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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
191/203

第百二十七話 『最後のご奉仕』

 

「みんな遅いぞぉー、早く早くー!」


 お祭り期間中の賑々しい港の雰囲気に相応しく、幼女が青空の下ではしゃいだ声を上げている。一人突っ走ったリーゼはいち早くドラゼン号に乗り込むと、嬉しそうに出迎えたアシュリンをスルーして船室の扉に手を掛けた。


「こらこらっ、寝てるだろうから船内では静かにするのよ! ていうかアンタはちょっと落ち着きなさい! 絶対に騒ぐんじゃないわよっ!」

「分かってるー!」


 ――トラ○ザムは使うなよ。

 ――了解、トラン○ム!

 という感じに、リーゼは注意するセイディを振り返りもせず船内に駆け込んでいった。


「ったく、元気なのはいいけど元気すぎるのも困りもんね……」

「まあ、はしゃぐ気持ちは分からないでもないですけどね」


 溜息交じりに呟く白翼の美女に、垂れた獣耳がキュートな少女が苦笑している。


「ぼくも早く見てみたい」

「わたしたちはちゃんと落ち着いて静かに行くわよ」

「リーゼはあんなんだからルティに姉扱いされないんだよな。年上なら少しは手本になるようなとこ見せようとか思わないのかよ」


 ぼくっ子と小悪魔と少年は幼狐ほどハイテンションではないにしろ、言動の節々から少なからぬ興味や期待感が窺えた。

 桟橋と船の間に掛かった渡し板を俺たち六人はぞろぞろと歩いて渡り、甲板に降り立つ。リーゼが開けっ放しにしたままの扉に向かう途中、お座りして項垂れているアシュリンがいたので、通り際にみんなで頭を軽く撫でておく。


「ピュェェェッ!l」


 最後にウェインが撫でたところで、反骨心からか元気良く鳴いた。

 復活したアシュリンを残して船室に入り、階段を下りて寝室となっている部屋に向かっていく。が、やけに静かだ。てっきりリーゼが興奮した声を上げて、それが廊下にまで響いてくるものと思っていたのに、予想に反して船内は静穏だった。


「クレアに怒られたんですかね?」

「うーん……そういうわけじゃなさそうだね」


 俺の呟きにメルが両耳をぴくぴくさせながら自信なさげに頭を振った。

 どういうことかと問う前に、またしても開きっぱなしの扉から部屋に入る。ここは普段クレアたち大人の女性の寝室として利用されている部屋だ。


「……おぉー」


 リーゼはその場から微動だにしないまま、感嘆するように唸っていた。幼狐のすぐ側には黒髪巨乳の美女がいて、その豊満な胸元に赤ちゃんを抱いている。今はちょうど起きてミルクを飲んでいるようで、口元がもごもごと小さく動いていた。

 もちろん飲んでいるのはクレアの母乳ではない。もしそうだったら俺も是非飲みたいところだが、いくら彼女が巨乳でも妊婦ではないので乳は出ない。本来母乳を与えるはずのユスティーナが亡くなった以上、街で買ってきた山羊の乳をほ乳瓶に入れて与えるしかなかった。乳母を雇うことも不可能ではないが、事情が事情なので、少なくともここローレルではリスクが高い。俺たちは船旅の最中だし、たぶん今後も雇わないだろう。


「あら、みんなちょうどいいときに来たわね」

「ちゃんと飲んでるし元気そうですねー」


 クレアの言葉にはセイディしか応じず、他の面々は無言でクレアのもとに向かった。これまでみんな赤子と接するような機会はなかったと思うので、興味津々なのだろう。俺は既にさんざん見て触ったので、こうして冷静にみんなの様子を観察できる。


「ちっちゃいわね。肌もぷにぷにしてそう」

「なんか……すごい」

「……ああ、なんかすごい」


 サラは未だしも、ルティとウェインは語彙力が乏しくなるほど、感動だか衝撃だかを受けているようで、見とれている。メルは子供たちの後ろから覗き込み、「わぁ、可愛いー」ととろけたようなで声で呟いている。両手を胸元に押し当てて全身をうずうずと微動させているあたり、触りたいのか抱きたいのか。メルもそろそろ十八歳だし、赤ちゃん欲しいとか思ってたりするんだろうか。


「そーいえば、この子ってオス? メス?」

「アンタねぇ……人の子なんだからオスメス言わないの」

「女の子よ」


 呆れるセイディに続いてクレアが答えると、リーゼは「女の子!」と嬉しそうな声を上げた。


「じゃー魔女だな!? なんか髪赤いし、目も青いし、ローズみたいだ!」

「ゼフィラさんによると、魔女ではないみたいね」

「えぇー、そっかぁ……魔女じゃないんかぁ……でもなんか可愛いから何でもいいや!」


 リーゼは新しい仲間が増えることを歓迎しているようだ。あの子のことだから、そのうち家族として姉妹として認識し、可愛がるだろう。

 他のみんなも嫌そうな様子は全く見せておらず、歓迎ムードだ。端から心配はしていなかったが、この分ならみんな赤ちゃんとは好意的に接してくれるだろう。


「あ、あのっ」


 ふと室内に緊張した声が響いた。

 赤ちゃんに夢中だったみんなが一斉に振り返ったその先には、黒柴の子犬を彷彿とさせる獣人が二人立っている。今は二人とも可愛らしいメイド服姿だ。スカート丈は膝下まであり、きちんとエプロンもしている。全体的にふりふりとはしておらず、まさに使用人という感じの本格的な格好だった。


「あたしはニーナ、こっちはラスティなのです。これからこの船でご厄介になり――あ、その子の名前はエステルなのです。あたしたち共々、よろしくお願いします! です!」


 ニコル改めニーナは表情や声音こそやや硬いものの、口調ははきはきとしていて、深く腰を折る動きにはキレがあった。それなりに緊張してはいるようだが、それで良い具合に気が引き締められているようで、一段と利発そうな印象を受ける振る舞いになっている。


「よ、よろしくお願いいたします……。えっと、あの……炊事洗濯掃除はもちろん、身の回りのお世話もさせて頂きますので……な、何でもお言いつけくださいっ」


 一方のニコラ改めラスティは、姉とは対照的にぼそぼそとした口振りだった。最後は上擦った声で言いながら、あせあせとぎこちなく一礼している。緊張感が悪い具合に作用しているようで、あの夜のガッツはどこへやら、気弱そうで頼りなさげな幼女にしか見えなくなっている。

 ちなみに、二人の新しい名前は俺が考えた。二人からお願いされたので仕方なくだったが、名付ける以上は真剣に悩み抜いた。結果、二人の元主人の名前を取り入れることで、何とかそれっぽい名前にできた……と思う。


「あ、でも、基本的にエステルとローズ様を優先させて頂きますので、悪しからず……」


 などとぼそりと付け足し、ちらりと俺に熱い眼差しを送ってくるラスティ。

 ……俺は愛想笑いを浮かべつつ、そっと目を逸らした。


「ローズとクレアさんから聞いてるよ。わたしはメレディス、よろしくね」


 少女が優しく微笑むと、みんな次々に名乗って挨拶した。

 ルティは相変わらずぼんやりとした表情で「ぼくと同い年って聞いた。友達になる?」とも言っていて、サラは挨拶以上のことは何も言わず居心地悪そうに身じろぎしており、ウェインは「なんか女ばっかだな……」と少しうんざりしたような呟きを零している。

 この船の数少ない男性要員としては、どうせ増員されるなら異性よりも価値観を共有できる同性の方がいいのだろう。ハーレム状態のくせに贅沢な悩みだとは思うが、ウェインの性格を考えれば理解できないでもない。

