第百二十六話 『純白のローブは、少女の愛と血に染まる……』★
「――ぅぐ」
ホワイトアウトしたような視界に一瞬で色が戻った。
それと同時に全身を衝撃が襲い、何事かと反射的に身構える。
が、今まさに絨毯の上に倒れ込んでいる状況からして、単に着地に失敗しただけだとすぐに気付いた。転移する際、ゼフィラの小脇に抱えられていたせいだ。
「いい加減渡せっ、君のような変態にそれを持つ資格はないんだ!」
「これはわたくしのだと言ってるでしょ! 何やかんや理由を付けて人のもの奪おうとするんじゃないわよっ!」
「や、やめてください二人ともっ、落ち着いてください!」
どこからか耳に届く声は何やら騒々しく、剣呑な状況なのが窺い知れる。
とりあえず軽く見回す限り、間違いなくここは高級ホテルの一室で、転移は無事成功したらしい。調度品など部屋の細部から、ここがみんなの宿泊している部屋でないことは見て取れた。
俺はドライと話をした部屋が何号室なのか知らない。この部屋がこのホテル内のどの位置にあるのか分からないまま、ただこの部屋を強く思い浮かべただけだが、きちんと転移できた。つまり〈瞬転〉の行使に詳細な位置情報は必要ないのだろう。まだ色々と検証を重ねないことには断言できないので、追い追い実験しないといけないが。
「あっ、こら掴むんじゃないわよ破れるでしょ!」
「そう思うなら放せばいいだろう! これはみんなの共有財産として僕が責任をもって管理する!」
この言い争うような声はいったい何なんだ。
しかもなぜかクラード語だし。
「とか言って単に自分が欲しいだけでしょっ、このむっつりすけべ!」
「さっきまで雌豚のように発情していた君にだけは言われたくないねっ!」
俺は今ソファとローテーブルの間の床にいて、声はソファの向こうから聞こえてくる。どことなく聞き覚えのある男女の声だし、痴話喧嘩めいた雰囲気なので、危機感はあまりない。
それでも念のため警戒し、俺はソファの座面に上がると、背もたれからちらりと顔を覗かせて様子を窺った。
「言いがかりはよしなさいっ、わたくしはただこの聖布に宿る神気にあてられていただけよ!」
「誰だってそうなることくらい分かってる! でも君の場合は劣情まで催していたはずだっ、僕たちは君が一人で致しているところを確かに見たんだぞっ!」
「そんなに引っ張り合ったら本当に破れてしまいますよ!? やめてくださいお願いですから!」
喧嘩する男女を少女が仲裁しようとしている。
会話内容を度外視すれば、そんな光景に見えなくもない。
「あ、あれはちょっと魔が差しただけでこれとは無関係よ!」
「だったら大人しく渡せるはずだっ、君がここまで固執しているのは下心から独占したいと思ってるからだろ!?」
「共有財産とか心にもないこと言って独占しようとしてる奴がよく言うわねっ!」
男女はどちらも二十歳ほどで、たぶん美男美女なんだろうけど、凄まじく醜い争いのせいでせっかくの美貌が台無しになっている。女は男の鼻の穴に指を突っ込んで顔を押し退けようとして、男は女の頬を摘まむというより掴んで押し退けようとして、しかし両者は一歩たりとも引く姿勢を見せないものだから酷い変顔になっていた。どちらも片足で踏ん張りながら、もう片方の足でげしげしと蹴り合っており、その激しさに気圧されてか少女は少しおろおろした様子だ。
それだけだったら、俺は他人事として失笑を零しながら『争え……もっと争え……』とか思って面白可笑しく観戦したかもしれない。しかし、奴らが必死になって取り合っているものに見覚えがありすぎるし、今は緊急事態でもあるので、そうもいかない。
「い゛い゛か゛ら゛は゛な゛せ゛え゛え゛え゛え゛!」
「こ゛れ゛は゛わ゛た゛く゛し゛の゛よ゛お゛お゛お゛お゛!」
あいつら、人のパンツ引っ張り合って何してんだ。
「やめてくださいやめてっ、もしこんなところをあの方に見られ――」
ふと少女と目が合った。
彼女は対峙する二人の向こう側に立っていて、伸びきったパンツで顔の一部は隠れて見えない。だが、黄月のような綺麗な瞳に細長い耳、淡い翠緑の髪は透明感のある幻想的な色合いと、一度見たら忘れられない特徴的な姿をしている。だからそれは見間違えようもなくアインさんで、彼女は呆然と目を見開いてこちらを見つめたまま硬直していた。
「「――あっ!?」」
びりっと音を立ててパンツが裂け、男女が同時に声を上げた。二人はそれで少し冷静になったのか、アインさんの様子がおかしいことに気付いたようだ。少女の視線を追って二人の顔がこちらを向いた。
「――――――――」
時が止まったかのような静寂が室内を満たした。
男の方は気弱そうなタレ目と先ほどの声からして、間違いなくツヴァイだ。女の方はぱっちり二重と泣きぼくろからして、間違いなくドライだ。どちらも瞳は金色、耳は笹のような形で、ツヴァイは水色、ドライはピンク色の髪が目を引く。アインさん同様に透明感のある淡い色合いなので、魔人の髪はパステルカラーが一般的なのだろうか。
いや、変態共の容姿なんてどうでもいい。
今は曲がりなりにも緊急事態なのだ。
