに散歩しているのだろう。
ほ乳類の常として、山羊の乳は子育てのために出るものだ。現在メーギーは妊娠していないが、どうにも山羊は出産から二年ほどの間なら、毎日搾乳していれば乳を出し続けるようだ。まだ子ヤギに乳が必要だと、身体が勘違いするかららしい。メーギーは半年ほど前に出産したようなので、最低でもエステルが離乳食に移行し始める半年後くらいまでは乳を出してくれるはずだ。可能ならば一年半ほど出し続けてもらいたいものだが、そこはメーギー次第だろう。
「ピュピュェェェェェン!」
「ん? アシュリンもそう思うの?」
「ピュェンピュェェェェェッ!」
リーゼに伴ってアシュリンとユーハもいて、前者はここ数日、自らの存在を主張するかのように普段の五割増しくらいやかましく鳴いている。この雑食野郎がメーギーを食べてしまわないか、みんな心配しているが、最初に威嚇してリーゼに怒られてからは今のところ大人しくしているようだ。
「ユーハはラスティのこと男か女どっちだと思ってるんだ?」
「……性別など些末な問題である。肝要なのは人柄であって、そこに男女は関係ない」
ウェインの問いに対し、ユーハはやや思案げにしつつも堂々と応じている。どうやらオッサンは性別を意識しない方針でいくようだ。
俺もそうしたいところだが、何せあの子は可愛すぎる。それが問題だ。
「そういえば、なんかローズはラスティに対して少しぎこちないわよね」
小悪魔が山羊を撫でながら鋭い指摘を繰り出してきた。
「いえ、そんなことは……」
「ま、あれだけ懐かれてれば戸惑いもするわよね。ラスティを女として見れば気にならないでしょうけど、男だとすれば恋愛感情があるのかと思えちゃうし、どう接していくべきか迷うのも無理ないわ」
元姫様は空気を読まず、みんなの前で繊細な問題をぶっちゃけてくれやがった。そしてそれに反応したのは、やはり空気の読めない船乗り少女だ。
「なんだ、ラスティの好きは男女の好きなのか?」
「姉さん、その辺はあんまり触れない方がいいと思うッスけど……でも実際のところ、どうなんスかね? もしそうなら船上での色恋沙汰は切った張ったになりやすいから気を付けないと不味いッスよ……」
「あらぁ、いいじゃない恋したって。アタシは応援するわよぉ」
ラスティのあれは恋じゃないはずだ。
そういう甘酸っぱい雰囲気ではない。
ただ、俺が否定しても意味ないだろうし……いやそれより、ラスティをどう認識して接するべきか早いとこ決めないと、何事にも集中できそうにない。なにせこの問題のせいで、既に一度大きなミスを犯してしまっている。
本当なら、二日前にアインさんが双子をドラゼン号に連れて来たとき、《夜天の紅》や鬼人や銀仮面について、アレコレ聞き出そうと思っていた。しかし男の娘のことで頭がいっぱいだった俺はすっかり失念していて、アインさんもすぐに帰ってしまい、貴重な機会をみすみす逃してしまった。クレアやセイディも、高級ホテルでドライたちと話はしたようだが、俺が知る以上のことは聞き出せていないようだった。当然のようにゼフィラはもう何も教えてくれないし、おそらく次もドライが現れるだろうから、向こうが情報を開示してくれるのを待つしかない。アインさんかツヴァイなら、色々聞き出せそうだったのに……。
同じような失態を演じないためにも、さっさとこの問題は片付けるべきだ。シティールに到着するまでには〈瞬転〉の無詠唱化を完了させて、誰かを連れて一緒に転移できるようにもしておきたいからな。時間がもったいない。
ということで、俺は自分の気持ちに正直になって考え、潔く結論を出した。最初から男らしく即断即決しておけば良かったという後悔の念が後押ししてくれたので、俺は迷うことなく口を開いて宣言しておく。
「私はラスティを女性として見てますので、恋愛感情があるのかとかは疑ってないですよ」
うん、アレはもう女だ。
あの夜に俺のパンツ一丁な姿を見られちゃってるし、女ってことにしよう。どう見ても女にしか見えないし、女だと思った方が幸せになれる。あの子の裸さえ見ないように気を付けていれば、それで万事上手くいくはずなのだ。
もうラスティが男だとか、そんな事実は忘れよう。
君は何も聞かなかった。いいね?
