第百二十五話 『出る杭は打たれ、前世の事を言えば鬼が来る』★
妊婦を助けるか、見捨てるか。
迷いはしたが、助けることにした。
「であれば、お主はこの部屋で〈魔球壁〉を張って待っておれ。連中は妾が片付けてやる。その間に事情を聞き出しておくのだぞ」
俺が助ける旨を告げると、ゼフィラはそう言いながら、どこからともなく取り出した魔剣をテーブルの上に置いた。たぶん間違いなく、俺の魔剣だ。
「小僧もここで待っておれ。妾の言葉を顧みず逃げ出しても良いが、その場合は適切に助力してやれる保証はないぞ」
「あの、ですがお一人で――」
ゼフィラは爺さんの言葉に応じる様子もなく背を向けた。かと思えば、黄金の剣閃が目にも止まらぬ速さで奔り、扉が崩れ落ちた。そしてそのまま魔剣片手に部屋を出ていく。扉の残骸の向こうには何か黒っぽい塊も転がっていて、見る見るうちに赤い血溜まりが広がっていく。
既に部屋の前まで迫ってたのかよ。
俺は手にしていた魔石灯をニコルに押し付けるように手渡し、テーブルの魔剣を〈霊引〉で引き寄せた。
「ニコルさんとニコラさんはユスティーナさんの側に。デュークさんは念のため〈魔球壁〉の外側で護衛をお願いします」
「……かしこまりました」
爺さんは慌てふためいたり、疑問を呈したりすることもなく、冷静さの窺える素振りで頷いた。俺は幼女二人と共に妊婦のすぐ側に立ち、〈魔球壁〉を行使する。
常時展開する全周防御魔法として〈魔球壁〉は非常に優秀だけど、魔力波動も遮ってしまうから、敵がいる状況で保険として行使しておく使い方はあまり好きではない。が、いつどこから不意打ちされるか分からないともなれば、話は別だ。
「詠唱もせず魔法を……ほ、本当に三十六歳児なのですか……?」
「ご想像にお任せします。それより、ユスティーナさん、お話を聞かせて頂けませんか」
俺は密着といってよいほど間近にいる妊婦を見上げた。ニコルもニコラも同様の距離にいるため、しようと思えばクンカクンカもできる。いや、しないけどさ。
こうも不穏な状況だと、多少馬鹿なことでも考えて緊張を解さないと、いざというとき上手く動けなさそうだ。
「お話は……構いませんが、リナリアさんは大丈夫なのですか?」
「あの人のことならご心配には及びません。貴女自身も、この通り魔法で守っていますし、デュークさんもいます。いざとなれば私がどうにかしますので、ご安心ください」
念のため、俺は魔剣に魔力を込めて刀身を出し、適当に振ってみせた。バリア越しに斬撃を繰り出せる光景を見せ付けておけば、今の状態が如何に安全なのか実感してもらえるだろう。
「……顔も見せない巫山戯た不審者ですが、実力は確かそうなのです」
「お、お姉ちゃん、失礼だよ」
たぶん双子な姉妹は、妊婦の両脇で身体を支えるようにして立っている。妊婦に立ちっぱなしは辛いもんな。不審者には辛辣なニコルちゃんだけど、ご主人様には優しいようだ。
念のため、俺は妊婦と背中合わせになるようにして立っている。窓から奇襲を掛けてくるかもしれないので、警戒は必須だ。全開状態のドアの方は爺さんにお任せする。先ほどのゼフィラとの攻防を見るに、それなりの手練れだろうから一応は安心できる。
「えっと……ヌルさん、どうもありがとうございます」
「お礼は結構ですので、お話をお願いします」
先を急かしてしまう程度には、俺は嫌な予感を覚えていた。
ついさっきまでとは打って変わって、この妊婦からは詳細な話を聞いておかないと不味いという確信めいた直感がある。それはドライたちが絡んでいるせいとか、ゼフィラがわざわざ自分から敵の対処という面倒事を引き受けたせいとか、《夜天の紅》という組織名のせいだ。
《夜天の紅》――最初は紅月こと邪神の天眼だと思ったが、夜に焦点を当てて考えてみると、やけに不吉に思えてくる。だって夜とはつまり、黄昏から黎明までの時間だ。そうでなくとも邪神関係なら、俺やみんなと――魔女と全くの無関係とは思えん。話を聞いた後も妊婦を助けるかどうかはまだ分からないが、少なくとも聞き出すまでは身を守ってやった方がいいだろう。
「お話といいますと、私たちが今の状況に至る経緯ということですよね? 私自身、命を狙われる理由に確信はありませんので、上手くお話できるか分かりませんが……」
「大丈夫です。ユスティーナさんの話しやすいように話してください」
俺は言いながら再び魔剣に魔力を込めて、今度は刀身を維持し続けておく。大量の魔力を消費する〈瞬転〉の練習を始めた頃から、なるべく魔力は節約するように心掛けているが、緊急時には惜しまず使っていく。
「では、そうですね……先ほど、リナリアさんは『夜明けをもたらす者』、『時代を先に進めようとした』と仰いました。私も今までもしかしてと思っていましたが、もしリナリアさんの言葉が本当だとしたら、おそらく原因は私の夫なのだと思います」
「……貴女の夫が、命を狙われるような状況を招いたと?」
「結果的に、そうなってしまったのかもしれません……」
生憎と表情は分からないが、絞り出したような声は悲哀に満ちていた。それを胸の内に押し込めるためなのか、触れ合った背中からは深呼吸をしているのが伝わってくる。
ユスティーナは静かに息を吐き出すと、打って変わって冷静な声音で話し始めた。
「エルヴィンには――あの人には、悪意なんて全くありませんでした。いつも誰かのために一生懸命で、多くの人に慕われて、頼られて、必要とされていました。私の贔屓目なしに、彼は間違いなく善人でした」
「しかし、亡くなられた。殺されたのですか?」
「……私を庇って、殺されました」
俺も妊婦さんに倣って冷静に、遠慮なく問い掛けてみたが、返ってきた言葉には重苦しい響きがあった。それだけで、ユスティーナがエルヴィン某を愛していたことが察せられる。貴族らしいから愛のない政略結婚の線が濃厚だったが、どうやら違うようだ。
「今から二節ほど前、屋敷が襲撃されたのです。その何日か前から、私たちと交流のある人たちばかりが行方不明となったり、不審火で住宅や商店が焼け落ちたりしていたので、夫は不審がり警戒していました」
「なぜ、貴女の夫がその状況を招いたと思うのですか?」
「あの人は……天才でした」
自分の夫を天才呼ばわりとか惚気かよ。
と平時なら思っただろうが、この深刻極まる状況下で言われると、自慢には聞こえない。誇らしげな声の割に影のある苦味を含んだ言い方からも、複雑な思いが伝わってくる。
「エルヴィンは色々な物を作り、多くの因習を破り、領内を豊かにしようと努めていました。それはほとんどの人にとって良い変化でしたが、一部の者たちからすると、恨めしいことだったはずです」
そこでユスティーナは少し声を落とし、嘆息した。
「既得権益によって富を得ている者たちは、変化を厭います。望まぬ夜明けがもたらされ、時代が先に進んでしまうと、富を失ってしまう者が必ず一定数は出てしまいます。エルヴィンはまず領内の奴隷制を廃止しようとしていましたが、それを奴隷商人たちが許容するはずもなく、様々な妨害工作を受けました」
そりゃそうだろうね。
この国での奴隷がどういう立ち位置にいるのかは不明だが、魔大陸では奴隷が当然のように存在していた。俺は人里離れた館で暮らしていたから実感は薄いものの、奴隷は人の営みの様々な分野に深く根付いている制度だ。奴隷制を廃止すれば、奴隷商だけでなく、色んなところから抗議の声が上がるのは想像に易い。
日常生活に関わる既存の制度はそう簡単に変えられるものではないのだ。
「それはエルヴィンが農民出身だったせいもあったのでしょう。私と結婚したことで一応は貴族の末席に名を連ねはしましたが、実際に爵位を有していたのは私の父です。歳は私と同じでしたから、所詮は婿養子の若造だと侮られることもしばしばでした」
逆玉の輿に乗った田舎小僧というレッテルを張られていたなら、軽んじられるのも仕方ない。とはいえ、農民が子爵家のご令嬢と結婚するというのは相当凄いことだ。
余程のイケメンだったのか、本当に天才的な才能があってそれを認められたのか、その両方か。仮に凄まじい努力家であったとしても、幸運にも恵まれなければ成り上がれなかったはずだ。それにこんな美少女と結婚して、子種も仕込んで、ついでに可愛い幼女メイドまでいるとか、超絶ラッキーな野郎だ……とは思うが、十七歳の若さで殺されたことで差し引きゼロだろうから、安直に羨ましがれないな。
「エルヴィンは奴隷制の改革はまだ時期尚早だとして、歳を重ねて爵位を継ぐまでの間に、様々な実績を積むべく商会を立ち上げました。今までにない美味しい食べ物や綺麗な服を作ったり、農具や農法の改良をしたり……一年で色々なことをしました」
ユスティーナは懐かしそうな声で穏やかに話している。両想いの末に結婚したのなら、きっと当時は幸せの絶頂期だっただろうし、非情な現実を前にしている今、思い出に浸りたくなる気持ちは分からないでもない。
などと、妊婦の心情を冷静に分析できたのはそこまでだった。
次に聞こえた言葉は俺の頭を少し混乱させてきた。
「そうして人々の生活の質を向上させつつ資金を集めながら、本をたくさん作るための道具を作っていました。知識は世を照らす光だと言って、とても張り切っていました」
「……本を、たくさん作る……道具?」
「印刷機というらしいです。それで本を大量生産して、更に開発資金を稼ぐと同時に、知識を広めるのだと」
「……………………」
「ただ、それだって奴隷制のときのように反対したり妨害したりする者は出てくるだろうと、エルヴィンは言っていました。印刷機が登場すれば写本家たちは廃業してしまいますし、民が啓蒙されることを厭う諸侯もいるはずだからと」
……え……いや、ちょっと待て。
なんか、少し……おかしくない?