まだゼフィラが必死に戦っているかもしれない状況でなければ、俺は何も見なかったことにして、もう一切の関わりを持ちたくなくて、今すぐにこの場を去っただろう。が、残念ながらそういうわけにはいかない。
「鬼人が現れたから貴女がたを呼べと、ゼフィラさんに言われて来ました」
呆けて緩みきっていた空気が一瞬にして引き締まった。
つい数秒前まで馬鹿みたいな振る舞いを見せていたツヴァイとドライは別人のような顔付きになり、鋭い眼差しでアイコンタクトを交わしている。そして二人はアインさんにも目を向けると、三人同時に無言のまま頷いた。
「現場はどちらですか?」
「西の造船所です」
「了解しました。貴様はこの場でツヴァイと共に待機していなさい」
ドライは俺の目を真っ直ぐ見ながら凜然と告げ、ローブのフードを被りながら踵を返す。それに続くように、アインさんは俺に軽く低頭してから背を向け、二人は部屋の扉から去っていった。一連の動きには迷いも無駄も見られず、緊迫した雰囲気だったこともあり、問い質す暇もなかった。早くゼフィラの応援に行ってユスティーナたちを助けてもらいたいので、引き止めるつもりは毛頭なかったが。
それに一人はこの場で待機っぽいので、疑問は野郎にぶつければいい。
「で、どういうことなんですか?」
俺はソファの背もたれの上に腰掛け、声を掛ける。
良く言えば優しげ、悪く言えば頼りなさげな顔立ちの青年はこちらに歩み寄ってくると、眉間に皺を寄せた小難しい表情で、深刻そうに呻くように応じた。
「それは…………自分には、何とも」
「ゼフィラさんの様子からして、鬼人が現れたことはそちらにとって想定外の事態なんですよね?」
「……………………」
俺の前に立つツヴァイは目を合わせようとせず、俯きがちに沈黙している。表情は硬く強張り、気まずそうな感じだが、身体は落ち着きなく微動していて呼吸も乱れがちだった。
「……なるほど。想定外の事態で、尚且つお前等にとっては都合の悪い状況なのか。予断を許さないから不安で心配だから、そんな見るからにそわそわしてるんだな」
「そ、そわそわなど、しておりません……」
「そう言い張るのは勝手だけど、ちゃんと説明はしてもらうぞ」
俺はチンピラさながらに上体を前傾させつつ首を捻りながら俯くツヴァイを睨み上げた。野郎はまさしく不良に絡まれた気弱な青年然とした動揺を露わに、目を泳がせつつ呟く。
「……僕の一存では、詳細は何も言えません」
「おいおい、さすがに今回は色々説明してもらわないと俺も納得できないぞ。お前等のせいであのクレサークとかいう鬼人に目付けられたんだからな。顔隠してたって、鬼人なら魔眼とか相識感で俺だって分かるんだろ? つまり今後も俺は狙われて、みんなと一緒にいたらみんなまで危険になるんじゃないのか? えぇおい?」
おうニイチャン、この落とし前どうつけてくれんだよ? あぁん?
「そのようなことにはなりません」
ツヴァイが顔を上げ、自らに言い聞かせるような中途半端に力強い語調で断言した。
「そう言える根拠は?」
「我が神がどうにかするはずだからです」
今度は凄まじい自信に満ち満ちた面持ちで断言してきた。
「お前さぁ……困った時の神頼みとか信者はそれで納得できるのかもしれんけど、お前の神を信じてない俺には何の説得力もないって分かってる?」
「もちろんです。しかし我が神に不可能はありません」
俺がド正論を繰り出そうと、信心を発揮した信者は無敵だった。今のツヴァイは神の威を借る信者然としていて、無宗教者には理解不能な謎の自信に溢れた動きで頭を下げてくる。
こいつ……ハッタリと勢いで誤魔化そうとしてやがるな?
「申し訳ありませんが、僕にはそう申し上げることしかできません。どうか今しばらくの間、この場で大人しく吉報をお待ちください」
「幼女のパンツ取り合ってた変態と夜の部屋に二人きりで待ってろってか?」
「……………………」
「おうどうした、何とか言えよ変態」
腰を折っていたツヴァイは無言のまま九十度の角度まで更に頭を下げた。
俺はその踏んでくださいと言わんばかりの位置にきた頭を足で踏みつけながら、更に追い打ちを掛けていく。
「そういえばお前、さっき破いた俺のパンツの半分どこやった? まさか後生大事に隠し持ってるんじゃないよな? えぇおい?」
「…………………………………………」
「いやぁーん、こんな変態と一緒にいるなんてローズこわぁーい。早く転移してゼフィえもんに助け求めなくちゃぁー」
「す、すみません……それだけは、どうか……遭遇したという鬼人のいる現場に戻られるのは大変危険ですので、どうかこの場で大人しくお待ち頂きたく……」
「なら洗いざらい吐けってんだよこの野郎」
変態に情け容赦は不要なので、俺はツヴァイの頭を百二十度くらいまで踏み下げてやった。ツヴァイに抵抗する素振りはなく、ただされるがままだ。
「申し訳……ハァ……申し訳、ありません……ハァ、ハァ……」
「……………………」
「ぼ、僕のことは……ハァ……ハァ……好きにしてくれて、構いません……ですから……ハァ、どうか……この場にて、ハァ、フゥ……大人しくお待ち、頂きたく……フゥ、ハァ……」
ば、馬鹿な……興奮している……だと!?