あの子は本物の幼女だ。
「ほ、本当か?」
なぜかウェインが疑わしげな目を向けてきた。
俺ってそんなに信用ないのかね?
「本当ですよ。何なら証明して見せましょうか?」
「証明?」
「私は自分からウェインに抱き付くのはいいですけど、ウェインから特に理由もなく抱き付かれるのは、なんか嫌です」
「お、俺だって嫌だわ!」
顔を赤くしてまで怒るなんて、ウェインもまだまだ子供だな。
「でもラスティなら可愛い女の子なので大歓迎です。というわけで実践です。ラスティーッ、ラスティ今すぐ来てください!」
先ほど船室の方に入って行くのが見えたので、大声で呼んでみる。すると二秒ほどで扉が勢い良く開き、かなりの俊足で飛ぶように真っ直ぐ駆け寄ってきた。
「お呼びですか!?」
あらら、そんな嬉しそうに尻尾振りながら満面の笑みを浮かべちゃって。ラスティは本当に可愛い幼女メイドだなぁ。おじさんの方から今すぐ抱き付いちゃいたいよ。
「ラスティ、ちょっと私に抱き付いてみてください」
「……え?」
「いいから、ほら。遠慮せずいらっしゃい」
「は、はいっ!」
ラスティは突然のことに戸惑った様子を見せたが、すぐに何の疑問もなさそうに、ただ嬉しそうに頷いた。そしてみんなが見守る中、飛びつくように抱き付いてくる。
「こうですか!? これでいいですかローズ様っ!?」
「うんうん、いい感じいい感……じ……?」
子犬系メイド幼女は俺の背に両手を回し、肩に顔を埋めてくるだけでなく、足まで搦めて、まさに全身で抱き付いてくる。そのせいか、どこか懐かしいふにょっとした感触のナニかが、太腿の付け根あたりに当たっているのを感じる。
ラ、ラスティちゃんは幼女のはずなのに……気のせいかな?
「ダ、ダメですか!? じゃあこんな感じですか!? それともこんな感じ!?」
まるでチンポジを直すかのようにモジモジとした動きで抱き付き方を微妙に変えて密着してくるものだから、余計にはっきりとナニかの感触が伝わってきてしまう。
「………………も、もう、大丈夫です。ありがとうラスティ」
「は、はい! 喜んでもらえたようで良かったですっ!」
抱き返してやると、くるりとカールした尻尾が勢い良く左右に動き出した。俺は今尚感じられるナニの感触を誤魔化すためにも、ふわふわした尻尾に触れる。
「ひゃぁっ、ロ、ローズ様……くすぐったいですぅ……」
甲高い悲鳴を小さく上げて、女の子としか思えないか細い声でぼそぼそと呟いている。
可愛かった。
むしろ耳元に吐息が当たって色っぽいまである。
「ほらウェイン、どう見ても女の子じゃない」
「……お、おう」
指差すサラの言葉に納得したのか、あるいはただ混乱が深まっただけなのか、ウェインは気圧されたように頷いている。
俺は……俺も、混乱が深まった。深まりすぎて、何かヤバい深淵を覗き込んだときに感じるであろう恐れと悟りに同時に襲われ、俺は一瞬で直感的に全てを理解した。してしまった。
「ふふ、ラスティは可愛いですね」
俺は最後に彼女の頭を撫でながら身体を離した。
あぁ……この癒されるような穏やかさと確かな熱の灯った胸の高鳴り……。
萌えだ。
爺さん、俺にもようやく分かったよ。真作を凌駕する贋作は、それはそれで一つの傑作であり芸術なんだな。可愛い幼女にしか見えない子の股間にナニが生えているからこそ、滾るんだ。俺はホモじゃないけど、一人の文化人としてこの芸術の素晴らしさは認めざるを得ない。
デュークとラスティのおかげで、そう思い至れるようになれた。
フッ……また一つレベルが上がってしまったようだな。
男の娘、大変結構じゃないか。
「ラスティ、改めてこれからよろしくお願いしますね」
「はいっ、こちらこそローズ様!」
今ようやく、俺は心から幼女メイドと男の娘メイドのご主人様になれたように思う。
もう、迷わない。
ラスティは男でも女でもない、男の娘だ!