前世の歴史に鑑みれば、印刷機の登場それ自体は別段おかしくはない。どうせ活版印刷だろうし、そのうち誰かが発明して世に出るのは時間の問題だったはずだ。
この世界は3000年ほど前までなら割と詳細な歴史が残っているので、印刷機くらい既にあって然るべきだと思えるが、混沌期と暗黒期の存在がその短絡的思考を否定してくれる。
まず混沌期は、聖神アーレの最終奥義《大神槍》の余波による天災で世界中が荒れに荒れ、直前の聖邪神大戦と呼ばれるハルマゲドン的な世界大戦もあって、総人口が激減した。人だけでなく、物も多くが損壊したことで、それまでに積み上げられてきた叡智の数々が失われた。ここで人類の文明レベルはリセットも同然なほど大きく衰退したわけだ。
それから1200年後の暗黒期では世界帝国ことハイネス帝国が瓦解し、世界各地で国々が勃興する。この300年続いた時代の記録はほとんど残っておらず、空白の時代とされているので詳細は不明だが、おそらく各地で戦乱状態が続き、またしても人類の技術力が低下したのだろう。前世でも古代ローマ帝国時代から文明レベルが衰退したことがあったし、こうした繁栄と衰退のサイクルは特に不思議なことでもない。人類は常に前へと進めるわけではないのだ。
そうして今の安定期となり、これは今年で897年になる。そろそろ印刷機くらい出てくる頃だろうから、べつにそれはいい。驚きはあるが、納得できなくはない。
「だから、まずは民の暮らしを豊かにして、子供が仕事を手伝わなくてもいいくらい、生活に余裕を持たせるべきだと言っていました。それから知識を広めて、教育制度を作って、民を啓蒙することで民を味方にする。そして奴隷なんて馬鹿げていると理解してもらう。そうしないと奴隷制はなくならないし、政治形態も先に進まないのだとか。私には彼の言っていることを全ては理解し切れませんでしたが……」
エルヴィン・マティアーシュ……お前何者だよ?
人物評を聞いただけだと、お前明らかにおかしいよ。
天才すぎだよ。
元は農民の小僧でも美味しい料理くらいは開発できただろうから、それは分かる。お洒落な服を作れるのは極論すればセンスの問題だし、これもまあ理解はできる。農具や農法の改良も、農民の神童ってことなら一応納得できる。奴隷制という当然の常識に異を唱えるだけでなく実際に制度改革まで試みるのも、ぎりぎり分からなくはない。少し違うが前世ではジャンヌ・ダルクとかいたし、稀にそういう奴もいるだろうさとまだ思える。
でもお前、印刷機からの流れはどう考えても異常だよ。十代でその発想はぶっ飛んでるよ。民衆を啓蒙して政治形態を進化させるとか、それもう明らかに天才とかそういうレベルじゃねえよ。
変だよ。おかしいよお前。
「《夜天の紅》というのが具体的にどんな組織なのかは分かりませんが、既得権益を守りたい者たちの手先なのでしょうね。エルヴィンは先進的で、革命的な人でした。だからこそ、それは同時に破壊的でもありました。私たちが思っていた以上に、敵は多く強大だったのでしょう」
ユスティーナは暗く重たい声と共に溜息を零した。
この妊婦さんの心中は察して余りあるが、今は気遣ってやれる余裕がない。脳裏に浮かんだ一つの可能性は衝撃的で、深く考えると背筋が凍りそうだった。まだ疑問点はあるものの、ドライたちが妊婦に話を聞けと言ってきたり、俺が早晩死ぬとか脅してきたことにも得心がいってしまう。
「あ……いえ、ヌルさんが聖神様の天啓を受けたのであれば、《夜天の紅》という名からして相手は邪教団なのでしょうか? 私も魔女ですので、狙われる理由にはなりそうですが……既得権益を守りたい者たちが邪教団をそそのかしたという線はありそうですね……」
なるほどと頷ける推測だが、ユスティーナの考えには鬼人という要素が欠けている。なぜ今回の件に他ならぬゼフィラが絡んできたのか、そして彼女ら鬼人が本当に不老不死で嘘偽りなく三千年も生きているなら、なぜ今の時代の文明レベルが低いのか。それらの疑問点を無視して考えることは俺にはできない。
まだ漠然としてはいるが、もし俺の予想が正しければ色々とヤバそうだ。
い、いや……結論を出すのは尚早か。とりあえずエルヴィンの情報をもっと得るべきだ。そしてゼフィラからも話を聞き出して、きちんと考えないといけない。
そう自分に言い聞かせて深呼吸したその瞬間、前方二リーギスほどのところにある窓の鎧戸が突如として開いた。というか、音高くぶち破られた。
「――ひゃ!?」
思わず変な声が漏れ出たが、迫り来る何かに向けて反射的に魔剣を振るう。黒い何かは俺のバリアに衝突して、ずるりと床に落ちた。それは真っ黒い格好をした何者かで、胴体が真っ二つに切断されている。いや、俺が斬ったのか。
「大丈夫ですか!?」
爺さんが側に駆け寄ってきたが、見る見るうちに血溜まりを広げる黒装束に気付いて、それ以上は何も言わずドアの方の警戒に戻っていった。
「な、何なのですかいったい……」
ニコルがちらりと振り向き、今にも泣き出しそうな、でも強がった様子で呟いている。並の幼女なら悲鳴を上げるか失禁でもするだろうに、メンタル強いな。屋敷が襲撃されたというし、似たような光景を最近見たせいで感覚が麻痺しているのかもしれない。
「ありがとうございます、ヌルさん」
「いえ、これくらいは……」
ユスティーナも振り向いたのだろう。背中越しに礼を言ってきたので、俺は冷静を装って応じておいた。内心では割とかなり動揺しており、魔剣を持つ手がちょっと震えてしまう。
「……………………」
人、殺しちゃったよ……。
去年の一件以来で、今回も誰かを守るためとはいえ、後味は最悪だ。相手が大人の男っぽいのが不幸中の幸いだろう。しかも黒装束という怪しい格好は如何にも悪者っぽい。
というか……なんかこの黒装束、今まさに俺が着ている狂信者ローブと作りが似てるな。フード付きだし、フェイスベールもしてるし、ぱっと見は色違いにしか見えん。ドライたちと敵対関係にある教団の奴なのかもしれない。状況的にその可能性は高い。
「――っ!?」
またしても窓から何者かが飛び込んできたので、反射的に魔剣を振う。が、その一撃は黄金色の輝きに遮られ、弾かれた。
「落ち着かぬか、馬鹿者」
「あ……すみません」
ゼフィラだった。見たところ灰色のローブに返り血はなく、綺麗なものだ。
やはり彼女は柄頭も捻らず魔剣の刀身を消失させると、足下に転がる死体を一瞥して言った。
「ひとまずは片付いたが、見届け役と思しき者を二人逃がした」
「見届け役?」
「いざというときの保険だの。此度のように返り討ちに遭い全滅することも想定しておるのだろう。故に、最低でも一人は必ず少し離れた地点に潜み、現場を監視する者がおる」
な、なるへそ……慎重派な連中のようだ。確実に対象を抹殺し、情報の拡散を防ぐという強い目的意識が感じられる。《黄昏の調べ》と同等以上に厄介そうな組織だな。
そう思いつつバリアを解除すると、ニコルちゃんが慌てたように声を上げた。
「に、逃げられたなら不味いのです! 今すぐここを離れてどこかに隠れないと、また襲われるのですっ!」