この若造、幼女に頭を踏まれてハッスルできるほどの上級者だというのか……クソ、俺よりレベルが高そうだ。まともに相手をすればこちらが押し負けることになるだろう。
というか、冗談抜きにこの変態と二人きりなのは少し怖くなってきた。
「どうされました……ハァ、ハフゥ……さあ、もっと強く……強く踏んで頂いても、ハァ、フヒィ……構いませんよ……?」
「……………………」
逃がしてくれたゼフィラには悪いけど、やっぱり戻ろうかな。
この変態野郎のことを抜きにしても、戻った方がいいような気がする。クレサークのことは正直かなり怖いし、あんな奴と戦うことになるのも御免だけど、それ以上にユスティーナたちのことが気掛かりだ。
先ほどの転移間際、もしユスティーナたちが投擲された魔剣で負傷していた場合、おそらく誰も助けない。たぶんゼフィラは魔法を使えないし、ドライたちはそれ以前の問題だ。ユスティーナたちどころか、この街に住む人々すら、あの狂信者共からすればどうでもいい存在であることはドライとの会話で察しが付いている。
先ほどのアインさんとドライの様子からして、連中はクレサークのことはどうにかするだろうから、もしあの魔剣で負傷していなければ、結果的にユスティーナたちは助かって逃げ切れるかもしれない。が、それまでの過程で彼女らが傷付こうが死のうが、無関係の人々が巻き添えを食らおうが、連中にとっては些事のはずだ。
無論、俺としても危険を冒してまで見知らぬ他人を助けてやろうとは思わないし、ユスティーナたちも他人同然ではある。しかし、もしあの魔剣で――俺が無駄に刀身出しっ放しのまま落としたせいで敵に利用されることになったあの魔剣で、ユスティーナたちが負傷していたらと思うと、罪悪感に苛まれる。
そうでなくとも、そもそもクレサークは明確に俺の敵なのに、全て人任せにするという状況そのものが落ち着かない。だってあのガキをどうにかできなかったら、おそらく俺は今後《夜天の紅》に付け狙われることになるので、みんなの側を離れなくてはいけなくなる。それだけは絶対に御免被りたい。俺は今後もみんなと一緒に楽しく笑い合いながら生きていきたいんだ。
にもかかわらず、俺の未来を決定付けるだろう大事な場面を、変態狂信者共とゼフィラに丸投げして――誰かに自分の命運を託して、こんなところでただ待つだけとか、それはダメだろう。自分は何もせず人任せにする生き方はクズニートがすることだ。
「……あ、あの……どうかされましたか?」
しばし固まって沈思黙考していたせいか、ツヴァイが恐る恐るといった調子で尋ねてくる。
俺は踏みつけたままだった足を引いて床に降り立つと、ゆっくり上がりかける頭に手を置き、ぐっと押さえ込んで再び下げさせた。
「お前のこと好きにしていいんだったよな?」
「は、はいっ、それはもちろん!」
「じゃあ眠ってろ」
そう告げながら〈霊衝圧〉を野郎の脳天にぶっ放した。
「――ぅぐっ!?」
ツヴァイは小さく呻き、すぐに膝から力が抜けた。大きく頭を下げた前傾姿勢だったせいで、俺に頭突きするように倒れてくる。面倒だったが怪我されても後味悪いので、髪を掴んでゆっくりと床まで頭を下げさせた。
魔人は魔法が得意らしいから一筋縄ではいかないかもと警戒していたのに、あっさりと無力化できてしまった。この変態野郎が油断しきっていたおかげだろう。こいつは俺が実力行使に出るとは考えなかったのかね? ちょっと頭が緩すぎるな。お前そんなんだから使徒とやらをクビにされるんだよ。
「まあいいや。とにかく戻ろう」
俺は静かになった部屋で一人ぶつぶつと詠唱し、〈瞬転〉を行使した。
♀ ♀ ♀
ひとまず、茂みの中に転移した。
まだゼフィラが戦っていた場合、異能バトルが繰り広げられている只中にいきなり飛び込むのは正直怖かった。だからまずは造船所を囲う柵の外側に出て、慎重に接近しつつ冷静に状況を確認した上で、ゼフィラに加勢しようと思った。
「……………………」
周辺は静かで明かりもなく、俺は〈光輝〉で視界を確保した。警戒しながら先ほど魔剣で斬った柵の穴を通り、同じルートでクレサークと遭遇した地点を目指す。念のため〈魔球壁〉も行使して不意の奇襲に備えつつ走った。
「この戯けっ、戻ってくるなと言ったであろう!」
怒鳴り声が俺を出迎えた現場は薄明るかった。
ゼフィラは依然として銀髪を激しくなびかせながら少年と激闘を演じていた。つい演じていると表現してしまうほど、それは舞い踊るかのような、しかし常人離れした凄絶な体捌きだ。少年と少女の動きに連動して真紅の流体が複雑怪奇な挙動で怒濤の如く相手に襲い掛かり、それがまた非現実感を強めている。だからいまいち恐怖を感じられず、その美しさだけが際立ち、思わず見とれてしまいそうになった。
「うぅ、ぅええぇぇ……ゆすてぃさまぁ……」
「デューク様っ、デューク様っ」
鬼人同士の戦いに意識を奪われてアホみたいに呆然と突っ立つ。俺がそんな愚行を冒さずに済んだのは、涙に濡れた声が耳に届いたからだ。