男の娘だからこそ、ラスティは可愛いんだっ!
もちろん天然もの幼女のニーナも可愛いよっ!
つまり一粒で二度美味しいんだっ、やったねローズちゃん!
「――あっ、エステルが泣き出した!?」
「――ンメェ!?」
「ちょっ、あ、リーゼこらメーギーの手綱放して!」
駆け出す幼狐に山羊が引っ張られて苦鳴を上げ、サラが慌てたようにリーゼの手から紐を引き離している。
最初は俺にも聞こえなかったが、やがて足下の方から元気な泣き声が響いてきた。先日までは十七人と二頭だった船員が、二十人と三頭になって一層騒がしく、そして少し手狭になった。そんな生活感溢れる賑やかな船で今日から再び海原を航行し、俺たちは目的地の海洋都市国家シティールに向かっていく。
魔大陸の港町ボアからシティールまでの航程でいえば、既に四分の三くらいは消化している。あと少しだ。さすがにこれ以上、何か問題が起こるとは思えないので、無事にシティールまで辿り着けるだろう。それでも念のため油断はせず、今後は転生者だとバレないように気を付けて、目立たずいこう。安全第一だ。
エステルの泣き声を聞きながら、ユスティーナとデュークのことを思い出し、俺は強くそう思った。
以下、おまけ
短編 『脱走! トリプル・ヤギ』(イラストあり)
前世と比べると、この世界の文明レベルは高くない。
しかし、決して低くもない。
冷蔵や冷凍による保存技術に関しては、前世の中世期を遥かに凌ぐレベルに至っている。おそらく十九世紀頃と遜色ないほどだ。その理由は単純で、簡単に氷を作り出せるからだ。魔法士の存在が不可欠とはいえ、冷蔵庫や冷蔵室といった保存手段は世に広く浸透している。俺たちのドラゼン号にだって冷蔵室があるし、荷馬車を冷蔵(冷凍)庫化することだってあるので、この世界では生鮮食品の長距離輸送はさして珍しくない。
珍しくはないんだけど、それでも常温の輸送よりコストがかさむため、牧場は街の近くにあることが多い。それはローレルとて例外ではなく、郊外に大きな牧場がある。
ローレルは都会と評して差し支えない大きな港町なので、肉や卵、乳製品といった食材の需要は大きい。特に生ものは鮮度が命ともなれば、わざわざコストを掛けて輸送するより、一大消費地のすぐ近くに生産地を置くのが理に適っていることは自明の理だ。
「おー、でっかいなー!」
子供たちがドラゼン号でニーナとラスティ、そしてエステルと初対面を果たした後、俺たちは牧場にやって来た。
リーゼの言うとおり、かなり大規模な牧場だ。厩舎らしき大きな建物が何棟も並び、放牧地を区切る柵は丘の向こうまで続いている。これだけ広いと野盗や魔物に対する見回り警備も大変そうだ。
「ちょっと臭いけど、おいしそーな匂いがする!」
まだ牧場の入口付近なので、俺は特に何も匂わないが、幼狐はそわそわと落ち着きがない。それも無理からぬことで、この牧場も建国記念祭に乗じて様々な屋台が出ており、どう見ても牧場関係者ではない人で賑わっている。ここまで乗り合い馬車で来たが、乗客は満員だったし、道中では何度も満員の馬車と擦れ違った。ローレルと牧場を行き来する人がそれだけ多いのだ。
「早く行かないとおいしー屋台は売り切れちゃう!」
「そんなことないから一人で勝手に動くんじゃないわよー」