 ま、安心しろや。

 この部屋の男女比率はお前が思っているほど低くないから。


「みんないい人そうで良かったのです……」

「うん……これなら何とかやっていけそうだね」


 みんなからの挨拶が一段落つくと、双子はそっと一息吐いている。背筋を伸ばして姿勢良く立ってこそいるが、肩肘から余計な力が抜けて、リラックスした様子だ。

 既に子供たち以外との面通りは済ませてあるようなので、これでこの船の全員から受け入れられたことになる。誰だって新しい環境には緊張するし、新生活には様々な不安が付き纏うものだから、とりあえず一安心といったところなのだろう。

 もし上司のデュークが一緒だったなら幾分も安心できたのだろうが、生憎と爺さんはこの場にいないし、これからドラゼン号に乗ることもない。いや、乗れないと言う方が正しいか。


「あ、飲み終わった? クレアあたしにも抱かせて!」

「まだ生後間もないし危ないから、抱くのはもう少し経ってからね」

「えぇー、じゃあほっぺた触ってみてもいい?」

「いいわよ。優しくね」


 リーゼは人差し指でちょんと軽くエステルの頬に触ると、「おぉー……やらわかい……」と感嘆の吐息を零している。サラは「柔らかいでしょ」と小声で突っ込みつつ、もみじのような小さな手に指先を近付けていた。


「あっ、握った……意外と強いわね」

「飲んだらまたすぐ寝るだろうし、今はそっとしておいた方がいいんじゃ?」

「まだげっぷしてないから、少しくらいならね」


 気遣わしげに尋ねるメルにクレアが微笑みを返すと、メルも恐る恐るといった動きで小さな手に触れ始めた。ルティとウェインも順番に優しく触れている。

 その様子をニーナとラスティは静かに見守っている。自分たちよりクレアの方が赤子の扱いには長けていると既に納得できているようなので、口うるさく何か言うつもりはないらしい。


「リーゼが生まれた頃を思い出すわね。そのリーゼがこうして赤ちゃんに触れてるなんて、何だか感慨深くなるわ」

「あたしもこんなちっちゃかったのか!?」

「当たり前でしょ、誰だって最初はこんなもんよ」


 クレアやセイディは早くも割り切っているのか、あるいは俺ほど複雑な気持ちがないからか、エステルちゃんに対して遺憾なく慈しみの心を発揮し、とても朗らかに接している。


「お姉ちゃん、どうかした?」


 みんなの輪に混じらず一人傍観していた俺に気付き、ルティが不思議そうな顔で見つめてきた。


「あ、いえ、べつに何でも……」

「じゃあ、こっち来て、一緒に赤ちゃん見よ」


 ルティに手を引かれ、俺も小さな命の前に立った。

 この赤子だけでなく、ニーナとラスティも、爺さんの犠牲の上に今ここにいる。いることができるようになっている。それをリーゼたち子供組は知らないし、詳細な事情は知らない方がいいので、今後も知ることはないだろう。

 メル以下の子供たちには《夜天の紅》の存在を伏せ、ニーナたち三人を迎え入れることになった本当の経緯を話していない。俺がゼフィラと夜遊びに出掛けた際、酔漢に絡まれていた双子を助けて云々かんぬん……という感じの適当な作り話で納得させてある。

 今なら婆さんの気持ちがよく分かる。無知が平穏をもたらすというのは事実で、子供たちに《夜天の紅》の話をすれば、きっと怖がるだろう。安心して平穏な日々を送りづらくなるはずだ。リーゼに至っては義侠心を発揮して未だ見ぬ連中を敵として憎み、最近は下火になってきた復讐心を激しく燃え上がらせかねない。

 大人たちが気を付けていれば問題ないので、子供たちには子供のうちしか経験できない無邪気な日々を過してほしい。大人になると、嫌でも世間の面倒事と向き合わないといけなくなるしね。


「……………………」


 小さな手にそっと触れると、先日の話し合いが思い出された。今回だけでなく、俺は今後もエステルと接する度に、あの老紳士の献身が脳裏を過ぎるだろう。そしてその度に、この子や双子のこともできる限り守ってやろうと思わずにはいられなくなるのだ。




 ♀   ♀   ♀




 造船所から高級ホテルの部屋に戻って、しばらく。

 状況が落ち着いて緊張状態から解放されたせいか、ふかふかのソファに身体を預けていると次第に眠気を感じるようになってきた。ニコルとニコラは赤ちゃんの様子を見ていて、ドライが用意した産湯で身体を綺麗にした後、事前に用意していたらしい産衣をニコルが自前のリュックから取り出し、着せていた。

 隣の部屋のベッドで眠っていたデュークが起き出してきたのは、そんなときだ。


「……これはいったい、どういった状況なのですかな?」


 誰に向けるでもなく呆然と尋ねながらも、爺さんの視線はローテーブルの上に向けられていた。天板に敷いた毛布の上で、真っ白い服を着た赤ちゃんがすやすやと眠っている。


「ひとまず適当に腰掛けなさい」


 ドライが淡々と、しかし有無を言わせぬ凛とした命令口調で応じると、爺さんはふらふらと歩いて俺の隣に腰を下ろした。と思ったらすぐに浮かせ、床に膝を突いて赤ちゃんを見つめる。


「……ニコル、お嬢様は?」

「……………………」


 テーブルの向こう側で床に座っていた幼女は悲しげに目を伏せた。

 爺さんはそれで全てを悟ったのだろう。何も言わず赤ちゃんの頬に触れ、背を丸めて静かに肩を震わせ始める。


「既に理解が及んだとは思いますが、ユスティーナ・マティアーシュは亡くなりました。亡骸は別所で我々が保管しています。返還して欲しければ、我々の要求を聞き入れなさい」


 情け容赦のない白装束の言い分に、デュークは「…………要求?」と酷く疲れたような声で呟いた。宿で会ったときは還暦過ぎの爺さんにしては元気そうに見えたが、今は年相応かそれ以上の老いが哀愁漂う背中から感じられる。


「貴様等が今宵見たこと、聞いたこと、全てを誰にも口外しないと誓いなさい。本来は殺して口封じすべきところですが、今回は特別に誓約のみで許します。我が神の温情に感謝しなさい」

「…………この子は、貴女が取り上げてくださったのですか?」

「いいえ、そこの二人と彼女です」


 いや、ゼフィラを忘れてるぞドライ。

 一応補足しておくかと思って口を挟もうとしたが、爺さんが振り向いて潤んだ双眸で俺の顔を見つめてきたものだから、出鼻を挫かれた。

 今はもうフェイスベールはしていないし、白装束も着ていないので、俺が誰か分からないかもしれない……ということもなく、爺さんは立ち上がって深く腰を折ってきた。


「ヌル様、この度は誠にありがとうございました」

「いえ、ニコラが凄く頑張ったおかげですよ。あとリナリアさんも」

「ち、違います!」


 姉と共に座り込んでいた幼女が突然勢い良く立ち上がった。可愛らしい顔は俯きがちだが、今にも泣き出しそうな面持ちには忸怩たる思いがまざまざと表れ出ていた。


「ボクは、ただ……ヌル様の言うとおりにしただけです。ヌル様がいなかったら、ボクもお姉ちゃんも、ユスティーナ様のお腹を切り開いて、この子を取り出すだなんて考えもしませんでした。デューク様が生きてるのだって、ヌル様が治癒魔法で助けてくれたおかげなんです!」


