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幼女転生  作者: デブリ
八章・渡航編
184/203

 間話 『冴えた間者の育ちかた 六』

 

 人生とはままならないものだ。

 今日も今日とて張りぼてのような笑みを浮かべて壺を振り、賽の目で一喜一憂できるお気楽な客の相手をしながら、ぼんやりとそう思った。


「ちっくしょぉ、また負けかよ……」

「おい姉ちゃん、早く次頼むぜっ」

「精算が済むまで、もう少々お待ちください」


 馴れ馴れしく声を掛けてくる男性客に一礼し、次の賭けまでの短い休息をやり過ごす。当初は立ちっぱなしが辛い業務だったが、今年で三年目ともなると嫌でも慣れてしまう。

 

「では、次の勝負に参ります。よろしいですか?」


 黒服獣人たちの賭金勘定が済み、お決まりの定型句で賭戯を再開する。

 それから何度も何度も同じことを繰り返し、硝子張りの天井から朝日が差し込み始める閉店時間まで、ひたすら壺を振り続けた。

 終業すると、賭戯で親を務める女性従業員たちは更衣室で着替えることになる。半裸の同僚たちの姦しいお喋りに付き合って、特に親しくしている五人ほどでぞろぞろと更衣室をあとにする。


「おう、ツィーリエ。ちょっといいか?」


 裏手にある従業員用の通用口手前で、男に声を掛けられた。獣人で三十過ぎほどの彼は通路の壁に背を預けて葉巻を吸っている。ここを通り掛かるのを待っていた様子だ。


「はい、大丈夫です。みんな、お疲れ様」


 同僚たちは挨拶を返してくると、この賭場を取り仕切る支配人に一礼し、通用口を出ていった。


「疲れてるとこ悪いな」

「いえ。それで、どうかされましたか?」


 ケルッコは彼の兄と異なり背が低めなので、少し見下ろす形になる。そのことで無礼さを感じさせないためにも、客相手のときより丁寧な対応を心掛ける必要がある。


「お前今日は休みだろ? 今晩ちょっと付き合ってくれないか?」

「えっと、それはどういう……?」

「あー、勘違いすんなよ。オレと寝ろって意味じゃない、少し話があってな。適当に済ますようなことじゃないから、落ち着けるところで話そうってだけだ」


 表情も、声音も、葉巻を吸う仕草も、全て普段通りで違和感はない。

 ネリーアは内心の懸念を面に出すことなく、しかしこの状況に相応しい緊張感は醸し出しつつ、この二年以上で積み上げてきたツィーリエという人物に相応しい反応を返してみせる。


「お話ですか。それは構いませんが、改まって何でしょうか?」

「ま、それは追い追いな。とりあえずいつもの出勤時間にここに来てくれ。それから馬車で移動することになる」

「分かりました」


 発覚したということはないはずだ。

 ムンベール族は対外諜報能力こそ低いが、防諜能力に関してはそこらの小国より遥かに優れている。それは地政学的な必要性から生じた当然の結果なので、何も不思議なことはない。

 が、こちらの正体が露見したとは考えがたい。細心の注意を払って慎重に活動してきたし、ムンベール族には直接的な被害はほとんど与えていない。自分などより注意を払うべき輩は他に幾らでもいるはずだ。

 そもそも賭場に潜伏しているのも、間者らしい情報収集のためではなく、他に色々と好都合だからだ。見知らぬ男から接触されても怪しまれないし、ムンベール族の経営する賭場の従業員という立場であれば、いざというときはケルッコたちが介入して場を掻き乱してくれることも期待できる。ムンベール族に限らず、この手のやくざな組織は身内を大事にする傾向が強いのだ。


「んじゃ、お疲れ」

「はい、お疲れ様です。失礼します」


 一礼し、賭場をあとにした。

 いつもの帰路を行きながら、ケルッコの意図や思惑を考えていく。

 徐々に活気づき始める早朝の街を一人黙々と歩いていき、集合住宅の建ち並ぶ一帯に入ったところで、ふと前方を人影が立ち塞がった。反射的に足を止めて、相手の顔を見る。


「おっ、やっぱツィーリエちゃんじゃん。奇遇だねー、今帰り?」

「どちら様でしょうか?」

「やだなぁ、昨日も今日もツィーリエちゃんの卓で遊んでたのに、覚えてくれてないのぉ?」


 猟兵風の軽薄そうな男だった。三十代半ばほどの人間で、この街ではよく見掛けるような風体に特徴らしい特徴はない。どこにでもいそうな、どこに紛れても目立たない、ただの男だ。


「ね、ね、夜勤明けなんでしょ? どう? 一杯おごるよ?」

「いえ、結構です。疲れていますので、失礼します」


 賭場の常連の中には、女性従業員の帰路を狙って声を掛けてくる男が結構な割合で存在する。単純に身体目当ての者もいれば、自分に惚れさせ賭戯でイカサマさせることで一儲け企む者もいる。中には本気で惚れられて交際を申し込まれるといった事例もあるが、大抵は不純な目的を持った輩だ。


「ま、ま、そう言わずに。おじさんもてなすからさ、立ちっぱなしで疲れた足とか按摩してあげるよ?」


 するりと距離を詰めてくると隣に並び、肩を抱いてきた。その際、スリも顔負けの巧妙な手付きで上着の衣嚢ポケットに紙片を入れられる。相手よりも周囲の者に気付かれないような、こなれた動きだった。


「やめてください。今すぐ立ち去って頂けないのであれば、私も自衛せざるを得ません」

「おっとっと、光り物は勘弁してくれ」


 男の手を振り払い、肩に掛けた鞄から短剣を取り出すと、男は降参といった様子で両手を上げて後ずさった。


「……ちぇ、何だよ、客相手につれないなぁ」

「ここは賭場ではありませんし、今の私は仕事中ではありません」


 道行く人からは少し注目されているが、猟兵の多いこの街ではさほど珍しい光景でもないため、皆そそくさと素通りしていく。

 男は肩を竦めると、舌打ち交じりに何事かをぼやきながら去っていった。


「…………最悪」


 それは演技を兼ねた本心からの呟きだった。

 夜勤明けに本業の連絡が来ると疲労感がいや増す。

 短剣を仕舞うと、溜息を吐いて再び歩き出した。それからは何事もなく、目的の三階建て集合住宅に到着する。自宅であり活動拠点でもある最上階の角部屋に入り、扉を施錠した。

 もはや癖となっている侵入者の痕跡確認を済ませて、ひとまず一息吐く。

 柔らかな長椅子に身体を投げ出し、上着の衣嚢から四つ折りされた紙片を取り出す。開いてみると、長々と恋文らしき文章が綴られ、最下部には送り主の名前に偽装された符丁もある。


「……………………」


 規定の手順通りに、一見すると青臭くて恥ずかしいだけの文章を組み直し、隠された本文を解読していく。十代の頃は紙に書き出さねば短時間で解読できなかったが、今では頭の中だけで当時より早く読み解ける。

 どうやら今回は人と船の両方らしい。対象の名前や特徴、場所と時間、滞在予定期間など、必要な情報が記載されていた。


「これも自業自得だけどさ……何やってんだろ私……」


 魔大陸という僻地、その一歩手前にあたる辺境の港町で、やり甲斐のない仕事をこなし、生き甲斐のない日々を送っていく。この地に飛ばされたときから、こんな気持ちになることは予想できていた。だからこそ、ツィーリエという偽名を使うことにした。

 十五年前、ああはなるまいと強く思った。自ら命を絶った彼女を反面教師として常に意識できれば、自分に対する戒めとして機能してくれると思った。

 しかし、どうにも上手くいっていない。

 順調に腐っていっていることが自覚できている。じわじわと感情が鈍化している。賭場と自宅を往復し、たまに下される指示通りに殺して壊して、実の伴わない人付き合いの虚しさに苛まれ、自由な時間ができても無趣味なので寝るだけ。

 辛うじて仕事だけが今の自分を支えている。

 流れ流されて、この地に縛られた現状に抗う気力もなく、惰性で生きている。


「……寝よ」


 きっちりと情報を脳に刻み込んでから、火魔法で紙片を焼却する。それから服を脱ぎ捨てると、そこそこ柔らかい寝台に倒れ込み、気怠い微睡みに沈んだ。




 ■   ■   ■




 昼頃に起床すると、軽く身だしなみを整え、着替えなどを鞄に詰めて家を出た。

 自分で食事を作るのも面倒で、最近はほとんど外食だ。朝――というより起き抜けにはあまり食べないため露店で適当に買い、歩きながら朝食を腹に詰める。ここ十年ほどは食事を楽しいと感じたことがなく、ただの栄養補給と成り果てていた。