「セイディとユーハさんは子供たちをお願い。私とトレイシーで山羊を買えないか聞いてくるわ」
クレアはそう言い残して、厩舎の建ち並ぶ一画に向かっていった。
牧場に来た主目的は、エステルの乳母代わりとして乳の出る山羊を買うためだ。それだけなら子供たちを連れて来る必要はなかったが、山羊について高級ホテルの受付で尋ねたところ、牧場も祭りで賑々しいと聞いたので、ついでに遊びに来たというわけだ。
山羊に購入はクレアに任せて、こちらは祭りを楽しませてもらうとしよう。まあ、俺は先日の件で色々と気掛かりもあるから心から楽しめないんだけど、子供たちは何も知らないからね。俺も知らない振りして暢気にはしゃがないと、リーゼはともかくルティやサラやウェインに不審がられる。
「さて、じゃあどうしよっか。とりあえず何か食べる?」
「食べるに決ってるだろー!」
もうお昼過ぎだが、俺たちはまだ昼食を摂っていない。みんなも空腹らしく、屋台で買い食いすることにした。
牧場の看板が掲げられた入口から少し歩いたところに、屋台の並ぶ広場がある。そこは牧場らしからぬ人出と賑々しさで、厩舎からは割と離れているとはいえ、この雰囲気は家畜たちにとってストレスになりそうだ。
屋台で売っているものはシンプルな飲食物ばかりだった。牛や山羊がいて乳搾り体験をしつつ搾りたてのそれを飲めたり、生乳を使ったアイス、塩だけで焼いた串焼き肉、火で炙っただけのチーズなど、素材の旨さを味わえそうな品々だ。牧場ならではといったところか。
何を食べるか一通り見て回っていると、一風変わった屋台があった。
「へー、これは凄いですね。セイディ、私はこれにします」
思わず感心してしまい、俺は即決した。
目の前の屋台には巨大なチーズが調理台の上に鎮座している。大きさは直径五十レンテ、高さ二十レンテ以上はある。見るからに固そうなハードチーズの塊で、ずんぐりとした円柱型のそれは上面が丸く抉れている。調理台の横には小さな竈に鍋がのっていて、中身はグラタンの具に近い何かだ。ホワイトソースの中に、細かな野菜や肉に混じってショートパスタが大量に入っている。うん、グラタンだな。
今まさに他の客が来て、それを購入していった。
「そ、そんな……これは……凄すぎる! 天才だっ!」
「はははっ、お嬢ちゃんもお一つどうだい?」
「セイディこれだ! あたしもこれにするぞー!」
リーゼが興奮した声で叫ぶと、屋台のおばちゃんが笑いながら調理に入った。
調理といっても簡単なもので、グラタンの具をおたまですくい、巨大チーズ上面のクレーターめいた窪みに入れ、混ぜるだけだ。熱々のグラタンの具を入れることで、カチカチのチーズを溶かすわけだな。しっかりとスプーンでチーズを削るようにしながら混ぜてくれるので、見る見るうちにとろみが増していく。
十分にチーズが溶け込んだところで器に盛って、完成だ。
「はいよ」
「おおおおおおっ、これ絶対おいしーやつだ!」
リーゼは両手で器を受け取り、匂いを嗅ぎながらはしゃいでいる。
B級グルメっぽいけど、こういう料理は屋台ならではだな。巨大チーズはインパクトがあるし、それを器に見立てて調理する工程を目の前で見せられると、かなり旨そうに見えてくる。特に子供にはウケがいいだろう。