 確かに俺の行動によってデュークは助かり、赤ちゃんも無事誕生できたのかもしれない。しかし、後者に関してはゼフィラの助力が最も大きかった。彼女がいなければ、赤ちゃんは呼吸できず死んでいただろう。

 まあ、今この場にゼフィラはいないし、殊更に急いで補足しなくてもいいか。ゼフィラは爺さんが起き出す前にアインさんとどこかへ行ってしまったので、戻ってきたら爺さんに教えてやろう。


「……そうでしたか」


 デュークは胸元に手を当てると、今度はちらりと首から上だけ振り返り、目礼してきた。そしてすぐに顔を正面に戻し、労るような優しい口振りで双子に告げる。


「ですが、ニコラもニコルもお手伝いしたのでしょう? ならば、それほど卑屈になることはありませんよ。二人とも、よくやりました。ありがとうございます」

「でも、本当はボクが気付いて……やり始めなくちゃいけなかったのに……」

「あなたはまだ幼く、人としても使用人としても半人前です。ユスティーナ様が亡くなり、わたくしが倒れた状況下で、心挫けず動けただけでも大したものです。胸を張りなさい、ニコラ」


 爺さんはローテーブルを回り込み、幼女二人を抱擁した。

 それで二人とも色々と安心したのか、泣き出した。ニコルは声を上げて、ニコラは声を押し殺すように静かに、しかしどちらも爺さんに抱き付いて顔を胸元に埋めている。尚、今のデュークは気絶中にドライが着替えさせたので綺麗なシャツを着ている。


「二人とも、ヌル様に感謝はお伝えしましたか?」


 二人の嗚咽が落ち着いてきた頃、爺さんがこちらを見ながら腕の中の幼女たちに尋ねた。


「……はい、なのです……一応」

「ではもう一度、きちんとお伝えましょう」


 爺さんは抱擁を解き、二人に俺の方を向かせると、その場で土下座した。それはもう綺麗な姿勢で、あまりにも自然すぎる動きだったせいで、制止する間もなかった。幼女たちも少し遅れて爺さんと同じ姿勢になっている。

 

「わたくし共と赤子の命を救って頂き、感謝の念に堪えません。このご恩には必ず、命を懸けてでも報いさせて頂きます。本当に、ありがとうございました」

「「ありがとうございました」」


 俺は若干の心苦しさを覚えたこともあり、気圧されてすぐには言葉を返せなかった。しかし何か言わないと三人ともずっと土下座姿勢を続けそうだったので、おずおずと口を開く。


「あー、えっと、どういたしまして……もう大丈夫ですから、顔を上げてください」


 そう告げてから五秒ほど経ったところで、爺さんはすくりと立ち上がった。双子も続き、爺さんの両脇で直立したまま、姉の方は赤ちゃんを優しい眼差しで、妹の方は俺を熱い眼差しで見つめている。

 いや、なんか……ニコラの視線がほんと熱い。熱に浮かされたような、幼女らしからぬ色っぽい顔でじっと見つめてくる。その瞳にはどことなく狂信者共に通ずる何かが宿っているように感じられて、目を合わせるのが躊躇われる居心地の悪さがあった。


「それで、こちらの要求を呑むのですか?」


 ドライが改まったように問い掛けると、爺さんはそちらに向き直って頭を下げた。


「もちろんです。貴女様にも大変お世話になったようですね。感謝いたします」

「我々に礼は結構です」


 一応、ドライも自分たちが最初から助けていれば……などと罪悪感を覚えているのだろうか。目元からも声色からも心情は窺い知れず、完全に事務的な対応に徹している様子だ。


「――っ」


 ふと強烈な魔力波動を感じて、反射的にそちらに目を向けると、小柄な白装束が立っていた。瞬く間に溶け消えていく淡い白銀の燐光からしても、今まさに転移してきたところなのだろう。

 アインさんはこちらに歩み寄ってくると、手に提げていたエコバッグをテーブルに置いて、ニコルとニコラに向けてドライと同じような口振りで告げた。


「ほ乳瓶と山羊の乳です。赤子にはひとまずこれを与えておけば良いでしょう」

「あ、ありがとうございます!」

「あの、貴女様は?」


 爺さんが恭しさの滲んだ声で尋ねると、アインさんはドライを見て一言、「仲間です」と答えた。


「この子のために用意してくださったようで、ありがとうございます」

「いえ、礼には及びません」

「それで、あの……あちらに横たわっておられる青年も、貴女がたのお仲間ということでよろしいのでしょうか?」


 相手の顔色を窺うような慎重さを覗かせて、ちらりと部屋の片隅を見遣る爺さん。触れて良いものかどうか迷ったが故の言動なのだろうが、アインさんはその気遣わしげな態度を一蹴する。


「一応はそうです。寝ているだけなので気にする必要はありません」


 俺がこの部屋に来たときには既に、ツヴァイは俯せになって部屋の隅に転がっていた。アインさんかドライが移動させたのだろうが、ベッドに寝かせてやらないあたり、二人の野郎への態度が如実に表れている。


「話はどこまで?」

「現状を簡単に理解させ、今宵のことを口外しないと誓わせた」


 二人の白装束は手短に言葉とアイコンタクトを交わすと、どちらも同時に爺さんに視線を転じる。そしてアインさんが親しみのない使徒モードの態度で言った。


「貴様には三つの選択肢があります。一、どこか遠方の地にて四人で隠居する。二、適当な縁故を頼る。三、貴様の死で他三人の安全を得る。我々としては三を選択して頂けると有り難く思います」

「わたくしの死で、安全を……?」

「順を追って説明します」


 既に俺には関係なさそうな話になっていたが、一応聞くだけは聞いておくことにした。今すぐみんなの泊まっている部屋に戻って、ふかふかのベッドで眠りたい思いはあるが、デュークたち四人が今後どうするのかは気になる。

 それにアインさんとドライには色々と聞きたいこともあるしな。


「まず大前提として、我々に貴様等を助けることはできません。いくら懇願されたところで、貴様等を匿ったり、保護したりといったことはできません。その上で聞きなさい」

「はい。お願いします」


 アインさんの無慈悲な宣告を受けても、爺さんは文句一つなく頷いた。


「貴様等三人はこれまで以上に《夜天の紅》から付け狙われることとなるでしょう。理由は単純で、教祖クレサークが行方不明となったからです」


 ……言われてみれば、そうだよな。

 もう今の俺は上手く頭が回っておらず、アインさんのその言葉を聞くまでは現状を割と楽観的に捉えていた。しかし実際は全くそんなことはなく、デュークたちにとっては酷く絶望的な状況なのだろう。


「今後、《夜天の紅》はクレサークの捜索を始めるでしょう。奴が貴様等に接触すべく、ここローレルを訪れたことから、《夜天の紅》は教祖の失踪に貴様等が関与していると判断するはずです」

「……………………」

「結果、おそらく《夜天の紅》は総力を挙げて貴様等を捜します。貴様等を捕らえて尋問に掛け、何があったのかを聞き出すためです」


 双子幼女は黙って話を聞く爺さんを不安そうに見上げている。

 俺にはお気の毒としか言い様がない……。

 こうなった以上、もう俺に彼らを救うことはできないし、仮にできたとしても、みんなに少しでも危険が及ぶようなら力にはなれない。申し訳ないとは思うが、みんなと目の前の四人では天秤に掛けるまでもなく、俺にとっての優先度では天地ほどの開きがある。