 本日の天気は快晴で、商店が軒を連ねる大通りはよく賑わっている。多種多様な人が行き来しており、その波に乗って歩いていくと、間もなく目的地の広場に到着した。店舗を持たない商人たちによる市が開かれていて、客は多い。肩と肩がぎりぎり触れ合わない程度の人混みは、潜伏するのに適している。

 屋根付きの屋台ばかりが建ち並ぶ一帯を適当にぶらついていると、情報にあった特徴と一致する対象を発見した。ネリーアは周囲に溶け込むべく、買う気もないのに店を冷やかしているが、相手も同様の動きで店を巡っている。


「……………………」


 自分に尾行の気配はなく、視線も感じない。上空で警戒している仲間からの合図もない。距離と向きにさえ気を付ければ、いつでも決行可能な状況だ。

 対象に視線は向けず、視界の端で追いつつ、好機を待つ。

 彼我距離が二十五リーギスほど、双方共に相手の方を向いておらず、対象の位置を正しく認識できる状況となったところで、〈超重圧ティラグ・ルフ〉を行使した。人垣の間から見えていた頭部が消え、一瞬の間を置いてから悲鳴が響きわたる。


「――きゃあああぁぁぁぁぁっ!?」


 すぐに立ち去るような真似はせず、何事かといった素振りで声の方を見遣る。対象の周囲がざわついており、無残な遺体を中心に二リーギスほどの輪ができて、「衛兵っ、衛兵を呼べ!」という怒鳴り声がこだまする。

 状況を理解して逃げ出す者たちが現れ始めたところで、ネリーアも現場を離れた。


「……………………」


 軽く溜息を吐き、次の目的地へと足を向ける。

 情報局に入った当初、訓練課程で人は殺すなと教わった。間者とは任地に適応して情報を収集する者で、殺しは殺しの専門家がやるものだ。にもかかわらず、白昼堂々と衆人環視の只中で暗殺している今の自分はいったい何なのか。暗殺部隊に配属された覚えはないのに、こんな汚れ仕事をこなしている。

 今では人を殺すという行為に、あまり罪悪感を覚えなくなってしまった。必要がなければ殺さないが、殺せと指示がくれば躊躇なく殺せてしまう。

 あの対象に限らず、この地に飛ばされてから殺してきた者は皆、本国にとって都合の悪い者たちだ。具体的な事情はいちいち知らされないが、その程度は察しが付く。

 なぜなら、ここチュアリーはザオク大陸東部への唯一の中継地であり、彼の魔大陸は逃避先として打って付けの僻地なのだ。他のどの大陸よりも国家の影響力が弱く、未開の地が多いため、落ち延びて密かに暮らしていくには最適といえる。

 詰まるところ、この港町は処刑場だ。どこの国も魔大陸という未開かつ広大な僻地なぞに限りある人員を割いて、目的の人物を捜索させて始末させるのは費用対効果が悪すぎる。だから、魔大陸の東部に行くには必ず立ち寄るこの地で待ち構えて、対処するのが利に適った方策だ。

 殺される、あるいは捕まる側も裏社会に片足以上を突っ込んだ犯罪者や裏切り者ばかりなので、それは承知しているからこそ、人の多い場所に身を置こうとする。皆が裸になる浴場、衛兵の多い市場、監視の目が強い賭場が定番だ。木を隠すには森の中ということもあるが、下手に宿に引きこもりでもすれば、自殺に見せかけて暗殺されたり、鞄に詰め込まれて攫われるのがオチだと分かっているのだ。


「……ああはなりたくないわね」


 余人に聞かれても問題ない程度の本心を呟き、嘆息した。

 何事もなく歩き続け、目的の波止場に到着する。

 大小様々な船が停泊し、桟橋を多くの人が行き来する光景はすっかり見慣れて見飽きてしまった。潮の香りも馴染み深いもので、もはや普段は全く意識しないが、ここまで足を伸ばすと改めて海の存在を強く感じさせられる。

 きょろきょろと見回しながら桟橋を歩いていき、海面から顔を出している女性に声を掛けた。


「アンフィさん、調子はどう?」

「あぁ、ツィーリエ。まあ平和なもんさ」


 気さくな笑みを浮かべる彼女はこの港の警備隊に所属する魚人だ。

 どこの港町でも、港内に魔物が入ってこないように、魚人たちによる防衛網が敷かれている。アンフィはその防衛網の隙間を抜けて侵入してくる魔物に対処するために、桟橋周辺で警戒する班の一員だ。現在は四十過ぎで、勤続二十年ほどになる。


「今日は落っこちた人いる?」

「いたね。爺さんだったんだけど、どっかの誰かさんと違って、溺れずに自分で這い上がってったよ」


 アンフィとはこの街に来たときに知り合った。

 三年前、ネリーアが船から降りる際、足を滑らせて渡し板から落ち、溺れかけた。もちろん演技で、そこをアンフィに助けさせることで縁が交わり、あとは恩だの何だので自然な成り行きから友人関係に発展させることが可能となる。そういう脚本で、その通りに事を進めた。

 無論、アンフィも間者で、主に出入りする船舶に関連した情報収集を担っている。ネリーアの肩書きは上級諜報員なので立場上は上司と部下だが、実際は先輩と後輩みたいなものだ。この地に関してはアンフィの方が詳しく、一日以上の長がある。間者としての経験ではネリーアの方が多いはずだが、見方によってはアンフィの方に軍配が上がる。

 ネリーアは一つの任地に二年以上いたことがないため、長期間の継続的な潜伏活動の経験が不足しているが、それだけに柔軟性と適応力が高い。逆にアンフィはここチュアリーで二十年にわたって活動しているため、他の多様な任務経験が不足しているが、それだけ粘り強く根気がある。任務内容によって求められる能力が異なるので、優劣は付けがたい。

 ここチュアリーに来る前まで、ネリーアは幾つもの任地を点々としてきた。それは魔女であり無詠唱の使い手という希少性が理由で、常人には危険性の高い困難な任務が主だった。中でも二重間諜の容疑がある身内に対し、その者の信頼性を計る試金石として投入される機会が多く、それはこの地での仕事の一つでもある。というより、本来の間者らしい任務はそれしかない。

 内偵は忌み嫌われるため、アンフィを含めて誰もネリーアの経歴は知らないが、相手も同じ間者なので馬鹿ではない。薄々気付いてはいるだろう。裏切り者は殺人を厭わない傾向が強いため、自衛しつつ相手を無力化できる技量が求められる。処分するのは拷問紛いの尋問をした後だ。


「ほんっと、港内の仕事は魔物相手より人相手ばっかりだからね、面倒だよ。港外で魔物相手にだらだら防衛戦してる方がよっぽど楽ってもんさ。こっちは基本暇だから持て余すしね、やることあった方が充実感あっていいよ」


 港に足を運んでも怪しまれないように、普段からアンフィにはちょくちょく会いに来て、互いに愚痴を言い合ったり、適当に雑談したりするようにしている。

 いつものように口を動かしながら、顔は話相手に向けたまま、眼球の動きだけで目標の船を見遣る。アンフィも対象は承知の上なので、ネリーアが狙いやすい位置取りで待ってくれていた。


「私は人相手の方が楽よ。魔物の相手なんて怖くてできないってことを抜きにしても、人って本当に色々だから、大変だけど楽しいのよね」


 隣の桟橋に停泊している何の変哲もない中型船に狙いを定める。距離は約六十リーギスで、未熟な魔法士だと狙いを外すような距離だ。特に現象地点指定型の魔法は空間の精確な認識が重要となるし、魔法は基本的に対象との距離が遠くなるほど威力が落ちる。だから十分な魔力を注がねばならず、扱う魔力量が増えればそれだけ行使が難しくなる。

 会話に意識を割きながら無詠唱で十分な威力の魔法を行使し、それを目標に命中させることはなかなかに困難な芸当だ。しかしネリーアには慣れたもので、端から見れば普通に雑談しているようにしか見えない様子で、魔法を放った。


「――っ、あーもう、またぁ?」


 爆音に驚いた素振りでアンフィが振り向き、煙と火の手の上がる船に目を向けた。桟橋を行き来する水夫や商人たちは身体を強張らせて足を止め、皆同じ方向に注目している。ネリーアも同様の動きを見せつつ、内心で詠唱した後、再び〈爆炎バ・ラトス〉を同じ船に放つ。


「ちょっと行ってくるよ」

「ええ、気を付けてね」

「大丈夫大丈夫、もう慣れたもんよ」


 というアンフィの言葉通り、ネリーアはここ一年ほどの間で十七隻の船を沈めてきた。今回で十八隻目だ。だから余所から来た者たちは未だしも、この港で働く者であれば今更慌てふためいたりはしない。もはや今では「またか」といった様子で、見世物感覚で見物する者が多く、中には船が炎上し沈没していく派手派手しい光景を肴に一杯やる連中まで現れる始末だ。