セイディとユーハも含めてみんなで同じものを注文し、屋台から少し離れた草地に向かった。そこに敷物を敷いて座り、放牧地の長閑な風景を眺めながら食べた。どろりとした濃厚なチーズの味が堪らない。
「リーゼ、美味しいですね」
「超おいしー! 船でもこれ食べたい!」
「そうね。せっかく牧場に来たんだし、帰りに色んな乾酪買ってきましょうか。乾酪は酒のつまみにちょうどいいしね」
おそらく屋台の多くは商品の宣伝も兼ねているのだろう。食材は商人に卸すよりも直売の方が儲かるわけだし、祭りで人出の多い今は稼ぎ時のはずだ。
「もっと色んなもの食べよー!」
俺たちは器を返却するついでに、他の屋台でも買い食いを楽しんだ。リーゼのみならず、ルティもサラもウェインも楽しそうで、それを見守るセイディとユーハの表情も明るい。俺もほっこりとした気持ちになる。ニーナとラスティ、それにデュークには悪いけど、今はこの時間を楽しませてもらおう。
「おー、山羊だ山羊。これ食べる?」
「ンメェ」
「あ、リーゼ、勝手に食べ物あげちゃダメですよ」
幼狐が柵の向こうにいる数頭の山羊たちに串焼き肉を差し出したのを見て、慌てて止めた。まあ、草食動物は焼いた肉なんて食べないだろうけど……。
「リーゼが食いもんをそこらの山羊にあげるわけないだろ」
というウェインの言葉通り、リーゼは「ほらほらー」と串焼きを山羊の鼻先に近付けたかと思えば、さっと手を引き戻して自らの口に収めた。
「ンメエエエエエエエエエエエエ」
「あはははははははっ」
怒ったように鳴き声を上げる山羊を前に、リーゼは楽しそうに笑いながら食べ進めていた。
その後、一通り買い食いを満喫したところで、クレアたちが合流した。どうやら首尾良く乳の出る山羊を買うことができたらしく、明日ドラゼン号の方に干し草の束と一緒に届けてくれるらしい。
「あら、リーゼ寝ちゃったみたいね」
「この子、めっちゃ食ってはしゃいでましたからねー」
リーゼは敷物の上で仰向けになり、いつの間にか寝息を立てていた。今日は天気もいいし、牧場のある穏やかな原っぱで午睡に耽るのはさぞ気持ちいいことだろう。俺も少し眠くなってきたが、先日の一件もあって屋外で暢気に寝られるほど無警戒ではいられず、欠伸を零すことしかできない。
こうして座っていても眠くても寝られない状態は辛いだけなので、ルティやユーハたちのように放牧地の柵前で牛でも見ている方が良さそうだ。そう思って腰を上げたところで、ふと気付く。
最寄りの柵から三頭の山羊たちがじっとこちらを見つめている。
「…………ンメェ」
何か妙に低い鳴き声が耳に届いたかと思えば、こちらを凝視してくる三兄弟(いや兄弟かどうかは知らんけど)に、少し大きな山羊が近付いた。
そして、それは起きた。
「え……?」
三兄弟のうち一頭が、柵を跳び越えたのだ。
――山羊を踏み台にしたぁ!?
と叫ぶ余裕もなく呆然としていると、次の一頭も大きな山羊の背を蹴って、俺の身長ほどもある柵を越えて着地する。山羊の跳躍力は凄いらしいけど、本当に凄いジャンプだ。
「ず、随分と賢い山羊ね……仲間と協力して脱走なんて……」
クレアも山羊の脱柵に気付いたようで、唖然とした呟きを零している。セイディは俄には信じがたい光景を前に、「いやいやいや……そうはならんでしょ……」と首を横に振っている。
――なっとるやろがい!