「案ずるでない。まだ捕捉はできておる。が、こうも人の多い街ではあまり長時間は難しいのでな、妾はすぐに追う。小童はそやつらをどこか適当な場所に移し、大人しくしておれ」
「捕捉ってどういうことなのです!? きちんと追い掛けてぶっ殺せるのですかっ!?」
「ここで余計な問答に時間を取られ、見失わぬ限りはの。いいから小娘は黙っておれ」
正直、ゼフィラの強さはよく知らなかったが、今この場ではかなり頼りになる印象を受ける。普段から偉そうにふんぞり返っているだけのことはあるな。
色々不安だし早く話を聞き出したいから、できれば一緒にいてほしいけど……敵を逃がすのは非常によろしくないし、仕方ないか。
「場所を移すって、どこに行けばいいんです?」
「その程度お主が考えよ……と言ってやる前に」
ゼフィラは俺からユスティーナたちに視線を転じ、確信的な口振りで問いを投げる。
「お主ら念のため訊いておくが、当てもなくこの街まで来たわけではなかろう?」
「はい。ですが、その……相手方を信用して良いものかどうか……」
デュークは子爵家の執事というのも納得の物腰で、誰にでも等しく礼儀正しそうな感じの爺さんだ。しかし、ゼフィラに対する言動にはどことなく畏れのような恭しさが一段と滲み出ていた。
「その様子だと、旧王国派とやらを頼ろうとしておったのだな」
「……仰る通りです」
「どうして知ってやがるのですか!? ま、まさか今の襲撃はあたしたちを信用させるための仕込みで、やっぱり本当は敵の一味なのですかっ!?」
「こら、ニコル。混乱するのも分かるけれど、もう私たちを発見したのだから、そんな手間の掛かることをわざわざするはずがないでしょう。何人も死んでいるのよ」
ニコルとユスティーナの遣り取りは気にせず、俺は旧王国派という言葉に思考を割いた。今この状況でゼフィラがそれを口にしたということは、やはり昼の一件は今回のことと無関係ではないのだろう。
「つまり……こういうことですか? 何の当てもなくこの街まで来るはずがない。しかし、先ほどユスティーナさんは『無関係の宿の方たち』と言っていましたから、現在泊まっているここはユスティーナさんたちとは無縁の宿。となれば、頼ろうと思っていた人たちが頼れなくなったと考えるのが自然です」
「そういうことだの。連中、お主らがこの街に来て旧王国派とやらを頼るだろうことは見当が付いておっても、その旧王国派の連中全てを把握し切れておるわけでなく、どこに潜伏しておるのかも不明な状況であったのだろう」
「それで昼の事件ですか……」
あの公開処刑めいた惨劇は《夜天の紅》の工作と見て間違いなさそうだ。濡れ衣を着せられる旧王国派以外の人たちからすると、アレが不幸な事故でないとしたら、まず間違いなく旧王国派の仕業だと考えるはずだ。実際、俺たちがそうだった。更に、誰でも無料で観劇できる野外劇場での事件となれば、噂もすぐに広まるはずだ。
もしユスティーナたちがまだ旧王国派と接触していない場合は、頼ろうと思っていた旧王国派に少なからぬ不信感を与えることができる。それで接触を控えたり、ユスティーナたちの動きが鈍くなったりするだろう。現にそうなっている。
もしユスティーナたちが既に旧王国派と接触していた場合も同様だ。ユスティーナが出産間近という状況にあるなら、おそらくこの街で出産し、海路で遠方に逃れるような算段だったのだろう。しかし、あんな卑劣な真似をする連中のもとで出産するなど不安だ……とでもユスティーナたちに思わせられれば、旧王国派のもとを離れ、教会かどこかに逃げ込むなりするかもしれない。一旦潜伏をといて、表に出てくるかもしれない。
いずれにせよ、心理的な負荷を掛けることで冷静な思考力を奪えれば、追い込みやすくなる。命を狙われている上に出産を控えているとか、ただでさえ不安なはずだ。ユスティーナだけでなくデュークたちも余裕の少ない状況であれば、精神攻撃は俺が思う以上に有効的だろう。
「では、野外劇場で起きたという事故は《夜天の紅》という組織の仕業で、わたくし共は当初の予定通り動いて問題ないと?」
「どうだろうの、保証はしかねる」
デュークの問いにゼフィラは他人事のように肩を竦めた。
「連中がこの街の旧王国派について把握し切れておらぬのは、急な事態故に対応が遅れておるだけと見るべきであろうな。連中の力を侮らぬことだ。数日以内には旧王国派が《夜天の紅》の傀儡となり、お主らを捕縛すべく動くであろう」
「それが本当だとしたら、相当な力を有した組織ですな。やはり教会に助けを求めるのは不味いのでしょうか?」
「お主も薄々感付いておる通り、それは最も愚かな選択と言わざるを得ぬな」
駆け込み寺みたく教会を頼るなんて、誰でもすぐに思い付く。だから当然、敵も教会付近に見張りを配して警戒しているだろう。そもそも、謎の暗殺拉致集団に対抗できるだけの戦力がこの街の教会にあるとは限らない。
ユスティーナは黙して考え始めた執事をちらりと横目に見てから、ゼフィラに顔を向けた。
「では、リナリアさんはどうするのが良いと思いますか?」
「それはそこの小童に尋ねるが良い。妾は残敵を叩きに行く故、後は任せたぞ小童。せいぜい上手くやってみせよ」
「え、いや……急にそんなこと言われても……」
ぽんと肩を叩かれて戸惑う俺を残し、銀髪美少女は去っていった。それはもう颯爽と、心配する素振りもなく、引き止める間もなく、一人で窓の向こうに飛び降りていってしまった。
「……………………」
四人が俺の背に注目していることが分かる。
そりゃあ、確かにね、ドライからは妊婦が助かるかどうかは俺の判断や行動次第とか言われたよ。でも、まだ状況把握も十分ではないし、《夜天の紅》についてはゼフィラの方が詳しそうだったから、彼女に色々相談して決めたかった。いや、というより、もうゼフィえもんに全部任せてしまいたかった。
しかし、残敵を逃がすわけにはいかない以上、今は俺がどうするか決める必要があるのだろう。単にユスティーナたちに同行して護衛するだけでも、それはそれで一つの判断だから問題はないだろうが……。
「それでどうするのですか!? ぼけっと突っ立ってる場合ではないのです!」
急かすニコルの声で俺は振り返り、四人と向き合う。みんな程度の差こそあれ表情には不安の色が見られ、俺の意見を求めているようだった。
「では……とりあえず、移動しましょう」
「どこにですかっ!?」
ニコルは部屋の隅に置いてあった大きなリュックを小さな身体で背負いながら尋ねてくる。すばしっこい幼女だ。テキパキとした動きからも、せっかちな性格なのが分かる。
「……ユスティーナさん、出産のご予定はいつ頃ですか?」
「時期的には、もう今このときにでも陣痛が始まってもおかしくないので、おそらく一節以内には生まれるものと思います」
「どこか身を隠せる安全な場所はないでしょうか?」
俺より人生経験豊富な爺さんの方が良案を思い付きそうなものだが、爺さんの目には少なからぬ期待感が見て取れるような気がする。この人、俺がゼフィラと同程度に凄い奴だとでも思ってるのかね。
「…………私は、造船所が良いと思います」
「なるほど。では造船所に行きましょうか」
え、爺さんそんな即断即決でいいの?
大丈夫? こんな不審者のアイディアだよ?