二人の戦闘から視線を切って声のした方に目を向けると、そこは一段と明るかった。地面にランタン型の魔石灯が転がっているおかげで、一目で状況を見て取れた。
「――――――――」
お腹の大きな少女と総白髪の爺さんが血の海に沈んでいた。黒髪をポニテに結った幼女は少女の傍らにへたり込んで、顔をくしゃくしゃに歪めて泣いている。黒髪をツーサイドアップテールに結った幼女は爺さんの傍らで膝立ちになり、何かしている。こちらに背を向けているのでよく分からないが、「デューク様っ」と懸命な声で呼び掛けている様子からして、爺さんはまだ生きているのかもしれない。
「小童っ、この場を離れよ!」
俺はゼフィラの声を無視して四人のもとに駆け寄った。
走りながらゼフィラへの援護に何か魔法でも放とうかと逡巡したが、やめておく。端から見る限りゼフィラとクレサークの激闘は膠着状態にあるようなので、俺が下手に加勢すると均衡が崩れるかもしれない。
「フフ、まだ応援は来ないみたいだね。僕としてはあの子を確保しておきたいから、今の状況は大歓迎だけれど」
「これ小童っ、そやつらは妾が守り抜いてやる故、お主はさっさとこの場から去らぬか!」
ゼフィラには悪いが、そういうわけにもいかない。
俺は無言のまま血生臭い現場に到着し、改めて四人の状態を順繰りに見回してみた。ニコルとニコラは服にこそ赤い染みが見られるが、見た感じ本人の血ではなさそうだ。
デュークは仰向けに倒れており、目蓋は閉ざされ意識はなさそうだが、微かに呼吸はしている。出血多量で傷の程度は不確かだ。しかし重傷なのは間違いない。おそらくは胸元が直線状に抉れており、その延長線上の左腕も同様だろう。背負っていたリュックはショルダーベルトが切れて、傍らに転がっている。
ユスティーナは横臥した格好で倒れており、両手はお腹を庇うようにして添えられている。しかし呼吸している様子はなく、目は薄く開いたままで、微動だにしない。それも当然と思えるほどの致命傷を負っていて、首元が真っ赤だった。爺さん同様に抉れたように、首の半分ほどが消失している。
「えぇー、負傷者を置いて去るのは薄情じゃないかな? だってその二人、君のせいでそうなったんだよ? 君が魔剣を落とさなきゃ、僕だって投げつけようとは思わなかったんだから」
少年の言葉が侵食するように脳を揺さぶり、目眩がした。
魔剣は三リーギスほど離れたところに落ちている。夜天に煌めく黄月と同じ色の刀身が今も尚、形成されたままだった。
「貴様のせいであろうがクレサーク! 小童っ、罪の意識など覚える必要はないぞ! そもそも妾等が介入せねばそやつら全員の命運はあの宿で尽きておったのだからなっ!」
ゼフィラの言うとおりかもしれないが、それでも責任の一端くらいは俺にあるだろう。《夜天の紅》もといクレサークが元凶とはいえ、そのときその場で直接の死因を作ったのは俺だ。
「ヌ、ヌル様っ、治癒魔法は使えますか!?」
いつの間にか〈魔球壁〉も解いて愕然と棒立ちしていたが、必死そうな幼い声で我に返った。
縋るように見上げてくるニコラの顔は、姉と同様に涙と鼻水に塗れている。しかし、姉と違って悲嘆に呑まれてはいないようで、今も傷口からの出血を抑えようとしてか、両手を爺さんの胸元に当てていた。
「やってみます」
罪悪感に苛まれることなど、後で幾らでもできる。
俺はニコラの隣に屈み込んで、左手を血塗れの胸元に当て、特級治癒魔法〈極治癒〉を行使した。傷口の深さはよく分からないが、爺さんの口元には吐血した後が見られるので、少なからず肺がやられたはずだ。特級は軽度の内臓損傷くらいまでなら治せるらしいが、今ので治ったのかどうか目視では判別できない。
ただ、爺さんの呼吸は先ほどよりも安定しているような気がしなくもないので、たぶん一命は取り留めたはずだ。出血は間違いなく止まったはずだし、大丈夫だと思う。思いたい。
「おっと……これはこれは、まさか“門”まで使えるなんてね。どうりで接近する反応がなかったわけだ。一気に多勢に無勢になっちゃったよ」
クレサークの言葉が気になって、ちらりとあちらの様子を窺ってみると、いつの間にか鬼人二人を白装束たちが包囲していた。数は十人ほどだろうか。資材の上や造りかけの船の上などに立っている者もいるが、全員で半径二十リーギスほどの輪を形成するようにして並び立っている。
だから、一人だけ銀色の仮面を付けた白髪女がいれば、嫌でも目についた。しかも悠々と歩いて包囲網の内側に入り、鬼人二人に接近している。ゼフィラとクレサークは既に動きを止めているが、依然として蠢く紅を〈従炎之理〉のように待機させており、一触即発な雰囲気だ。
「騎士団は僕の管轄じゃないから、あまり詳しくはないんだけれど……これはみんな知らないんだろうね。ということは僕たちに内緒で何かしでかそうとしているわけだ、君は」
ゼフィラに牽制され、白装束たちに包囲された状況下ではさすがにクレサークも下手に動けないのか、あるいは敢えて動かないだけなのか。言動からは危機感など微塵もなく、楽しげな余裕しか感じられないので、後者なのだろう。