 ネリーアは友人の安否を気にする素振りで遠巻きに船の方を見ながら、胸中で詠唱する。本当は連続で何度も放ちたいが、無詠唱で行使していることに感付かれるのは避けたいので、詠唱するだけの時間を置いてから次を行使するようにしている。


「おっ、今回は十発か。あの船はなかなか保ったな」

「つーか犯人はまだ捕まらないのかよ、さすがに不味くないか?」

「べつにいいんじゃね? どうせあの船の積荷もヤクだろうし」


 ネリーアの近くで眺めていた男たちに危機感はない。

 それも当然といえば当然の反応で、もうこの街の人々はどの船が沈められるのか理解している。だから関わりのない者は他人事として片付けるし、船の関係者に同情したりもしない。ほとんどの真っ当な人々は犯罪組織を恐れ、麻薬を嫌うからだ。

 標的となるのは魔大陸から麻薬を積んでやってくる輸送船のみで、それらの背後には南北ポンデーロ大陸やネイテ大陸、エノーメ大陸といった広範な裏社会の麻薬組織が複数いる。当然、そこには《麻天律》も含まれる。

 魔大陸が麻薬の一大産地であることは裏社会では周知の事実だ。拠点とする大陸の異なる麻薬組織は競合相手にならないため、組織同士が結託して連合を作り、一組織では不可能な大規模かつ安定した麻薬原料の栽培を行っている。

 チュアリーにはほぼ毎日のように麻薬を満載した船が魔大陸からやって来るが、無論その全てを沈めている訳ではない。それも不可能ではないが、あまりやり過ぎると連合が本気で対処してくることになる。あくまでも面倒事にならない程度に、お前らを野放しにしている訳ではないぞと釘を刺すことで一応の抑止力とするために、嫌がらせの範疇内で行っている。

 それが情報局の見出した妥協点で、自分を飼い殺しにする策ということは承知している。実際、こんな辺境でもこうして《麻天律》に多少とはいえ敵対する行動が取れているからこそ、ネリーアは今も間者を続けられている。もしこの破壊工作がなければ、自分を保てず精神を病むか、さもなくば任務を放り出して本国に戻り、《麻天律》に直接的な攻撃を仕掛けているだろう。実際にそうするかはともかくとして、そう思えることが重要なのだ。

 上層部はネリーアをよく理解している。またとない希少な人材を保持し、適切に運用するために、上手く制御しようとしている。つくづく狡猾な連中だ。


「やっぱりあの船の積荷も麻薬だったよ。また後片付け手伝わないと」

「大変そうね。忙しくなりそうだし、今日はもう行くわね」


 戻ってきたアンフィに別れを告げ、歩き出す。

 《麻天律》に対して僅かでも痛手を与えている。そう理解していても満足などできず、胸中では漠然とした不満感が変わらず燻っている。溜息を吐くことで誤魔化すが、この先いつか破裂してしまわないか不安だった。

 一方で、チュアリーを取り仕切るムンベール族や衛兵たちに、自分が犯人だと気付かれないかといった任務上の懸念はあまりない。尾行や監視には常に気を付けているし、毎回上空で仲間が見張ってもいる。街中での暗殺はこの地に来て半年後から始め、実行には幾つかの魔法を使い分けている。船を沈めるのは一年後から始めて、実行時は必ずしもアンフィと接触する訳でもなく、何通りもの方法を使い分けて港に接近し、上手く偽装している。


「もう私はずっとこのままなんでしょうね……」


 声にならない声で呟き、本日何度目とも知れない溜息を零す。

 自分の置かれた状況はよく理解できているつもりだ。

 四年前、致命的な失態を冒して以降、情報局はネリーアという魔女の信頼性を見直し、もはや間者として運用するつもりがなくなった。アンフィたち同僚に対する内偵など所詮はこの地に飛ばすための建前に過ぎず、今後は暗殺や破壊工作といった荒事にこそ、ネリーアを使っていく気でいる。

 そして、ネリーアはそれに抗えない。自らの評価を貶めたのは自業自得だし、本国には両親がいる。命令違反は重罪で、裏切り者がどうなるかは最近の任務で嫌というほど分かっている。そもそも、裏切ったりしてまでこの流れに抗う気力が今はもうない。

 それもこれも全ては《麻薬王》のせいで、殺せるものなら殺してやりたいと今でも強く思う。しかし、重たいしがらみを振り切って走り出すほどではない。それは単純に気力の問題というだけでなく、現実がそう上手くいないことを十五年前より理解しているからだ。身を以て痛感してきたからこそ、もう当時のようには行動できない。

 

「……………………」


 思考が悪い方へと向かっていることに気付き、少し歩調を早めた。

 それから間もなく、通い慣れた公衆浴場に到着する。料金を払って更衣室に入り、手早く衣類を籠に放り込んで、浴場に足を踏み入れた。昼過ぎの今の時間帯は客が少なく、伸び伸びと入浴できる。

 髪と身体を洗っている間も、広々とした浴槽に浸かっている間も、頭を空っぽにできる。暗く後ろ向きだった思考は身体の汚れと共に流れていき、ゆったりと落ち着いて温水に首から下を晒していると、平穏な気持ちになれる。

 今のネリーアにとって、この浴場だけが憩いの場で、入浴しているときだけが気を抜ける瞬間だ。

 本当は自宅に浴室を設けたいが、ツィーリエはただの女で一人暮らしという設定だ。更に三階の部屋ともなれば、魔法の使えない女が湯を用意するのは大変な重労働となる。自宅とはいえ何者かに侵入される前提で生活せねばならないため、いつでも手軽に湯を用意して入浴できるという魔女の特権は行使できない。


「……もう今日はこれで終わりたい」 


 本来の休日であれば、このまま気分良く家に帰って、酔わない程度に酒を飲み、惰眠を貪るのが常だ。それがまた最高に気持ち良く、そのひとときを堪能するためだと思えば、やり甲斐も生き甲斐もない日々でもとりあえず頑張ろうと何とか思える。

 しかし、今日はその意気を補充できない。

 よりにもよって、この地の元締めであるムンベール族の族長の弟にして、潜伏先の支配人の相手をせねばならない。話の内容によっては面倒なことになるかもしれないため、今ここで緩みきっている気を引き締め直して、状況に臨む必要がある。


「…………面倒ね」


 本音と共に深く大きく溜息を吐いて、しかし今だけは何も考えず、心身の力を抜いて目を閉じた。




 ■   ■   ■




 日没後、夕食を摂って少し休憩してから、いつもの時間に賭場へ向かった。既に子供は寝始める頃合だが、大人たちにとってはまだまだ夜は始まったばかりだ。実際、賭場もこの時間帯から混雑し始める。


「おう、ツィーリエ、乗ってくれ」


 賭場に到着すると、既に通用口の脇には馬車が駐まっていた。車両の扉は開いていて、そこからケルッコが髭だらけの丸っこい顔を覗かせて手招きしている。

 ネリーアが乗り込むと、ケルッコは「出せ」と御者に短く命じた。


「あの、どちらへ向かわれるのですか?」

「劇場だ」


 意外な答えに少々驚きつつも、嫌な予感を覚える冷静な自分もいた。

 なぜ、よりにもよって、劇場なのか。

 ケルッコはこの街における重要人物の一人なので、人物情報については概ね把握しているが、観劇の趣味などなかったはずだ。そもそもチュアリーには庶民向けの劇場が一つあるのみで、貴賓用に個室席は一応あるようだが、人種による入場制限はない。落ち着いて話を――余人に聞かれたくない類いの話をするにしても、この街の支配者の弟であれば、他に幾らでも相応しい場を用意できるはずだ。

 そういった疑問を解消すべく、今のうちに探りを入れておきたかったが、ケルッコは対面の席にどっかりと腰掛け、腕を組んで漫然と車窓の向こうを眺めている。その様子から、今ここでは雑談すらする気はないようで、話し掛けるなという無言の意思表示が伝わってくる。


「……………………」


 ツィーリエは空気の読めない女ではない。

 その設定を無視してまで色々と話を聞き出そうとすれば、余計な疑念を生むだけだ。

 ネリーアは大人しく馬車に揺られていくことにした。


「着いたな。じゃあ行くか」


 間もなく到着し、ケルッコが先に降りていった。

 劇場の外観はさほど立派ではなく、せいぜい賭場と同程度だ。あの忘れもしない富裕層向けの高級劇場と比べれば幾分も見劣りする。とはいえ、庶民向けならば、だいたいどこもこんなものだ。