とツッコミを入れる間もなく、三頭目も柵を跳び越えた。
「……あ、あの、なんかこっち来てますけど、どうします?」
見事なジェットストリームジャンプを披露した白い三連星が俺たちの方に近付いて来る。特に駆け足というわけでもなく、余裕の感じられる足取りで歩いているため、襲われるのではないかという危機感は喚起されない。
しかし、三頭が三頭とも脇目も振らず一直線にこちらを凝視しながら歩いてくる姿には、底知れぬ不気味さがあった。山羊の目って見慣れてないと少し怖いし、角もなかなか立派だからね。幸い、他の山羊より体躯が小さめで、まだ成長途中な感じだから迫力には乏しく、恐ろしさはない。
「この林檎じゃないかしら?」
「あぁ、それですよ」
クレアとセイディが納得したように頷き合っている。
林檎は先ほど購入したものだ。放牧地にいる動物たちに手渡しで食べさせる体験ができるということで、飼育員が割高で販売していた。リーゼがそれを欲しがったのでセイディが買ってあげていたが、どうやら自分のデザートとして欲しがっただけらしく、そのまま残っている。たぶん昼寝から起きたら食べるつもりだろう。
「柵を跳び越えてまで欲しいみたいですし、あげちゃっていいですよね?」
「そうね。元々そのために買ったわけだし」
「私は飼育員の人を呼んでくるわ。このままだと脱走しちゃうだろうから」
クレアは敷物から腰を上げると、小走りに駆けていった。
俺は林檎を手に取って三兄弟を待ち構える。林檎は切り分けられていない状態のものが三個ある。特に切り分けずそのまま与えていいらしく、ちょうど向こうも三頭なので、一個ずつ丸ごとあげれば満足してくれるだろう。食べている間に飼育員がやって来て柵の中に戻してくれるはずだ。
「ほーらほら、これが欲しかったんですよねー…………あれ?」
三兄弟はいずれも俺の手の林檎を華麗にスルーすると、敷物に寝転がって爆睡する幼狐を取り囲んだ。かと思えば、一斉に服を咥え込んで引っ張り始める。三方から幼女を引っ張り合う三兄弟の姿に、そこはかとない怒気が見え隠れしているのは気のせいだろうか。
「あ、この子らさっきリーゼが意地悪してた子たちじゃない」
セイディは助ける素振りもなく暢気に笑っている。
俺は可笑しさよりも呆れてしまった。
獣畜生のくせに、まさか食べ物よりも怨恨を優先するとは……アシュリン並に小賢しい奴らだ。もしかしたら何か別の理由があるのかもしれないが、この状況ではそうとしか思えない。
山羊たちの動きにはリーゼが怪我をするほどの乱暴さはなかったが、着衣がどんどん乱れていっているし、破かれでもしたら面倒だ。そろそろ助けた方がいいだろう。
そう思ったところで、当人が「んぁ……?」と寝惚けた声を上げながら目を開けた。
「んぅ……なんだぁ……やぎ……?」
「リーゼ、山羊が服引っ張ってますよ! 早く何とかしないと破られちゃいますから起きてください!」
「うわぁ!? 山羊に食べられてるっ!?」
「あはははははっ」
セイディは爆笑するだけで、引き剥がすのを手伝おうとしない。
俺とリーゼが山羊を相手に悪戦苦闘していると、どこからか「こらああああっ!」という怒声が耳に届いた。声の方を見遣ると飼育員の格好をした獣人のオッサンが凄い勢いで駆け寄ってくる。
「またお前等か! いい加減にしないと肉にするぞっ!」
「ンメエェェェェェ!」
白い三連星はあっさりとリーゼの服を放すと、身軽く駆け去った。それはもう見事なまでの素早さで、山羊ってあんなに足が速かったのかと感心してしまう。
飼育員のオッサンは俺たちに脇目も振らず、山羊たちを追い掛けていった。
「…………なんか服がべとべとする」
嵐が過ぎ去った後のような静けさの中で、まさに嵐にでも遭ったように髪も服も乱れた格好のリーゼが呆然と呟いた。
「これに懲りたら、船で飼う山羊には優しくしてあげなさいよ」
「…………そうする」
リーゼはこくりと頷き、足下に転がる林檎を手に取ってかぶりついた。
飼うことになる山羊はまともな個体であることを期待しよう。
後ほど飼育員から聞いた話によると、あの三頭は本当に三つ子の兄弟らしい。
しかもクレアが購入することにした牝山羊は奴らを産んだ母親だそうだ。
挿絵情報
企画:Shintek 様