「貴様に話すことは何もない」
「そうかな? 話した方がいいと思うけれど。場合によっては、みんなに秘密にしておいてあげなくもないよ? 僕を説得できなければ、君は秘密を守れないんだからさ。駄目で元々、試してみる価値はあるんじゃないかな?」
「秘密は守られる。貴様はもう二度と仲間の鬼人に会うことはないからな」
あの銀仮面……やっぱりアインさんの仲間だったんだな。というより、あいつがリーダーの可能性まである。一人だけ白装束じゃないし、まるで代表して発言しているような感じだし、少なくとも白装束たちより立場は上なのだろう。
とりあえずあっちは何とかなりそうだったので、こっちは今のうちにこの場から離脱すべきだ。俺一人ならこの場に残って状況を見守るところだが、戦いが再開されて幼女二人と未だ目覚めない爺さんが巻き添えを食らうのは不味い。
「ニコル、ニコラ、この場を離れましょう。デュークさんは私が魔法で引きずっていくので」
「ぅぐ……いやぁ、いやなのですぅ……う、ぅぇぇぇ……ゆすてぃさまも、いっしょなのです……」
「お姉ちゃん……今は行こう。また後で来ればいいよ」
ニコラは嗚咽を我慢しているような切ない声で言いながら、少女の亡骸に縋り付いて泣きじゃくるニコルの肩に手を置いている。宿では姉と比べると気弱で頼りなさげな妹に見えたが、意外としっかり者のようだ。
「いやだぁぁ……ゆすてぃさまぁぁぁぁ……あかちゃんもいるのにぃ……」
「――あ」
思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
だって、完全に思考の埒外だったのだ。目に見えるものしか見えていなかったし、それがまた酷い有様だったせいで思考が圧迫されていた。更に鬼人同士の戦闘という衝撃的な出来事がすぐそこで展開されていたものだから、心理的にも余裕がなかった。
だから、ユスティーナは死んでいても、お腹の赤ちゃんはまだ生きているかもしれない可能性をすっかり失念していた。少女は両手でお腹を抱えるようにして横向きに倒れており、首元以外からの出血は見られない。倒れた際によほど強く腹部を打ち付けていなければ、まだ胎児は死んでいないはずだ。
あ……でも、ユスティーナが死んでから何分経った? 母体の生命活動が停止すれば、胎児への酸素供給が止まって、窒息死するんじゃないの? いや、まだデッドラインは越えていないかもしれない。シュレディンガーの猫だって、箱を開けず放置していれば餓死することとなり、結果は必ず死になる。生きているのか死んでいるのか不安がる暇があれば、今は一秒でも早くユスティーナの腹を開けるべきだ。
「な、何か刃物……短剣……ニコラ短剣取って爺さん持ってたでしょ!?」
「え、短剣……?」
「ユスティーナのお腹切って赤ちゃん取り出すんだよ早く!」
ニコラは俺の目を見て二秒ほど硬直した後、突然自らのスカートをたくし上げた。そしてこなれた素早い動きで、両股に一本ずつ括り付けられていた短剣を抜き取り、一本を俺に渡してくる。
俺は早くもテンパり始めていることを自覚し、大きく深呼吸しつつユスティーナの身体を仰向けにした。片手なので上手く動かせなかったが、ニコラが手伝ってくれた。どうやらこの幼女はやる気らしい。なんか手が震えているし、涙と鼻水に濡れた顔は今にも泣き叫び出しそうな危うい状態に見えるが、黒い瞳には確かな意志が宿っていた。
幼女が健気に頑張ろうとしているのに、俺が動揺するわけにはいかない。
「服を切りましょう」
「は、はい」
「……んぐ……ニ、ニコラ……?」
妹の姿に何を思ったのか、ニコルは泣き止んで呆然と俺たちを見つめている。それに構わず、俺とニコラはパンツとブラジャーが見えるくらい大きく服を切り裂き、今にも破裂しそうなほどパンパンに膨らんだお腹を露出させた。
ちらりとゼフィラたちの方に目を向けてみると、いつの間にやらドーム状のバリアができていた。結界魔法だろう。半透明なそれの内側では鬼人同士がまたしても激しい戦闘を繰り広げており、しかしクレサークの方はゼフィラに構わず結界を破壊しようとしている様子だ。少年は少女に切り裂かれ、押し潰され、原形を留めないほどズタボロにされながらも、結界に向けて禍々しい紅を剣閃のように、波濤のように、千手観音さながらの様相で同時攻撃している。もはやクレサークらしきモノは人外すぎて、血みどろのグロテスクな化物にしか見えない。
あの結界は白装束たちが維持しているのか、こちらには見向きもしない。どういう理屈なのかはさっぱりだが、魔法陣を設置する余裕はなかったはずなので、協力魔法的な何かで即席の結界を作り出したのだろう。魔法が得意らしい魔人ならそれくらいできても不思議はない。
アインさんかドライか、とにかく連中のうち誰か一人に手伝ってもらおうと思ったのに、どうにも手が放せそうにない様子だった。もしあの化物が結界外に解き放たれれば俺も無事では済まないだろうから、幼女三人でやるしかなさそうだ。