 入場口には数人程度の列ができていて、それなりに人気であることが窺える。が、ネリーアが目を引かれたのは入場口の脇にある大きな看板だ。これから上演する劇の題名が大きく書かれており、主演や助演の名前も小さく列記されている。


「おう兄ちゃん、支配人を呼んできてくれ」


 ネリーアが腹を括りつつも高速で思考を回している一方で、ケルッコは列など無視して受付の男に話し掛けていた。しばらくすると紳士風の身綺麗な年配の男が小走りに現れ、ケルッコに何度か頭を下げると、場内に案内される。

 ここチュアリーは今でこそ魔大陸の中継地として多種多様な人々の住まう街となっているが、元々はムンベール族の支配域だ。彼らは流入してきた余所者に土地を売った訳ではなく、あくまでも貸与しているに過ぎない。そのため今も莫大な借地代がムンベール族の懐に流れ込んでいる。彼ら大地主の機嫌を損ねようものなら、地代を上げられたり契約の更新を止められたり、はたまた村八分ならぬ街八分にされて、この地では生きていけなくなるだろう。

 劇場の支配人ともなれば現族長の弟は見知っているだろうから、謙るのも無理はない。

 ケルッコより明らかに二十は歳を重ねている老紳士は、肥満ぎみのケルッコより軽快な動きで階段を上がっていき、関係者以外立ち入り禁止の札が掛かった鎖を外して三階に進んだ。

 そうして案内されたのは広々とした一室だった。横に長い造りで、通常の個室席なら六室分ほどになる。調度品はどれも劇場の外観に相応しくない一級品だ。


「お飲み物などは何をご用意いたしましょうか」

「最近は減量中でな、何もいらん。このままでいい」

「かしこまりました。廊下に従業員を一人控えさせておきますので、何か御用の際はお声がけください」


 丁寧な一礼を残し、支配人は去っていった。

 

「さて、適当に座ってくれ」


 と言われはしたが、ケルッコが中央部の椅子に腰掛けたので、その隣以外に座るわけにはいかなかった。


「ツィーリエは今回上演する劇、観たことあるか? あぁ、さっき入口にでかでかと書かれてた題名は見たよな?」

「はい。ですが、観たことはないですね」


 嘘だった。

 四年前、本国で公開されて間もない頃に観た。


「なんだ、そうなのか? 庶民の間じゃ割と人気の劇だって聞いたが」


 ケルッコに嘘と疑っている様子はなく、そもそも猜疑心の類いすら感じられない。しかし、相手は駆け引きに秀でた腹芸を得意とする男だ。

 ムンベール族の現族長のジャマルは武闘派で、あまり頭の方はよろしくない。ケルッコはそんな兄を補佐する参謀のような立ち位置におり、彼のおかげかどうかは不確かだが、実際にこの街は上手く取り仕切られている。


「私はあまり演劇に興味がありませんので。そういうケルッコさんは興味がおありだったのですか?」

「いや、特にはないな。ただまあ、この劇だけは特別だ」

「特別……と仰いますと?」


 会話の流れにそぐわぬ緊張感はひた隠し、素朴な疑問といった素振りで尋ねる。

 ケルッコの方もやはり自然体のまま、世間話そのものといった口振りで、しかしにやりと悪童のような笑みを浮かべて答えた。


「まあ、何がどう特別なのかは、問題の場面になってから教えてやるよ」


 妙に不安を煽られつつ、その後も開演まで適当な話題でやり過ごしていった。


「お、始まるな」


 一階から三階まで吹き抜けとなった場内の照明が落ち、薄暗くなった。階下から聞こえてきていた雑談の声が鳴りを潜め、ひっそりとした静寂が訪れると、幕の下りた舞台上に一筋の光が当てられる。おそらくは座長と思しき獣人の男が一人立っており、ケルッコより遥かに肥え太った身体で大きな声を場内に響かせ始めた。

 まずは客への挨拶から始まり、これから上演される劇の軽い紹介、主演の俳優陣の名前、上演中の諸注意などが簡潔に告げられた。


「それでは皆様、お待たせいたしました。これより上演となります。どうかお静かにお楽しみ頂ければ幸いです。それではご覧ください――」


 最後に小っ恥ずかしい題名を場内に反響させると、座長は脇に引っ込んでいき、それと入れ替わるように幕が上がった。


「……………………」


 この劇を観るのは二度目だ。もう一生、二度と見るまいと思っていたのに、まさかこんな辺境の地で再び観劇することになるとは思わなかった。

 隣席のケルッコをちらりと見遣ると、どっかりと背もたれに身体を預け、脚を組んでいた。肘掛けに肘をついて頬を支えており、完全に脱力した態の無警戒な姿だ。

 問題の場面とやらが来るまでケルッコに話す気はないようなので、今は大人しく観劇する以外にない。自分が題材となった劇など観るに堪えないと当時は思い、もう絶対に観ないと強く反発したものだが、こうして否応なく観ることになってしまうと、存外に抵抗感は小さかった。決して観たい訳ではないが、目を背けて耳を塞ぎたくなるほどでもない。

 それは今の自分が意気を失い、腐りかけていることの証左なのだろう。


「……………………」


 この劇が世に初めて公開されたのは、ネリーアが二十六歳の頃だった。ちょうど国外での任務を終えて本国に戻り、本部に諸々の報告を済ませた日のことだ。《四統会》の本拠地にしてネリーアの故郷でもあるグローリーには一年半ぶりに訪れたため、何はともあれ《麻天律》に関する情報収集をしようと馴染みの情報屋に会いに行く途中で、この劇の宣伝を耳にした。

 題名を聞いた瞬間から嫌な予感はしていた。だから心構えをする猶予はあったのだ。にもかかわらず、実際に劇を観てみると、激情を抑えきれなかった。《麻薬王》への殺意を《麻天律》関連の施設にぶつけ、甚大な被害を与えることで、奴かその側近程度は引っ張り出してやろうという作戦とも言えない愚策を暴走の言い訳に、まさにこの地での任務のように殺して壊した。

 結局、情報局の介入によって中途半端なところで止められ、何の成果もなく事態は収束していった。その過程で、おそらく情報局は《麻天律》に借りを作らざるを得ず、ネリーアの局内での評価が暴落したこともあり、こんな辺境に左遷される結果となった。そして今では暗殺部隊の真似事だ。

 あの暴走の反動、そして劇によって否応なく悟らされた現実により、当時は失意のどん底に沈んでいた。流れに抗う気力など残っておらず、ただ流されるがままこの地に流れ着いた。


「お、ここだ。この場面だ」


 ふと左隣から声が上がり、思考に沈んでいた意識を光差す舞台に向け直す。

 問題の場面は、主人公が《武隷衆》の手先と接触するところだった。無論、この劇では人物名、組織名、舞台となる時代や地域、その他の細かな設定は異なるので、《四統会》関連の固有名詞も別名に置き換わっている。が、ネリーアの事情を知る者が観れば、これがネリーアの半生を題材にした脚本であることに気付けるはずだ。


「ほれ、あの若いのいるだろ。あいつオレなんだよな」

「……えっと、それはどういう?」


 笑いながら指差すケルッコの言葉を咄嗟には理解できず、半ば素で応じてしまった。


「いやだから、あの見るからに運痴っぽく短剣構えてる小僧いるだろ? あれオレの真似してんだぜ? クッソ、オレみたいな端役まで忠実に設定しやがって……というかオレ本当にあんな見るからに運痴か?」

「……………………」

「お前はどう思うよ、ツィーリエ」


 ケルッコの様子は先ほどまでと変わりない。相手を見極めんとする鋭い眼差しもなく、疑念に塗れた凄むような声でもなく、全身が緊張に強張ってもおらず、あまりに普通すぎる。これが腹芸だとしたら大したもので、間違いなくあの舞台の誰よりも一流の役者だ。

 演技とは思えないからこそ、混乱した。

 俄には信じられなかった。

 しかし、可能性それ自体は否定できない。

 なにせケルッコは十五歳の頃、一度このチュアリーを去っている。彼はその昔、ムンベール族の次期族長の座は自分にこそ相応しいと実父である当時の族長に主張したらしく、それが原因で親子仲が決裂し、ケルッコは勘当されて故郷を去った。

 その後の足取りは追えておらず、というより落後者など追う価値もないと当時の情報局は判断したようで、彼が故郷に戻ってくるまでの十年間どこで何をしていたのかは把握できていない。


「……………………」

「ま、覚えてないか。この後すぐに色々あったっぽいしな」


 今一度あのときのことを思い返してみた。

 当時の一連の出来事は忘れもしないが、中でもヒセラと再会したときのことは鮮明に覚えている。その場にいたのは自分とヒセラとヘルマン、そして《武隷衆》の男三人。うち一人は気絶していた。