「当然、情報を引き出された後は三人とも始末され、そこの赤子は《夜天の紅》の構成員にでも教育されるでしょう」


 あまりにも救いのない未来だった。

 きっと情報を引き出される過程で三人とも拷問されるはずだ。ニコルとニコラまで惨たらしく殺され、あまつさえせっかく生まれた赤ちゃんを取り上げられ、敵の一味として利用されるなど、あんまりだ。

 そうなるくらいなら、ニコルやニコラはもういっそ一思いに俺たちで殺してあげた方がいいとさえ思える。赤ちゃんだけなら《夜天の紅》も捜しようがないだろうから、俺たちで引き取ってやってもいいかもしれない。いや、せめてそれくらいはしてやるべきだろう。


「貴様等が捕らえられ、我々に関する情報が漏れるのは可能な限り避けたいところです。が、貴様等に重要な情報は何も知られていないため、それほど困りはしません。貴様等が望むのであれば、遅かれ早かれ《夜天の紅》に捕まるのを承知の上で、先ほど挙げた選択肢の一や二に賭けて頂いても構いません」


 アインさんの声からは同情の念など微塵も窺えず、ただただ無感情で淡々としている。俺にはそれを薄情だとは思えない。誰かがきちんと事実を教えてやらないといけないし、きっと彼女なら内心では辛い思いをしているはずだ。


「しかし、もし貴様がそこの二人と赤子の安全を確保したいのであれば、三を選ぶことです」

「……なるほど。そういうことですか」


 一人納得したように頷く爺さんに、アインさんは変わらぬ調子で説明を続けた。


「貴様だけ敢えて《夜天の紅》に捕まることで、連中に誤情報を与えるのです。早く殺して欲しいとさえ思わせられるような激しい拷問を課されるはずなので、成功させるには確固たる意志と覚悟を要します。更に、貴様は想像を絶する苦しみの果てに、必ず死にます」


 俺もようやく得心がいった。

 爺さん一人の犠牲で、幼い三人の未来を守れるのであれば、先ほど聞いた残酷な結末とは比べるまでもなく遥かにマシで、爺さん以外の三人にとっては希望に溢れてさえいる。

 だが、全ては爺さんの悲惨な死という犠牲があってこその話だ。


「貴様が上手くやり抜けば、三人の安全は確保されることでしょう」


 要するに、四人一緒に絶望的な終わりを迎えるか、一人の犠牲で三人を生かすのか、選べということだろう。人によっては仲良死こよ死を望むかもしれないが、大切な誰かを守ろうと奮闘する男であれば、選ぶまでもなく道は一つしかない。


「一日だけ待ちます。それまでによく考えてお――」

「いえ、その必要はありません。三を選びます」

「……デューク様?」


 案の定というべきか、当人は迷う素振りすら見せず即答した。

 ニコルはそんな爺さんに恐る恐るといった様子で声を掛けている。


「考えるまでもないことですな。お嬢様をお守りできなかった時点で、わたくしのこの命は終わったも同然なのです」

「で、でも今はこの子がいます!」


 慌てたように赤ちゃんを指差すニコルとは対照的に、ニコラはただじっと深く俯いている。どうやら妹の方は、もはや何を言っても無駄だと分かっているようだ。それどころか、覚悟を揺らがせるようなことを言えば、爺さんを徒に苦しませるだけだとすら思い至っているかもしれない。


「……そうですね。皆様のおかげで、お嬢様のお子は無事この世に生まれ出ることができました。叶うならこの子の成長を見守り、ニコルとニコラも一人前になるまで育て上げたかったですが、命を狙われていてはそうもいきますまい」

「で、でも……そんな諦めるみたいな……ずっと敵に見付からないまま、平和に暮らせるかもしれないのです! 諦めるには早いのですっ!」

「一連の件で、《夜天の紅》という組織の脅威が如何なるものか、身を以て実感しました。楽観的に行動して全てを失うことになってからでは遅いのです。確実に脅威を排しておけるのであれば、それに越したことはありませんよ」


 俺が同じ立場に置かれたら、この爺さんほど落ち着いていられるだろうか。拷問の末に殺されるという想像もしたくない未来から逃れたくて、ニコルみたいに淡い希望に縋り付きはしないだろうか。

 冷静に、客観的に考えれば、この状況下で大切な人たちを守るためには、自己を犠牲にすることが最も利に適っていて、これ以外の選択は愚行だと理解できる。しかし、実際その立場に置かれたとき、ここまで落ち着いた態度で、潔く決断できる奴はそういないだろう。


「この老いぼれの命一つで、三人が健やかに日々を過ごせるようになるなど、望外の幸福です。己の死で若者の未来が拓ける。老い先短いこの身にとって、これ以上の喜びはありませんな」


 爺さんに悲壮感は欠片もなく、むしろ本人の言葉通り嬉しそうに微笑んでいた。ニコルを言いくるめるための演技には到底見えず、本当に心の底からそう思っていることが伝わってくるほどの朗らかさだ。

 だからだろうか。


「……この子だけ」


 ニコラが小さく身体を震わせながら、我慢の限界といった様子でか細く呟き出した。


「この子だけ……ボクたち三人とは無縁の誰かに託せば、この子は安全になるはずです。それでボクたち三人はどこかで隠れて暮らしましょう。それならデューク様が死ぬ必要なんてないはずです……」


 確かに、それは妥協案としては悪くないのかもしれない。

 だが爺さんの穏やかな微笑みは小揺るぎもせず、彼は赤子を抱き上げて、優しく尋ねた。


「ニコラ、この子は女の子ですかな?」

「え……はい、そうです」

「やはりそうでしたか。お嬢様がお生まれになった頃の姿とそっくりです。きっと将来はお嬢様に似た絶世の美女になられるでしょうな」


 もう見るからに相好を崩して、ジジ馬鹿丸出しな台詞を堂々と口にしている。


「お嬢様は、生まれてくる子が男の子ならユリウス、女の子ならエステルと名付けると仰っていました。この子の名はエステルです」


 そう言って爺さんはその場に跪き、ニコルとニコラを順番に見た。その目に宿る優しさは赤ちゃんに向けていたときと変わらぬ温かさを湛えており、孫に対する爺さんそのものだ。


「ニコル、ニコラ。わたくしは他ならぬあなたたち二人に、エステルの成長を見守っていってほしいのです。わたくしたちと無縁の誰かに託すなど、とんでもない。わたくしが最も信頼するあなたたちでなければ、とてもではありませんが、安心して任せられませんよ」

「……デュークさまぁ」

「でも、それだとデューク様が……」


 ニコルは感極まったように再び涙を流し始める。ニコラも涙目になりながら呻くように反論しようとしたが、上手く言葉が続かないようだ。


「仮にわたくしたち三人で隠居したとしても、きっと《夜天の紅》に捕まります。わたくしはあなたたちが拷問されるなど、考えたくもありません。ましてやこの子が、両親を死に追いやった組織の走狗となるなど、もってのほかです」


 見方によっては、この状況は爺さんより幼女たちの方が辛いだろう。爺さんはもう十分に生きた上で、意義ある死によって満足して逝けるが、双子の方はその想いを負って生き続けていかねばならないのだ。