「あの……ヌル様……」
ニコラが不安そうに見つめてきたので、俺は自信満々な様子を取り繕った。
「私が切ります。そんなに手が震えていては危ないですしね。ニコラは魔石灯で私の手元を照らしながら、ユスティーナさんの身体を押さえていてください。ニコルも押さえて」
「え、あ……は、はいなのれすっ」
姉の動きは妹より早かった。ユスティーナの太腿に跨がり、ガシっと両手で腰元を押さえ込むように固定している。まだ顔はぐしゃぐしゃで涙も止まっていないし、恐れと悲しみを抑え切れてはいないようだが、それでも目には力があった。
妹の方は魔石灯を拾ってくると、俺の右隣からその光を大きなお腹の上に掲げてきた。更に自由な片腕を伸ばして、胸元の膨らみの下あたりを押さえている。
「怖ければ目を閉じてていいですよ」
二人に言いながら、俺は傷一つない綺麗な肌に刃の切っ先を当てた。
母体の安全を考慮したりする必要はないので、取り出しやすさだけを考えて、大きく半円形に切ることにした。まずは薄く皮膚を切って赤く下書きし、その線に沿って深く切り込んでいく。もうゼフィラたちの方を気にしている余裕は全くなく、目の前の状況と向き合うだけでいっぱいいっぱいだった。
「……………………」
もちろん俺は外科手術なんてしたことがないので、どれくらいの深さで切ればいいのか全然分からない。皮膚の下には脂肪があって、その下には筋肉があって、更にその下に腹膜があって、その中に内臓がある。その程度の知識しかない。だからどうしても慎重にならざるを得ない。
しかし、前世で腹部に包丁を突き立てられて死んだおかげか、いざ始めてみると自分でも意外なくらい冷静だった。下手すれば胎児を傷付けてしまうと思うと恐ろしい気持ちにはなるが、人の腹を割くという行為そのものはそれほど怖くない。いや、怖いは怖いし、緊張感は半端ないし、誰か代わりにやってくれるなら是非お願いしたいけど、手が震えるほどではない。
鬼人のインパクトが強すぎて感覚が麻痺しているのかもしれない。
「う、うぅ……ひぅ、あぁ……」
ニコルは開腹されて露出した赤い内部を前に、声にならない声で小さく悲鳴を上げている。
俺の手元は真っ赤で、血の脂でぬるぬるして、片手なのもあって刃が滑りそうになる。心臓が止まっているからか、思ったより出血量が少なく、臓器の見分けが付きやすいのが不幸中の幸いだった。
「…………ダメだ」
おそらく子宮と思しき一際大きな肉塊にナイフを入れ始めて、しばらく。俺は限界を感じて手を止めた。
「え、な、何が、ダメなんですか?」
「片手だと刃が入りすぎそうで、私がこれ以上は切るのは危なそうです。ニコラ、この線に沿って慎重に刃を入れて切開してください」
「――――――――」
顔面蒼白で硬直する幼女は今にも失神しそうだ。
しかし、申し訳ないが俺にはこれ以上は難しい。できなくはないけど、胎児を傷付けてしまう可能性が高いので、俺がやるよりニコルかニコラがやった方がまだ安全そうだった。姉の方はユスティーナの身体を押さえたまま、硬く目を閉じて全身を震わせている。妹の方がガッツがありそうだし、未だしも上手くやりそうだ。
「……わ、わかりました」
俺が魔石灯を奪うように手に取ると、それで否応のない状況だと悟ったのか、ニコラは覚悟を決めたように頷いた。俺から言い出しておいて何だけど、凄まじい精神力だと思う。この幼女は将来大物になるぞ。
「私が浅く切り込んだところがあるので、そこを更に深く切っていってください。切ったところに指をねじ込むようにして入れて、まずは子宮の厚さを確認してください」
「……………………」
「ニ、ニコラぁ……がんばってぇ……」
返事をする余裕すらない妹を姉が震える声で励ましている。
それから、どれくらいの時間が経ったのか。
ニコラは意外なほど手間取らず、子宮を大きく切り開いた。俺が何も言わずとも、短剣を置いて震える両手を子宮内に突っ込み、血と羊水に塗れた胎児を取り出した。
「や、ややややりましたっ」
「よ、よし、ここに置いて」
俺は急いで純白のローブを脱ぎ、地面に敷いたそこに胎児を横たえさせた。
母胎から生まれ出たそれは人間の赤ちゃんというより、しわくちゃの猿みたいな、小さな人型をした別種の生き物のようだ。しかし、五体満足の紛れもない人間の赤ん坊で、俺は初めてだらけの状況を前に頭が真っ白になりそうだった。
そうならなかったのは、どうしても確認せねばならない事があったからだ。
「……い、息してる? してなくない? ていうか生きてる?」
「生きてはいるはずです……きっと」
「でも泣き出さないのですっ、息しないと死んじゃうのです!」
ようやく目を開けたニコルは泣き叫ぶように切羽詰まった声を上げている。
太っちょい手足が微動しているようなので、まだ生きてはいるのだろうが、どう見ても顔色は良くない。というか悪い。素人なのでよく分からないが、唇が紫色になってるし、これ酸欠でチアノーゼ起こしてるんじゃない?