 ネリーアが対峙した二人の獣人は一方が中年で、一方が二十歳前後ほどと若かった。前者は隙なく熟練した雰囲気だったが、後者は目の前の劇で演じる役者のようにへっぴり腰で短剣を構えていたから、少し印象に残っている。

 だが顔までは覚えていないし、覚えていたとしても、もう十五年前だ。あのときの青年がケルッコと同一人物であったなど、三年前この街に来て彼と会ったときはその可能性すら疑えもしなかった。なにせ現在ケルッコは三十四歳なので、当時は十九歳だったはず。今ほど髭が毛深くもなく、立派に生え揃ってもいなかっただろう。女の印象が髪型一つで変わるように、男は髭で変わってしまうものだ。

 だからネリーアも万が一のために、当時と同じ髪型にはせず、今はヒセラのように後ろの髪を纏め上げている。ばったり過去の知り合いに出くわさないとも限らないからだ。


「一応説明しておくとだな、当時のオレは別の名前を名乗っていた。過去なんざ吹っ切って、新生したオレとして、この大都会で成り上がってやろうとか夢見てたんだな。下っ端から始めて、いつか《武闘王》の娘でも嫁に貰って、兄者なんて目じゃないほどでかい男になってやるとか思っていた」

「……………………」

「だがまあ、武闘派揃いの《武隷衆》でやってくうちに、自分が運痴だと思い知らされた。思い上がっていたことを痛感した。オレみたいな奴は出世できないし、周りからも馬鹿にされるし、正直かなり辛かった。そんなとき、風の噂で親父殿が死んだって聞いてな。それでもう、ぽっきり折れた」


 当時この劇を観たことで、ネリーアもぽっきり折れた。

 現実と異なり、劇中の主人公は情報局に入ってから、冴え渡った怜悧さで順調に敵を追い詰めていく。そして最後には無事弟を助け出し、敵への復讐も果たす。しかし諜報の世界からは抜け出せず、その後も冴えた間者として生き続けることになる……といった流れで劇は終演する。

 それこそが、《麻薬王》がネリーアに期待した物語だったのだと悟った。しかし、実際は十年経っても弟の手掛かりすら掴めず、《麻薬王》を追い詰めることもできず、全く主人公らしくない日々を送っていた。ネリーアとて不甲斐なさや焦燥感は覚えていたが、現実は思い通りにいかないことばかりで、どうしようもなかった。

 しかし、そんな事情など斟酌しないとばかりに、《麻薬王》は容赦なくネリーアを見限った。でなければ、敵と定めた者の人生を美化した上で、自分が殺される物語など世間に公開したりはしないだろう。ネリーアの件を劇として昇華――消化することで、見切りを付けたのだ。それはもはや敵として眼中にないという宣告で、セリオを生かし続けておく価値が完全になくなったことを意味する。だから、そうなる可能性を臭わせるために、当時《麻薬王》はネリーアを主人公とした劇を作る許可が欲しいなどと言ってきたのだ。

 弟は死んだ。

 時間切れになった。

 十五歳当時の事件後、あの時点で既にセリオが殺されている可能性は考えていたが、《麻薬王》であれば生かし続けるはずだという奇妙な信用があったのだ。だから、実際はどうであれ、まだ生きているはずだと希望を持つことができた。

 しかし、もうその希望すら完全に潰えた。

 その事実を、そうと悟った自分を否定するために、暴走した。現実を受け入れられず、それまで抑えていた《麻薬王》への殺意が臨界に達し、癇癪を起こした子供のように愚かしい暴挙に出てしまった。


「オレはただ、自分の方が族長に相応しいと親父殿に証明したかったんだって、そのときになって気付いた。だが、それは叶わなくなったし、もう《武隷衆》は肩身が狭くてな。年下の奴らがオレよりどんどん偉くなってって、居たたまれなかった」


 ケルッコはネリーアの内心を知ってか知らずか、舞台の方を見つめながら一人しみじみと語っていく。


「だから、逃げ帰った。兄者はそんなクソ情けないオレを笑いもせず、むしろよく一人で頑張ったとか言ってくれてな。仕舞いには過去のことは水に流して、大都会での経験をここで活かしてくれなんて言われる始末だ。参ったね、器のでかさが違うと思い知らされた」

「……………………」

「まあ、それで何が言いたいのかっていうと……」


 そこで隣から視線を感じ、ちらりと目を向ける。

 毛深い髭に覆われた丸顔には渋みのある微笑が浮かんでいた。


「現実はそう簡単にいかんわな、でも人生ってのはそう捨てたもんじゃないってことだ」

「……それで同情しているつもりですか?」


 確かに、ケルッコの人生は捨てたものではないのかもしれない。

 しかしネリーアの人生は、弟を助けられなかった時点で終わっている。思い人との結婚をふいにしてまで後ろ暗い世界に身を投じ、自分なりに一生懸命頑張ってきたが、全てが無駄に終わった。いや、まだヘルマンとヒセラ、それにセリオの復讐という目的があるにはあるが、しがらみに囚われた身では到底叶わぬ望みだ。今では諜報畑を耕す農奴も同然の有様で、農奴に移動の自由はない。

 そもそも、十五年という歳月は意気を摩耗させるのに十分な時間だった。流れに抗うだけの力など、今はもう湧いてこない。


『もはや私は優秀な役者に成り下がりました。私自身に生きている意味など、何もありません。ですから、せめて最後くらいは意味のある行動で、この無意味な劇に幕を下ろしたい』


 今ならば彼女の気持ちが分かる。


『私の言ったこと、今は理解できなくても構いません。ですが貴女はこの先、いつか自分の人生が無意味だと思い始めるときが来るでしょう。そのとき、私のことを思い出してください』


 四年前に暴走した後、《麻薬王》はネリーアを殺せたはずだった。《麻天律》に少なからず損害が生じ、その犯人は明白なのだから、報復するのが妥当なはずだ。しかし、ネリーアは今もまだこうして生きている。

 それこそが《麻薬王》の報復なのだ。

 後悔に塗れた残りの人生を無意味に生きていくこと以上に、苦しいことはない。死ねば楽になるだけだ。だから商品の満載された船を沈められても報復しない。その程度の損害は許容範囲内と割り切っているのだろうし、あるいは情報局と何らかの取引をしていても不思議ではない。実はこれまで沈めてきた船は別の麻薬組織の船だったという可能性など十分あり得る。

 昨日の敵が今日の友など、この業界ではざらにある。敵味方の区別は個人の感情や信条ではなく、状況のみが決めるものだ。大局を知り得ぬネリーアが知らないだけで、最近の情報局は《麻天律》と懇ろな関係にあっても驚きはない。


『「こんな大人にはなりたくない」と言った貴女の言葉は正しい。その気持ちを忘れてはいけない。私も、貴女が私のような大人にならないことを祈ります』


 今では名実共にツィーリエになってしまった。

 後はもうこのまま、一応は間者として、冴えない人生を後悔や虚無感と共に生きていくだけだ。彼女のように自殺してしまいたい思いもあるが、自分のせいで死なせてしまったヘルマンやヒセラ、そしてセリオのためにも、生きねばならない。少なくとも、自死だけは許されないはずだ。


「同情はしないな。今のお前は過去のお前が選択した結果に過ぎん。お前は貴族の坊ちゃんと幸せになる道を選ぶこともできたのに、そうしなかったんだからな」

「それは状況が許さなかっただけです」

「お? なんだ、同情してほしいのか?」


 からかい交じりの笑みをにやりと浮かべて、ケルッコは組んでいた脚を下ろした。脱力したようにだらしなく座っていた姿勢から意気揚々と座り直すと、肘掛けから上半身を半ば乗り出して迫ってくる。


「よーしよし、それなら同情してやろうじゃないか」

「…………」

「可哀想なお前に、二つほど頼みたいことがある。もし聞いてくれなければ、どうなるかは分かってるよな?」


 如何にも下卑た笑みで、しかし楽しげな眼差しを向けてきた。

 ネリーアは臆することなく、本心からの溜息を吐いて横目に睨んだ。


「それは同情ではなく、脅迫の間違いでは?」

「状況が許さなければ、お前はそうせざるを得ないんだろ? なら、嫌でもオレの同情を受けざるを得ない状況にしてやろうってんだ。野暮言わせんなよ」


 それは同情と脅迫が表裏一体というだけで、脅迫であることには違いないはずだ。ネリーアは情報局を裏切るつもりなど――むざむざと自分から死に向かうつもりなど毛頭ないので、たとえ脅迫されようと屈するつもりはない。