内心動揺する俺を余所に、爺さんもリュックを背負っている。もう一人の幼女は俺の持って来たランタン型の魔石灯を手にし、妊婦は何も持っていない。いや、ユスティーナはお腹に繊細な命を抱えているか。
「先頭はわたくし、後ろにお嬢様とニコルとニコラ、ヌル様は最後尾をお願いします」
「分かりました」
「では、くれぐれも警戒を怠らぬよう、慎重かつ大胆に行きましょうか」
あまり緊張感のない穏やかな口振りで宣言したデュークに続いて、みんなでぞろぞろと部屋を出た。
老執事に相応しい落ち着いた言動を見るに、俺が言い出す前から、爺さんも造船所はいいかもしれないと思っていたのだろう。
今はお祭りの期間だから、飲食店などと違って特にお祭り特需のない造船所は操業を停止しているはずだ。船大工たちは酒でも飲んで休暇を楽しみ、仕事場には誰もいないか、いたとしても数人で、夜なら人気はほぼないだろう。だからもし戦いになったとしても、無関係の人を巻き込むようなことにはならない。とりあえずは造りかけの船の中にでも潜んで身を隠し、後のことはゼフィラと合流してから相談だ。
それと万が一、今夜のうちにユスティーナが産気づいたとしても、出産できなくはない場所のはずだ。爺さんもそう思ったから、すんなり頷いたのだろう。
「め、滅茶苦茶なのです……」
宿の廊下や中庭には死体が散乱していた。ざっと見る限り、優に十人以上はいる。どいつもこいつも黒装束で、武器はいずれも短剣な上に、柱には投げナイフが刺さっていたりもしているので、何だかますます暗殺者集団っぽい感じがする。
「魔法の痕跡がほとんどありませんね。あの年頃の魔女で、魔剣だけでこの実力とは……ヌルさんもさぞお強いのでしょうね」
「い、いえ……どうでしょうね」
ユスティーナは血みどろの光景を前にしても、さほど臆した様子はない。件のエルヴィンは妻を庇って死んだという話なので、夫が目の前で殺されれば、もう並大抵のことでは動じないのだろう。
俺たちは血溜まりや死体を踏まないように歩みを進め、凄惨な現場を抜けて正面入口から宿を出た。この辺の通りはあまり騒がしくなく、街明かりもほとんどないが、視界が利かないほどではない。それでも魔石灯の光がなければ、夜闇に不安を煽られていたかもしれない。
いや、今でも十分に不安なんだけどね……。
♀ ♀ ♀
造船所と一口に言っても様々だ。
これまでに俺が訪れたことのある港町は、いずれも船舶の出入りが多い中規模以上の港だったから、どの港町にも最低一つは造船所があった。ドラゼン号を購入したボアほど大きな港湾都市ともなると五つも造船所があり、中には大型船の建造専門だったり、修理専門だったりと、業務が特化したところもあったし、船を収容するドックが船台式か乾ドック式かで異なっていたりもした。これまでの印象からすると、この世界では船台式のドックの方が多く、新造も修理もどちらも手広く行う造船所が一般的なようだ。
ここローレルには造船所が三つあり、うち一つは軍用だ。港湾部の一部は王国海軍の軍港として機能していて、実際に軍船が何隻か停泊している。そちらは関係者以外立入禁止の区画となっているため、俺たちが向かったのはもちろん民間の造船所だ。
「……人の声や物音は聞こえないのです」
ニコルが獣耳をピクピクと可愛らしく微動させながら呟いた。その隣では妹のニコラが同意するようにうんうんと頷いている。
海に面した造船所の敷地は簡素な柵でぐるりと囲まれており、正面入口は両開きの大きな門で閉ざされていた。俺たちは正面から人気のない側面に回り込み、まずはニコルとニコラが柵によじ登って偵察となった。
こういうとき、獣人の優れた聴覚と夜目の利く視覚は便利だな。俺も〈反重之理〉で浮き上がって柵の上から顔を出しているが、暗くてよく分からん。
「誰もいなさそうなのです」
「それではお邪魔させて頂きましょうか」
地面に降りてデュークに報告すると、彼は頷きながら俺を見てきた。
「ヌル様、こちらの柵を斬って頂けませんか。お嬢様の身に万が一のことがあってからでは遅いですから」
「それは構いませんが、〈浮水之理〉は使えないのですか?」
「申し訳ありません。私も魔女でこそありますが、恥ずかしながら非才の身で……」
十七歳の魔女なら上級魔法くらい使えると思ったんだが、使えないのか。もしかしたら適性属性が火で、反属性の水は苦手なのかもしれん。どうであれ、海側から回り込めれば楽に侵入できるんだけどな。まあ、使えたら爺さんも最初から柵を斬れなんて頼まないか。
今いるところは草木が生い茂っていて、昼でも外からはほとんど見えないはずだ。俺は魔剣で柵を斬り、人が通れるくらいの穴を作った。
爺さんから順番に穴を通って造船所の敷地内に入り、念のため穴は近くにあった木板を立て掛けることで塞いでおく。こうした木材は敷地内のあちこちに山積みされており、奥の方に進んで行く途中にも多数見られる。おかげで物陰が多く、もし見付かっても逃げやすそうだ。
「ここが良さそうですね」
小声で言いながら爺さんが指差したのは造りかけの小型船だった。全長十メートルほどの船体はドラゼン号とは比べるまでもなく小振りだ。他にも同じような大きさの船が幾つかあり、いずれも程度の差こそあれ造りかけだった。
造船所の敷地内には作業小屋と思しき建物や大きな船台式のドックもあり、ドックは傾斜した船台部分と大きな屋根だけなので、内部は丸見えだ。さっき近くを通ったとき、何隻か船が収容されているのが見えて、隠れるだけならそちらの方が良さげだった。が、逃げるときのことを考えると、逃げやすいこちらの方がいい。ユスティーナが〈浮水之理〉を使えれば、ドックの方でも問題なかったが。
「お嬢様、お気を付けて」
小型船の傍らには工事現場などで見られる足場が組まれていて、簡素な階段で上れるようになっている。既に小型船は船底部分は完全に出来ているようで、現在は上部を仕上げているのだろう。
「お前たちっ、そこで何をしている!?」
階段を上がる妊婦さんを下から見守っていると、不意に背後から鋭い叱声が飛んできた。ユスティーナは足を踏み外しかけるが、両脇から支える双子のおかげで事なきを得る。
完全に不意を突かれたせいで、俺は一瞬びくりと硬直してしまい、ワンテンポ遅れて振り返った。
「――なんてね。驚いた?」
少年がいた。
一瞬前とは打って変わって戯けた声で言い、微笑んでいる。
小綺麗な身形は貴族か豪商の倅といった様子で、見た感じ年頃は十歳かそこらだろう。痩せても太ってもおらず、身長体格はウェインより少しいいくらいだ。こざっぱりとした茶髪の色艶は良く、生白い肌は傷一つなく、背筋を伸ばして立つその姿は一見すると温室育ちのお坊ちゃんだ。
「あぁ、ごめんね、妊婦には危なかったかな。下手したらお腹の子が死んじゃうもんね」
声変わり前の愛嬌ある声音にも、朗らかな笑顔にも、悪意は見られない。かといって無邪気という印象でもなく、どこか得体の知れない不気味さが感じられる。
「どちら様ですかな?」
俺の背後――階段上にいるデュークが誰何の声を上げた。その口振りは落ち着いてこそいるが、隠し切れない怪訝さも覗いている。
「ここの経営者の息子だよ……って言ったら信じるかな?」
少年に臆した様子はなく、自然体にしか見えない。俺みたいな怪しさ満点の白装束と一人で相対している状況を考えれば、堂々とすらしている。
「この状況からすると、信じるしかありませんな」
確かに爺さんの言うとおり、こんな真夜中の造船所に子供が一人でいる理由など、経営者の身内という線以外には考えがたい。小汚い身形だったら浮浪児と思えただろうが、どう見てもいいとこ育ちの坊ちゃんって感じだしな……と、俺もそう考えただろう。
少年の両目が赤くなければ。
「……鬼人」
「おや、やっぱり君は気付いたね。まあ、そんなあからさまに《夜天の紅》と対照的な格好しちゃってるし、気付かない振りしてもバレバレだったけれど」
少年然とした声や姿に反し、鷹揚な口調や泰然とした物腰に子供らしさは微塵もない。それどころか自分より年上とすら感じられる。そのちぐはぐな印象が得体の知れない不気味さの正体なのだろう。それはゼフィラで慣れ親しみ、すっかり麻痺している感覚のはずなのに、彼女以外が相手だとしっかり違和感として機能するようだ。
「はじめまして。僕の名前はクレサーク。一応《夜天の紅》の教祖ということになるのかな」
「……………………」
「今宵は君たちにどうしても尋ねたいことがあって、声を掛けさせてもらったよ。お互いに手間を省くためにも、正直に答えてもらえると助かるな」
クレサークという自称教祖様からは敵意も悪意も感じられない。
俺はどうすべきなのか判断に窮したこともあり、下手に動けなかった。ユスティーナたちは背後にいるので、どういう反応をしているのかは不明だが、ニコルが静かすぎることからしても、少年の超然とした雰囲気に戸惑い、気圧され、緊張しているように思う。
「身重の君、ユスティーナだったかな? 君の今は亡き夫、エルヴィン・マティアーシュについて、幾つか尋ねたいのだけれど……座ったらどうだい? 立ちっぱなしは辛いだろう?」
「……………………」