「ヌル様」

「あ……はい」


 唐突にその穏やかな微笑みを向けられ、俺は思わず姿勢を正した。


「どうやらわたくしは貴女様のご恩に報いることができそうにありません。誠に申し訳ございません」

「いえ、そんな、私のことより、今はご自分のことを――」

「ですが、わたくしの代わりに、ニコルとニコラの二人に恩返しをさせて頂けないでしょうか」


 あまりに急な話の流れについていけず、俺がまごついている間に爺さんは告げてきた。


「この二人を貴女様の使用人として、仕えさせて頂けませんか」

「……え?」

「まだどちらも半人前で、今は二人でようやく一人前といったところですが、あと数年もすれば必ずや優秀な使用人となります。それまでの間は多少ご迷惑をお掛けするかもしれませんし、二人はエステルの面倒も見ねばなりませんので、融通が利かぬこともあるかとは思います。しかし、将来性という面においては間違いなく、これ以上なく期待できる人材であると自信を持って断言いたします」


 眠気はとっくに吹っ飛んでいるが、畳み掛けるような長広舌に圧倒され、思考が上手く働かない。疲労感も忘れるほどの展開なせいで、単純に頭も心も追い付かなかった。


「必ずお役に立ちます。どうか二人を貴女様に仕えさせて頂きたい。どうか、どうかお願い申し上げます」


 ニコルとニコラも最初は口をぽかんと開けて驚いている風だったが、デュークが深く頭を下げると、二人も追従して「「お願いします」」と腰を直角近くにまで折った。


「……………………」


 なんかもう、一周回って冷静になった。

 というより、よく考えればこの展開は意外でも何でもない。

 むしろデュークが死を選んだ瞬間から予想できたことだったろう。爺さんの立場になって考えれば、今この状況で取り得る最善の行動をしているに過ぎないのだ。 

 俺とデュークは今夜出会ったばかりだし、互いに人柄もよく知らないが、爺さんの方は俺がただの幼女でないことを見抜いているはずだ。見た目にそぐわぬ知性の持ち主であることや、上級魔法を無詠唱で行使できる優秀な魔女だということ、そしてゼフィラという強すぎる味方がいることなど、デュークにとってこれらを兼ね備えた者は非常に魅力的かつ好条件に映ったことだろう。

 ニコルとニコラ、そしてエステルの三人には必ず一緒に生きていってほしい。爺さんはそう思っているはずで、だからこそ三人一緒に生きていける環境を求めている。しかし双子はまだ子供で、一応は使用人としての職能を有しているようだが、その幼さから仕事ぶりが未熟であることは想像に易い。赤子という厄介なコブの付いた見習いメイド二人を雇ってくれるところはまずないだろうし、あったとしても、ろくなところではないだろう。三人が人並みの生活を送れるか否かという点を考慮すれば、雇い主の人柄やステータスは決して妥協できないはずだ。たとえ善人に拾ってもらえたとしても、食うのにも困る極貧環境では三人の健康状態や成長具合に悪影響が及ぶことは考えるまでもない。

 その点、デュークから見た俺という魔女は、能力と人脈を兼ね備えているのみならず、魔石灯や魔剣といった高価な品々を所持し、こんな高級ホテルの一室に泊まれるほどの資金力まで有した、裕福かつ有能な人物に見えるはずだ。俺は曲がりなりにも三十六歳とか自称しちゃっているし、亡くなった母体から赤子を取り出そうとするなど、並の幼女には実行できないことをしてしまっている。もしかしたらデュークは俺を本当に大人だと見做しているのかもしれない。それは強ち間違ってはいないというか、正鵠を得ている。

 仮に俺が見た目通りの幼女であったとしても、将来有望であることは間違いないと確信しているはずだ。ただでさえ、世間一般の常識として魔女は高給取りだし、魔女として生まれればそれだけで人生勝ち組みたいな風潮がある。それを抜きにしても、俺やアインさんは《夜天の紅》と敵対する何らかの組織の一員だとでも考えているだろうから、ニコルたちの安全面は全く問題なく、この豪華な部屋にいる時点で資金力の豊富な組織であることは察せられる。

 しかし、先ほどアインさんは匿ったり保護したりはしないと断言した。デュークもそれに頷いた。だからこそ、俺という個人に、使用人として仕えさせてくれと頼んでいるのだろう。本来、使用人とは主に仕える見返りとして庇護を得る者であり、これは雇用関係だ。前世にあった御恩と奉公のように、相互の利害によって成り立つ互恵的な関係なのだ。

 デュークは俺たちの情けに縋って、一方的に三人を守ってくれ養ってくれとお願いしているわけではなく、使用人のご奉仕という見返りをきちんと提示している。俺に恩返しするためというのも嘘ではないだろうが、口実という面の方が強いはずだ。

 ただ単純に二人を守ってくれ雇ってくれと同情心に訴え掛けられるより、恩返しというオブラートに包まれてお願いされる方が無碍にしづらくなる。ただしこれは相手がここまで察せられる知性の持ち主でなければ逆効果になりかねない。

 これら全てが計算ずくだとすれば、なかなかにしたたかな爺さんだ。老獪というほどあくどくはないが、心理的なツボを押さえた賢いやり方だろう。年の功は伊達ではないということか。


「ニコルとニコラを使用人に、ですか……」


 悩ましげに呟きながら、ちらりとアインさんとドライを見遣る。二人は俺と爺さんたちを完全に傍観しており、口を挟むつもりはないようだ。

 俺は三人の頭頂部をソファに座ったまま眺めながら、可能な限り事務的な態度で続けた。


「私個人としては、そのお願いを聞き入れるのもやぶさかではありませんが、とりあえず確認させてください」


 デュークは顔を上げ、真っ直ぐに真摯な眼差しで見つめてくる。俺はそれを正面から受け止めた上で、怪訝さを隠さず切り込んだ。


「デュークさんは《夜天の紅》に対して、ニコルとニコラはもう死んだみたいな誤情報を信じ込ませることで、今後二人が連中から狙われないようにするんですよね?」

「はい。どれほどの苦難であろうと、屈することなくやり遂げて見せます」

「でも、そうなる保証はない」


 情けは掛けず、容赦もせず、厳然たる事実をぶつけた。


「私にも家族がいます。二人が使用人となれば、私だけでなく、みんなと一緒に生活することになるでしょう。もし貴方が失敗し、ニコルとニコラが《夜天の紅》に目を付けられたままとなったら、私の家族まで巻き添えを食らうことになります」

「仰る通りです。ですがわたくしには、信じて頂きたいとお願いするより他にありません」


 たぶん、間違いなく、この爺さんなら如才なくやり遂げるとは思う。

 しかし絶対ではない。


「…………今日は色々あって疲れましたし、少しゆっくりと考えさせてください。家族にも相談しないといけませんから、どのみちこの場で即答はできかねますし」

「もちろんです。お待ちする間、こちらに滞在させて頂いても?」


 後半は俺にというより、アインさんたちに向けた問いだった。

 白装束の小さい方はこくりと頷きを返す。


「この部屋は建国記念祭が終わるまで押さえてあります。それまでの間であれば、面倒を見てあげましょう。ですが、この部屋から一歩でも出ないことが条件です。まだこの街に《夜天の紅》の残党がいないとは限りませんので」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

「では、また明日――今日はもう三日なので、明日の四日にまた来ます。返事はそのときに」


 俺がソファから腰を上げると、跪いていた爺さんも立ち上がり、改まったように一礼してきた。


「はい。何卒よろしくお願いいたします。本日はありがとうございました」

「「ありがとうございました」」


 三人の挨拶に手を挙げて応じ、俺は背を向けて歩き出した。

 ひとまず廊下に出て、ここが七〇二号室であることを確認しておく。それからぶつぶつと詠唱し、〈瞬転リィロ〉でみんなの泊まっている部屋に戻った。転移先は自分のベッドにしたので、そのままバタンキューと眠りに就こう。