 が、どうにもケルッコの様子を見る限り、ただの脅迫とは思えなかった。だから念のため、聞くだけは聞くことにする。


「……それで、私に何をしろと?」

「まず一つ目は、こいつだ」


 ケルッコは懐から賽子を取り出した。人差し指と中指の間で挟み込むように持ったそれを得意気な顔の横に掲げて、自信満々に続ける。


「お前にはイカサマを覚えてもらう。オレの考えが正しければ、このイカサマは絶対に見破れない完璧な方法だ。問題は無詠唱で魔法を使える奴しか習得できず、相応の技量も要求されることにある。そこでお前の出番だ、死ぬ気で練習して覚えろ」

「……もう一つは?」


 少し拍子抜けしつつも、次が本命だろうことは容易に推測できた。先ほどからの冗談半分、巫山戯半分な言い様はあまり深刻な雰囲気にならないようにするためだろう。軽い気持ちで、絡め取るように、ネリーアを裏切らせようという魂胆が透けて見えた。

 場の空気に流されるほど、間者としては落ちぶれていないつもりだ。


「お前を弟想いの姉と見込んで、とある弟の性根を矯正してもらいたい」

「…………は?」


 一転してやけに真面目な顔で告げられたかと思えば、その要求は予想の斜め下をいくものだった。




 ■   ■   ■




 族長一家の家庭事情は概ね把握していた。

 それはこの街の事情通なら知っているような、割と有名な話だ。

 ネリーアがチュアリーに来る半年ほど前、族長ジャマルが波止場で人目も憚らず、娘のケリーと大喧嘩を始めた。ケルッコが駆け付けるまで、激しく言い合う二人を誰も止められず、最終的にジャマルがケリーを勘当したという。


「兄者はケリーのこと溺愛してたんだが……まあ、売り言葉に買い言葉ってやつでな。実際、勢いだけって訳でもなくて、よりにもよって船乗りの嫁に行かれるのは相当腹に据えかねたんだろ」


 観劇を終えて劇場をあとにし、帰路を行く馬車の中。

 ネリーアに考える時間を与えるためか、これまで中断していた話を再開したケルッコだったが、語られたのは家族の話からだった。


「船乗りに何か因縁でも?」


 ネリーアとしては別の話題について掘り下げたかったものの、焦ることなく相槌を打つように問いを挟み、今は話を前に進めることにした。


「そりゃお前、ここと魔大陸を往来する船だぞ? で、その若い船長だぞ? まあ若いっつっても今のオレやお前と同年代だったが……。とにかく、そいつの嫁になるってことは同船して一緒に危険な航海をしていく生活を送るってことだ。普通は親なら誰でも反対するだろ」

「通常、女性は船乗りにならない、というよりなれないと聞きましたが、それほどに件のお嬢様は男勝りな方で、船長殿は型破りな方だったと」

「そういうことだ。ケリーは兄者の女版みたいなもんだしな、男の側が同船に賛成だろうと反対だろうと無理矢理ついていってたはずだ」


 それは相当にアレな女性だろう。

 ネリーアはジャマルの人柄を直接的にはほとんど知らないが、良くも悪くも豪胆で豪快な男だという。短気で、口より先に手が出て、しかし決断力と行動力は常人離れしているものだから、自然と人がついてくるような人望があるらしい。


「それでだ。親父と姉の我が強すぎたせいか、ディエゴは少し内向的というか大人しい性格にならざるを得なかったんだな。母親が生きてればまた違ったんだろうが、それは無い物ねだりってもんだ」


 すっかり夜も深くなった街並みを車窓から眺めつつ、ケルッコは苦笑を零した。


「正直、あの二人に挟まれて育つと思うと、オレでも遠慮したくなる。しかも兄者はケリーを溺愛する一方で、ディエゴには後継者として厳しくしてきたからな。まあ、捻くれるのも無理のない話だ」

「それで、具体的に私にどうしろと?」


 概ね見当は付いたが、ケルッコの口から直接聞いておくに越したことはない。何をどうするにせよ、それが表向きのものであろうと相手の要求や思惑はきちんと把握しておかねば、適切に判断を下せない。


「どうにもディエゴは姉に対する劣等感みたいなもんが強くてな。オレも昔は兄者に対して色々と思うところがあったから分かる。だから、その気持ちに整理をつけない限り、次期族長どころか一人の男としてすら大成できんと思うわけだ」

「つまり、姉に対するわだかまりを解消させろと」

「まあ、そういうことだな」


 今度は予想の斜め下でも上でもなかった。

 しかし、だからこそ当然生じる疑問がある。


「なぜ、それを私に、それも今になって?」

「だいたいお前の想像通りだと思うぞ」


 対面の席でがに股ぎみに座るケルッコは視線を車窓から正面に向け直し、ネリーアと目を合わせた。


「賭場でお前を見て、ツィーリエという名前を聞いて、すぐに昔を思い出した。だが、オレだって無警戒の馬鹿じゃない。オレが気付くことを想定した潜入工作なんじゃないかと最初は疑ったし、そもそも本当に例の魔女なのかも半信半疑だった。単なる他人のそら似で、名前も偶然なんじゃないかってな」

「……………………」

「だが、街で白昼堂々の暗殺騒ぎが起き始めて、八割方は確信に変わった。それでも念のため、昔の伝手でお前のことを調べて貰ったりして裏を取っていたら、今度は船が爆発で沈没させられ始めた。しかもどの船も決まって麻薬の輸送船だ」


 昔の伝手とは《武隷衆》のことだろう。逃げ帰ってきたという話だったが、友人知人はそれなりにいたはずだ。この地に帰郷してからも、手紙などで縁が途切れたりしないようにしていても不思議ではない。


「十五年前の事件の後、当事者の魔女が情報局に入ったらしいこと、例の劇のこと、それが初公開された頃に《麻天律》が何者かから表立った攻撃を受けたこと……そういう情報を知っていくうちに、オレは確信したね」


 ケルッコの声に得意気な色はなく、むしろどこか気まずげで、そっと目を伏せてもいる。

 同情しているという演技だろう。

 まさか本心から同情している訳ではあるまい。


「お前は《麻薬王》との戦いに負けて、馬鹿な真似をして、この地に飛ばされた。当時オレがグローリーにいて、《武隷衆》の一員として生きていたことは兄者しか知らないし、当時のオレが重要視されて監視されていたとも思えん。となれば、オレに気付かれることはお前にとってもサイルベアにとっても完全に想定外のはずだ」

「だとしたら、何です? 私に同情してみせて、かつて救えなかった弟の代わりに、似たような事情を抱えるディエゴを救わせることで、私にそちら側へ感情移入させて寝返らせ、モグラにでも仕立て上げようと?」

「お前がそれほど安い女だとは思わんよ」


 ケルッコは肩を竦めて苦笑すると、どこか哀愁の見え隠れする吐息をそっと零した。


「これはただの自己満足だ。ディエゴを見てると昔の自分を思い出すし、昔のお前を少なからず知っているだけに、今のお前の虚しそうな生き様も見てられん。ディエゴとお前のことが同時に何とかなるなら、それに越したことはないだろ?」

「私がディエゴに取り入るとは考えないんですか?」

「やれるもんなら、やってくれていいぞ。あいつも女のためなら男を上げるだろ」


 冗談で誤魔化しているようには見えない。

 本当に取り入られても問題ないと思っているような口振りだった。

 件のディエゴについてはあまり知らないが、それほど不味い状態なのだろうか。あるいは次期族長にはケルッコの息子を据える気でいるから、ディエゴはさほど重要視されていないのか。


「もし断るってんなら、この街の総力を挙げて、お前とその仲間を捕まえる。仮に政治的取引からお前の身柄を渡すことになるとしても、サイルベアはまたも失態を晒したお前をどうするかな? さすがの貴重な魔女様でも、次は相当やばいんじゃないか?」

「……………………」


 脅し文句はからかい交じりの調子で告げられたが、ネリーアからすれば冗談で済ませられない話だ。情報局としては失態を盾に、ネリーアを更なる汚れ仕事に従事させられるため好都合だろうが、ネリーア自身は御免被りたい話だ。

 既に堕ちるところまで堕ちた身とはいえ、これ以上の深みにはまれば悲惨な死に方しかできなくなる。もはや日常的に公衆浴場にも行けないほど過酷な日々を送ることになりかねず、早晩死ぬような危険すぎる任務ばかりを振られることになるだろう。