ちらりと振り返ってみると、既に階段を上りきっているユスティーナは座ろうとせず、全身を強張らせたように、やや身構えた様子で立ったままだ。デュークは彼女の一歩前、階段を一段下りたところで、紅の眼差しからお嬢様を遮るようにして立っている。
「まあ、そちらがそれでいいなら僕は構わないよ。それで本題だけれど――」
「――っ!?」
突然、何の前触れもなく、人影が降ってきた。
俺の目の前にほとんど無音で着地したそいつは革のブーツにスキニージーンズめいたタイトなズボン、そして翼人がよく着ているホルターネックという動きやすそうな出で立ちをしている。背中の半ばと両腕が肩まで露出しているため、周囲の夜闇とのコントラストで生白さが際立っている。ふわりと遅れて垂れ下がった長い髪も同様で、魔石灯の光を美しく反射させていた。
一瞬誰だと思ったが、銀髪と小脇に抱えられた灰色ローブのおかげで、すぐにゼフィラだと気付けた。
「おや、君だったのか。僕はてっきりベオさんだと思っていたよ。妊婦を助けるために迫り来る刺客と戦うとか、如何にもあの人がしそうなことだしね」
「……なぜ貴様がここにおる、クレサーク」
ゼフィラの声からは普段の悠然とした余裕があまり感じられず、低く抑えられた口調なのもあって、珍しく真面目な様子なのが窺い知れた。
「それはこちらの台詞でもあるのだけれどね、ゼフィラ。もしかしてそこの人たち、君の大切な人だった? 君やその白装束の子は報告になかったし、最初から君が助力していたら、彼女らもここまで追い詰められはしなかったはず……とすると、彼女らは旧王国の残党などではなく、君を頼ってこの街に来たのかな?」
「相変わらずお喋りな奴だの……」
流れるように繰り出される少年の言葉に対し、ゼフィラは呆れたように溜息を吐いている。そこには少なからぬ懐旧の念が込められていて、表情は見えずとも微苦笑しているのが分かった。
「妾のことはともかく、お主はどうなのだ? わざわざお主自ら動くとは、どういう風の吹き回しかの? 教祖の仕事は本部でふんぞり返って指示を下すことであろうに」
「普段はそうなんだけれどね。今回は少し特別というか、気になることがあってさ。たまには世情に直接触れておきたかったのもあって、こうして散歩ついでに出向いたんだよ」
二人の遣り取りは端から見る限り友人知人のそれで、どちらも敵意や害意といった剣呑な雰囲気とは程遠い。先ほどゼフィラが覗かせた真剣味も今はなく、雑談でもするような気安さしか見て取れない。
「そうしたら、この街には大きな反応が幾つもあるじゃないか。しかも明らかに魔力の減り方がおかしい〈瞬転〉、その原因の一端と思しき子は案の定な適性者。僕の可愛い猟犬たちは不自然な動きで次々と反応が消失……興味深い出来事の連続で久々に胸が躍ったよ」
「それは良かったの。では礼として、先ほどの気になることとやらを教えよ」
ゼフィラ以外の鬼人は初めてだったから、誘拐だの洗脳だのを連想して緊張しちゃってたけど、この分なら大丈夫そうだな。クレサークも悪い奴には見えないし、むしろフレンドリーで親しみやすそうだ。
現に少年然とした鬼人君はゼフィラの偉そうな態度を前にしても気分を害した素振りもなく、それどころか微笑みながら快く頷いた。
「いいよ。君も一応今回の件には関わっているみたいだしね」
俺はひとまず警戒を解き、しかし念のためゼフィラより前には出ず、二人の会話を傍聴することにした――その矢先。
「ゼフィラ、君は転生者というのを知っているかい?」
まさかの爆弾発言に全身が強張った。
先ほどユスティーナから話を聞けていなければ、いきなり転生者とか聞いても呆気にとられただけだったろうが、聞けたおかげで受け入れ準備はできていた。クレサークが現れる前までは、腰を落ち着けたらユスティーナに旦那さんの詳細な情報を尋ねるつもりでいたのだ。
すなわち、エルヴィン・マティアーシュが俺と同様に異世界転生を果たした人物なのか否か、見極めるつもりだった。何も俺だけが特別に転生できただなんて、そんな都合の良い思い込みはなかったから、他にも転生者が存在する可能性を具体的に提示されれば、肯定的に捉えざるを得ない。
「……わざわざ尋ねるということは、妖精族のことではなさそうだの」
「うん、妖精のそれとは別種の転生らしい。その様子だと君は知らないみたいだね」
妖精族って転生するのか。
そんなこと今まで読んできた本には載ってなかったぞ。
「知っての通り、妖精族は死後再び妖精として生まれ変わる。それはこの星の、この世界の内側で完結した輪廻だけれど、僕の言う転生者はこの法則の外側――別の世界で死に、この世界に生まれ変わった者のことさ」
「……………………」
「いや、信じがたい気持ちは分かるよ。でも残念ながら冗談ではなくて、どうもそういう人たちが存在するみたいなんだ。困ったことにね」
困ったことなのか……そうかぁ……。
まあでも、よく考えればそうだよな。徒に異世界の知識を持ち込まれれば、この世界も混乱するだろう。良い影響と同じくらい、悪い影響だって及ぼすはずなのだ。どこの馬の骨とも知れない余所者に自分たちの世界を荒らされるとか、俺だって嫌だと思う。
幸い、俺はまだ現代知識無双はしていないから、この世界の人たちに迷惑は掛けていないはずだ。あ……いや、何枚かレオナの萌え絵を描いて売っちゃったけど、それくらいはいいよね?
「なるほど。転生者とやらの真偽はともかくとして、そこの小娘の旦那がそうなのではないかと考え、お主自らが動いておるわけか」
「そういうことだね。もし本当に……いや、ほぼ確実に存在する転生者を放置しておけば、僕らにとって面倒な事態になりかねないからね」
クレサークが教祖の謎教団って、実はいい奴らなのかもしれん。もちろん、どんな理由があろうと人殺しはいけないと思うけど、少なくとも絶対悪だとは糾弾できそうにない。
《夜天の紅》という組織は、世界が混乱しないように転生者を排除しているのだとすれば、この世界の人たちからすると秩序の番人みたいな存在といえる。無論、俺からすれば脅威以外の何物でもないが、俺という転生者はこの世界にとって異質な存在なのだから、俺が文句を言える筋合いではない。
もし仮にエルヴィンが転生者だとすると、彼は前世の記憶という異質な知識によって世の中を発展させようとした。しかし、それは鬼人からすると――天災やら何やらで文明がリセットされたり衰退するのを見てきた者からすると、不自然な発展にしか見えないはずだ。急激な文明レベルの進化は予期せぬ混乱を呼び、様々な弊害が生じることだろう。
エルヴィンの周りにいた人たちは自分たちの生活が豊かになることを単純に喜べたかもしれないが、所詮それは局所的な一側面に過ぎず、大局的に見れば世の中を混乱させ、平和を脅かそうとしたとも考えられる。
エルヴィンが俺と同じ世界の同じ時代出身とは限らないけど、とにかく彼が前世の経験を存分に活かして無双した結果として、少なからず世が乱れた。もしくは乱れそうになった。ユスティーナの話を聞く限り、エルヴィンはおそらく善人で、この未発達な世界をより良くしようと善意から行動していたのだろうが、この世界の有識者たちからすると、余計なお世話のありがた迷惑だと思われても不思議はない。
仮に前世で宇宙人が地球人に混じって何かやらかそうとしていることに気付けば、どの国の政府も黙ってはいないだろう。ブラックなメンみたいな組織を作って対処するはずだ。
「実在するという根拠はあるのかの?」
「もちろんさ」
ゼフィラの懐疑的な口振りを気にした風もなく、クレサークは軽快に頷いて続けた。
「切っ掛けは……聖歴200年くらいの頃だったかな。あの頃はまだ《夜天の紅》もそれほど活動する機会がなくて、割とのんびりとしていたんだけれど、辺境の田舎町にいきなり魔導四輪車を開発したっていう連中が現れてね。これは不味いと駆け付けて、関係者を全員捕らえて尋問したんだ」
何だか凄い話になってきたような気がする。
俺は妊婦さんたちの危機という状況を棚上げにして、少年の話に耳を傾けてしまう。
「すると、首謀者の若者がこう言ったらしいんだよ。自分はただ前世の知識を活用しただけだってね。当然、尋問官はからかわれているのかと思って、締め上げた。それでも若者は主張を覆さない。そこで試しに、その前世とやらについて尋ねてみると、かなり詳細な情報が出てくるときた」
ユスティーナたちも逃げ出そうとはせず、階段の上から話を聞いているようだ。この場の主な光源はニコラの持つランタン型の魔石灯だけなので、ぼんやりと照らし出されているクレサークの姿もあって、まるで怪談しているような雰囲気だった。
「それで僕に報告が上がってきて、僕もその若者に会ってみたんだ。もうそのときには限界ぎりぎりまで締め上げられてて、回復不能なくらい精神的に危うい状態だったから、正気か否かの判別は難しかった。でも、作り話だと一蹴するにはその前世とやらの情報はかなり具体的で、僕にとっても未知で、とても引っ掛かったんだ。結局、その若者は狂死しちゃったから真偽の程は不明のまま終わってしまったんだけれど……これが一件目だね」
おい待て、なんかお前尋問とか言ってるけど、それ実際は拷問なんじゃないの? 精神的にかなり追い詰めるようなことしたから、そいつ正気を失ったり狂死したりしたんでしょ?