 そう思ったが、それは実現しなかった。


「ローズ、こんな時間にどこへ行っていたの?」


 クレアがいた。

 ベッドの並んだ寝室は常夜灯でうっすらと視界が利く。だから彼女とセイディが二人並んで、隣の部屋から持って来た椅子をベッド脇に並べて腰掛けている様子も問題なく確認できる。ついでにクレアが微笑み、セイディがしかめっ面をしていることも。


「え、えっと……少し、お手洗いに……」


 予想外の事態は不意打ちも同然で、俺はしどろもどろな反応しか返せなかった。


「へぇ、そーなのー。何時間もずっと便器の上で気張ってたの? 酷い便秘ねー、こりゃ浣腸してやった方がいいかしら?」

「……………………」


 か、浣腸は嫌でござる……。

 俺は前の穴も後ろの穴も清らかでいたいんだ。


「あなたがいないことに気付いてから、ずっと待っていたのよ?」

「どこほっつき歩いてたのかしらねぇ、この不良娘は?」


 セイディは普通に怒ってる様子だからまだいいが、クレアはさっきから微笑みを崩さない。とても優しそうにしか見えないのに、とても怖い。それに心配されているのも伝わってきて、そっちの方が堪えた。


「ゼフィラに捜してもらおうと思って船まで行ったら、あの銀髪娘までいないし、二人で何してたわけ? 夜遊びでも教えてもらってたのかなぁ?」

「あー、その……例の使徒に拉致られまして……」


 ニコルとニコラの件もあるし、二人にいらぬ心労を掛けさせて申し訳なくもあったため、正直に話すことにした。

 リーゼたちを起こすと不味いので、とりあえず隣の部屋に移動し、この夜に起きたことを一通り話す。ただし転生者に関する下りはカットさせてもらった。

 クレアとセイディはすっかり怒りを鎮めて、逆に気遣わしげな優しさだけを向けてくれて、それが少し心苦しかった。


「――というわけです。心配させてすみませんでした」

「いえ、ローズは悪くないわ。悪いのはドライとかツヴァイっていう人たちよ。どうしてこうローズに付き纏うのかしらね……」


 クレアは珍しく不機嫌そうというか、はっきりと不快感を美貌に表出させている。美女の怒った顔って迫力あって怖いんだよな……さっきの微笑みといい勝負だよ。


「いえお姉様、それより赤ちゃんですよっ。いやドライってのには後で部屋まで行って文句言ってやるけど、赤ちゃん! ローズの大人顔負けな言動にはもう慣れたつもりだったけど、妊婦のお腹掻っ捌いて取り出したってアンタ……」

「その赤ちゃん、ちゃんと産湯に入れたりした? 健康そう? 赤ちゃんはほとんど鼻で呼吸するから、鼻づまりは小まめに確認しないといけないのよね。そういうことデュークって人たちはちゃんと分かってそうだった?」


 二人は使徒とか鬼人とかより、赤ん坊の方が気になるようだった。幼女たちが帝王切開して取り上げたと聞けば、赤の他人でも心配になるだろう。


「あの、明日返事をしに部屋まで行くので、そのとき一緒に行って色々確認しましょう」

「あ、そうですよお姉様、それでその双子と赤ちゃんどうします? なんか使用人とか言ってますけど……」

「……そうね……困ったわね。他にあてがなくて、本当に《夜天の紅》って組織から狙われなくなるなら、うちで面倒見てあげてもいいとは思うけれど……そう簡単に決められることでもないしね」


 クレアは思案げに目を伏せて呟いている。それは感情に支配されたが故の言動には見えず、あくまでも冷静な様子だった。にもかかわらず、絶対にダメと一蹴しないところからして、見捨てたくないと思ってはいるのだろう。

 これは勝手な想像だが、もし仮に俺が出産に関わらなかったら、クレアも頭を悩ませなかったと思う。エステルが既に生まれていて、今回の件で母親のユスティーナが死んだってだけなら、あとは残された双子と爺さんたちで何とかすべきで私たちは関わるべきではない……という感じで早々にファイナルアンサーとなっただろう。あるいは赤ちゃんだけなら引き取ってあげるかもしれないが、乳児を育てるってのはそう容易いことじゃない。ただでさえ今は船旅の途中なのだから、尚更だ。

 しかし、他ならぬ俺が死んだ妊婦の腹を割いてまで、小さな命を助けてしまった。クレアとしては、俺がせっかく助けた命を見捨てるような真似はしたくないのだろう。もしリーゼが同じようなことをしたなら、俺だってリーゼが頑張って助けた赤ちゃんを無碍には扱えない。

 俺個人としても、エステルのことはできれば面倒を見てやりたい。だって、もし俺が何もしなければ、死んでいたかもしれない命なのだ。あのときは必死で深く考えていなかったけど、俺にはエステルをこの世に誕生させた責任ってやつがあるはずだ。全責任ではなくとも、何割かは確実にある。その責任を果たせないなら、最初から見殺しにすべきだったのだ。

 誰かの支えなしには生きていけないような者を死地から救い上げたなら、その後もせめて、支えが必要なくなるまでは面倒を見続けねばならない。それをしないというのなら、自分が助けた命を自分の都合で殺すようなものだ。一度は相手に希望を抱かせておきながら絶望させ、余計に傷付けて苦しませるなど、悪人も同然の身勝手さだろう。誰かを助けることと傷付けることは紙一重であり、助けた後も面倒を見るまで含めてが誰かを救うということだ。その覚悟もないのなら、安易に人の命を助けるような真似はすべきではない。

 ……というのは極論にしても、命ってのはそれくらい重いものだ。少なくとも、そう簡単に突き放せるほど軽くはない。


「ま、何はともあれ、まずは直接話を聞いてみるのが良さそうですね」

「そうね」


 美天使が仕方なさげな溜息を交えて言うと、大和撫子な美女は同意を返した。


「あ……話を聞きに行くときは一応顔を隠して、偽名を名乗った方がいいと思います。エステルたちを引き取るにせよ、引き取らないにせよ、デュークさんが《夜天の紅》に私たちの情報を漏らさないとも限りませんし」

「分かったわ。とりあえず私とセイディの二人で今から行ってみるから、ローズは寝てなさい。そろそろ夜明けだし、みんな起きて騒がしくなると思うから、船の方がいいと思うわ。というより、今は念のためイヴさんかユーハさんに近くにいてもらって。あとトレイシーにこの部屋まで来てくれるように伝えてちょうだい」


 そういうわけで一旦解散となり、俺はドラゼン号に転移した。今更だけど、やっぱ〈瞬転リィロ〉ってかなり便利だね。便利すぎてついつい使っちゃうから、早く無詠唱化しないとな。フェレス族訪問とかは無詠唱化してからにした方がいいかもしれん。

 船の夜番をしていたトレイシーに軽く事情を話して高級ホテルに向かってもらい、俺は船室のベッドに横になった。イヴとユーハにも話を聞いてもらっていたので、クレアに言われたとおり二人に側にいてもらうことにした。

 今後どうするのか気になって眠れそうにないと思っていたが、意外とあっさり意識が落ちて、ぐっすりと眠れてしまった。極度の緊張感は自分が思っていた以上に心身を疲弊させていたようで、目覚めたときには昼過ぎだった。船に戻ってきていたリーゼたちと朝飯代わりの昼食を摂って、適当に遊んで、おやつを食べて……その日はのんびりと過した。