「さて、状況は許さないぞ。ここは仕方なくオレの言うとおりにするしかないんじゃないか?」


 別段、ケルッコは裏切れと言っている訳ではない。

 実際、イカサマもディエゴの件も、情報局を裏切ることにはならない。

 あるいは徐々に引き込むことで、最終的には裏切らせる腹積もりかもしれないが、今すぐに破滅への道を歩むことになるよりかは幾分もマシだ。


「決める前に、一つだけ。事ここに至っても尚、私の任務を咎めないのは、それがそちらにとっても都合の良い結果となっているという認識でよろしいので?」

「まあ、悪くはない程度だな。兄者もオレもヤクは嫌いだし、兄者なんてヤク積んだ船はどうせなら全部沈めろとか言っちまう始末だ。殺された連中にしても、今のところうちとは無関係の奴ばかりだしな。唯一、港や街の警備状況に対して不安を覚える声が上がってるってのが問題といえば問題だ」


 それはネリーアも承知していることだった。

 しかし、ムンベール族に間接的な被害が生じるという問題は、本国やネリーアにとっては懸念すべきことではなかった。そもそも、白昼堂々と衆人環視の只中で暗殺しているのは抑止力となることを期待しているからで、それはムンベール族にとっても長い目で見れば有り難いはずだ。

 ――チュアリーに行けば確実に殺される。

 そうした認識が後ろ暗い者たちの間で広まれば、チュアリーに流入する要注意人物は減るだろう。ただ暗殺するだけならば、べつに魔法でなくとも方法は他に幾らでもあり、本来は目立たずに始末するのが道理だ。

 しかし、余程の危険人物でない限り、彼らは殺すより生かして利用した方が益となる場合が多い。魔大陸という僻地に行かれると利用できる機会が激減するだけでなく、監視や追跡が難しくなる。状況を掌握できなくなるのであれば、殺してしまった方が安全だから殺すというだけだ。この地を避け、諜報員が比較的多くいる他の地域に逃げてくれるのであれば、利用できる機会が生まれる。追跡さえできていれば、基本的には殺すことなどいつでも簡単にできるのだ。

 訓練過程で習ったとおり、どんな者も利用できるという点においては価値がある。嘘と陰謀の渦巻く諜報の世界だろうと、いやだからこそ、殺しは止む無く行われるものだ。

 魔大陸に逃げ延びようとする者が減れば、この地で暗躍する諜報員たちの活動も大人しくなる。巡る陰謀が少なくなることはムンベール族にとっても悪い話ではないのだ。


「うちに対する――この街を取り仕切るムンベール族に対する信頼や評価は少なからず落ちてるし、あまり酷くなりすぎるとお節介な教国あたりから警備体制の方に介入されかねん」


 もっともらしい理屈だったが、所詮はこじつけだ。

 実際、ケルッコに深刻そうな様子はなく、むしろいやらしい笑みを浮かべている。


「というわけで、各方面を黙らせるのに金がいる。それはお前がイカサマして自分で稼げ」


 という名目で、ケルッコに金を貢げということだろう。

 見た目通りのせせこましさだ。

 そう思わせてネリーアを油断させる策かもしれないので、決して気は緩めず侮りもしないが。


「……他には?」

「まあ、お前がどうしてもオレらに協力したいっていうなら、お前のその類い希な才能を活かした仕事を適宜紹介してやらんでもない。こっちも少しくらいなら礼を出すぞ」

「それは状況次第ということで」


 要するに、そっちがお願いするなら協力体制を築いても良いということだろう。ネリーアの才は――無詠唱が可能な魔女は、こんな辺境の港町では入手困難な逸材だ。利用できる機会など幾らでもある。


「とりあえず、ディエゴの件はよろしく頼むわ」


 もっと色々と話しておきたいところだったが、馬車が賭場に到着したため、今日のところは打ち切りとなった。ケルッコの方に話し足りない様子はなく、そそくさと馬車を降りていく。


「あー、そうだな……お前の方もお仲間に話通す必要とかあるだろうから、次の休みにうちの屋敷まで来てくれ。それまではこれまで通りってことで」

「分かりました」

「じゃあ、お疲れ」


 普段、終業後に挨拶するような気楽さで、ケルッコは賭場に入っていった。ネリーアも「お疲れ様です」と形式的な挨拶を返し、夜道を歩き出す。一応、今日は休みなので、あとはもう自宅で一人のんびりと酒を舐めて、ごろごろとだらけて眠りたい。

 が、それは状況が許さないので、向かう先は自宅ではなく酒場だ。現地協力員の経営する店で、最低でも一人は仲間が常駐している。仲間に何の報告もなく、いきなりムンベール族の族長宅に出向けば無用の誤解を与えかねないので、報告と今後の方針を話しておく必要がある。


「……奇縁が悪縁でなければいいけど」


 深く溜息を吐き、突然の面倒事に対する不満感と不安感を和らげる。

 今後どうなるのかは、あまり見通しが立たない。

 次の休みまでにチュアリーから逃げ出す案もあるが、そんな素振りを見せれば、ムンベール族はすぐに捕縛しようとしてくるだろう。無論、ネリーア一人であれば逃げ切れる自信があるが、まず間違いなくこれまで巧妙に監視されていたはずだ。おそらく仲間たちの面も既に割れている以上、一人でも捕まれば情報漏洩の危険がある。個々人には必要最低限の情報しか行き渡っていないため、さほど問題にはならないが、みすみす看過もできない。

 幸い、今のところムンベール族側の対応は穏便だ。それはネリーアという魔女の価値を正しく認識し、上手く協力してやっていきたいことの証左だろう。

 下手に事を荒立てるより、利益を追求して損害を避けるべきなので、どうすべきかは明白だった。




 ■   ■   ■




 何事もなく日々が過ぎ、次の休日となった。

 ネリーアは族長一家の住まう邸宅を訪れ、出迎えたケルッコと共に廊下を歩いていく。ムンベール邸はこの街で最も立派な家屋で、外観も内装もそれなりに豪奢な造りをしているが、故郷のグローリーではさして珍しくもない程度だ。辺境の港町にしては十分な豪邸だろうが。


「おうディエゴ、今ちょっといいか?」


 件のディエゴは居間らしき広々とした部屋の窓際で読書と洒落込んでおり、ケルッコの言葉に面倒臭そうな挙措で顔を上げた。


「え? 叔父さんの愛人? こんな美人が?」


 彼を一言で評すれば、覇気のない若者だった。

 現在は十九歳らしいが、その年頃特有の精力旺盛な生き生きとした活力がなく、倦んだような気怠さを感じさせる。実際、上背は父親並でも、体格はせいぜい並程度なので線が細く見えてしまい、外見的にも性格的にも男らしい逞しさに欠けていた。


「いや、それ騙されてるよ叔父さん、金目当てか間者のどっちかでしょ」


 一通り説明した叔父に対し、物怖じした様子はない。

 愛人というのは不本意な設定ではあったが、今後は日常的にディエゴと会うために、受け入れざるを得なかった。屋敷には多くの使用人がおり、その誰一人として潜入している他国の間者でない保証はないからだ。

 本人を前にしたディエゴの無遠慮な物言いに、ネリーアは大人しく沈黙したまま、ケルッコの全く動じない対応を眺める。


「男ってのはそういうのを承知で女を囲うもんなんだよ。兄者だってそんなもんだ。お前も次期族長となる男なら、それくらいの度量がないとな」

「ふーん……叔父さんこんなこと言ってるけど、そっちとしてはどうなの?」

「金目当てと身体目当ての冷め切った関係ということで、納得していますので」

「……うわ、愛がないこと確定してるよ」


 おそらくディエゴに対するネリーアの第一印象は最悪だった。

 しかしケルッコ曰く、ディエゴは気難しい性格であまり他人にも興味が向かないようなので、何の特徴もなく記憶に残らないよりかは百倍マシだという。要は恋愛と同様で、勝ち目がない場合はいっそのこと最悪から始めた方が未だしも希望があるらしい。

 間者としての人心掌握術でも似たような教えはあるので、一応は納得している。


「まあ、べつにいいけどね。僕には関係ないし」


 我関せずの態を見せるディエゴだったが、生憎とネリーアはそうもいかない。どうにかディエゴに心を開かせ、その歪んだ性根を矯正し、ムンベール族の族長に相応しい立派な男にせねばならない。

 それができなければ、ネリーアは任務を中断せざるを得ない状況に追い込まれ、その失態から情報局はネリーアを再評価し、過酷で悲惨な任務に従事させられることとなる。それは可能な限り避けたいところだ。


「おはようございます、ディエゴさん」


 ケルッコの愛人ということで、ムンベール邸に住むことになり、毎日少しずつディエゴとの距離を詰めていく。その関係で賭場での仕事は夜勤から昼勤に代わった。賭戯の親としての業務は半減し、例のイカサマを覚えるべく小部屋に籠もって練習を強いられた。