つまり転生者だとバレたら、ただ殺されるのではなく、拷問されて洗いざらい吐かされた挙句に気が狂うような苦しみの中で死ぬってこと……?
これがマジだったら怪談どころの話じゃねえぞ!
この世界の人たちにとってはともかく、俺にとって《夜天の紅》は明確な敵だ。絶対に俺が転生者だと気付かれてはいけない。絶対にだ!
「二件目は聖歴550年くらいだったかな。今度は蒸気機関が現れてね。前回と同様に、当時の技術水準から大きく逸脱した突然の出現で、僕らはすぐに関係者を全員捕らえて尋問した」
このガキ……あくまでも尋問と言い張るつもりか。
「すると、またしても首謀者の若者が転生だとか言い出したようでね。僕は直接話を聞こうとしたんだけれど、その前に若者が脱走しようとしたところを獄吏が誤って殺してしまってね。おかげで二度目も真偽を計り損ねちゃったんだけれど……やはりどうにも引っ掛かった。これが二件目だね」
現代知識無双をしていなくて良かったと心の底から思った。
俺もいつかは前世の記憶を頼りに、色々と便利な物でも作ろうかなと考えていた。シティールに到着して落ち着いたら、時間的にも精神的にも余裕ができるだろうし、何か新しいことを始めるのにちょうど良さそうだったからな。
これまではこの世界できちんと生き抜いていけるように、この世界について広く学ぶ必要があったから、インプットに専念してアウトプットはほとんどしてこなかった。現代知識無双をしようにも、異世界だろうと現実はそう甘くないので、まずは地に足着けないことには何事も成せそうにないと思っていた。だから、たくさん本を読んで、多くの言語を学んで、魔法も練習して、たとえ一人でも生きていけるように、この世界に適応すべく努力していた。
それを抜きにしても、リュースの館での生活は快適で、特に不自由を感じなかった。前世に存在した便利な道具などを手間暇掛けてまでわざわざ作る必要に駆られなかったのだ。仮に何かしら現代知識による発明をしても、魔大陸という世界の僻地ではそう目立つこともなかったと思うから、《夜天の紅》に目を付けられる可能性は低かっただろう……たぶん、きっと。
だからレオナの萌え絵については大丈夫なはずだ。
ドライたちは俺に転生者だと気付かれてはいけないと忠告するために、今回の件に俺を介入させたはずなので、当時あいつらが何も言ってこなかったということは問題ないということのはずだ。この世界の美術史を乱すような事態にはならないはずなので、どうか勘弁して頂きたい。
「そして、今回だ。君も知っての通り、エルヴィンはただの農家の生まれにしては異常な経歴の持ち主だった。もし彼がある程度の人生経験を積んだ中年以上の者だったら、よくある案件だと思って僕も怪しまなかったけれど、転生者の件は一件目も二件目も首謀者が十代の若者だったからね。今回もそうだったから、もしやと思って捕縛を厳命したんだ。でも……二度あることは三度あるね、また僕が話を聞く前に死なれてしまったよ」
こんなことを思うのも何だけど、エルヴィンはあっさり死ねてラッキーだったのかもしれないな。少なくとも、拷問されて苦痛と恐怖と狂気に溺れて死ぬよりはマシなはずだ。仮に逃げ延びて生き残ったとしても、一生《夜天の紅》に追われ続ける逃亡生活になったかもしれない。
エルヴィンのセカンドライフは現代知識無双を試みた時点で詰んでいたのだ。
「ふむ……つまり依然として転生者とやらが実在する確証はないのであろう。確かに可能性それ自体は否定せぬが、今の段階では妄想の域を出ぬ」
「そうかな? 僕より君の方が納得のいく話だと思うけれど」
ふと疑問を覚えた。
もし本当にゼフィラが転生者について何も知らなかったとしたら、今回の件に介入する俺の協力者という役目は不向きなんじゃないのか? ゼフィラが色々知っていないと俺を正しくサポートしたり、宿で話をしたときみたいに解説したりできないじゃん。
…………ん? あれ?
何かおかしいと思うのは気のせいか?
今この状況ってドライたちの想定の範囲内なの?
「僕たちと違って、ゼフィラは市井に混じって日々を過しているんだよね? それなら、今の世の技術水準と生活水準の均衡が歪だと思ったことはないかい?」
「……………………」
「今の世は食文化や服飾文化といった日常生活に密接に関わる部分だけ、他の分野より妙に先行している節がある。本来なら様々な分野が相互に影響を与え合いながら、全体が足並みを揃えて進歩していくはずなのに、食や美に関しては想定の水準から大きく逸脱しているんだ」
現状に対する漠然とした不安はあれど、クレサークの話が興味深すぎて、不安感より好奇心の方が勝ってしまう。
「それはお主らがもたらした歪みであろう」
「いや、僕たちが抑止してきた技術水準よりもかなり先行しているんだよ。特に驚いたのが女性用下着でね。あんなの最盛期の頃とそう大差ないじゃないか。なんだい、あの洗練された美しさは。今の文明水準の遥か先の美意識がなければ、あんなものが中産階級にまで普及するはずないんだ」
確かに、それは一理あるね。
俺もこの世界で初めてパンツを穿いた当時、下着の完成度には驚かされたものだ。高級品に限るとはいえ、ブラジャーもパンツも前世とそう大差ないクオリティだし、ガーターベルトやパンストまで存在し、都市部で普通に売っているくらいには普及しているのだ。
魔法が存在する世界なんだから、前世とは色々訳が違うんだと納得していたけど、やはりこの世界の住人からしてもおかしかったんだな。
「人々の食や美に懸ける情熱がお主らの想定以上だったということであろう」
「そうかもしれない。でも、人々の生活に余裕がなければ、そっち方面の進歩は他より滞るはずなんだよ。でも実際はその逆のことが起きている。これは転生者が異質な影響を与えた結果だとは考えられないかい?」
その点に関しては全面的に同意せざるを得ない。
きっと今より前の時代に転生した誰かが作ったんだ。
そいつには最大の賛辞を送りたい。いくら知識があったって、色々と未発達なこの世界で高品質な下着を生み出すのは大変な苦労を伴ったはずだ。様々な技術的制約の中で、相当な情熱を持って長期的に取り組まなければ、今ほど普及してはいなかっただろう。
現代知識無双もそう簡単ではないはずなのだ。
「さて、どうかの。他にも可能性はあると思うが」
「まあ、とにかくさ。僕たちは軍事転用可能な技術方面を注視せざるを得ないし、食や美については幾ら発展しようと構わないと思っているけれど、でもそれが転生者という異常な存在によるものだとしたら、座視するわけにはいかないんだ」
あ……やっぱお前、転生者は絶対殺すマンなの?