「お、おーい、息してー、ほらほら頑張れー」
まだ血で汚れている頬をぺちぺちと軽く叩いてみるが、泣き出さない。胸も上下せず、呼吸を始める様子もない。それどころか目も開かない。
「ヌ、ヌル様、治癒魔法を!」
「あっ、そうか!」
冴えた妹の言に従い、すぐに特級治癒魔法を行使してみた。
しかし特段の変化はなく、顔色も悪いままで呼吸もし始めない。
「い、生きるのです! あなたは死んじゃダメなのですっ!」
ニコルが必死に呼び掛け、赤子の肩を小さく揺さぶり始めた。
その矢先、落ち着き払った声が背後から聞こえてきた。
「どれ、見せてみよ」
ゼフィラは俺の隣に屈み込み、赤子に手を伸ばした。
長い銀髪はぼさぼさで、両足に履いていたブーツはなく、裸足になっている。ズボンも股下数センチほどのホットパンツになっており、上半身は胸元に布が垂れ下がっているだけで、ほぼ裸だ。俺も今はパンツ一丁なので似たようなものだが、俺の手が血塗れなのに対し、ゼフィラの真っ白い肌は傷どころか血痕すら皆無だった。
振り返れば白装束たちがほとんどいなくなっており、クレサークも銀仮面も消えている。アインさんと思しき小柄な白装束だけが残っていて、こちらにゆっくりと歩み寄ってきていた。
「ふむ……腹を割いて生まれた子にはよくある症状だの」
隣から聞こえた呟きで視線を戻すと、ゼフィラは依然として繋がったままのへその緒を切り、手早く結んでいる。それから赤ちゃんの胸元に手を置いた。何やらゆっくりと圧を掛けているようで、仕舞いにはそんなに圧迫して大丈夫なのかってくらいの強さで圧しているように見える。
「そ、そんなに力込めて何してるのですか!?」
「耳元で騒ぐでない小娘」
ゼフィラは至って冷静な態で、俺たちを落ち着かせるようにゆっくりと語り出した。
「こやつが呼吸を始めぬのは、肺に羊水が溜まっておるせいだ。通常出産の場合は産道を通る過程で肺が圧迫され、自然と羊水が吐き出される。それが呼吸を促すことになるわけだが、子宮から直接取り出しては何らの負荷も掛からぬからの」
そう説明してくれている途中から、赤ちゃんの小さな口から透明の液体が静かに溢れ出てきていた。言い終わるとゼフィラは両手で赤子を抱き上げ、子育て中の母親が我が子のげっぷを促すときみたいに、背中をとんとんと叩き始める。
すると間もなく、「ぅえ」と変な声が小さく響いた。
「ぅえぇぁぁ……んぃぇぇぇぇん……」
固唾を呑んで見守っていた俺たちの間に、赤ちゃん特有の泣き声が響き渡った。それは小さくも力強い声で、瑞々しい生命の力に溢れている。そう感じられるのは決して気のせいではないはずだ。
「な、泣いた! ニコラ泣いたのですっ!」
「よかった……よかったよ……」
ニコルは妹に抱き付き、ニコラは脱力して姉に抱き付かれるがままだ。俺もどっと力が抜けて、一気に全身が気怠くなった。気が付けば全身が汗塗れだ。
「帝王切開の上にここまで酸欠が続いたとなれば、普通はこうも元気に泣かぬのだがな。なかなか力強い呼吸をしておるし、生命力の強そうな良い赤子だの」
「お疲れ様です。どうぞ」
その場にへたり込んでいた俺に、アインさんが服を差し出してきた。俺が白装束に着替える前に着ていたシャツだ。なぜ持っているのだろうか。こうなる事態を予期していたのかな。さすがアインさん。ツヴァイとは格が違う。
俺は服を着る余力も応じる気力もなかったが、何とか受け取ろうとした。が、こちらの状態を察したのか、着せてくれた。ついでに俺が落としていた魔剣も手渡してくれて、さすがはアインさんとしか思えない。これ婆さんの形見だから、もっと大事に扱わないとな。
「命を救われましたね。お見事です」
「あ、いえ……ニコルとニコラも頑張りましたし、ゼフィラさんがいなければ呼吸し始めずに死んでたかもしれませんし……そもそも……」
思わずそう呟いてしまうが、それは俺の謙虚さ故ではなく、罪悪感が言わせた言葉だった。
アインさんは俺が続けて言いかけるのを遮るように、「いいえ」と首を横に振り、黄金色の瞳で見つめてきた。
「あなたがいたから救えた命です」