「……え? 何これ、どうやったの?」


 そんな日々を二年ほど続けたところで、例のイカサマを何とか物にできた。それがすっかり停滞していたディエゴとの関係を進展させる切っ掛けにもなってくれた。


「は? 実は間者で魔女で、叔父さんとは愛人でもなくて、協力関係にあるって?」


 秘密を打ち明け、共有するという手法は関係を親密にするための常套手段だ。イカサマの披露を機に打ち明けるというのはケルッコの案で、彼はディエゴの件が一朝一夕で解決するような問題ではなく、年単位の時間が掛かると承知していた。


「ふーん、なるほどね。それじゃあ僕にしつこく構ってきたのは、僕を取り込もうとするためだったと?」

「いいえ、そんなつもりはありません。ただ、貴方を見ていると弟を思い出しまして、放っておけなかったんです」


 それは半ば以上事実だった。

 否応なしに仕事として始めたこととはいえ、ディエゴにセリオを重ねてしまうことは多々あった。ディエゴは内向的な青年で、弟のように荒れたりせず基本的には大人しいが、その身の内には確かに姉に対する複雑な感情が存在することは感じ取れていた。


「……つまり、貴女は実弟を助けられなかったから、同じ弟という立場の僕を代償にすることで、罪悪感を紛らわせようとしていたわけね」


 ケルッコ経由で劇場に手配し、ディエゴに例の劇を観させて、ネリーアは自らの事情を説明した。ケルッコに知られてしまっている以上、その甥であれば隠す意味も薄く、明かした方が上手く事を運べそうだった。

 そうした合理的思考を言い訳に、知ってもらった上でディエゴと接していきたいと思う自分の弱さを誤魔化した。


「申し訳ありません。私の貴方に対する感情が代償行為の産物であることは自覚しています。それでも、貴方とは良き関係を築いていきたいと思ってしまいますし、貴方には幸せになってもらいたいとも思います」


 ディエゴは父親に似ず、周囲を顧みる。きちんと人の感情を察することのできる男だ。本人は他人など気にしない風を装っているが、人の機微に聡いということは、人から向けられる悪意には敏感になりやすいということでもある。育った環境を鑑みれば、実際は臆病で気の小さい男ということは想像に易かった。

 無論、だからこそ疑り深い性格でもあるが、さすがに叔父は信用しているようなので、裏付けの取れているネリーアの話を疑いはしないだろう。


「みんな知っての通り、僕は姉が嫌いだ。きっとそれは一生変わらない。でも、貴女は僕にとって姉じゃないし、他人と言うには互いのことを知ってしまっている。というか、もう二年以上も同じ家に住んじゃってるしね」


 人は相手のことが分からないからこそ、遠ざけようとするものだ。相手の心理や思考、過去に根差した価値観などが理解できてしまえば、過剰に警戒し怯える必要がなくなる。


「だから、まあ……叔母みたいな存在としてなら、認めてあげるよ」


 三年近く掛かって、遂にディエゴと打ち解けることができた。が、肝心の問題はまだ未解決で、ようやく取っ掛かりを掴めたに過ぎない。

 そう自分を戒めて、これは任務だと言い聞かせる必要があった。


「あぁ、おはよう、ツィーリエさん」


 それからの日々は驚くほど穏やかで、和やかだった。変わらず暗殺や破壊工作はあったが、既に日常と化しており、ムンベール族からも暗黙の了解を得ていることだ。賭場での仕事と同じだと割り切れた。

 否応なく弟を意識せざるを得ないディエゴと同じ家で暮らし、イカサマによって生じた利益をムンベール族に上納していると――彼らの生活に貢献できていると思うと、自分が家族の一員になったような気がして、心が満たされた。実際、ムンベール邸での生活は快適で、風呂場もあるので気を抜ける場所にもなってしまっている。

 ディエゴの姉に対するわだかまりは一年経っても、三年経っても、五年経っても解消させることができず、それどころか姉への苦手意識が女性を遠ざけてもいるようなので、二十代の半ばを過ぎても頑なに結婚しようとしない有様だった。


「ディエゴッ、おどれクソボケええ加減にせえよ! さっさと孫をっ、ワシの孫を作らんかい!」

「やだよ。ていうか僕嫌いなんだよね、子供」

「嫌いでも何でも跡継ぎがいるじゃろがい! ワシが安心して引退できんじゃろがい! 寄港中のライムがどこぞのクソガキから唾付けられんように見守る大事な仕事に集中したいんじゃワシは!」

「それ半年に一回くらいしかないじゃん」

「じゃぁからっ、はよぉおどれがワシの孫を作れ言うとるんじゃボケェ!」


 ディエゴは何だかんだ言いつつも、荒ぶるジャマルを無碍にはしない。幼少期は父親を姉に独占されたせいか、父親には姉や孫ではなく、自分を見て欲しいのだろう。結婚しないのは女性が嫌いなのもあるが、気を引くためでもあるはずだ。


「もうええわい! おいツィーリエッ、こんボケと結婚せえ!」

「旦那様、申し訳ありませんが、ディエゴさんをそういう目で見ることはできませんので……」

「あん腑抜けが気ぃ許しとる女はおどれだけなんじゃっ、もう子供ができれば何でもええ! 分かったらさっさと一発ヤッてこんかい!」

「ツィーリエさん相手じゃ勃たないし。ていうか間者だと分かってる人を息子の嫁にあてがおうとするとか、どうなのそれ」

「もう半分身内みたいなもんじゃから今更じゃボケェ!」


 チュアリーに来て十三年も経つ頃には、ジャマルも認めるとおり、ネリーアはムンベール族の身内も同然の立場となっていた。かといって本国を裏切った訳ではなく、自分が間者という意識も捨てていない。

 最近のネリーアは情報局とムンベール族の繋ぎ役という重要な立ち位置につくことができている。ムンベール族は他の獣人部族の例に漏れず、根本のところでは排他的で独立独歩の気風が強い。どの国も取り入ることができずにいるため、懐に入ったネリーアを本国は決して蔑ろにできない。だからこそ、十年以上経つ今でも配置転換されず、この地に居続けられている。そしておそらく今後も折衝として機能し続けることになるだろう。

 ケルッコはそれを見越して、ディエゴと親密になるようけしかけた面もあったはずだ。多少の情報が漏洩してでも、ネリーアに身内として意識してもらえれば、表沙汰にはできない本国との取引で上手く事を運びやすくなる。あわよくば裏切ってもらえれば万々歳だ。

 実際、ネリーアの心は揺れている。本国を裏切ったというほどではないにしろ、ムンベール族側に少なからず肩入れしてしまっている。始末されたくはないので明確に寝返るような真似はしないが、既に潔癖でもない。

 もはや忠誠心の薄れた本国か、家族同然に生活を共にする人たちか。どちらか一方しか救えない状況に追い込まれれば、後者を選んでしまうだろう。


「とりあえずアレじゃっ、まだ族長の座は心配で任せられんが家は譲ったる! こん屋敷は今日からおどれんじゃディエゴ! しっかり管理せえ!」

「え、やだよ面倒臭い……」

「ツィーリエッ、これからはこやつが家主じゃからな! こやつを旦那様と呼ぶんじゃ!」

「あわよくばツィーリエさんを奥様にしようって魂胆が透けて見えるね」

「うっさいわボケェ! 難しいときは形から入れとケルッコが言うとったんじゃっ!」


 騒がしくも賑々しく、笑みの零れる日常だ。

 この地に来た当初に感じていた虚無感は薄れ、最近はすっかり心に潤いがある。己の過去や性格を偽る必要がなく、ありのままを受け入れてくれる場所は居心地が良い。諜報の世界に足を踏み入れてからは感じたことのない安らかさだ。

 だからこそ、棘のように刺さったまま抜けない過去への想い、そして《麻薬王》への憎悪が浮き彫りになってしまう。復讐できるものならしてやりたいという思いは年々強くなる一方で、しかし何の勝算も活路もなく、今の生活だって捨てがたい。

 幸福感を覚える度に、亡き護衛たちや弟に対する罪悪感に苛まれ、何もできない自分が不甲斐なくなる。それを仕方ないと諦めて、この心地良い流れに身を任せていると、ツィーリエの死に様が脳裏を過ぎる。本当にこのままで良いのかと、自問しつつも答えはいつも変わらない。

 そうした引っかかりが意識の片隅にありつつも、ぬるま湯のような日常は概ね平和で順調だ。事件はあっても大事件はなく、変わらぬ日々は何事もなく過ぎていく。

 しかし、チュアリーに赴任して十五年が経った頃。

 幸か不幸か、この日常に終わりをもたらす存在が、突如として現れた。

 

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