というか、これまでの話を総合して考えてみると、クレサークは人類の技術的進歩を阻止するために動いていて、転生者への対処はあくまでもその一環という印象を受ける。だから現代知識無双をしない限り、俺は今後も目を付けられることはないはずだ。
なぜ人類の歩みを妨げようとするのかは分からないが、これまで通り大人しくしていれば目を付けられることはないだろう。あ、でも鬼人って空属性適性者をドナドナするんだっけ?
「――っと、少し脱線しちゃったね。エルヴィン・マティアーシュの話に戻ろう」
茶髪で紅眼のお坊ちゃんは思い出したように微苦笑し、少年らしい声に少年らしからぬ知性を宿したまま続ける。
「容疑者のエルヴィンには直接話を聞けなかったんだけれど、彼と特に親しかった人になら転生や前世について話しているかもしれないと思ってね。だから、こうして容疑者の奥さんにわざわざ僕自ら会いに来たというわけなんだ」
そこでクレサークは正面に立つゼフィラから視線を逸らし、地上二リーギスほどの足場に立ったままのユスティーナを見遣った。当の妊婦さんは真っ赤な瞳からの直視に気圧されたのか、一瞬びくりと身体を震わせている。
「どうだい、ユスティーナ。夫から何か聞いていないかな?」
「…………いえ、そういったことは、何も」
妊婦さんの表情は硬く強張っている。それは緊張感のせいではなく、様々な感情が入り乱れた複雑な面持ちとして、結果的にそうなっているように見えた。愛する夫を殺され、他の親しい人たちも殺されたか捕らえられ、自らは身重の身体で追い回されてきたのだ。人生を滅茶苦茶にした元凶である《夜天の紅》の自称親玉を前にして、取り乱さないだけ大したものだった。
「うん、嘘は吐いていないように見えるね。残念だけれど、それならそれで仕方ない」
「フフッ、またしても無駄足だったようだの」
「いや、そうでもないさ。その子は何か知っていそうだからね」
と、今度は俺に紅の瞳が向けられた。
ゼフィラで慣れているとはいえ、あの異様な輝きの目で見られると、何だか少し萎縮してしまう。見透かされているような気がして落ち着かないし、あの瞳の奥に底知れない何かが潜んでいるようで薄気味悪いのだ。
いや、見透かされているようではなく、本当に見透かされているのか。
「表情は隠れてあまり読めないけれど、目元と気配からでも酷く動揺しているのが伝わってくるよ。きっと何か知っているに違いない。あるいは転生者そのものということもあり得る」
ソ、ソンナコトナイデスヨ?
ワタシ全然動揺してないアルよ。
転生者とか意味不明すぎて何のことだか分からないネ。
「ねえ、ゼフィラ。さっき現れたときも今も、君はその子を庇うような振る舞いを見せているけれど、やっぱり君も何か知っているんじゃないのかい?」
「さて、どうかの」
「うーん……君は昔から嘘が上手だったからなぁ」
今し方まではゼフィラの肩越しにクレサークを見ていたが、奴が思案げに目を伏せた好機を見逃さず、俺はすっとゼフィラの背後に隠れた。
頼むぞゼフィえもん、何とかしてくれ。
「ま、どちらでも構わないさ。今度は最初から僕自らが尋問するから、事実は追い追い分かることだしね」
こいつ俺を拷問にかける気満々じゃねえか!
やべえよやべえよ……鬼人の強さとか実際にはよく知らないけど、竜戦の纏ならぬ血戦の纏とやらを使うみたいだし、得体が知れなさすぎて怖すぎる。前にゼフィラは翼作って空飛んでたし、間違いなく常識の通用しない出鱈目な戦い方をするはずだ。
相手は一見すると温室育ちのお坊ちゃんにしか見えないから、全然強くなさそうなのに、なぜか勝てる気が全くしない。今は亡き婆さんの忠告もあって、今すぐにでも逃げ出すべきだと本能が叫んでいる。
「妾がこの小童を渡すと思うのかの?」
「いいや、思わないよ。というわけで、取引といこう。特別にそっちの四人は見逃してあげるから、その少年を僕にくれないかな?」
たった一人の犠牲で、四人(お腹の子を含めれば実質五人)の命が助かるとか、客観的に見れば凄まじくお得な取引だ。
し、信頼し合う仲間として、ゼフィラ様なら一蹴してくださると僕は信じていますが……でもゼフィラだしなぁ……。
「断る」
即答だった。
クレサークの悪魔的な取引どころか、俺が一瞬の間に抱いた不安も纏めて一刀両断するように、はっきりと力強く断言してくれた。
……どうやら俺はゼフィラのことを誤解していたようだ。今後はもっとこの美少女のことを信じよう。普段は何だかんだ偉ぶって無愛想でも、根は優しい人なんだ。きっとツンデレなだけで本当は俺のことが大好きに違いない。
俺も大好きだぜ、ゼフィラ。
「やっぱりそこの四人は君ではなく、その少年にとって大切な人たちというわけなのかな? そして君にとってはその少年こそが大切というわけなんだね。君が定命の者に入れ込むなんて珍しい。この千年で少し変わった?」
「そういうお主は変わらぬな」
「まあね。でも、本当にどうしたの? ゼフィラも空属性魔法に希望を見出しちゃった? それともまさか、弟さんを重ねてる?」
ゼフィラ、弟いるのか。
いや、口振りからするといたのか?
どうにもゼフィラは俺を男と認識しているようだし、弟が恋しいなら素直に言ってくれれば、お姉ちゃんと慕ってあげなくもないのに。
「……言って良いことと悪いことの区別がつかぬようになったか、クレサーク」
底冷えするような怒声だった。決して声を荒げているわけでも、俺に向けられているわけでもないのに、思わず身震いしてしまうほどの怒気が込められていた。
にもかかわらず、それを真正面から受けた少年に臆した様子は微塵もなく、それどころか悪戯っぽい笑みを浮かべて小さく肩を揺らした。
「はは、冗談だよ。さっき無駄足だって笑ったことのお返しさ」
クレサークは悪びれもせず堂々と言い返すと、上体を少し傾けて、ゼフィラの背後に隠れた俺を覗き込んできた。
「さて……確認しておくけれど、君はいいのかい? 君が僕と一緒に来てくれないと、四人とも死んじゃうことになるけれど。あ、一応言っておくと、僕は君をこの世界の誰よりも丁重にもてなすつもりだよ」
お前は俺をこの世界の誰よりも手酷く拷問するつもりなんですね、分かります。
「……………………」
でも、俺がドナドナされないと、ユスティーナたちは殺されるんだよな。爺さんは未だしも、あんな可愛い幼女二人と無垢な命を宿した妊婦さんが死ぬなんて、さすがに可哀想だ。ここは危険を冒してでも、戦闘力が未知数の鬼人を相手取って四人を逃がしてやるべきだろうか。
「生憎と小童にとっても、そこの四人に大した価値はない。此度はただの成り行きに過ぎぬ」
ちらりと振り返って逡巡していると、ゼフィラが先ほどの怒りとは程遠い落ち着いた声を薄明かりの中に響かせる。
対するクレサークはほっそりとしたおとがいに指先を当てて目を伏せた。
「本当かな? 本当だとしたら……うーん、困ったなぁ」
いいぞ、困れ困れ。
困った末に帰ってくれ。
お前の組織はこの世界の人たちにとって有益なのかもしれないが、俺にとっては害悪でしかなく、潜在的な敵だ。ここは一つ、今日のことはお互いなかったことにして解散しよう。そうしよう。
そんな俺の願いは次の瞬間に砕け散った。
「それじゃあ、もう力尽くで連れて行くしかないじゃないか」
ぞわりと全身が総毛立った。
クレサークの口振りは先ほどまでと変わらないのに、奴の声は一瞬でこの場の空気を変質させた。気配とか全然分からない鈍感な俺でも感じられるほど、剣呑な雰囲気がひしひしと伝わってくる。これがいわゆる殺気というやつなのだろうか。魔法でも行使されたのかと疑いたくなる謎の重圧によって全身が動かない。蛇に睨まれた蛙さながらに、紅い瞳から目を逸らすこともできない。
「小童」
ふと聞こえた清澄な一声で、ぴりぴりとした纏わり付くような重苦しさが溶け消えた。俺は忘れていた呼吸を再開し、まばたきしつつ少年から目を背け、銀髪を見る。