 翌日、翠風期第三節四日。

 デュークたちのもとには日暮れ頃に訪ねた。俺だけでなく、クレアたちも一日以上は間を置いて、冷静に考える時間が必要だった。

 そうして、俺とクレアとセイディ、それにゼフィラの四人でデュークたちの泊まる高級ホテルの一室まで徒歩で向かい、彼らと対面した。


「三人の面倒を見ましょう」

「ありがとうございます」


 クレアがまず端的に結論を告げると、デュークは深くお辞儀した。本日の彼は黒い礼服にその身を包んでおり、見るからに執事っぽい。きっと一張羅としてリュックに入れていたのだろう。

 そんな如何にもな老紳士の真っ白い頭が上がる前に、クレアは「ただし」と付け加えた。


「もしニコルちゃんとニコラちゃんが《夜天の紅》という組織に狙われていることが分かったときには、二人を放逐します。それでもよろしいですか?」

「もちろんです。しかし僭越ながら、万が一にもそのような事態になることはありませんと断言させて頂きます」


 デュークはやけに自信満々に、そして誇らしげに胸を張って続けた。


「マティアーシュ家にお仕えして五十五年、このデューク最後のご奉仕として、必ずや委細抜かりなくやり遂げて見せましょう」


 堅苦しい声で厳かにそう宣言したかと思えば、爺さんは一転して気負いなく相好を崩した。


「ですから、皆様はどうか安心して、健やかに日々をお過ごしになってください」


 それはあまり真剣味の感じられない好々爺然とした言動だったが、だからこそ信用できる。この爺さんはニコルとニコラ、そしてエステルの安寧のためなら、まさに死力を尽くして三人の未来に立ちこめる暗雲を払いのけるだろう。

 クレアもデュークの人柄を見てそう判断したからこそ、三人を引き取ることにしたはずだ。俺たちはここで三人を見放したところで何らのデメリットも被らず、そのくせ引き取れば少なからぬリスクを背負うことになる。

 とはいえ、デュークには俺たちがどこから来てどこに行くのかは何も知らせていないし、クレアたちは本名さえ告げていない。それにニコルとニコラには今後改名してもらうので、目立つことなく大人しく生活していれば、たとえデュークがゲロっても身バレする危険性はほとんどないはずだ。


「アインさんたちは《夜天の紅》がニコルちゃんたちを捜していることに気付いたら、必ず連絡をください。いいですね?」

「そう念押しされずとも承知しています」


 白装束たちはクレサークの失踪による影響のほどを監視していくようだし、元から《夜天の紅》の動向は探っていたようなので、危機の予兆は見逃さないはずだ。たぶん、きっと、おそらく……。今回教祖が動くことには気付けていなかったみたいだけど、今度は大丈夫だと思いたい。いやマジで頼むよ。

 一応はそういう保険をかけられるため、クレアも僅かとはいえリスクを負うことを容認したのだろう。それにニコルたちを引き取ることによるメリットが何もないわけではないのだ。

 ニコルとニコラを使用人として扱き使える……という点は、クレアなら考慮していないだろう。俺たちは館で暮らしていた頃も、最近の船上生活でも、炊事洗濯掃除などの家事は自分たちでやるべきだという方針を採っているため、ニコルとニコラが彼女ら自身の立場をどう思っていようと、みんなは二人を使用人扱いすることはないはずだ。

 だから二人には単純に、リーゼたち子供組の新しい友達という役割しか期待していないと思う。俺たちはどこの国にも属していない魔女で、《黄昏の調べ》という脅威や国家組織からの勧誘といった面倒なしがらみがある以上、親しい友達を作って継続的に付き合っていくことをしづらい身の上だ。だが、多くの他者と関わり合うことは人として成長するためには必要不可欠である。

 俺たちにとって秘密を守ってくれる友人は貴重で、得難い存在といえる。ニコルとニコラは間違いなく、拾ってもらったという恩義を感じるはずなので、裏切る可能性が限りなく低い。だから俺たちと長期的に深く付き合っていける友人としては非常に都合が良いのだ。

 赤ちゃんのエステルにしても、面倒を見るのはかなり大変だろうが、それに見合うだけのメリットはある。子供たちにとって、自分たちが守ってやらねば生きていけない子がいるという環境は、間違いなく情操教育に良いはずだ。特にリーゼにとっては絶大な効果を期待できる。エステルの面倒を見させることで、人の命の尊さを身を以て実感させられるのだ。その経験という記憶を忘れない限り、赤ちゃんとの触れ合いで養われた道徳観は一生残り続けるだろう。殺人はいけないことだと、意義の伴った教訓として心に根付かせることができるはずだ。

 クレアは完全に善意から三人を引き取る決断をしたわけではなく、十分な見返りを期待できると思えたからこそ、今回の話に乗ったのだ……と、俺は勝手にそう推測している。

 実際に尋ねて確認しようかとも思ったけど、たぶん俺の情操教育のためでもあるだろうから、クレアとしては当の幼女から小賢しい打算的思考を指摘されたくはないはずだ。俺としても、可愛げのなさ過ぎる幼女だと思われるのは避けたいところだった。


「ニコル、ニコラ」


 デュークの左右斜め後ろにそれぞれ控えていた二人は、名を呼ばれて改まったように姿勢を正して直立した。二人とも爺さんのように正装しており、見るからにメイドといった格好をしている。

 デュークは俺たちに軽く一礼してから背を向けた。


「エステル様を頼みましたよ」


 その場に跪いて黒柴っぽい幼女姉妹と向き合い、二人の肩にそれぞれ手を置いている。


「立派な淑女となれるよう、二人で正しく教え導くのです。しかし、甘やかしてはなりませんぞ。子爵家のご令嬢としてではなく、ただのエステルとして接しなさい。身の回りのお世話はほどほどにして、自分でできることは自分でさせなさい。将来、何があっても一人で生きていけるだけの心構えを身に着けさせるのです」


 そう告げる口振りは至極真面目で、部下に対する上司の雰囲気だ。孫に対する爺さんのような和やかさはなく、こちらにまで緊張感が伝わってくるほど引き締まっている。


「エステル様のお世話だけでなく、ヌル様たちにはきちんとご奉仕しなさい。彼女らの厚意に甘え、ただ養って頂くのではなく、お仕えしお役に立つことで、主の庇護を得るのです。働かざる者食うべからず。エステル様の分までしっかりと働きなさい」


 これは見せしめというか、俺たちに対するポーズでもあるのだろう。ニコルとニコラにただ言い聞かせるのではなく、俺たちの前で行うことで二人に強い自覚を促すと同時に、俺たちにも二人を使用人として扱うよう暗に告げているのだ。


「ニコル、あなたは何事にも精力的に取り組める働き者です。その調子で怠けることなく、皆様にご奉仕していきなさい。その上で、きちんと敬語を使いこなせるようになりなさい。興奮すると口汚くなる癖は直して、いつでも最低限の礼節を保っておける落ち着きも身に着けなさい」

「はいなの――はいで――わかった、りました……」

「かしこまりました、です。精進なさい」

「……かしこまりました」


 ニコルは神妙な面持ちでぺこりと頭を下げている。

 正直、俺はこの子たちを使用人として扱うことには抵抗がある。年下の可愛い幼女を顎で使うとか、なんか鬼畜っぽくて嫌なんだよな。でもメイドさんにご奉仕されたい男心は確かにあるので、悩ましいところだ。


「ニコラ、あなたは落ち着きがあって、よく周りを見ることもできますが、些か積極性に欠けています。使用人は命令されたことだけしていれば良いというものでもありません。主の望みを察することができたなら、叱られるかもしれないと怯えず、自分から動き出すことも時には必要です。この辺りは経験がものを言うので、失敗を恐れないで、まずはやってみなさい。若く未熟な今のうちしか、失敗を大目に見て頂けませんからね」

「かしこまりました」


 ニコラは気弱そうな可愛らしい顔をきりりと引き締めて、綺麗に一礼した。こうして双子を見比べてみると、妹の方が大人しそうだが優秀そうに見える。


「ヌル様」


 デュークは立ち上がると、俺のすぐ前までわざわざ歩み寄ってきた。


「あの子らには最低限の教育を施してはありますが、何分まだ八歳ですので、至らぬ点も多々あります。ですが素養はありますので、何か粗相をしたとしても反省を促し、適切に教育して頂ければ、将来は必ずやご期待を裏切らぬ働きをする使用人となります。ですからどうか、寛大なお心で接し、長い目で見守って頂ければ幸いです」

「それは……もちろん。見放したりはしないので、大丈夫です」


 なんか凄く恭しい感じに言われたので、思わず頷いたけど……。

 なして俺にだけ向けて言いますのん?