「ですが、私のせいで……」
「わたしたちは大義のためなら犠牲もやむなしとして動いています」
フードとフェイスベールのせいで表情はよく分からないが、一転して力強さの抜けた声と伏せられた両目から、心苦しそうな様子が窺えた。
「あなたが今この時期にこの街にいなければ、我々は潜伏を優先し、ユスティーナたちの窮状を座視したことでしょう。更にあなたがそこの鬼人と我々の言葉を無視してこの場に戻ってこなければ、赤子は母体から取り出すのが遅れ、亡くなっていたかもしれません。そこのご老人は失血死していたことでしょう」
きっとアインさんの主張は正しいのだろう。
赤ちゃんが無事に誕生して気が抜けたせいで、罪悪感に苛まれ始めていたが、そう卑屈になることもないのかもしれないと素直に思えた。
「あなたは感謝されこそすれ、非難される謂れはありません。非難されるとすれば、《夜天の紅》と我々です。ですからどうか、あなたは胸を張っていてください」
やっぱりさ、アインさんはまともな人だよ。ツヴァイやドライみたいな変態と比べると、聖女並の善人に思えるね。もしかしたら連中なりの飴と鞭なのかもしれないが、俺はアインさんのことだけは信じたい。
「わたしはこれからこの子たち四人を先ほどの部屋まで送ります。ユスティーナの遺体はこちらで回収しておきますので、あなたもなるべく早くこの場をあとにしてください」
アインさんは俺の肩を労るような手付きで優しく触れてから、そう言って立ち上がった。
「それと、先ほどのクレサークという鬼人についてですが、そちらを心配する必要はありません。もう二度とあなたの前には現れませんし、今回の件であなたが《夜天の紅》に目を付けられることもないと保証します」
「そうですか」
クレサークは銀仮面と他の白装束共々どこかへ行ったというか転移したようだし、後は連中がどうにかするのだろう。ツヴァイやドライならともかく、アインさんが言うなら安心だ。
「彼女らの今後についてはデューク氏の意向も確認せねばならないので、今はまだ何とも言えません。気になるようでしたらあなたも部屋まで来て頂ければ、話を聞くことはできます。それでは、わたしはこれで失礼します」
一礼を残して、アインさんは抱き合う双子姉妹の側に寄っていった。端から話を聞いていた限りでは、ニコルとニコラはアインさんを俺の仲間だと思っているのか、素直に言うことを聞くようだ。
「ヌル様、どうもありがとうございました」
「ありがとうございました。あの……また会えますよね? 必ずお礼しますから、ヌル様もこれから行く部屋に来てください。どうかお願いします」
ニコルには深く頭を下げられ、ニコラにはやけに熱い眼差しを向けられた。
俺としても四人が今後どうするのかは気になるので、「また後で」と言っておいた。
ゼフィラが俺の白装束に包んだ赤子をニコルに手渡すと、アインさんは双子の肩を抱きながら長々と〈瞬転〉の詠唱をして、去っていった。
やはり〈瞬転〉は他の人と一緒に転移することもできるみたいだな。一応は人体実験になるのでまだ試してみたことはなかったが、服と一緒に転移するときみたいなコツがいるんだろうな。
「……………………ふぅ」
とりあえず一息吐いて、深く項垂れた。
俺も早くこの場から離脱せねばならないが、今は〈瞬転〉を使うのが酷く億劫に感じられるほど気力に乏しい。極度の緊張を強いられたことの反動だろう。すっかり弛緩しきった心身にはしばらく力が入りそうにない。
「これ小童、さっさと転移せぬか。お主が去らねば妾も戻れぬであろうが」
「……すみません……あと少しだけ待ってください」
ゼフィラにせっつかれつつ、俺は夜空を見上げて、再び深く大きく息を吐いた。
夜天には煌々と黄月が輝き、その側では幾らか欠けた紅月が禍々しく光っている。夜空の美しさは魔大陸にいた頃と変わらず、人ひとりが生きようが死のうが、世界は今日も明日も平常運転を続けていくのだろう。
結局、アインさんが戻ってきて気絶する爺さんを回収していくまで、俺は呆然と夜空を見上げていた。
挿絵情報
企画:Shintek 様