「お主の言う狂信者共に、鬼人が現れたと伝えに行け。その後お主はこの場に戻らず連中の指示に従うが良い」
「え……あの、ゼフィラさん……?」
「さっさと詠唱せぬか戯け!」
らしくなく余裕のない鋭い叱声で我に返り、俺は震えそうになる声で唱え始めた。
「せ、聖なく邪なく謳い調べる、而して我が理は極致せん」
「おや、既に〈瞬転〉は習得済みなんだね。まあ、さっきの〈瞬転〉もあるし、予想の範囲内ではあるよ」
前方三リーギスほどのところで佇立していた少年がぬるりと歩き出した。妙に残像感のある気色悪い動きだが、さほど戦意の感じられない緩慢な初動だ。
そう思った次の瞬間には鮮血が舞った。最初は目にも止まらぬ早業による相撃ちで、どちらもやられたのかと思った。実際に両者それぞれ両腕から酷く出血しているが、しかし怪我は一切見られない。そもそもゼフィラはその場から動いておらず、クレサークもまだ二リギース以上先にいる。手の届く距離ではない。
しかし、あるいはだからこそ、真っ赤な液体が流れるようにして宙を舞っていた。まるで蜘蛛の足のように幾本も、それ自体が意思を持っているかのように、変幻自在に両者の間で紅い軌跡が奔っている。それらはとても目で追い切れず、具体的に何をどうしているのかまでは分からないが、激しい攻防が展開されていることは確かだろう。
もし以前にゼフィラが飛行しているところを見ていなかったら、俺は詠唱中なのも忘れてあんぐりと大口を開け、馬鹿みたいに見とれていたかもしれない。
「隔絶せし空隙は虚にして無、遠間から嘲笑せし畜生に真を示せ」
「そういえばゼフィラ、再煌刀はどうしたの?」
常人の理解を超えた戦いが幕を開け、まだ三秒ほど。その場から動かないゼフィラに対し、クレサークはのんびりと距離を詰めてくる。まだ小手調べか前哨戦みたいな感じだろうことは察しがついたし、その証拠に舞い踊るような鮮血の激しさは徐々に増している。
クレサークが互いに手の届く至近にまで迫ったところで、示し合わせたように両者が同時に手足を閃かせ、それぞれ後方に弾け飛んだ。かと思えば、ほっそりとした腕が俺の腹部に回されていた。
「其は眼前に在りて後背に存り、彼方は此方と成りて此方は彼方と成り果てん」
「何をぼさっとしておるっ、さっさと逃げぬか戯け共! お主らまでは庇いきれぬぞっ!」
ゼフィラは俺を左脇に抱えるようにして持ちながら、苛立ち交じりに叫んでいる。これまで必死さとは無縁の悠然とした振る舞いが常だった彼女らしからず、言動に余裕がない。
それが現状のヤバさを物語っていると直感し、俺は何とか集中を切らさないように専念する。抱えられたときに驚いて魔剣落としちゃったけど、今は〈霊引〉を使う余裕がない。
「我は雲霞の如く消失し顕現す、故に何人も我が身を捉えること能わず」
「同胞と戦うなんて、いつぶりかな? こんなことになるとは思ってなかったから、僕も魔剣しか持ってきてないんだよね。適当な妖刀でも一本持って来れば良かったよ」
すぐ近くから少年の声が聞こえ、ゼフィラの動きが激しくなる。俺の身体は上下左右様々な方向にGが掛かって揺さぶられるが、しっかりと保持されているため放り出される心配はなさそうだった。それどころか細腕に似合わぬ力強さが頼もしく感じられ、きちんと俺を守ってくれるだろうと思えて安心できる。
だから意外にも不安な気持ちはほとんどないが、集中するために顔は上げず地面だけを見ているので、酔いそうだった。視界の端に映り込む紅の乱舞が不気味すぎるし、少年少女の目まぐるしい足捌きもあって目が回りそうで、もう目蓋を閉じようかと思った。
そこでふと、ゼフィラのベルトに吊り下げられた柄の存在に気付く。
「巧者が無芸を厭うが如く、蒙昧甚だしき雷火が宙を這う様を倦厭せよ」
「ま、その子を確保するのが最良ではあるけれど、逃がしてあげるのもやぶさかでないんだよね。だって逃がしてあげれば、もう一人の方が出てくるんでしょ?」
詠唱中だろうと、聖魔遺物の魔剣であれば柄頭を捻るだけで刀身を作り出せる。柄はスリングのような金具で腰のベルトに吊り下げられており、これは強く引っ張ると外れるようになっている。最近の俺は左手しか使えないが、この構造のおかげで片腕でも素早く使用できるため重宝している。
俺は顔のすぐ近くにある棒状の金属を左手で握り、強く引っ張った。右手がないので柄頭を噛んで保持し、左手を捻ることで刀身を出す。と同時に顔を上げた。端から見たら幼女が口からビーム吐いているように見えただろう。
俺のビームはすぐ間近にまで迫っていた少年の腹部に命中し、腹を半分ほど裂いた。不死身らしいが、ダメージがないわけではないはずだ。驚いて隙くらいは生じるだろう。
「余計な真似をするでない! 集中せぬか馬鹿者っ!」
「ゼフィラ、まだその子に僕たちの性質について話していないのかい? もしかして、只人として見られたくて黙ってるのかな? やっぱりその子に弟さんを重ねて、お姉ちゃんごっこでもしたいのかい?」
叱られた挙句、クレサークはノーダメージだった。いや、服は切れてるけど、その奥からは一切の出血がなく、微笑む顔には驚愕どころか痛痒を感じている様子もない。
これまでゼフィラが聖魔遺物の魔剣を使う際、柄頭も捻らず刀身を出し、刀身の長さも自在に変えられていたような気がするから、まさかとは思っていた。しかし実際に決定的な証拠を目の当たりにしてしまうと、頭が混乱してしまう。鬼人という存在に対する様々な推測が瞬間的に脳裏を過ぎり、集中が切れそうになる。
「嗚呼、神罰を恐れるな忘恩の徒、聡慧たる己が礼法に酔いしれろ」
俺は魔剣と共に思考を放棄し、もう詠唱にだけ意識を集中することにした。
途中まで練り上げた魔力さえきちんと保持していれば、詠唱は中断しても再開できるが、どんなに頑張っても十数秒ほどしか保たない。鉄は熱いうちに打てが魔法の基本であり、中断時間が長引けば長引くほど失敗のリスクが高くなる。
「うーん……さすがに挑発に乗る君ではないか。そっちが多少不利な状況でも、元の実力が大差ない以上、防戦に専念されると膠着しちゃうよね。いや、これじゃあ僕のじり貧か」
今まさに繰り広げられている戦いに俺が介入できそうな余地は全くない。俺はこのファンタジーな世界で魔法による戦闘なら少しは経験済みだから、魔法バトルなら適切に助力できる自信がある。しかし、鬼人同士の戦いはさながら伝奇ものの異能バトルめいていて、この世界の常識から激しく逸脱しており、理解すら追い付かない。きっとユーハ並の達人でなければ、今の俺のように名実共に完全なお荷物状態でいることしかできないだろう。
さっきはクレサークを相手取ってユスティーナたちを逃がしてやろうかなとか考えてたけど、今ではそれが馬鹿な発想だったことに気付ける。ゼフィラがいなければ、自分一人が逃げることすら到底不可能なはずだ。こんな訳分からん異能を駆使する上に不死身なのが本当だとしたら、鬼人を相手に戦うという発想そのものが馬鹿げている。
「いざ其の威を以て頑冥たる窮理を歪め、今此処に瞬転の法を示せ」
「仕方ない。応援が来たら厳しそうだし、今のうちに殺しておくのが良さそうかな」
ふと不穏な台詞が聞こえて、集中が乱れかけた。
先ほどから視界の明るさにほとんど変化がない。それは魔石灯を持つニコルたちがまだこの場から離れていないことを意味しているはずだ。ちらりと顔を上げて確認してみると、ようやくユスティーナが足場から降りたところで、今まさに小走りで駆け出していた。
無事に生き延びてくれよ……と祈りつつ、俺は最後の一言を口にする。
「――〈瞬転〉」
「っ、避けよ小娘!」
視界が白銀の輝きで染まる直前、頭上から舌打ち交じりの叫びが聞こえ、同時にユスティーナたちへと黄金の輝きが飛んでいくのが見えた。巨大な円月輪めいたそれは柄が高速回転している魔剣で、たぶん間違いなく、先ほど俺が手放して地面に落としたものだった。
ユスティーナたちが避けられたのかどうか。
それを見届ける前に、俺はその場から離脱してしまった。