 それクレアに言うべき台詞とちゃうん?


「ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします」


 少し疑問に思うことはあったが、今は些細なことを尋ねるより、俺にはこの爺さんに言っておくべきことがある。


「デュークさん、私の本名はローズです」


 大切な誰かのために、想像するのも恐ろしい死に方を自ら選び、自己犠牲によって三人を救わんとするこの老人は尊敬に値する男だ。そんな人と最後まで偽名の関係を続けるなど、どうにも納得できなかった。

 だから、クレアの許可を取って、きちんと名乗っておくことにした。デュークにとって大切な子たちを引き受けるのだから、せめて俺たちのうち誰か一人くらいはきちんと本名を告げて、素顔で向き合っておきたい。今更だろうが、それが誠意というものだろう。

 他ならぬ俺であれば、もし仮に爺さんが拷問に屈して情報が漏れたとしても、特に問題にはならない。如何にもな容姿と名前の魔幼女など、《夜天の紅》も真偽を見極められないだろうし、ローズという名の魔女など世界規模で見ればそれなりの数がいるはずだ。俺はまだ会ったことないけど、いつかは同じ名前の魔女と出会うこともあるだろう。

 そういった感情的な理由とは別に、ここで俺が本名を名乗っておけば、爺さんもより一層覚悟を固めて事に臨めるはずだという打算も一応ある。絶対にエステルたちに繋がる情報を漏らしてはならないと強く思わせられるはずだ。

 これはデュークを信じていないが故というより、俺なりの激励であり餞別だ。


「……なるほど。そうでしたか」


 爺さんは何か眩しいものを前にしたかのように目を細め、穏やかに微笑んだ。そしてその場に跪くと、静かな眼差しで俺の目を見つめてくる。


「貴女様が自ら仰っていたように、まさに聖神様に祝福されておりますな。ローズ様、どうかこの老骨めに、御身の大いなる加護にあやからせて頂けないでしょうか」


 すっと左手を差し出されたので、俺はその皺の目立った大きな手を握った。硬く乾いていて、しかし温かな、働き者を思わせる手だ。

 デュークはしっかりと握り返してくるのみならず、右手を添えて頭まで下げてきた。


「ローズ様のような方が主人であれば、ニコルとニコラも安泰でしょう。どうか末永くお側に置いて頂ければ幸いです」


 …………ん?

 え、いや……さっきも少しおかしいとは思ったけど……え?


「あの、つかぬことをお伺いしますが、ニコルとニコラって私の使用人なんですか?」

「何を今更。つい昨日、そうお願い申し上げたではありませんか」


 まあ、うん。

 そうだけどさ。

 でも、もう今この場にはクレアもセイディも、ゼフィラだっているんだし、べつに俺でなくとも良くない?

 ……と、思わずそう口にしかけたが、ぐっと呑み込んだ。


「そ、そうでしたね……でも、二人は私の家族とも一緒に生活することになるわけですし、形式上のこととはいえ、主人にするならこちらの女性の方が良くないですか? 私の保護者でもありますし」

「い、嫌です!」


 これまで無駄口は一切叩かず静かに佇立していた幼女が突如として叫んだ。


「ボクのご主人様はローズ様がいいですっ!」

「……そ、そうなんですか」


 凄まじい熱視線と語気強く言い切る声に圧倒され、そう呟くことしかできなかった。

 すると、未だ握手してきたままの爺さんが微苦笑を零し、老執事の態から一転して好々爺の顔を覗かせる。


「申し訳ありません。形の上だけでも、貴女様が主人ということにして頂けませんか。望む主に仕えたいというあの子の気持ち、同じ使用人として無碍にはできず……」

「……まあ、そこまで言うならいいですけど」

「ありがとうございます」


 え、何? どういうこと?

 ニコラちゃんはそんなに俺にお仕えしたいの?

 そこまでの情熱があるなら、おじさんもご主人様として頑張っちゃうよ? 美幼女メイドにあれこれ命令しちゃうよ? いいの本当に? ええのんかい?


「リナリア様には大変お世話になりました。ありがとうございました」


 デュークは妄想に耽る俺の手を放して立ち上がり、ゼフィラに挨拶していた。

 それから爺さんはクレアやセイディに、ニコルとニコラとエステルのことを改めて頼み込み、アインさんとドライにも頭を下げていった。

 それらが一段落付いたところで、俺も素晴らしい妄想を一旦切り上げて、意識を目の前に戻した。


「それでは、短い間でしたが、ローズ様方とはこれでお別れとなります。この度、皆様には大変お世話になりました。最後に今一度、感謝の言葉を述べさせて頂きます。誠にありがとうございました。そしてこの子らのこと、どうかよろしくお願いいたします」


 さすがにもう土下座はされないが、最敬礼で謝意を表明された。

 ニコルとニコラは明後日、アインさんが〈瞬転リィロ〉でドラゼン号まで送り届けてくれることになっている。だから、デュークとはこれでお別れだ。とても短い付き合いだったが、もっと仲良くしたいと思えるような、いい爺さんだった。

 この後、彼は孫のような子供たち三人と一緒に、最後の時間を過すようだ。きっと双子幼女にとっても大切な、思い出に残るひとときとなるだろう。邪魔者はさっさと退散するに限る。


「では、私たちはこれで……ご武運を」


 という台詞が適切かどうかは分からなかったが、心を込めて告げておいた。

 爺さんは穏やかに微笑みながら低頭し、見送ってくれる。


「――あぁ、そういえば一つ忘れておりました」


 俺たちが扉から廊下に出たところで、デュークが思い出したように声を掛けてきた。俺たち四人は振り返り、一応廊下に誰もいないことを確認してから、視線で爺さんに先を促す。


「念のため、きちんと言葉にしてお伝えしておこうと思っていたのです。ローズ様やリナリア様のように聡明な方々であれば、既に見抜かれていることとは思いますが――」


 そうして、デュークは俺に残酷な真実を告げてきた。

 それがあのジジイと言葉を交わした最後のときだった。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] もしかして姉妹じゃなくて姉弟だったとか?
[良い点] 残酷な真実とは……… ローズのハートがチクチクしちゃう。 [気になる点] 百二十三話で誰が船に戻って誰がホテルに泊まったかの情報が欲しいと思いました。 何人かが一緒のベッドに寝て全員ホテル…
[良い点] デュークじいさんで長編映画が一本作れるぐらい濃いストーリーです。 [一言] タイトルの 最後のご奉仕 読み終えた後これ以上ないぐらい 素晴らしいタイトルで今も感慨にふけっています。
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